大学問題日誌 2003年3月後半
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2003年3月29日 新聞報道でちらっと見た少女の反イラク戦争の発言が、「市民の会」の「ご意見箱」で商学部・平教授により詳しく紹介されていた。新聞報道と英文オリジナルに目を通し、感激した。ここにもコピーして、紹介しておこう。
----インターネットと戦争・廃校反対運動(3月28日)------
今日は、明29日の駅頭宣伝やシンポジウムを控えての「嵐の前の静けさ」か?投稿が大変少ないので、「景気付け」にやや広く、上のタイトルで「情報提供」を1ついたします。
思えば、昨年6月に総務部長に促された学長が、突然に退職教員の「後任人事凍結」を宣言したのを契機に、中国経済論の矢吹晋先生がその反対運動をご自分のホームページ上で始められてから、私もそれに熱心にご協力してきて、10ヵ月後にはとうとう「市民の会」のホームページやこのBBSにまで発展したことは大変うれしいことです。いうまでもなく、市大廃校反対運動は、ホームページやメールというインターネットの手段を、結集する皆さんが駆使したために、「橋爪私案」発表からわずか2ヵ月余りでこれだけ高揚し、現代日本の教育・大学関係の市民のNPO運動としては特筆すべき存在になったと自負しています(それだけ、全国的にも市大に対して横浜市当局が仕かけた攻撃がものすごかったのです)。
この点では、イラク戦争が始まってからこの1週間、戦争の惨状と表裏の世界中の反戦運動のいっそうの高揚も、インターネットの威力によるものであることはいうまでもなく、「権力の横暴」と同じく闘うわれわれの運動と時代的な共通性があると、歴史家の端くれとして私は思っています。そこで、私も公務が一段落したので、2〜3日前の夜に、東京都心でのある反戦集会とデモ(今やパレードという)に25年ぶりくらいに個人で参加して、今回は初めて反戦のシュプレヒコールを思う存分、叫んできました。
そこでも、独自の高校生デモを組織した女子高生の体験談のアピールが、勤め帰りの私も含めたおじさん、おばさんに大変受けていたように、今や小学生まで反戦の意思を表明するという、ベトナム反戦運動を知る世代にも驚くべき「新時代」を迎えたのです。この点で、連帯のあいさつをした神奈川県選出のある女性の国会議員が、「13歳のアメリカ人少女の反戦スピーチ」の話題に少し触れていました。これがいま世界中で大きな反響を、インターネットを通じてまき起こしているということで、偶然、私も今日、朝日新聞のネット版で昨27日掲載の詳しい記事http://www2.asahi.com/special/iraqattack/TKY200303270226.htmlとスピーチの日本語訳http://www2.asahi.com/special/iraqattack/TKY200303270225.htmlを見つけました。
そこには、シャーロット・アルデブロン(Charlotte Aldebron)というアメリカ合衆国の本土最北端メイン州に住む少女に反響のメールが続々と寄せられている、と出ています。ところが、肝心のアドレス aldebron@ainop.com が載っていなかったので、ぜひ知りたいと思って検索していったら、すぐ見つかるとともに、スピーチの英語原文を載せている海外のホームページhttp://www.wiretapmag.org/story.html?StoryID=15291も発見しました。
評判通り、とても感動的なスピーチですからぜひアクセスしてご覧になって、お子さんのいる方は日本語で、学生・生徒の教育に当たる方は英語ででも、新学期を機会に紹介してあげてください。また、お知り合いに転送していただくとともに、簡単な英語、単語の羅列でも彼女にメールを出してあげれば、反戦の輪が広がると思います。私も、アメリカ合衆国とその国民に関する歴史的な研究を最近していますが、特に昨今はブッシュのような偏狭な人も多いですが、この少女のような良心的な人も少なくないという、大変ふところが深い国で興味が尽きません。
それでは、明日の市大廃校反対の取組みでお会いしましょう。
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2003年3月28日午後 独立行政法人、国立大学法人における「中期目標」の位置づけは、命令だという下記のような解釈ないし批判もある。
国際文化学部の決議に関して、「中期目標」の検討を評議会できちんと行なうことは大切だとしたが、もしも、独立行政法人法を前提にした「中期目標」だと、内実は、大学を破壊するものになりかねない。その点、改めて、佐藤真彦先生御紹介の文書を読んで感じたので、自分のHPにも同文書をコピーしておきたい。
いずれにしろ、「法人化」や「中期目標」に関して、相当慎重な検討が必要なことだけは、確認しておく必要があろう。
大学の教育・研究を文科省の「許認可事項」にしてはならない
― 国立大学法人法案についての見解 ―
pdfファイル
国立大学独法化阻止全国ネットワーク
事務局長 豊島
耕一
世話人 白井 浩子
辻下 徹
野田 隆三郎
橋本 修輔
政府は去る2月28日の閣議で,国立大学を「独立行政法人」(行法化と略)に変えるための国立大学法人法案を閣議決定した.これは,独立行政法人との違いは名称のみに過ぎず,むしろ,学長への過剰な権限集中など,その有害さはより重大である.すなわち,97年の文部大臣の次の指摘はそのままこの法案により一層当てはまるものとなっている.
「文部大臣が3〜5年の目標を提示し,大学がこれに基づき教育研究計画を作成,実施する仕組み,及び計画終了後に,業務継続の必要性,設置形態の在り方の見直しが制度化される仕組みは,大学の自主的な教育研究活動を阻害し,教育研究水準の大幅な低下を招き,大学の活性化とは結びつくものではない」
文部科学省は,なぜこのわずか数年前の自らの見解に反する法案を提出したのか,この見解は誤りであったのか,今日に至るまで何らの説明もしていない.いやしくも教育・文化に関わる官庁がこのように「説明責任」を全く無視した態度をとるのであれば,その存在の意味さえ疑われるであろう.同様の批判は,今でも「独立行政法人通則法に基づく法人化に反対」のはずにも関わらず行法化を推進している国大協にも当てはまる.
行法化とは,政府自身の説明[1]によると,行政機関を企画部門と実施部門に分離し,前者を中央官庁に移し,後者だけを「独立」させるというものである.この制度における「中期目標」とはその「企画部門」による「立案」に相当する.このように,政府によってその目標を決められるような団体が独立した法人格を持つなどとは到底言えないであろう.またそもそも大学は行政機関ではない.このような制度を大学に当てはめることは,単に不適切というだけでなく,教育への「不当な支配」を禁止した教育基本法10条や「学問の自由」とそのための「大学の自治」を認めた憲法23条に違反する.
「国立大学法人」制度,すなわち独立行政法人制度における「中期目標」とは要するに「官」すなわち文科省による大学への命令である.それを命令として有効たらしめるのは,その法的強制力はもちろん,政府による達成度評価で予算がコントロールされることであり,さらには大臣による廃校に関する権限[2]である.またこれは,大学が作成を義務づけられる「中期計画」の文部科学大臣による認可制によって細部まで徹底される.しかも後者に関しては罰則まで用意されているのである[3].このような「官」から「学」への命令制度は戦前の日本にも存在しなかったものである.
「中期目標」として挙げられている項目の第一には「教育研究の質の向上に関する事項」が挙げられているが,これを「教育研究の内容」と区別することは困難である.したがって大学にまで「教科書検定」や「学習指導要領」が押しつけられても不思議ではない.このような危険な制度が憲法23条に違反することはあまりにも明白であろう.
教育基本法10条に違反するという事実も見逃してはならない.この条文の前段は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と規定している.「不当な支配」が何を意味するかについては,これを制定した第九二回帝国議会における辻田文部事務官の答弁が参考になる.それによると,「従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的干渉と申しますか、容喙と申しますかによって教育の内容が随分ゆがめられた」ことを排するため,「教育権の独立・・・の精神を表した」ものであると述べている[4].文部科学省から大学への命令制度は官僚支配そのものであり,10条違反はあまりにも明かである.
たしかに国立大学に対する官僚支配は従来もあったが,その多くは法的根拠がないだけでなく,教育基本法10条や旧文部省設置法6条2項に反する違法なものであった.「国立大学法人法」はこの支配に法的根拠を与えるものである.
「学問の自由」に対するもう一つの脅威は,この法案が職員の雇用形態を「非公務員型」としていることである.これは,単に雇用の不安定化を意味するだけではなく,国立大学の教員が教育公務員特例法による保護を失うことを意味する.この法律は,国公立大学に属する教員の人事への,行政も含む外部権力の介入の余地をなくすことで,学問の自由を守っている.この法律の適用対象は国公立学校であるが,実質的には私立学校における雇員の労使関係にも影響を与えている.「非公務員化」は大学におけるこの法律の対象の大半が消滅することを意味し,国立大学教員の権利の問題にとどまらず,この法律そのものの空洞化につながる恐れがある.また,事務職員にとっても,公務員としての地位を正当な理由もなく奪われることは到底受け入れられないことであろう.
憲法23条が間接的に保障する「大学の自治」は,管理運営部門への学外者の大量導入と,学長独裁制とも言うべき学長への権限集中によっても破壊される.学長の権限は,「法人」と「大学」両者の長を学長が兼ね,またそれらの管理部門の任命権をほとんど独占することでグロテスクなまでに肥大化している.これと比べられるのは独裁国家の政治システムか,あるいはカルト教団における支配構造だけであろう.また学長への異様な権限集中は,法案第二条によって「法人」と「大学」が言葉の上では分離されているにも関わらず,事実上これらが一体化されていることをも意味する.
この「法人」と「大学」の,つまり経営と教学の形式上の分離と事実上の一体化により二つの問題が生じる.一つは,大学の設置者を「法人」としたことは国の財政責任の放棄を意味する点である.これは,高等教育において「諸条件の整備確立」の義務を抛棄する点で,すでに述べたのとは別に意味で教育基本法10条に背くものと言えよう.授業料の値上げは必至であろう.二つには既存の「学校法人」の制度への悪影響がある.法人制度の長い歴史を持つ私立学校においては,経営と教学とが原則的に分離され,それによって恣意的,独裁的な学校経営を防止する制度と文化が創られているが,これらの事実上の一体化はこれを蝕むものと言わなければならない.
法案における「法人」と「大学」の関係の混沌ぶりは,22条の「業務の範囲」にも表れている.その第3項に「当該国立大学法人以外の者と連携して教育研究活動を行うこと」とある.大学すなわち「学校」ではなく「法人」自身による研究教育活動を可能にした狙いは何であろうか.あるいはこれは「混沌」ではなく,営利目的の教育研究活動を展開する「大学株式会社」への道を示したものであろうか.
「法人」と「大学」の一体化の重大で実質的な悪影響は,教育研究評議会において顕在化する.この機関は,名称からも審議内容からも実質的には「教学」に,つまり「大学」に属するべきものと考えられるが,これを規定する21条は「国立大学法人に(中略)教育研究評議会を置く」とあり,「法人」に属するものとなっている.このため教育研究活動についても,「大学」よりも「法人」で行われるものが優先されることになろう.何れにせよ「大学」に代わって「法人」は「高等教育機関」の役割を果しはじめるのであるが,しかし「高等教育機関」に本来求められる重要な役割は果たせないであろう.
実際,例えばユネスコの高等教育世界宣言[5]が求めるような社会的発言をこの機関やメンバーが行ったとすれば,役員は最高20万円の罰金を払わなければならないだろう.なぜならこれは法人の「業務リスト」にはないからである.因みにユネスコの宣言二条b項には次のように書かれている.
「高等教育機関およびその職員と学生は」「社会が必要とするある種の学術的権威を行使することによって、倫理的、文化的および社会的問題について完全に独立に、そしてその責任を十分に自覚して発言する機会を与えられ」るべきである.
また,この機関に与えられる「重要事項」の審議権と,学校教育法で規定された教授会が持つ同じ権限との間の優劣関係も不明である.もし新しい法律が優位とされれば,良かれ悪しかれこれまで「大学自治」の中心となってきた存在が失われることになる.
