2007年2月の日誌
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2月28日 各種、年度末・処理作業等、大学関連業務(9:00から16:45まで)。
2007年度・エクステンション講座・企画関連作業(「ヨーロッパ統合の到達点は何を意味するか―極端の世紀20世紀を振り返って―」(5月9日〜6月6日、5回)
組合三役・事務折衝の終了を待ち、対策検討。
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2月27日 昨夜、9時近くまで3役による事務折衝。その後、10時まで、組合事務室で私も加わって対策検討。
今朝は、9時から大学業務。9時15分から説明立会い・作業開始。9時半から10時、点検作業・立会い。
10時から科研費会計処理作業。
10時半すぎから、大学業務(17:44まで)。途中、17:00当業務委員長と修正箇所に関する点検作業の確認。
明日、給与改定等教員組合の当局との更なる事務折衝。
明後日、臨時拡大執行委員会。
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2月26日 入試本部・付属校舎・多目的教室・集合
10時から入試(国際教養系)−12時まで(2時間、待機中に入試関係教員といろいろと入試だけではなく、大学の現状に関する議論。このような機会でもないと、じっくり話し合う機会がない。)
科研費報告書・印刷製本発注(部数を何部にするかは、現物を印刷所が見たうえでの請求額との関係)・会計処理。
夕方5時半から、当局側回答(組合の第三次要求について)・・・重要な給与体系問題なので、4役出席の予定
(実際には、事務レベル折衝でつめるべき、ということになり、副委員長・書記長・書記次長にお任せし、その事務折衝の結果を4役・給与WGで議論することとする)。
市大ブログにも、「仮進級」制度のことが報じられている(22日付・・ただ、23日に見たときにはなかったように記憶するが)。
27日、午後4時から、学長による説明会だというので、関係の学生は、学長の説明を良く聞いてみる必要があろう。(納得するかどうかは別として。また、日ごろ感じている疑問などははっきり言ってみる必要があろう。学長は、現場の学生の生の声をしっかり聞く必要はあろうから。TOEFL問題での学長と学生のシンポジウムというのも企画されていたはずだから。じっくり対話してみれば、たくさんの問題点が明らかとなろう。)
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2月24日 週末だが、科研費報告書の作成(編集)の作業のため、研究室で仕事。
全員で9名の科研費基盤研究(B)の報告書・編集作業が終わり、A4で全文130ページ近い報告書の編集を終えた。
一段落ついたところで、この間、訪問する時間も精神的余裕もなかった本学・元教授・佐藤正彦先生のHPにアクセスしてみた。そこには、一楽先生執筆の「横浜市脳血管医療センター・医療過誤事件」に関する裁判傍聴記録が掲載されていた。これは『カメリア通信』で、私も通信はいただいていたが、いつも使うパソコンではないところに着信しており、時間的余裕もなく、読んでいなかったものである。念のためにと、一楽先生のHPにも久しぶりにアクセスしたら、掲載されていた。
恐るべきことが、身近なところで起こっているようである。
鹿児島で、選挙違反事件に関して検察当局より訴えられていた12人の人の無罪判決が報じられたばかりであるが、まさに、権力を持ったものが、弱い立場のものを罪びとに追い込む構造は、ごく近くにもある、ということを示しているようである。
どうも、TOEFL問題と同じような構造的問題が、この医療過誤事件と、その後の行政の対応の中にあるように思われる。
冤罪事件。
被害者が「悪者」にされる、加害者が「立派な人」になる。
悪を告発した人が、逆に、悪いとされ、左遷される。
公益を本当に代弁する人が、罪びとにされる。
医療倫理と医療知識・技術、どちらもきわめて重要。そのどちらも欠如する人が、高度に危険な手術を行うとどうなるか。
これは、大学の教育についても当てはまる。
PEには、それにふさわしい重みしか与えるべきではない。
適切な点数のランクで、秀・優・良・可・不可に対応させればすむことだ。
やりたい者、点数を上げたいものにはそれにふさわしい環境を整備してあげればいい。教員や環境の魅力で、PEにまい進する人がいてもおかしくはない。
しかし、画一的に、全員にある基準を強制するのは、いいかげんでやめたほうがいい。
PE一つの科目のために、他の全教員の単位認定権がないがしろにされている。
他の全教員の成績が合格でも、PE一科目の、たった一科目の不合格で多くの学生が進級できないとは(「仮進級」などという扱いとは)、特定・一部教員の独裁的専制的権力の行使を許すことしか意味しない。
このような事態は、事実上、学校教育法における教授会審議権の否定に他ならない。
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2月23日 TOEFLで「学校側が動きました」と学生さんから情報があった。
「仮進級」なるものに関する通知が、関係の学生に送られたことを知った。
果たしてメールだけなのか、きちんと周知徹底するために掲示を出しているのか、不明である。
親しい代議員にたずねたところ、代議員会では議論していないということだった。
学長の独断専行(?)、教育審議会における審議結果(?)、いずれ、正確な情報が入ってくることだろう。
組合員の教員からパワーハラスメント(職責・職務上の上司・上位者から下位のものへの)の悲痛な訴え[1]があったので、教員組合事務室に、副委員長・書記長と善後策を相談しに出かけた。研究室への帰り道に、掲示板をのぞいたら、学生向けの仮進級措置が学長名で掲示されていた。
この措置の責任者(これまでの諸措置を含めて)が学長であることが明確である。
学長は教育研究審議会を率いる長でもあり、責任者である[2]。
気が重くなるような、種々の制限つきの「仮進級」である。がんじがらめの檻に入れられているような気持ちになる。少なくない学生さんは、そうではないか。ここまでこまごまと、あれこれいわれなければならないのか?
