200410月前半の日誌

 

 

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20041015(2) 矢吹晋名誉教授から、久しぶりに『カメリア通信』(29)をいただいた。大学「改革」は、行政当局中心(大学の自治[芦部『憲法』抜粋個所参照]はいったいどこに行ったのか、という諸手続きで)でどんどん「進んでいる」が、それがはたして大学内外の希望や意見を十分に反映したものか、そうでないかは、重大問題である。それは今後起きてくるであろう問題、将来の発展方向とも関連する。一楽教授が市議会に対して申し出た数理コース設置の要望(「大学像」において設定されながら抹消されたもの、その復活要求・陳情書参照)とも関連する。そこで、今回の「改革」を正当化するために利用されたアンケートが、適正なものであったのかどうかは、きちんと検証すべき問題となる。総合理学研究科の一楽教授がそのために情報公開を求めたが、開示されたものは黒塗りの部分が多く、アンケートの妥当性、回答利用の妥当性などにかんして検証作業ができない。情報開示の不十分性(当局による操作性)と問題点を批判した一楽教授の文章を以下に掲載しておきたい。

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横浜市立大学の未来を考える

『カメリア通信』第29

  20041015(不定期刊メールマガジン)

Camellia News No. 29, by the Committee for Concerned YCU Scholars

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理学部一楽重雄教授の情報開示請求に関する異議申し立て書

 

大学改革アンケート結果に関する情報開示請求の一部開示決定(大改2号、3号)についての

異議申し立てに関する諮問(諮問第506号)に際しての意見書

                                        平成16年10月12日

横浜市青葉区****************

一楽重雄

 

要約:情報の共有は民主主義の基本的要件であり、情報の非開示については、公共の利益の観点から慎重にすべきである。今回非開示とされた黒塗り部分の一部は、すでに大学当局から公表されているものであり、非開示とする理由がない。アンケート回答の個別意見は、ごく一部のみが公表され、行政に都合のよいものだけを公表している疑いがある。今回のアンケートでは、ごく一部の部分を除いて、回答内容を公表しても回答者が特定される恐れはまったくなく、回答者の利益、権益が犯される恐れもない。それらについて非開示とする理由はない。企業規模など企業自身に関する設問などへの回答を除いて開示すべきである。

 

本論:情報公開制度は、民主主義の基本である情報の共有を目指すものです。特に、行政文書の開示は、権力が恣意的な行政運営を行っていないかを検証するために不可欠なものです。その一方、個人のプライバシーを守る観点から文書の内容によっては、非開示あるいは一部開示とせざるを得ない場合も存在します。この場合、公共の利益と個人のプライバシーの保護というふたつの相反する要素の比較衡量が必要となり、個別の判断が不可欠です。

 今回の情報開示請求は、「大学改革アンケートの結果」に関するものです。アンケートの回答内容をむやみに公表すること、特にアンケート回答を書いた人の氏名などの公表については、その方に思わぬ不利益を与える場合があり得ますので慎重にすべきことであることは十分理解できます。しかしながら、アンケートと一口に言っても、個人や企業に関する実態調査などのような個人や企業自体に関する情報が含まれるものと,今回のアンケートのように大学の在り方について意見を聴く場合とでは大きく状況が異なります.確かに、個人の意見であっても,その個人が特定される可能性があり,またそのおかれた状況などが読みとれる可能性があるものなどについては,情報の開示は慎重にされなければなりません。

 今回の種々のアンケートにおいて,上のような観点も考慮して、非開示が適当と思われるのは,回答者の氏名などと回答企業の規模,業務内容などに限られると思われます.それ以外のものについては,公表しても回答者を特定できる可能性がないものばかりです.さらに,その内容も大学のあり方を中心とするものあり,それを開示したからと言って,回答者の権利権益が犯されることはおよそ考えられません。情報の共有という公共の利益と比較した場合,抽象的に個人の利益権益が犯されるということで非開示というのは不適当であり,具体的な特定の権益が犯される可能性がある場合にのみ非開示とすることが許されるものです。

 また、実施にあたって、公にしないとの条件をつけてアンケートをしたと主張していますが、今回のように大学改革に対する意見は、「法人等又は個人における通例として公にしないこととされているものその他の当該条件を付すことが当該情報の性質、当時の状況等に照らして合理的であると認められるもの」とは言えず、非開示の理由にはなりません。

 事実,このアンケートの回答については,すでに、大学自身が「個別意見の例」として,一部を公表しています.なぜ,すでに公表されているものまで非開示となるのでしょうか.この点については,大学側の提出した意見書ではまったく触れられていません.

また,一部の個別意見のみを公表する事は,アンケート結果を恣意的に利用したのではないかという疑いを持たざるを得ません。もし,そうであるとすれば,これは民主主義の基本をふみにじるものであり,決して許されることではありません.残念なことに、本件の場合、総合的に判断すると、あらかじめ想定している「大学改革」に都合のよい結果を出すためのアンケートであり、結果の公表であった疑いが捨て切れません。

 実際,アンケート回答には「専門教育を充実すべき」という意見が大変多いにもかかわらず,大学の公表した「アンケート結果概要」では,このことにはまったく触れられていません。そもそも,これらのアンケートは,市民の意見を偏見なく聴くという態度に欠けています.例えば,「米国にある教養中心の大学が日本にもあった方がよいと思いますか」という設問自体,回答者を誘導するものです.市大の大学改革のために質問しているのですから,ここでは「市大がこのような教養中心の大学になることに賛成ですか」というように聴くべきです.日本にはたくさんの大学がある訳で,このような聴き方では「日本にひとつくらいそういう大学があってもよい」という考えのひとは,「そう思う」に丸をつけます.それをもって市大が教養大学になることが支持されているというように話をもっていくことは許されないことではないでしょうか。

 あるいは,入学時点では専門を決めず2年次以降で選択できる制度についてもきいていますが,この場合,実験設備,あるいは,教員の人的資源等から,2年次以降で選択する場合に,おのずと制限が生じることに触れずに、単に「自由に選択出来る制度」についてきいています.希望さえすれば,その専攻に進むことができるかのような表現では,誰でも賛成するに違いありません.このような設問の場合には,当然,希望に進めないことも生じることを示して聴くことが必要です.実際、現在の理学部で行われている学科配属でも、ある学科ではおよそ半数くらいが第一希望以外の学生となっています。このようなことを明らかにして質問すれば、自ずと結果は変わって来ます。

 また、回答を公表すれば回答者と市との信頼関係が損なわれるという市側の主張については、ごく一部の設問、会社の規模などについての設問などを除いてその恐れはないと考えます。また、アンケートは実施に際して「個別の回答を公表することはしない」として実施したから公表できないという市の主張は、一部の回答をすでに公表した事実に矛盾するものです。むしろ、この種のアンケートにあっては「回答された意見は、氏名などを伏せて公表する場合があります」と断るべきものです。実際、文部科学省がパブリックコメントとして意見を募集する際にはそのような断り書きをしています。市民は自由に意見を述べる権利を保有するとともに、その意見には一定の責任を持つべきものであり、内容の公表はむしろ前提とされるべきであり、それをもとに行政と市民とが意見交換をすることにより初めて民主的な行政が可能となるのです。結果の公表をしない、あるいは、結果の一部のみを公表する(いわゆるつまみ食い)ということは、アンケートを実施する意味を持たなくするものであり、アンケート費用は税金の無駄遣いとなります。

 一部をすでに公表している個別意見と同じ範疇である個別意見は、基本的に開示すべきであって、特に回答者が特定される恐れが強いもの、あるいは、回答者の権益が具体的に犯される可能性があるものについてのみ黒塗りとすべきです。今回の一部開示ではあまりに多くの部分を黒塗りとしており、これを容認すれば事実上情報開示制度は意味のないものとなるでしょう。審査委員会の厳正かつ実態にあった審議をお願いする次第です。    以上

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編集発行人: 矢吹晋(商学部非常勤講師)   連絡先: yabuki@ca2.so-net.ne.jp

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20041015(1) 「大学評価学会」の中村氏(東大先端研)から、下記のシンポジウム案内をいただいた。「社会貢献とは何か」を考える(時流の一面的理解に抗して)ものとなるであろう。

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アレゼール日本 第2回シンポジウム「大学が市民社会のチカラになる」

 

日時:2004年11月3日(祝) 13:30〜17:30
会場:早稲田大学(本部キャンパス) 1号館301教室(正門すぐ右手)
(東西線早稲田駅より徒歩5分、山手線高田馬場駅より早大正門行きバス終点
より徒歩0分)

*参加費、事前のお申し込みは不要です。

講演タイトル
「現場主義の学問と大学の可能性:自主講座運動の経験から」
  宇井純(沖縄大学名誉教授、公害論)
「バリアフリーな市民社会を作る:障害学という実践」
  長瀬修(東京大学先端科学技術研究センター、障害学)
「市民社会と向き合う研究者のネットワーク」
  辻下徹(立命館大学理工学部、Acedemia e-Network Project呼びかけ人)


 近年の大学界を覆う改革の嵐のなかで、これまで「象牙の塔」だった大学を
社会に開き、多様な人々の期待に応えていくことが強く要請されています。そ
のもとで、各大学では「社会貢献」へむけた取り組みへと少なからぬ努力が注
がれていますが、その多くは「社会」を産業界と理解し、産学連携を進めこと
が唯一の解決策であるかのような傾向さえ見受けられます。しかし、大学がそ
の知を開くべき社会とは産業界に限られるものではありません。むしろ、とき
に産業界と利益が衝突することもある地域住民、一般の市民へと目を向けるべ
きであり、多様な市民の生活の向上に結びつく必要があると、私たちは考えて
います。そのような取り組みのなかでこそ、大学ははじめて、すべての人々に
とって本当の意味で「開かれた」存在として生まれ変わることができるのでは
ないでしょうか。今回のシンポジウムでは、大学が市民社会のチカラになるた
めの条件とその可能性を探りたいと思います。

 当日は、1970年代より自主講座運動というかたちで、市民社会と切り結
んだ現場主義の学問の道を模索され実践されてきた宇井純氏から、自主講座運
動の経験を踏まえた問題提起を行っていただきます。続いて、日本での「障害
学」の立ち上げに尽力されてきた長瀬修氏から、多様な成員から構成される市
民社会と大学との関わりにおいて新たな道を切り拓きつつある「障害学」とい
う学問的実践のありかたをめぐって、話題提供していただきます。また、Acad
emia e-Network Project
を立ち上げ、全国の研究者の間の新しいネットワーク
のあり方を模索されている辻下徹氏からは、多様なかたちで市民社会と向き合
おうとする研究者たちのあいだで、どのようなかたちの連携が可能なのかをめ
ぐって、議論していただく予定です。

 市民社会に開かれた大学のあり方を議論し、新しい大学のあり方を模索する
場としたいと思います。本シンポジウムへのみなさまのご参加をお待ちしてお
ります。


本シンポジウムについてのお問い合わせ先
 アレゼール日本(高等教育と研究の現在を考える会)事務局
 E-mail office@areserjp.org / Web Site http://areserjp.org/
 〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
   早稲田大学政治経済学部岡山茂研究室気付
 fax 03-3203-9816 / tel 03-5286-9723

 

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20041014日 「全国国公私立大学の事件情報」、「新首都圏ネットワーク」等が新聞報道を紹介して伝えるように、都立大近代経済学グループのCOEはついに継続断念に追い込まれたようである。

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20041013(2) 非公式情報として、「来年度から個人研究費の自動配分がなくなることになりそう・・・・教育研究費という名目で配分を受けるためには、何らかの競争的研究費への応募が必要、科研費に応募を」とのことである。基礎的な研究費である教育研究費(どのくらいの額になるのか知らないが)を取得するためだけに、「何らかの競争的研究費への応募が必要[1]」という。もしこの情報が単なる「勧告」(善意の情報提供にとどまるもの)ではなく正式のものであれば(正式のものとなれば−しかるべき正式文書として責任ある部署から公表されれば−、そうでなければ恣意的運用になりそれはそれでまた大問題になるが)、熊本大学で競争的研究費に応募しない教員には「研究費の1割カット」と公表され−公表されればその限りで公正である−センセーショナルなニュースとして全国を駆け巡ったが、それ以上のニュースになりそうである。オンリーワンの大学となるかもしれない[2]。研究費原則廃止という「あり方懇」答申や「大学像」をなにがなんでも、あくまでも貫こうということか。そもそも応募しなければ教育研究費はなくなるというのだから、1割カットどころか、10割カット、ということになる。いったいそれは本当か? 

大学改革推進本部(行政当局)が組織したプロジェクトでそのようなことが決まりそうだという。決定ならば、きちんと少なくとも科研費申請締め切りの2週間ほど前には正式文書として条件を明示し公開すべきである。非公式に脅かしをかけるやり方はいかがなものか(非公式情報を流した人の単なる善意か?)。あやふやな状態にしておいて、様子を見て不利益処分をするというのは問題であろう。

こうしたやり方は横浜市行政当局の方針ということか?行政当局の委員会(プロジェクト)に大学側から選ばれた人々は、そうした市(行政当局)の方針をそのまま受け入れるということか。手続き的な公正さはどうなるか?

市当局の予算で、いきなり10割カットなどの部局があるのだろうか?競争的研究費への応募は、それほどに絶対的なものか?これは新しく発足する公立大学法人の設立する市立大学の魅力を高めることだろうか。恐るべきことではある[3]。こういう行政主義的官僚的統制的やり方−しかも、大学内部の組織ではなく行政当局の組織したプロジェクトの検討結果として強行するやり方(しかも外部からは教員がメンバーに入っている−いや委員長は教員にしているかもしれない−ので大学が自主的自発的にやっているように見えるやり方)−は、理性に訴え合理的な説明力で同意を調達すべき大学として、まっとうな大学らしいやり方だろうか?

 きちんと実績を残しているもの(過去の研究成果をきちんと論文や著書で公開しているなど)を評価・顕彰する、というプラスのやり方ではなく、罰則や不利益処分を前面に出すやり方は、人々を奮起させるものだろうか?人々を侮辱するものではなかろうか?これが大学教員に対するやり方だろうか?

「大学の自治」は?

