2003年1月6日―1月31日の大学問題日誌
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2003年1月31日 昨日夜から、今朝現在(9時16分)、佐藤真彦先生のHP:http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/ にアクセスできない[1]。ときがときだけに、また佐藤先生の紹介した「部外秘資料」と批判文書が正鵠をいていると感じるだけに、どこかから言論抑圧の妨害が入っているのではないかと危惧する。理性的議論で論破できないものは、理性以外のさまざまの手段(しばしば「こわもて」)で言論を抑えこもうとする。議論の終結のさせ方が抑止的である場合、注意しなければならない。「部外秘」はまさにそのような禁圧の一形態である。禁圧こそが猛烈な反発・公憤を引き起こす。今回の「部外秘」資料は、これまでも戦略会議の内容を「漏らした」と譴責された人がいるという噂を聞いていたが、そのような抑えこみの事実を文書で裏づけるものでもある。いまどきと思う人もいるかもしれないが、言論抑圧は単なる噂や危惧ではないのである。小さな芽のうちにこそ、きちんと取り去らなければならない。
もしも学内からの抑止・妨害などであったとすれば、その事実がわかれば、それはそれで今度こそ大学全体をひっくり返すような大問題になろう。ここでは、機械のダウン、ソフト不良など余儀ないアクセス不良・中断、あるいは妨害に対する危険分散もかねて、矢吹先生HP掲載の上記3文書「批判」、「部外秘資料1」、「部外秘資料2」にリンクを張っておこう(回復したので、オリジナルにリンクを張りなおした)。
情報通信手段としてのインターネットの意義、インターネットの民主主義実現における革命的意義は、仮に1箇所・1個人を攻撃しそれに成功しても、別の人々によって、世界各地のHPに情報が分散収納され、掲載され、発信されうるということである。冷戦期の軍事対決は、その対決の地球的規模の大きさ、全面性・全域性から、危険分散の可及的拡大・連携技術としてインターネットを生み出した。理性的な対決・連帯・連携の手段としても有力なのは当然である。
「万機公論に決すべし」。
公的問題はまさに理性による批判という武器を通じてしか、真の意味では克服されない。現実に存在するさまざまの問題・現状への疑問→真実・真理の発見→虚偽の公然たる批判→真実・真理の普及→既成の知識・到達点・限界・一面性に対する批判と疑問→新たな問題の発掘、そうした無限の連鎖の強力な武器・しかも非武力的平和的な武器としてインターネットを現在のわれわれ人類・諸個人は持っている[2]。根底的な民主主義実現の手段がインターネットであろう。創意工夫してこの理性の武器を活用できるかどうか、ここで市民、学生、大学人の、「住民の意識性・積極性」が試されるであろう。
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2003年1月30日 一昨日28日に「社会構造論」の長尾演雄教授最終講義(33年間の市大専任教員の最後の講義)、そして、昨日29日、「体育」の片尾周造教授(医学博士)の最終講義(42年間専任教員として在籍した最後の講義)を聞いた。いずれもすばらしい講義だった。
「社会構造論」については、市大存廃論の極論を展開する橋爪「あり方懇談会」座長の「学問的」仕事を見なおす過程でその意義を確認し、事務局主導の後任人事「凍結」政策を批判してきたので、長尾節の「社会構造論」の独自性・意義も非常によくわかった。「社会構造論」と言う学問とその担い手の個性が切り結ぶ点に、独自の「社会構造論」が展開されるのだということがよくわかった。そのテーマは、「住民の意識性・積極性」であり、昨年の各種地方選挙での「予想外の結果」「意外な結果」(横浜市長選挙における中田市長の誕生、長野県知事選挙での田中知事の圧倒的勝利、尼崎市での女性市長誕生など)の背後に、住民自身の生活変化・意識変化・積極性があることを深く解明したものだった。まさに選挙と言う政治的結果は、社会構造の変化・市民の生活と意識の変化と連関・連動しているのだ、それをつかんだ人間個人が人々の心を一挙に集めるのだということがよくわかるご講義だった。貴重な「社会構造論」の勉強をさせていただいた。温かみのある知的精神的宝物が一つ増えた感じだ。
「体育」の片尾先生のご講義は、「ふりむけば42年―教育・研究・スポーツ―」であった。同じ学部ではあってもお話する機会も余りなく、はじめてお聞きすることがほとんどだった。とくに、横浜市立大学の「体育医学」(戦前に文部省からヨーロッパに派遣された先進的人物・横浜市大体育会初代会長・三橋喜久雄氏の理念)を理念とした「運動・スポーツ科学教室」の独自の歴史と個性の説明、そして、じつに多様な横浜市のスポーツ振興政策との関わりも感銘深いものだった。健康な人間なしに民間企業も市民社会(横浜市、日本、世界)も存立が危うい。先生のお仕事の場合に、まさに研究教育と地域貢献が幸福なかたちで結びついた典型ともいえるだろう。このような立派な教室の後任人事を「凍結」するというのは、いかなる理由か(事務局責任者は説明責任を果たしているか?)。大学以外の部署にいつでも帰れるとの意識で、大学人「蔑視」(じつはコンプレックス?)の固定観念に支えられ、市財政の危機に後押しされて、何も歴史と現状を勉強しないで(正確に言えば、民営化や独立行政法人化の上からの強引な推進という特定の情報・論理・手法だけは学んで)、大上段に「凍結」を振りかざす政策のひどさ加減を、この二つの最終講義を聴講して、いっそう明確に理解できた。
無茶な「凍結」政策の「お蔭」(非常勤ですませるという大幅人件費削減効果?[3])と言うべきか、年度中に後任が採れなかったために(意図的に採らなかったため)、非常勤としてお二人の先生は4月以降も講義だけはお願いすることになったようで、そのこと自体はすばらしいことだ[4]。
教授会の意思決定に従い、しっかりと後任人事をすすめ、商学部と上記教室に若く新しい血とエネルギーを入れると同時に、名物教授お二人の非常勤講師としてのご講義は、非常勤講師定年の七〇歳までお願いしたいものだ[5]。最終講義を熱心に聞いていたカメリア・ホール一杯の多くの人はそう感じたはずだ。
なお、最近の新聞報道や昨日公開された「部外秘資料1.2」で改めて、大学事務局幹部のひどさに驚き、深刻な思いをしている若手の教員から、応援のメールをいただいた。大変うれしい。
若手教員の方はいろいろな意味で不利な弱い立場にあり、このようなHPでの意見公開では匿名を希望するのは当然だ。したがって、ここでは匿名で内容をご紹介しておこう。若手の方は、教授クラス以上の地位と責任ある人々に対し、しかるべきルートで意見を述べ、教授クラス以上の幹部をつき動かすことが必要でしょう。若手の皆さんの気持ちと目が教授クラスを動かすには大きな力になると思います。
大学の幹部クラスの人々は、下記文中にあるように、大学トップの方々に対する厳しい目が多くの人々から注がれつつあることを、よく反省し、しかるべき行動をみんなにわかるように公開でとっていただきたい。(といっても、学部にしろ大学にしろ、幹部クラスの人にたいしては批判的な手厳しい意見を次々発表しているので、幹部クラスの人はこのHPを見るのは嫌だろうし、ここにはアクセスしていないだろうから、直接的な彼らへの影響力は期待していない。)
-----若手教員からのメール------
いつも大学問題日誌を拝読させていただいております。横浜市立大学が大変な状況にある現在、一般の教員には目に触れることもない情報も、先生方のご努力で公開していただき、大変感謝しております。
正直に申しますと、以前は先生方の再三の警告に対しても、50代以上の先生方の雇用問題[6]であるかのようにどこかで認識していた節がありました。つまり、他の大学で行われているように、定年引き上げ[7]などを通じて50代以上の先生方が雇用形態を守る[8]代わりに、実際にしわ寄せがくるのは、カリキュラム再編で講義負担が増大したり、任期制が導入されたり、あるいは昇進制度が変更されるなど、助教授以下の人間になるのではないか、と冷めた目で見ていた部分がありました。
この点についての警戒心が全くなくなったとは申せません[9]が、先般の新聞報道や、その後公表していただいたあり方懇談会座長私案、戦略会議部外秘資料などを読むにつれ、あまりにも常識では考えがたい内容が含まれていることに驚き、微力ではありますが、応援のメールをお送りしようと思った次第です。中でも、政治的問題が背景にあるのではないかとされるほど、誇張された新聞記事が入試直前に発表された経緯は非常に不透明ですし、民間企業であればこのような記事に対してはすぐにコメントを発表するのでしょうが、いつまで待っても大学トップが動いたという話も聞かないなど、極めて不安な状況であるかと思います。
他の先生方も指摘されていることですので、あまり繰り返しませんが、座長私案の中には、研究・教育業績の判断が断定的で根拠に乏しく、また赤字の根源である病院問題を大学全体の問題に摩り替えているように見える部分もあるなど、問題点は多いと思いましたし、部外秘資料については大学教育のあり方に関わる法律を幹部がきちんと認識しているのかどうか、非常に疑問に思われる内容も含まれておりました。
またそもそも、教育内容を改善するという改革と横浜市への貢献は同時に成り立つものだろうかとも思いますし、また横浜市への貢献を増やしても赤字が解消するわけではないのになぜ問題を一緒にするのかということについても、大きな疑問を感じております。東京都立大学の例もありましたし、地方公共団体の暴走によって、伝統校の過去の蓄積があっという間に潰れてしまうというのは、一個人の雇用の問題を越えて、日本の教育の歴史に大きな禍根を残す可能性も否定できないのではないかと考えております。
正直なところ、1月半ば以来の事態の急転に、本来の研究・教育業務に対しても暗鬱とした気持ちで臨んでおります。2月8日の集会に参加できるかどうかは、今のところ不明ではありますが、先生のサイトがなければ、多くの情報を知ることもありませんでしたので、感謝とともに応援のメールを送らせていただきたいと思います。(匿名希望)
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2003年1月29日 本日改めて、「部外秘資料1」、「部外秘資料2」と、これに対する佐藤真彦先生の『部外秘資料』が語る,横浜市立大学独裁官僚と似非民主制を読みなおした。「部外秘」資料の本質的な問題が的確に指摘されていることを確認し、感銘した。佐藤真彦先生の大学人としての勇気ある行動に深甚の敬意を表したい。佐藤先生の分析を是非読んでいただきたい。このページからアクセスが始まった人のために導入的に(佐藤先生の繰り返しになるが)、若干、根本的な問題発言を紹介すると、「教員は商品だ[10]」、「予算に興味をもつなら、責任をもってもらいたい[11]」、「現在の人事制度を全面否定して、ゼロから立ち上げる」、「教授会がごちゃごちゃいわなければ、すんなりきまる」など。このような知性品性のない驚くべき暴言の連続である。人間、時に怒りにまかせて暴言を吐くことはだれにでもあるだろう。しかし、これではひどすぎるのではないか。なるほど、問題点の指摘のなかには大学人がきちんと真正面から見なければならない部分もかなりある[12](それがいっさいなければ、それこそ論外だ)が、大学教員を商品扱いする知性品性欠如の人間が会議を取り仕切るような環境で、大学らしい創造的な改革を練ることができないことは明らかだ。一体横浜市の人事制度はどうなっているのか? どのような職員教育が行われているのか? 教員の人間的尊厳を無視し、傷つけるような発言をするものが管理職につけるようになっているのか? 問題幹部の背後にいるのはだれだ? 大学担当助役は何をしているのか? 市長は?
