2005年1月講義メモ
ミニテスト講評を中心に、後期講義の総括。
1.DP
これについては、講義をきちんと聴き、資料も受け取っている人は大体かけていた・
750万にもぼる外国人労働者などが、ドイツ敗戦で流民化したが、そのことをきちんと説明しているものが多かった。
2.ヒトラーの反ユダヤ主義の特徴は何か?
これは繰り返し講義で強調したことだが、かならずしも理解されていない物が多かった。
ヒトラーの反ユダヤ主義はキリスト教の宗教的反ユダヤ主義と違っていること、ドイツ民族至上主義、ドイツの人種的帝国主義の反ユダヤ主義であること、それを把握しておいて欲しい。
3.拙稿「ドイツ経済再建の人間的社会的基礎」への感想
@ 「ナチ統治下のドイツの学者たちが人種理論の手先になってしまったこと」、内面からの「ナチズムとの結合が、さまざまな学問分野の人間に見られたということに驚きを感じた。医学、精神科医や人類遺伝学者がナチズムの人種理論の手先になってしまっていたということは、やはりドイツ民族をまとめあげるものとして、ナチの思想は強固なものであったのだろう・・・」
A しかし他方で、「驚いたのは、時流に抗したドイツ人もいたこと」・・・今回のベルリン出張で「ドイツ抵抗記念館」を再訪。その記念館のデジカメ写真を永岑研究室HP(経済史HPのなかの2004年度講義資料等HP:
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/KeizaishiKogimemoList.htm 後期・第13講 に掲げたので見てください。
実に多様な命がけの抵抗者(実際に逮捕投獄・処刑された多くの人、強制収容所にぶち込まれた人々)がいたことがわかる。
そこから、民主主義と平和の重要性を味わって欲しい。
B 「国民的生存基盤の再建としての民主主義・・・民主主義の基礎をつくるには国民一人一人に対して平等の権利が必要であり、ま他事国の産業の発展は不可欠・・・」
C 「戦争末期のドイツの民衆がこんなに戦争を嫌い、平和を求めていたこと・・・」
D ヒトラーの「憤怒のファナティズム」、その「化身となったヒトラーの心境を観察して見たいと思うようになった。さっそく、冬休みに『わが闘争』を読んで見ようと思います」・・・どうだったかな?感想は? 後期試験の最後にも自由記述欄を設ける予定なので、こうした講義に刺激された読書の感想などは積極的に書いて欲しい。
E 「第一次大戦時と第二次大戦時の民衆の戦争熱の違いが印象的・・・・」
F 「第二次世界大戦初期のドイツでは、勝利しても喜ばず、むしろ戦争が終わるといううわさに喜ぶ人々の様子が印象的だった。」
G 「スターリングラード作戦の失敗がヒトラー体制の崩壊につながったのではないか。私が思うヒトラーのイメージというのは、すごく自信に満ちていてまさに独裁者の名が似合う人という感じだけれど、このときのヒトラーは、民衆からの指示がなくなってきている印象を感じました。スターリングラード以降、終末期までドイツ民衆を捕らえていたのは、統合と離反、熱狂と無関心の多様なそうの絡まりあいだったというところが印象的でした。反民主主義原理の極限としての民族主義的・人種主義的帝国こそ、ヒトラー・ナチ国家の基軸戦略であり、その根底からの撃破こそが戦後ドイツ民主主義の基本前提であったということも重要な点だと感じた」
・・・連合国は、1989年にいたるまで、ある意味ではドイツに対する不信を持ち続けたともいえる。日本は? アメリカの日本占領は? 日米安保体制は? アメリカ軍基地が日本全土にあるというのは、その根底の意識として「日本を押さえるため」という発想があるのではないか? それはいつどのような状態でなくなるのか? アジアの本当の意味での安全と平和は? その構築のためになすべきことは?