 大学の自治の主要な柱は何か?芦部『憲法』によれば(芦部『憲法』抜粋個所参照)、予算管理の自治も憲法学説で有力となっている。すなわち、

 大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。ほかに、近時、予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力である。」

運営交付金システムは、まさに国立大学の独立性・自立性・自治性の強化の側面を可能性として持つ。ところが現実は? 学則・教授会規程が規定する教授会・評議会等の予算(見積もり)に関する権限の剥奪、という事態が露骨に進行している、ということではないか?市行政当局に協力する教員をプロジェクトに組織してものごとを決め、教授会・評議会という正規の審議機関を無視するやり方である。

 

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20041013(1) 都立大ポーカス博士の総長声明(107)に対するコメントを以下にコピーしておこう。本学も、都立大学ほどひどくはないとしても、同じような問題を抱えている。昨日の教員組合ウィークリー(本日付「全国国公私立大学の事件情報」にも紹介された)が指摘する諸問題もその例示である。

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Z-5   2004107日に発表された都立大総長声明は,どんな意味を持つのでしょうか? 次へ

ポーカス博士

まず,茂木総長声明「新大学設置認可答申を受けて──現状評価と課題──」 と, 108日の東京新聞(朝刊,多摩版)の記事を読んでもらおう。個々の論点は,読めば分かることばかりなので敢えて解説はしないが,後で2つの点から今回の声明の意味を考えてみたい。


首都大学「遅滞生じ危機的状況」
都立大学長が異例の声明 各分野の課題列挙

 都立四大学を統合して来春開学する首都大学東京について、都立大学の茂木俊彦学長は七日、開学準備や新学部の内容など幅広い分野の課題を列挙する声明を学内で公表した。首都大は先月末に文部科学相から設置認可を受けたばかり。統合対象大学のトップによるこの時期の声明は異例ともいえ、都立大教員らの反発の根深さが浮き彫りになった格好だ。
 声明は、首都大について「解決を急ぐべき多くの課題がある」と指摘し、「さまざまな面で著しい遅滞が生じており、危機的状況と言っても過言ではない」と準備の遅れを懸念している。
 また、首都大が新たに設置する「都市教養学部」について、「理念が不明確で組織構成に無理がある」と批判。他大学での受講を単位に認める「単位バンクシステム」についても「大学間で教育資源が開放される兆候がない現状では、現行制度の拡充から始めることが現実的」としている。
 茂木学長は、首都大の授業や研究の体制などを検討する教学準備会議のメンバー。都大学管理本部は「指摘内容はいずれも現在検討中のものばかり。開学準備が遅れていることはない」と反論している。


まず,今回の総長声明が「全学のみなさんへ」というタイトルになっていることに注目したい。この声明は,都立大学の学生・院生,教職員全員に向けて発せられたことになっている。なるほど,総長として,設置認可が降りた今,どのような現状があり,どのような課題が残されているのかを総括したと言えるわけだ。都立大学総長は,現在の都立大教員の代表だ。それはつまり,「都立大教員」の代表であるばかりか,300人余りの「首大就任予定教員」の代表であることも意味している。だから都立大の現状を憂いながらも,「首大」の準備をしている教員の努力をねぎらうことになり,「首大」設置準備が著しく遅れていることを指摘して,現状の問題点が早期に解決されるように願うことになる。 就任承諾書を300人余りの教員が出したのは事実であり,「首大設置認可」は降りてしまった。そんな状況で,総長が現状(status quo)を分析し,その現状をどのように改善できるかを学内のすべての人達に対して訴えた のだ。しかし,これは方向が違う。現状分析をして改善策を出すといっても,改善策を実行に移す主体は,都立大の教員ではなく,大学管理本部の役人と,管理本部よりの一部の教員なのだ。指摘した課題を解決できるのは,大学の中の人間ではない。それなのになぜ,「全学のみなさんへ」なのか?
 これは,わし個人の解釈じゃが,管理本部宛に声明を出すことは,今や無意味だと総長は考えたのではないか。
(1)
これまで管理本部宛に声明を出しても,まともに答えが返ってきたことはない。
(2)
一年前とは違い,総長は大学管理本部で開かれる「教学準備会議」や「経営準備室運営会議」のメンバーとなっている。
(3)
世間一般に向けての声明という形を取ると,管理本部がまた大問題にする。

次に,東京新聞の記事の最後の部分に注目したい。 「都大学管理本部は『指摘内容はいずれも現在検討中のものばかり。開学準備が遅れていることはない』と反論している。」 もし本当にこのように大学管理本部が答えたとしたら,馬脚を現したと言わねばならない。つまり,「指摘内容は現在(107日)検討中」だから「開学準備が遅れていることはない」と言っているのだが,これは,大学管理運営の常識からすると,大間違いだ。つまり, 「指摘内容は現在(107日)検討中」=「開学準備が遅れている」 というのが,総長が挙げた問題点に関して,大学教員が考える常識なのだ。 10月中旬といったら,もう次年度の計画はほとんど決定しており,具体的にその計画実現のために作業がある程度進んでいる時期なのだ。しかし,「単位バンク」1つとっても,都立大の学部長,研究科長を入れた会議は9月末に第1回が開かれたばかりで,これから検討しましょう,という段階だ。具体的作業というよりは,まだまだ机上の議論なのだ。総長声明にある基礎教育センターしかり。あれをやるこれをやる,と言いながら,具体的に実施することを念頭に置いたら,決めなけらばならないことが山積していて,すでに来年4月開校に向けて実行に移しておかないといけないことがあるのに分かっていない。だから,首都大学「遅滞生じ危機的状況」という東京新聞のタイトルは真実を伝えている。本当に,管理本部では未解決,未定の問題が山積みなのだが,本当に大学運営がどういうものかを知らない役人達は,事態を甘く見ているのだ。繰り返して言うが,たとえ設置審が認可答申を出し,文部科学省が認可しても,4月から問題なく「首大」がスタートできるという保障は何一つないのだ。まあ,考えてみれば当然だ。大学管理本部といっても,これまでひとつの大学を一から設計したことはないし,大学の内部の運営などこれまで手をつけたことがないのだから,どの時期にどの程度の仕事をこなしているか,なんてなーんにも分かっていないのだ。ここにきて,管理本部の一部のお役人は,事態の深刻さに気づき初めているらしい。急遽,いろいろな委員会に協力する教員の数を増やしたり,学部長予定者だけではどうしようもないから,「設立準備主査」なんていう名前で,元となる学部の代表者を正式に取り込んでいこうとしている(「主査」なんて,どこかで聞いたことのある名前だな)。 さて,総長の投げたボールは,誰がどのように取るのだろうか?投げっ放しとか,誰もボールを取らないということがあってはならない!

 

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20041012(2) 都立大学総長の声明が正式に発表された。オリジナル文書にリンクを張ると同時に、以下にコピーしておこう。また、この声明に関する東京新聞報道にもリンクを張っておこう。

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全学のみなさんへ
新大学設置認可答申を受けて──現状評価と課題──(2004年10月7日)

東京都立大学総長 茂木 俊彦

 

 

全学のみなさんへ

新大学設置認可答申を受けて
── 現状評価と課題 ──

東京都立大学総長 茂木俊彦

2004年10月7日

9月21日、大学設置・学校法人審議会は都の新大学(首都大学東京)を2005年4月に開設することを認可するよう文部科学大臣に答申、同月30日認可された。しかし、新大学は2003年8月の前計画の廃棄に発し基本計画の策定から詳細設計にいたる開設準備の全過程でさまざまな問題を抱えていた。このことは、審議会答申が都の期待した7月にはなされず継続審査となったこと、2003年10月の都立大学総長声明、2004年1月の都立大学評議会見解をはじめ、学内外から数多く発信された声明・要望などを見れば明らかであろう。事実、今般の答申は多量の「留意事項」を付して行われた。それらを見るだけでも新大学の開学のためには解決を急ぐべき多くの課題があることを改めて認識せざるをえない。
 また、今回の答申・認可には含まれないものの、同時に計画されている公立大学法人への移行も、もし設置者の財政負担削減大学組織の自律性の大幅な制約のみを狙いとして進められるのであれば、誇るべき都民の財産として発展を遂げてきた本学の研究教育の蓄積を維持し、また激しさを増しつつある大学間競争に勝ち残り、さらに長期的視野から人類文化に貢献していくことはきわめて困難となるであろう。
 残念なことに、来年度に向けた開学準備も、われわれが再三にわたって求めてきた「協議」を避けるために、敢えて組織としての大学には協力を求めず、少なくともこれまでは、全体を統括する責任体制も作業の明確な見通しも欠いたまま進められて来たのが実情である。実際、すでにさまざまな面で著しい遅滞が生じており危機的状況に至っていると言っても過言ではない。東京都は、この状況を早期に打開するために、今こそ設置審の付した留意事項ならびに大学の意見を真摯に受け止め、可能な限り改善の努力を行うべきである。これまであまりに不十分であった教育研究機関としての大学の特性への特段の配慮が不可欠だからである。
 同時に、残存する現大学(3大学・1短大)の運営体制の検討が経営・教学の両面にわたりまったく不十分であり、学生、教員の間に深刻な不安が広がっていることを指摘しておかなければならない。設置者権限に属するとして一方的に現4大学を廃止し法人のもとに「首都大学東京」の開設を決めたのは東京都である以上、学生をはじめとする関係者に不利益が生じないようにする義務と責任がもっぱら都にあることは言うまでもないであろう。新大学の開学および新法人の開設準備に全力をあげるべきであるが、それだけに目を奪われ、法人のもとでの現大学の運営体制の整備が遅れ、在学生に深刻な被害が及ぶことを危惧する。
 私は、本学の教員・職員が、日常的な業務に加えて新大学の準備作業のために額に汗して奮闘してくださっていることに心から感謝し敬意を表する。総長としては、その職の責任を自覚し、これまで通り今後も、学内構成員の意見・要望に真摯に耳を傾けつつ、都の開学準備に向けた会議等の場において必要な意見の表明は行っていく所存である。以下に記すのは、設置認可を機に大学管理本部が自らの取り組み方の全体を改めて点検するとともに、特に留意して取り組むべき課題や考察を深めるべき課題のいくつかである。最低限これらに迅速かつ誠実に対応することが「首都大学東京」および現大学のいずれもが生き生きと機能していくために必要であり、同時に本学構成員の努力に適切に呼応する道である。
 もとより私の基本認識や個々の問題の指摘に過不足がないとは思わない。まして無謬だとは考えていない。この見解がみなさんの注目と議論の対象となり、ひいては学内構成員がエネルギーを高めて課題解決のために取り組んでいく一つの契機になることを期待している。

1.新大学の問題

1)都市教養学部
 この学部の準備に関連して第1に指摘したいのは、全学の基礎的教育を進める中核となるべき基礎教育センターについて、現段階でなお、その役割・任務も組織体制もほとんど未確定であるということである。情報教育の内容と方法をはじめ基礎・教養の教育の検討が大幅に遅れているのはこれと無関係ではない。さらにこのセンターと学生サポートセンターの任務の分担と連携はどうするのか、基礎教育センターと学生サポートセンターの両者は、基礎・教養段階と学部専門教育段階にそれぞれどうかかわるのかについても十分な解明がない。さらに言えば、ファカルティ・ディベロプメント(FD)の取り組みは基礎教育センターが担うのかどうかといった問題も明確でない。新大学の開設準備においては、これらを早急に確定し、それと結合していっそう体系的な教育課程の編成に向けて前進することが重要であり、それが新大学に入学してくる学生に対する責任を果たすことでもある。
 なお設置審の留意事項に「名称に『都市』を冠する『都市教養学部』の教育理念を一層明確にし、これにふさわしい特色を持つ体系的な教育課程の編成に一層の配慮をすること」とある。「教養」という普遍的概念に「都市」という特殊限定的概念を接木することの分かりにくさを指摘したものと理解してよいと思われるが、この点はわれわれがつとに指摘してきたことである。われわれは「都市教養」なるものの理念があいかわらず不明確であること、人・法・経・理・工という本学現行5学部を廃止して大括りにする組織構成に無理があることから目をそらすべきではない。上記の作業の遂行と並行して、学部の名称、理念等に関して学内構成員の意見交換を引き続き行い、場合によっては学部名称の変更もありうるという見通しをもって今後に臨む必要があると考える。

2)都市政策コースとインターンシップ
 都市政策コースは、大括りの学部構成の象徴であるはずである。だが、いまだに管理本部はコースの教育理念、教育課程に関して具体性をもって決めるに至っていない。設置審がこれについても懸念を表明しているのは、まことに正鵠を射ている。分野横断型の教育研究が成り立つためには、まず「分野」が確立しそれぞれ独自の教育課程が整備されていることが前提であることは自明の理である。それゆえに困難も伴うし、拙速は避けるべきであるが、本コースの内容等の具体をできるだけ早く整理して内外に示す必要があろう。
 また、インターンシップは当面は選択制にすることで落ち着いた。だがこれを本格実施する方向をとるのであれば、その目的、実施方法等に関する相当にていねいな検討が欠かせない。1,2年生のインターンシップと3,4年生のそれとは、目的も性格も異なると考えるのが自然であり、実施方法も同じであるとは限らないといったことはその一例である。

 

3)単位バンク
 学生の履修形態の多様化、利用可能な教育資源の拡大という意味で、単位バンクの考え方にもそれなりの利点が含まれていることは否定しない。しかしながら、大学間の教育資源の開放が全国的システムとして整備されるどころかその兆候さえない現状では、まず現行の単位互換制度・単位認定制度の拡充から始めるのが現実的対応であることもまた確かであろう。とりわけ、大学管理本部の原案にあるような科目登録委員会と学位設計委員会の考え方は、学校教育法等で定められた教授会の教育課程編成に関する責任と権限に抵触する恐れがある。設置審の付した留意事項に、「関係組織間の適切な連携の下、単位バンクシステムや学位設計委員会等の新たな試みが円滑かつ有効に機能するよう努めること」とあるのは、まさにこの点を指した問題提起だと見るべきである。

2.現大学の運営について

1)在学生の学習権保障(教員転出、学則)
 今回の新大学への移行にあたり、何よりも留意すべき重要な問題が、現大学の学生・院生の学習権保障であったことは言うまでもない。東京都が、法人のもとに期限を切って現4大学を存続させるという複雑な手続きを採ったのもそのためであった。しかし現状を見ると、新大学と法人の開設にのみ注意を奪われる結果、現大学学生への配慮が後回しになりがちとなっている。とりわけ他大学等に転出する教員が続出しているにもかかわらず、後任の採用はおろか非常勤対応さえ不十分にしか行われないことは深刻な問題と言うべきである。これによる教員スタッフの著しい貧困化は、残った教員による埋め合わせが可能な範囲を超えており、本学における教育サービスの質に直接影響することは否定しようがない。必要な措置をとることが喫緊の課題である。
 また、現大学の学則に関し、法人化に伴う不可避な改訂は別として、新大学の学則に機械的に倣う改訂を行うことによって、現在の学則に保障された学生の諸権利を侵すことになることがあってはならない

2)来年度の教務(カリキュラム・時間割編成等)
 新大学の来年度カリキュラム・時間割編成等には深刻な遅滞が生じている。多くの欠員を抱える中で現在に至るまで非常勤講師枠すら決定に至っていないことは遅滞の典型例である。建設中の新校舎の備品・管理体制なども詳細は未定であり、このまま推移すれば、仮に何とか授業開始となったとしてもさまざまな面で混乱は避けがたい。もとより本学は、総合大学としての経験に照らし新大学の教務について全面的協力を惜しむものではない。しかし、そのためにはまず予算措置を含めた全体の方針を早急に定めたうえで、教育研究の実態に通じた大学側に必要な権限とイニシアチブを分与することにより、機動的な対応を図る必要がある。この点について管理本部は、従来とってきた考え方と手法に固執することなく、適切に対処するべきである。

3)事務体制・学生サポートセンター
 事務組織体制・学生サポートセンターについても、詳細はまだほとんど何も決まっていない状態である。にもかかわらず大学管理本部は検討の過程を公開せず今に至ってもなお机上の設計を繰り返しているように見える。大学の実情に疎い行政組織による教学事務体制等の検討は非効率かつ非現実的である。準備の遅れとリアリティを欠いた設計が放置されれば、それらはすべて新入生と在学生双方に多大な犠牲を強いる結果にしかならないことに思いをいたすべきである。
 なお管理本部は学生サポートセンターを教員組織と分離して法人の一組織とする方向を示している。そのようなことで学生の多面的なニーズにまともに対応できるかどうか、慎重な検討が求められよう。

4)現大学に残る教員の研究教育条件
 今回の大学改革の手続き上の問題についてはここでは触れない。しかし、改革問題が起きて以来、とりわけ昨年夏の前計画の廃棄以降、多くの教員が転出しあるいは現大学残留の道を選んだことは忘れてはならない事実である。4大学の中では特に本学にそうした新大学非就任教員が集中しており、総長としてはそれだけ重大な関心を持たざるを得ない。しかし同時に、現大学にとどまる教員の今後の研究教育条件の検討が後回しになり、まだ何の方針も示されていないことは遺憾であり、今後深刻な人権問題にも発展する恐れがある。たとえ新大学への移行を希望しなかったとはいえ、かれらが東京都(法人移行後は公立大学法人)の雇用する正規職員として、これまで通り研究及び在学生への教育の任にあたる点で何ら変わりはないことを改めて認識し、検討を即座に開始して早く適正な結論を得るべきである。