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2003年1月28日 商学部1月定例教授会は、事務機構改革に対する反対ないし異論・危惧の議論で紛糾した。それゆえ、教授会で配布された「学内資料・部外秘」という注意事項が左上隅に印刷された「横浜市立大学改革の方向性」(大学改革戦略会議資料、平成一五年1月8日)なる文書[13]は、議論にならなかった。しかし、昨日入手した「部外秘資料1」、「部外秘資料2」を読み比べて、大変な問題をはらんでいることを発見した。それは、これら文書(1、2)およびそれらに対する佐藤真彦教授の明晰な批判を読んでみれば(佐藤真彦先生の研究室HPに掲載された事を確認[14])はっきりする。以下は、佐藤先生の意見・資料公開前の段階での問題点の指摘である。
1.
そもそも、教授会で配布した資料を「部外秘」とすることは、どういう意味か? 「横浜市立大学の方向性について」議論した大学戦略会議の内容を「部外秘」としなければならない理由は何か? 市民は、非常に不思議に思うだろう。部外秘資料をよく読んで、その理由を考えて欲しい。ともあれ、「部外秘」とされた議事録は大学の方向性を議論する大学の学長の諮問会議のものだが、その議論は、秘密にしなければならないものか? 秘密にしなければならないようなことを、秘密にしなければならないような大学問題に関するひどい認識水準と論拠で議論する場が、大学戦略会議なのか? 暴論が飛び交っているということか? 暴論を吐くような人物が戦略会議にいること自体が問題ではないか。暴論でないなら、なぜ公開できないのか? 論理的歴史的に公開すべき正当な責任ある発言であり、確信ある議論なら、なぜ隠すのか?[15] これでは、大学の学問研究・教育とそのシステムの改革のあり方という最も自由が求められることに関して、秘密にしかできないようなことを議論していることになる。それは許されることか? 根本的に疑念を抱く。
2.
しかも、教授会では、今回私が入手した「部外秘資料1」、「部外秘資料2」のうち、「部外秘資料1」に対応するものが、「学内資料・部外秘」として配布されていたことがわかった。「部外秘資料2」というものは、議論の生々しい内容を(しかしその発言者の名前は伏せたままで)再現するものである。これを公開できない理由は何か? 教授会には同じ「部外秘資料」の一部だけを公開し、別の部分は非公開にするという手のこんだ措置をする正当性は何か? 大学内部の大学改革の方向性を巡る重大きわまりない議論が社会・市民の目に触れてはならないようなかたちで議論されているということか? 「部外秘」扱いは、そのことを証拠立てるものである。
3.
大学改革のような重要問題を、大学人全体と市民・社会を巻き込んで公然と議論しないで、秘密の内にやっていいのか? このような姿勢こそ、中田市長の施政方針と真っ向から反することではないのか? 中田市長の足元で、中田市長の基本的政治方針を覆すことがおこなわれていいのか? しかも、大学というもっとも議論をオープンにおこなうべき場において、大学改革の方向性という大学の生命に関わるもっとも重要な問題において、このような秘密主義がまかり通っていいのか?
4.
「部外秘」「学内資料」と銘打つことは、設置者である市民には知らせないということである。大学改革の方向性は、個人情報ではない。議論をしている委員は、公的資格と責任をもった人格として参加しているはずである。社会・市民に対して公然と語ることができないこと(そのように水準の低いこと)を議論しているのか? ことは、大学という公的機関の改革をめぐる問題である。市民設置の大学の改革問題にかんして、設置主体である市民に広く知らせないこと、いや議論の内容を秘密にすることが妥当なのか?
5.
こうした疑問からすると、資料を「部外秘」扱いとし、市民から情報を隠そうとした責任者はだれか、それが問題となる。「部外秘」扱いにし、議論の自由な展開を阻止しようとした責任者はだれか? 大学戦略会議の責任者はだれか?
6.
議論の内容は、出席者(その参加資格を明記)・発言者の個々の氏名も明記するかたちで、公開すべきものである。どのような職責の、だれが、どのような認識水準で、どのような議論を展開しているか、大学問題・大学戦略を語るにふさわしい人々によって大学の戦略・改革構想が練られているのか、これを判断するには、そのような責任ある議事録の公開こそが必要である[16]。
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2003年1月27日 教員組合を通じて、神奈川新聞などの報道(市民と世論を誤った方向に導く報道姿勢)をきちんと批判し、抗議するべきだという意見が出されていることを知った。確かにそのとおりである。教員組合もその検討に着手したようで、頼もしいかぎりである。同種のミスリーディングな新聞報道の事例とこれへの批判では、国立大学法人化問題に関する朝日新聞社説(1月16日付)に対する批判など、次ぎの「マスメディアの諸問題」ページが的確で鋭い指摘をおこなっている。新聞報道が、いかに時流に流されるか、すなわち発表者(当局、お上など)の発表したことをそのまま垂れ流すものであるか、批判的で自主独立的な報道が少ないか(自由の社会において、いかに自由が少ないか)を的確に指摘した「MyNews」HPも興味深い。垂れ流しの「公式」情報に対して、それが世論操作の武器になっていることをしっかりと批判する現代の重要な武器は、自主独立的なインターネット・ページであろう。市民がこのようなインターネットの武器を有効に使うとき、そしてその主張が真実で批判が正鵠を射ている度合いに応じて市民の心を広く深くがっちりと捉えるとき、これまでのマスメディアの限界と問題を少しでも市民の側に立ったものに変えていくことが可能になろう[17]。
なおまた、大学の自治を破壊し、懲戒権・解雇権を濫用する鹿児島国際大学における大学教員解雇事件の情報も、現在進行しつつある「独立行政法人化」問題を考える場合、よく考えてみるべき問題を孕んでいる。本日寄せられたある情報によれば、ただちにこのような問題を引き起こしそうな全国どこの大学でもみられないようなものすごい発言[18]が学長の諮問委員会である大学戦略会議(1月8日)の場でなされたようである。いったい学長や学部長はどのような態度をとったのだろうか?今後の展開によっては、いずれこれも重大問題化するであろう。
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2003年1月20日 橋爪私案などが公開され、神奈川新聞(教員組合作成の同記事pdf版)や読売新聞などにセンセーショナルな記事が掲載された。標題がセンセーショナルなだけに、逆に中身とのギャップが大きい。大学と病院[19]とをいっしょにして議論している点、大学の「赤字」の総額だけで内実の分析がないなど、新聞報道記事は、その内容を読むだけで、センセーショナリズムが中心となっていることがわかる[20]。橋爪私案を一読するとわかるが、それはかならずしも横浜市立大学の歴史と現状に関する適切な分析や実現可能性の緻密な検討を盛りこんだものではなく、橋爪座長の長年の主張をふんだんにちりばめたものとなっている。財務分析も「愚劣きわまる」ものであり、その点の批判は北海道大学の辻下教授のページ、本学矢吹教授HPを参照されたい。
すでに大学内部でも湧きあがっていた問題意識と叩き台としてのいくつかの改革案を踏まえ、外部からの一つの参考意見として、大学らしい発展のプランのなかに組み入れてもよいもの、実現可能性のある提言部分・項目がなくはない。そうした部分・項目と単なる大言壮語とをより分けていく必要があろう。第5回「あり方懇談会」傍聴記によれば、橋爪私案と他の委員の意見とはかなり違っているようであり、最終答申がどのような形になるか、注目しよう。ばかげた部分は、そのひどさのために答申自体の価値を引き下げるものとなろう。
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2003年1月17日 第5回「あり方懇談会」の傍聴記と橋爪座長の答申(私案)・森谷委員の財務分析ペーパーが、教員組合委員長倉持先生から送られてきた。「エビデンスのない」思いこみで、伝統ある市立大学(公立大学)を非難し、「廃校」を提言する座長の科学者・社会学者としての資質には根本的に疑念を抱かざるを得ない[21]。
一例だけ挙げれば、時流に乗る形で大学の経営と研究教育を「分離する」と提言している。だが、本学のこれまでの実態こそ、実質上、二つが「分離」していたのだ。「これまで長年にわたって評議会で予算問題を審議したことなどない」という現実が示すことは何か。学則規定(審議事項規定)があるにもかかわらず、市から派遣される事務局長・総務部長が「関内」との直接的関係(事務的関係)を根拠に、実質上「経営」権を行使する形(「設置者権限」を振りまわす形)で、評議会の審議権を無視(実質上剥奪)し、大学と学長・評議会の自主自律性が発揮できないようになっていた(大幅に阻害されてきた)[22]。教員サイドは経営の問題を考えないようなシステムになっていた(多くの人はそれに何も問題を感じていなかった)というべきだろう。
こういう基本的事実すら、きちんと分析していない。「はじめに結論ありき」である。繰り返すが、これまでこそすでに、「経営」と「研究教育」が実質上は、分離していたのである。
研究教育に責任をもつ大学人が経営の責任ももつ私立大学(たとえば慶応大学など)が健全な発展を示してはいないか?
