ヒトラーのユダヤ人絶滅命令(決定)をめぐる論争・研究史


モムゼンの2010の研究史総括(219)・・・このメモの最後部から抜粋

 ゲーリングがハイドリヒに7月31日に与えた全権が、
 長い間、ヒトラーの「ユダヤ人問題最終解決」命令と
混同されてきた。







 1995年のアリの整理

 このアリの整理によれば、1941年7月説(ゲーリング令に依拠)から
11月説(11月29日のヴァンゼー会議招集)までのいろいろの説が示されている。

しかし、
真珠湾攻撃・対米宣戦布告をヨーロッパ・ユダヤ人絶滅への画期とする12月説(永岑1994)は、欧米の研究には存在しない
  (栗原氏が、私の説を「研究史の無視」ということの背景にある事実)

 私が12月画期説を唱える契機の重要なものは、
 ①1942年までの四か年計画の総括秘密報告書(BArch R26-I, 18、そのエッセンスの翻訳紹介
  総力戦段階への突入を示す総合的な文書 

 ②1991年6月の日ソ歴史学シンポジウム参加とそこでの体験、

 ③『ヴァンゼー会議』ARD(監督モンメルツ、1984作品)から受けた衝撃
  ・・・なぜ1942年1月20日なのか、という重大な問い、

  最近の映画『ヒトラーのための虐殺虐殺会議――議題:1100万のユダヤ人絶滅政策』にも、
   モンメルツが参加しているので驚嘆)


このあと、ゲルラッハの説(1997、1998は1997に対する批判を踏まえて精密化・堅固化)が出てきた。
  (永岑2003においては、このゲルラッハの12月画期説を自説の補強素材とした。)

さらに、
 1998には、Peter Longerichの『絶滅の政治――ナチズムのユダヤ人迫害の総合的叙述』が出て、
 研究史の概観
を行った。

意図派(ヒトラー、ヒムラーの意図を重視)・・・代表ヘルムート・クラウスニク(1941年春)、ヘルマン・グラームル、
         新しくはリチャード・ブライトマン(1941年はじめ)・・・「研究の主要な潮流と矛盾して」

機能派・・・諸条件要素およびナチス迫害装置の独自のダイナミズムを重視。
        (対して:私の場合、戦争現場の闘いの様相を決定的とみなす)
       独ソ戦開始以降、段階的決定の連鎖、「反ユダヤ主義の累積的過激化」・
       「根本的な総統決定」を否定。
 
    (対して:私の場合、世界戦争突入とその時点でのヒトラーの断定的主張を画期として重視)

      1941年夏説(Saul Friedländer, Raul Hilberg)、
      1941年秋説(9月半ばから10月半ばChristopher Browning, Philppe Burrin)
             Browningは、ソ連ユダヤ人殺戮と「決定」との直接的関係を強調
             Götz Ally・・・10月最初のに収監。

      1998年時点での「最新説」・・・Christian Gerlach・・・
           ヒトラーの「ヨーロッパユダヤ人殺戮の根本的決定」は12月第二週、
           戦争にアメリカ合衆国を巻き込んだことへの直接的反応として。
       (・・・・・・この点、永岑1994年説と同じ見地。

ロンゲリッヒ(1998)の総括(p.14)・・・「機能主義と意図主義を越えた説明」を求めるのが、研究史の到達点。
 ・・・永岑の方法的見地(1982, 1994、2001、2003)・・・力学と論理を総合的立体的に把握する見地。
    「ホロコーストの力学――独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法」(方法的見地の簡単な説明は、特に

 戦争の段階的拡大(敵の拡大・抵抗の拡大)・戦線の段階的拡大・電撃戦から総力戦への深刻化、
 第三帝国敗退へのヴェクトル群のなかで、ホロコ―ストを見る。


 決定的段階としての独ソ戦、そして、独ソ戦の死闘のなかでの世界大戦(アメリカの巨大な潜勢力・圧力)。
 しかも、それらがもたらす総力戦とその敗退へのヴェクトル群。
       

ロンゲリッヒの「意図批判」・・・「独裁者個人(die Person des Diktators)に視野が狭隘化」
       ・・・ヒトラー中心主義批判

ロンゲリッヒの問題提起の限界性・・・ナチス官僚制の破壊的な「累積的(累進的)過激化」が、
        「なぜまず第一にユダヤ人に向けられたかを不十分にしか説明しない」と。

 永岑の上記諸研究の見地からすれば、 ヒトラーとナチ官僚制の過激化は、
    「まず第一に」、ポーランド支配層の殲滅に(ポーランドの隷属化)、
 ついで、ソ連支配層(ボルシェヴィキ)の殲滅(ロシアとその周辺の奴隷化)に、向けられた
   この基本的事実を無視した研究史整理・研究史を批判。

 ポーランド、ソ連の諸民族の階層的位置づけ、諸民族の階層性の位置づけ、
 その階層性の最底辺にユダヤ人を置いたこと、
 ユダヤ人支配・殲滅などが主たる目的ではなく、
 ポーランド、ロシアおよびその周辺の諸民族の隷属化が、「第一の」目的であった。 


ロンゲリッヒ・・・沢山の個別研究・地域研究などが出てきた成果を踏まえて、
   「最終解決の中心的決定過程、致命的な決定形成問題を吟味し直す」と。(S.16)


しかし、本のタイトル「絶滅政策」(Vernichtungspolitik)という概念自体、私の見地とは違っている。
  私の見地からすれば、独自の「絶滅政策」はなく、戦争の諸段階、戦争の力学と
  その中でのユダヤ人への対応、ということになろう。
  すなわち、「独ソ戦とホロコースト」(拙著2001)のように、戦争との関連の中にホロコ―ストを位置付ける、
  ということである。


  ロンゲリッヒの結論(Ergebnisse):「絶滅政策」4つのエスカレーション段階
    (永岑コメント:段階的過激化の見地は、私と同じ、問題は、各段階の権力状況であり、
     戦時下かどうか、その拡大段階かどうかであり、とりわけ、
     敗退への状況下と累進的過激化との相互関係を見るべき、というのが私の見地)


1933-39・・・ドイツ内部での「ユダヤ人政策」は、ナチス権力掌握と権力安定化と密接に関連。
  反ユダヤ主義(民族主義、人種主義的自民族第一主義)のさまざまの行動
  ・・・ナチトップと大衆的基礎とのダイナミックな関連
  すなわち、「単純なトップの決定」に還元できない現象。

1938-39・・・「戦争が近づくほど、西側諸国への脅迫手段Erpressungspotential」・・・??