上に見たように行法化が現行法体系に基本的に反するということ,そして「学校法人」制度の慣行を破壊するものでものであることは,この制度の致命的な欠陥である.同時にこれは国立大学の研究活動そのものにも破壊的な影響を与える.そしてこのことはすでに多くの国立大学関係者によって指摘されている[6].
すなわち,文部科学省による命令制度と,政府がレフェリーとなる大学間,教員間の「競争」,それに大量の学外者の決定への関与によって,大学は国家と産業界のための道具とされる.そして,わが国の産業のグローバルな市場での競争のための知的資源として動員され,大学の自主性はおろそかにされるであろう.大学の知的活動が経済や産業に寄与することを期待されるのは当然であるが,大学の中心的な使命とのバランスを欠いた「動員」とも言うべき政策は,学問の均衡の取れた発展を妨げ,また大学独自の価値と文化を破壊しかねない.「法人」自身による独自の教育研究活動の展開を可能にした22条は,「大学」側の教育と研究を痩せ細らせ,それを「法人」側に振り向けることで,この「動員」の重要な梃子となるかも知れない.
この他にも,学長の任命権だけでなく解任権までも文部科学大臣が握ること,諸合議体に与えられた封建的,時代錯誤的な枠組みなど,その官僚的な醜悪さは枚挙にいとまがない.また,学長・監事の文部科学省による任命制と「役員」職の大量発生が多くの「天下り」を生み,政府の言う「行革」にも反する結果を招くことは,先行の独立行政法人の経験からも明かである.
このような「国立大学法人法」は廃案にすべきであり,いかなる修正によっても「改革」に価するものにはなりえない.上に述べたように,この制度は教育基本法10条を空文化するものであるため,もし成立するようなことがあれば,政府が目論む教育基本法「改正」の露払いとなるであろう.決して大学だけの問題にはとどまらないのである.
大学において改革すべきものはさしあたってその「制度」にあるのではない.制度改革は書類と会議を量産するのみで,文部科学省という,書類がないと仕事にならない役所のための「公共事業」に過ぎない.このことは,90年代の「大学改革」がもたらした大学全体の広汎な荒廃によってすでに証明されている.
本当に改革すべき問題は「ソフト」にある.文部科学省のいかなる審議会も「学生参加」について述べることはない.また,権力者や著名人ではない,普通の市民の大学への発言権について語られることもない.しかしこれらのことにこそ現在の大学がかかえる問題を解決する鍵があると思われる.
国立大学の関係者の方々は,「中期目標」の検討などこれまでの行法化を仮定した「相対的」な活動は活動として,法案提出という此の期に臨んでは,この法案についての当事者としての「絶対評価」を正直に述べていただきたい.それは国民と国会の正確な判断のためには不可欠であろう.特に,著名な研究者の方々は,その名声に伴う社会的責任,すなわち「ノブレス・オブリージュ」に応えていただきたい.教育者・研究者のかけがえのない財産である「学問の自由」が危機に瀕しており,これを「消費」するだけでは許されないと思われる.
また,マスメディアの方々は,ともすると官庁の発表をそのまま繰り返すだけで,この制度の問題点を無視し勝ちであったこれまでの報道姿勢を改め,真に公平な態度でこの問題を扱っていただきたい.
最後に,この法案準備のために多大の労力を費やされたであろう文部科学省の職員の方々に申し上げたい.あなた方の労力がまさに大学とその文化を破壊するために使われようとしている.国から大学への命令制度,それも教育・研究の内容にまで踏み込み兼ねない命令制度という,戦前にさえなかったものをあなた方は導入しようとしているのである.五年後,十年後に弊害が明らかになった時,あなた方はどのように責任をとられるのだろうか.どうか今からでも引き返す勇気を持っていただきたい.引き返すことは地を覆えすように無理に見えても,組織の論理に一人が疑義を述べることが流れを変えることは有り得る.文部科学省にも勇気ある方々が少なからずおられることを信じる.
独法化阻止全国ネットワークは,あらゆる人と対話し,また他のあらゆる努力によってこの法案の成立を阻止するものである.
2003年 3月 10日
註
[1] 参議院行革・税制特別委員会,1999年12月3日午前10時30分より
持永総務庁政務次官 「独法は企画調整部門と実施部門を分離する。一般的か整理させてほしい。」
http://www.kokko-net.org/kokkororen/t9912-02.htm
YomiuriOn-Line 大手町博士のゼミナール 導入半年の独立行政法人
大手町博士
「国の行政組織の中は、政策を決める企画部門と決まった政策を実施する部門に分けることができる。独立行政法人は実施部門の効率化を進めるために作られる組織なんだ」
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/dr/20011016md01.htm
[2] 通則法35条が準用される.
[3] 40条6項
[4] 中谷彪編著,「資料 教育基本法の成立過程」, 発行 株式会社タイムス,1985年
または,レジュメ「教育基本法 第十条の条文の成立過程」参照
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/edulaw-art10.html
[5] ユネスコ高等教育世界宣言「21世紀の高等教育 展望と行動」,1998年.
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/AGENDA21.htm
[6] 例えば1999年の「国立大学理学部長会議声明」参照.
http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/991110.html
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2003年3月28日 本学同僚の若手から、反イラク戦争の大集会の情報が寄せられた。残念ながら、若い頃と違って、週末はゆっくりしないと平日に仕事がまったくできないので、私自身は参加できないと思うが、参加したいという学生諸君の希望者がいるかも知れず、以下にコピーしておこう。
---------【転送・転載お願いします(重複ご容赦ください)】--------------
(Read and spread the following message,please.)
2003.3.25 短縮版
WORLD PEACE NOW
4.5
もう戦争はいらない
(PEACE without WAR is
possible)
〜わたしたちはイラク攻撃に反対します〜
(NO WAR ON IRAQ)
http://www.WorldPeaceNow.jp/
::: A5 WORLD PEACE NOW :::
on Apr. 5th (Sat)
11-12:00 Rally&Music/ 13:00 Love&Peace Parade Start (to
Shibuya,Omote-sando)
at Yoyogi-Park Keyaki-Namiki, TOKYO
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=139/42/07.041&scl=20000&pnf=1&uc=1&grp=all&n
l=35/39/41.721&size=500,500
JR Line:Harajuku, Shibuya, Chiyoda-Line Yoyogi-Koen
Organizer : EXECUTIVE COMMITTEE OF WORLD PEACE NOW
わたしたちは「イラク攻撃に反対」「日本政府による、イラク攻撃への協力に反
対」
「もう戦争はいらない」「非暴力行動として行う」を賛同点として、アクションを
行います。
もう暴力で解決する時代は終わりにしましょう。
ぜひ賛同し、広め、ご参加ください。
■日時/場所
2003年4月5日(土) [参加費自由・雨天決行・事前申し込み不要]
代々木公園ケヤキ並木(渋谷公会堂側が先頭なので、原宿駅からがベター)
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=139/42/07.041&scl=20000&pnf=1&uc=1&grp=all&n
l=35/39/41.721&size=500,500
最寄り駅:JR原宿駅、JR渋谷駅、千代田線代々木公園駅
11:00〜12:00 ピースラリー@代々木公園B地区
13:00 ラブ&ピースパレード(代々木公園ケヤキ並木〜公園通り〜渋谷〜表参道
〜代々木を予定)
夕方 もっと知ろうこの戦争&なにができるか シンポジウム企画中
・また渋谷、原宿にて街頭投票を計画中!
今こそ、あなたの力が必要です。ACT for
PEACE !
※このアクションは、実行委員会だけではなく、あなたが創ります。
当日は、ピースな心を持ってきてください。プラカード、楽器などがあるとベタ
ーです。
各自の自己責任と他者へのリスペクトを前提に、ご参加ください。
●詳細&お役立ち情報、最新情報はこちら→ http://www.WorldPeaceNow.jp/
◎賛同カンパ(1口1,000円) 必須ではありませんが助かります。
公園使用料、音響、トランシーバー、デコレーション、紙/印刷代などに
使わさせていただきます。
郵便振替口座:00110-6-610773 口座名:「1.18集会」
◆問い合わせ先(電話連絡先)
(電話連絡先)アジア太平洋平和フォーラム(APPF)03(3409)5555/
CHANCE!pono2 内山 090(3812)3777/日本消費者連盟
03(3711)7766/
ピースボート 03(3363)8047/平和をつくり出す宗教者ネット 03(3461)9363/
許すな!憲法改悪・市民連絡会 03(3221)4668
worldpeace@give-peace-a-chance.jp
◆主催:WORLD PEACE NOW実行委員会
特定の政党・宗教・市民団体の枠を超越したネットワーク型非暴力アクションで
す
http://www.WorldPeaceNow.jp/
協力:SHANTi III
同日午後及び翌日は、B地区においてRAVEを行っています。
◆ボランティア情報
http://homepage3.nifty.com/hanakichi/WPN3.8HP-volu/index.htm
◆もういちど、考えよう。 戦争を許していいのか。
どうしてイラクを攻撃するの? WHY
IRAQ?
http://give-peace-a-chance.jp/118/whyiraq.html
ブックレットを作ってみました。よかったら回し読みなどしてください。
もちろんこれもひとつの考え方です。考えるきっかけになればと思います。
━━━━━━━━━━━まるごと転送歓迎ここまで━━━━━━━━━━
ここまで書いた後、「市民の会」HPにアクセスし、市大卒業生のメール(佐藤真彦先生のご紹介)を読んだ。全体として、すばらしく感動的なものであった。この貴重な清浄な喜びはなににも代え難いと感じる。市大の危機、市大に対する愚かな攻撃に抵抗する人々のわのなかで、はじめて本当に大切なものが見えてくると感じる。
市大卒業生にはこのような方がたくさんおられるだろう。ぜひ、他の卒業生も、市民の会に声を寄せられるとうれしい。そのことで市大をよくして行く方向性が明確になっていくのではないかと感じた。
原さんという方のメール、および佐藤真彦先生のご紹介を、ここにコピーし、自分のものとしておきたい。
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原俊昭さん(昭和31年卒,元淡水研究所・マニトバ大学,カナダ)の市長あて書簡
横浜市大文理学部生物学科を第一期(昭和31年)で卒業された大先輩の原 俊昭さん(元淡水研究所・マニトバ大学教授,カナダ)の市長宛書簡をご紹介します.原さんは,多くの横浜市大が誇りとすべき方々の一人で,魚類神経科学の分野における世界的な権威です.
母校が存続の危機にあることを知り,姉妹校でもあるUBC(ブリティッシュコロンビア大学)のような大学に市大を改革・発展させるための具体的な提案をされておられます.また,厳しい現実認識の必要性とともに,「卒業生及び学生が直接運営に参加するという・・・運営形態」を含む「確固たる独立運営機関の設立は、将来の市民の高等教育研究に応えるに不可欠と考えられます。」・「大切なことは、市大は市役所の一部局でも出先機関でもないことを認識することでしょう。」・「「市立大学の今後のあり方懇談会」による答申は権限を逸脱したものである。」と指摘しておられます.そして,「どうか今後とも、市大がUBC と互いに手を取り合って、横浜、そして世界中の人々の教育研究に貢献する横浜が世界に誇れる大学として発展するよう、卒業生の一人として心から祈って止みません。」と結んでおられます.
UBCなどのカナダの大学における運営形態がどのような背景のもとで成立し,また,大学改革がどのような経緯で行われたのか,あるいは,「学問の自由と大学の自治」がどのような形で保障されているのかなどについては述べられておりませんが,機会をあらためてお聞きしたいと思っております.