経営者独裁の私立大学(内部の批判を封じこめる体制の大学)は、繰り返し大問題を引き起こしてはいないか?
国立大学の独立行政法人化は、すくなくとも文部科学省からの各大学の独立性と自由の拡大を看板にしている。そのような自律性・自立性は、市大に与えたくない、という本音が基礎にある。これでは、改革でもなんでもない。改革の方向としては、大学の自主独立の方向性を強化することであり、それこそが求められている[23]。しかも、公的資金を投じてしか行えないような非効率的な(短期的な視点、営業利潤の視点での非効率性、しかし長期的社会的には重要な責務を果たす)研究教育の部分を担う機関として国家や地方自治体の設立する大学の意義がある[24]。
経営と研究教育の機械的分離、大学の中央集権的官僚的統制は大学をだめにしてしまう、ということが、国公立大学の改革の出発点にあることではないか?[25] 国立大学でも、「経営」と研究教育の両方で文部科学省の権限が強すぎた(中央集権的硬直化、官僚制の跋扈)ということが改革の一つの方向性を規定しているのではないか?[26]
商学部には財政や経営の専門家がたくさんいる。橋爪私案・森谷財務分析への経済学的・経営学的・会計学的批判を期待したい(すでに商学部経済学科の随助教授は昨年5月に貴重な研究時間を割いて詳細な大学財務分析を行い、研究室HPで大学内外に公開している。それは、橋爪私案や森谷分析のような大雑把なものではない。あり方懇談会の各委員、とりわけ座長や森谷委員はすくなくとも、この随さんの分析を一読すべきだろう。また、これを機会に.多くの市民のみなさんに随さんの分析を読んでいただきたいと願う。大学はどうあるべきか、そのあるべき大学からして、どの部分は市民が負担するのか、どの部分は負担できないのか、どこがコスト要因か、どこを減らすべきか、冷徹な財務分析を踏まえて、改革論議は進めるべきである。大雑把に「大学財政は大変なことになっている。市民負担一人当りはこんなに重いと一律・平均的に指摘するのは、きちんとした財務分析をしていないことと同じである)。
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2003年1月11日 総合理学研究科の佐藤真彦教授が「あり方懇談会」の危険性、橋爪座長の発言や考え方に関する重大な問題性を徹底的に批判した力作『徹底検証:学問の自由と大学の自治の敵、橋爪大三郎「あり方懇」座長の危険性と国公立大学独立行政法人化の行き着く先』を公開された。ここにリンクをはって、できるだけ多くの人に読んでいただき、近い将来出される「あり方懇談会」答申に対する批判的対峙の理論的素材を前もって豊富にしていただきたい。なお、矢吹教授のHPにも、この文書が独自の強調を付して掲載されているので、参照されたい。
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2003年1月10日 昨日の定例教授会には、報告事項として、奇怪な文書が出て、長時間間紛糾した(大学教員の研究教育のための時間とエネルギーが奪われた)。教授会に出た文書なので公式文書であり、関心ある市民は資料請求できる。そのタイトルは、「教員と事務局の役割分担について」というものである。
何の分担か? タイトルからして問題の本質を隠蔽するようになっている。テーマは「事務の」分担なのである。その「事務の」ということが明記されていない。
教員と事務局の役割分担とは何か?
本質的には、大学の教員は研究教育を本務とし、事務局はその研究教育を支える事務を行うのが本務であり、これが本質的基本的な役割分担である。事務的仕事はすべて事務職・事務局の本務として、最大限可能な限り、その職業的使命感と職業的倫理観に従い、遂行すべきものである。
だれも、事務局・事務組織の人びとに対し、大学人としての学問科学の研究教育とその成果の公開・教授を求めたりはしない。
もちろん、「事務」の仕事とされるものには、教員がやるべきだし、教員しかやれない部分もあり、むしろ職員しかできない部分、職員がやるべき部分もある。微妙な境界領域があることは事実である。それは、しかし、これまでもお互いに調整しながらやってきたはずである。だが、学部事務室を廃止する、新組織には学部担当を置かないという判断が、一体どのように正当化されるのか? 学部事務室を廃止することによる各学部独自のかつては職員がやっていた木目細かな日常業務を教員がやるべきだというのか?
日常的に学生が相談に出かける窓口として、事務組織がはたす役割は重大かつ広範である。学部事務室を廃止するという根本的改革案は、学生サービスという点で重大な問題を孕んでいる。
事務組織の組合の人びとがどのように今回の機構「改革」に対応するのか知らないが、これまで事務組織として学生のためにやってきた学部ごとの学問体系などに関する複雑な膨大な細かな仕事を、各学部の事情・カリキュラム学問体系について習熟度の低い事務組織でやれるのか。教務関係のような仕事に教員をこれまで以上に引っ張りだせば、学部ごとの担当などなくても学生サービスが向上するとでもいうのか? それならば、これまで学部スタッフとして張りついてやっていた仕事の本務と習熟度・専門性は何だったのか。各学部のカリキュラムなどの独自性や個性とその変遷と意味を習熟した職員がきちんとフォローし、継続的に新しい人びとに伝達してはじめて、学生サービスが確保できるのではないか?
大学教員に対しては、自己点検・自己評価などの制度化が示すように、研究教育の成果に関して厳しい社会の目がそそがれ、研究と教育において、講義の場においては学生の諸君の、その前提となる研究においては学界の厳しい批判に曝されている。講義準備・講義遂行・論文や著書の執筆・研究調査活動・学会活動・社会的活動で、つねに固有名詞で人の前に出て、評価の目に曝され、隠然公然たる批判に鞭打たれている[27]。
学生サービスも日々充実していく必要がある。現代の厳しい環境に置かれた大学教員の研究教育活動ができるだけ成果の多いものになるよう、すなわち大学教員が研究教育の使命・本務をできるだけ十全に果たせるようにしていくのが、事務組織としての本務ではないのか? 活力と魅力ある大学にするために事務組織として支援するのが本務ではないのか? 大学における学生サービスの充実・向上とは、まさに研究教育の内容とその成果の伝達を本質的な要素としないのであろうか? 研究教育条件の整備なしには、それは実現できない。
そのような大学人としての全体的な認識と倫理観・使命感こそが、今回のような文書ににじみ出ていなければならないのではないか? 教員と事務局とのこの分業関係・協業関係・それぞれの持ち場の専門性とその必要性・意味合い(学生サービスにとって、学問研究にとって)こそきちんと把握するべきではないのか?
長いあいだに慣習的に確立していた教員と職員の友好的な相互理解に基づく大学らしい分業・協業関係を一昨年来破壊しつつあるのは、誰なのか、どの部局、どこに責任があるのか?
