更新:2005年1月13日
下記に関する最新情報は、 ベルリンの現状(2004年12月16−23日現在)(その写真)参照。
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夏休み科研費調査(2001年)の旅・・・・その2
ベルリン・ドイツ連邦文書館Bundesarchiv
1. ドイツ連邦文書館(ベルリン)の正面(フィンケンシュタインアレー)
2.
連邦文書館・正面右横の史跡説明板、
それによれば、
この施設(中には建物がいくつもある)1872―78年に建設。
1878年から1920年、プロイセン軍事施設として発足。
ワイマール期にはギムナジウムとして利用された。
ナチ期には親衛隊連隊「アドルフ・ヒトラー」の兵舎。
1934年6月30日、ヒトラー命令により親衛隊が行った突撃隊幕僚長レーム以下の「ナチ左派」粛清事件に際しては、ここが処刑場(射殺)になった。
第二次大戦後はアメリカ占領軍の施設になった。
連合国占領終了と東西ドイツ統一で,ドイツ連邦文書館の施設となった。
Reichの時代の文書がここに集められている。
以上のように、このひとつの施設だけでも歴史の転変とその時代の特徴が明瞭に示されている。平和の時代、民主主義の時代には学校教育施設、あるいは現在のように文書館、しかし、軍国主義・戦争の時代には軍や親衛隊の施設というわけである。
現在、この施設が、歴史を客観的に認識するための文書館として利用されているということ自体、多大の犠牲を払ってドイツ人とドイツ史が到達した地点を示す。
この現在の到達点をこそ、科学的歴史研究の道を通じても、強靭にし、また高めて行かなければならない。
3.
連邦文書館の施設の中には、図書館や史料館がある。
私がもっぱら利用するのは,史料館(アルヒーフ),そのアルヒーフの玄関。
アルヒーフ玄関近接写真。
ここに掲げられている2枚の文字盤のひとつを見てもわかるように、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国DDR)の政党と大衆運動の文書も連邦文書館に収納されている。
現在,連邦文書館は、月曜から木曜日まで,午前8時から午後7時まで,11時間、金曜日は午前8時から午後4時までが開館。
4.
「ヴァンゼー会議」記念館
(この会議は1942年1月20日開催,議題:「ユダヤ人問題の最終解決」Endloesung der Judenfrage)
会議の場は,写真を見ればわかるように豪邸の中であった.
この豪邸は、元ユダヤ人富豪所有であった。
ベルリン郊外、森と湖地が多い地域、その大ヴァンゼー(湖)の湖畔にある。
S-Bahn 1 の「ヴァンゼー駅」から循環バス(路線番号114)が走っている。バス停の名前は、「Haus der Wannsee-Konferenz」。
会議当時,この建物は親衛隊の所有物。 国際刑事警察(ドイツの責任者がハイドリヒ)の建物としても利用されていた。
5. ヴァンゼー会議記念館の内庭の掲示その1(オーレンドルフ)、その2(保安部の秘密研究所「ヴァンゼー・インスティテュート」Am Großen Wannsee 43-45・・・ドイツ人の東方植民政策などを研究した機関)
6. ヴァンゼー会議記念館の内部の展示(処刑直前)
写真(下)説明には,1941年10月23日から25日にオデッサ出身のユダヤ人男性2万6000名がルーマニア人特殊部隊によって「報復措置」として射殺された、と。それはほぼ1ヶ月前のキエフ郊外バビ・ヤール渓谷でアインザッツグルッペC(治安警察・保安部特別出動部隊)のキエフ・ユダヤ人3万2000名以上の「報復射殺」と同じやり方だった、と。
7.
同じく,「ユダヤ人問題最終解決」を議論した会議場室内配置
8.
会議に参加したハイドリヒ(司会・責任者=帝国保安本部長官・治安警察保安部長官)以下、中央官庁次官クラス15名の写真と職務表
9. 会議場そばのヨットハーバーと遠方には水泳場、
そもそもベルリン西南地域のこの地域は緑豊かな地域で、グリューネヴァルトなど著名な別荘地,高級住宅地であり、ヴァンゼーも大小7つの湖がある地域で、ベルリン郊外の高級別荘地,保養地。
現在も大ヴァンゼー,小ヴァンゼーでヨット,釣りなどを楽しむ人が多い。