(永岑の批判:1939年1月30日の演説、」世界戦争の場合、ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅」だ、との予言を、
「西側諸国への脅迫」ととらえていいのか?
 この演説は、世界戦争への危惧・不安が高まる中で、その世界戦争の責任を西側諸国に押し付ける論理の中で、
ユダヤ人を利用した、というもの。

 脅迫は、世界戦争勃発の責任を西側に押し付け、西側のせいで戦争が引き起こされたら、
ユダヤ人絶滅となる、というレトリック。
 このロンガリッチの解釈でも、すっぽり抜けているのは、
 「ボルシェヴィキの勝利、すなわち、ユダヤ人の勝利ではなく、ユダヤ人の絶滅だ」という文章の、
 前半をすっぽりぬかしていることである。
 
 肝要なのは、今度、ユダヤ的西側が戦争を引き起こしたら、世界大戦のように「ボルシェヴィキの勝利」ではなく、
ユダヤ人の絶滅だ、という文脈にある。
 世界戦争、ボルシェヴィキ革命の責任を、ユダヤ人に押し付ける論理である。
 (ボルシェヴィキ革命を打倒・殲滅しようとした英米仏日の反ソ干渉勢力からすれば、この論理は共有、受容可能)


その限りでは、西側諸国に対して、世界戦争などを引き起こしたら、ボルシェヴィキ革命になるぞ、との脅かしでもある。

(永岑の批判世界戦争を(ユダヤ国際金融資本が引き起こしたら)、「ユダヤ人の絶滅」を結び付ける論理は、
 ドイツ・「ユダヤ人の国外追放を加速する」ため、だったのか?
 1939年1月30日の演説をそのように解釈していいのか?…世界戦争の責任・罪をだれに押し付けるか、が主要点。)

「ナチスは戦争の中に、人種主義的観点に従った帝国Imperiumユートピア的構想の実現のチャンスを見ていた」(S.578)  

 200万人以上のユダヤ人を「何世代もかけてmehrere Generationen」閉じ込める居留地構想
  ・・・「ユダヤ人居留地」構想の急進性(S.579)

 「開戦後に始まった何万人かのポーランド民間人(その中に何千ものユダヤ人)を射殺すること、病人と障碍者の殺害」と比べて、 
 急進性・過激さを強調することは、妥当か??
 前者は、思想におけるラディカルさ、後者は行動におけるラディカルさ、・・・この区別を戦争の推移の中に位置付ける必要。 


   S.580 「絶滅政策の急進化Radikalisierungは、拡大する戦争の文脈Kontextのなかで起きた。」(
 (永岑の批判・・・最初から「絶滅政策」があったかのようである。)

 ロンゲリッヒは、1939年の戦争開始から、「ユダヤ人居留地構想」も含め、そうだという見解。









過激化・急進化Radikalisierung
 第一段階1939年秋・・・「人種政策」の脈絡のなかでの「ユダヤ人政策」の急進化、しかし、
   「ヨーロッパ・ユダヤ人ほど、激しい憤懣でもって、そして、壊滅的影響をもって迫害されたグループは
   他にいなかった。
    
  (永岑コメント:1939年秋、ドイツの支配下にあった地域は、無限定のヨーロッパではない。
  支配地域は、大ドイツ(ドイツ・オーストリア)、保護領ベーメン・メーレン、そして侵略戦争で占領しているポーランド。
  支配下の諸地域のユダヤ人と未だ支配下にないユダヤ人とは区別すべき。
  戦争・占領の段階的拡大とユダヤ人迫害の関連性を見る見地からは、無限定なヨーロッパ、と
  安易に使用すべきではない。)

  

 第二段階1941年夏ソ連ユダヤ人の殺害(射殺)の急拡大
    ・・・侵攻直後の徴兵義務年齢の男性ユダヤ人の射殺から老若男女への無差別射殺への拡大  
  
  (永岑の批判的コメント:この原因は、「戦勝の高揚」でも、「電撃戦の挫折」でも説明できない。
  (永岑:この点では同意、ソ連側の抵抗・反撃の激化、後方地域拡大
           抵抗・反撃とそれに対する報復の論理
との循環的関連、
    「罪」と「罰」との関連を見るべき・・・アインザッツグルッペの活動報告
          ・・・ボルシェヴィキ・ユダヤ人に対する「処刑」

  ロンゲリッヒの見解では、ナチズムの人種主義的階層性(諸民族の階層性)の認識の下での、
  最底辺のユダヤ人が「ボルシェヴィキシステムの主要基盤Hauptstützenとの認識(錯誤)

  (永岑:このファクターについては、同意、ただし、それは、ナチス・ナチズムが、
   ソ連・占領地民衆のナショナリズム・防衛意識を見ないこと、  
   抵抗・反撃の激化の本当の原因を直視できなかったことによる、と考える。
   ナチズムは、ドイツ民族のナショナリズムだけを極端に頂上に持ち上げて、
   他の諸民族のナショナリズムを見下す、ないし無視・軽視。)


 1941年晩夏、ドイツ民族強化全権ヒムラーのイニシアティヴ、1941年初めに計画された民族殺戮の作動、
   ユダヤ人民間人に対する野蛮なやり方が新しく征服した領域に適用・・・ヒトラーも承認

 (永岑:「新しく征服した領域」とは? ソ連占領地はまだ戦争継続中で、安定した征服地ではない。
   民政統治に移した地域のことか? 
  しかし、これならば、ソ連ユダヤ人殺戮の枠内。
  ヨーロッパ・ユダヤ人殺戮実行とは、別次元。)
     

