2002年10月15日
教員組合集会の議論にもとづく事務機構改編問題に関する学長・評議員への要望書、この要望書に関連し、週末に矢吹先生から遠山茂樹名誉教授の最終講義における関口泰初代横浜市立大学学長の大学論を送っていただいた。
教員組合集会で遠山茂樹名誉教授の教え子である丸茂さんが紹介・披露し、大学改革の問題意識・課題意識の角度から注意を喚起したもので、それを矢吹先生が御自身のHPに掲載され、あわせて、われわれにも送ってくれたものである。
最近の大学事務局の大学破壊(大学のルール無視、たとえば教員欠員補充における恣意性)の「行政の論理」に危機感をいだく矢吹先生の熱意に敬意を表する。
ここで念のために一言しておけば、「行政の論理」にも民主的なそれと事務的独裁的官僚的なそれがある。民主的行政の論理が大学内において無視され、貫徹していないことを教員組合やわれわれは問題視している。
私には、中田市長、大学担当助役などが、「一億円」とかいわれる改築費予算(?)という「あめ」を武器に現在大学内で強行されようとしているコンセンサス抜きの強引な事務機構改革(案)を容認しているとはどうしても思えない。副学長室を創るのは遅きに失した観さえあるが、学生のためのスペースはどうなるか? 副学長室はなぜ2階の学長室のそばに置かないか? 学部事務室廃止がもたらすマイナス要因はどうか?
国会・国家制定の法に基づく住基ネットの問題性(不備・基本的人権侵害の危険性など)を指摘し、住民意思の尊重=民主主義原理の尊重に努力する中田市長の民主的基本スタンスからしても、大学の論理と手順、大学の民主的意思決定機構を無視したやり方を容認しているようには到底思えない。
もし、大学という出先で最近行われていることの情報を正確に把握し、そのうえで容認しているなら、中田市政は支離滅裂だ。国家に対しては民主的原理を主張し、自分のテリトリーでは独裁的官僚的原理を出先の部局にやらせていることになるではないか。
アピール類に掲げた商学部教授会見解(2002年10月3日教授会)や教員組合見解が示すように、事務機構改革は大学改革の重要度・教学システム・研究教育に及ぼす影響からして審議事項にあたるが、10月1日に提案をしただけで、10月16日以降の評議会で審議事項としないで、押しきろうとしているのである。このようなやり方では、商学部教授会はあり得べき混乱やマイナスの結果の責任をとることができないだろう。そのことが審議事項としての要望となっている。この点は明確にしておく必要があろう。
新制大学の発足時における公立大学の使命と理想を激動期に読みなおし、熟考し、大学らしい改革を進めるにあたって一つの重要な検討素材にすることは、われわれ大学人に求められていることだろう。本HPを注意深く読んでくださる方から、コメントをいただいた。その方も、関口・遠山の公立大学の理想を今一度きちんと考え、改革構想を具体的に作り出すべきだというものだった。ご教示いただいた参考論文は、『朝日ジャーナル』1965年10月31日号所収の遠山茂樹「公立大学の理想に帰れ」。『朝日ジャーナル』1980年7月4日号所収の赤塚行雄「300万人の大学・横浜市立大学・どこへ行く自由闊達な校風」、さらに『週刊朝日』1994年9月23日号所収の栗本慎一郎「間違いだらけの大学選び・発展の可能性大きい複合大学」などである。
さしあたり、本HPを注意深く読みご批判いただいた方には、「そのためには、研究と教育で時間がなく悲鳴を上げている教員に対する配慮が必要ではないか」と返事を出しておいた。
この間の事務局の機構改革案批判でも言及しておいたが、その案によれば、事務局は部長その他5名ほどの特別体制を敷いて、大学改革を進めようとしている。ところが、それに対して、学長を補佐する体制はどうなっているか?戦略会議という学長の諮問会議はあるが、そのメンバーの研究教育時間へのしわ寄せに対しては、きちんとした配慮がなされているか?
大学の側に研究教育の発展とそのための事務機構に関して全体構想を練るような学長室体制(学長補佐や大学改革担当副学長、その他)を構築しないで、事務局だけが案を作れば、今回の事務機構改革案のようにとんでもない事務的なものが出てくることになろう。(当面押しきっても、それによって教学システムが混乱し、弱体化したり破壊された教授会運営システム、入試教務体制などのマイナス要因は、あとになってはじめて露呈してくることになるであろう。その頃には、改革を押しきった人々は「改革推進者」の勲章を持って大学を去っているであろう。彼らは2−3年で市の他の部局に移ることができるからである。大学から簡単には逃げ出せない教員・職員や学生・院生などがそのマイナスと重荷をかぶることになる。大きな改革改編には、慎重な検討が必要な所以である。)それは関口・遠山の公立大学の理想論とはまったく逆の、専制的事務的な「大学」(大学の本質を多くの点で失うもの)となろう。
この間、このHPでは、物事を進めるにあたって大学のルールを守り、そのためにも「ひと、もの、かね」が重要だといってきたが、すべての基礎には、この発想が必要だろう。きちんとした手順を踏んでものごとをすすめないことを批判しているのであって、その点こそ、改革構想を議論する基本前提だと考える。改革のやり方が独断先行的では、盛りこめる内容は限られている。