25 March 2003
The Honourable Hiroshi Nakada
Mayor of Yokohama
City Hall
1-1 Minatomachi
Yokohama 231-0017
Japan
中田横浜市長殿
母校市大が存続の危機にあることを知り(改革せねば存続なし、横浜市大あり方懇答申、Asahi.com: MYTOWN: 神奈川、28 Feb/03 など)、市大の将来につき私見を述べさせて頂きたく筆を執りました。
私は昭和31年(1956年)、文理学部生物学科の第一期生として卒業後、東大大学院(動物学)を経て、1969年から当地カナダ、マニトバ州、ウィニペグ市にあるカナダ連邦政府の淡水研究所の Research Scientist として、また、同時に隣接するマニトバ大学の大学院教授として教育及び研究に携わって参りました。数年前に定年退官は致しましたが、研究所及び大学の計らいで、Scientist Emeritus として今日尚、細々ながら研究教育を続けております。
Los Angeles Dodgers で活躍する野茂英雄投手(「社会人野球が僕をつくった」文藝春秋 2003年3月特別号)の足元にも及ぶものではありませんが、私が神経科学の分野の研究での謂わば“世界リーグ”で研究者として活躍できる礎を培って呉れたのは金沢八景での4年間であったと信じています。あの平潟湾のイガイ、ユムシ、釜利谷の田んぼで追いかけたカエルを材料に、暖房もない寒い実験室で、ガスコンロを囲み顕微鏡を分け合いながら、動物生理学の実習に熱中した若い時の試練が私に教育研究に対する美徳を教えてくれました。お蔭様で、私の級友8人の中、3人は大学の教師に、1人は製薬会社の研究部長に、あとの4人も夫々中等教育の教員として育つことができました。
日本の大学運営が厳しい状態に置かれているのは、恐らく市大だけの問題ではないでしょう。政府が国立大学を独立行政法人として独立させ、抜本的な大学改革の名の下、経営合理化に取り組んでいるのもその一つの証でしょう。急変する政治、経済、社会の中にあって、大学も即応すべく不可解な名前の学部、学科の新、改設という形で対応してきたようですが、それを運営する管理機関が旧態然のままでは無理を生じることは明白です。所詮、日本の国公立大学の多くは文部省、県、市役所の出先機関の域を脱していなかったのかもしれません。こちら(主に北アメリカ)の大学でも神経科学教室の新設、動物学教室と植物学教室の合併による生物学教室の誕生、及び解剖学教室の解剖細胞分子生物学教室への改変などがあちこちでみられましたが、大学全体としての運営は微動だにしていません。それどころか、各大学は神経科学、情報科学、及び材料科学の教育研究を中心に21世紀に向け益々発展を続けております。
ご承知の通り、こちらの大学運営は、総じて二院制(bicameral system)をとっております。即ち、管理運営体としての Board of Governors (評議会?)と研究教育体としての Senate (理事会?)がそれです。私の直接関係しているマニトバ大学を例にとりますと、前者は合計23名の会員で構成され、半数は知事(州立ですから)に任命され、3名は卒業生の中から卒業生によって選出、3名は学生会によって選出された学生、それに学長(President)と総長(Chancellor)が加わります。一方、Senate は学長を頭に、副学長、学部長、図書館長、研究所長等に評議会会員2名が加わり構成されます。紙面の都合で、詳細は省きますが、明白なことは大学の運営体である Board of Governors が大学の本体そのものと全く分離されていることです。更に注目されることは知事(市大の場合は当然市長)の任命者だけでなく、卒業生及び学生が直接運営に参加するという点でしょう。このような運営形態が、必ずしもそのまま市大、或いは一般に日本の大学に当てはまるものではないでしょうが、確固たる独立運営機関の設立は、将来の市民の高等教育研究に応えるに不可欠と考えられます。大切なことは、市大は市役所の一部局でも出先機関でもないことを認識することでしょう。もう一つ付け加えておかなければいけないことは、既にお気づきになっておられるかもしれませんが、Board of Governors は医学部を傘下におきながら、その teaching hospital である大学病院の運営には直接関与しない点です。ウィニペグ市では、大学病院は他の公立病院と共に Hospital Authority と称する州政府の機関によって運営されています。市大の場合も、運営の一番の負担となっている付属病院を教育研究機関である大学本体から切り離した運営方式を模索する時期に来ているのではないでしょうか。
以上の点を考慮し、市大の発展の為、私は次のことを提案致したいと存じます。
1.将来の評議会に近い委員会を早急に設立し、市大の目的を再確認した上で、横浜市立大学令を改(制)定する。学部、学科の改編、開設、廃止等という重大事はこの評議会に一任する。(「市立大学の今後のあり方懇談会」による答申は権限を逸脱したものである。)
2.付属病院の運営は大学本体のそれから切り離す。
3.大学は最早、「象牙の塔」ではあり得ない。地域社会及び企業界との連帯を深め、産学協同の教育研究体制を整える。市の予算のみに頼らず[1]、広く民間の寄付を仰ぎ大学の発展に寄与する。原則として、教員の研究費は公私の財団に頼る[2]。
人口350万を抱える世界の港都横浜に、空港もなく(東京との関係で致し方ありませんでしょうが)、またまた大学もないということにもなれば大変悲しいことです。世界の各都市を訪問すると、そこには市民らが誇りとする大学が必ずあります。市大の姉妹校であるカナダのブリテッシュコロンビア州のブリテイッシュコロンビア大学(UBC)、然り!!広大なキャンパスに広がるその威容。バンクーバー市民が世界に誇る総合大学です。市大が上記の如き画期的な運営合理化を達成すれば、現在の商学部を中心にした、経営学部, 理学部にコンピューター学を合わせた、情報科学部, 医学部, それに新しく国際文化(関係)学部を4つの柱に、 総合大学として発展し、技術開発、国際的人材養成、及び市民の生涯教育に寄与することを確信いたします。
どうか今後とも、市大がUBC と互いに手を取り合って、横浜、そして世界中の人々の教育研究に貢献する横浜が世界に誇れる大学として発展するよう、卒業生の一人として心から祈って止みません。
敬具
原俊昭
Toshiaki Hara, Ph.D.
Scientist Emeritus
Freshwater Institute
Fisheries and Oceans Canada
and
Adjunct Professor
Department of Zoology
Faculty of Graduate Studies
University of Manitoba
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2003年3月27日(夕方) 随さん(商学部助教授)から、問題の市大のセンセーショナルな「赤字」や「負債」の内実を明らかにする統計情報「大学負債の全容」が提供された。「これまで大学関係債券の起債情報はほぼ全容わかりました。・・・合計額がこれまで言われてきた
「累積額1140億円」を下回っているのは、発行した債券の一部がすでに償還されたためだと考えられます。・・・本当の研究教育部門だけを評価したら、市大は財政パフォーマンスに関してもかなりの優等生になるのではないか、、、、、、」
まさにそのとおりだと思う。
このような基本的で正確な情報は、これまでの「あり方懇談会」の杜撰さを改めて社会に明らかにするものである。
随さんのすばらしい貢献と奉仕の作業に敬意を表し、感謝したい。
このように「財政パフォーマンスに関してもかなりの優等生になる」にもかかわらず、一律の研究費削減などが行なわれている。
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2003年3月27日(午後) 下記の矢吹先生経由の情報が「市民の会」の「ご意見箱」あった。それをコピーし、同時に、これに対する問題点の指摘(「ご意見箱」に投稿したもの)を明記しておきたい。
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編集者まえがき、国際文化学部の倉持和雄教授から同学部の3月20日教授会決議が届いたので、編集者矢吹が代わって投稿します。 |
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上の「国際文化学部決議」について |
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2003年3月27日 国立大学行政法人化問題週報(だれでもインターネットをつうじて申し込める:現代のボランタリーな情報交換・公式マスコミ情報批判の強力な武器!!)の最新号(3月26日号)が送られてきた。それによれば、法案の提出プロセス・閣議決定プロセスは国立大学(その協会としての国立大学協会)のきちんとした合意を取り付けたものではない。「正当性に疑念」のあるものである。
日本の大学制度を根本から変えるような重大な法案をこのような一種の詐欺的な手法で正当性のない形で決めてしまうことは、末代にまで禍根を残す。それは国民のためにならず、また日本の世界における位置、科学技術・学問における世界貢献の必要性からすれば世界のためにもならないものである。われわれ公立大学の命運も国立大学法人法案の内容や審議のあり方(十分慎重な配慮がなされているかどうか)にかかっている。
最新の問題点の指摘のみ、コピーしておこう。
[109-1] 国立大学法人法案の廃案に向けて―国会審議の現状と国大協の責務―
2003年3月26日 独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局
http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/030326syutseimwi.html
「2月28日、政府は、国立大学法人法案、独立行政法人国立高等専門学校機構
法案、独立行政法人大学評価・学位授与機構法案、独立行政法人国立大学財務・
経営センター法案、独立行政法人メディア教育開発センター法案、国立大学法
人法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案、からなる関係6法案を
閣議決定し、同日中に通常国会に提出した(以下、一括して国立大学法人法案
等と略す)。
国会では、はじめに与党三党が早期審議入りを企図して、文部科学委員会で
主旨説明を行うことを求めたといわれる。しかし、法案等を重要法案と位置づ
ける野党四党(民主党、自由党、共産党、社民党)の一致した要求によって、主
旨説明は本会議において行われることになると考えられる。主旨説明が行われ
れば、国立大学法人法案等は国会での本格的審議に付されることになる。
この法案等については、閣議決定に至る過程そのものの正当性に疑念が生じ
ている。文部科学省は2月に各政党に対して、法案等に関するブリーフィング
を行っていた。その際、文部科学省は、「国立大学協会は法人化について長い
間意見が割れていたが、この度、賛成で一本化されたので法案を提出する」と
強調し、法案提出の正当性を主張していた。政府は、2月28日の閣議で法案を
決定する予定を早くから立て、その閣議決定に正当性を付与するために、2月
24日の国大協理事会において法案「概要」の承認を取り付ける、というプログ
ラムを設定していたのである。
ところが、この政府・文部科学省の路線は、各大学から厳しい批判や疑問が相
次いで提出されたために、事実上破綻した。第一に、1月末に出された法案「概
要」に対して、24大学から法案の本質を批判する文書が正式に寄せられた。
国大協執行部や法人化特別委員会は、2月24日の理事会で、これらの疑問に全く答え
ることができなかった。このことにはっきり示されているように、国立大学協会
は決して賛成で一本化されていない。第二に、2月24日の理事会では、国大協の
正式態度を総会で決定すべきという意見が相次いで出され、長尾会長は「法案が
国会に提出された段階でその内容を検討し、国大協として表明すべきことがあれ
ば内容をはっきり示して、理事会で承認を得て発表するなり、あるいは臨時総会
を開催して議論することも視野に入れて対応を検討する」(理事会議事要録)と表
明せざるをえなかった。
これらを踏まえれば、国立大学内部で強い批判が存在するため、
国立大学協会としては法案に対する態度を何ら決定していない、
というのが現状である。政府・文部科学省は、国立大学側の同意取り付けを
法案提出の根拠としていたが、その前提が崩れた以上、
国立大学法人法案等の審議入りを即座にとりやめるべきである。
また、法案全文が明らかになり、その問題性が広く知られるようになった
め、国立大学法人法案を受け入れることはできない、したがって法案は通常国
会において廃案にするべき、という声が急速に拡がっている。
国大協執行部は、2 月24日の理事会における議論を踏まえ、
可及的速やかに臨時総会を開催しなければならない。
臨時総会においては、先に24大学から出された批判や疑問を含め、
法案にかかわる問題点を真摯にかつ徹底的に議論し、国大協として法案