治安警察・保安部長官(国家保安本部長官)ハイドリヒは、プロテクトラート(ベーメン・メーレン)の
   治安状況悪化(ユダヤ人追放をプッシュする決定的ベクトル群)で、
   プロテクトラート治安秩序回復(抵抗鎮圧)のために任命され・プラハに派遣された。
     1941年9月半ばから42年5月末

  

 第三段階1941年秋、   
      
  「1941年秋、絶滅政策の第三段階の決定が下った。二つの根本的決定。
  第一の決定・・・1941年9月半ばのヒトラーの決定。プロテクトラートを含む全ドイツのユダヤ人を
  できるだけ今年中にでも併合したポーランド地域に、そし来年の春には更に東方へ移送するとの決定。
  もともとは第一歩としてウッチゲットーへ6万人を移送するとしたが、この意図は、すぐに修正され、拡大された。
   今度は25000人のユダヤ人とジプシーがウッチへ連行された。そして、ドイツからの25000人がリガとミンスクへ
  移送された。 
   この時点ですでに次年度はじめに第三の移送の波が計画されていた。
   9月から11月の間に、重要ないくつかの移送準備が行われていた。すなわち、
  ドイツ・ユダヤ人へのユダヤ人記章携帯義務化、全ドイツ支配地域における全般的な移住禁止、
  ドイツから連行されたものたちからの国籍剥奪および残された財産の剥奪、である。
  1941年9月、従って、ヒトラーは1941年初めに決めた計画、すなわち、戦勝後
  ヨーロッパユダヤ人を今後征服する地域に移送するという計画を
  ――赤軍にたいする勝利を待つことなく――始動させた。

  (永岑:ただし、臨時的なもので、大々的な作戦ではない。
  大々的な移送作戦は独ソ戦下で不可能、とKにモスクワ攻撃計画のなかでは。
  大々的な移送作戦は、「来春」と。それまでに「戦勝」をと、構想)
   
  ドイツ支配下のユダヤ人の東方移送という決定は、第二の――ただし再構成できない(実証できない)が――
  決定が重要な結果をもたらした。すなわち、臨時的受け入れ地において
  地元のユダヤ人に対する大量殺戮を仕出かすことと結びついていた。

  (永岑:臨時的急場回避的移送作戦が、受け入れ不可能な条件に直面したから)


 グライザーが、「明らかにみずから」この提案を行った。ライヒからのユダヤ人受け入れの対価として、
 ヴァルテガウの地元ユダヤ人住民を10万人「削減する」ことを、すなわち、ガス自動車で殺害することを、求めた。
  (証拠文書は?)

  ライヒからの他の受け入れ予定地、ミンスクとリガのゲットーでは、1941年末までに、
  地元ユダヤ人のさらなる大規模な殺戮が引き起こされた。
  特別出動コマンド(Einsatzkommand 2)がリガないしコヴノでライヒから連行された何千ものユダヤ人を
  到着早々に射殺し始めたとき、ヒムラーの直接的な介入で、その殺害が中止された。
  以前と同様に、東ヨーロッパのユダヤ人と中央ヨーロッパのユダヤ人とは区別されていたのである。
  ・・・・・・・・・・(永岑:すなわち、大々的な殺戮はまだ決定されていない)
  
  総督府でも、特にDistriktルブリンで地元ユダヤ人住民の大量殺害の準備が1941年10月に始まった。
  その前に総督府政府は、近い将来この地域からユダヤ人のさらに東方に追放することは
  考えることができないと知らされていた。
   さらに10月には、最初の絶滅収容所ベウゼッツの建設準備が始まり、
 同時に、ゲットー退出Verlassenに対して――いわゆる射殺命令でもって――死刑が布告された。
 しかしながら、こうした諸措置はまだ総督府の全ユダヤ人の殺戮のための準備ではなかった。(S.582)
 
そうではなくて、まず第一にBezirkルブリン地区に限定されていた。ここでは、翌年、
ライヒからの第三の移送の波が待ち受けていた。

 (???第三の波の前提に、1941年12月16日閣議における総督フランクの発言特にS.160, VEJ 9を見なくていいのか。
 この閣議記録は、世界戦争を引き起こせば、ユダヤ人絶滅だとのヒトラー演説、
 特に350万人のユダヤ人を射殺はできないが、それに代わる方法が必要、
 ハイドリヒがそのための会議を1月に開催・・・ニュルンベルク裁判証拠資料PS-2233、IMG5、S.502-503にあり)、
 
 この41年12月16日閣議で議論された一つの主要議題は、伝染病の蔓延であり、その対策であった。
 ドイツ人、そして親衛隊・警察、さらに国防軍も
 この伝染病に脅かされていることが、重大な問題となっていた。

 後にユダヤ人絶滅作戦(圧倒的多数がポーランドユダヤ人)=ラインハルト作戦を率いる
 親衛隊警察指導者グロボチュニクも、警察内部でのチフス感染に関する報告をしていたS.153 VEJ 9

 チフス蔓延に総督府統治機構自体が、深刻な危機意識を持っていたことを直視する必要がある。
 ルブリンの親衛隊警察指導者こそ、グロボチュニクである。S.153 VEJ 9.