学生に、「お恵み」だといわんばかりの条件内容で、これが学生本位のやり方なのか、驚く。
外部試験を一律に、専門分野を問わず適用して進級条件とし、その結果、たくさんの学生さんが困っているわけで、制度設計の根本から見直したほうがいいというのが私の主張である。
掲示は、制度設計の問題性には何も触れていない。
講義を受けないのが悪い、出席の少ないのがおかしい、など、掲げられている条件を読み解けば、内容面からすれば、学生を厳しく非難することを意味するものであった。
これが社会的に許されることなのか?
出席に値するだけのことが行われていたのかという検証はどうなっているのだろう?
本当にPEクラスは機能しているのだろうか?
どれだけの学生がこのこまごました条件を満たしているのだろう?
学生の意欲がわかないようになっているのではないか?
「行き着くところまで行き着く」しかないのか。
英語会話などやりたくない、ということで専攻をえらんだ人々(理系などに多いであろう)は、どうなるのか?
国際教養とか国際経営というコースの場合は、まさに現代の国際的コミュニケーションの主要な武器が英語であり、しかも、実践的な英語が求められるので、いくら英語力を充実しても、かなり厳しい条件でも、可能であろう。
それとても、TOEFLやTOEICでどこまで英語力が充実するかははなはだ疑問である。
ちょっと調べてみるとわかるが、TOEFLやTOEICの問題や文章は実に簡単なものばかりで、スピードだけ、瞬間的な即座の反応ばかりを求めるものである。内容に面白みや深みがあるわけではないし、知的刺激、精神的高揚を受けるものではけっしてない。
こんなもので青春時代、二度とない貴重な大学時代を苦しまなければならないとしたら、
本来やりたい数学や物理学・化学・生物学のたくさんの興味ある文献を読む時間が少なくなるとしたら、
それぞれの専門分野の実験や実習に集中できないとしたら、
血湧き、肉踊る世界の古典的著作、人間、社会や政治・経済に関する古典的著作を読み、じっくり思いをめぐらし、思考力を鍛える時間をうばわれるとしたら。
こんなことをばかりを平気で強制する人々は、まさに大学時代に身に着けるべき教養や専門に関して、「時間が足りない」、「少年老い易く、学成りがたし」などとあせりもせず、何も必要性を感じなかった人々ではないのか?
もしかしたら、TOEFLやTOEICの画一的強制に苦しんでいる学生諸君こそ、深みのある教養の重要性を感じている人々なのかもしれない。
こんなにも厳しく(=画一的に)、TOEFLやTOEICを課そうとする人々は、本当にその社会的有効性を信じているのか?
実証は?
本当に学生のことを考えているのか?
本当に、大学らしい総合的な、そして専門的な勉学のことを考えているのか?
もしかしたら、その逆ではないか?
もしかしたら、自分たちの地位を守るためだけではないのか?
市大新聞ブログ(2月15日付)によれば、理系受験生が4割も減ったという。これは、PE偏重に問題があることが受験生にもわかったからではないか。英会話力があるにこしたことはないが、好きな専門を犠牲にしてまでやらなければならないとしたら、本末転倒、と考えるのが普通だろう。
入試広報担当は、この事態をどのように把握しているのか?
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2月22日 午前中、交渉関係書類・文書検討。副委員長より第三回要求書案を受け取り、検討、意見具申。要求事項等、最終文案確定。
「戦争と復興」科研費報告書関係書類等の作成作業。
午後、3時半―4時 研究院分科会運営委員会
午後4−4時半 研究院分科会総会
午後6時から、当局への第三回要求書提出・説明に、新給与制度という重要問題でもあり、委員長も参加。
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2月21日 昨日は、午後3時半から副理事長と30分ほど、新旧教員組合委員長交代ということで、挨拶し、会談した。明るい雰囲気で話し合うことができたと感じている。
この市民的雰囲気の中での話し合いで、大学を良くしていこうという基本的スタンスにおいて、両者、一致していることを確認できた。
現在の本学が抱えているさまざまの問題性も、大学教員としての多くの経験から、良く理解しておられると感じられた。現在の本学の教授会機能停止状態がもたらす問題も認識していること、その改善のために尽力する姿勢であることも、示された。
私からは、一番基礎になるコース会議が、学則上、権限と責任が明確に位置づけられていないため、参加するも参加しないも自由、出席の確認も一応しているが、審議決定の拘束力も教員相互の信頼感に依拠し、制度的保障のないものであるといった意味のことをお話した。
入試業務の組織化においても、かつてのような安定的なシステムが構築されていないため、問題があることを具体的な事例で説明した。今のところ何とか機能しているが、早く組織を整えなければ、と。そのためにも、現場教員の声が反映できるシステムの制度化が必要、と。
私の理解がどこまで正確かはわからないが、すでに国際総合科学部長には、そうしたことの検討を依頼している、とのことであった。
「全員任期制」が、大学になじまないことも認識しておられた。全教員の通常業務としての教育研究活動において、ある人が任期つき、ある人が任期なし、ということは機能しないとのお考えであったように思う[3]。私もそう思う。
こうした副理事長の考えは、会談したことのある新旧の組合執行部の多くの人にも伝わっているので、一貫した態度なのだろうと考える。
副理事長は「振り子」を使った比喩で現状を表現された。
その意味を私なりに表現すれば、公務員特例法時代の「かつての制度を一方の極とすれば、『改革』で振り子が他方の極端にまでふれてしまったので、安定的な真下あたりに戻す、バランスのいい位置にまで戻すことが必要」と。