に反対する明確な態度を決定する必要がある。
与党側が審議入りを強行したばあい、国会での本格的な議論は、遅くとも4
月13日の統一地方選挙前半戦後には開始されよう。国大協がそれ以前の4月冒
頭に臨時総会を開催し、そこで正式な見解を表明することは、国民と社会に対
する責務である。」
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2003年3月26日 市民の会通信第20号の(5)匿名投稿が、佐藤真彦先生の目に止まり、批判の対象となって議論が展開している。私は、この匿名投稿そのものを佐藤先生の「ご意見箱」での批判(No.32、加筆版No.37)をつうじて知った。通信第20号は一楽先生の部分までしか目を通してなかったからである。
佐藤先生が問題提起したように、私も、匿名氏の言う「一般人」が本当に市民の一般的考えを代表しているかどうかが、問題だと思う。匿名氏は、彼なりに「多くの市民」の考えを想定して作り上げている(このような冷ややかな考え方がありうるとはいえるだろう)が、それが本当であるかどうか、どれほど「多くの」市民の見方であるのか、検証が必要である。
匿名氏の想定する「多くの市民」は、「市当局は行政改革に邁進し、税金の使い方をよく考えてくれている」という。はたしてそうか? まさにそれが問題になっている。少なくとも、「あり方懇談会」の答申は、大学改革を考える場合、あまりにも杜撰でひどいものだ(文部科学省某キャリアの発言趣旨)、ということを市民の会はこれまでの検討で独自に明らかにし、訴えてきたと考える。
その訴えが「多くの市民」の心に食い込むかどうか、これはまさに署名活動やシンポジウムや新聞読者欄への投稿活動やありとあらゆるボランタリーな活動をつうじてしか、判定できないことであろう。「多くの市民」には、「大学会計報告の欺瞞や、大学自治・自由の侵害などの問題が俎上に上る余地がありません」というのは、一面的な悲観的敗北主義的見方のように思われる。冷徹・冷酷な現実の冷静な評価かもしれないが、運動論が欠如している。市民の意識に食いこんでいこう、市民とともに問題を考えよう、気づいていない人に知らせよう、と言ったスタンスが強烈には感じられないということである。
しかし、「多くの市民」はさておき、さらに、「状況は大変悪い」とみる匿名氏のいうマスコミの問題性(当局発表の垂れ流し、その無批判性)もさておき、それでは、肝心の大学人が大学の自治や自由の大切さについて、どこまで深く考えているか、ということになると、これまたそう楽観できないのではないか、と考える。だからこそまた、大学の自治や学問の自由、言論の自由などについて、問題の発生ごとに警告を発し、批判していく必要がある。そのように考える人が様々に発言している。
匿名氏は投稿で、「大学改革そのものには反対」しないようにと提言している。ということは、「市民の会」のやっていることが、匿名氏には「大学改革そのものに反対している」ように見えているということである。
だが、それは誤解であろう。「市民の会」が市民に訴えているのは、署名用紙掲載の文書が示すように「市大の存続発展」であり、「発展」ということにはもちろん改革が含まれるからである。
しかし、「市民の会」の努力に支援の気持ちを持つ匿名氏にさえ、「改革反対」という側面が強く印象に残っているとすれば、その根本には、「当局案と異なる立派な改革案」が見えてこないということがあろう。
だが、市大は改革を積み重ねてこなかったのか? 橋爪流センセーショナルな「改革」はたしかになかった(ない)かもしれない。
しかし、「市民の会」代表長谷川先生のなどが他で指摘されているように、文理学部を改組し、国際文化学部と理学部を創設したのはそう遠いことではない。また、公立大学の経済系学部としては、遅きに失した博士課程をなんとか創設したのは6年ほど前である。さらにその後も、最先端の生体超分子研究の連携大学院・鶴見キャンパスが発足した。
この10年ほどのあいだにも、市大はゆっくりではあっても着実に前進し改革してきたというのが、本当ではないか。私の考えでは、公立大学として博士課程は非効率的ではあってももっと充実すべきであり、高度教養大学院として社会学や都市政策系の博士課程(コースとしてでも)をこそ、建設していくべきだと考える[3]。
ところが、このような改革の積み重ねにもかかわらず、社会情勢・経済情勢・財政状態の悪化が荒波となって押し寄せてきた。そうすると、これまでの歴史を抜きにして、新市長のもとで突然に「存廃も含めて」大学の存在意義が俎上に上ることになった。
経済危機に振りまわされず、財政危機に「思考停止」状態に陥らずに、ここはじっくりと、大学の発展をこれまでの積み重ねを踏まえて考えるべきときだろう。その前向きの努力を学内で行っていることは事実である。外から見て不充分ではあっても。
この学内の建設努力とその到達点を公開し、市民の意見を聞き、着実に発展させていく努力が求められている。そのさい、匿名氏のいうように「市大の先生方がどんな実績を出してこられたか」きちんと、PRする必要はあろう。その研究教育の実績と改革方向とは密接に関連するであろうからである。
匿名氏は、文科系については理解のあるかたのようだが、かなり古い著名人(超有名人)にしか言及がないのは悲しいことである。「**先生のほかには、退職された遠山、今井両先生しか思い浮かびません」と現役のわれわれには耳の痛い論評である。
これはしかし、外部評価の一つの声として、真正面から受けとめる必要のあることだろう。ただ、情報として一言しておきたいのは、現役教員でも、私の評価がある程度可能な文科系でいえば、今谷明先生をはじめ、全国的に著名な方は何人もいらっしゃる[4]。
やはり学問分野ごとにしかるべき仕事をしている人をきちんと評価するシステムがないと、今日のように学問分野が専門化している時代には、「なにもやっていない」と不当に低い外在的評価を下す誤りにも陥りかねない。また、過去の歴史を見ると、権力の抑圧や不毛な論争に巻き込まれたくないために、ものすごい発見を秘密にしたまま(死後の公開を遺言するなどして)死んでいった人々も多い。現在社会でも、相当な差別が隠然公然とあるのは、理解していただけるだろう。
市民の方々には、市大の教員プロフィール(大学HPで公開されている)や多くの教員が公開しているHPなどにぜひアクセスしてもらいたいものだと思う。
また、忙しいではあろうが、できるだけ多くの教員が自分のHPを立ち上げ、仕事の中身を市民に分かるように、努力することは大切なことだと思う。
とはいっても、理科系については、私は公開されたHPを読んでもよく分からないものが多い。もちろん、平明な解説があり、少なくともその先生が何をご研究かはつかめる興味深いものも多い。
私自身は数年同じ大学にいても知らなかった研究者があるとき非常に有名になった。数年前に岡崎の国立研究所に移られた環境ホルモンの代表的研究者である。環境ホルモンでジャーナリズムに頻繁に登場するようになるまでは、その研究者の仕事をきちんと評価する人はごく狭い範囲の専門家しかいなかった。
調べてみると、驚くような仕事をした人が他に何人も本学関係者にはいる。
その分野その分野で、しかるべき全国的・国際的な仕事をしている人は、相当多いと思われる。たとえば、佐藤真彦先生のHPには、広島大学教授の評価が載っている。佐藤清隆(広島大学教授):公開書簡「財政難を理由に改廃は,恥ずかしいこと」03-3-20。私は感激した。ぜひ一読されたい。
いずれにしろ、本学の人材と改革の到達点を多くの人が研究し、オープンに意見を表明し、改革を一歩一歩進めるしかないだろう。
そのスタンスからすると、まさに今回の「あり方懇談会」答申は暴力的外在的なものとしかいいようがないのである。
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2003年3月25日 (午後) 大学における自由との関連で問題となるのは、公務員の義務との相互関係である。国立大学法人法案(閣議決定とはいえ、今だ国法ではない)の批判は自由であり、当然これに関連する独立行政法人法などの批判は自由である。批判の自由こそ、自由の本質だといってもいいくらいである。また、それは民主主義の根本原理でもあろう。他人の意見の批判の可能性なくしては、民主主義は実現しない。
むしろ、沈黙こそ、問題である。沈黙は支持の表明であり、「沈黙は必ず現状を承認する「発言」なのです」(加藤周一)と。一般に、地方公務員もおなじ原則に服する公務員の義務に関連して、次のものを紹介し、リンクをはっておきたい。
公務員の義務が誤解され、沈黙の公務員が多数作り出されている現状を見るとき、下記の根本的法律をきちんと理解しておくことがきわめて大切である。民主主義の根本原則を守り発展させ、活性化させるのは、したがってそのために発言し、意見を公開することは、憲法が規定する国民としての義務ですらある。イエーリングが『権利のための闘争』(Kampf ums Recht)で説いたように、人間が作り出した法律は、人間が守り発展させなければならない。
下記の説明中、「「国立大学法人(案)」をまとめ法案化を進めている文部科学省の職員の行為は憲法99条との整合性を問われる」とある。国立大学法人法案の学長選出規定など法律的にいくつもの疑念がある条項に関し、「あり方懇」答申をお膳立てし(その最終答申の文言に押しこみ)、それを強行しようとしている事務局責任者(あるいはその実質的な先行的試行実験ともいうべき事態、すなわち学部教授会決定の実行を様々に抑制・阻害している人々)は、同じ問題をつきつけられている。
ただ、このような批判的指摘をする人の数が、今のところまだ少数である。多数派は沈黙している。批判は少数者の意見だと黙殺していていいかどうか、これが問われている。歴史から何を学ぶか。次の時代をつくりだすのは、学問でも社会でも、少数者であり、少数者が多数に転化することが社会や学問の大きな変化となる。だから、少数者の意見のなかに真実がないかどうか、この検討こそが必要である。
「一つの集団のなかに、少数グループがあり、あるいは個人の少数意見が生かされたりしていないと、その集団は方向転換することができなくなってしまいます。なぜなら、集団の方向転換は、集団内部の少数意見が、ある日多数意見になったときに起こるからです」(加藤周一「学ぶこと・思うこと」 岩波ブックレット 2003.1.17[5])。
教員組合の学長への質問にどのような返事があるか、そこに答えを見ることができよう。
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==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
国家公務員としての国立大学教職員の義務辻下 徹人事院規則の運用方針により、国家公務員が禁じられている政治的行為は「日本国憲法に定められた民主主義政治の根本原則を変更しようとする」ものと定められている(・・・この運用方針なしには人事院規則は憲法との整合性がない)。国立大学教職員は独立行政法人化批判をすることが自由にできるだけでなく、逆に、批判しないことは公務員の義務に反していることに注意すべきである:「国立大学法人(文部科学省案)」が実現すると、憲法23条を法的に補強する教育公務員特例法が大学について失効する一方、政府の徹底した大学監督権が法的に保障され、さらに、学外者が強い権限を持つトップダウンな大学運営形態が法的に義務付けられ、憲法23条は法的に無効化することになるため、同案の違憲度は極めて高く、国立大学教職員が同案の実現に協力し批判しないことは憲法99条が国家公務員に課している憲法擁護の義務を怠っていることになるし、それ以前に、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と憲法12条が国民に課す義務をも怠っていることになる。なお、言うまでもないことだが、「国立大学法人(案)」をまとめ法案化を進めている文部科学省の職員の行為は憲法99条との整合性を問われる。 ○日本国憲法第99条(憲法尊重擁護の義務)天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 ○国家公務員法百二条(政治的行為の制限)>5 人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。
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2002.5.15 tjst@earth.interq.or.jp
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2003年3月25日 昨日夕方6時から8時まで、教員組合主催の「あり方懇談会答申の法的問題を考える」学習会があり、参加して勉強した。憲法、教育基本法(詳細)[6]、学校教育法、教育公務員特例法、大学設置基準など準拠すべき法律が次々と話題になり、しっかり勉強し検討しなければならない問題がたくさんあることを確認した。「市民の会」意見箱には、以下のように一参加者としてのお知らせを伝えておいた。
以下のまとめのなかにもあるが、答申をどう受け止めるのかに関わっては、また現在進行している学校教育法、教育公務員特例法その他の諸規定と法慣習に違反するような事態(学部教授会決定を否定・拒否権行使、ないし無視する事態)に関しては、学長責任が非常に大きい。その学長に対し、教員組合は、質問書を提出した(それが委員長の藤山先生から送られてきた。これにリンクをはって紹介しておこう)。その各質問事項は、一読されれば明確だが、まったく正当であり、大学人としての見識を示すものである。これに学長がどのように返事するか。注視しよう。