大学の教員は、まさに研究と教育の成果こそが本質的任務として、社会から問われるのである。匿名性の背後に隠れることが許されていない。そして従来職員が行っていた事務を教員が職員に代わって肩代わりしても、それはある意味では本務逸脱である。教員が他人の仕事を奪ったことにさえなる。学部事務室廃止で減少するポストは管理職ポストなどではないか? かくして、教員が本務に割くべき時間を不当な本務以外の行為に割いていることになる。それは本務に関する大学教員としての責任感・倫理観の欠如・弱体化を意味する。
本務の研究と教育に割くべき時間を奪われることに敏感でない大学教員は、大学教員としての倫理観・使命感の点で問題であろう。そのようなことに毅然とした態度がとれない大学教員は、本質的に本務不忠実の倫理的責任が問われるのではないか。また、すでに何回か批判的に指摘されたことだが、一つだけ具体的に言えば、教授会などの運営に関する事務を臨時嘱託の学部長「秘書」に担当させるという重大問題もある。学部長決済関係の書類には、入試や教務関係で個人的な守秘義務を要するものも多く、公務員としての守秘義務をきちんと遵守させることのできない臨時職員(不熟練で短期の)に担当させるなどという発想は、およそ大学の事務の職務内容をつぶさに理解したものがやることではない。今回の機構「改革」案の提案者は、伝統的に確立していた従来の職員の本務についても、理解していないようである。「落下傘部隊」でない経験豊富な職員や職員組合は、しっかりと問題点を文書で指摘しておくべきだろう。
教員・職員の分担・分業関係などの本質的な部分でのきちんとした確認と定義・精神のない文書のことを、大学にあるまじき「奇怪な文書」といわないでどう表現するか? 今回のような機構「改革」では、入試関係審議事項などの秘密漏洩問題も発生する危険性が非常に高くなるということを指摘しておきたい。
事務局責任者が事務機構の「改革」ということで評議会や教授会の理解を得ようという以上、大学教員が安心して研究教育に邁進できるように、これまでの研究教育条件を改善するように提案するのが筋である。どこに改善があるか? 今回の文書には、そのような基本精神が見られないと同時に改善を具体的に感じさせる実質がない。まさに、事務的な、教員への事務負担の押しつけを基調とする内容なのである。
「教務や入試において学部担当を置かないなど信じられない」と言った発言を含め、商学部教授会では多くの人が個々の箇条、文章表現を取り上げて批判した。これらの意見を学部長が議事録作成で明確に記録し、きちんと事務局に文書で申し入れる義務を負っている。学部長自身、何回か、今回の文書の内容に反対したがその反対が受け入れられなかった、と発言していた。その発言がどのように議事録で明記されるのか、これも重要なことであろう。きちんとした批判が受け入れられなかったということの重みは、今後の問題発生における責任の所在を確定する上で決定的に重要になろう。
ともあれ、学部教授会の圧倒的多数の声が、拒否であったのは当然であろう。(沈黙していた人のなかに、賛同する人がいたかもしれないが、発言した人はすべて、今回の措置が結局のところ、学部ごとに違う学問体系と関連するあるべき学生サービスの低下[28]をはじめ研究教育条件を大幅に脅かすものであることを主張するものであった。)
いつものことだが、今回の文書にも、文書作成の責任部署が明記されていない。批判をしっかり受け止めようという態度や責任主体を明確にしたものではない。その意味でも「奇怪な文書」である。だから、正式の提案に値するものではなく、無視すべきだという意見も強かった。本質的には無視すべきだとしても、のちのちのために問題点を明確に指摘しておくことは重要だろう。
作成主体を明記していなくても、学部長も言っていたように、これまでの経過から事務機構「改革」の素案を作成する総務課の作成文書であり、総務部長・事務局長承認の、その意味で事務局最高責任者が責任をとるべき文書であろう。「事務機構は事務局の管轄だ」と評議会の場で豪語し、部下を指揮統率して総退場したのは、総務部長に他ならない。それに追随したのは事務局長である。もちろん、学長見解でこの「異常事態」の収拾をはかった学長に最終的責任があるのはいうまでもない。
ともあれ、作成部署を明記しないことで、形式上だけはいつでも責任逃れができるようになっている。また、反対などがなければこのまま押しとおそうというものでもある。今後の学生サービス劣悪化、教員負担増、教員の事務職員化、労働強化、研究教育条件悪化[29]、その他ありうべき重大事件の発生をめぐる紛争などにおいて、この文書は重要文書となるであろう。
この文書の運用しだいでは、事務職員はまったくいらないか大幅削減が可能だということになろう。教授会では、「これなら職員は要らないことになる」との発言も幾つかあった。
逆にいえば、それだけ、教員負担が増え、教員は研究教育条件の悪化で、講義では学生諸君への教育内容充実を十分果たすことができず、その講義内容に反映させるべき研究も十分にできず、何年か経つうちに、「評価機構」の評価で落第教員の烙印を押され、追放される運命になろう[30]。教員、特に若い教員の皆さんは、研究教育条件の整備に誠心誠意努力するのではなく、「任期制」導入などを積極的に主張している人が誰であるか、よく耳を澄まして情報を集めた方がいい。 そしてまた、学部事務室廃止・学部担当の廃止のような事務機構「改革」(大幅改悪)で、いちばん被害を受けるのは、学生院生諸君であることもきちんと見据えておいたほうがいいだろう。
「改革」と称している以上、教員としては、これまで事務が遂行してきた学生サービスはもちろん、全学委員会と各学部の各種委員会についても、最低限、本年までの事務作業(量と質)は来年度以降もきちんと事務組織にフォローしてもらうこと、それが事務組織・事務局の本務であり責務だということを原則にしなければならないだろう[31]。合理的改革であれば、それができるはずである。それができないような無理な「機構いじり」をやったとしたら、その責任はこの政策を推進してきた事務局責任者がとらなければならない。
粗雑で傲慢な上からの押しつけ的「改革」なら、無能な人物でもできるのではないか? ヒトラーは、危機に乗じ、民主主義を破壊し、戦争を引き起こしたのではないか? 財政危機、一般に危機状態に求められるのは、慎重に各部署の声に耳を傾け、多くの人々の内発的な改革意欲をかきたて、合理的で実現可能な政策を推進する人物であり、その意味で有能な人物ではないか? 研究者・教育者としての職業的使命感にもとづいて、以上のことだけははっきりいっておかなければならない。
教務事務、各種証明書発行事務等には、遅れ馳せながら(私は七年ほど前の着任当時、すでに驚いたものである)やっとコンピューター・システムが導入されるので、本来ならば教員負担は減少するはずであり、また教務関係職員の負担も大幅に減るはずである。そのような余剰事務能力部分を、研究教育サポートにどんどん振り向け、研究教育条件をこそ改善すべきである。それが学生サービスの向上のためであり、大学の社会的責務を果たすためにいちばん重要なことである。
本学の大学としての使命は、本学学則が規定するとおりであり、そのための研究教育である。本末転倒の「教員と事務局の役割分担」、機構「改革」は、大学を破壊するものである。このままだと学生サービスの大幅な低下をもたらすであろう。無理やり学部事務室を廃止してしまおうとする以上、学部独自の大学らしいサービスの低下は避けれられない。こんな事例は他の大学にない。その批判がいずれ現実のものとなる。それを見越した上での、それを感じているがゆえの、その責任逃れのために教員に仕事を転嫁する、というのが今回の文書の基本にある。
「役割分担」なる文書に関する教授会の議論を私なりに総括すれば、このようになる。
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2003年1月8日 教員組合主催の1月30日の学習会では、講師に日教組のUPIの人を呼ぶそうで、国立大学法人化を大学人として考えるためには、独立行政法人化の危険をみる必要があるとの御指摘があった。以下その情報によれば、つぎのとおりである。
佐賀大学の豊島氏(『政府が実施を急ぐ独立法人化 大学の“独立”は逆に失われる恐れ』,週刊金曜日)2002年4月19日号,http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/kinyoubi020419.html)によれば,
『(組織としての批判勢力で最大のものは国立大学・高専の教職員組合の全国連合「全国大学高専教職員組合」(全大教)である。この組織はニュアンスの違いはあれ今日まで独法化反対を堅持している。)
一方、日教組の大学部門である「UPIセンター」の責任者は、筆者との会見で独法化に反対ではないと述べた。「大学自治を守る方策が取られるはず」との予想からだが、是非とも調査検討会議の「最終報告」を吟味し、それが根拠のあることかどうかを再検討していただきたいと思う。』と。
上記リンクページによれば、
「政府は二〇〇四年度にも,大学を国の行政組織から独立させる「独立行政法人化」を実施しようとしている。目論見通りにいくと、「独立」の言葉とは裏腹に、文部科学省の規制力が強まり、大学の廃校か存続の権限さえも大臣が握ることになる。憲法や教育基本法が保障する「学問の自由」「大学の自治」に真っ向から挑戦する制度改悪だが、反対の動きは極めて鈍い。」と。
家永三郎氏の教科書裁判ではないが、この通りだとすると、仮に国立大学法人法が通過しても、違憲訴訟問題となろう。学問・科学の発展において根本的に何が大切か、が問われる。
「独立行政法人」の違法性に関しては、阿部謹也前一橋大学学長の論文などをまとめたつぎの資料が貴重である。
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2003年1月6日 教員組合委員長倉持先生から、第4回あり方懇談会記録を掲載した組合ニュースが送られてきた。大学人が大学らしい改革を推進する上で教員組合の力と意義は大きなものとなろう。
[1] 何人かの親切な方から、理学部サーバーの定期点検であり、危惧した事情ではないとお知らせいただいた。
[2] もちろん、インターネットの武器にアクセスできない多数の人々が日本と世界にいることも、十分に注意しなければならない。インターネット・アクセスにおける階級・階層間格差・その拡大はすでにかなり前から問題になっている。世界各地で地球上のほとんどの人にわれわれと同じようなインターネット・アクセスが可能となれば、ずいぶん世界も明るくなるのではなかろうか。世界全域でのインターネットの抜本的普及(開発途上国など)に公的資金を投じることは、新の有効需要創出につながらないか? かつて郵便制度が公的投資の対象であったとすれば。
[3] これが、国公立大学よりも私学で非常勤講師依存率が高い理由はここにある。
選抜試験に通るという限定的意味での学力競争において、多様な段階があり、そのそれぞれの段階ごとに、国公立と私立大学がある、これが日本の現実だろう。国公立をごく少数のものだけに限定すれば(民営化などで私学化すれば)、国民の中にある多様で多段階な能力開発において、一八歳―二〇歳時点での学力競争だけで、多くのものを私学(ないし民営化大学)に託すことになる。私学が、国庫補助金を受けていても、学費や教員一人当りの条件で国公立よりも不利であることは、だれでも知っている。
18―20歳の大学入試時点で、日本全国に多様な大学(国立、公立、私立)があることが、裾野の広い日本全体の科学技術の発展にとっては必要ではなかろうか? インターネットが示すことは、この点でも示唆的ではないか。各地域にさまざまの大学形態が存在し、競争することが、大切ではないか?
