財界人とナチス−ティッセンをてがかりに−

 一方で、イ・ゲ・ファルベン、クルップのようにワイマール末期に接触を開始し、ヒトラー政権誕生後、ナチ体制・軍需経済体制と一体化していった大企業・財界人

 他方には、ナチスの権力掌握からナチ政権初期においてなちに期待し、支援し、体制において協力し、自分たちの利益政策を追求した(これが圧倒的多数)が、その後、経済体制の深刻な問題、戦争の危機の到来でナチスから離れていく財界人(面従腹背から亡命するに至るまで)


 第三帝国における国家と企業(家)・企業経営者との相互関係に関する研究史・論争






 シャハトは別のところで述べたので(シャハトは無任所大臣としては残ったのでその意味でナチの戦争体制の重要な担い手)、ここでは、たとえばフリッツ・ティッセン(製鉄業界の大物)について。


1923年1月、ティッセンは、フランスのルール占領(石炭:賠償現物差し押さえのため)に対する受動的抵抗のシンボルとなり、広く世に知られることになる。

  写真は、フランス人兵士の監視「モノポル炭鉱」
Fritz Thyssen, S.12.

1923年11月9日のヒトラー・ルーデンドルフのミュンヘン一揆の際には、ティッセンは、ルーデンドルフに10万マルクを献金。

Fritz Thyssen, S.88 

1924年 ドイツ賠償に関するドーズ案→相対的安定期にはいる。

1929年10月世界恐慌勃発→ドイツも直撃。

1930年、ヤング案闘争で、ティッセンはヒトラーやフーゲンベルクを支持。

 
Fritz Thyssen, S.103



財界主流(ドイツ工業全国連盟)・会長カール・デュースベルク(イ・ゲ・ファルベン会長)・・・・・・親ヒトラーのティッセンとは対立。

Fritz Thyssen, S. 109.


1932年1月、ティッセンが挨拶:デュッセルドルフ・工業倶楽部におけるヒトラーの演説・・・・ヒトラーと財界の関係の密接化の一歩。



ワイマール末期の風刺画:
     ティッセンは、ヒトラーに期待し、財界人(大企業)を組織しナチ党に選挙資金を提供。
     それをえぐりだす風刺画(マルクス主義者によるもの)

  
 「ヒトラーは、ティッセンの財布の掌中にある「操り人形」(遊び道具)」(Fritz Thyssen, S.145)

しかし、ヒトラー・ナチ党の本質は?

単なる財界人の{操り人形」?

いかなる意味での「操り人形}?

一般に政治指導者・政党指導者とそれを支持する社会のさまざまのグループとの関係は?


「ナチ党の資金調達」『ナチズム・エンサイクロペディア』によれば、

財界人の献金は、ティッセンの場合を除いて、ナチ党にはなされなかった。

1930年9月選挙でナチ党が躍進してから、財界がワイマール民主主義体制を打破し労働運動を押さえつけることを期待して、ナチ党に献金し始めた。
それでも、ナチ党の議会に占める議席数との関係ではそんなに多額ではなかった。

ナチ党への献金は、ヒトラー政権誕生直後から、一挙に巨大になる。


ワイマール末期まで、ティッセンは、反民主主義のドイツ保守派上層部の500人ほどのメンバーからなる「紳士クラブ」に属し、そのクラブの影響力は、1932年6月11月のパーペン内閣のときに頂点を迎えた。

1932年11月19日には、ヒンデンブルク大統領宛の「財界人書簡」で、ヒトラーを首相に任命するように要請。(ヒトラー政権誕生に重要な役割)


1933年1月ヒトラー政権誕生
ティッセンは国会議員に。


1933年3月5日の選挙で。ティッセンとフーゲンベルク(ヒトラー第一次内閣連立のDNVP党首)。

Fritz Thyssen, S.212



1934年レーム事件を報じる「フェルキッシャー・ベオバッハター」
(「一揆」を口実にレームなど3000人ほどのナチ左派などを粛清)

「国家に殴りかかろうとするものは、確実な死がその運命である」と。
レーム一派は「国家反逆の罪で処刑した」というわけ。

Fritz Thyssen, S.187.


ティッセンも、ヒトラー政府の急激・過大な再軍備政策や反ユダヤ主義政策に批判的となり、亀裂・対立→国外へ




パリの食堂でいるところ(一文無しの多くの亡命者と違って、豪華なレストランで食事)


Fritz Thyssen, S223.

1941年彼の名前で出版された宣伝用の暴露本

Fritz Thyssen, S.247



戦後、逮捕されて、アメリカの収容所で(1946-47)。