3.法人化に向けての課題

1)定款(含む学則)
 新法人の定款は、7月にその「たたき台」の提示があり、これに対する関係部局の意見も徴集されたが、最近になってようやく管理本部からそれら意見への回答が示された。しかし、残念なことに、都側に大学の意見に真摯に耳を傾け、誠意をもって改善を図る意志がほとんどないことが明らかになったに過ぎない。これは同時に行なわれた教員の身分・労働条件についての回答(次項参照)についても同様である。役員会すら存在しない中での理事長権限の突出、事務局長を学長と並ぶ副理事長とすることによる経営部門への教学部門の従属、教員の選考・昇任等人事にかかわる教授会自治の弱体化、学長選考手続きの非民主性、現大学学則の取り扱いなど、定款「たたき台」は全体に大学の特性への配慮があまりに欠けており、法人下での大学業務の発展の観点からも深い危惧を抱かざるを得ない。何よりも人で成り立つ大学経営において、成功するための経営感覚とは何かを学び直しつつ相当な見直しを行う必要があろう。

2)研究教育条件・教員の身分
 これに対する回答の内容もまったく不十分である。すでに多くの教員が流出していること、新規教員公募の著しい低調さなど、すでに明らかになっている否定的兆候から学ぶべきは、教育研究の質を確保するにはもっぱら研究教育条件を整え組織の士気を高揚するしかないということである。長期的見通しに立った慧明な経営戦略を欠いたまま、いたずらに運営経費を削減し組織の自発性を萎縮させることは、大学においては自殺行為に等しいということを強調しておきたい。

 

以上




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20041012(1) 教員組合ウィークリーを受取った。その内容は、きわめて重要なものであり、賛同する。以下にコピーしておきたい。

 

-------------横浜市立大学教員組合週報/組合ウィークリー(2004.10.12)-------------

もくじ
教育課程・教育組織と教員の教育評価との関係をどうみるか
教員説明会のご感想を
ひごろの疑問・不安をお寄せください

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教育課程・教育組織と教員の教育評価との関係をどうみるか
             横浜市立大学教員組合・執行委員長 中西新太郎

10月1日、国際総合科学部、国際総合科学研究科の教育課程編成および入試
体制にかんする教員説明会が行われた。文部科学省の認可を受けた説明会とさ
れるが、教員側の質疑にあったように、改組後の教育課程、教育組織が教員の
処遇・就業条件とどうかかわるか明らかにされておらず、また、大学の組織・
運営を律する規程・学則もいまだに定められていない。これらの条件を整え、
教員組合等との必要な協議・折衝を経て個々の教員にたいする条件提示がなさ
れるまで、科目担当をふくめ教員が諾否を留保できることをまず確認しておく。

説明会でも触れられたように、配付された資料は文科省への申請内容であり、
実際に国際総合科学部、国際総合科学研究科の教育を組織してゆくうえで検討
すべき多くの問題が未解決のままにされている。とりわけ、教員の学生教育評
価を処遇にかかわらせる方針が打ち出されている(「教育・研究評価検討プロ
ジェクト」中間案)以上、教員の学生教育にたいする評価がどのような枠組み
の下で行われるのかは、教育課程編成、教育組織と不可欠にかかわる重要な問
題である。そこで、個々の教員の学生教育にたいする評価を処遇と結びつけよ
うとする場合、評価制度設計の公正性・透明性に照らして、また労働法規上の
法理に照らして、保障しておくべきことがらを述べたい

教育課程・教育組織編成に由来する問題・不利を教員の学生教育評価に転嫁
させないこと

国際総合科学部、国際総合科学研究科の教育課程編成にさいして、担当科目名、
担当科目数、担当科目のカリキュラム上の位置づけ等は個々の教員の意向およ
び教員相互の検討にもとづいてつくられたものではない。したがって、これら
に由来する教育上の問題を教員の学生教育評価に転嫁させることは許されない。
こうした教育課程編成はもちろん、時間割・教室配置など個々の教員が行う教
育指導以外にも多くの要因が教育効果に影響を与える。教育効果の多寡をもた
らすそうした要因群を無視して教員による学生教育の評価を行うのであれば、
恣意的評価制度とならざるをえない。
学生教育にたいする固有の評価内容と基準とを明確に示すことが必要である。
また、教育課程・教育組織編成を評価するしくみと基準とを示すべきであり、
これらの編成責任・権限を行使した者が適切な評価を受けられるようにすべき
である。

教育課程・教育組織編成にたいする教員の疑問、要求に答えることなく教員
評価を行うことは「能力・キャリアに配慮した人事が求められる」成果主義人
事(土田道夫「成果主義人事と労働契約・労働法」)のあり方に反する

教育課程・教育組織上で個々の教員がどのように位置づけられ配置されるかは、
教員評価に影響を与えるがゆえに、教育課程・教育組織編成について教員が疑
問点への回答を求め、変更要求を行うことは当然の権利である。また、学生教
育評価と教育課程・教育組織のあり方との関係について評価者(コース長、学
部長、教育担当副学長、学長等)に疑問を糺すことも同様である。
提出された疑問、要求等にたいし、教育課程・教育組織設計責任者および前掲
の各評価者には応答義務がある。規程等で明示された権限にもとづく明示的回
答がない場合、人事評価手続きの公正性に欠けることとなる。
今回説明された教育課程・教育組織編成にかんしてもそうした過程を当然踏ま
なければならない。教員評価制度の導入を言う以上、この制度のあり方と独立
にカリキュラム設計を考えることはできない。
なお、説明会での配付資料に科目担当者名が記載されていないのは、教育課程
・教育組織にかんする情報を故意に秘匿していることとなり、上記の適正手続
きを阻害するものとみなされても仕方ない。教員配置の公正性を検証するうえ
でも正確な情報を提供する義務が当局にはある。
さらに、「成果主義人事の枠組みの設計は義務的団交事項に属」す(土田道夫)
ことから、教育課程・教育組織編成と教員評価制度の関係について、教員組合
との交渉に当局が応ずべきことをつけ加えておく。

次年度からの教員評価制度導入には無理がある

次年度から教員評価制度を導入する場合必要な手続きとして、制度の規程・学
則での明示はもちろん、以上述べたように、教育課程・教育組織設計責任者を
明確にしたうえでの教員側との質疑応答、評価責任者と教員側との質疑応答が
十分に行われなければならない。この過程に、教員組合および過半数代表者と
の交渉等がふくまれるのはもちろんのことである。
また、近々発表の予定と説明されたコース長等、評価責任を負う者が制度設計
にかかわる疑問点について検討する機会も与えられねばならない。成果主義的
人事考課のあり方に重要な影響を及ぼす要因として評価者の評価能力・水準が
挙げられるが、納得できる評価の質を確保するためには、評価者の「訓練」も
必要である。
これらの条件を満たしたうえでなお、次年度からの教員評価制度導入には明白
な無理がある。次年度、言うまでもなく、2年次以上は現学部・学科の教育課
程、教育組織で行われるのであり、これについてコース長等の評価枠組みを適
用することはできない。国際総合科学部の教育課程・教育組織にそった多少と
も十全な評価は、この課程で最初の卒業生が出る5年後にはじめて可能となる
のであり、次年度現実には存在しない学生教育について評価することはできな
い。
そもそも、処遇と結びつける評価制度の導入のような重大な変更にあたっては、
十分な準備・協議の時間をとったうえで、制度の適切性を検証できる試行期間
をとることが望ましいはずである。この意味でも、拙速な制度設計にもとづく
評価の開始は無謀で将来に禍根を残すやり方と言わざるをえない。

われわれは大学評価の一環としての教員評価に一律に反対するものではない。
教員処遇に結びつけた教員評価を導入しようというのであれば、教員の意欲と
大学の活気を奪う恣意的で不公正な制度に堕すことのないよう十分な準備と協
議とが必要のはずである。

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教員説明会のご感想を

上の見解にも触れていますように、さる10月1日に、大学改革推進本部によ
って、カリキュラムに関する教員説明集会が開催されました。同本部側からは、
新しいカリキュラムに関するこれまでの経緯と、今後の方針などが説明されま
した。
質疑応答の時間は短いものでしたが、説明者がわの発言、あるいは、説明を避
ける部分には、さまざまな興味深い点が見られたように思われます。出席され
た組合員のみなさんは、いかがお感じでしょうか。
教員の思いをよく知ることは、今後の組合の活動にとってたいせつですので、
ぜひ、ご感想を組合事務室までお寄せください。連絡先は、本紙末尾にあると
おりです。

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ひごろの疑問・不安をお寄せください

来年度からの新制度のなかで、わたしたち教員の待遇、地位、労働条件は大き
く変わろうとしています。組合員のかたがたは、いろいろな不安や疑問をお持
ちのことと思います。
執行部では、予測されるさまざまな問題を把握、これに対処すべく最大限の努
力を払っているつもりですが、組合員のみなさまからのご指摘はたいへん貴重
です。
たとえば、退職金はどうなるの? ローンがあるのだけど、万が一任期制にな
ったときはどうなるの? などといったひごろの疑念があるかと思います。
どのようなことでも構いませんので、疑問・不安、あるいは具体的な問題など
をお寄せください。執行部では、お寄せいただいたことがらを集約し、課題と
していきます。また、適宜、週報を通じて、疑問にはお答えしていきます。プ
ライバシーは守ります。

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横浜市立大学教員組合 

236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号
Tel 045-787-2320    Fax 045-787-2320

mail to : kumiai@yokohama-cu.ac.jp
教員組合ホームページ
http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm
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2004108日 今日は、昼食時、昨日の市議会での議論が話題になった。新しい大学のカリキュラム内容の特徴などについて大学事務局長が答弁したことが関心を呼んだ。

なぜ学長ではないのか。「学長は答弁させてもらえない」という表現・見方・評価もあった。大学を代表するのは学長ではないのか。それとも、答弁内容の限定性・具体性に関係があるか。今回の改革が、学長の手を離れ、評議会の手を離れ、教授会の手を離れていることの端的な表現ということではないか。答弁の仕方ひとつとっても、改革のあり方を問うものとして、議論の的になり、関心を呼ぶ。

もうひとつ議論になったのは、教養ゼミA(1時間目と2時間目の通しで開設、文理融合での文系・理系の二人の教員が文系理系のさまざまの新入生の混合クラス30人を担当と想定される)のあり方に関してだった。すくなくとも、自由でオープンな議論の積み重ねがあるものではなく、また何年かの試行的実験、あるいは実績や経験のあるゼミ形式でもないことから、各方面でその有効性などに疑問が出されているものである。その問題点がいろいろと話題になった。

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2004107(3) しっかりした業績をもっているある優秀な若い教員と立ち話をしたら、ある時期非常に悲観的になり(昨年の9月から11月、研究費廃止、全員任期制、教授会権限の限定[4]などの問題条項の並んだ「大学像」が評議会で押し切られたあたりか)、彼も関係の諸学会で「どこかいいところないか」と友人先輩などに話していたようである。その結果、「君のために公募するよ」とまでいってくれた国立大学(地方だがすばらしい教育研究条件の大学)の教員がいたそうである。実際に相当なところまで話が進んだということである。土壇場で家族のこと・子供の教育のこともあり、結局取りやめにし、現在は「様子見の状態」とのことだった[5]。それに少なくとも数年前までは本学は非常に自由で穏やかないい大学で、しっかり教育研究させてもらったし、その意味で恩義や愛着もあるし、とのことだった。このような精神的態度の人々が若い人々の中に多いのではないか。現在の表面上の平穏の下にあるひとつの典型的なスタンスではないかと感じた。法人化に向けてどのようになるか、いましばらく、その実際を見てみよう、それから態度を決めていこう、と[6]

さらにまた、教授会からの人事等の権限剥奪(新しい学部の教授会規程をつくらないままで、現教授会規程の原則の無視が現実に進行している[7])についても(日誌読者の感想として)、私のように深刻には懸念してはいないようだった[8]。理事会や経営審議機関・教育研究審議機関がすべてを取り仕切ってくれるのならば、かえって本務中の本務である教育研究だけに専念[9]できるので、と[10]。これも、結構多くの人の考えかもしれない[11]

ただ、「ある日、突然、教授会で隣に、聴いたこともない人、見ず知らずの人が座っていた、というある理事長・理事会独裁の私学のようなことになりかねないですね」とも。そういうところは、ある日突然、教員がどこかに飛ばされたりする大学でもある。その話も過去に何回か耳にした[12]

私が20数年在籍した私学では学部長選挙などはどのようでしたか、とたずねられた。「もちろん、選挙です」と答えた。ただ私が着任する数年前までは(今から言えば30年以上も前だが)、「実力者」学部長の独裁体制が続いたようで、これに抗して、大変な努力で[13]教員組合をつくったりして学校教育法等に基づく教授会規程をきちんと制定し、守っていた。実際、私の着任当時、すでにずいぶん民主的な教授会の雰囲気だった。いや着任早々の若手がずいぶんはきはきと意見を言える自由な雰囲気だった。私などはそうした先人の苦労の恩恵で、実に自由にのびのびさせていただいた。かつての独裁者学部長は定年(70)近くになっており、教授会にはたまに出てくるだけで隅のほうでひっそりおとなしくしていた。彼の声を聞いたのは一度か二度だったかに記憶する。

私の着任数年前だったかに経営危機の問題もあり、教員自身が経営に責任を負わなければならないと、法人経営にも教員理事を出すようなシステムを構築していた(国立大学法人も、多くの私学でしっかっりした大学も、教員出身者が学長総長・理事長をかねているのが普通ではないか・・・教育研究の主体的担い手が経営責任も負うということである・・・それでこそ大学の自治は成り立つということ・・・注記した芦部『憲法』抜粋個所参照)。その後は、相当に堅実な経営をつづけ、当時の4学部から、今では7学部、大学院もそれぞれ博士課程(法学部はまだか)まで持つようになっている。

教員の主体的努力なしには、何も良くならないであろう。

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2004107(2) 都立大学教職員組合の「裁量労働制」に関する文書(「手から手へ」2296)は、そもそも裁量労働制とはなにかをはじめ、きちんと考えておくべきことをまとめている。以下にもコピーして、自分のものとしておきたい。

下記の「裁量労働制」の説明によれば、私もいろいろと誤解していたことがわかる。安易に考えていると、かなり恐ろしいことになりそうである。

下記の文書で、初めて公立大学の教員が一番長時間働いているという統計(文部科学省による調査:「大学等におけるフルタイム換算データに関する調査報告」H15.11のことも知った。

来年度、旧カリキュラムと新カリキュラムの並存状態で、非常勤講師予算がどの程度になるのか、各教員のノルマと実質負担がどうなるのか、まだ判然としないなかで、事態が進んでいる。このまま推移すれば、来年度、オーバーワーク、過重負担の教員がたくさんでるのではないか。なかには学部だけで65コマも担当する教員もいるとか耳にしている。私学ならばオーバータイム手当てが制度化しているが、それはどうなるか。

移行期の不安定・不確定な身分状態で、なかば「自発的に」、過重負担を飲み込まざるを得ない状況に追い込まれているとすれば、問題であろう。あるいは、持ち駒増などで、教育を行う時間数は増えるが、その分、研究時間にしわ寄せがくることが十分に予想される。後で(数年後とされる見直しのとき)、研究業績が問われた場合どうなるのか?