[4] 専任教員スタッフは、大学院やゼミ、学内の各種委員など講義以外に多数の仕事があり、専任でなくてはできない仕事が一杯ある。学部事務室廃止で、教務関係を中心に来年度から非常に仕事が増えるのではないかというのがもっぱらの評価である。補充人事凍結が、学部内・大学内にさまざまのマイナス要因を蓄積し、現役教員の負担が増える(したがって本務である研究教育へのマイナス効果が蓄積する)ことは、厳然として存在する各種職務量からして、必然となる。
[5]学内に山積する専任教員の仕事はいままでより減るどころか増える。だから、正規の講義をご担当いただくのは、あくまでも緊急避難措置だ。
逆に、「地域貢献」のリカレント講座などは、まさにむしろ定年退官教授が長年の蓄積を開陳する上で、最適の場ではなかろうか。もちろん、正規の講義で、とくに1年生向けの入門講義で若い新入生に、熟達した手法で噛み砕いて薀蓄を傾けることは重要であり、それは学内の各種委員や学内行政の負担のない定年退官後の非常勤長老教授こそ最適ではないか。
今回の「部外秘資料」で語られているように、地域貢献を「本務」として位置づけようという姿勢が一部にある。いったん「本務」として位置置付ければ、立場の弱い若手の教員にもただ働き・超過労働させることが可能になる。そういう魂胆など、許されるものではない。
各種講座の「本務」化への地ならしが昨年4月から行われている。かつては何十年も市民講座やリカレント講座には勤務時間外としての最低限の適切な謝礼が支払われていた。ところが、辣腕幹部の路線で、金額的には資料代名目の3000円程度のお涙金に引き下げられた。しかもそれは研究交付金にされた。仕事=労働の対価としての謝金は廃止された。商学部ではこうした不当な措置が猛反発を呼び起こした。何人かの人は弱い立場から、あるいはその他の理由から「協力」しているようだが、いずれこれは不当労働行為として裁判沙汰にもなりうる問題である。教員組合もしっかりしなければならないだろう。
[6] 「50代以上」の教員の雇用が問題だとすると、多くの教授が特別の反対運動を展開してもよさそうだが、ご存知のように、警告を発しているのはほんの一握りの教授だけである。幹部クラスの教授のどれだけが、どこまで反対し、警告しているのか?
[7] 市立大学の定年は65歳であり、これを引き上げるという運動は一切ないし、ありえないだろう。
[8] 現在の辣腕幹部の方針がストレートに通るようでは、この点は、かなり厳しいだろう。
[9] 五〇代以上の教授の利害のためかどうか、この問題は、多くの若手教員に、しっかり考えていただきたい。
[10] 教員(人間)を商品扱いするとはものすごいことだ。人間が商品であるのは、すなわち、人間を商品として売買するのは奴隷制度である。近代資本主義では、そして現在の世界と日本も資本主義的市場社会だが、人間を商品として売買してはいない。その資本主義でも、人間の労働力を時間決めで(時給・週給・月給・年俸などとして)売買し、働くものは決められた一定労働時間のみを売っているにすぎない。民間企業などで働くものも、余暇の時間は自分の自由時間として、自分・人格を取り戻す。
近代資本主義でも、人間そのものを商品とはしていない。教員に対する高圧的で傲慢な姿勢は、このような前時代的発言にも典型的に現われている。一昨年4月以来の全問題の紛糾の根底に、このような教員を見下す根本姿勢(設置者「権限」を振りまわす態度)があったのだ。このような発言は、営利原則の民間企業の経営者といえどもしないだろう。「部外秘」とし、部内では正式資料として通用したとすれば、一体戦略会議のメンバーは、このような暴言を容認しているのか? 内部からの批判の声が聞こえないのはどうしたことか?
しかし、内部からの批判の声が聞こえないのは、ある意味では当然かもしれない。資本主義の運動法則をある程度理解し、「資本とはなにか」を考えることは、それなりの経済学研究が必要だからである。
普通の資本の理解では、労働者を奴隷のような意味での人格全体の商品をしてとらえなくても、労働者が、対象化された労働力としては、労働市場という市場で購入できる「もの」、商品として見える、というのは当然となる。
だから、「労働力は商品だ」、そこから飛躍して、「労働者は商品だ」といわれても、さらに飛躍して、公務員も民間企業の人間も同じく、「教員も商品だ」といわれても、多くの人の意識では、それに十分に批判を加えることができないということなのだろう。
ここでは、これに関連する次のような叙述を紹介しておこう。
「すでに(*)生産過程でわれわれは労働のすべての主体的な生産力が資本の生産力として現われるのを見た。一方では、価値が、すなわち生きている労働を支配する過去の労働が、資本家において人格化される。他方では、逆に、労働者が、単に対象的な労働力として、商品として、現われる。
Schon hier
sahen wir sämtliche subjektiven Produktivkräfte
der Arbeit sich als Produktivkräfte des Kapitals darstellen. Einerseits wird der Wert, die
vergangne Arbeit, die die lebendige beherrscht, im Kapitalisten personifiziert;
andrerseits erscheint umgekehrt der Arbeiter
als bloß gegenständliche Arbeitskraft,
als Ware.
(*)「すでに」とは、大月書店版『資本論』の注記によれば、第1巻の352‐353ページ(原書)である。相対的剰余剰余価値の生産、とくに協業を論じた第11章の1箇所である。
資本の論理、民間企業の私的論理を描いた当該箇所を見ておこう。
「労働者は、自分の労働力の売り手として資本家と取引しているあいだは、自分の労働力の所有者なのであり、そして、彼が売ることができるものは、ただ彼がもっているもの、彼の個人的な個別的な労働力だけである。この関係は、資本家が一つの労働力ではなく100の労働力を買うとしても、またはただ一人の労働者とではなく100人の互いに独立した労働者と契約を結ぶとしても、それによって少しも変えられるものではない。資本家は100人の労働者を協業させることなしに充用することもできる。それだから、100の独立した労働力の価値を支払うのであるが、しかし100という結合労働力の代価を支払うのではない。独立の人としては、労働者たちは個々別々の人であって、彼らは同じ資本と関係を結ぶのではあるが、お互いどうしでは関係を結ばないのである。彼らの協業は労働過程に入ってからはじめて始まるのであるが、しかし労働過程でかれらはもはや自分自身のものではなくなっている。労働過程にはいると同時に彼らは資本に合体されている。協業者としては、一つの活動有機体の手足としては、彼らはただ資本の一つの特殊な存在様式でしかない。それだからこそ、労働者が社会的労働者として発揮する生産力は、資本の生産力なのである。労働の社会的生産力は、労働者が一定の諸条件のもとにおかれさえすれば無償で発揮されるのであり、そして資本は彼らをこのような諸条件のもとにおくのである。労働の社会的生産力は資本にとってはなんの費用もかからないのだから、また他方この生産力は労働者の労働そのものが資本のものになるまでは労働者によって発揮されないのだから、この生産力は、資本が生来持っている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われるのである。」
Eigentümer
seiner Arbeitskraft ist der Arbeiter, solange er als Verkäufer derselben mit
dem Kapitalist marktet, und er kann nur verkaufen, was er besitzt, seine
individuelle, vereinzelte Arbeitskraft. Dies Verhältnis wird in keiner Weise
dadurch verändert, daß der Kapitalist 100 Arbeitskräfte statt einer kauft oder
mit 100 voneinander unabhängigen Arbeitern Kontrakte schließt statt mit einem
einzelnen. Er kann die 100 Arbeiter anwenden, ohne sie kooperieren zu lassen.