----- 一参加者の学習会報告 ---
「あり方懇談会」答申の法的問題学習会が、大学教員組合主催でありました。日教組UPIセンターの小池氏が講師でした。すでに市民の会関連ページで開催が予告されていたものです。
非常に興味深いことをたくさん勉強できました。いずれ教員組合ニュースや教員組合HPで紹介されるでしょう。一参加者として、印象に残ったことをお伝えします。
1.「横浜市立大学に関する財務分析」(森谷委員執筆)について、私立の学校法人会計の専門家の分析である。私立学校の財務のあり方と公立大学の財務会計は別制度であり、学校法人会計に基づく財務分析は、"シミュレーション”以上の意味はもたない。
また、これはすでに多くの人から指摘されていることですが、財源としての長借り入れに当る市債の発行は、施設建設を中心にし、資産を形成しており、資産としての評価を抜きに議論するのは、順当ではない。
2.「あり方懇」答申は、「オンリーワン」といえる大学を創出せよといっているが、その具体策として提案されているものは、「専修学校あたりが盛んにとり入れている中身で、大学の改革案としてはむしろ後退」したものである。
3.学部の統合、市費による研究費の原則廃止、主任教授制などは、大学の設置基準を充たせない可能性がある。
大学設置基準は昨年、ロースクールなどの創設を可能にするため、その他の必要から改正され、「規制緩和」されたが(また今後も大きく変わる可能性があるが)、それでも、設置基準を充たせない内容を提言していることには変わりない。
4.学校教育法上、研究教育の専門家集団である教授会から教員の採用、昇格権限を完全に取り上げることは不可能であり、法律的に不可能なことを答申は推し進めようとしている。
これに関しては、すでに、つい最近、商学部で(昨年だったか、以前には国際文化学部でも)、事務当局が教授会決定を「市長に内申すること」を拒否し、講師から助教授への昇格人事(4月1日からの)が滞ってしまった事態が報告された。これは、3月二〇日の臨時教授会で大問題に成ったことであり、市民は議事録公開を請求して、確認できる。
この問題については、市長への内申の大学の最高責任者は学長であり、学長が内申しないということになる。事務局責任者が学長の権限行使を阻害するシステムと現状(内的力関係?)に問題があろう、とのことだった。
学長は、学部決定をいつまで放置したままにしておくのか、2名の補充人事凍結もそうだが、現実に進行している学部の研究教育体制への大きな阻害状態についてどのように責任をとるのか、これが今後問題になろう。
学部決定の日程は明確である。その決定を踏まえて、学部長からの文書がいつの時点で提出され、いつの時点でどこの部署で文書決済が滞っているのか、その理由とされているものが妥当かどうか、この証拠確認が今後重要になろう。
5.同じく学校教育法上(国公私立をとわず)、設置者としての財政的責任は回避できない。にもかかわらず、研究費は原則として出さないなどと提案している。設置者責任を回避するこのような提案は、まともな提案たり得ない。
この点に関しては、すでに現実が先行している。つまり、基礎的研究費を廃止し、プロジェクト型研究費のみに再編されてしまった。文部科学省の科学研究費助成金のようなシステムが導入されている。自由な基礎研究が事実上阻害される事態になっている、と参加者が発言した。文部科学省の科学研究費助成金は、あくまでも自由な(学問・科学研究にとっては死活の重要性をもつのが自由だ)基礎的研究費が設置者によって提供されていることを前提にし、研究費をプロジェクト毎に毎年審査して「助成」することが趣旨であり、安定的な通常の基礎的研究費が廃止されていることを前提にしたものではない。
まさに、昨年4月以来の「研究交付金」システムとその運用は、基礎的研究を排除する事態(プロジェクト申請を通じる検閲統制)を意味し、基礎的研究への財政的基盤を提供するという設置者の責任の放棄が始まっている、ということが議論された。これは今後法律問題として、きちんとみていく必要があろう。
6.「あり方懇」答申の改革案では、現在の教員組織の廃止と新組織への再就職、年俸制、任期制などの導入を提言しているが、これらは徹底した労使交渉事項となるべきものである。
7.公立大学に関しては、昨年、公立大学協会などが検討し提言していた「公立大学法人法」ではなく、「通則法型」で、「地方行政独立法人法」を新設して、その1章に公立大学も位置付けるという方向に、現時点ではなっている、と。
国立大学の場合、いろいろと問題があり、議論が全国的にまきあがりつつあるが、それでも、一応、大学の独自性に配慮した「国立大学法人法」という特別の法律が作られようとしている。
これに対し、いまのままでは、公立大学は、地方の独立行政法人の通則法のなかに含められてしまうわけで、国立大学以上に、一般行政法人的性格が濃厚になることになる。
とすれば、すでに国立大学法人法案の問題として指摘されている(佐々木東京大学総長や国立大学の独立行政法人化反対ネットワークなどの指摘)ような官僚統制・官僚主義(学問研究の自由[7]の束縛)が公立大学では国立大学法人などとは比較にならないほど強大になる可能性がある。
以上、昨日の学習会の講師の報告と議論から、どんな問題が議論されたのかを、わたしなりにまとめて、お知らせしておきたい。
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2003年3月24日(昼) 「市民の会」意見箱(No.11)を読むと、卒業生が3月29日、第三回シンポジウムの直前の1時間と入学式の当日、署名などの宣伝活動を行なうとか、感激(下にその呼びかけをコピーした)[8]。とりわけ、新入生にとっては、今から入学しようとしている大学を横浜市がどのようにしようとしているのか、「あり方懇談会」とはなにか? その答申とはなにか、大学の方向性などに関して深く考えるきっかけを与えるのではないか。大学(とりわけ公立大学)で学ぶことの意味と意義、大学存立の意義と条件、大学の自律性・独立性と学問科学の創造的発展の深い関係、学問の自由の大切さなどを考える重要な契機となるのではないか。市立大学の歴史や理念、学生や院生、卒業生や教職員などの意見や気持ちなどを無視した当事者不在・設置主体(=市民)不在の「あり方懇談会」答申の問題を入学当初から知ることは、意味があるだろう。経済危機、財政危機に呆然自失し、その脱出策として公立大学を民営化し、大学の自主的自律的発展をつぶそうとする人々のセンセーショナルな議論やその論拠の問題性に気づいておくこと、そして自分の頭で考えることは大切なことだ。
大学とはなにか? 大学で学ぶとはどういうことか? 学問科学になぜ自由が必要か? 学問科学の研究教育において、なぜ自主性・自律性・独立性が必要か? 新入生との教養ゼミでは、いままさに問題になっている大学問題を素材に、このようなことも議論してみたい。
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OBを中心とした宣伝行動を計画しました。一人でも多くの方の参加をよびかけます。 |
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2003年3月24日 3連休、元気が出る古典を読むなどして頭を休めた。この三日間に「市民の会」のHPはすばらしいものに転化成長し、充実していた。市民の会関係者の行動に元気付けられる。
まず最初に、代表を引きうけられた長谷川洋名誉教授の挨拶を読んだ。このようなメッセージこそ、このようなスタンスでの大学の指導こそ、私たちは期待し望んできたものだ[9]。理性による批判ではなく、発言の機会に関していろいろと妨害を加える人々がいることを考え、長谷川代表のメッセージを各方面の人々がコピーしておくことも大切と考え、下記にコピーして掲載しておきたい。
-----あいさつ「市大を考える市民の会」の代表に選ばれて
「市立大学の在り方についての懇談会」の座長私案が公表された後(2月8日)および、最終答申案が市長に提出された後(3月8日)の二回にわたって、「横浜市立大学の将来を考えるシンポジウム」が、市大の教職員、学生、卒業生および一般市民によって開催されました。
シンポジウムでは、「答申」の内容に多くの疑問と問題が投げかけられ、活発な意見が交わされ、一般市民、学者、学生、政治家、その他、団体・個人を問わず、様々な立場から多くの批判や声明が出されました。
横浜市立大学における「研究教育・社会貢献の在り方」は、横浜市民のためのみならず、日本の将来を左右する問題として重大な意味をもっています。大学関係者、市政担当者のみならず、市民が重大な関心を寄せざるを得ないものです。シンポジウムに参加した人々が、その利害関係、思想的・政治的な立場を超えて、横浜市立大学を考え、発言する場として「市大を考える市民の会」を結成することになったのは当然の成り行きであります。
この問題の当事者は、横浜市長、横浜市立大学当局・教職員のみならず市民全体であります。「市大を考える市民の会」は、「答申」の問題点を追究するとともに、市長、市立大学学長始め教職員が、公立大学としての研究教育、そしてそもそも「大学」というものの学問・研究・教育の意義を十分に考量し、悔いなき対応をし、どのような大学改革を進めるかに注目し、必要に応じて批判や提言を行います。
私は、このたび「市大を考える市民の会」の代表を仰せつかり、もとより不肖にして、重い任に耐える者でないことを承知の上、真に相応しい代表が決まるまで力を尽くす所存です。「会」にとって何よりも大切な事は、市長および横浜市大の学長始め教職員が「答申」にどのような対応を示すかを見守りながら、この重大な問題に対して、様々な人々が、それぞれの立場、団体、サークル、有志の中で考え、自由に発言・討論をし、「市大問題」に関与(アンガージュ)し、共に行動する拠点を創出する事であります。
すでに関心と行動の環は広がり、多くの意見やアピールや声明文が「会」に寄せられています。それらを「会」として公表し、ひとりでも多くの市民の参加をよびかけ、横浜市立大学の真の在り方を考えてまいります。
2003年(平成15年)3月22日
「市大を考える市民の会」代表 長谷川 洋
現段階での私の意見
3月22日 長谷川 洋
市長が、市民の大学である市大について問題提起をし、諮問機関を設置してその将来像を審議させること自体は、むしろ歓迎すべき事です。しかし、「答申案」の内容のみならず、その出され方に問題があると考えます。
座長は、事前に私案を公表し、膨大な「赤字」を抱える市大の存在意義を否定し、廃校の選択肢を強調した上で、存続の条件としての縮小改革案を提案し、それに沿った改革が無ければ廃校を選択せざるをえないとの基本的見解を示しました。さすがに本答申では、市大の存在価値を否定するという前提は薄められましたが、私案の基調は何ら変わっていません。「答申」では、「横浜市立大学は設置以来、目標の見直しを進めないまま、なりゆきで歩んできた」と、ひどい表現で、市大の創立から今日までの歴史が一蹴されています。横浜市立大学は前身の時代から数えていま75周年を迎え、市内外で社会に貢献する多くの卒業生を生んできました。市と大学が一体となって改革発展をすすめて、市大は、今ようやく文理学部を理学部・国際文化学部に分離独立させ、商・医・国際文化・理の四学部の総合大学としての拡充を果たしたばかりです。この成果を生んできた大学の体制や理念が悪であるかのごとく、答申によって否定され、解体縮小が図られています。しかもその改革案は、「わが国でもっとも進んだ経営管理の試み」とうたわれ、「高いハードルではない」とされています。答申の提案があたかも市大が走らなければならないコースの動かし難い既定の基準であるかのような言いまわし(レトリック)が見られるのです。
この経緯を見ると、答申案の縮小改革がなければ廃校という選択肢しかないという、いわば強制の感がぬぐえません。
大学が市に負わせたとされる負債についても、市が市民の先端医療のために建てた医学部付属の二病院や、連携大学院や、阪神大震災後の地震観測のための施設や、環境ホルモンの実験研究設備等は、横浜市立大学の教員の優れた研究成果にもとづき、それぞれに意義ある市の政策として正当な議会審議のもとに支出されたものではないでしょうか。今これをすべて大学の放漫な経営責任とする論理には、「答申」に対する声明や批判文の具体的な指摘を見るまでもなく、疑念を抱かざるをえないものであります。
また、僅か半年の審議の答申に対して、大学の対案も半年で提出せよという検討時間も、問題の重大性に比して性急にすぎます。
「答申」の内容の中で、私は、もっとも重大なのは次の点だと考えております。「大学」というものは「研究・教育の自由」が生命です。この自由は、同時に学者、研究者に大きな責任を負わせるものです。その責任は、人類を始め生物の生命や地球環境に対する普遍的な貢献ということであり、目先の経済効果や地域貢献のみでなく将来的な地球人類の歴史的な視野から生まれる責任であります。そのためにはある程度、体制や経済効率から独立した自由な研究教育が確保されている必要があります。「答申」は、その点への目配りを欠いて、財政改善、経済効率、地域貢献を主眼として強調しており、「大学の自由」の持つ世界史的な意義を否定し、市大の赤字と称されるものの解消に都合の良い大学のシステムの論議を軽々に行っているとの危惧を禁じ得ません。勿論、市の財政への配慮は必要であるし、また「大学の自治」の名のもとに、これまで無責任な体制に甘んじていた大学人の意識に問題がある事は論を待ちません。改革すべきものが多くあるはずです。しかし、一朝にして市大の形態を一変縮小させるには、それなりの十分な根拠と論議が不可欠なはずです。