 総督フランクは、総督府の窮状を踏まえて、親衛隊警察とは違った独自のユダヤ人殺戮などを行っていたかに推測される。
 すくなくとも、親衛隊警察としては、総督府・総督の独自の行動を、全体的な最終解決の枠組み・方針決定に組み込む必要を考え、 
 中央官庁ではない総督府(の代表)を、ヴァンゼー会議に招集することとなった。1941年12月1日Eichmann)

 ベウゼッツ(ルブリン)とヘウムノ(ヴァルテガウ)だけではなく、1941年から42年の冬、ガス殺設備が作られたerrichtet。
そのような施設の設備諸計画が、リガについても立正可能であるnachweisbar。
さらなる立地としてモギレフ(ミンスク近郊)とレンベルク(ガリツィア)への示唆Hinweiseが存在している。
したがって、殺害手段としてのガスの投入は、まず最初、予定されている受け入れ地ではじめられた。
その上、10月から11月、そして12月、ユダヤ人の死の運命を予定する指導的ナチスの脅迫的言辞が、頻繁になった。

 ヴァンゼー会議は、「最終解決」に関してライヒ保安本部の諸計画がいかなるものだったかについて重要な洞察を与える。  
 一方では、全ユダヤ人の東部占領地域への戦後における移送という古いプログラムを堅持している。しかし、
他方で、すでに新しい展望で、すでに戦争中における「最終解決」のますます大きくなる章Aschnitteを遂行可能としている。
 ただし、明らかに殺害方法については、完全には明確になっていなかった。

 ・・・・・・・・・・・・・・(永岑:殺害方法には少なくとも議事録の限りでは、むしろ、言及されていない。
 逆に、明示的には、重労働による大量死は想定内となっている。
 過酷な重労働を生き抜いたユダヤ人については、しかるべき方法で殺害することが暗示されている。)


1941年秋、親衛隊は、「労働による絶滅」の陰険なシステムを発展させた。
・・・労働配置不可能なユダヤ人を「過剰」と烙印を押すため


1942年最初の数か月、輸送は、ヴァンゼー会議で出された意図説明に照応して、拡大された。
1942年3月、アイヒマンは「大ドイツ」地域から総数55000人の第三の移送の波を告知した。
第三の波は事実1942年3月20日に始まった。そして、6月末まで続いた。
その目的地はDistriktルブリンのゲットーであった。つまり、そもそもの「ユダヤ人居留地」であった。

1942年春、またまたひとつの決定が下されたに違いない。すなわち、
受け入れ地、Distriktルブリンのユダヤ人のなかで、大量殺害を行う決定である。
この決定は、隣接の行政区Distriktガリツィアにも拡大された。ナチス指導部の観念のなかで
東方における「生存圏」の新秩序計画のための基盤として、また前年秋以来の大量射殺の舞台でもあった。


ゲッベルス日記のデータ、二つの行政区に住んでいるユダヤ人の60%殺そうとしている、との記述は、
特別の重要性をもっている。三月初めに下された両地区の大量殺害は、10月以来、両地区で、
この目的のために責任のある親衛隊警察指導者グロボチュニックによって、準備されていたた。

(永岑:42年3月の決定は、誰が下したのか? 
 42年3月の決定を、41年10月からの準備と直線で結んでいいのか?
 12月16日の閣議にに出席していたグロボチュニクに対して、総督フランクが発した総括は、意味がなかったのか?
 この閣議、それを受けてのビューラーのヴァンゼー会議出席を踏まえてのものではないのか?)

 ルブリンで行われた措置は、同じように、1941年秋ヴァルテガウのユダヤ人に対して行われた措置と
 本質的にパラレルであることを示している。 
  (永岑:「本質的に」パラレルか?)
 もちろん、グロボチュニクはグライザーと違って、固定型ガス室を利用した。
 ヴァルテガウでのように、そして、リガとミンスクでのように、地元のユダヤ人に対する大量殺害は、
ライヒ領域からの移送と直接的関連im unmittelbaren Zusammenhangにあった。

 (???永岑:ライヒ領域からのユダヤ人移送ルブリン・ガリツィアユダヤ人の殺害とを、
直接的な関連
に、直線で結んでいいのか?
 総督府。フランク総督は、受け入れ拒否、受け入れ不可能な状況、)

 ルブリン地区への移送の第三波の開始と総督府における最初の絶滅収容所の完成とともに、
東方への後の移送の選択枝が決定的に放棄された。ルブリン地区に連行された人びとはほとんど
短期間のうちにゲットーの中で惨めに死去し、、あるいは、同様に絶滅収容所に移送された。
 だが、以前と同様、移住プログラムと労働投入プログラムの見かけFassadeは維持された。

  (永岑:ヴァンゼー会議の基本的結論のとおり
   第三波は、まさに、ヴァンゼー会議の結論の執行である。
   12月の絶滅政策の画期を実行に移したのであって、新たな段階というべきものではない。
   子の移送・殺戮の波は、軍と親衛隊警察の春季大攻勢の現象として、関連性を見るべき))





 第三波、1942年3月から6月の間、RSHAは更に大規模なヨーロッパ規模の輸送計画を準備していた。
  (永岑:これはまさに、1月20日ヴァンゼー会議決定の線上にある具体策の展開。)
  
 1942年3月25日スロヴァキア政府との合意に基づき、6月末までに5万人のユダヤ人をKZアウシュヴィッツと
 ルブリン地区に移送された。1942年3月、フランスからの捕虜Geiselnのアウシュヴィッツへの移送も始まった。

 この大ドイツ外の地域からの最初の移送は、すでにヨーロッパ規模の計画の一部であることは、ハイドリヒの
 Tukaに対する4月10日の発言からわかる。
  そのあと、まずスロヴァキア、ドイツReichsgebiet、プロテクトラート、オランダ、ベルギーとフランスから
 50万人を東方に移送することが予定された。

 
 絶滅政策の第四段階は、1942年4月・5月に始まる。いまや、これまでの特定諸地域の中央ヨーロッパ移送の
シェーマ――地元のユダヤ人がまず殺害される――が、放棄された。4月末・5月はじめ明らかに、即座に無差別に
殺害する決定が下された。
 おそらく4月末か5月に、NS体制は、すでにルブリン地区とガリツィア地区で始めていた大量殺害を総督府全体
拡大することを決定した。(永岑コメント:41年12月16日閣議での総督フランクの求めに対応)
 同時に、併合したオーバーシュレージエンの中で大量殺害を行う決定が下されたに違いない。
 総督府ユダヤ人の体系的な大量殺害は、6月に始まった。しかし、輸送遮断Transportsperreのために、さしあたり、
数週間中断された。輸送遮断は、東方における夏季攻勢のために出されたが、最終的には絶滅政策に対し急進化する
作用を及ぼした。
 それは西方諸地域Westgebietenからの輸送を加速化させた。そして、この時期、大量殺害の計画者たちは明らかに、
彼らの構想を熟慮し、打ち固めた。その結果、全計画は7月に、はるかにすさまじい勢いで、ふたたび作動させることができた。
 (永岑:まさにスターリングラード攻撃への全力l集中と関係しているとみるべきだ)
そこで、SSはこの決定的局面でユダヤ人強制労働総督府で引き受けた。それによって彼らは、絶滅からさしあたり除外された
「労働可能」囚人へのコントロールを保持した。