Der Kapitalist zahlt daher den Wert der 100 selbständigen Arbeitskräfte, aber
er zahlt nicht die kombinierte Arbeitskraft der Hundert. Als unabhängige
Personen sind die Arbeiter Vereinzelte, die in ein Verhältnis zu demselben
Kapital, aber nicht zueinander treten. Ihre Kooperation beginnt erst im
Arbeitsprozeß, aber im Arbeitsprozeß haben sie bereits aufgehärt, sich selbst
zu gehören. Mit dem Eintritt in denselben sind sie dem Kapital einverleibt. Als
Kooperierende, als Glieder eines werktätigen Organismus, sind sie selbst nur
eine besondre Existenzweise des Kapitals. Die
Produktivkraft, die der Arbeiter als
gesellschaftlicher Arbeiter entwickelt, ist daher Produktivkraft
des Kapitals. Die gesellschaftliche Produktivkraft der Arbeit
entwickelt sich unentgeltlich, sobald die Arbeiter unter bestimmte Bedingungen
gestellt sind, und das Kapital stellt sie unter diese Bedingungen. Weil die
gesellschaftliche Produktivkraft der Arbeit dem Kapital nichts kostet, weil sie
andrerseits nicht von dem Arbeiter entwickelt wird, bevor seine Arbeit selbst
dem Kapital gehört, erscheint sie als Produktivkraft, die das Kapital von Natur
besitzt, als seine immanente Produktivkraft.[Marx: Das Kapital, S. 493 ff.
Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3807 (vgl. MEW Bd. 23, S. 352
ff.)]
[11] 大学の基本法である学則規定(学則第11章第47条)すら知らない(あるいは学則を無視することを平然と合理化し正当化する)のがこの発言である。
評議会の審議事項(学則第11章第47条の(3))には、「予算の見積もりに関すること」が規定されている。だから、本来、むしろ、予算に関して十分に審議できるように「興味」を持つべきだというのが、学則の精神であろう。
ところが、現実には、その審議事項すら、評議会で一度も審議させないようにしてきたのが「関内」とのパイプを武器にした事務局責任者である。「大学の自治」に対する社会や市議会・「関内」(?)の憲法規定遵守の精神を逆手にとって、大学をテリトリー化し、独立王国化し、事務局責任者が大学内で一種の独裁体制を敷いてきたとすら解釈することも可能だろう。
すなわち、いみじくも今回の発言に見られるように、予算などに「興味をもつな」と陰に陽に脅かしてきた(慇懃無礼に)のが事務局責任者なのである(そして教学の執行部ともなるとそれに擦り寄ることを余儀なくされ、一部ではそれが体質化していた)。「予算などに興味をもつ」なといういい方は、学則無視、学則破壊を全面的に肯定(その意味で過去を肯定)した発言として象徴的な文句である。「興味」などという表現をみると、あまりのひどさに頭がくらくらする。
「教授会がごちゃごちゃいうな」と脅かし、事務局責任者に従順な教員を多数作りだしてきた。従順な教員を表面上奉り(実質支配し)、味方にし、教員に考えさせない、発言させないシステムを構築してきた。事務局との関係はいいが、「考えない教員」が威張っていた。商学部のなかなどできちんとした発言をするものがいると「商学部はおかしい」、「商学部は変わっている」と変わり者扱いし、「何でも反対の商学部」と議論封殺に力を注いできた。その一つの結果が今日の状態である。
体験を挙げよう。私が着任してよく事情を知らないとき、アーバンカレッジ移転問題が起きた。そのとき商学部や理学部の数人の教員と「これはおかしい」と事務局責任者に会いにいったら、会合の場所に私一人が先につき、他の在籍年数の多い中心的問題提起者の教員が来ないときに、応対したある事務局責任者(当時、施設関係か何かの部長)が、「またおかしいことをいって騒いでいますか」といった。唖然とした。歴代の事務局責任者の商学部教員(問題提起する教員)のとらえかたは、これが象徴しているだろう。
それでは、商学部がなぜつねに異議申立てが可能であり、不利益があるにもかかわらず、その点で目だったのか? それは、これまで何回か財務分析を紹介して証明したように、基本的には黒字学部だからだ。
商学部は財政的に実質的な自立性がある。その意味は何か? 多額の機械や設備を必要としない。予算獲得のために理不尽な事務局責任者に頭を下げなくても済む。だから商学部の大学予算に占める割合は傾向的に低下し(まさに意地悪されたのだ)、若手教員を中心に毎年悲鳴を上げてきたが、それでも何とかやってきた(こられた?)、マイノリティとはいえ異議申立ての人々がいたということである。
商学部以外の学部・研究所は、その点、きわめて弱い立場に置かれている。「意地悪されて予算が削られたら、すぐに実験できなくなる」、「ちょっと臍を曲げられて、研究奨励金をもらえなくなるのは困る」といった類のことは、多くの教員に染み込んだ観念だ。予算を握るものに節を屈しているうちに、それが人によっては体質化する。
商学部以外の各学部・研究所・医学部に対する事務局責任者の態度の大きさがどの程度のものかは、今回の部外秘資料が端的に示している。
教授会自治を眼の敵にした発言がいくつもあるが、実際には、このように予算を握られてしまって本質的な教授会の自治などは長年の間に極小化してきたというべきである。経済的自立と精神的自立との相互関係の法則は、ここにも貫徹していると見るべきだろう。責任をとりようにも責任をとるようにさせてこないので、ごくわずかの範囲で「自治」を主張できたにすぎない。そのわずかの部分が「カリキュラム」や「人事」だ。今後はそれすらも完全に奪おう、とうのが「現在の人事制度を全面否定」する発言だ。ある人によれば、一昨年の非常勤カットの成功が、現在の猛烈な路線の突破口になったと。
そしてその後、商学部定年退官教員ポストの凍結が示すように、先行的にそれを断行している。たまたま「落下傘」でやって来た事務局責任者が理解できる範囲で、その人物が理解出きる理由づけ(最近よく使われるのが「地域貢献」)である場合のみ、関内にその人事案件を通す、というのである。行政文書として公開請求し、教授昇任や新任採用人の理由説明書(起案書)を見てみるといい。一昨年からの人事案件で「地域貢献」が非常に多いことがわかるだろう。無理やりそうさせているのである。学問の自由、カリキュラム編成の自由はこうしてゆがめられてきているのである。行政措置として「地域貢献」を強制するシステムが作られつつあるのである。大学教員が内外の事情を民主的に議論して積み上げた内発的な結果ではないのである。「地域貢献」の深い意味合いの大学人らしい議論や自覚なしの行政措置、魂の抜けた措置が積み重ねられているのである。
だから、ここでも大学の自治、教授会の自治はすでにそうとうに抑えこまれているのである。これまでの「教授会の自治」は、すでに半身不随になってしまった教授会の自治であり、その半身不随化した責任の重大な一端を担う部署のものが、自ら作り出した不具状態をさらに一歩推し進め、破壊しつくそうとしているのである。半身不具化し、満身創痍になった「教授会の自治」、「大学の自治」がすばらしいものではありえない。それをあざ笑いながら、それに最後の留めをさす意味合いを持つのが、一昨年らいの一連の発言であろう。だれにでもある単なる感情的発作的な一言の失言とはいえないだろう。
[12] この戦略会議で出された諸論点のうち、戦略会議という場で、今後の改革に生かすべき点をどこまできちんとより分けることができるか、これが最後の問題だろう。その選び方と定式化のあり方こそが、戦略会議の性格を最終的に内外に示すものとなろう。
[13] したがって教授会議事録・資料の公開原則(保護すべき個人情報を除く一般情報の公開原則)からすれば必然的に情報公開の対象となるものだが、それにもかかわらず、「学内資料・部外秘」が付されたまま、配布された。教授会配布の時点で問題になったのは、総合理学研究科の会議だけのようである。
[14] なぜ、これら文書が「学内資料・部外秘」という極秘扱になったのか、読者は検証が可能である。本文で指摘しているように、発言の主体が不明確なままになっていることは、発言責任の所在を曖昧にしているという根本問題があることが理解できよう。