こうした点も、現在の教授会(旧カリキュラム編成に責任がある)と新学部教授会(まだ編成されていないが新カリキュラムに責任を持つ教授会)、そして教員組合を中心に、慎重に検討する必要があろう。特に重要な点として、下記文書から、次の部分はまず抜粋しておきたい。すなわち、

 

20031022日付けの厚労省通達では、「主として研究に従事する」とは、「具体的には講義等の授業時間が、多くとも、1週の所定労働時間又は法定労働時間のうち短いものについて、そのおおむね5割に満たない程度であることをいう」とされているのですが、同調査に依れば、1日のうち「研究」に使われている時間は国立で3.5時間、公立で3.1時間となっており、とても5割には遠く及びません
 したがって、「みなし8時間」では約2時間が無償労働であり、また、裁量労働本来の研究業務は規定には届いていないのです。この点をいかに考えるかという問題があります。

 

            ここからわかることは、公立大学の教員は、国立大学や私立大学よりも長時間労働でありながら、講義等の負担が重くて、研究時間は、国立大学よりも少なくなっているのである。全国統計であり、個々的には、また公立大学によっても違うであろうが、こうした事実はきちんと見つめる必要があろう。そして、教育研究のあり方(カリキュラム編成のあり方、非常勤コマの設定など)は教授会でも、また労働条件としては教員組合でも取り上げて検討すべきものであろう。

 

-------------- 

 

2300

 

 

 

 

 

 

 

 この「手から手へ」は全教職員へ配布しています。

                 「裁量労働制」の提案に対して全教職員の討議を

                                東京都立大学・短期大学教職員組合中央執行委員会

 9月14日の団体交渉において、当局側より組合に対して、法人化後の教員の労働時間制度に関して、労基法38条の3に基づく「裁量労働制(専門業務型裁量労働制)」を導入したいこと、および同制度の適用者の範囲について別紙のような提案がありました。組合側からは、労働時間制度の検討は十分慎重に行うべきこと、大学教員の勤務(労働)は一般企業とは異なる内容を含んでいるので、その特殊性を正確に勘案して労使が誠意を持って交渉するべきであること、「裁量労働制」は教員の勤務の実態に近いことは認めるが、安易な形での導入は不払いの長時間労働や過労災害の原因になる恐れがあること、を述べました。その結果、同制度の導入の可否および導入した場合に結ぶべき労使協定の詳細を検討する小委員会を労使で作ることに合意しました。

 今後組合は、この小委員会を通して労働基準法下での教員の教育研究活動をより充実させ、働きやすい職場にしてゆくための提案、要求提出を行います。ぜひ組合内外の教員の要望、疑問、提案を組合までお寄せください。また、手続き的には、最終的に就業規則、各種労使協定となって実体化されたものを法人代表者と各事業場の過半数代表者で承認することになりますから、各職場で活発な討議を行い、その議論を代表者選出に結びつけていくようにお願いいたします。

T 裁量労働制(専門業務型裁量労働制)とは

労働基準法 第三十八条の三に基づいており、条文は以下の通りです。

 「使用者が、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定により、業務の性質上その遂行の方法を大幅に当該業務に従事する労働者の裁量にゆだねる必要があるため当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し具体的な指示をすることが困難なものとして厚生労働省令で定める業務のうちから労働者に就かせることとする業務を定めるとともに、当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し当該業務に従事する労働者に対し具体的な指示をしないこととする旨及びその労働時間の算定については当該協定で定めるところによることとする旨を定めた場合において、労働者を当該業務に就かせたときは、当該労働者は、厚生労働省令で定めるところにより、その協定で定める時間労働したものとみなす。」

 

 労基法上の原則は、使用者は労働契約や就業規則において、法定労働時間の上限枠、1日8時間、1週40時間の中で、始終業時刻を特定して所定労働時間を管理することが義務とされていますが、上記第三十八条の三はこの原則の例外規定として1987年に定められ、昨年10月に国大協の要請に応じた形で、「厚生労働省令で定める業務のうち」に「学校教育法に規定する大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る)」が追加されました。

 労働基準法 第三十八条の三は分かりにくい文ですが、私たちがこの労働時間制度下で働く場合に、十分考えておくべき点は以下の4点でしょう。

  • 大学教員の「業務」が、「業務の性質上その遂行の方法を大幅に当該業務に従事する労働者の裁量にゆだねる必要があるため当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し具体的な指示をすることが困難なもの」であるのかどうか。
     研究を考えると妥当であるように思えますが、教育、とくに授業や会議その他の校務を考えると必ずしも当てはまりません。厚労省が昨年まで大学教員を裁量労働制の対象業務から外していたのはこのせいです。この点では、大学教員の労働が、一般企業を想定して作られた裁量労働制の枠外にある認識をもって、私たち自身でみずからの労働の内容と遂行手段のあるべき姿を工夫すること、それを使用者とも合意する努力が必要ではないでしょうか。
  • 実際に「当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し当該業務に従事する労働者に対し具体的な指示をしないこととする旨及びその労働時間の算定については当該協定で定めるところによる」の部分の解釈で(悪意あるものも含めて)様々な誤解があることです。
    「授業がなければ届けなくても出校しなくてよい」「非常勤その他の学外活動はまったく自由だ」「平日の昼間来なくても、深夜や休日に仕事をすればよい」「大学に所在場所を知らせる必要はない」等々は、教員側の勝手な解釈です。また、「超過勤務手当は一切払う必要はない」「教員の勤務実態を把握する必要はない」「深夜、休日の労働は、とくに指示していなければ教員が勝手にしているのだから、事故や災害があっても教員の自己責任だ」「客観的に8時間を超えた勤務をしていても(例えば、1時限目の授業と6、7時限目の授業を担当していても)構わない」等々は使用者側の勝手な解釈です。
    今春発足した国立大学法人の7割近くで「裁量労働制」が導入されており(全大教調べ)、いまや法人化された大学の労働時間制度の主流になりつつありますが、実態は上記のような誤解、恣意的な解釈で次々に問題点が浮上しているのが現状です。実際には裁量労働制は法的には、それほど使いやすい制度ではないにもかかわらず、問題を曖昧にすることで、近い将来人件費が逼迫してきた段階で労働者側が大きな損害を被る可能性を残したまま進行しているのです。
  • 「当該労働者は、厚生労働省令で定めるところにより、その協定で定める時間労働したものとみなす」というのが、「みなし労働時間」で、通常1日8時間と協定しています。つまり、午前5時以降、午後10時までの間は、「包括的な勤務時間」とされ、この間であれば何時間働こうとも、8時間分の賃金しか支給されません。
     その意味で、教員から見れば、「自由な業務遂行の裁量」と引き替えに、超過勤務手当の請求権を放棄する制度といえます。一般企業ではこの点が、過重なノルマ主義とセットになって低賃金と長時間労働による過労災害の要因となっているのです。教員の場合、これまでも超勤手当などなかったのだから、何の影響もない、と考えがちですが、成り行きに任せてしまえば、教育公務員としての規制の少ない大幅な自己裁量権と研修権が奪われて、例えば届けのない学外勤務での事故は自己責任、使用者からの指示のない深夜実験での学生事故は指導教員の責任、など裸の自己責任の世界に入ってしまうことになります。
     また、多くの国立大学法人では、他大学への非常勤講師は「勤務時間内の労働」か否かについて労使の合意はできていません。また、法規上は、「午前中本務校で授業、午後は学外で非常勤あるいは学会活動で併せて8時間」などという勤務形態は認められていません。これらは、きちんと労使の合意ないし協定で明確にしておかなければ、「勤務態度不良」や「給料の二重取り」の判定を下されかねないのです。
  • 裁量労働制を導入した国立大学法人では、すべて「みなし労働」を8時間としています。しかし、文部科学省による調査(「大学等におけるフルタイム換算データに関する調査報告」H15.11)では、大学教員の平均的な1日あたりの労働時間は国立大学で9.8 時間、公立大学で9.9時間、私立大学で9.1時間でした。また、学問分野別では、学生に実習指導が多い保健学系では、10.5時間にも及んでいるのです。
     さらに、前記の20031022日付けの厚労省通達では、「主として研究に従事する」とは、「具体的には講義等の授業時間が、多くとも、1週の所定労働時間又は法定労働時間のうち短いものについて、そのおおむね5割に満たない程度であることをいう」とされているのですが、同調査に依れば、1日のうち「研究」に使われている時間は国立で3.5時間、公立で3.1時間となっており、とても5割には遠く及びません。
     したがって、「みなし8時間」では約2時間が無償労働であり、また、裁量労働本来の研究業務は規定には届いていないのです。この点をいかに考えるかという問題があります。

U 教職員組合中執の基本的な立場

 「専門業務型裁量労働制」は前記のように、現在の大学教員の勤務形態に「近い」内容を持っていることは認めますが、先行している国立大学法人での運用実態を調査すればするほどその問題点、未解決な部分が目に付きます。したがって、法人制度下での大学教員の労働時間制度に関して慎重な判断をしなくてはなりません。

  • 法人下での教員の労働の内容と遂行の形態について徹底的な討論と全学的な共通認識が必要と考えます。中執の考えでは、原資を税金に依っている賃金の対価としての公立大学教員の労働は、以下の四つからなっているという立場です。

1.    教育(講義、実験・実習、ゼミ、講義等に付随する準備、試験、レポート採点、オフィスアワー等)

2.    研究(自らの課題による研究、調査、フィールドワーク、学外他機関・研究者との共同研究、研究出張、学会参加等)

3.    校務(教授会、学科(教室)会議、委員会、入試業務、論文審査等)

4.    社会貢献(学会委員会、公開講座、出張講義・講演、審議会、非常勤講師等)

 これらの対価としてとして賃金があり、これらを誠実に、創造的に行うことが教員の義務ではないでしょうか。ただし、この定義だけで話がすむわけではなく、労働時間制度、勤務管理制度は、これらを十全に、創造的に、自由に、もっとも効率的に行えるものであるべきです。そのために、職員も含めた教員間で議論し、また使用者側にも同じ認識を持たせる努力が不可欠です。

  • 上記を前提とすると、法で規定されていない、あるいはきわめて煩雑かつ不合理な手続きを要する事項について、労使で詰めるべき内容が出てきます。
  • 上記(1)(3)(4)は、果たして「裁量」の範囲なのか
  • (2)(4)は事業場外(自宅も含む)で行われる可能性が高い。専門分野の違いも際だっている。これらの扱いと手続きをどうするのか。職位や専門にかかわらず全教員一律の規定で事足りるとは思えない。
  • とくに(2)の研究については、教育公務員特例法の「研修」の考え方を準用し、「事業場外見なし労働」の効率的な運用を工夫しなければ、自由で活発な活動を強く阻害することになりかねない。
  • (1)(2)院生の指導を考えると、区分不能な部分が多い。とくに、深夜、休日労働に関して、法人全体でカバーし、保障する制度としなければ、事実上、教育研究が停滞するか、時間外手当で人件費が直ちにパンクしてしまう。同時に、この点をルーズにすると、職位(助手や技術職員、事務職員)によっては、事実上、裁量を超えた指示のもとにサービス残業を強要されることにもなりかねない。
  • (4)の中の、非常勤講師(広く言えば兼業)の扱いをどうするのか。みなし時間内とする(二重給与を認める)のか、あるいは、みなし時間外とするのか、その場合の手続きはどうなるのか。
  • 以上で検討すべき問題が挙げ尽くされているとは考えていません。このほかにも、学生の事故や災害に対する保障、責任の問題は詳細な検討が必要です。
     また、強調しておきたいのは、組合の基本的な立場は、教員であれ、職員であれ、肉体的、精神的な健康維持のために「労働時間短縮とサービス残業の一掃」です。裁量労働制を取ったために、無用に煩雑な事務手続きが増えれば、とくに職員に大きな負担、しわ寄せがかかってくることは目に見えています。先行した国立大学法人で労働基準監督署の立ち入り検査が頻発しているのは、ルーズな形で教員の裁量労働が行われ、増大化する一方の校務をサポートするために職員が異常な長時間勤務を強いられ、不払い残業が常態化していることにも大きな原因があるのです。したがって、問題点を曖昧にしたままでの教員の裁量労働制には強く反対します。

V 具体的な「労働時間管理」に関する検討事項

 前にも書きましたが、裁量労働制であっても使用者の「労働時間把握義務」がなくなるわけではありません。厚生労働省労働基準局監修『改正労働基準法実践マニュアル』(全国労働基準関係団体連合会発行)によれば、

 「裁量労働制の場合は、他の勤務形態と異なり、具体的な業務の時間配分などを労働者の裁量に委ねている部分が大きく、通常の労働者と同様に日々の始業・終業時刻を確認することは難しい面がありますが、かといってまったく労働者の労働時間を把握しなくてもよいものでもありません。例えば、裁量労働制による場合でも、タイムカ−ドやIDカ−ドなどのできるだけ客観的な記録によって出退勤時刻を打刻させるとか、週1回、月1回など定期的に業務報告をさせたり、各自業務日報を付けるよう指導するとか、定期的に事業場において実態調査をする、などの対応が望ましいでしょう」

とされており、労基署に対する裁量労働制の届けには、労働時間把握の具体的方法を記載しなければなりません。

 国立大学法人では、「定期的な自己申告」が多く採用されているようですが、実際には有名無実化されており、ある大学では、組合が勤務記録を提出しようとしたら当局が受け取りを拒否した、という事例さえあります。教員の超勤手当や時間外手当が運営費交付金の中に準備されていないから、深夜あるいは長時間労働が続いている記録を出されたら困る、ということです。当局側がこのような姿勢であるときには、よほど注意深い協定や合意を結んでおかないと、肉体的、精神的ダメージをすべて「個人責任」に帰されてしまう可能性があるのです。