なるほど、いい比喩だと感じた[4]。
また、その後、副理事長の案内で理事長のところにも挨拶に伺った。
ここでも、市民的雰囲気のなかで、法人・経営サイドと教員とが協力して大学を良くして行こう、という点で基本的スタンスを確認しあうことができた。
お二人がいるかぎりは、ひどいことは起きないだろう、むしろ、一歩ずつ改善に向かって進める、との好印象を持った。
ユリウス・カエサルによれば、「人間ならば誰にでも、現実のすべてがみえるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(『内乱記[5]』)という[6]。
「見たいと欲する現実」だけを見、「聞きたいと欲する声」だけを聞いている可能性があり、会談で私が得た感触は、あくまでも私の主観的受け止め方であるが、以上のようなポジティヴなものであった。
その感触を実証できるのは、今後の折衝とその合意点、双方にとっての一定の成果においてであろう。まさに、双方の実績・業績においてであろう。
会談においては、私は、昨日の日誌にも個人的覚書として書き付けたことをお話した。
すなわち、現在、法人から提起されている新給与体系には、不透明・不確実な要素がたくさんあり、教員側としては安心して受諾できるものとなっていないことを述べた。その点は、副理事長に理解してもらえたと感じる。
教員組合側としては、その不透明さ・不確実さ・不利益の諸要因・諸要素に関して、明文化し、具体的に意見表明して、現時点で可能なものは回答してもらい、さらに当局側の回答を踏まえ、当局からの諸問題の提起を受け止めて、誠実に市民的折衝を通じて、解決していくことが必要となろう。
すでに、これまで2回、新給与体系に関する質問・要求書を出してきた。
要求書に対する当局回答、それを踏まえた第二回要求、それに対する当局回答を得た。
教員組合側としては、1月末から2月にかけて、教員サイドが年度末の超多忙な日程の中で、新旧執行部がぎりぎりの時間調整を行いながら、誠実に対応してきたことは、広く理解いただけるものと思う。
それを受けて、昨日、夕方6時から10時まで一応の結論に達するまで4時間かかった臨時拡大執行委員会において、熱を帯びる議論を踏まえて第三回目の要求をとりまとめた。給与担当の副委員長に要求書の作成をお願いした。
明日(22日)の夕方、6時から、その要求書を提出し、内容説明を行うことになった。
臨時拡大執行委員会で議論が熱を帯びたのは、やはり、「任期制」をめぐるものであった。以前の会議でもそうであった。
この「任期制」問題は、昨年11月の団体交渉の最重要論点でもあり、その後の団体交渉記録の取りまとめにおいても、当局側と教員側で発言の確認が一番紛糾し、今なお、双方合意の団体交渉記録が出来上がっていない(ある意味では事務折衝レベルではあるが交渉の決裂・ペンディング状態・・・このまま放置すれば団体交渉権の無意味化・法律違反へと発展する可能性も)ことから見ても、難問であることはいうまでもない。
その団体交渉記録の整理・取りまとめ・合意文書作成も今後取り組まなければならない重要課題であることを、臨時拡大執行委員会で確認した。
業績審査(教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力の総合審査)において、合格した教員を、差別なく昇任させるということを、教員組合は「同一労働(力)=同一賃金」の原則で一貫して主張してきた[7]。
同じ商品に同じ価格をつけ、同じ商品を同じ格付けにすることは、市民的感覚からして、当然のことであろう。
商品が、労働力(教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力の総合)あるいは、その発現としての労働サービス(教育活動・研究活動・大学運営活動・社会貢献活動)であっても、原理原則は同じであろう[8]。
教員サイドは、団体交渉の場で、その原則が副理事長には理解され、「昇任差別はしない」という確約を得たと受け止めた。教員サイドは大変喜んだ。
しかし、団体交渉において、職責上・任務配置上の階層秩序において、副理事長の下にある事務局長は、差別はありうる、と主張したようであり、まさに、その差別の程度の問題が論争点になっている。
現時点で示されている「一時金」という当局提案は、まさにそのことを端的に示すものであろう。
「一回きりの一時金なら、いいだろう」という意見もかなりあるということは耳にしている[9]。
「それなら安全だ」という見方もかなり聞かれた。
また、非同意者も「昇任させる」という点では、副理事長と事務局長の間に違いはない。したがって、この「昇任発令」という決定的で根本的なところでは、違いはないと受け止められる[10]。これは重要なこと、教員組合の年来の主張にそくして、画期的な前進ではないかと思われる[11]。
しかし、まったく差別がないのか、それとも差別をつけるのか(どの程度つけるのか)、という点では、当局側において必ずしも全面的な意見の一致がないように思われる。
それはまた、「任期制同意者[12]」と「任期制不同意」の二つのグループがいるという教員側の違いをも反映したものでもある。
さらにまた、「任期制」をどのような内容として定義するのか、一方における当局側がどう定義し、他方における教員側がどう受け止めるのか、という違いの反映でもある。
「任期制」の危険性をどのように評価するか、どの程度と推定するか、という判断の違いでもある。
なぜ、このような違いが生じるのか。
やはり、制度設計において、不明確さがあるという点が出発点であろう。(不明確にしておきたいという気持ちも、当局サイドのなかにはあろう)