[15] 佐藤真彦教授のドキュメント公開は、先生の自主独立の判断、勇気ある行動によるものであり、公式に公開されたものでないということをよく考えていただきたい。そのなぜかを。
[16] 大学の現状と将来を憂える本学教員OBの方から、御自分の氏名を明記されて、励ましのメールをいただいた。大変うれしい。「『大学問題日誌』,ヒヤヒヤしながらも,大きな関心を持って読ませて戴いています。先生のお考えには同感することが多」いとしてただき、元気が出てくる。徒労ではないのだ、と。「ヒヤヒヤ」されている点に関しては、言いすぎのことを感じておられるのであろう、言いすぎについてはどうか御教示いただきたい。
また、「同感することが多い」というお言葉の反面には、私の主張に無理な点、同感できない点もあるということで、学内の読者もそうであろう。それはごく当然のことで、それはそれで議論していくべきことだと考える。どうか、色々とご批判ご教示いただきたいとここでお願いしておきたい。問題の所在を的確に、正確に描くことこそ大切だから。
と同時にOBの方は言う。「他の先生方の声が余り聞こえて来ないのはいささか不安で,他の多くの先生方に,もっとしっかりして欲しいと願わずにはいられません」と。市大OB教員が現在の大学に大きな関心を持っておられることを、現役の諸先生にお伝えしておきたい。
さらにこのOBの先生は、「さて,昨夜眠る前に,『将来構想委員会の中間報告』を読みました。短期間でこれだけのものを纏め上げた精力的な活動に感心致しましたが,「あり方懇」に振り回されている印象は拭えず,内容は「当面対策委員会の中間報告」という感じで,正直,情けなくなりました」と。
さらにまた、「文理学部が改組されてまだ10年しか経っていないのに,「あり方懇」で一寸意見が出されたからと言って,中間報告に書かれたような案がすぐ出て来るところに,理念の無さが読み取れ,哲学教育が必要なのは学生だけではない,という気が致します」と。
このメールをくださった市大OBの先生をはじめ、みなさまには、戦略会議でどのような議論が展開されているのか、総合理学研究科・佐藤真彦先生が入手され、本日、公開に踏みきられた「部外秘文書1」、「部外秘文書2」、および佐藤先生ご自身の批判的評論を読んでいただきたい(いずれにも、本文でリンクを張った)。
私にメールをくださったOBの先生は、私のHP記述からは部外秘とした理由が不明だとし、「内容は知る由もないですが,言葉上だけで判断すると,戦略を相手に知らせる馬鹿は居ないので,そのこと自体は不思議には思わないのですが,『大学改革の内容』が戦略会議で議論されるべきことかどうかが,むしろ大きな問題の様に思えます」と。
最後のところが根本的問題である。ともあれ、しかし、じつは部外秘とした理由が、「戦略を相手に知らせる」ことを避けるためではなかったことだけは、佐藤真彦先生公開の文書から、明確になると思われる。
根本問題というのは、大学の学部学科などの増設・改廃が、そのときどきの「落下傘」事務局責任者によってどうにでもなる、という側面であろう。今回のひどさはその極端な場合ではなかろうか? 現在、推進されようとしている「公立大学法人化」の内容しだいでは、そしてこれに対する大学人の力量と意識水準次第では、もっと露骨に、ひどいものになるということである。10年経たないうちにどうにでもなる改革が次々と出てくるということである。それに大学人は振りまわされ、消耗してしまうということである。
[17] 親しい人が、私や矢吹先生のHPに対する非難・批判・中傷などが色々と非公然の形で流されていると教えてくれた。「読めば、かりかりして、血圧が上がります、読まないほうがいいでしょう」と親切に助言してくれた。こうしたHPで公然とした議論をしている以上、一部(?)の人の反感を買い、非難・中傷と批判の的になるのも仕方ないことであろう。
わたしについていえば、浅学非才の身であり、非難の多くはもしかしたら当っているのかもしれない。しかし、大学「改革」の公然たる問題に関して、やむにやまれない自分の意見を日誌にまとめることだけでも相当の時間を取られる。したがって、大学問題に関してであれ、学問上のことであれ、そうした非公式かつ隠然の、匿名での非難・批判・誹謗中傷にいちいち気をとられる時間的精神的余裕はない。その必要もないと考えている。本務である研究教育、学問に限定しても自分の使える時間はきわめて限られている、というのが正直なところである。この関連で私を叱咤し、あるいは勇気付け、さらに背筋を正させてくれる言葉を思い出した。それは、マルクスの次ぎの言葉である。
「およそ科学的批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。私がかつて譲歩したことのない世論と称するものの先入見に対しては、あの偉大なフィレンツェ人の標語が、つねに変わることなく私のそれでもある。
汝の道をゆけ、そして人にはその言うにまかせよ!(ダンテ『神曲』「浄火」篇、第五曲より)」と。(『資本論』第一巻第一版、序文・末尾)
Jedes Urteil wissenschaftlicher Kritik
ist mir willkommen.
Gegenüber den Vorurteilen der sog. öffentlichen Meinung, der ich nie
Konzessionen gemacht habe, gilt mir nach wie vor der Wahlspruch des großen Florentiners:
Segui il tuo corso, e lascia dir le
genti!
London, 25. Juli 1867 Karl Marx[Marx: Das Kapital,
S. 11 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3325 (vgl. MEW Bd. 23,
S. 17 ff.)]
私の主張や議論が検討に値するものではなく、その意味でまったく真実や真理に程遠く、また批判が正鵠を射ていなければ、だれも耳を傾けず、読む人を納得させないだけであり、私がたんに無駄なこと、ばかげたことをしているに留まる。かけがえのない人生の大切な一瞬をそのような無駄なことに使っているとすれば、それは私の自業自得である。読むのが無駄だ、必要ない、何の価値ある情報もないと思えば、人はわざわざ人生の貴重な時間を費やしてまで読まないだろう。何人かの人に誹謗・中傷・批判させるだけの何かの問題提起があるのだろうと、自ら慰めよう。
ただ私は、陰でひそひそ言うより、こうして自分の主張・議論を公開し、批判を受ける覚悟でやっている。と同時に、もちろん、私の提起した論点が何か建設的な議論の素材(反面教師としてでも)になることを期待している。
私の学問的研究対象である第三帝国では、ヒトラーやナチスにたいする民衆の批判(戦争反対、戦局に対する悲観論など)は、ひそひそ話や非公然の形でしか出なかった。権力が批判を許さず、批判を武力(警察力)で抑えこんでいる以上、当然である。
講義における単位認定権など大学教員である私の立場に対するとき、たしかに学生諸君は弱い立場にある。その意味では非公然の陰での「つぶやき発言」にならざるを得ないのかもしれない。成績評価のし方について一言しておけば、ミニテスト、講義時間中の質疑応答、2回の定期試験など何重かの手段を総合して、学生諸君の努力と理解度の評価という点でできるだけ客観的で公正妥当なものにしたいと努めている。講義に関しても、自分の最新の研究上の到達点を踏まえて、できるだけ歴史の大局を把握してもらうように努力している。その努力を続けるしかない。
[18] 責任ある発言=責任ある議事録ならば発言者の氏名を書くはずだが、それは推測にまかせている。だが、テープがきちんと残っているであろう。それにしても、これほどの無責任な暴論は「部外秘」にしなければならなかったということか。あるいは、取り上げる必要もない、というべきか、だからこそ「部外秘」にしたのかもしれないが。いやはや恐るべきものである。
大学戦略会議は、「部外秘」にしなければならないような発言をする場なのだろうか? 教学と経営の分離、経営責任、そして経営者を僭称する人間が大学教員を商品だと豪語し、これほどのことを発言できるとすれば、そして、それを大学人がきちんと阻止できないとすれば(大学教員からのきちんとした反論が部外秘資料には一言も記載されていないといっていいであろう、一方的にいわれるまま、という会議の現場が浮かび上がる)、大学の将来は暗い。
[19] 「累積赤字」とされる巨額の設備投資などは、新聞報道から明らかなように、医学部付属病院(福浦)204億円と医学部付属市民医療センター(浦舟)617億円にかかるものである。センセーショナルに打ち出したタイトルの中身は、医学部付属病院のための投資に関わるものなのだ。
しかし、これこそは市民の健康、市民の生命、市民医療にかかわるものとして、直接の市民への還元が可能であり、そのような市民への直接的還元が市民から支持され期待されての巨額の投資であったはずである。歴代の市長はそれを提案し、歴代の市議会・議員はそれを承認してきたのではないのか? 非効率的な部分があるとすれば、なぜこれまで発見できなかったのか?これまでの市長や議会の責任はどうなるか?
市民医療の向上(その実績)こそは、市民が最もよく理解できる公的投資理由であったし、現在もそうなのではないか? 公共投資でしかなしえない先端的な高度医療の研究教育、そして医療行為を行っているのではないのか?
そのような実績がないのに投資したのか?