私は、「答申」を全面的に否定する考えは持ちません。問題は、それに対する大学側の「対案」がどのようなものになるかであります。そして、この「答申の改革案」と「大学側の対案=改革案」のどちらが良いかの論議が十分に保証されるかどうかであります。その論議が、市民及び普遍的良識に照らして納得されるものでなければなりません。この点では、むしろ「ありかた懇」の委員よりも、市長ならびに大学関係者の責任は重大だと思いますし、それを監視するのが一市民としての責務だと思うのであります。
以上
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ついで、「市民の会」の別のところ「市大問題の経緯」(過去のインデックスより継承)のページを読んだ。この間に新しく、「答申の 赤字攻撃に対する私達の考え S40年卒・村瀬弘明」 と「あり方懇答申を批判する 理学部・一楽重雄」が掲載されていた。いずれも、「あり方懇談会」答申の問題点を明確に説明しており、大変勉強になった。一楽先生の文から、国際文化学部の決議が出たことを知った。ある評議員がその決議の準備文書を持っているのは見たが、教授会決議となって実現できたのだ。だが、どこに公開されているのだろう? ご存知のかたはお教えください。
次いで、「市民の会」通信のページにアクセスした。上記文書は通信の19号や20号にも掲載されていた。
そして、新たな発見、勇気百倍するニュースは、「『横浜市立大学のあり方懇』答申問題を考える会」(呼びかけ人:今井清一市大名誉教授、伊藤成彦中央大名誉教授、清水嘉治神奈川大名誉教授、柳澤悠東大教授、山極晃市大名誉教授、久保新一関東学院大学教授)の発足であり、その3月31日集会の開催(神奈川県労働会館、2時―5時)である。問題をたんに市大の問題と捉えるのではなく、広く日本全体に関わる問題としてとらえる見地であり、何とか参加したい。
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2003年3月20日(午後)、アメリカのイラク攻撃開始。インターネットでみると、「ロシア、イラク攻撃に「遺憾の意」 読売新聞【モスクワ=古本朗】インターファクス通信によると、ロシア政府当局者は20日早朝、米英軍によるイラク攻撃が決行されたことに対し、「遺憾の意」を表明した。さらに、戦闘による犠牲者の数が最小限にとどまるよう期待する、とも語った。同当局者は、「露政府は、イラク危機が国際法の枠内で解決され、武力による解決を回避することが出来るとの期待を最後の瞬間まで捨てなかった」と強調した、と。ロシア政府当局者も、今回の武力攻撃が「国際法の枠内」ではないことを明確に表明している。
朝日新聞ニュースでは国連のアナン事務総長も「遺憾の意を表明」と。
国連アナン事務総長イラク攻撃に「強い遺憾の意」 |
国連では米英の攻撃開始を受け、アナン事務総長が「強い遺憾の意」を示した。米英はイラクに絡むこれまでの安全保障理事会決議を武力行使の根拠と説明しているが、国連側では米英側が直接の武力行使容認修正決議案の採決を断念した以上、「国連の外側の戦争」と見なしている。このため、安保理ではアラブ諸国などから米英への非難決議案提出などの動きが続きそうだ。 |
これに対し、日本の小泉首相は、武力攻撃支持を表明した。「首相は会見で、一昨年9月の米国同時多発テロに触れ、「民間航空機を利用するという予想もしないテロで、日本人を含む何ら罪のない市民が犠牲になった。もしも今後、危険な大量破壊兵器が危険な独裁者の手に渡ったらどんな危険な目にあうか。日本も他人事でない。それをどう防ぐかは、全世界の関心事だ」と語り、今回の戦争があくまでも大量破壊兵器の拡散を防ぐのが目的だとの認識を強調した」と。
つまりテロは、「大量破壊兵器」を使用して行なわれたのではなく、普通の軍事的意表をついて、「民間航空機を利用する」ものだった。あ9・11のようなテロは、「民間航空機」といったものでさえ行なえるものなのであり、その意表を突く行為の根源をきちんとみなければならない。
「大量破壊兵器」を口実に、安全保障理事会の決議もなく、先制攻撃に踏み切った国際法違反は、明確だろう。そして、それが国際法違反であるとの意識・認識が実は、テロリストにとっては彼らの絶好の口実となるのであり、深刻な問題なのではなかろうか? 9・11はまさにそのような意識の爆発ではないだろうか?
戦争はあくまでも、国際連合(安全保障理事会)の集団的行動でこそ、実現すべきではないか。
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2003年3月20日 外部から商学部サーバーにアクセスできなくなったという情報が寄せられた。それは現在どうなっているだろうか? この間の立て看板撤去事件などに見られるように大学を守るための活発な意見交換や言論活動を外部に見せたくない人々が妨害しているのではないかとの噂が流れており、事情調査をしなければならない。
北大・辻下教授HPに対しては妨害が加えられ一時ファイルシステム全体がダウンしていたが、回復したようで、今日は、
北海道大学運営諮問会議(3月5日)における国立大学法人法案批判
を読んだ。外部の委員のみの発言だが、国立大学法人法案の深刻な問題点を多くの人が主張している。学問科学の本質的な要請からする批判、すなわち、
「自然科学上の大きな発見等は予め目標や計画に明示できるものではない。目標に入らないような成果の評価に疑問あり」
といった主張など、じっくり考えるべきことである。以下にコピーしておこう。
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[1] 2003年3月5日開催 北海道大学運営諮問会議での発言要録
(独立行政法人化問題を考える北大ネットワーク世話人会取材)
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2003年3月17日
全国の皆さん
3月5日に開催された北海道大学運営諮問会議の内容とそれに対する北大ネット
の見解をお知らせします。
独立行政法人化問題を考える北大ネットワーク世話人会
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3月5日に開催された北海道大学運営諮問会議では、出席委員から国立大学の法
人化とそれに対する北大当局の対応に対して厳しい意見が述べられたという。以
下、当日の諮問委員会に出席した委員名簿、および、北大ネットの調査によって
明らかになった出席委員の発言内容である。
中には「法人化は2−3年後に破綻を来すであろう」という驚くべき発言もあり、
運営諮問委員の諸発言の背景にある情勢認識や情報について中村北海道北大長お
よび北海道大学評議会は委員とさらに協議の上調査し、今後予想される事態につ
いて北大の全構成員に対し、さらに、全国立大学に対し、情報開示すべきである。
また、文部科学省の指示通り「法人化準備」を進めていることに対する運営諮問
委員の強い批判は、国立大学協会執行部に対する批判としても妥当するものであ
ろう。国立大学社会は、これまでの方針を根本から再検討し、進むべき方向の議
論を国立大学全体で開始し社会に発信していく必要性を強調したい。
なお、運営諮問会議の助言あるいは勧告を学長が無視することは、国立大学設置
法第7条に違反することに注意しておきたい。
国立大学設置法第7条の2:「運営諮問会議は、次に掲げる事項について、
学長の諮問に応じて審議し、及び、学長に対して助言又は勧告を行う。
1.大学の教育研究上の目的を達成するための基本的な計画に関する重要事項
2.大学の教育研究活動等の状況について当該大学が行う評価に関する重要事項
3.その他大学の運営に関する 重要事項」
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2003年3月5日開催 北海道大学運営諮問会議 議事概要
出席諮問委員: (敬称略)
大石道夫(財団法人かずさDNA研究所長)
大塚栄子(独立行政法人産業技術総合研究所フェロー)
沢 邦彦(富士電機株式会社代表取締役社長)
武井正直(抹式会社北洋銀行代表取締役会長)
田中秀征(福山大学教授)
戸田一夫(北海道電力株式会社相談役、委員長)
東 功(株式会社北海道新聞社代表取締役社長)
廣重 力(北海道医療大学長)
委員からの意見
委員1:法人化することにより全体として文部科学省の統制力が強まることにな
る。何のために独法化を実施しようとしているのか不明である。
委員2:全体として極めてわかりにくい制度である。何のために法人化しようと
しているのか目標が見えない。先ず改革ありき、文部科学省からの要請ありきで
この法人化によって大学の質が高まるか疑問である。とりわけ評価について疑問
を持つ。物事を評価するためには、定量的な観点が必要であるが、大学の活動を
定量的な観点からはとらえられないだろう。従って、評価することは難しい。
委員3:これまでの大学でよいというものではない(満足できない)。これまで
の大学は大学の自治を振り回して改革をしてこなかったことは率直に反省しなけ
ればならない。しかし、現在進められている法人化制度には大きな問題があり、
この制度が長続きするとは思われない2−3年後に揺り戻しがあるだろう。北大
も、東大や京大のような大きな大学にただ追従するだけでなく、2−3年後の揺
り戻しに備えて準備をしておくべきであり、そのときがきたら全国の大学の先頭
に立って対応すべきである。
委員4:評価・中期目標について。自然科学上の大きな発見等は予め目標や計画
に明示できるものではない。目標に入らないような成果の評価に疑問あり。
委員5:概ね現在の方向に肯定的。但し、大学に対して変化を要求する前に文科
省としてのグランドデザインを明示すべきである。
委員1:法人化は非常に大きい問題である。大学や文科省レベルで終わる問題で
はない。政治的流れとしてとらえなければならない。自分の体験からして、大学
は毅然とした姿勢をとるべきである。
委員6:法人化は2−3年後に破綻を来すであろう。従って、真面目に取り組む
必要はないと思う。その後に備えて準備するべきである。
委員3:評価は必要であるが、国が評価するのはおかしい。大学にとって大切な
のはいかにして立派な、素晴らしい学者を育てるか、確保するかということであ
る。北大はあまりにも国の方針に追随しすぎる。
委員7:文科省自体が目標を示していないのだから大学が目標を立てることがで
きるはずがない。先ず、文科省がきちんとした目標を示すべきであり、そうでな
ければ評価はできない。
委員1:法人化の理屈が立たない。現在の法人化の内容では世論に受け入れられ
ないし、何のための法人化か?という疑問にも応えられない。世論が納得しない。
委員3:大学は自分で財源を持って、文科省から独立せよ。大学は毅然としなけ
ればならない。自分が米国から日本に戻ったときには三流市民になったような気
がした。
以上、各委員員の発言内容を発言順に記載してきたが、全体としてまとめると:
何のための法人化か不明。単純・明快に説明すべきである。
「評価」には、基準が必要。そのようなものは大学にはなじま
ない。文科省自身が明確な2−3年後の目標を持つべきである。
破綻を見据えて、全国の大学の先頭に立って準備すべきである。
なお、戸田委員長は議事進行の立場から発言無し。大学側出席者で発言を求める
者もいたが、学長の「今日は委員の方から意見を聞く場である」との意見により
発言は止められる。
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編集発行人:辻下 徹 tjst@ac-net.org
国公立大学通信ログ:http://ac-net.org/kd
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2003年3月19日(午後) 「市民の会」通信第18号が発行された。会の副会長遠藤さんがメールアドレスを公開している市会の全議員に「市民の会の声明」などを送って、その見解を尋ねたそうで、これに関する当面の結果が報告されている。自分個人の生い立ちを紹介しながら、公立大学の重要性を主張しているところは、胸にジンと来るものがある。
市会議員の反応としては、いまのところ3名の返事だけのようである。予算決定に責任のある各会派の議員の大学にたいする見識を知りたいものである。
いま(午後4時過ぎ)、廊下で国際文化学部の評議員の人にあったら、学部として「あり方懇談会」答申に対する意見書をまとめ、明日の教授会で議論し、公開するようである。このような責任ある主体的態度こそ必要なことだろう。学外の人々、市民、卒業生は、一体大学の中の人々がどのように考えているのか、とりわけ各教授会、各研究科はどう考えているのか、これを知りたいであろう。総合理学研究科(八景委員会)はすでに緊急声明を出している。さて商学部は? 市民の方々の、また市民の会の方々の迅速で明確な反応に比べ、商学部の場合、外から学部としての責任ある対応は見えないのではないか?