明確な理念・明確な制度設計がない、その不明確な内容の任期制を「改革」の目玉として打ち上げてしまった、多くの反対(教授会決議・声明など)にもかかわらず、強行した、しかも、当初は当局側は「全員任期制」などといっていなかったのに、「改革」問題の紛糾過程で、「全員」という規定が入ってしまった、それが中期目標等に組み込まれ、ずっと引きずられたまま、というところに、すべての根源はあるだろう。
そもそも、「任期制」という新しい制度が提起されなければ、こうした「任期制」をめぐる当局側の分裂、教員側の分裂は発生しなかった。その原点に返ると、「任期制」が、慎重な議論を積み重ねた上での労使双方(当局と教授会側)の合意に基づく制度として出発しなかったというところが、一番の問題だろう。
去っていったある優秀な若手が、「はっきりした制度設計なしで、任期制を打ち出したので、もう駄目です」といっていたことを思います。
他方、当局側が最初、「任期制」を導入しようとした主観的意図(教員側への説明責任を欠如したもので一方的なものではあるが)は、「大学の活性化」であっただろう。そして、その「活性化」を立法趣旨とした「大学教員任期法」の制定があったであろう。
出発点は、「大学の活性化」ということであろう。(「任期制」を大学に入れようとする思惑には、実に多様なものがあることはさしあたり捨象する)
そして、昨日の法人サイドとの会談で確認でき、また合意できた(できる)と思われるのは、この「大学の活性化」であり、換言すれば、生き生きとした大学のいっそうの発展、大学の総合的力量(教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力)のさらなる充実・発展、ということであろう。
制度設計の出発点の理念においては、労使双方の代表の間に合意・共通認識ができた、というのが昨日の会談の成果ではなかったか、というのが私の見解である。
その合意の私なりの確認に基づいて、現在、紛糾している問題をどのように解決すればいいのか。
出発点の問題に立ち返り、また、「任期制」に関し、当局サイドでも教員サイドでも分裂があるときに、ある特定の選択だけを教員に押し付けるのはやめるべきだ、ということになる。
すなわち、当局側が掲げる「全員任期制」という特定の(制度設計において問題の多い理念)を、強行的に教員に押し付けるのはやめる、ということだろう。
その強行的に押し付けるやり方の一つとしての差別(昇任・給与体系・研究教育条件等における差別)は、やめるべきだということになる。
「理念」が正しいのならば、合理的説明によって、明確な不安のない制度設計の提示によって、教員を納得させ、その内面的合意を基にして活性化を実現していくべきであろう。
「心配ない、私たちを信じろ」と法人サイドがいっても、この間の「改革」で傷ついた人々には、「あなたたちがいなくなるとどうなるかわからない、あの改革を断行した人々、『あり方懇』にいいたい放題言わせた人々が、現実に存在した以上、今後も出てくる可能性があり、安心できない」という気持ちも、当然であろう。
当局側は、合理的制度設計、明確な制度設計のためには、教員組合も一つの重要なアクターとして、制度設計の根本からの議論を慎重に積み重ねる必要があることを認めるべきだろう。
そうした慎重な議論を踏まえて、合意形成ができたところから、その限定的な部分から、次の前進を勝ち取るようにすべきだろう。
結論: 任期制の同意者・不同意者への差別も、労使双方の合意に基づく合理的合法的制度が出発するまでは、凍結する、ということである。
すなわち、逆の面から言えば、労使双方の慎重審議の積み重ねで合意に達した場合、「任期制の教員」と「任期制でない教員」との間には、区別に応じた差別がありうる、というスタンスである。
漠然とした状態のままで、差別措置(差別状態)を継続することは大学の活性化にはならず、内部分裂・亀裂を深刻にさせるだけ、不公平感を増幅させるだけ、という理解である。
現時点では、労使双方間にそうした合意はない。分裂状態にある。だから、現時点では、任期制の同意者と不同意者との間に差別はもうけるべきではない、ということになる[13]。
それによって、労使合意達成前の不明確な「任期制」のはらむ危険性に関しては、任期制非同意者と同様の安全保障を、任期制同意者にもあたえることにもなる。
「任期制」公募に応じた新規採用者に対する安心感・安全保障の提供ということでもあろう。
「任期制」公募に応じた新規採用者は、市民的良識に基づいて、安定的な任期更新の審査や条件(さらには一定の前提条件のもとでテニュア教員への移行など)があること(整備されること)を期待して(予想して)公募に応じたはずであり、それが存在しないという現実には戸惑い、不安感を持っているであろう。
そうしたことを考えれば、原理的原則的問題として、「同意・非同意を差別しない[14]」、「昇任審査・業績審査に合格すれば昇任」、「制度設計を労使双方で慎重審議の上で確定していく」という原則を確認するのが、大学全体の教員の安心感と協力姿勢を得られる態度だと考える。
法人サイドとの間に確認書を交わすとすれば、
「任期制に関しては、労使双方が慎重な審議を積み重ねて合意に達するまでは、同意・不同意を理由とするいかなる差別も行わない」という確認を求めることになる。
「一時金」の支給という法人サイドの最新の提案に関しても、「任期制に関する、労使双方の慎重審議による合意の形成までは凍結し、今後の交渉課題とする」といった確認を求めるることになろう[15]。
こうした確認が得られれば、幾多の紛糾・幾多の苦悶・幾多の犠牲を経て、いよいよ腰をすえて、労使双方で、「任期制」検討の出発点に立ち返る、ということになる。
そのスタンスからすれば、当局側が提起している「全員任期制」も、問答無用で否定するわけではないことになる。
「全員任期制」の内容の規定(制度設計の意味内容)によっては、「全員任期制」なるものも、全教員の理解を得られる制度として、練り直し、発足することが可能になる、ということでもある[16]。現時点では、そのような安定的な制度設計になっていない、少なくとも労使合意は存在しない、ということである。