 また、一方で厳格、厳密な時間管理を行えば、自由な研究活動が著しい制限を受けることになりかねません。文字通り、角を矯めて牛を殺すことになってしまいます。

 したがって、「労働時間管理」の方法と運用については、具体的で創意的な方法を労使の信頼関係のもとに「工夫」することが必要でしょう。

 以下に、検討すべき項目を列記します。

    • 出退勤時刻把握の方法
      タイムカードやIDカードの出し入れは実際的ではないでしょう。自己申告やそれに基づく「上司」の聞き取り、などになる可能性が強いのですが、「虚偽の申告」や、「棚晒し」にさせず、正当な手当、肉体的、精神的ケアを伴うものにしなくてはなりません。
    • 深夜・休日出勤の扱い
      文字通り教員の自主的判断によるものと、明らかに自由意思ではない義務としての出勤区別することが重要です。国立大学法人では、ネットワーク管理者、生物飼育管理などの担当者が、記録に残らない無償労働をしている例が多々あります。同時に、より重要なのが、深夜・休日における学生、院生の研究指導の扱いです。例え、教員は自主的判断で「自己責任」であっても、学生たちが事故や災害時に無補償状態にならない扱いが不可欠です。多くの国立大学ではこの点がはっきりしておらず、使用者は「深夜・休日勤務」の許可を出さず、手当なしの教員たちが学生のための傷害保険に自費で加入している例もあります。
    • 全日あるいは一部の時間の学外での非常勤講師等の兼業
      前述のように、裁量労働制自体には、基本的には一日の労働時間を分割して、学内、学外で働くというのは認められていませんが、労基法第38条の2に「事業場外みなし労働」の規定があります。
      「第38条の2  労働者が労働時間の全部又は一部について事業場外で業務に従事した場合において、労働時間を算定し難いときは、所定労働時間労働したものとみなす。ただし、当該業務を遂行するためには通常所定労働時間を超えて労働することが必要となる場合においては、当該業務に関しては、命令で定めるところにより、当該業務の遂行に通常必要とされる時間労働したものとみなす。
       2 前項ただし書の場合において、当該業務に関し、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定があるときは、その協定で定める時間を同項ただし書の当該業務の遂行に通常必要とされる時間とする。
       3 使用者は、命令で定めるところにより、前項の協定を行政官庁に届け出なければならない。」
        ひとつの方法は、この規定を利用することで、適切な労使協定を結んでおくことですが、重要な前提として、非常勤講師等の兼業を「みなし労働」と扱うかどうかです。組合は、届けさえきちんとなされていれば、他校での非常勤講師は大学教員の社会貢献の一環であり、当然正当な労働であると考えますが、使用者側はどうでしょうか。国立大学では、まとまった見解は出ていません。
    • 自宅を含む学外での研修
        これは、上記の兼業以上に本質的な問題を含んでいます。とくに文系の教員にとっては非常に重要な問題であり、また、理系の教員にとってもフィールドワークや学外研究の機会が多い者にとっては、学外での研究が正当な労働と認められ、簡素な手続きで行えなければ、何のための裁量労働か、ということになってしまいます。前項と同様、「事業場外みなし労働」の協定を結ぶことになりますが、その際に、例えば引率する学生に対する責任や事故への保障を十分検討しておかなければなりません。
        さらに、大学における教育、校務を誠実に行う風潮が確立されていない、対学生で不信感を生じたり、あるいは研究スタイルの異なる教員間での反目の原因ともなりかねません。この点は単なる労働制度の問題としてではなく、全教員での活発な議論と共通認識の形成が鍵になると思います。
    • 時間外の校務(会議等)
        例えば、1時限目の授業を担当している教員が午後6時からの義務としての会議に参加すれば自動的に8時間労働を越えてしまいます。人件費が豊富にあれば、当然、時間外手当を要求すべきところですが、それが可能でしょうか。「授業」「校務である会議」等は専門業務型裁量労働制の想定していない拘束です。したがって、厚労省令の「定める業務」にも「大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る)」とただし書きが入っているのです。このように、自分の裁量外で長時間拘束される場合の処理も考えておかなくてはなりません。とくに、私たちの場合は、法人化後も都立大B類、短大夜間の授業がしばらくは続きます。法の趣旨を無視した不払いの長時間労働を組合は容認できません
        もう一つ、教員の裁量労働制に付随して委員会、会議などの校務が夕方遅くになる場合が頻発することが予想されますが、それがサポートする事務職員のサービス残業にならないような工夫をすることが必要です。組合としては、基本的な校務の時間帯は職員の正規の勤務時間内に設定し、それを越える場合は教員職員を問わず時間外手当の対象とすべきだと考えます。この点では、「大学での労働」に関して広範な共通認識を確立する必要があるのではないでしょうか。
    • 時間外手当を支払うべき校務(入試業務、学位論文審査等)
        多くの国立大学では、この2つの業務は義務的校務として時間外(休日)手当の対象とされていますが、実態は「振り替え休日」で処理しようとする当局が多いのです。しかし、現実には振り替えできる日がなくて無償労働になってしまう例もあると聞きます。この2つ以外にも、正当な要求として時間外手当を請求すべき校務の洗い出しを行う必要があるでしょう。
        なお、現保健科学大では学外での実習の指導、監督が非常に多いという実態を見なければなりません。これを正当にカウントし適正な手当を行うことも必要でしょう。

W 健康管理義務、苦情処理制度

 裁量労働制であっても、使用者が労働者の生命、身体および健康を危険から保護すべき義務(いわゆる安全配慮義務)を免れるものではありません。厚労省労働基準局リーフレットによれば使用者のなすべき健康・福祉確保措置として以下が示されています。

「健康・福祉確保措置としては、次のものが考えられます。

    • 把握した対象労働者の勤務状況及びその健康状態に応じて、代償休日又は特別な休暇を付与すること。
    • 把握した対象労働者の勤務状況及びその健康状態に応じて、健康診断を実施すること
    • 働き過ぎの防止の観点から、年次有給休暇についてまとまった日数連続して取得することを含めてその取得を促進すること
    • 心とからだの健康問題についての相談窓口を設置すること
    • 把握した対象労働者の勤務状況及びその健康状態に配慮し、必要な場合には適切な部署に配置転換をすること
    • 働き過ぎによる健康障害防止の観点から、必要に応じて、産業医等による助言、指導を受け、又は対象労働者に産業医等による保健指導を受けさせること

※また、使用者は、把握した対象労働者の勤務状況及びその健康状態に応じて、対象労働者への専門業務型裁量労働制の適用について必要な見直しを行うことを協定に含めることが望ましいことに留意することが必要です。」

 また、「対象となる労働者からの苦情の処理のため実施する措置の具体的内容」も労基署に届けなければならず、その際に、

 「苦情処理措置についてはその内容を具体的に明らかにすることが必要であり、例えば、苦情の申し出の窓口及び担当者、取り扱う苦情の範囲、処理の手順・方法等を明らかにすることが望ましいことに留意することが必要です。この際、使用者や人事担当者以外の者を申出の窓口とすること等の工夫により、対象労働者が苦情を申し出やすい仕組みとすることや、取り扱う苦情の範囲については対象労働者に適用される評価制度、賃金制度及びこれらに付随する事項に関する苦情も含むことが望ましいことに留意して下さい。」

と注意しています。

 多くの国立大学では、労使協定でこれらについて一応の相談窓口を記載してはいますが、例えば、単に人事課とするなどおざなりでしかも苦情や相談がしやすい工夫はされていません。それ以前に、健康維持に関しても従来と同様の年一回の定期健康診断で済ますのが普通で、厚労省が注意しているような裁量労働に伴う危険性を考慮したものとはなっていないのが現実です。

 組合は、専門業務型裁量労働制に先行している企画業務型裁量労働制に関して厚労省が発している指針(平成11年労告149号、平成15年厚労告353号)のように、「使用者や人事担当者以外の者を申出の窓口とする等の工夫」がなされなければならず、そのためには労使委員会の設置など、組合が積極的に関わってゆく、常設の機関が必要があると考えています。

X 助手への適用に関する検討事項

 今回の当局の「適用範囲」に関する提案は、多くの国立大学法人が単純に助手までを含めた提案だったのに比べて、労基法の規定に沿ったものであることは評価しますが、それでもなお、とくに申し出がない限り助手をも裁量労働制の下におくことに関しては私たちは危惧を抱いています。

@実際上、助手の仕事に講師以上の職位の教員と同じような「裁量権」があるのか、という問題を考えなければなりません。自分の意志でなく事実上の指示を受けて、例えば学生の指導や援助のために時間外勤務をしても無償労働になってしまうことがあり得るのではないでしょうか。

A助手に裁量労働制を適用するためには、その助手が「もっぱら研究の業務に従事」していることが条件になります(2003.10.22基発1022004号)。おそらく実際にはあり得ないこの規定を認めることが、危険な副産物をもたらす可能性があります。「大学教員任期法」の三要件のひとつと重なってしまうからです。裁量労働制が魅力的だと、これを容認したとたん、任期制の対象者とされてしまう可能性は否定できません

 当然、私たちは労働時間制度と任期制とを連動させることには反対です。上記のような危惧も含めて、助手間での討論を期待するものです。

Y 教員の評価制度との関連

 国立大学法人の運営費交付金の成り行きや都当局の財政方針から考えて、新法人の運営費交付金、とくに人件費に関して、私たちは楽観視できない状況にあります。発足時点でこそ大学管理本部は「現教員の賃金が下がることはない」といっていますが、近い将来、その抑制、減額を図ってくることが十分考えられます。

 そのときに、これまで当局が公言してきたように、「教員を競争原理で管理する」意識が前面に現れ、本来別個であるべき「業績評価」と労働時間制度を連動させ、全体の賃金水準を下げた上で、傾斜的な賃金体系をとらせないように注意しておく必要があります

 この点では労働時間制度と区別させ、教員の「業績評価」を、たんなる論文数や特許取得数などの「結果」だけで計るのではなく、学問分野の特性や職種、日常の勤務状況などを正当に考慮したものにさせなければならないでしょう。裁量労働制が一部企業のように、低賃金で過酷な競争を強いる制度とならないように、とくに「任期制」の再任評価との関連で、評価基準作成過程への教員参加、評価手続きの公開が必要不可欠です。

Z 職員の勤務制度との整合性

 私たちは裁量労働制の導入如何に関わらず、法人化をきっかけとして大学の教職員としての労働の内容、あるべき勤務形態に関する根本的な検討を組合の内外で起こすべきであると考えています。学生への教育という一般企業にはない基幹的な職務を中心として、活発で創造的な研究活動が行われる、大学らしい基本的な勤務スタイルを確立することが重要ではないでしょうか。

 教員がどのような労働時間制をとるにしても、裁量労働制でない事務系職員の勤務スタイルを無視することなく、同じ労働者としてサービス残業や過密労働をなくすための努力、工夫を教職員一体となって行う必要があります。「お役所」的な不合理かつ煩雑な事務処理の見直し、勤務時間内に終わるような会議の設定、自由で創意的な教育研究活動を促進するための施設的な環境整備、教職員間の意思疎通と相互理解をなしとげるために、ルーズな裁量労働制の導入であってはなりません。

 法人化された職場を、互いが互いの労働を理解し助け合う職場にするために裁量労働制に限らず、大いに議論しようではありませんか。

 

 

 

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2004107(1) 都立大学の「開かれた改革を求める会」(代表・西川直子)が都議会議長宛の陳情書を提出したようである。その内容に全面的に共感し、都議会が長期的観点に立って、また憲法以下の諸法律をよく吟味して、真の意味での新大学の発展と旧大学の学生院生の教学権・研究教育条件整備に、首都たるにふさわしく、全国の模範となるような態度を示してほしいものである。とくに、「法に定められた三つの機関(教授会と教育研究審議機関・経営審議機関)の役割分担を明らかにし,法定事項でない事柄については,大学人との意見交換を十分に行なっていただきたい」,という部分は、この間、この日誌で強調しているように、本学の課題でもある。現在進行していることは種種の点で重大な問題を抱えていると考える。「大学人との意見交換」は、行政当局が選んだ特定の人々とだけの意見交換ではなく、現行の教授会、さらに新しい学部創設に対して編成される新教授会という正規の審議機関で行うべきである。

 

---AcNet Letter 193 22004.10.07---------

 

開かれた大学改革を求める会から都議会への陳情書 2004.10.5
  http://www.geocities.jp/hirakareta_daigakukaikaku/2004-10-05-chinjo.pdf
──────────────────────────────

都立4大学を統合する法人の設立,新大学・大学院の設置に関する陳情
 2004
105日提出
 
「東京都議会議長
 
内田      殿
 
     
郵便番号 192-0397 東京都八王子市南大沢1−1
   
東京都立大学人文学部仏文研究室内
   
電話番号 #(転載時省略)
   
開かれた大学改革を求める会
   
代表            
      
(西川 直子) 
 
   
(願意)

   
都立4大学を統合する法人の設立及び新大学・新大学院の設置
   
にあたって,都は,学生・大学院生が安心して学習研究に取り
   
組み,大学人が安定した教育研究を継続することを保障する定
   
款・学則その他の諸規程を作ってください.

   
(理由)
   
都立の新大学については9月に認可が下りたものの,「大学説
   
明会」(南大沢キャンパス,8月末)も例年に比べ著しく低調
   
であり,『入学者選抜要項』(7月発表)でも,かなりの項目
   
が「未定」とされています.

    
都立4大学を統合する法人を設立する「定款(案)」・「条例
    
(案)」や,新大学の「学則(案)」・新大学院の「学則
    
(案)」は,東京都大学管理本部から7月までに示されました
    
が,いずれも現4大学の大学人(教員・職員・学生)による事
    
前検討がなされていません.また,その内容も大学側からのこ
    
れまでの要望に十分配慮したものとは言えません.

   
示された案によれば,教育課程・カリキュラムについて「科目
   
登録委員会(仮称)」「学位設計委員会(仮称)」,教員の採
   
用・承認について「人事委員会(仮称)」「教員選考委員会
   
(仮称)」などが構想され,委員会には外部委員の参画が構想
   
されています.しかしながら,現行法では「教授会」が「重要
   
な事項を審議」する(学校教育法59条1項)とされているので
   
あり,現に都立現4大学でも,カリキュラムの設計や教員の選
   
考は専門家が行っております.学長の選出について,大学の学
   
長選考機関は,「教育研究審議機関を構成する者」と「経営審
   
議機関を構成する者」のうち,それぞれの機関から選出された
   
者によって構成すると定められています(地方独立行政法人法
    71
条4項).学長候補者等の選出方法について,法には特段の
   
定めはありませんが,教員の選挙によって新総長を選出した東
   
京大学のように,大学人の意思が直接反映される仕組みを「学
   
則」等の規定に盛り込むことは可能です.

   
4月に都が行なった新大学の設置申請は,7月段階の「早期認
   
可」が見送られ,自然科学及び社会科学系大学院の9月入試は
   
不可能となりました.9月には認可されましたが,4月の開学
   
までになすべき作業はかなりの分量になり,大学人との共同作
   
業があってすら実現可能であるとは言えない部分があります.
   
また現時点においても,入学後の学生寮など「未定」のことが
   
多数あるのは,大きな不安となっています. 新大学の発足時も
   
発足後も,いたずらに新奇さや見かけの効率を求めるのではな
   
く,現在及び未来の学生・院生・教員に不安を与えない制度が
   
保障されなければなりません.

   
これから提案される予定の公立大学法人の設立にかかる「定款」
   
「条例」,新大学の設置にかかる「学則」及び新大学院の設置
   
にかかる「学則」その他諸規程の作成にあたっては,これまで
   
以上に大学人の意見に耳を傾け,法に定められた三つの機関
   
(教授会と教育研究審議機関・経営審議機関)の役割分担を明
   
らかにし,法定事項でない事柄については,大学人との意見交
   
換を十分に行なっていただきたい,また、現行4大学の学則は
   
法人化後も現在の学則に準ずるものを維持していただきたい,
   
と考えます.これらの要請は,これまで都民の共有財産である
   
都立の大学が高い評価を得るのに貢献してきた大学人に共通し
   
た願いでありましょう.このことに配慮が及ばないならば,法
   
人の設立,新大学の設置に向けての準備と発足後の運営に大き
   
な障害を生むことになりかねません.