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2003年3月19日 ブッシュ大統領が国連安全保障理事会の武力行使容認決議を得ないまま、すなわち国際世論の支持を得ないまま、また、自国防衛を正当化するようなアメリカに対するイラクの侵略攻撃のないにもかかわらず、イラクに対して最後通告を行なった。多くの国際法学者・国際政治学者の声明(たとえば大沼保昭東大教授代表のもの)や昨夜のニュースで中央大学の横田教授も指摘していたように、先制攻撃を開始すれば、それは国際法違反である。そのような国際法違反にわが国政府が支持を表明することは許されるべきではない。国連査察団による「大量破壊兵器」の査察の迅速完璧な実施こそ、行なうべきである。
まだアメリカの先制攻撃は開始されていない。先制攻撃反対(アメリカ政府とそれを支持する日本政府への批判)のアピールをここでも再確認しておきたい。
*戦争と平和に関するアピール(反イラク戦争、アメリカの先制攻撃反対・日本政府の先制攻撃支持反対:「社会科学研究者・人文科学研究者は訴える」2003年2月27日、朝日新聞朝刊、1522名の賛同署名。賛同者とその拠出金が予定より多く、追加広告が可能となり、『毎日新聞』関東版3月4日付け朝刊に同アピールを掲載)
*また次のようなインターネットを駆使した国際法違反の先制攻撃反対集会への呼びかけもあった。国際法や日本国憲法を守る主体は国民であり、市民(世界の市民)である。そのことをこの呼びかけは示している。
WORLD
PEACE NOW 3.21
もう戦争はいらない
(PEACE without WAR is possible)
〜わたしたちはイラク攻撃に反対します〜
(NO WAR ON IRAQ)
http://www.WorldPeaceNow.jp/
わたしたちは「イラク攻撃に反対」「日本政府による、イラク攻撃への協力に反対」「もう戦争はいらない」「非暴力行動として行う」を賛同点として、アクションを行います。ぜひ賛同し、広め、ご参加ください。
■日時/場所
2003年3月21日(金・祝日) [入場無料・雨天決行・事前申し込み不要] 芝公園23号地 (東京タワーの下近く)
http://give-peace-a-chance.jp/118/img/map321.gif
最寄り駅:都営三田線 御成門駅、大江戸線 赤羽橋駅、日比谷線 神谷町駅
13:00集合、ピースパレード出発 13:30 (銀座、日比谷2コースを予定)
::: M21 WORLD PEACE NOW :::
on Mar 21th (Fri.)
13:00 Open / 13:30 Parade Start (to Ginza&Hibiya 2 course)
at Shiba Park 23 go-chi, TOKYO
http://give-peace-a-chance.jp/118/map321.gif
Mita-Line Onarimon, Hibiya-Line Kamiya-cho,Ooedo-Line Akabanebashi
Organizer : EXECUTIVE COMMITTEE OF WORLD PEACE NOW
PEACE-IN 東京タワーの下に集まり、力を交流、つなぎあわせて
PEACE-OUT 東京タワーから街へ世界にピースパワーを広げましょう!
今こそ、あなたの力が必要です。ACT for
PEACE !
※このアクションは、実行委員会だけではなく、あなたが創ります。
当日は、ピースな心を持ってきてください。プラカード、楽器などがあるとベターです。
各自の自己責任と他者へのリスペクトを前提に、ご参加ください。
●詳細&お役立ち情報、最新情報はこちら→ http://www.WorldPeaceNow.jp/
◎賛同カンパ(1口1,000円) 必須ではありませんが助かります。
公園使用料、音響、トランシーバー、デコレーション、紙/印刷代などに使わさせていただきます。
郵便振替口座:00110-6-610773 口座名:「1.18集会」
◆問い合わせ先(電話連絡先)
(電話連絡先)アジア太平洋平和フォーラム(APPF)03(3409)5555/CHANCE!pono2 内山 090(3812)3777/日本消費者連盟 03(3711)7766/ピースボート 03(3363)8047/平和をつくり出す宗教者ネット 03(3461)9363/許すな!憲法改悪・市民連絡会 03(3221)4668
worldpeace@give-peace-a-chance.jp
◆主催:WORLD PEACE NOW実行委員会
特定の政党・宗教・市民団体の枠を超越したネットワーク型非暴力アクションです http://www.WorldPeaceNow.jp/
*世界の「行動する民主主義」の一つの国際連帯の動向は、つぎのものがある。http://www.moveon.org/
ローソクの火をともすことによる静かな反戦の意思表示。
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2003年3月18日(夕方) 市民の会がいよいよ独自のホームページを立ち上げた。市大の発展を考える多くの市民・卒業生・学生・院生、そして「市民の会」と連帯する本学の教職員のHPとして発展するとすばらしい!私は三〇番目の訪問者だった。
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2003年3月18日(午後) 「市大を考える市民の会」通信第17号(本日づけ)が刊行された。@市大卒業生の「あり方懇談会」答申破棄要求書、A金沢区内市民の市長や区選出議員に対する支持撤回の意見書、B新自由主義の市場原理主義・市場至上主義に対する批判の意見、そしてC「あり方懇談会」の本質的問題を分かりやすく解説した遠藤さんの文書が掲載されている。それぞれに刺激的で面白い。新自由主義批判・民営化論批判は、公立大学としての市立大学の歴史・意義・重要性と大学の存続発展を考える場合、特に重要である。市民が、市長の政策や各市議会議員の政策と主張をどのように把握し、見守り、支持と不支持を表明していくか。市議会選挙は近い。誰が市立大学を見識を持って発展させようとしているのか、これをそれぞれに当って確認し、見極める必要がある(「市大を考える市民の会」としてアンケート調査を実施すべきか?公約を検討すべきか?)。選挙民・市の主権者・大学設置主体としての市民・卒業生の役割はとりわけ大きい。問われているのは、国際的世界的都市の市民としての見識であり、自分たちの代表者たらんとする人々の見解を見抜く力量であり、見抜いた内容を広く深く伝える力量であろう。
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2003年3月18日 卒業生の会(S37)が、中田市長宛てに「あり方懇談会」答申破棄を求める要望書を提出したことを知った。その主張は明確であり、「あり方懇談会」の議論と答申の問題を明確に指摘するものである。このような卒業生の能動的な市長への働きかけ、そしてこれを公開し、卒業生市民としての主張に連帯を求める市民的でボランタリーな活動こそは、21世紀の地域に根ざした大学改革のあり方だろう。「地域貢献」などということを大学の「本務」だなどと議会で答弁し、口先だけでつじつまを合わせて[10]も、地域の人々の生の声、地域の中で活躍する市大卒業生の声に耳を傾けようとしない行政や大学当局は、実際には地域無視ということである。
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2003年3月17日(午後) 北大の辻下教授HP(HPは破壊攻撃を受けたようである)[11]から、佐々木東京大学総長が文藝春秋4月号巻頭随想に書いた文書(独法化反対首都圏ネットワークが引用し掲載している文書)を知った。国立大学法人法案に対する(したがってまた公立大学法人化法に対する)われわれの危惧(すでに1昨年以来の事務局責任者の評議会無視など横暴がいかにひどい事態になりうるかを暗示するものだが)をほぼ裏づける内容である。東大総長であるから公然とはできないが、意味内容的には、全国の国立大学教官への独法化反対「闘争への呼びかけ」を行なっているとも理解できる。「第1幕は終わった」ということの意味内容の解釈しだいである。以下にコピーして、紹介しておきたい。
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☆佐々木東大総長の警告 国公立大学通信 2003.3.15(土) 各位 文藝春秋4月号巻頭随想に掲載された佐々木毅氏の文書を紹介します。現在の日本の政治的行政的状況では夢物語でしかない「制度環境」なしには国立大学法人制度は大学本来の機能をほぼ必ず停止させる、ということが淡々と説明されています。責任ある立場におられるためか、静かな口調で語られていますが、迫力ある文書であり、東京大学長が、このことを世に警告した意義は大きい思います。それは同時に、法人化で「得」をするが潰れる懸念はないと思われている大手大学に見られる、楽観的で無関心な大半の教官と、法人化を利用せんと活気付いている一部の「アクティブ」教官への警告にもなっています。 (編集人) ----------------------------------------------------------------- [1] 佐々木 毅(東京大学総長)「国立大学法人化雑感」の紹介 文藝春秋2003年4月号p78−80 ----------------------------------------------------------------- #()内は編集人のコメント #(最初に、国家公務員組織を「独立の」法人とすることは、官庁によるコントロールを強化するための常套手段であることが指摘されています。) #(次に、国立大学協会のこれまでの努力に一応の敬意を表して「国立大学法人法という独立の法律が誕生することになり、大学の自主性を尊重する工夫がさまざまに盛り込まれることになった。」と述べていますが、「独立の法律」という言葉には、「独立」なのはそれだけ、という皮肉が感じられます。) #(次は、天下りの増加の問題性は社会が十分認識していることを指摘し、むしろ、国立大学法人制度で、大学には研究と教育のためのエネルギーがなくなる恐れを指摘しています。格段の運営費交付金の投下が予想される東京大学ですら、その恐れがあるのであれば、他の国立大学は一体どうなるのでしょうか。) #(以下は、国立大学法人制度正当化に使われるマジカルな「厳格な大学評価」の陥穽を指摘しています。夢のような兵器が間も無く開発される予定なので、開戦しよう、というに近い話しであることを指摘しているとも言えます。) #(また、官僚制の統治下におかれる国立大学法人制度では、役所の権限が限りなく増殖し大学を窒息させることを予想しています。) #(最後に、この4年間の国立大学協会の対応を批判し、「第二幕をどのように闘うか」という風に結んでいます。しかし学長レベルでは終ってしまったのかもしれませんが、国立大学社会全体としては第一幕はまだ終っていません。力量において相当の格差のある役者――大学を自らの利益のために利用しようという意図しかない役者――を相手の闘いにおいて「自ら周到な注意と強烈な闘争心を必要」という指摘がありますが、その「闘争力」は、6万人の国立大学教官一人一人が、学長にすべてを任せず、「仕方がない」という被統治者習性を捨て、現場において直面している諸問題と関係づけて日本の大学システムの進むべき方向を考え始めるところからしか生まれないのではないでしょうか。) #(夢のような「制度環境」――現在の日本の政治的行政的状況では有り得ない「制度環境」――なしには国立大学法人制度は大学の本来の機能を停止させることを国民に周知さえすれば良い、という戦略は、政治思想史の研究者ならではの優れたものを感じます。国立大学と社会との種々のインターフェースにおいて国立大学構成員が、この制度の素顔を社会に伝えることは責務であると思いました。) ---------------------------------------------------------------------- 編集発行人:辻下 徹 tjst@ac-net.org ----------------------------------------------------------------------
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2003年3月17日 「市大を考える市民の会」の通信第16号(本日発行)を矢吹教授HPで読んだ。本学卒業生の荻原さんが市議会の議員にメールを送ったこと、その返事が3名の議員からあったこと、その3名の議員の反応はよかったことが紹介されている。大学を普通の意味での民営化政策とは「一線を画す」べきものと返答している議員の理解を、ほかの議員にも持ってもらいたいものである。大学の独自性をどのように捉えるか、これこそ各議員の見識が問われていることだろう。