以上の確認ができれば、次には具体的措置に関して、
昨年7月段階で、任期制同意者は昇任を発令し、任期制非同意者は昇任発令を凍結する、という差別状態を解除し、任期制非同意者も、任期制同意者と同じ措置とする(すなわち、さかのぼって昇任を発令する)という結論となる。
これが、現時点での私の見解である。
これが、任期制への不安感を払拭する最善のやり方だと信じる。
「差別はしないことにしましょう。差別はありうるが、それは労使双方の協議と合意事項に基づき、必要とあれば、その限りにおいて行うことにしましょう。労使双方間の細かなところでの意見の違いを持ち越すより、そのほうが遥かに全体の活性化に役立つでしょう、前向きの態度になれるでしょう」と言った対応が期待される。
こうした根本的な点での確認書を取り交わすことで、細かな問題は問題点として列挙して提示し、それら諸問題はすべて来年度の労使交渉にまわす、という処理・進め方を私としては希望している。
一方では、「昇任」という基本的問題で、ハードルをクリアしたのだから、発令の一定期間の遅れは、小さな差別として、あまり追及しないで、暗黙のうちに認めてもいいのではないか、という意見もある。なるほどとも思う。
一年間の昇任の遅れが、どの程度の経済的マイナスとなるのか、これは、明確に計算できよう(この間の精神的苦痛・怒りには計り知れないものがあると思われる、それは表現しようもない。私だったら頭がおかしくなったかもしれない)。
許容範囲かどうか。
これは、当面は、数人の教員の問題だが、長期的には若手の教員すべてに関わる問題である。
私の見地では、明確な安心できる制度設計抜きに、現在のような「予想される」(一部管理職によってささやかれているとも言われる)差別措置(状況)は続けるべきではないであろう。
「不明確ながら任期制に同意」の教員・・・・不明確さに安心し、満足しているわけではなかろう。仕方のないこととして受け止めているのであろう。
もちろん任期制同意者の一部には、任期制を積極的に認める見返りに、給与・研究条件などの明確な格差を求める人々もいる可能性はある。しかし、積極的な格差条件の提示があるわけではなく、その点でも、いやその点でこそというべきかも知れない、任期制の制度設計はまったくできていない、というべきかも知れない。
しかし、もちろん、格差が明確であればあるほど、その格差の大きさ・差別待遇に応じた明確な質量顕著な業績の提供(立証)も求められることになる。
文科系の場合、それはなかなか困難ではなかろうか?
国際的な比較素材などがない(少ない)ので。
「不明確な任期制には同意できない」教員・・・・怒りと悲しみを持って本学を去って行った若手教員の多くはそうだし、最近のいくつかの事例でも、「任期制」の不安定さ・不確実さを感じている教員は厳然として存在し、本学を去っていく(当然のこととして正当化する)主要な理由となっている。「本学は、パーマネントの雇用ではないから」、と。優れた教員が来た、今後この人が看板になるだろう、と期待していた人が、である。
任期制の制度設計の趣旨からすれば、むしろ、優れた人は高く評価し、その高い評価に基づく処遇によって他大学には行かないように、少なくとも5年間は去らないように尽力する、といったスタンスこそ必要であり、それを可能とする制度、ということだろう。
特別優遇の教授陣を整える手段こそ、任期制の活用であるべきだろう。
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2月20日 新執行委員長になったので、前委員長と一緒に、経営最高責任者のところに挨拶に行くことになった。夕方からの臨時拡大執行委員会に向けて、この会談がプラスになることを期待したい。
通常の市民的な場での売買条件の交渉は、しかるべき土俵の上で、しかるべき市民的雰囲気のもとで、行われるのが普通であろう。それは、労使交渉においても、扱う商品が労働力(労働サービス)(われわれの場合は、教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力の総合であるが)であるというちがいがあるだけである。
交渉においては、合意できる条件の可能な限りの精密な確定と、合意できない部分、継続の課題・検討事項の部分の確認を行うことがもとめられるだろう。双方、安心して、次のステップへ踏み出せることが、誠実交渉のあるべき姿なのであろう。
今回の法人提案は、「現給保障」を基本前提にして、
(1)基本給部分と職務業績給を分離すること。
(2)基本給部分は、計算によれば、年代により違いはあるが60−66%。・これは毎年、加齢とともに、33号まで、一号上昇する。
(3)職務業績給部分の号数は、助手、助教、準教授、教授の各段階で設定されていること。
(4)助手、助教、準教授においては、給与表において年数の制限がおかれていること。
(5)助手・助教から準教授へ、準教授から教授への昇任において、給与表上、明確な給与格差を設定し、階層間格差を明確化したこと。
(6)以上から、準教授から教授への昇任等において、国際総合科学部においても、昇任不可能な教員が相当数発生する可能性があること。(医学部は講座制の体系・職場保障と生活保障の体系から、そのようなピラミッド構造になっていたし、今後も実質的にそのような構造のようであるが・・・)
これに対応する危険要因としては、
(1)準教授が「任期制」であれば、2回更新で15年まで)・・・「任期制」のあり方によっては、また、その時点での昇任ポスト数などに限界があるとされれば、雇い止めの可能性があること、
(2)「任期制」の同意者に「一時金」を出すとしていることとの関連では、その位置づけが不明確であること。「わずかの金」で、将来の雇い止めの危険性を一つ増やす可能性。