    
瑣末な数字にとらわれるのではなく,百年先を見越して,内外
    
に誇れる大学・大学院を作ることが求められています.」

 

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2004106(2) 政府与党の教育基本法「改正」の動きに対し、教育基本法改悪反対の動きもすこしずつ広がりつつあるかに見える。二つの世界大戦、とりわけホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の諸問題を研究するものとして、ナショナリズム(国民主義・民族主義)・国家主義の恐ろしさを日々かみ締めているだけに、「愛国心」を小さな子供のうちから叩き込もうとする動きには、反対である。ヨーロッパが二つの世界大戦の悲惨な経験から学んだことは、ナショナリズムの教育・注入ではなく、諸国横断的な地域的民主的なリージョナリズム(地域主義)である。ヨーロッパ諸国は通貨の統合にまでいたっている。

こうした意味で、小森陽一氏や高橋哲哉氏が中心となっている改悪反対の輪が広がることを期待したい。

 

-------教育基本法改悪阻止・賛同カウントアップ--------

皆さん、こんにちは。
教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会の八尋・中村です。
(重複して受取られた方、お許し下さい)
(転送大歓迎! できるだけ多くの方に広めたいです)

★☆
 教育基本法改悪反対に、
      ホームページ賛同にご協力ください ☆★

このたび全国連絡会(http://www.kyokiren.net/)では、
ホームページ上で、
「教育基本法改悪阻止・賛同カウントアップ」という
企画をスタートさせました。
 ホームページをご覧になって頂ければ一目瞭然。
ホームページ上で、教育基本法改悪に反対する人数を
カウントアップしていくものです。
 これだけの人が反対しているんだよ!
ということを日本中、世界中の方々にお伝えでき、
しかも賛同者の皆さんのコメントも読むことができます。
教育基本法改悪阻止にご賛同下さる皆さんの
ワンクリックを心よりお願い致します。

<<賛同方法>>
http://www.kyokiren.net/_protest/vote/vote
より、
ハンドルネーム、メッセージなどを書いていただき、
「賛同する」をクリックして下さい。
これでカウントされました

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2004106(1) 「全国国公私立大学の事件情報」によれば(下記該当個所コピー)、法人化後の首大では「裁量労働制」の導入が当局から提案されたようである。裁量労働制は少なくとも文科系の場合(というか少なくとも私の場合)、実態にあった制度のように考えられるが、人々の勤務のあり方・仕事の内容によって違うようである。大学教員医師(臨床の医学部教員)などのような場合は「裁量労働制」は法的制度的に許されないという情報をどこかで読んだ記憶がある。いずれかの勤務形態をその人の勤務実態に合わせて選択できるようにする、というのが妥当だと思われる。それが茨城大学の労働法専門家・深谷教授の提案だったと記憶する。そうした個々の現場教員の研究教育実態に合わせた選択制が、多くの国立大学の就業規則で採用されていると聞いている。都立大・首大の小委員会での検討結果はどうなるか。わが大学でも非常に重要な問題であろう。

また、大阪府立大学では、人事問題で学長権限の強化が制度化されようとしているという。それとの関連で人事委員会の組織編成・権限なども問題になるが、それは不明のようである。

本学の場合、6月の新たな採用人事はきちんとした明文化された規則に基づかないで、行われたと記憶する。まさに、教授会の権限と責任(学校教育法[14]が規定し、学則[15]で具体的に規定している教授会・評議会重要審議事項)が、この新たな採用人事では「凍結」ないし「パス」されており、いったいどうなっているのが疑問に思っているところである。法人化や新学部の準備・発足にあたっては憲法の根源にたちかえって[16]、慎重に対処する必要がある。

新学部人事だという位置付けで、商学部ポストの補充ないし後任人事を位置付けて商学部教授会でのオーソライズは不必要と判断しているのならば、学校教育法にのっとり、現行学則(大学の自治の原則)にしたがって、まさに新学部教授会の構成員を確定し、その教授会でのオーソライズが必要ではないかと考える。人事問題は、大学全体の命運を決するものであり、きちんとした明文規定に依拠し、教授会とそれ以外の関係部局との責任範囲の明確化なしには、大学は崩壊するであろう。

 

20041006

都立大・短大教職員組合、「裁量労働制」の提案に対して全教職員の討議を

都立大・短大教職組のトップページ
 ●「裁量労働制」の提案に対して全教職員の討議を!(手から手へ第2300号)

「裁量労働制」の提案に対して全教職員の討議を

東京都立大学・短期大学教職員組合中央執行委員会

 914日の団体交渉において、当局側より組合に対して、法人化後の教員の労働時間制度に関して、労基法38条の3に基づく「裁量労働制(専門業務型裁量労働制)」を導入したいこと、および同制度の適用者の範囲について別紙のような提案がありました。組合側からは、労働時間制度の検討は十分慎重に行うべきこと、大学教員の勤務(労働)は一般企業とは異なる内容を含んでいるので、その特殊性を正確に勘案して労使が誠意を持って交渉するべきであること、「裁量労働制」は教員の勤務の実態に近いことは認めるが、安易な形での導入は不払いの長時間労働や過労災害の原因になる恐れがあること、を述べました。その結果、同制度の導入の可否および導入した場合に結ぶべき労使協定の詳細を検討する小委員会を労使で作ることに合意しました。…… (後略)

 

Posted by 管理者 : 掲載日時 20041006 06:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
URL : http://university.main.jp/blog/archives/001990.html

大阪府大学教職員組合、教員人事には学長権限強化−いまだ不透明な「人事委員会」の実態−

大阪府大学教職員組合 より

「教員人事には学長権限強化--- いまだ不透明な「人事委員会」の実態---」(府大教ニュース、No481 2004.9.24
学長会見議事録
学長会見議事録(概略版)

Posted by 管理者 : 掲載日時 20041006 06:38 | コメント (0) | トラックバック

 

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2004105(3) 「上から」、「外から」学部長予定者・研究科長予定者を選ぶことだけはまず新聞発表、ついで説明会での紹介でおこなったわけだが、基礎となる学部や研究科の編成を行わない(新学部・新研究科予定者の教授会の招集・そこでの基本事項の確認・教授会規定の制定、学部長・研究科長選挙など)、という問題(大学運営における民主的原則の問題)に関連して、東大教養学部・総合文化研究科(300人の教員)の教授会がどうなっているのか、ちょっと調べてみた。その結果、このような巨大な組織でも、きちんと月一回の定例教授会を行い、学部長は教授会メンバーの選挙で選ぶというごく普通の民主的制度(これまでの本学のやり方、これまでの正常な他大学の学部のやり方)と方法だということがわかった。正規の教授会規定はできているということで、秘密事項ではないのだから、しかるべきルートを通じれば、教授会規定は手に入るであろう。学校教育法に基づく当然のこととはいえ、それを無視するようなこと(教授会審議事項の制限、現行学則の自治的原則・学則審議事項の無視)を「大学像」に書く状況では、本学の状況も、都立大学および首都大学に関して都立大学総長の指摘(Academia e-Network Letter No 191 2004.10.05 Tue・・・未定稿だったようで、削除された。下記のコピーも削除。ただ本質認識は変化ないであろうと考える、いずれ確認できよう)するように、うれうべきもののように思われる。

先日の「説明会」ではまったく話されなかったが(それで危惧を持ったが)、入試判定(合格判定)は、どのような学生・院生をどのように教育するかという問題と直結しているだけに、卒業判定と並んで、これまで教育研究の担い手である教授会の重要審議事項であった。判定教授会は非常に重要な教授会(学部・研究科)の任務であり、権限であると同時に責任でもあった。ところが、これに関しても、一部執行部・委員会メンバーだけで処理してしまうことが進行しつつあるという(教授会審議・判定教授会なしでという意味・・・かつては入試委員会が判定原案を作り、判定教授会で審議決定した)。もしそうだとしたら問題ではないか。

理事長独裁の私学では、教授会を無視して合格判定などが行われる(その結果新聞で報道されているようないろいろと問題が起きている)というが、入学判定を行政当局任命の少数のもので実施し、教授会審議を踏まえないで行うとすれば、これは大変な問題ではないか、と考える。

新学部・新研究科の新入生に関しては、新学部教授会・研究科会の構成メンバーによる審議決定が必要であると思われる。それでこそ、新しい学部・大学院の学生を新しい学部・研究科の教員が全体として受け入れるという体制ができると思われる。

 

----問い合わせに関する返事-----


確かに我々の教授会は巨大な規模(300人足らず)ですが、月1回開催してお
ります。研究科教授会と学部教授会は別々には行わず、一つの教授会で兼ねてい
ます。ただし、教養学部の授業には、同じキャンパスにある数理科学研究科とい
う別の研究科の方々が参加しています(というよりも、かつては教養学部の数学
教室であったものが、別の研究科に属する形になっています)ので、数理科学研
究科の代表も加えた拡大教授会というもので人事以外の議事を行い、人事案件は
総合文化研究科・教養学部の教員のみの教授会で行います。総合文化研究科の構
成員と教養学部の構成員が重なっているために、この形をとっています。

学部長の選挙も法人化前と同様で、教授会での選挙で行われます。コース長や学
科長の選出方法は各単位で異なりますが、私の知る限りではすべて各単位の教員
会議での選挙で行われています。

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2004105(2) 教育研究評価に関する委員会で進行していることがもれてきた。システムとしてコース長が教員評価の第一次評価をするというシステムはこれまで打ち出された方針どおりだという。しかし、「外部から」「上から」任命されたコース長が、コース所属の教員の評価を行うとなると、ついでは、「上から」「外から」任命された学部長が次の段階の評価を行うということになると、しかも、その評価が給与評価等(任期制も?)の処遇にまで関係してくるとなると、これは学問の自由など大学自治への根本的直接的な行政介入の問題として、憲法問題にも発展しかねない制度だと思われる。

憲法など無視する風潮が横行するとはいえ、わが大学においてそうした一番根本的なところで、制度設計が学問の自由などに行政的に介入しうるシステムだとすると、これは、教授会自治・大学の自治の破壊の一貫として、恐るべきものとなる。

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2004105(1) 都立大学総長が設置審認可とその留意事項を踏まえた見解を発表した。本質的諸問題で、本学も同じ問題を抱えていると考えられ。、総長声明に基本的に共感する。以下コピーしておきたい。

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      Academia e-Network Letter No 191 (2004.10.05 Tue)
         http://letter.ac-net.org/04/10/05-191.php

AcNet Letter 191
目次 2004.10.05

1】東京都立大学総長声明  2004104
     
新大学設置認可答申を受けて ── 現状評価と課題 ──
     http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/
jok/soucho100404.html

  未定稿につき削除

  確定稿がわかれば掲載。

 


 【1-1】毎日新聞 2004.10.1 東京
  首都大学:首都大設立問題 文科省設置審、非公表意見 /東京
  http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/archive/news/2004/10/01/20041001ddlk13040340000c.html

 AcNet Letter 191
1 2004.10.05
   
2004104日都立大学総長声明
       
新大学設置認可答申を受けて ── 現状評価と課題 ──
 
 

未定稿だったようで削除を求められたので、削除。

確定稿がわかれば掲載したい。 

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1-1】毎日新聞 2004.10.1 東京
  
首都大学:首都大設立問題 文科省設置審、非公表意見
   http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/archive/news/2004/10/01/20041001ddlk13040340000c.html

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教員側との協力体制の確立説く

 
都が都立4大学を統廃合して来春の開学を目指している「首都大学
 
東京」について、文部科学省の大学設置・学校法人審議会が21日
 
に設置を認める答申をした際、公表した5項目の「留意事項」に加
 
え、非公表で「その他の意見」3項目を都に伝えていたことが分かっ
 
た。「都市教養学部」の名称に疑義を呈したり、教員側との協力体
 
制を確立する必要性を説いていた。

 
設置審は「その他の意見」で、「『教養』という普遍的性格を持つ
 
語に、『都市』という限定的な語を冠することに違和感を覚える場
 
合もある」と指摘したうえで、「開学に先立ち学部・学科の名称を
 
再検討することを妨げるものではない」と付記した。

 
また、「教育研究の質を担保するには、教員の意欲・モラルの維持・
 
向上を図ることが必要」として、都側に「教職員が一致協力して開
 
学準備にあたる機運の醸成」に努めるよう求めた。さらに、新大学
 
が使命に掲げる「大都市における人間社会の理想像の追求」につい
 
ても、「様々(さまざま)な学問的アプローチが必要」との認識を
 
示し、「均衡のとれた教育研究体制の構築」に向けての努力を求め
 
た。【奥村隆】

 

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2004104(3) 「全国国公私立大学の事件情報」で、次の記事とそれに関する管理人の見解を読んだ。わたしもこのネットワークから限りなく多くを得ており、管理人見解に共鳴し、ここにもコピーしておこう。

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Academia e-Network Letter 発刊1年、「空気支配」に抗して(編集発行人) 

以下,Academia e-Network Letter No 189 (2004.10.01 Fri)より転載

「空気支配」に抗して(編集発行人)
 −Academia e-Network Letter 発刊1
http://ac-net.org/item/57
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AcNet Letter 発刊から1年を経過したのを機に、感じたことを少し記したい。

日本社会では、ある種の深刻な「荒廃」が着実に進行しているように感じる。荒廃の実相は注意深く覆われているようにみえ、その存在については議論が分れるような状況に留まっているようだが、着実に進行しているように思われ、もはや覆うことができない状況の到来も近いようにも感じる。しかし、この「荒廃」は学問的には社会科学・人文科学に主に属するテーマであり、社会に余り関心を持ってこなかった一数学者としては全体像が見えず、このような皮相的広報活動を続けることには躊躇の念が常につきまとっている。発刊をかろうじて続けているのは、日本社会の隅々に浸透している「空気支配」がしばしば逸脱することへの抵抗としてである、と表現できるかも知れない。

1999年に閣議決定されたとは言え、国立大学の自主的な判断にある程度委ねられた独立行政法人化について、中央省庁等改革推進本部や文部科学省の関係者による種々の誘導があったとは言え、国立大学内の空気が徐々に変化していき、2003年には国立大学法人化は独立行政法人化ではないと言って賛同するに到る経緯を目撃したことは恐るべき体験であった。1941 年の対米開戦の決定において、政府と軍の高官の大半が無謀であることをよく認識しながら、最終的な会議の空気には誰も逆らえなかった、という趣旨の手記が残されていたと思う。国立大学の独立行政法人化が日本の大学界にとって、表面的なプラス効果より深層的なマイナス効果の方が問題にならないほど規模が大きいことを、大学界の「高官」は明確に認識し公言もしていたが、全体としては空気に逆うことはなく、なし崩し的に事は決まって行った。

空気支配が、冷静な理知的判断と正反対の方向に暴走することは稀ではあると思うが、一旦暴走した時の災厄は予想外の規模となることは60年前に実証された。それにもかわらず、日本社会は60年かけても、空気支配の暴走に対する危機管理の実効的方法を形成し得なかった。そのことが、小規模な社会現象としてではあるが、大学界で確認されたと言えるだろう。このままでは、以前何度か紹介した、伊丹万作氏の不吉な「予言」(*1)は遠からず「成就」することになる。

この危険性は、イラクで人質となった邦人が解放された直後に日本で発生したおぞましい空気に多くの人々が一挙に流された「事件」で、現実性を帯びてきた。この事件では、「空気」はかなり意図的に生成されたものであったが、問題はそのことよりも、少数の人たちが作った空気に動いてしまった社会を、冷静な理知的判断の下に引戻す機能が、メディアを含め、既存の社会的システムにはなかった、ということにある。

しかし、社会学者の宮台真司氏(*) も指摘されているが、匿名掲示板と異なり、多くのブロガーはその「空気」に動かされずに合理的な判断を表明していた。この事件は、「空気支配」の暴走を制御する機能をもつ実効的システムがインターネットを通して形成される可能性を示した点で、歴史的意義を持つものと考えたい。

なお、上の空気支配が始まると同時に、京都精華大学教員有志が抗議の意見を表明し、また、ほぼ同時に、東京大学では醍醐聰氏を中心とする教員有志によるバッシング批判声明への賛同署名が行なわれ、その後、全国規模のネット署名に引きつがれ、6001名含大学関係者1684 名)が賛同し、2866名がネット上で個別のメッセージを表明した(http://ac-net.org/honor)。既存の社会的システムの中では、大学界は、空気支配の暴走への歯止めとして機能する潜在力を持つことを示す事件でもあった。

Academia e-Network Letter が、大学界における空気支配の逸脱に抗する機能をわずかでも持てばと願い、また、さらには、大学界自身が、日本社会における空気支配の大規模な暴走への抵抗装置としての潜在力を発揮することを願う。

同様の趣旨で、AcNet RSS Project (http://ac-net.org/rss )を実験的に始めた。すでに数十万のブログがあると言われているが、その中で、日本と世界で進行している「荒廃」の存在を意識したブログのRSSを定期的に収集し種々の形で表示する、というシンプルなprojectである。この趣旨に合うと思われれるブログの自薦・ 他薦をお願いしたい(連絡先:admin@rss.ac-net.org)。主に大学関係者のブログ収集するが、それに限るわけではない。
(編集発行人)

 

 

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2004104(2) 101日夜、大学改革推進本部主催(という言葉は当日、現副学長が入試実施体制に関する説明のなかで使用したものだが、この間のすべての手続きからしてまさにそれ以外ではない、つまり大学が主体ではない、そうではありえない)で開かれた説明会に参加した。時間は、18時から19時半という設定で、当局側の挨拶や説明で1920分過ぎまで使った。その上で、「時間がありませんので、時間以内で」という限定を繰り返しつけながら、一応は意見を聞くとして、質疑応答という若干の場を設定した。

商学部のある教員からは、51名の教員定数に対し現在38名であり、この欠員の多くは今回の改革に対する拒否の態度表明である、この補充はいったいどうなるのか、といった質問が出た。私の聞き取りえた限りでは、文部科学省への届け出にあたり、必要最小限[17]の人員は補充した、という説明であり、現在のカリキュラム体系のためには、補充しないとも取れる発言であった。いずれにしろ、説明会という法的性格の不明な場での、したがって責任ある答弁ではないわけだから、何がどうなるかはわからない。

別の商学部教員からは、副学長予定者なる人の使用したキーワード「プラクティカルなリベラルアーツ」なる概念とその説明に対する根本的な疑念が改めて表明された。私など、教授会の議論がきちんと行われていないので知らなかったが、新学部長予定者の答弁によれば、入試用の大学案内では、この物議をかもしつづける「プラクティカルなリベラルアーツ」は一切使用しないようにしたようである。それに代えて、「実践的な教養」という言葉を使用することで統一しているという。副学長予定者がこうした対外的な大学案内において使用されることになった言葉(ないし、正確には「用語統一」というべきか)を知っていなかったということ、こうしたことに驚いた。現在の行政主義的改革がもたらす問題性を端的に示しているのではないかと感じた。

           国際文化のある教員は、配布されたカリキュラム表で、担当者欄がすべて星印で示され、固有名詞がわからないようにされていることを問題とした。文部科学省に届出をした正式資料(各担当科目の担当者の職階と固有名詞を明記したもの)を説明会で配布できない(しない)というこの現実は何を意味するのだろうか?「説明会」というのはその程度の非公式のもの、ということであろうか?