4.拙稿「ドイツ経済再建の人間的社会的基礎」への疑問など
1.) 「ヒトラーは、元来、独裁者になり、ユダヤ人を虐殺し、世界を掌握しようという目標・目的をもっていたのでしょうか。もしそうでないなら、彼がそうなってしまったターニングポイントはどこなのでしょうか?」
・ たくさんの問題が一緒になっている。何から何へのターニングポイントか、それをよく区別する必要がある。
・ ひとつの決定的転換点は第一次大戦へに志願、そこでの死闘。
・ そして、大戦の終わり方、敗戦後のヴェルサイユ体制といった諸要因がそれに続くターニングポイント。
・ 一言で割り切ってしまえば、一番大きなターニングポイントは、第一次世界大戦、というのが私の見方[1]。むしろ、みなさんが、ヒトラーの自伝や『わが闘争』などを読んで見て、考えて欲しい。
・ 権力の取り方におけるターニングポイントということであれば、1923年11月にミュンヘン一揆(オデオンプラッツ・英雄廟のところから進軍開始)で失敗して(直ちに鎮圧される)、逮捕投獄された経験が決定的。獄中で、『わが闘争』を書き、出獄後、さしあたりは、「合法」路線(左翼や自分に反対する勢力には、突撃隊などを使って暴力的だったが)
・ 実際のヒトラーの政策(たとえば反ユダヤ主義の過激化の諸段階、移送政策から絶滅政策への移行)は、そのときどきの政治状況と戦争の諸画期に関連する。この点をかなり詳しく説明してきた。まさに、皆さんに受け取るように指示した拙稿(2004年5月ころ配布の『市大論叢』55巻第3号の私の論文)で示したように、「ヒトラーのユダヤ人絶滅命令」をめぐる議論は、まさにこのこと(絶滅政策へのターニング・ポイント)を歴史科学的に検討しようとするものである。
2.) 「ネロ命令」とは? ヒトラーが1945年3月19日(すなわち、彼の自殺の1ヶ月半ほど前)に出された。1943年以降、ソ連において、赤軍に撃退されるドイツ軍が、撤退に当たってソ連の生産施設などを焼き尽くすように命令していたが、追い詰められたヒトラーは、ついに、自国領域でも焦土作戦を命じたのである。すなわち、敵に利用される可能性のあるすべての供給施設を破壊することを命じたのである。前日の3月18日、軍需大臣のシュペーアは、ドイツ民族の生存基盤を破壊するそのような命令に反対する文書を提出していた。
しかし、ヒトラーは、戦争に負けたらドイツ民族は生き続ける価値などないといって、「ネロ命令」を発したのである。
ヒトラーは、最後にはドイツ民族さえも、自分と道連れにしようとした、といえるだろう。
シュペーア軍需大臣は、3月29日の書簡で、ヒトラーの命令を制限することを試み、国防軍・行政当局と協力し打ち合わせて、「ネロ命令」が実行に移されるのを阻止したのである。
3.) 「第二次大戦勃発時から『戦争ヒステリー』といわれる勢いづいたものが民衆にはなく、1939年にはむしろ『意気消沈した沈黙』が支配的だったという。なのに、どうしてヒトラー暗殺までにこんなに時間がかかったのであろうか? 1944年のヒトラー暗殺・クーデタ計画までに5年もかかっている。・・・ヒトラーを支持しない民衆が多数いたのだからもっとはやくヒトラーをつぶすことができたのではないだろうか?」ヨーロッパ戦争の開戦(ポーランド侵攻)の初期、「平和願望が大半を占めた」というが本当か?など関連質問・関連の感想がかなり多かった。
・・・・1940年夏までの連戦連勝を考慮する必要がある。電撃戦で勝利したこと、ドイツの被害はほとんどなく、短期間のうちに全ヨーロッパを支配下に置いたこと、これが「戦勝の熱狂」を国民の中に喚起した。問題はその後。戦争が全ヨーロッパ化し、さらにソ連までも相手にし、世界大戦化すること、ここから大きな変化が起きる。
1941年12月、日本の真珠湾攻撃とそれに呼応する対米宣戦布告、この文字通りの世界大戦化が大きな転機。
ついで、1943年1月末2月はじめのスターリングラード攻防戦の最終的敗北が第二の大きな転機。
第三の転機が、ソ連大軍がドイツ国境を突破して進撃してくる時点、すなわち1944年7月。
今回のベルリン出張で、1944年7月20日事件が起きる時点の戦線の状況を示す地図をデジカメ写真で取ってきた(研究室HP:第11講・講義メモにリンク)。それを見てください。赤い実線。