これは、更新条件が明示的に提示されていないことと関連して、教員に対するさまざまの圧力を可能にする。学問の自由どころではなくなる可能性。
(3)職務給と業績給の区別がないこと。したがって、安定的で平均的な一定の給与上昇の保障がないこと。大学教員の平均的大数的傾向としての能力(教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力の総合的能力)の上昇をきちんと認め、しかるべき平均的上昇線を保障していないこと。
大学運営力を発揮するためには、教員たちの参加による審議と決定という組織がなければ、機能しないこと。「上から」「外から」任命した管理職の人々(基盤となる教員層の信任を得ているかどうか不明、その信任手続きの欠如)では、教員の自主的な協力を確保できる保障がないこと。
(4)そのうえ、教員評価制度のあり方が不明であること。それが、大学自治の原則に基づいて、検討されていないこと。一般教員は正式の発言権・発言の場すらもっていない。
(5)教員評価制度が、大学自治に基づき、学問・科学の論理によって行われることの保障が、現在の人事制度などを見る限りないこと。
(6)そうした教員評価制度の確立における個々の教員の発言の場が、権利として確立されていないこと、
などなど、たくさんの不確定・不透明要素を含む提案となっている。
したがって、そうした不確定・不透明・不利益な諸要因に関しては、確認書により、きちんと誠実交渉を行い、双方、時間をかけて誠実に制度をねりあげていくことを明文で確認することなどが必要となろう。
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2月19日 13:15−2:20 当局と新4役・前書記長・給与検討WGとの折衝。第二回要求書(その補足説明書)への回答を受ける。
明日の拡大執行委員会で、これに対する対応の協議:20日夜180:00-拡大執行委員会(現執行委員会+独立行政法人化対策委員)の予定。
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2月16日 昨夜の新旧委員交代・引き継ぎ執行委員会で、前執行委員会の提案(推薦)により私が新執行委員長に選出された。
他にも適任の方がいらっしゃるとは考えるが、前執行部の提案でもあり、また、投票者総数114票のうち112名の信任を得たので(つまり2名の方の信任は得られなかったが圧倒的多数の組合員から信任をえたということであろうから)、お引き受けした。
以下、さしあたり個人的なレベルで、所信を書き留めておこう。
お引き受けした以上は、ベストを尽くしたい。
それは、これまで教員組合を支えてきてくださった先輩同僚のかたがたへの感謝を具体的行動で示すことである。比喩的に言えば、リレーのバトンをしっかり握って、次の方に渡すということでもあろう。
一年間、全教員の(すなわち教員組合に結集している人々も、何らかの理由で結集していない人も含めて全教員の)、生活条件、教育・研究条件等を改善するために、微力ながら、がんばってみたい。
18年度給与改定要求の実現と新給与体系の中身をつめる作業、評価制度のあり方の検討、任期制教員と非任期制教員との処遇を、市民的対等の原則、同一労働(力)=同一賃金の原則できっちり整理し、不当な差別を行わせないことなど、課題は山積している。
任期制不同意者についても教育研究実績に基づく昇任は約束されたが(昇任差別の撤回)、その履行を確認し、今後につなげていかなければならない。
任期制教員は、「雇い止めのリスクがあるから、処遇が非任期制教員よりも上でいい」という意見もあるという。
しかし、危険(意識)が必ずしも創造的な教育研究労働(実績の達成)に結びつくとはかぎらない。精神が萎縮してしまう場合もある。「強いもの」には従順になる態度だけが養われることもあろう[17]。
「危険」をどのようなウエイトで判断して、処遇に反映させるのか、これにも合理的な説明が必要となる[18]。
「任期制」によって、説明責任抜きの雇い止めができるとすれば、雇用側が決定的に「強い」立場に立ちうる。更新・継続雇用は、「強いもの」からの「お恵み」に堕落してしまう可能性がある。それは大学を腐敗させる。大学活性化とは正反対のことになる。
精神的萎縮状態や「強いもの」(金力・人事権・採用権力など)への従順さが、豊かなもの・創造的なものを生み出さないことはいうまでもない。
学問の自由の保障としての大学の自治は、まさにここに関わってくる。現在の大学の状況においては、教員組合は、この自治的自立的精神の中心的担い手となるべく、いっそうの力量を身につける必要があろう。
「任期制」と生産性・業績・労働力向上との関係については、精密な立証・検証が必要だろう。したがって、そのような立証・検証抜の処遇差別は、同一労働(力)=同一賃金の原則からして、許されない。それは、身分保障に関しても同様である。
給与条件でなく研究条件で差をつける、という発想もあるとされる。
それならば、任期制教員と非任期制教員のその研究条件の差が、どのような研究実績の差となって実現され、立証されるのか、その検証と立証が必要である。これまた、単なる一方的な宣言ですむ問題ではない。
合理的で適正な相互関係の証明があって初めて、大学は活性化する。
前提条件を欠如した合理的説明抜きの官僚主義的同意強制には、断固として反対していかなければならない。
同様に、不当なやり方で同意を迫られた人々に関しては、その同意撤回のために尽力する必要がある。
不当なことの排除は、大学活性化の道である。
全員任期制に反対してきた教員組合の合理的合法的態度からすれば、法人化の段階の同意「要請」のありかたには問題があったということになる。安心して同意できるような環境や制度設計が欠如していたからからである。その根本情況は、今も変わっていない。