説明会は、冒頭、現学長が挨拶し、改革が成功しているとし、中央教育審議会の報告における「総合教養型」大学こそ今回の本学の改革方向であると位置付けた。そうした姿勢からは、権威あるものを利用できるところは利用しようという姿勢、外部の基準・ものさし(「プロクルステスの寝台」)を具体的なものに当てはめるという問題性が伺われる。

だが、本学の方向性が総合教養型大学だとして、それでは、この間の「改革」からは早い時点で関係のなかった医学部はどうなるのか?

また、鶴見キャンパスの最高度・最先端を目指す生命科学連携大学院はどうなるのか?

むしろ、今回の文科系教員削減(の傾向)は、鶴見キャンパス新設(さらには看護短大の4年制化も?)(そちらに教員定数を配置したこと?)に関連してのことではないのか?

現学長発言は、横浜市立大学の総体を歴史的に適切に位置付け表現するという基準から見れば、問題発言だと感じた。これまでの瀬戸キャンパスンに関する「改革」の正当化だけを目指した発言ではないか、と。学長は、昨年12月の自らの市議会答弁を引用しつつ、改革は、「道半ばだ」と繰り返し強調した。この抽象的な言葉だけで、何が今後の本質的課題なのかは示さなかった(私が理解できなかっただけかもしれない)

ついで、市長から任命された大学改革推進本部最高経営責任者の挨拶があった。学長と違い、これまでの改革の進め方が多くの問題をはらんでいることを率直に認める文言がその挨拶には含まれていた。この否定しようもない事実を、何も認めようとしなければそれこそ大問題だろう。当然のことをきちんと認めることは、信頼確立の一歩だと考える。

だが、それがどのような諸事実を意味しているのか。その理解は今後具体的な政策や発言で、おいおいに確認されるであろう。

ついで、市長・行政当局が任命した新学長予定者の挨拶があった。私には彼の日本語が良くわからなかった。後半部分は英語で話したが、それも私には日本語以上に良くわからなかった。この学長予定者を選んだ行政当局・大学改革推進本部の人々は、新学長予定者の発言内容が良くわかっているのであろう。

私が日本語発言部分で理解しえた数少ないことのひとつは、能力主義を強調したことであった。業績さえあげれば年齢に関係なく登用するというようなことを発言したと記憶する。

公明正大な能力主義こそは、私も共感する。公明正大でなければ努力のしようがない。これこそが現在の大学改革で、本学においても全国においても求められていることであろう。

しかし、問題は、能力の内容である。

これまでだってある意味の「能力」を示した人々が登用されてきたのではないか?

今回の「上から」「外から」の任命だって、ある種の能力判定基準を持って行われたのであろう。それが公明正大であるかどうか、多くの大学人の共感や信頼を得るかどうか、広く社会的承認を得るものかどうか、ここが問題なのである。

根本的に重要なことは、能力の基準、能力判定の公明正大さ・審査体制であろう。そこに大学の自治や学問の自由、大学の生き生きとした発展が深く関係してくる。大学内外に対する社会的説明責任が問われる。

そこで次の疑問が湧く。そもそも、今回、新学長予定者を選ぶにあたって公明正大であったといえるのだろうか? いかなる審査体制であったか?誰が見つけてきたのか?その妥当性は?

その手続きに問題はなかったであろうか?

形式的には問題ないとしても、実質的には?

今回の学長任命は、以前この日誌でも書いたが、現大学の最高幹部(少なくとも副学長以下の人々)でさえも、記者会見・記者発表当日の部局長会議で知らされたという。つまり、行政当局の独断専行というべき学長任命である。そこに公明正大さ、能力基準の公開、能力判定のオープンさはあっただろうか? こうした手続きの上で、「外から」「上から」任命された学長の発言、その内実と貫徹力は、どれだけ多くの人が信頼し、共感を寄せるものだったのだろうか?多くの人は半信半疑ではなかろうか。これも今後の新学長予定者の具体的な活動で実証・検証されるべきことであろう。

新学長予定者発言でもうひとつ私が理解しえたのは、大学の研究教育の中心的担い手は恒常的安定的な教員職員によらなければならない、という部分であった。臨時的な任期制のような短期的・不安定・不確実なポストは限定的なものに限るという発言だと理解した。この点、現学長のスタンスとは決定的に違うであろう。そこに新学長予定者のアメリカにおける体験が活かされているとすれば、すばらしいことである。それに共感した。

だが、これまた私の主観的なだけの、そしてまた私の法的感覚でうけとめ理解しえただけのことであるのかもしれない。これも単なる説明会の発言であり、かりに私の理解どおりだとしても、それは単なるリップサービスであるかもしれない。その信頼度・正確度は確認できない。まさにそうした信頼度・説明責任を問われないのが、「説明会」というシステムであろう。今後、学長予定者がどのような発言と行動をとるか、これが問われる。

今回のたんなる「説明会」にいったいどれだけの人が出席したのであろうか?カメリアホール前半分の壇上に向かって左側前方に主として席を占めていたのは、大学改革推進本部関係の人々(20名程度?)だった。中央、右側に座っているのはほんの数人ぱらぱらとだった。

一般教員参加者は、主としてカメリアホールの後ろ半分の席にいた。ここには、かなりの人がいたように思うが、何名だったのだろう?

正規の審議機関の議事録ならば、出欠確認はきちんと個人名に従って行われ、議事録で確定できるが、そのようなものはない。

教授会のような正規の審議機関、学則上の権限と責任を持つ会議ではない以上、別に出席の義務はない。単に「説明」を聞きたい人だけが参加するということである。説明に疑問や異論を感じても、発言することに有効性がないのだから、どれだけの人が発言意欲をもったかわからない。いくつかの挨拶・説明に対しては、「無責任だ」、「いったい何を言っているんだ」という声が聞こえてきた(これも私の空耳かもしれないが)

「時間がない」とはじめから釘をさし、「本日説明した内容に限って」と縛りをかけ、積極的な発言・自由な発言を求める雰囲気ではなく、物理的にも質疑応答とされた時間は10分を切っていた。そうした抑圧的制止的運営をみると、私は発言する意欲も勇気も湧かなかった。

それはさておき、じっさいには少し延長して、答弁を含めて質疑時間は15分−20分くらいになったであろうか。それにしても、ここでの実際の発言は、どのような意味・有効性があるのか、疑問ではある。(説明会を終えるにあたって、意見があれば個人的に後でいろいろと申し出るように、という司会者発言があり、オープンな場での発言ではなく、非公式の場・閉鎖的な場での意見具申は問題ない、ないしは希望しているようである・・・これも私の誤解かもしれないが)

最後の発言者(国際文化学部)は、6月の「説明会」から実質的に重要な点で(担当コマ数その他の実質的部分、任期制等)何も変化がないではないか、と主張した。

答弁では、大学改革推進本部の教育研究評価プロジェクトでの検討が進行中であるとのことだった。そしていずれ中間報告を出すということだった。だが、この理解も正確でないかもしれない。

その発言者は、この重大問題に関する説明会を早急に求める、と発言した。「説明会」の法的有効性はないと思われるが、ともあれ、オープンな説明会だけでも早急に求める、ということであろう。それだけ、オープンな情報が欠如しているということでもあろう。

さて、情報公開、オープンな議論は、どうなるか。

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2004104(1) 岐阜大学における法律に基づく特定ポストへの任期制助手の採用に関して、大学当局(学長)教職員組合に意見を照会していた。この意見照会に対して組合側が意見を述べたことを「全国国公私立大学の事件情報」で知った。その意見によれば、大学当局提案の「再任不可」に対して、「再任可」とすべきであるとしている。制度的法律的には、京都大学井上教授事件が示すように、再任しなくても問題ないと形式的に判断される(それを許す、京都地裁判決を見よ)のが任期法である。

しかし、任期法の趣旨に照らし、しかるべき公明正大な審査をして、大学の研究教育の活性化という大目的・大前提に資するものならば、任期制教員(問題のポストは新設センターの助手)についても再任は可能である、というのは当然のことであろう。はじめから問答無用の「再任不可」を規定してしまうことは、問題であろう。

さすが当事者であるだけに、教員組合の回答は、簡明で問題の本質をついていると感じた。

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2004101日 新学部のコース長(1年任期)も上から任命されたようである。今朝、ボックスに入っていたコース長予定者の文書(930日付け)ではじめて知った。「本日、・・・お引き受けした」ということなので、昨日、すなわち930日のことのようである。「国際教養学系・国際文化創造コース」の33名の教員宛の文書である。他のコースがどのようになっているのか知らない。記者会見はないのか?

この間の学部編成・コース編成・カリキュラム体系等が教授会等による自由でオープンな議論の結果ではないことを反映して幾多の問題を抱えていると思われるが、その点をこのコース長予定者は指摘して、「引き受ける条件として、当コースのカリキュラムについて、科目名の変更を含んだ見直しを行うこと、そしてその変更は当コースが実質的に教育を開始する平成18年度当初までに完了することを申し出」たそうである。その仕事を任期の1年以内に完了する、という決意表明がなされている。

これに対して、行政当局が任命した「学長予定者・副理事長予定者・副学長予定者・国際総合科学部長予定者」から、「最終的には、合理的な理由の説明があり、それが教育研究審議機関の了承を得られれば、変更が可能であるとの回答を得た」という。その回答を得たので「コース長を引き受けた」と。その決意表明によれば、「これからの教員間の民主的な議論によって当コースのカリキュラムをより良いものにしていこう」ということである。もちろんそれは絶対に必要なことである。ただ、「民主的な議論」の結果は、どのような有効性と貫徹力を持つのか?という疑問、制度的には無視しうる構造ではないか、という疑念が残る。無視しうるという制度的保障を得ているとの認識からの発言であるとも言える。制度的実質的保障がないからである。

最初の学長については上からの任命に関して定款に基づく一定の正当化が可能であるが、学部長以下コース長までが行政当局によって、教授会(もっとも肝心の教授会編成がなされていない・・学校教育法に規定された教授会を設定するという最も重要な点が欠落したまま進んでいるということ、ここに本質的問題があるであろう・・法的に必要な最低限のことをきちんと明示しないというのだから、その遵法度合いが検証できるであろう)の自立的自主的意向を確認することなく任命で決められるようなシステムにおいて、「合理的な説明」との判断は誰がするのか? 現行学則とその精神(学部長・研究科長等の民主的選挙)を尊重しない態度(ストレートな「上から」・「外から」の任命)を見ているとき、疑問を感じて当然ではなかろうか?

「教育研究審議機関」もまたそうした上からの任命システムで構成され、教授会等の自律的主体的な検討と発言力を保障しない場合(聞き置くだけという態度が取れる場合)、約束された「回答」なるものに意味と有効性があるのか、疑問ではある。コース長を引き受けた方のご「苦労」はわかるが、さてどうなるか。

新学部教授会・新研究科教授会が構成されない、その編成方針さえも示されないということは何を意味するか?大学内外の行政的にものごとを処理したい精神が貫徹しているということである。三つの学部を一つの学部にし、四つの大学院研究科も一つにしたのであるが、その趣旨はどう生かされるのか? ここには根本問題があるということである。上記コース長予定者は、コース内の問題に関していろいろと具体的な問題を把握しているということである。もちろんそれも大問題である。今後の調整・変更も重要である。

しかし、さらに問題なのは、学部・研究科の全体像・全体的構成ではないのか? この間、コース設定等における細部だけは、いろいろ検討されたにしても、コース相互間の関連、学部・研究科としての発展的な内実はどうなっているのか?また、文科系と理科系の二つの研究院の構想はどうなったのか?

諸科学の総合的な有機的発展のために、新しい学部や研究科を作ったのならば、コースなどという「蛸壺」だけで議論が済んでしまうのではなく、全学部・全研究科での自由でオープンな議論を可能とする制度設計が必要なのである。それは、単に上からの説明会を開いて、一方的に上から流したい情報だけを流すというあり方とは違うはずである。この間の行政主義的手法、徹底的秘密主義の跋扈などを振り返ると、事は容易ではない。

本来大学においては、学問、諸科学の根本的根底的な意味での民主性こそが、制度化され、機能しなければならないあろう。権力(行政)・財力(予算)・単なる数といった学問外的諸要因が民主的システムによる検証と規制抜きに支配すれば、統合は表面だけのことになり、科学はいたるところで腐敗するであろう。独立行政法人の独立性、公立大学法人法の諸規定(独立性・自立性・自律性)など、どこに実現されるのか、ということでもある。

いまのままだと、単なる事務室の統合・職員削減・教員削減・予算削減、学部数の削減(3が1に)、研究科数の削減(4が1に)という数値目標だけが明確に小学生でも計算できるほどはっきりと達成されたとしても(そで行政当局の「業績」は明示でき、行政的にはそれで終わりだとしても)、大学としての固有の発展的なものはないということになりはしないだろうか?

「あり方懇」は、かつての大学にどのようや評価を下したか?

今回の「改革」の結果は、その総体がいずれ何年か後に検証されるであろう。

それだけではなく、研究教育の本来的な実績が問われることになろう。当面さえやり過ごせればいい人には関係ないことだろうが。



[1] 競争的研究費へのチャレンジは、もちろん、必要なことである。しかし、競争的研究費は誰が審査するのか?その審査は公正妥当か?ノーベル賞学者・小柴教授がいっているように、彼のレベルでは彼のレベルで、およそ不本意な評価者・審査者が審査をおこなっていることがありうるのである。

 したがって、競争的資金の成果が何か、その公開、学会による批判といったことが必要となる。

 ところで、本学では、「奨励金」というものがある。いったいこれは適正に審査され、適正な業績・成果の公開はあるのか?どういう人々が「奨励金」をとっているのか?