民衆の反ヒトラーは、戦争末期になればなるほど急激に増加するが、表面化はなかなか難しい。
私が紹介したのは、秘密警察が、秘密情報部員を使って、ひそかに把握した情報「民情報告」、「国家警察重要事件通報」などである。
明確な反ヒトラー(行動すれば露見が容易になる)は逮捕投獄される。
秘密情報収集はそうした反ヒトラーの動きを目のうちにつぶすためのもの。反ヒトラーの氷山の一角が、掴み取られた。
反ヒトラーに決起できないもうひとつの大きな理由が、第一次世界大戦の帰結。それを最大限に利用したヒトラー・ゲッベルスなどの宣伝、「戦争に負けたら民族もないのだ」、ドイツ民族が絶滅される」など。
反ヒトラーの民衆も、金縛り状態、「麻痺状態」。
4.) 「第二次大戦の戦後処理において、ドイツを東ドイツと西ドイツに分断したが、米英仏vsソ連の対立をわざわざ招かなくても、ドイツは一国にするべきだと思った。どうしてドイツを2国に分裂させる必要があったのか?」
・・・これは、ドイツ第三帝国を撃滅する戦いを行ったのが、二つの違った経済原理・国家原理に基づく国家(グループ)だったことによる。講義でも話したが、米英仏は資本主義経済システムをよしとし、ソ連は戦争の原因こそ資本主義・帝国主義であって戦争のない社会とは「社会主義」しかない、という根本的考え方だった。資本主義社会はいずれは帝国主義が復活し、ソ連に対してふたたび戦争を仕掛けてくる、という発想。自分が占領したところは、自分が正しいと思う原理で経済・社会を作り上げる。そして自分の味方を増やす、という発想。戦争(熱戦)は終結したが、直ちに冷戦に突入。火花が散っていないだけで、軍事的対決。その足場・資源・人的物的生産能力の拡大。
5.) 「東方全体計画」を行おうとしたきっかけは何か?
そもそも、ヒトラーの『わが闘争』に基本戦略として、ロシアとその周辺部にドイツ領土を拡大するという「東方大帝国」があった。
19世紀末から20世紀のドイツ帝国主義の路線には、イギリスのように海外植民地を世界各地(アフリカから太平洋地域・たとえばビスマルク諸島)で獲得する路線と、ポーランドやロシアなど東方に領土を拡大する路線とがあった。
また、バルカンを影響下において中東に出る勢力拡大路線もあった。そうした海外植民地獲得や中東進出は、イギリス、フランスなどの権益・植民地と真正面からぶつかる。そこで、第一次大戦は、東でロシアと、西やバルカン、中東、そしてアジアでイギリス、フランスと、戦うことになった。
そうした2正面作戦(基本的には東西2正面作戦)は、ドイツに勝ち目がないことを第一次大戦が証明した。そこで、ヒトラーは『わが闘争』で、イギリス、フランスなどとはさしあたりことを構えないで、東に領土を拡大する大陸大帝国を構想。
1941年―42年には、ソ連との戦いで、当初の電撃的勝利の印象の中で、あたかもそうした東方大帝国建設がうまくいくかのような幻想→東方全体計画を策定し、戦争に勝った場合の戦後構想を練り上げた。
しかし、現実には、1941年−42年は、ドイツ第三帝国敗退の始まり、総力戦化、世界大戦化であった。
ふたたび、結局は泥沼の総力戦・世界戦争に突入していくことになった。
6.) 「脱ナチ化」の過程が理解しにくかった・・・「脱ナチ化」の実態は、歴史研究の対象としてはまだまだ未解明の部分が多い。私の場合、「脱ナチ化」の前提諸条件の増大を戦時下、敗退過程の中から見ている。ただ、それは表面化しない。一挙に噴出すのが、敗戦後。特に、西側英米軍の進駐時に、多くのドイツ人民衆が白旗を掲げ、喜んで迎えた、やっと平和だ、助かった、と。ヒトラー体制化の死の危険、絶望からの解放、も脱ナチ化過程のひとつの重要な側面。さらに、戦後の経済の奇跡もまた、生活の豊かさ、自由と民主主義の素晴らしさ、という点で、戦争の論理であったナチズムからの決別に決定的に貢献。
7.) 戦後ドイツ・・・「社会民主党の復活と支持の拡大、初期のキリスト教民主同盟における社会主義的色彩に見られるように、『社会主義』の理念は民衆の希望を表現していたというところが疑問に思いました。ドイツは長い間ヒトラーの社会主義的な支配下に置かれていたのに、どうしてまた社会主義の理念を希望としていたのだろう」か?