その証拠に、全員任期制などを採用している大学は、全国的に見て例外中の例外である。おしなべて、強力な上からの行政当局主導の「改革」(大幅人員削減−さすがに生首を切るということは行われず、定年ポスト不補充と強権的「改革」で脱出した人々による教員数減)が断行された少数大学においてのみ、学部や学問分野を問わない全員任期制の方針がだされたのである。
学部単位でいえば、医学部が一番、その全員任期制(それに類似の制度)の採用例が多いように思われる。しかし、それは、そもそも、大学病院の教員医師などが、現場の病院と往復することが通例となっているからである。つまり、大学と現場の病院を往復することが慣例となっているところでは、任期などあまり意味はない。職場保障・生活保障が基本的前提にあるからである。
そのような基本的前提を欠如した文科系諸学部をはじめとする学部・専攻には、一律任期制適用はなじまない。
「任期制」を採用しているといっても、その内実を見ると、一定期間の業績の単なる定期点検程度の意味合いとなっている事例も多い。それが国立大学で多いのは、当然となる[19]。「任期制」の内容の検証が求められる。
「任期制」での更新回数の制限(教員組合が認めたわけではない制限、当局側の一方的制度設計)を、同一労働=同一賃金の原則で増やさせること、あるいは、アメリカのようにテニュア(日本では65歳定年までの雇用保障)を導入することで基礎的な身分保障を確立することなど、交渉事項はたくさんあろう。それは、当局の言う「任期制」の内容を明確化させる、という作業でもあろう。
一人一人の教員が安定した条件の下で教育力・研究力を高め、生き生きと質量両面で充実した仕事を行っていくために、教員組合としてなすべきことはたくさんあると考えられる。
そうした一人一人の教員の個性的全体的力量の充実・高まり(その実証・検証の機会・制度としての教員評価制度の整備[20]が前提となるので、その当局案の提示、教員組合サイドからの意見具申、試行開始を踏まえながら)は、当然にも、それを給与等の諸条件・処遇にも反映させるべきである。それは、同一労働(力)=同一賃金を実現することである。
労働(力)[教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力等]の高まりに応じた適正な賃金等の上昇を実現することは、フェアな態度であろう。
同一年齢の人が同一労働(力)=同一業績では必ずしもないことも、社会的にも大学においても、幾多の顕著な事例を通して、明らかである。したがって、どのようにすれば、その差を適正に、合理的に検証でき、適切に給与条件等の差に結び付けられるか、という課題は、厳然として存在する。衆目の一致する顕著な業績差は、ノーベル賞や各種の世界的な賞をとった場合であろうが、そうでない場合には、差の確認は簡単ではない[21]。
そうした文脈で、教員評価制度に、教員組合も主体的能動的に取り組み、検証作業を続けていく必要はあろう。
その安定的な検証作業の積み重ねを通じて、処遇への反映がある合理的な範囲で実現できるようになれば、それは、労働力の適正な評価を意味するものとして、また、その実質の限りにおいて、処遇への不満が減少し、活性化に結びつくことになろう。
教員の中には貴族主義があるかもしれないが、「武士はくわねど高楊枝」は、われわれ教員組合の態度ではない、と考える。
また、同一労働=同一賃金を組合の交渉原則として掲げる以上、内容の検証抜きの悪平等主義も、教員組合の採るべき態度ではないことも明らかである。
提供する力量に見合った適正な合理的対価を求める、というのが組合のスタンスだろう。
適正価格は、時々刻々と変化する社会経済情勢の中では、不断の交渉によって発見していくべきものというのが、教員組合のスタンスだろう。
自分たちの力量の安定的な向上のためには、組合という組織がしっかりすることが必要だろう。
交渉力の向上、交渉力の基盤拡大も必要であろう。全学の全教員からの要望や情報が集まることが、交渉力向上の一つのポイントであろう。
そのためには、できるだけ多くの加入が必要だろう。その意味では、学部や専攻によってはまだかなりいる未加入教員たちにも、できるだけ組合加入を求めたい。磐石の体制を構築するために。
各種事情で当面、加入はできない人の場合でも、物心両面での支援をお願いしたいし、組合企画の各種催しへの参加などを期待したい。
教員組合に結集して、自由で民主主義的な環境を守り成熟させながら、個人と全体の力量の向上をはかり、実現し、それに見合った適正・公平な対価を求めるわれわれの態度は、市民的に合理的で、合法的な態度であろう。
逆に、市民的常識に反する官僚主義的態度とは、毅然として対峙・対決する姿勢だ、ということでもある。
その意味では、大学の運営における官僚主義(「決まったこと」という問答無用の態度、きまり文句の繰り返し)との対峙・対決[22]、非民主主義的な現学則を改定していく方向性での現実的改善努力なども、教員組合の課題の一部に入ってくるであろう。
教授会機能の崩壊状態は、個々と全体の教員の力量発揮・協力体制の構築においては、非常に不利であるから。学生や院生の状態への目配りの点でも、教員の孤立分散は決定的にマイナスだろうから。
そもそも、近代的組織の強み・力量の発揮は、孤立分散的生産形態に対してマニュファクチャーが示したように、諸個人の協業と分業の有機的動態的組み合わせを土台とし、出発点とし、発達してきているから。
総会において承認された活動方針を以上のように私なりに理解して、着実に前進したい。
幸いにも、緻密で粘り強い副委員長、書記次長は留任である。
また、教員組合の過去何年かの執行委員を経験したかたがたが、独立行政法人化の荒波を乗り切るべく、独立行政法人化対策委員になってくださっている。今回退任した岡委員長・本宮書記長も、独立行政法人化対策委員になっていただける。