 「奨励金」を取ったほどならば、その次の段階として当然にも「科研費」などには応募くらいはしているのであろうが、その検証は?(こういうことを書くと、すぐに近視眼的に過去23年だけを見るかもしれない。しかし、少なくとも10年程度のスパンで見る必要があろう。)

 一律の行政的統制的な教育研究費カットの脅かしなどをかける前に、やるべきことはあるのではないか。

 他方、現在非公式なやり方で進んでいることで問題となるのは、グループを作って「奨励金」のような競争的資金に応募しなければ基礎的教育研究費さえ確保できないようにしようとしているかに見えることである。昨日の非公式情報も、そうした内部情報が漏れたものとも受取れる。

 競争的資金を獲得するために、自発的にグループが結成され、共同研究することは望ましいが、そうした共同研究になじまない個別の教育研究のための費用はどうするのか?

 基礎的な個別の教育研究の費用は、たとえば、学会出張ひとつとっても、ある程度保障するのが大学ではないのか?個人研究(基礎的な最低限の個人的教育研究費)の範疇は、共同研究の範疇と同様に必要不可欠ではないか。

 基礎的な最低限の個人的個別的な教育研究費を廃止してしまうと、共同研究に参加できない個別研究者はまったく教育研究費を奪われてしまう。

 

[2] 横浜市の行政当局の大学に対する姿勢、その適正さは各方面から問題にされよう。

[3] これまで、964月に本学に着任して以来、最初は前の大学で取得していた科研費の継続で、その後も、国際学術調査や基盤研究(C)、他大学や学内の研究代表者のもとでの研究分担など大体途切れることなく科研費をなんとか取得できたが、それは社会の空気を感じ理解しつつ、自発的に行ったものだった。上で述べられるような直接的な強制的やり方では、私の場合は少なくとも気が腐る思いがする。基礎的な教育研究費を得るためだけの申請、と。

[4] 正確には議事録にあたって確かめなければならないが、市議会における大学(事務局)答弁で、責任者が「教授会審議事項は設置者が決めることができる」と答弁していたので、驚嘆したことを覚えている。

公立大学(法人)の設置者(正確には設置者は地方公共団体であり、行政当局ではない)は、憲法解釈の定説や学校教育法にしたがった国立大学法人・私立大学の教授会審議事項(重要な審議事項として一般に承認されている事項)を、ひとり「公立大学法人」設立の「横浜市立大学」だけでは制限し限定できるかのごとき発言内容に、驚いたのである。当時、そのことを日誌にも書いた記憶がある。先日、101日の「説明会」で久しぶりに「大学像」が配布された。それを見て、教授会権限を制限する部分が目に飛び込んできた。

 

現教授会規程の原則と明確に列挙された重要な審議事項は、設置者が勝手に決めたものなのか?憲法、教育基本法、学校教育法とそれらを具体化した国立大学をはじめとする諸大学の教授会規程に倣ったものではないのか?

 現行教授会規程は、法にのっとったものではないのか?

法体系にのっとり、大学の教授会重要審議事項とされたものをなぜ制限できるのか?

国立大学法人はそのあたりをきちんと考えているのではないか?

公立大学法人が設置者になることで、憲法・教育基本法に基づく教授会審議事項がどうして制限できるのか等の疑問が湧いて当然ではないか。憲法以下の法体系の階層性・段階構造をきちんと検討してみる必要がある。

 

「法人の権限・責任」と「大学の権限・責任」とを混同していないか?

 

[5] すでにこの日誌でも紹介したが別の若手教員はまさに悲観的状態におちいり、「だめもと」精神で、地方国立大学の教員公募に応募し、地方国立大学に移った。これらは私の知る限りでのことであり、他にも密かに公募などに応募した人は何人かいるのであろう。都立大学は、その数が非常に多かったようである。

 

[6] この態度が骨のずいまで染み込んだ人は、いわゆる日和見主義者ということになるのであろう。

 

[7] 私の危惧していることは、いずれ何か問題化すれば、教授会審議決定の記録やその評議会における承認などの記録がないことから、明らかになるであろう。いつの時点で、きちんとオーソライズするのか? そんなことは必要ないと考えているのか?

 都立大学の事例(大学管理本部が行った採用人事)もあることだから、今後の展開を注視したい。都立大学関係でも、その合法性が大学の自治との関係で問題にされていたと記憶する。

 

[8] この間の事態を悲観し、他大学を探そうとし方々でそれを表明したほどだから、現在は一種の諦観状態、ただ最近、若干の希望をもてる条件・環境の出現、といったところかもしれない。

 

[9] 「教育研究だけに専念すればいい」という考え方には、当然、非常な反発を持っている人もいる。その点については、別の日誌読者から、厳しい批判的コメントが寄せられた。

 

[10] それがいいのだというのではなく(そんなことをいったのでもなく)、ただ今の状態では「仕方ない」、「あきらめるしかないのではないか」という気分と受取った・・私の間違った受け止め方かもしれない。

 

[11] この部分については、早速、ご異論、ないしコメントを別の読者から寄せていただいた。

 

教授会に人事権がない、ある大学で、「教員はこの制度を甘受することなく、教員組織の必要に応じた人事を行うべく、苦闘していました。私・・・も、その手伝いに奔走・・・。そこで私は、これが圧政に抗して学問の自由を守るということなのだと思いました」と。

そして、「横浜市大の今後の人事においても、これまでのように優れた教員を公正に選ぼうとすれば、教員が大変な苦労をしなければならないということです。その手間を厭い、人事について理事会などの組織に任せれば、先生の日誌の読者という方のおっしゃるように、より研究に専念できるのかもしれません。しかし、私には、教員の大多数がそのように考えている大学の姿が、まったく想像できません」と。

 

教授会に人事権のないその大学では、「圧政に抗して学問の自由を守る」努力のなかで、「教員の熱意において満足度の高い大学ということになります。振り返って考えるに、彼らは常に学問の自由の危機に直面しており、それによって自己の研究教育のあり方を省察することを迫られていたがゆえに、あれほど真摯であったのでしょう」と。

 

傾聴に値することだと思う。

本文で言及した若手の優秀な方はもちろん、よく仕事をする人であり、基本的にこの考え方であると信じる。

ただこの間、特に一時期、きわめて悲観的になってしまった(そうならざるを得なかった)、そして、教員の教育研究評価制度など不気味な話(市長による理事長、学長の任命、その後の学部長、コース長のすべてが行政当局・大学改革推進本部による任命で、その人々による教育研究等業績評価ということになればいったいどうなるか?下記の芦部『憲法』が示すようにそれは、行政当局の大学支配に他ならない、大学の自治は存在しない、ということではないか。すでにこの6月の教員人事では教員による研究業績審査のウエイトは25%のウエイトだったとかいわれている。ここにおいても行政の発言権が支配しているとすれば、理事長・理事会独裁の私学とどこが違うことになるか?)が漏れてくる状態では、その悲観的時期の諦観状態から抜け出しえてはいない(それはある意味で当然だと思う)、ということだと考える。

いったいどのような就業規則がでてくるのか、研究費はどうなるのか、誰が業績評価するのか、どのような基準でするのか、あまりにも不確定要因・不安要因が多すぎるのが現状だからである。 

 

[12] いや、まさに現在そうした事件がおきている。「全国国公私立大学の事件情報」にはそうした事件がいくつもでている。本日付の下記の記事も、その最新版である。

富士大学助教授配転・解雇事件の経過と真相(本訴1年)

「富士見ネット通信」第8号より

[13] どこもそうだが、力の強いもの(権力)に迎合服従している人もいるので、そうした人々に知られないように、教員組合結成は秘密の会合を積み重ねて行われたようで、その「武勇伝」など伺ったことも懐かしい思い出である。

 

[14]

学校教育法:第五十九条〔教授会〕

大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない。

2 教授会の組織には、助教授その他の職員を加えることができる。

 

[15]  評議会・・・学則第11章 教授会、評議会及びその他の機関 第45条 大学に評議会を置く。2 学長は、評議会を召集し、その議長となる。

 

評議会審議事項・・・学則11章第47条:(1)学則その他の重要な規程の制定または改廃に関すること、(2)人事の規準に関すること、(3)予算の見積もりに関すること、(4) 学部、学科、研究所その他重要な施設の設置または改廃に関すること(5)学生の定員に関すること、(6)各学部その他の機関の連絡調整に関すること、(7)  学生の補導厚生に関すること、(8) その他大学の運営に関する重要なこと。

 

評議会の幹事、書記・・・学則第11章第48条 評議会に幹事及び書記を置く。 2 幹事は、事務局長があたり、事務局長事故あるときは、総務部長がこれにあたる。3 書記は、幹事の命を受けて事務に従事する。

 

評議会の議事等・・・学則第11章第49条 評議会の議事並びに運営について必要な事項は、評議会にはかり学長が定める

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これを受けた各学部教授会規定

たとえば、商学部

第5条      教授会は、次に掲げる事項を審議する。

(1)                                                     法令または学則により規定された事項

(2)                                                     学則その他規程の制定改廃に関する事項

(3)                                                     学科課程に関する事項

(4)                                                     試験に関する事項

(5)                                                     教員補充に関する事項

(6)                                                     各種委員選任に関する事項

(7)                                                     学生の入学、退学、休学、除籍、賞罰及び卒業に関する事項

(8)                                                     その他重要と認められる事項

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ついで、国際文化学部と理学部の教授会規程のうち、審議事項に関しては、

(1)    学部の予算及び施設に関すること

(2)    教育課程、授業及び学生の学習活動に関すること。

(3)    学生の入学、卒業、休学、退学、復学、転学部、転学科、除籍及びその他学生の身分に関すること

(4)    学生の補導厚生及び賞罰に関すること

(5)    教員の研究活動に関すること

(6)    教員人事に関すること。

(7)    学長候補者及び学部長の選出に関すること。

(8)    学部長以外の部局長候補者及び評議員の選出に関すること。

(9)    各種委員会の委員の選任に関すること。

(10) 学則その他重要な規程等の制定改廃に関すること。

(11) その他教授会が必要と認める事項。

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ついで、経済研究所・木原生物学研究所の教授会規程のうち、審議事項については、

4条 教授会は、次の時効を審議する。

(1)    研究所規程の制定改廃に関する事項

(2)    研究所の予算の概算に関する事項

(3)    研究所の教員人事に関する事項

(4)    所長の選考に関する時刻

(5)    学長候補者の選考に関する事項

(6)    研究調査その他事業に関する事項

(7)    その他研究所における主要事項

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大学院研究科についてもみれば、

経済学研究科・経営学研究科委員会規程における審議事項は、

第4条      研究科委員会の審議事項は、つぎのとおりとする。

(1)           大学院経済学研究科または経営学研究科に関する諸規程の制定改廃に関する事項

(2)           研究科教員の選考に関する事項

(3)           研究課程に関する事項

(4)           研究科生の入学、休学、退学、復学、除籍その他学生の身分に関する事項

(5)           成績評価、学位論文審査等に関する事項

(6)           その他研究科の教育、研究及び運営に関する事項

 

総合理学研究科に関しては、

 (審議事項)

第3条      委員会は、次の事項を審議する。

(1)          研究科に関する諸規程の制定改廃に関すること

(2)          研究科教員の資格基準および人事に関すること

(3)          研究科長の選出に関すること。ただし、研究科長の資格及び選出方法については、委員会が別に定める。

(4)          研究科学生の入学、退学、休学、復学、除籍その他学生の身分に関すること。

(5)          研究科学生の表彰及び補導厚生並びに懲戒に関すること。

(6)          学科目に関すること。

(7)          試験及び成績評価に関すること。

(8)          予算の概算に関すること。

(9)          その他研究科の学事に関すること。

国際文化研究科委員会規程では、学部長と研究科委員長とが兼任のため、上と(3)の部分など、若干の項目が違うが、つぎのようである。

 (審議事項)

第3条      委員会は、次の事項を審議する。

(1)     研究科に関する諸規程の制定改廃に関すること

(2)     研究科教員の資格基準および人事に関すること

(3)     研究科学生の入学、退学、休学、復学、除籍その他学生の身分に関すること。

(4)     研究科学生の表彰及び補導厚生並びに懲戒に関すること。

(5)     学科目に関すること。

(6)     試験及び成績評価に関すること。

(7)     学位論文の審査に関すること。

(8)     研究科の予算に関すること。

(9)     その他研究科の学事に関すること。

(10)  特に委員会が重要と認めたこと。

 

[16]

----------総合理学研究科・佐藤真彦教授HPより---------------------------

 

日本国憲法23条(学問の自由)


憲法23条:

 

「学問の自由はこれを保障する」

 

国立大学独立行政法人化の諸問題より)

 


 

芦部信喜『憲法』岩波書店より


「憲法23条は、『学問の自由は、これを保障する』と定める。……学問の自由の保
障は、個人の人権としての学問の自由のみならず、とくに大学における学問の自由を
保障することを趣旨としたものであり、それを担保するための『大学の自治』の保障
をも含んでいる。」(134頁)


「2 学問の自由の保障の意味
 (1)憲法23条は、まず第一に、国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容な
どの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは禁止することは許され
ないことを意味する。とくに学問研究は、ことの性質上外部からの権力・権威によっ
て干渉されるべき問題ではなく、自由な立場での研究が要請される。時の政府の政策
に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件の場合のように、学問研究への政
府の干渉は絶対に許されてはならない。『学問研究を使命とする人や施設による研究
は、真理探究のためのものであるとの推定が働く』と解すべきであろう。
 (2)第2に、憲法23条は、学問の自由の実質的裏付けとして、教育機関におい
て学問に従事する研究者に
職務上の独立を認め、その身分を保障することを意味す
る。すなわち、教育内容のみならず、教育行政もまた
政治的干渉から保護されなけれ
ばならない。」(136頁)


「3 大学の自治
 学問研究の自主性の要請は、とくに大学について、『大学の自治』を認めることに
なる。大学の自治の観念は、ヨーロッパ中世以来の伝統に由来し、大学における研究
教育の自由を十分に保障するために、大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定
に任せ、大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。そ
れは、学問の自由の中に当然のコロラリーとして含まれており、いわゆる『制度的保
障』の一つと言うこともできる。
 大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。ほかに、近時、予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力である。


 (1)人事の自治  学長・教授その他の研究者の人事は、大学の自主的判断に基
づいてなされなければならない
。政府ないし文部省による大学の
人事への干渉は許さ
れない。
1962年(昭和37年)に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は、
文部大臣による国立大学の学長の選任・監督権を強化するための法制化をはかるもの
であったが、確立された大学自治の慣行を否定するものとして、大学側の強い批判を
受け挫折した。」(137頁) 

 

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市立大学に関しては、政府にあたるのは、市の市長以下の行政当局である。大学改革推進本部は副市長を長におき、行政当局の一部局である。それが、今回の改革で、前面に出ている。人事採用にあたっても、大学推進本部の元に委員会を組織するなど、大学の自治の論理ではないことをやっている。通常の人事における教授会や評議会のオーソライズを経ない形となっている。新学部教授会(その準備組織)を立ち上げることもやっていない。

 

 行政当局が、憲法以下の諸法規を守らなければならないことはいうまでもない。定款という市議会で決定した事だけを眼中に置けばいいのではない。

 行政当局の行動に関しては、憲法諸規程との整合性・合法性が問題になる。

 

 商学部等の教授会規程にあるように、すなわち、各教授会は、法令または学則により規定された事項」は真正面から議論すべきであろう。教授会規程なき人事の進行の問題性は検討すべき課題であろう。

 

[17] 最小限といったかどうか不明。こうした重要な点こそ教授会ならば議事録で確認できることだが、単なる説明会ではなにも記録が残らず検証できない。

教授会という正式の審議機関における議論でないことの問題性・・・それこそ行政主義的手法にとっては便利ということか。