ナチズムは前回のミニ・テストでも言ったように、「国民社会主義ドイツ労働者党」であり、確かに「社会主義」を看板のひとつにしている。20世紀前半において、資本主義・植民地主義・帝国主義がいかにひどいイメージだったかの裏返しとも言える。社会民主党にしろ、キリスト教民主党にしろ、基本は、そうした帝国主義や植民地主義に反対する意味での社会主義は抱え下ざるを得なかった。
ナチズムの場合は、「社会主義」を掲げても、その社会主義は、民族全体の(ドイツ民族という社会を中心に置き、最大限の価値をおくmつまり、その社会主義は、これまでにも見てきたように他民族支配・植民地拡大・帝国拡大を意味するものだった。そうしたナチズムに対抗する理念として社会民主主義などの主張がとらえられた。反戦平和の意味での社会主義、反帝国主義・反植民地主義の意味での社会主義は、ポジティヴなイメージだった。
西側諸国で民衆の希望となったのは、統制経済の別名としての社会主義ではなかった。
当時の人々にとっての社会主義の内容、イメージの検討、それと現代の人々の社会主義のイメージとの比較が必要になる。
8.) 「対ソ攻撃開始時に、ドイツ一般民衆の間に引き起こされた『麻痺的なショック』とはどのようなことか?」・・・独ソ不可侵で、ソ連とは仲良くやり、西側と戦争する、という状況に、新たに東に敵を抱える、2正面作戦になる、いやバルカンもすでにドイツ軍が占領している、こうした戦線の果てしなき拡大に不安感(当然にして必然的な不安感)。
9.) 「奇跡の武器とは何か」・・・ロケット・・・原子爆弾は考慮外。
10.) 「対ソ戦が始まった後、2ヶ月位でドイツは勝利できないことが明らかになっていた。事前にわかっていたと考えられるが、それでも戦争をやらざるを得なかったのだろうか?」
・ 「2ヶ月くらいで」明らかになったのは、戦争が電撃戦では終わらず、長期化しそうだということ。しかし、41年12月のモスクワ攻撃失敗までは、まだ全面的な総力戦体制ではなく、勝利の展望を持っていた。少なくともヒトラーなど上層は。まさに、その意味では「熱狂的」信念。
・ 「事前にわかっていた」とはいえないだろう。むしろ、短期電撃的に勝利できるとの幻想を抱いた、のが重要な事実だろう。また、ソ連と英米が結びつく危険を前にして、先手を打とうとしたこともあるだろう。非常に興味深いポイント。たくさんの本があるので、検討を重ねる必要がある。
11) 「マーシャルプラン(Marshallplan)の意図」・・・その正式名称:EuropeanRecovery Programm・・・戦勝大国(真珠湾のごくわずかをのぞき、全土がまったくといっていいほど戦争の被害を受けていない生産と資金の巨大国)アメリカの資金を注入し、ヨーロッパが共同でそれを使って生産を回復すること。経済の復活なくしては、政治の安定はない。
最初は、連合国としてのソ連も含む計画。しかし、その計画を通じて西側諸国に影響を受けることを嫌いソ連は1947年7月2日、受け入れ拒否(独自の戦後再建を追求)。西側の戦後復興と東側の戦後復興のあり方が分かれていく。
1947年9月22日、パリでマーシャルプラン会議・・・ヨーロッパの信用需要を220億ドルと決定。
1947年10月8日、サンフランシスコでドイツ社会民主党議長のクルト・シューマッハーは、「マーシャルプランがヨーロッパとドイツの蘇生の唯一の希望」と表明。
1948年5月19日のキリスト教民主同盟の会議で、コンラート・アデナウアーが、「マーシャルプランとその他の援助を歓迎する。だが、マーシャルプランはたんに始動(エンジンスタート)を意味するに過ぎない・・・我々ドイツ人がわが民族Volkをふたたび高みに持ち上げるために、主要な仕事を担わなければならない・・・
12) 「先生の文章の中でのナチス政権に対するあきらめたような民衆の態度と講義中で紹介された『黙って行かせて』の著者のお母さんの態度のあまりの隔たりに疑問を覚えた」、「大衆のさめた態度と一部の人々の熱狂にかなりの差があるように思われた」
・ 革新的なナチ党員や親衛隊員、それを率いるナチ党の幹部たち(ヒトラー、ゲッベルスなど)、
・ これに対する民衆の意識の多様さと重層性 (ex. 20の成人式の若者・・・日本の4つの政党名を挙げてください・・・100人中30人くらいか?)