日本社会全体の問題(長期不況・経済恐慌)が横浜にも押し寄せたからといって、大学経営の問題(「赤字」?)の直接的原因でないものを、非難攻撃の生け贄として持ち出すのは、学者としての議論ではないだろう。ヒトラーは世界恐慌や諸悪の根源を「ユダヤ人」に還元したが、現在の議論の中にそのような非科学的なトンでもない議論の展開がないことを望む。
医学部の研究と教育がこの巨額の投資に応えるものでないとすれば、それはデータによって立証されなければならないだろう。
さらに、そのような巨額の投資とはまったく関係のない商学部、いやこの数十年、特別の投資を受けなかった商学部、むしろ黒字でさえあるだろう商学部を含めて、「廃校」を口にするなど、正気の沙汰ではない。
それでは、帰属収入との関係で「赤字」の学部(理学部と国際文化学部)や研究所(木原や鶴見)を槍玉に挙げるべきか? それも問題だ。
それらの設置・創設と維持のために、毎年きちんと予算折衝で存在意義を説明してきたのではないのか? よく考えてみる必要がある。
これまで積み重ねられた予算折衝での説明理由はどうしたのか?
事務局作成の毎年の予算関係文書・予算説明内容を洗いなおしてみたか? 大学教員、評議会などが知らない文書にどのように書いてあったのか? どのように市長、市議会の理解を得ていたのか? その説明根拠はどうなったのか?
「落下傘部隊」としてやってきた幹部が、まったく前任者のやったこと、歴史的文書を勉強しないで、単純な個別現象だけを引っ張り出して、大学人を攻撃するということになっていはしないか。
[20] 超低金利の時代なのだから、巨額の負債を低利の資金に借りかえるべきではないか?高利の借金を早期返済し、低利資金を借り入れるべきではないか? というか、それがどしどしやられていることが銀行の苦しさに拍車をかけているか?
医学部付属病院などには、本当に必要なことが証明されれば、超低金利の時代にこそ、新規の巨額の長期投資をしておくべきではないか? 長期的にみて重要な貢献をする大学や学校教育などという将来性のある非効率的な部門こそ、超低金利の時代に大々的に施設などを改築、建設、設備投資(高度な機械設備の導入など)しておくべきではないか? それが、「米百票」の基本精神ではないか? 超低金利と非効率性部門への投資とは合致するのではないか?
民間営利企業が資金を借りるほどの投資チャンスがないとすれば、そして巨額の余剰資金を蓄積してきたために需給バランスの関係で前代未聞の超低金利になっているとすれば、今こそ日本の公的部門が真の意味で何十年もの、あるいは世紀的世界的な意義と重要性を持つ本物の研究教育部門、医療部門などに、どんどん投資すべきではないか? そのチャンスではないか? 真の有効需要こそ、創造すべきではないか? 超低金利=膨大な余剰資金蓄積は、それを可能にするのではないか? 高度医療機械をはじめとする高度科学技術の生産物こそは、大量生産に不向きであり、したがって大学院博士修了者クラス以上の多数の高度なエンジニア・技術者を投入した高度付加価値の生産物・製品ではないか? 高い「物価」とは、まさに最先端の高度な科学技術の精密な製品のことではないか? それは、日本こそが開発すべきではないか?大学など、これまで買いたくても買えなかった高度な機械・研究設備などはないのか?
あまりにも医学部付属病院「巨額赤字」の攻撃がなされる反発として、一言付言しておきたい。
[21] 「あり方懇談会」に学内(?)担当部局が提出したデータにも種々問題があることが指摘されている。「これが身内のやることか」と。多分、「身内」ではないのだろう。この担当部局は大学内に置かれてはいるが、大学の上ないし外に立つ「設置者」意識から、大学の上ないし外にいるという意識なのであろう。
一例を挙げよう。ある医学部関係者が激怒しているところによれば、「あり方懇談会」資料として提出した医師国家試験合格者データに関して、最近十年でいちばん悪い年を選んでいる。4位とか5位とか、6位といった、最近十年間で全国医学部のトップクラスの合格率だった年度に関するデータは注記もしていない、ということなど。彼はそのほかにもいくつものでたらめを発見していた。われわれ外部のものにはわからないことだが、関係者にはすぐにわかるようである。いずれ、問題化されるだろう。
他方で、横浜市立大学の伝統と実績からして、はたしてこれでよいかという部分がありうることは事実でもあろう。その発生原因はなにか?
社会の厳しい目を十分に踏まえた内部の自主的な改革意欲が必要だろう。しかし、たとえば、「教授枠」などという形式的な、しかも法律解釈を誤った発想が長年定着してきたという問題もあろう。優秀なものがどんどん業績を出しても、昇格は「教授枠」で縛られ、あえて無理をすれば他人を蹴落とすことになるので、全体として意気消沈し、意気阻喪するという問題である。
先日の教授会で教授昇進規準が議論されたとき、新しい提案に対し、一方では「これはだいたい従来通りだ、規則・規準を変えるにはそれなりの移行期間・準備時間が必要だ」という評価があった。他方で、もっともっと競争原理を導入すべきだという論者もいた。その立場からするノーベル賞との比較論(若くしてすぐれた研究業績を出しうる可能性を主張。昇格における一律の年齢、勤務年数規準への疑問)を提起する議論に対しては、「それを持ち出して議論しても意味がない」という主張もあった。
逆に、「もしかしたら、あまりにも甘い基準を議論しているのではないか」などという意見も出された。「規準」をめぐっては、外国の話としてじつにばかばかしい事例も紹介されたが、われわれ自らを振りかえる必要があろう。
このような社会の荒波についての公然たる議論を通じてこそ、世の中の嵐の内部化・内在的超克、それを一つの契機とする内部規律の向上、内発的努力の積み重ねが行われるであろう。そのような積極的な内発的な内部努力として、本学では、「教員プロフィール」のページを公開している。教員全員の研究・教育・社会活動を全国的に公開したものとして、先進的な試みだと思う。橋爪座長の発言と照らし合わせて、その発言の当否を社会の人々が検証することが可能であろう。
[22] 最近の事例では、連携大学院の建設のための鶴見キャンパスへの投資は、大学外部の諸機関で決められ、最後の段階になって、大学に承認を求める、という形である。膨大な赤字というが、その一つ一つの発生根拠を洗いなおす必要がある。そうした源泉を点検することなく、「大学」維持のための市財政負担の大きさだけを声高に主張するのは、いかがなものか。多くの健全な市民は、大学の財政構造を、随さんの分析で辿ってみて欲しい。
[23] 今までながきに渡って、「経営」の事など考えたことのない教員・大学人が圧倒的多数を占める以上、独立的経営の方向性への歩みは、時間をかけて行うしかない。単純な民間経営者の大学経営への導入は、関西地方の高校で発生している問題のように、研究教育の自由を破壊ないし阻害し、研究教育の場に大変な混乱をもたらすだろう。一昨年以来の本学の「改革」にもその徴候が見られる。
[24] 「科学は、産業に役立つ科学技術ばかりもてはやされている。そんな研究は、国が手を出さなくても企業がやる。基礎科学は、国として面倒をみてやるべき。そうでないと決して育たない。しかも、景気・不景気に関係なく、10年、20年という長い目で見て、援助するべきだ」田賀井篤平編『小柴昌俊先生ノーベル賞受賞記念 ニュートリノ』東京大学総合研究博物館、東京大学出版会、2003年、115ページ。
[25] この最も重要な出発点をわすれ、これまでの微弱な大学の自主独立性を守ってきた諸制度(教育公務員特例法、その他の大学の自治を守る諸法律)を破壊してしまう危険をもつのが、「国立大学法人」法案ではないか?
[26] ただし、現在進められようとしている「独立行政法人化」は、民間の利潤動機などが直接的に大学に反映するようなシステムを創出しようとしている。これまた、実に近視眼的なシステム転換ではないか? 世界の中でこんなことをするのは、日本だけではないか? そのことを文部省の役人自身が少し前に調査して言っていたのではないか。大学の設置形態と管理・財務に関する国際比較研究
[27] すべてを真正面から受けとめれば発狂してもおかしくない。過労死してもおかしくない。着任以前のことだが、商学部では何人も「過労死がいる」と聞かされている。医学部の事例と違って、商学部元同僚の家族は訴えてはいないようである。「過労死」しないためには、大学人が有機的に連携し、分業と協業をできるだけ合理的に構築し.適切な改革テンポもで進めるしかないだろう。
[28] ある方から、この点をもっと詳しく説明すべきだという電話でのコメントをいただいたが、今後に期したい。その方に、匿名でもいいので、できれば、学生サービス劣悪化の問題をまとめてくださるようにお願いしておいた。
[29] 今回のようなやり方は、不当労働行為にも当る可能性がある。評議会や教員組合はしっかりと考える必要があろう。
[30] 一昨年4月以来の「設置者権限」を振りまわす事務局責任者の一連の言動をつなぎ合わせて論理的に再構成すると、そしてこの間のやり方を見てくると、このような将来が見えてくる。
[31] 一応の予定では、来年度入試委員長になることになっているが、今年度と同じような事務サポートがない限り、商学部入試体制は危機に瀕し、入試の安全は危うくなり、過労による諸問題が発生することを阻止し得ないだろうといわざるを得ない。
「できないものはできない」、法的な問題としても「責任をとれない条件では責任がとれない」のだという教授会発言は、きちんと記録に留めておくべきだろう。