テキスト 第3章 日本と西洋との出会い
前史…日本人はどこから来たのか?
(文字がない時代、文字史料・文書記録のがない段階)
人類史・・・最新の遺伝子科学の諸発見…“ミトコンドリア・イヴ”
アフリカ大陸→ユーラシア大陸、その東部分、アジア大陸→日本列島・日本人(遺伝子研究の成果)
アジア大陸と日本の関係
日中歴史共同研究・・・「日中歴史共同研究」報告書(日中原文が一冊、翻訳版が一冊、計2冊)
(Pdf版外務省HPよりダウンロード可)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html
(冊子態の2冊も、送料600円で入手可能)
歴史時代(文献的記録が残されている時代)・・・魏晋南北朝の時代(220漢滅亡から539の隋による統一まで)、
その最初の三国時代、『魏志倭人伝』
隋・唐の中国統一王朝との接触・交流
仏教伝来の流れ・・・・・インド→中国→朝鮮半島→日本
日本における土着文化(自然宗教、産土神、のち、神道として体系化されるものの端緒形態)
『古事記』、『日本書紀』
大和朝廷支配の時代・・・平安時代→武士の時代
(移行期・・・NHK大河ドラマ「平清盛」の時代)
日本と大陸との交流と疫病(マクニール『疫病と世界史』上、225ー228ページ)。
Ⅰ 東アジア秩序の変化と西洋
倭寇の活動
13世紀〜16世紀・・・環シナ海域・・・中国・朝鮮沿岸、掠奪や私貿易を行った武装集団、跋扈
中国・・・冊封体制・・・周辺諸国の王に爵位や称号付与。
日本・・・・古代の一時期を除き、その体制のなかに入ることはなかった。
中国に対するモンゴル支配(元)、その後、日本への侵攻(元寇・・・文永・弘安の役)
14世紀後半、明の台頭、明による元の打倒・・・モンゴル族を北に追いやる。
(明王朝1368〜1644)
足利三代将軍義満・・・明の冊封体制に入る。勘合による日中間の公的な貿易
13世紀〜16世紀、倭寇・・・前期倭寇と後期倭寇
前期倭寇・・・日本の壱岐や対馬・肥前の土豪や漁民などが主体
後期倭寇=16世紀半ば以降の倭寇・・・中国や朝鮮半島が主・・中国人による「海禁」打開策
明王朝:陸海軍事政策の展開から、「海禁政策」(閉じこもり)へ
1543年、ポルトガル船が種子島に漂着・・・「鉄砲伝来」
琉球王国と海の道
1511年、マラッカ(マレーシア)ポルトガルが征服。ヨーロッパと東南アジア・東アジア航路の連結。・・・「レオキ(琉球人)」がマラッカで印度ベンガル産の衣料を大量に持ち帰った。
沖縄・・・14世紀半ば、北山・中山・南山と3つの王国。
15世紀初頭、尚巴志が統一・・・琉球王国。
15世紀半ば、足利四代将軍義持に入貢・・・琉球は日中両国へ朝貢。
明王朝に対して進貢交易・・・琉球馬・硫黄・タカラガイ・磨刀石(天然の砥石)
琉球王国・・・中継貿易国家
王国の首都・那覇の港→日本・朝鮮・東南アジア→那覇港→中国→那覇港といったルートを確立
東南アジアからは瑪瑙・象牙・香木・胡椒などが主な商品
日本の刀・扇子。
東アジア交流の担い手
16世紀・・ヨーロッパの進出や倭寇などの活動・・・明朝が徐々に弱体化・・・冊封体制が脆弱化・・・密貿易などの私的な交流が活発化
16世紀になると、「環シナ海域」は、倭寇・海商・琉球王国・ポルトガル勢力など、多様な海上勢力が力を競いあい、「環シナ海域」の一体化が成熟
「環シナ海域」とヨーロッパ航路の接続・・・「陶磁器の道」、「海のシルクロード」
中国商人の大量海外進出・・・琉球王国の進貢貿易、衰退
琉球王国・・・記録に残る最後の遣船・・・1570年、シャム(タイ)へ。
1609年、薩摩の島津氏によって征服され、日本の江戸幕府の体制のなかに。
Ⅱ ヨーロッパとの出会い
「世界」と日本文化の連続性 【地図①:「「鎖国」以前の東南アジアと日本人町」】
16世紀、ポルトガルやスペインなどがアジアの東への進出・・・種子島にポルトガル人漂着。
また日本からも16世紀半ば以降、多くの人が東南アジアに進出、朱印船貿易。
東南アジア各地に日本人町。
ヨーロッパから日本に・・・キリスト教、科学・医術・鉄炮・印刷技術・ファション・美術からカルタなどの遊び道具に至るまで、あらゆる分野の文物が流入
ボタン・カステラ・タバコ・カルタ・シャボンなどのモノと外来語・・・日本の人びとの生活のなか。
日本の文物→ヨーロッパに・・・江戸時代になってからのものも含めると、漆器・陶器・動物・浮世絵など