・ 熱狂の度合いと支持者の数は、政治状況ごとに変わってくる。身近な例では、小泉政権誕生時と現在とは、支持率が大きく違う。同じような変化を見ていく必要がある。
13) 「東大生がまさか、オウム真理教を信じたように、ナチズムもどんな頭のいい人でも信じてしまうような思想だったのかと思った。もちろん講義を受けて、いろいろな要因があったにしろ、やっぱり私には理解できないなと思う」
・ オウム真理教はせいぜい1万人程度?の信者。ナチズムは、8000万人のドイツ国家を支配した(ただし、上でも述べたように、ナチズムをどのように理解し、どのように信じ、どの程度確信となっていたかは民衆の一人一人で違う)・・・たくさんの人の心をつかむには、たくさんの人の利害関心と関係があった。そのたくさんの人の利害関心が何か?これが問題となる。第一次世界大戦、29年以降の世界恐慌と大量失業、世界の帝国主義・植民地主義の現実、これらが総合的に人々をナチズムに追いやった。
・ 1928年末の党員は、約10万8000人、1928年5月20日の国会選挙では、得票率はまだ、2.6%に過ぎなかった。その後世界恐慌の過程で急激にナチ党が表を拡大し、第一党にのし上がっていく。失業破産生活苦などが、人々の希望をナチズムに向けさせた。1930年9月に13万人、1930年末に党員数はほぼ39万人に膨れ上がっていた。1933年1月には85万員、1933年3月には250万人。この250万人のうち66%が1月30日のヒトラーの政権誕生の後。
・ 1933年5月1日一時的に入党停止。1937年入党停止措置の解除で、最終的にはナチ党員850万人にまでふくれ上がる。
・ 民衆の希望が何であり、ナチ党の主張とどのように結びついていたか、それが第一次大戦の結果としてのヴェルサイユ体制とどのように結びついていたかと示す例は、たとえば、1935年1月13日の「ザール住民投票」・・・ドイツへの復帰(帰属)を求める投票が90.67%。
・ ナチズムにはたとえば、1932年から33年はじめ、財界人・経済界も多額の献金をするようになる。ナチズムと世界大恐慌に苦しむ経済界の利害の共通性。
14) 「p.63外国人逮捕者が多数いたとあるが、そもそもなぜそれだけの外国人がドイツにいたのか?」「ヒトラーに抵抗する人間は増加していき、罷業(ストライキ)逮捕者の圧倒的多数(約97%)が外国人労働者であった現実を、ドイツ国民はどう思っていたのか?単に外国人の抵抗、自分とは違う考えをもっていると割り切ることができたのだろうか?自分達の中に少しずつ芽生えてきたヒトラーに対する不信感を彼らとともに爆発させることはなかったのだろうか?そんな暴動を起こせばもちろん鎮圧されてしまうかもしれないが、むしろそれをも越える人々が不満を持っていたのではないか?ヒトラーに完璧に洗脳されなかった人々の苦悩をもっと勉強したいと思う」。
・ 占領された地域では、平時の生産が縮小され、生活の糧を得る必要があったことも一因。
・ 750万人余の外国人労働者に依拠して、ドイツの軍事経済は動いていたのだが、この外国人労働者の大群は、「トロヤの木馬」と見られていた。いつ何時、ドイツには行して立ち上がるかもしれない、と。 従って、治安警察・保安部は神経を尖らし、抵抗の機運・動きを小さな目のうちに積もうとした。