総督府のユダヤ人に関するこの根本的決定と同時に、いずれにしろ5月半ば以前に、根本的な決定が下されたに違いない。
その根本的決定によって、絶滅政策はさらに拡大されたのである。ひとつには、「大ドイツ」地域からの移送が
3月に決められた割合を超えて強化された。もう一つには、体制は、中央ヨーロッパから移送されたユダヤ人
全部ないしほぼ全部東方の指定場所に輸送が到着したら殺害することにした。これは、「5月半ば以降、ミンスクで、
ライヒから移送されたユダヤ人に対して行われ、6月はじめからソビボールでスロヴァキアからの移送者に対して行われた。

 1942年4月17日、ヒムラーはすでにウッチゲットーで生活している中央ヨーロッパユダヤ人1万人以上の殺害を命じた。これは、
10月にここに連行されたユダヤ人で、ゲットーの中で非人間的条件を生き延びてきた人々であった。

 これら4月後半ないし5月味目に下されたこれら諸決定――それらが5月と6月に事項された――によって、
NS体制は、進行中の大量殺害の印象のもとでますますフィクションとなった総督府東部あるいは占領東部地域に
おける「保留地」の理念Ideeに決定的に別れを告げた。
 
 この絶滅政策の新たなエスカレーションと軍事的展開、夏季東方攻勢との関連は、明確であると同時に、
1942年春、占領地たソ連地域からの大量の労働力リクルートに鑑みて、近い将来ユダヤ人強制労働をまもなく
放棄することができると信じられた事実とも合致する。

 1942年6月はじめ、西方に対する具体的な移送計画が作成された。それは7月半ば以降、3か月以内に実現される
べきものだった。それによって、4月初めにはじめて確認できるerkennbar諸計画が進められ、6月・7月の輸送封鎖に
よる諸条件にに適合させられた。


西ヨーロッパからの輸送、そして――輸送封鎖によって――スロヴァキアからの輸送も、いまやアウシュヴィッツに
振り向けられたdoirigiert。ここで、いまや移送された大多数が(既にミンスクやソビボールと同じように)、7月初め以降、
絶滅政策の新たなラディカルなヴァリアンテとなった。すなわち、彼らは到着後ただちに、鉄道に降ろし場での選別後。
毒ガスで殺害された。

輸送封鎖の廃止1942年7月の後、輸送計画と殺害計画は全面的に進行した。
1942年7月19日に絶滅政策の機能を視察に行ったヒムラーは、その視察の最後に、
1942年末までに総督府の全ユダヤ人の「移住」を完了せよと命じた。

すでに1942年夏の間に、ドイツ支配下の西部と南東からの輸送の強化を組織できるような最初の準備が成された。

こうした1942年春・夏の絶滅政策の加速化と急進化の背後には、明らかに、NS指導部の決断、すなわち、
目指してきた「最終解決」を根本的に戦争中に遂行するという決断があった。
(永岑:この決断こそ、1941年12月12日のヒトラー発言を踏まえたもの、であった)

USAの参戦後、「第三帝国」は、長期的な多戦線ー連合国戦争(永岑コメント;まさにこれこそ世界戦争だ)を遂行する
必要性、そしてこの新たな状況こそが、必然的に絶滅政策の位置価値Stellenwertを変えさせた。

  (??永岑:「新たな状況」=世界戦争への突入こそ、ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策の決定を必然化したのである。
 しかも、それは、総力戦の泥沼化の必然的結果でもあった。
 独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法こそ、ホロコ―スト理解の基本的方法である。)


 ドイツ支配下の全地域への絶滅政策の拡大によって、全ドイツ支配地域が、人種主義のヘゲモニーのもとに投げ込まれた
unterworfen。占領され同盟した諸国家は、「新秩序政策に組み込まれ、犯罪への参加によって、ドイツ指導権力die deutsche
Führungsmachtに結び付けられた。
 そこで、絶滅政策は、ドイツの占領・同盟政策のかすがいKlammerとなった。
 大陸におけるドイツ支配の維持のための絶滅政策の中心的機能から、NS指導部の大きな努力が、戦争週末まで、
さらなる諸国を絶滅政策に引き込んだことが、説明できる。


永岑:ロンゲリッヒの見地は、絶滅政策を前提にしており、
 絶滅政策が独ソ戦、さらなる世界大戦によって形成されたこと、を明確にしていない。
絶滅政策は、1941年12月に決定された、というのが私の見地。


総じて、ロンゲリッヒの場合も、親衛隊・警察、その特別部隊アインザッツグルッペの活動現場を直視していないのではないか?

 活動報告:1941年7月31日までの
 何らかの抵抗によるドイツ側の兵・親衛隊員・警察関係者の犠牲・・・・「報復として8000人を射殺」、
                                  「その大部分はユダヤ人・インテリゲンツィア」

 もっともよく知れれているのは、キエフ攻防戦終結直後、キエフ大火(ソ連軍残置秘密部隊による)の罰として、
                        キエフ郊外バビヤールでの3万人余のユダヤ人「処刑」
 抵抗とそれに対する苛烈な処罰の連鎖。 

 現場からの親衛隊・警察部隊の報告が示すことは、
   占領地民衆の抵抗・パルチザンの反撃のベクトルとその鎮圧の過激化であり、「罪」と「罰」との循環的拡大である。

したがって、
 全ヨーロッパのユダヤ人絶滅は、独ソ戦と世界大戦の深刻化・総力戦化・敗退過程の中で、現地民衆、ドイツ民衆、占領地・支配下ヨーロッパ民衆の
統合に不可欠な武器として、拡大・過激化していったとみるべきではないか。