なかでも漆器は日本の代表的な製品。漆器を表す用語として「ジャパン
japan」。
イギリス・ウインザー城の女王謁見の間・・・螺鈿蒔絵(南蛮漆器)の調度品
ヨーロッパ人がみた日本
宣教師・・・本国に対し、日本の風土・日本人観・布教状況などを記した膨大な報告書を提出
一方で、礼儀や規律を重んじる日本人や教養の深さ
他方で、、習慣や宗教観の違いからくる戸惑いや誤解、誤解に基づく非難
代表的な著作・・・ルイス・フロイスの『日欧文化比較』
イエズス会東印度管区の巡察使・イタリア人ヴァリニャーノ『日本要録』
宣教師がとりわけ強く批判したのは、仏教および僧侶・・・その堕落。
日本の庶民についての記述は、比較的好意的。
キリスト教の流入と禁令
キリスト教・・・布教、承認。南蛮寺(教会)や教育施設としてのセミナリオ・コレジオなど
布教の背後に控えるポルトガルやスペインによる日本への武力進出の懸念、日本人奴隷の存在
・・・徐々にイエズス会への警戒、醸成。
豊臣秀吉・・・宣教師の国外退去命令・・・天正15年(1587)。貿易利益。
慶長元年(1596)・・・秀吉はキリシタン26名を捕らえて長崎に磔。
徳川政権・・・二代将軍秀忠、キリシタン信仰の禁止とともに大迫害
転宗を拒否したキリシタン大名高山右近らを国外に追放
元和8年(1622)には宣教師・信者ら55名を長崎において処刑。長崎大殉教(元和大殉教)
ヨーロッパへ渡った日本人
キリシタン大名の登場・・・彼らの名代として、日本からヨーロッパへ使節団、派遣。
【地図②:「天正・慶長遣欧使節の往復航路;東廻りと西廻り」】
天正遣欧使節・・・1582年から90年・・・九州のキリシタン大名の名代として四人の少年がヴァリニャーノとともにヨーロッパ諸国を訪れ、ローマ教皇に謁見し、市民権が与えられたほか、ドイツでは洋装をした少年達が新聞に掲載されるなど、日本の存在がヨーロッパに知られることとなった。
ヨーロッパから楽器や航海図のほか、印刷機が持ち帰られた。・・・日本で初めて活版印刷。キリシタン版と称された多くの日本語書物が刊行された。
慶長遣欧使節・・・仙台藩主伊達政宗、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使。1613年から20年にかけてエスパーニャ(スペイン)の国王フェリペ三世や、ローマ教皇パウルス五世に謁見。
この際、支倉常長宛に「ローマ市公民権証書」交付(現在、国宝、仙台市博物館所蔵)
帰国した支倉常長やルイス・ソテロを待っていたのは、キリシタン弾圧という現実。
常長、失意のうちに没し、ソテロは処刑された。
伊達政宗が試みた日本初のヨーロッパとの通商は不成功に。
Ⅲ 江戸幕府の外交
「鎖国」とは
キリスト教の禁令・・・キリスト教的世界観の排除。その延長線上に「鎖国」。
「鎖国」・・・東インド会社のケンペルの著書『日本誌』の一部を、オランダ通詞志筑忠雄が翻訳し、享和元年(1801)、『鎖国論』と題したのが最初であり、志筑の造語。
外交・貿易に制限を加える政策は、日本独自のものではなく、当時の東アジア諸国において広く採られていた政策。・・・「海禁」。
「鎖国」時代における交易
オランダや中国・・・長崎の出島や唐人屋敷と通じて交易。長崎奉行が支配・統括。
李朝朝鮮については対馬藩が窓口
琉球国については薩摩藩が、窓口
蝦夷地については松前藩が窓口
琉球国・・・中国製品が日本に。琉球は幕府に対しても、将軍の代替わりに伴う慶賀使や国王の即位を感謝する謝恩使といった使節を派遣。
北方においては、アイヌとカラフトアイヌや黒竜江域の山丹人との間で非公式の交易。
李朝朝鮮王朝からは江戸幕府に対し、将軍の慶事や代替わりごとに朝鮮通信使。
1607年を最初として、江戸時代を通じ12回。総勢4,500名にも及ぶ大行列。
南蛮から世界へ
16世紀から18世紀における日本・・・「異国」のヨーロッパと出会う。
南蛮文化や南蛮趣味などが流行。
江戸時代には、オランダから伝わった医学や化学、天文学や博物学などの蘭学が発達。
ヨーロッパからの「宝船」~南蛮船が運ぶ新たな世界~
17世紀・・・「南蛮図屏風」が多く描かれるようになる。
日本に到着したばかりの南蛮船や、
派手な南蛮ファッションをまとう南蛮人、
荷物を運ぶ黒人奴隷の姿など。
南蛮図・・・南蛮船をむしろ「宝船」と見立てて描かれた。
南蛮貿易はそれほど巨大な利を生み出し、南蛮船は人々に福を運ぶものとして認識されていた。