・ この警察の意識は、ナチ体制とともに戦争を戦っている民衆(ナチ党員・ナチ支持者)の危機意識でもあった。
・ これに対して、ヒトラーに反対の人々と外国人労働者の人々との間には、連帯の可能性はあった。しかし、抵抗の諸形態のいずれも芽のうちに踏み潰された、というのが第三帝国の敗戦までの現実である。
15) p.83 西ドイツ社会は「おどろくほど短期間に非常にたくさんの新築住宅を建設・・・」・・・「社会住宅」、日本の公団住宅のようなもの、現在の目から見ると安普請。しかし、戦後復興期にはすばらしい。注目すべきは、西ドイツ地区において、生産設備は、戦前よりもむしろ増えていた、という統計(拙稿中に掲げておいたので見直してください)
16) 「あれほどの軍需経済であったドイツが『経済の奇蹟』を起こせたのはなぜだろうか? 当時のドイツは同じく敗戦した日本よりも産業技術は優れていて、発展する要素はなかったのではないか。また、多数の難民をも抱えていて、復興できるにはほど遠いと思われる。」
・ ドイツはすでに19世紀に産業革命を行い、19世紀末はいくつかの分野(電機・化学工業,製鉄業)でイギリスを抜いており、第一次大戦期、第二次大戦期、日本よりもはるかに進んだ工業的先進国。そのひとつの象徴的出来事としてのノーベル賞受賞者の多さ。
・ 「難民」は、働き場所を求める勤労者。故郷を失っているだけに、勤労の意欲、必要はきわめて高い。住宅需要も決定的である。西ドイツの若者・青年層は大量に戦死。難民の労働力は、戦後復興に重要な貢献。現在の世界の「難民」は、先進国がすでに過剰労働力=大量失業で苦しんでいるところに、やってくる。それと、敗戦後のドイツの事情とは違う。
17) 「ケストナーやヘッセは、『戦争が終わるとかつての第三帝国の土地にもとナチス党員が一人もいなくなり、ナチスに抵抗した人々ばかりになってしまった事態は『奇妙だ』といったが、なぜ『奇妙』なのだろうか?』
・ナチ党員だった850万の人々、その周りで支持者だった人々が、その過去を隠し、あたかも抵抗していたように見せかけることに、亡命生活をせざるを得なかったケストナーやヘッセは批判的。
18) 「15歳の少年までもが、戦争に借り出されていたことにひどくショックを受けた・・・」・・・戦争の最終段階は、まさにその通り。
日本でも予科練その他、少年、若い人々が訓練され、出陣して行った。戦争の現実をあまり知らず、知らされず、学校など公の場での情報しかない場合、戦争の大義を信じる青少年が多い、そうした青少年を最終段階で、戦争に駆り立てる。
19) 戦後、「なぜ、ナチズム心酔者が現在のイラクのように占領軍に激しく抵抗はしなかったのだろうか?やはり。ヒトラー政権から解放され、最悪の窮状からの解放を喜んだ人のほうが圧倒的多数だったからだろうか?」
・ 最終段階で、1000万人のドイツ兵が捕虜に取られていた。
・ 戦争の終結は、ヒトラーがデーニッツ提督に国家の最高権力を渡し、自殺して、自分の運動の失敗を事実上、認めた。国家の正当な権力を引き継いだデーニッツが、無条件降伏に署名した。ドイツ国家・ドイツ人としては無条件降伏を受け入れた。これが合法的秩序という意味では決定的ではないか?