 





    
 (永岑、1941年晩夏・計画から10月開始のライヒ地域(ドイツ・オーストリア、プロテクトラート)からの「東方」への移送は、まだ、全面的殺戮とは違う。
  ウッチ(リッツマンシュタット)のゲットーへの移送が、ゲットー現地からの受け入れ阻止・抵抗で頓挫する状態、
  その頓挫を経て、殺戮へ。(10月の親衛隊内部でのもめごとが、殺戮計画がまだ明確になっていなかったことを立証)
    



    









段階的過激化の見地からの諸説の位置づけ

11月説までの諸説
 論争点は、1941年11月29日のヴァンゼー会議(7月31日ゲーリング令に依拠した会議)の招集という事実から、
 11月末までには、ヒトラーのユダヤ人絶滅命令が出ていた、とする。

 ゲルラッハなどは、11月29日の会議は、ヨーロッパ・ユダヤ人に関する諸官庁の要望を確認し、
 諸官庁の諸利害・政策との調整を図る為のもので、論争点となる絶滅命令が出ていたからというものではない。

 ゲーリング令(7月31日)およびヴァンゼー会議招集状(11月29日、ハイドリヒ治安警察保安部長官=警察機構の次官級役職)は、
 10月15日に開始したドイツ・オーストリア、ベーメン・メーレン保護領からの移住に関する経緯
 (11月20日の軍の抗議、ユダヤ人「概念」、受入地の難問群・親衛隊警察機構内部の軋轢)
、を踏まえて、ヨーロッパ・ユダヤ人問題を移住、疎開などの方法で解決するための中央諸官庁調整会議


12月説の見地

 1941年12月7日(ドイツ時間)とその後のヒトラーの対米宣戦布告を経た12日会議で、
 「絶滅命令」がでた、とする。
 (ゲッベルス日記12月12日の記述・・・ヴァンゼー会議記念館展示史料より)


ゲルラッハ等の
新しい史料としては、
 ソ連崩壊の結果利用できるようになったモスクワの文書館史料の利用、

 とりわけ、ヒムラー業務日誌(刊行1999)の発見(ゲルラッハも編集者の一人)
 その利用・解釈(特に12月18日の記述、S.294・・・Judenfrage als Partisan auszurotten)



私の12月説の基本j史料:
 ニュルンベルク裁判(証拠文書)以来、総督フランクの活動・日誌の重要性はつとに有名。
拙著(2022年3月)でも、重視して紹介。

 特に、1941年12月16日総督府閣議の記録(同、ヴァンゼー記念館展示史料・独英



1941年11月29日のハイドリヒの会議招集(オリジナルp.1, P2.:7月31日ゲーリング令を添付、
       関係諸官庁にそれぞれの要望を求める)
       招待状末尾に総督フランク、その他招待状の相手を列記)


 この招集状をどのように、どう評価すべきか?

  総督フランクを招待していることから、また、総督府に累積していた難問群・親衛隊警察との軋轢からして、
  総督府ユダヤ人問題の解決が主要議題のひとつであることは間違いない。

  対米宣戦布告・世界大戦突入という巨大な転換を、ハイドリヒ招集との会議ではどう見るべきか?

  10月〜11月説(ヘルベルト)は、直線で結ぶ。
  (12月説(永岑は、「冬の危機」によるソ連占領地・総督府の危機状況を踏まえて、解釈する)、
 
    10月15日開始の移送者収容所建設の問題(11月10日予定の受け入れ困難、ローゼ10月27日
    移送ユダヤ人射殺は東方占領地指針などと合わず、「野蛮」云々、と
    10月31日布告に抗議・射殺禁止、軍需経済阻害)、




  12月説(永岑)は、真珠湾攻撃・対米宣戦布告という巨大な転換(世界戦争勃発・突入を踏まえた画期性・飛躍
 (総督府および西ヨーロッパのユダヤ人の「東方移送」・絶滅収容所への移送の基本路線への飛躍をみる。
  ゲッベルス日記、ヒトラー・ヒムラー会談(ヒムラー業務日誌12月12日)。



総督府との関連
 フランクの12月16日閣議での発言、「350万のユダヤ人を射殺はできない、その方法は、1月予定の会議で取り上げられる」。


 11月28日 総督府ユダヤ人問題でハイドリヒのところでクリューガーと会談したアイヒマン・メモ
 「ユダヤ人問題最終解決について」(アイヒマン、S,1, S.2, S.3、総督府次官ビューラー宛て12月1日草稿)

  総督府(ビューラー)と上級親衛隊警察指導者(クリューガー)との権限をめぐる軋轢、
 12月9日ベルリンで予定の会議で調整。
 (ヴァンゼー会議の当初予定の開催日)

 そのためのアイヒマンのビューラー招待状(ハイドリヒ名で、内容は中央諸官庁宛て会議招集状と同じ)
 (クリューガーは、会談参加者・親衛隊掲載釣内部者なので、ビューラー宛ての方な冒頭挨拶は省略k)



 11月29日召集の会議には、総督府も招待された

 (総督府の抱える難問群の累積、東方占領地省などと衝突
 

 総督府のユダヤ人問題は「自分でしまつしろ(Liquidieren sie selber!) などを踏まえて)。


調整会議の必要性高まる
 



外務省の要望(Rademacher, 8. Dez. 1941, S.1, S.2, S.3)







内務省との関連・・・ユダヤ人の定義、混血ユダヤ人取り扱い、







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最近の説(クラウスニックなどの説をハイドリヒ研究から):
  ハイドリヒ研究から提起されている新説(2013)・・・1941年6月22日のの対ソ奇襲攻撃以前、1941年1月説。
 
  (12月画期説からのコメント・・・これはあくまでも戦勝を達成した後の構想、
   実際に大々的なヨーロッパ・ユダユア人絶滅に向かうこととは違う)