本学名誉教授浅野先生の投稿もすばらしい内容である。学長への苦言は、そのとおりである。学長の大学人としての、大学の代表者としての見識が問題になっている。浅野先生のいうとおり、大学の主体的立場からすれば、「大学としては納得しがたい部分も多多あるが、ご意見を参考にして、今後大学でよく検討いたします」という主体性こそ、必要な態度だったとの御主張に共鳴する。
内部にいて、学長のあまりの事務局より(事務局そのまま)の姿勢に、大学の自治の見地、大学の内在的民主主義的発展の見地から昨年7月以来これまで繰り返し苦言を呈し、批判してきたものとして、浅野先生のような意見が表明されることは本当にうれしい。多くの名誉教授から、このような積極的な意見表明が市民の会に寄せられることを期待したい。
国際文化学部卒業生角田美幸さんのメールも貴重である。卒業生の多くはまだ本学の置かれた状況を知らないであろう。同窓会やクラブ関係など縦横の連帯を駆使して、署名をはじめ、各種の市民の会の活動に支援や主体的参加をお願いしたい。
3月13日の市議会の雰囲気を一楽先生が報告してくださっている。これは実に貴重である。学長や事務局長、各部局長がどのような態度なのか、浮かび上がってくる。学長以下、市議会に出席の人々は単なる管理職・行政職としての立場でのみ出席しており、大学の本質を守り、大学人として大学の自治を守り発展させる見地、大学の自治を代表するものとしての発言を行なっていないように見うけられる。
一楽先生が最後にまとめているように、学長や事務局は大学の自治がなぜ重要なのか、その根本がわかっていないようである。また、意図的な質問をする議員もその点を理解していない。大学内部で、大学改革をできるだけオープンな形で進める見地からは、戦略会議をはじめ各種委員会の議事録などをきちんと責任を持って公開することが必要だ。教授会議事録公開はすでに確立した原則となっている。問題はその教授会議事録が、市議会の議事録(たとえば大学予算委員会)のように、きちんと発言者の氏名・職務・立場がわかるようになっていないことなのである。市議会の議事録(本会議と各委員会)のように、大学の議事録も評議会や部局長会議、各種委員会の議事録ができるだけきちんと発言者の氏名・主張内容がはっきりわかるように改善していくべきものである。
十三日の議論からすると、議論を公開したくない大学内部の非民主的・抑圧的・官僚主義的雰囲気、理性と理性のぶつかり合いのなかから民主的発展を達成していこうとするエートス(民主的精神)の欠如と、部外秘資料の公開を疑問視する議員との相互支援・呼応関係も浮かび上がってくるようで、これは民主主義的発展方向、大学としてあるべき方向性とは逆であり、暗澹たる気持ちにさせられる。
少なくとも、中田市長は議論のプロセスの公開を公約とし、主張しているわけであり、その点では議事録公開をますます進めるべきである。市民に判断材料を多く提供すべきである。ますます対立的な論点が公開され、どこに問題があるか市民が考える素材を提供するようにすべきだろう。大学事務当局と学長をはじめとする大学の執行部のなかに、古い体質があること、議論を秘密の内に行なおうとする体質があること、匿名性の背後に隠れて公開ではいえないことを押しつけようとする雰囲気があること、非民主的に結論を出してその結論を民主的な装いを凝らして強行的に実現しようとする人々が存在することは、民主主義の不徹底の問題として、とりわけ大学のような言論と理性の場においては、悲しむべきことであり、批判されるべきことだろう。そのようなことを許さないためには、大学人の民主的意識のいっそうの深化発展が必要なのだろう。
一楽先生の詳細なポイントをついたご報告に感謝し、この報告が市民の会の発展のためにも、また大学の民主的発展のためにも、一つの重要な貢献となっていることを確認したい。
[1] 私の知りうるかぎりでの文部科学省科学研究費助成金を、医学部、理学部は相当の額、獲得している。他にもいろいろと研究資金を集めているということだ。すでに「市の予算のみ」の研究者は、理学部や医学部、自然科学系付属研究所の場合、皆無なのではなかろうか。
これに対し、文科系は、これまた私の知るかぎり、科研費取得者の数はきわめて限られているように思われる。この現状の打破は求められているのであろう。
[2] 努力目標として、このような外部からの研究費獲得はどんどん推進すべきだろうが、アメリカやカナダと、まだ「財団」の規模や意義、資金など、大きく違うのではないか?
[3] 博士課程を充実するということは必然的に博士課程を維持する人材(すくなくとも大学院設置基準で演習を担当できるいわゆる○合教授)を充実していくということである。この点を強く言うと恨みを買うのであるが(そして批判が頭の上に降りかかることを覚悟しなければならないのであるが)、大学の質、大学院の充実という社会的責務から、きちんと言っておかなければならない。「研究をしないで教育を」という「あり方懇談会」答申は、その意味で、本学の質の悪化を提言するものであり、犯罪的提案だと考える。
この「研究をしないで教育を」との主張は、大学内部にもかなりある。その発言をする人をよく見ていただきたい。研究をしているかどうか、その人の教員プロフィールを丹念に検討してみて欲しい。研究していることの具体的中身をかいているかどうか、調べてみて欲しい。
私のみるところでは、研究を放棄してしまった人、研究を一〇年以上やっていない人、そのような人々が自己正当化のために、「研究よりも教育を」と主張する例が非常に多い。教員プロフィールにおいて研究業績を公開していない人には要注意であり、研究業績を公開している場合でも、その内容がはっきりしない人は要注意である。
[4] 「市民の会」の中心的メンバーである矢吹教授はいうまでもないが、最近では、マリー・アントワネットの書簡を翻訳された国際文化学部の藤川教授はそうとうに全国的に有名になっていると考える。また、「市民の会」事務局長・松井道昭先生のご本『フランス第二帝政下のパリ都市改造』日本経済評論社、1997年は、フランス史・都市史・都市改造問題に関心のある日本全国のひとに知られているはずである。
なぜなら、手元にある書評関連資料だけでも、@『エコノミスト』97年4月15日号、A『日本経済新聞』1997年5月4日(編集委員・牧内岩夫氏執筆)、B『毎日新聞』1997年5月11日(日高晋法政大学教授執筆)、C『週間文春』1997年5月29日(フランス文学者・鹿島茂氏執筆)、D『週刊・読書人』(建築家・八束はじめ氏執筆)など多数の多分野の人から高く評価される御本をかかれている。もちろん、歴史研究専門家の学界誌『歴史学研究』、『社会経済史学』、『土地制度史学』でも学術的価値が高く評価されている。したがって、先ごろ、NHKで都市改造(パリ、ロンドンなど)のドキュメンタリー番組が製作されたときには監修者となっている。
匿名氏は、このようなことはご存知だろうか?
[5] 「沈黙」に対する批判・注意より引用。
[7] この「自由」とは、現代社会では、研究しない自由、遊んでいる自由、何らの成果を出さなくていい自由などではない。各人が自主的自発的に問題を発見し、自主的自律的に自由に研究し、自主的自律的に教育の場、学界の場、その他でその成果を多様な形で社会に還元していくことは当然である。各人のそのような研究教育の成果は、おのずとその人その人の達成に応じて、その個人に則して何らかの形で現われてくるものである。「天網恢恢疎にして漏らさず」。文は人なり、というが、「発言・行動は人なり」でもある。
大学における自由で活発な意見交換が、おのずと全体の研究教育水準を高くしていく、というのが望ましい。
[8] ただ、いずれの宣伝行動にも私自身は所用で参加できないことを卒業生有志のかたにお詫びしておきたい。
[9] この1年間、学長はそのようなスタンスを何ら明確にせず、事務当局の「辣腕」責任者に振りまわされつづけた。
[10] 学内の教員の声も無視される。たとえば、具体的な大学のどのような活動が「本務」の内容となるのか、これこそきちんと議論しなければならない。いうまでもないが、学生や院生への教育と研究、これこそ本務である。
これに対して、講座類はどうなるか?
学則上、市民講座は「行なってもよい」という位置づけで、学生・院生への教育・研究とははっきり区別している。すなわち、学則「第9章 公開講座」には一条しかなく、その第39条は、「市民の教養および文化の向上に資するため、大学に公開講座を設けることができる」となっている。教員が本来行なうべき研究教育の時間を割くには、あるいは研究教育を行う負担に加えて市民向け講座を開設するには、しかるべき配慮が必要だ、ということである。
長年、それこそが慣習として確立してきた、その慣例は学則における研究教育の本務規定と、地域に対する公開講座等の位置づけに基づいているということである。
ところがたとえば、この間、慣行を破棄し、実際に押し付けられてきたこと(非常な反発を買っていること)は、市民講座などのサービス提供に対する教員への手当て(謝金)廃止ということである。「本務」と位置付けることは、教員に時間外に(通常のコマ数負担・各種委員会負担や研究教育時間のほかに)無料で働かせるための「再定義」ともいうべきことなのである。
労働法上も、また一寸調べてみればすぐ分かるが長年確立していた慣行の上からも(慣習法上)も、無料化は問題になることである。そうしたことが年度末の会議(生涯学習推進委員会)で提案される。研究交付金制度の大枠で、異論は押しきられる。
その既成事実を踏まえて、議会答弁が行なわれている。学内で問題になっていること、反発は無視される。
根本問題をはぐらかしているのである。非常勤講師謝金問題と同じことは、専任教員の時間外勤務に関してもあてはまるのである。教員組合などが今後法的問題として問題にすべきものであろう。
もしも、市民講座が「本務」であるなら、きちんと時間内に講座を開設しなければならないし、それは教員の負担のきちんとした定義と時間規定を行なった上でなければならない。時間内に設定するなら、そのための教員などの人的予算をきちんと組まなければならない。そうしたことを曖昧にしたままで、従来の慣行を破っているというのが昨年来の現在の問題である。教員サイド(委員会)がうやむやのうちに(いろいろな思惑があって)押しきられている。この現状を追認していると、まさにそれが何年かたつうちに慣行として確立する。それが推し進められようとしている。
教員の勤務形態・職務遂行のあり方が、通常のサラリーマンとは根本的に違っているとしても、そのことの意味を大学教員の研究教育活動の独自性との関係でこそきちんと把握すべきである。週末や夜間にやっていたリカレント講座や市民講座に関して、かつてはきちんと時間外としての手当てを出していた。それを無料化する手段として、「本務」と位置付けようというわけである。「本務」だから、給与内の仕事だというわけである。
市民講座をやるべきでないといっているのではない。きちんと職務として位置付けるなら、それに対応する様々の面での保証・物的前提が必要だ、その時間的物的前提を各教員・大学に保証するために、いつも「設置者権限」を振りまわす事務局は何をやったのか?設置者の責任として、大学教員と大学に地域貢献する、市民講座を積極的に広くことができるように予算その他の諸条件を獲得し整えてきたか?ということである。それでこそ教員のやる気が起きる。それでこそ「本務」と位置付ける実質がある。
前提諸条件を欠如したまま、各教員の負担だけが重くなるように、表面上のつじつまを合わせること(議会答弁しかり、開設コマ数増加工作しかり)は許されない、反発を買うだけだということである。
Cf.議会傍聴記(3月18日市会・大学教育委員会:一楽教授)「違法答弁・虚偽答弁」疑惑
[11] 北大・辻下教授HPは、攻撃を受け、下記のような状態であるという。独立行政法人化、国立大学の独法化を進めようとする勢力の中には、インターネットでの言論の自由を破壊する勢力もいるようである。このような事件を知ると、本学における言論抑圧事件は決して見過ごすことができないことがはっきりする。言論を通じる改革こそは、民主主義の根本原理であり、その模範的実現こそ、大学人は目指さなければならない。
「当ページの主サイト(
http://ac-net.org/dgh )が攻撃を受け、ファイルシステムがバックアップドライブ も含めて破壊されたとの報告がありました。復旧まで多少時間がかかるよう ですので、完全なミラーサイトではありませんが、このサイト http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh
をご利用ください。またメールアドレス tjst@ac-net.org も現在使えません。」
なお、本日、矢吹教授から、市民の会の独自のHPの立ち上げが知らされた、いよいよ市民の会に結集する人々がボランタリーに縦横の連帯を構築し強靭にすることが、いっそう用意になったということだろう。
外部からの破壊攻撃に対するミラーサイト構築の意味もあろう。
インターネットの強みは、まさに1箇所が攻撃されても、多数のミラーサイト構築によって防御が可能だということだろうから。
直接的ミラーサイト構築ではなくても、心有る人々が次々とHPをさまざまなかたちで立ち上げ、多様なファイルを多次元的に保存し、連帯し、網の目を広げていくことが望まれる。