・
ドイツの降伏・・・段階的に、戦線ごとにひそかに進んでいた。たとえば、ドイツの将軍たち(イタリア派遣軍)と連合国との秘密の接触は、ヒトラーに知られないまま、1945年2月から進んでいた。連合国の地中海方面軍司令官との間で、ヒトラー自殺の直前の4月29日に、的降伏署名がなされた。それは全イタリアに関するもので、5月2日発行する物となっていた。ヒトラーの後継者として、デーニッツ提督は、西部戦線における部分的降伏で、全面的な降伏を避けようと試み、ソ連の赤軍からドイツ兵士と民間人が逃れるための時間稼ぎをしようとした。5月4日はモンゴメリー将軍が、北西ドイツ、デンマーク、オランダのイギリス戦線でドイツ軍部隊の降伏を受け入れた。・・・
20)
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・
5.自由記述欄
@ 「ドイツの興味深い講義・・・しかし、ドイツだけでなく、世界全体の経済についても学びたい」
・・・非常に私の講義をよく理解している人の感想である。確かに、その希望には応えていない。経済史の通常の講義、とくに西洋経済史、一般経済史においては、ふつうは、原始的経済生活(原始共同体・部族生活など)から、奴隷制社会→封建制社会→資本主義社会へといった大きな筋道を講義する[2]。
一般的な教科書で、その大筋の流れは確かめることができる。そうした一般的通史的教科書を使うやり方も、かつては試みてきた。
また、私の研究室HP(経済史講義HP)には、そうした大きな流れに関して、これまでの講義資料をリンクさせながら、一応の見取り図のようなものを書いている。
ただ、このところ、今年とくに、ドイツ関係のこと、あるいはドイツを中心とした二つの世界大戦のこと、20世紀の世界大戦の歴史が非常に大きなウエイトを占めたことは、確かである。学界で論争になっているような問題を詰めて議論しようとすると、また、極右・ネオナチ党のひどい議論に対する歴史認識の上での抵抗力をしっかりつけようとすると、どうしても通史的な話が少なくなってしまう。講義の仕方は一様ではなく、毎年同じでもない。
本学には、商学部でフランス社会経済史、世界史全体、とくに中世に詳しく、専門研究の上では19世紀を中心とする都市の社会史を専攻し、大部の社会的評価の高い著書を発表している松井教授が経済史講義を行い、西洋経済史もこれまで一年交替で分担している。
また、日本経済史、とくに近現代史研究では、横浜市の発達研究などで次々と仕事を発表しておられる本宮教授がおられる。
さらに、非常勤講師として、山田教授(跡見学園女子大教授)が「社会史」の講義を担当されている。彼の講義は、古い時代から19世紀までの時代を概観する物となっている。さらに、本学には国際文化学部(来年からは国際総合科学部として商学部と一緒になるが)に、日本現代経済史(中国経済史、「満州国」経済史、植民地・占領地経済史)で先端的研究をしている金子教授もおられる。この講義も履修が可能であろう。アメリカに関しては、公民権運動研究・戦時下のマイノリティ差別の研究などで著名な上杉教授の講義が不可欠である。このほか、古川助教授もつぎつぎと興味深い書物を交換していることは、知る人ぞ知る、であろう。
こうした関連科目を聴講・履修することで、私の講義からうける一面性を乗り越え、歴史認識を立体的なものにしていただきたい。
A 「ヘルガ・シュナイダーの『黙って行かせて』について読んで見ようと思った。・・・ゼロに等しい財悪寒という心情は聞いたことがない。人体実験を平然と行う彼えらのユダヤ人に対する感覚はどのようになっていたのか。」・・・アウシュヴィッツの司令長官ルドルフ・ヘスの回顧録も、講談社現代文庫で刊行されているので読んでみてはどうか。
B 先日、映画「戦場のピアニスト」を見ました。『黙って行かせて』も読みます。
C 「プリントp.76,77だけ別の紙に印刷されていて見づらかった」・・・確かに。プリントミス(欠落に)に後で気づいたのです。
D 「黙って行かせて」という本のあらすじを読んで、人ってなんなのだろうと思った。「思想」とは目に見えないし物体でもない。でも確実に人を蝕んでいる。私は神様はいないと思う。だから無信教(無宗教、無神論ともいえよう)だ。人の考えること、思うこと、体験は全て脳が管理している・・・不思議な体験というのも人の脳の誤作動と思い込みだと思う。人はみな動物と違って考える力があるのだから、人であるのに、どうしてちょっと考えればおかしいと思うことを信じ込むのか。これはわしにはとうてい理解できない。」
「ちょっと考えればおかしい」というのは、本当か?
イラク戦争は?
「考え」は、利益や損得に支配されていないか? 自分の利益になることが「真理」であり「真実」であり、「すばらしいこと」となっていないか?
E 「ヘルガ・シュナイダー著の抜粋部分は、読んでとても衝撃的・・・」