 (1941年12月説からの批判的コメント:
 ①構想・計画と実際の発動の時期とは別物。
 構想段階・計画段階では、前提となるのが、戦勝、相手の降伏による条件。
たとえば、
 マダガスカル計画・・・フランスが屈服し、さらに、マダガスカルまでの海上覇権・イギリスの同意などが獲得されて初めて)
 しかし、計画・構想の実現諸条件の欠如・不可能性が明確になる中で、たんなる幻想的計画になってしまう。
 
 構想・計画が煮詰まり、実現可能性の諸条件が出てくる時期が問題。

 ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅への画期をなすのは、1941年の対米宣戦布告による文字通りの世界戦争への突入である。)

 ②誰の、いつの、いかなる文脈での発言・文書であるか。区別と関連性の解明が必要。
  外務省の見地、法務省の見地、四か年計画の見地、軍需経済当局の見地と
  親衛隊警察長官ヒムラー、帝国保安本部長官ハイドリヒの見地との違いとかなさり合い)

 ③独ソ戦(総統指令第21号バルバロッサ作戦…ソ連征服作戦、これに関連する軍や警察の諸命令)と、
  対米宣戦布告・世界戦争に突入(Weltkrig ist da.)、

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1942年1月16日東部占領地域省文書・・・ハイドリヒの計画の解釈…「戦後」、混血児問題







ハンガリーの特殊性――同盟国、ドイツ対ソ戦に参戦、敗戦過程での離反、新ナチによる再支配
 この過程で1944年春から夏にかけて、40数万人のユダヤ人がアウシュヴィッツへ。(ドイツでの労働投入数は不明、計画) 







最新の研究史総括
モムゼン(2010)の場合・・・「最終解決への転換点」本文

   12月説をどう評価しているか?


S.214
  第三帝国諸占領地、徳のソ連の研究が、我々の認識を飛躍的に拡大し、
 東中欧におけるドイツ占領政策と体系的なヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策との関連性を証明した。

 (これはまさに永岑1994、2001の見地)

 同時に、ヒトラー、ベルリン中央官庁の命令に還元されるのではなく、彼らと地域の権力者との相互関係のなかで、
 最終解決が実行されたことも、コンセンサスとなった。

 (この点、永岑2001の場合、親衛隊警察の全機構(ヨーロッパ全域に張り巡らされた支配機構
 (その活動、事件通報ソ連と国家警察重要事件通報)、その支配の必要性との関連性をみるなかで、検証した)

S.215 ]
Martin BormannとHeinrich HImmlerの「危惧」なるものが、絶滅政策を加速した。

  (永岑の場合は、独ソ戦の推移、スターリングラード戦の在り方が、総力戦敗退の圧力と相まって、決定的「加速」要因とみる。)

ヒトラーの包括的命令をめぐる問題も、相変わらず、論争。

 世界観的な種々の「絶滅」構想・観念が、実際に行動に移されるのはいつか、これが問題の核心。

(私の場合は、独ソ戦と世界大戦、その諸困難・敗戦への道を実行への客観的強制的要因とみる。)


強制的移住と保留地プラン


S.216 1939年1月30日の有名な演説・・・エヴィアン会議失敗を受け(あるいは嘲笑し)、

   1940年10月、ゲシュタポ長官ミュラーが、スペインとフランスからのユダヤ人移住を禁止。


   「新たな世界戦争とユダヤ人によって解き放たれたら、『最後にはユダヤ人種の絶滅だ』」との言説は、
   20年代に規則的に表れてきたユダヤ人を人質として利用するという反ユダヤ主義的扇動の常套句
   属するものだった。これがのちに独裁者のユダヤ人問題についての立場に現れ出た」

   (世界戦争の責任論としてのユダヤ人問題、という関連性は、通底。
    欧米諸国にも受け入れられる反ユダヤ主義の論理)



     
S.217
    ヨーロッパにユダヤ人受け入れの「自由な土地」があり受け入れ可能と、主張したものと(モムゼンの解釈)
    したがって、なお強制的移住政策の延長線にあるもの(モムゼンの解釈j)

     (ホロコースト研究者、私の見解とは、違う。
      この演説が、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅に果たした意味に関して、きちんと位置付けるべきだ)

    ポーランド攻撃、ポーランド共和国解体、総督府創設、西プロイセンの併合が、「完全に新しい状況を創り出した。」
    「移住政策を相対化した」
   戦争の状況(侵略とそれに対する反撃・抵抗)が、大規模に暴力的手段を行使することに対する抑制を取り除いた。
   総督府が、ソヴィエト占領諸地域で行われる抑圧の実験場Erprobungsfeldとなった。

   (このポーランドの位置づけは、ブロシャート説以来のもの、
    しかし、ポーランドは民族主義的支配体制であり、その指導層・軍人の殲滅であり、
    ソ連のユダヤ=ボルシェヴィズム打倒・殲滅という基本戦略との違いも重要、
    国家権力の中枢を撃破殲滅する、という基本戦略の点では同一だが)


S.218
   ヴェストプロイセン、ヴァルテガウから総督府へのユダヤ人移送作戦・・・フランクの抵抗、それにゲーリングも同調。
 
   袋小路に入って、・・・  

  1940年はじめ
   そこで浮上したのが、ソ連へのユダヤ人移住
      ・・・しかし、ソ連政府の無関心(冷淡さ)により、挫折。

  アイヒマンによって推進されたニスコ・プロジェクト・・・これに一連の他の保留地構想解決策が結び付いていた。

  ルブリン地区における保留地諸計画

  ハイドリヒが作成した近距離計画・遠距離計画

  関係諸官庁の対立的利害関心から、挫折。

  そうこうするうち、ソ連征服戦争の動員準備が始まる。

  
こうした袋小路に直面する中で、ハイドリヒは、外務省のマダガスカル案に興味を示した。
そして部下にその仕上げをさせた。

 フランス進軍後、イギリスがヒトラーの「大々的な平和条件」提示をしても拒否され、計画は廃止となった。ただ、

公式には、1942年になって初めてad. acta
veraltet ablegen, zu den Akten legen


S.219
 ヒトラーの対ソ攻撃の決断で、状況変化・・・・「戦後に、ヨーロッパのドイツ支配下ないし統制下の地域への移住させる」させる政策へ。
   Danneckers Bemerkung

 1941年3月26日のハイドリヒが作成しゲーリングに提出した文書、そして7月31日にゲーリングから全権を付与された計画
 「ヨーロッパのドイツ影響下のユダヤ人問題の全体的解決のための準備」命令。

 ゲーリングがハイドリヒに7月31日に与えた全権が、
長い間、ヒトラーの「ユダヤ人問題最終解決」命令と
混同されてきた


S.220
 NS指導部は、ソ連の速やかな敗北とイギリスの譲歩を想定していた。つまり、10月にも、中心的戦闘が終結するとの想定。
 ゲッベルス日記記載。


ソ連に対する絶滅戦争

 地域的な「最終解決」は、東部への追放によって行うものと。

 これは、ヒムラーの東ヨーロッパにおける民族的「耕地整理」――
 この構想は東部全体計画Generalplan Ostで頂点に達する――と密接に関連。
 

  しかし、1941年早秋、ユダヤ人問題の将来的展望が根本的に変化。
  ソ連に対する人種絶滅戦争Rasesnvernichtungskriegによって。
  それは、1941年3月30日のヒトラー発言をもとにして。

  (永岑:人種絶滅戦争、とは修飾過多の誇張表現ではないか?
  1941年3月30日のヒトラー発言の正確な解釈が必要というのが、私の立場。
  大木さんへの批判的コメントの立場。
  ヒトラーの6月22日の国会演説をみよ。撃破・絶滅すべきはユダヤ=ボルシェヴィズムだ。
  実際の戦闘に置いて、闘いのダイナミズムで、すなわち、ソ連赤軍が国家指導部・スターリン体制の勢力との激闘で、
  ソ連人民(国家指導部に従うソ連人民)に多大の犠牲を強いる大祖国戦争になって、
  2000万ともいわれる犠牲者数という結果からすれば、それが「人種絶滅」に見えるとしても。)


S.220 -S.221・・常套句「ユダヤ=ボルシェヴィスムス」、ユダヤ人を不穏発生元として、パルチザン・シンパとして、無差別に殺害
 8月から、早いところでは7月のうちにも。

S.221
  1941年8月1日のヒムラーの親衛隊騎兵連隊に対する命令・・・全男子ユダヤ人を射殺せよ、
夫人子供をプリピャチ湿地帯に追放せよ。
後者は失敗。しかし、背後にある観念は、ユダヤ人から存在基盤を奪い取り、殺戮せよ、と。

 ヒムラーは明らかにoffenbar、アインザッツグルッペCの上級親衛隊警察指導者イェッケルンに、
婦女子を含む非労働ユダヤ人の殺害を命じた
 労働能力あるユダヤ人と労働不能、非生産的ユダヤ人の区別

 同じ発想は、7月16日のヘップナーの提案にも共通。


 (非労働ユダヤ人は、ドイツ占領者にとって、厄介者、「大食漢」、パルチザン協力者、などとして、除外=殺害対象となる) 

S.222
  1941年7月後半・・・ユダヤ人問題の「最終解決」については、「漠然とした観念」vage Vorstellungenしかなかった。



S.223
さらに東方へ

 1941年9月18日 ヒムラーがグライザーに「総統のご希望」を伝える。
 第一段階として、 ドイツとプロテクトラートのユダヤ人を二年前に併合した地域(東部)へ、
 次いで、来年春、「さらに東方へ追放」。

 最初、リッツマンシュタットを予定。
しかし、
 実際には、ミンスクとリガへ輸送=追放。


S.224 
 ユダヤ人問題の処理が、「新局面へ」。
 それを推進したのは、「自分の地域をユダヤ人から解放したいjudenfrei大管区指導者たちの要求

 (永岑:それに、特に重大なのは、ハイドリヒが担当した保護領の治安情勢
 ハイドリヒにおけるDolchstoss想起の治安情勢(

 ベルリン大管区指導者ゲッベルスからの要望(8月中旬)・・・ユダヤの星携帯義務化(ヒトラーの承認9月8日)


 総督府におけるゲットー化…なかなか進展しない
  1941年10月には、ゲットー化の推進過程で、ユダヤ人射殺多発

 迫害急進化の決定的刺激・・・オディロ・グロボチュニク(ルブリン地区Distrikt親衛隊警察指導者)
から発する。
  1941年7月、ヒムラーから、警察基地の計画・設立を託される。
  グロボチュニクは、親衛隊軍需工場その他に、ユダヤ人労働力を使用。
 
 並行的にガリツィア地区の親衛隊警察指導者カッツマンKartzmannが威信を示すクラカウへの道路建設に従事。

 ここでもユダヤ人を使用。強制労働収容所をウクライナ地域にまで、連鎖状に建設。

「労働による絶滅」の実際



S.226  ヒムラーが、総統官邸長官ボーラーに依頼して、安楽死作戦T-4あ作戦の専門家を、
  リガ、ついでルブリンに派遣。
   ユダヤ人処刑の技術的方法を模索して。実験的に。
   殺害方法・殺害キャパシティに関して、具体的な構想はまだなかった。

   ハイドリヒはアイヒマンをルブリンに派遣して、殺害技等を視察させた。

 
  大管区指導者グライザー・・・ヴァルテガウの10万人にユダヤ人の追放に従事、
  彼も、T-4の助けによる殺害方法を検討


1941年10月13日、ヒムラーは、ベウゼッツ絶滅収容所建設の許可を出した、そして、
 T-4人員の支援を保障した。


 グロボチュニクは、全権を基に、フランクと総督府政府の指導的人物の同意を得た。
 1942年春、ソビボールに、さらにその後トレブリンカに、さらなる殺害センターが建設された。


1941年晩秋の諸決定によって、部分的処刑から体系的絶滅への質的な一歩qualitativer Schrittが進められた。
 さしあたり、総督府に関して。