これら「元老[23]」の助言・忠告・勧告をえて、一歩ずつ進みたい[24]。
早速、臨時拡大執行委員会を20日夜18:00から開催することになり、「元老」のみなさんにも、その会議への参加をお願いしている。
しかし、「元老院」とても、情報収集が万全とはいえないだろう。
教員組合の活動など、ご意見・ご批判をお持ちの方は、組合員と非組合員とを問わず、ぜひその声を寄せられたい。
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2月15日 12時に教員組合執行委員選挙の開票。12時30分から1時半まで、新旧執行委員4役で、引継事項などを議論した。絶対譲れない線はどこか、妥協点はどこか、継続審議の確認事項は何か、議論した。
昨年度は教員評価問題への対応などで、執行部に余裕がなく、恒例の親睦ソフトボー大会さえも、開催されなかったという。全学部・様々な教員の相互交流(コミュニケーション)の場がない現在において、こうした企画も大切であろう。そうした企画も具体化されることを期待したい。
折衝ごとの厳しい問題だけの仕事では、疲れてしまう。楽しさもなければ。
昨日の第二回要求に対する回答は19日の13時15分からの当局との折衝で示されることになった。
昨夜の折衝で、組合側が口頭で確認を求めた事項に関しては、給与担当執行委員が誤解のないように文章化し、当局に手渡すことになった。昨日の文書要求と口頭説明、今日の補足文書(要求・確認文書)を踏まえて、当局側の回答を待つのが現段階である。
午後7時からは、新旧執行委員会の引継ぎが行われる。
19日の当局回答を踏まえ、われわれの側の給与問題WGが議論し、その結果を踏まえた提案を、20日夜(18:00から)の拡大執行委員会に提案することになる。
19時から引継ぎ執行委員会。役割分担。その後、懇親会。自由闊達な意見交換の場。
教員組合が組合員と非組合員とを問わず、管理主義的体制で欠如する教育研究現場の人々からのボトム・アップの機能を幾分なりとも発揮できれば・・・・
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2月14日(2) 組織の運営におけるトップ・ダウンとボトム・アップ、管理主義と民主主義の効果的な効率的な発揮のシステムが、求められる。
本学の組織運営が徹底的な管理主義システムとなっている(経営陣と大学管理組織の「上から」「外から」の任命制)ことは周知のとおりである。これでは、血の通った生き生きとした運営は、期待できない。
もちろん、現在のシステムの下でも、血を通わせるための努力は、トップとボトムの双方から、その中間の幾段階かの中間管理職層が双方に目配りしつつ仲介することも含めて、行うべきだろうし、ある程度は行っているが、それは必ずしも機能していない。根本的には制度自体を代えていく必要があろう。
噂によれば、副学長人事でびっくりするようなことがある、とか。「一蓮托生」?
いずれにしろ、TOEFLをはじめ、決定過程の密室化、決定されたことの官僚主義的死守(あたかもあの巨大な国家・ソ連が崩壊したように、内部的にに空洞化する危険性がある)は、問題の本当の解決をもたらさない。
TOEFLの基準の適用に関しては、教育研究審議会における「ある決定」があったかに仄聞するが、それは、機械的硬直的なものか?熟慮されたものか?
もし仮に機械的硬直的ではなく、現実の情況をなんらか適切に反映した修正があるとすれば、それはほかの場(卒業判定など)にも活かされるべき姿勢ではないか?それが現在われわれが責任を持つ学生全体に対する公平性ではないか?
「旧学部」の教授会が解体されて卒業判定教授会も開催されないことが、どのような結果をもたらすか。
まだ現3年生以上の在学生はいても、多くの人の意識は「旧学部」という意識になっているが、そうした在学生軽視意識の醸し出される情況で、卒業判定などだけは厳しい過去の平時の基準で、教授会審議なしに、「公平」なる名目のもとで、なんら再検討もなく適用される?
学部を廃止するという大々的な事情変更、教える側の精神的動揺や変化(新しい学部の担当こまの準備で振り回される状態)を踏まえて、かつての基準の現時点での総合的見地からの見直し・修正などを行うべきだと思うが、その公式の発言の場すらない。
硬直的では?
学生が黙っていれば、放置?
弱い立場のものの無視?
「いじめの構造」?
入学するときには思っても見なかった事情変更の後で、進級や卒業の基準だけは、教育システムが安定的で充実していた時期の古いものを機械的に「公平」に適用するのは妥当か?
商学部臨時教授会を開催して、諸事情をきちんと整理して、しかるべき基準で救いうるものを救う、という卒業判定を行うべきではないか・・・機械的形式的公平と根本的な事情変更・在学中の「改革」騒動による不利な勉学条件などをカウントした柔軟な実質的公平との間に違いがあると思うが。
高校世界史未履修問題はどのような処理だったか?原則と柔軟性との妥協ではなかったか?
全国の国立大学法人をはじめとして、大学トップを専制的に決める傾向が支配的な流れてとなっているが、逆の現象もみられる。
その記事をコピーしておこう。
-----新首都圏ネットワークの新聞抜粋記事より-----
『朝日新聞』2007年2月11日付
「白い巨塔」変わる? 国立大病院の院長選で投票権拡大
医局の教授が人事などで絶大な権限を持ち、山崎豊子の小説「白い巨塔」の舞台になった国立大学病院。そのトップを決める院長選挙に、教授、助教授らの教員だけでなく、看護師や技師、事務職員も参加できるように投票資格を拡大する動きが広がっている。国立大の法人化で大学経営の透明性が求められるなか、教員だけによる選挙は「派閥争いの温床」「閉鎖的で現場軽視」との批判が強いためだ。投票権の「門戸開放」で、国立大病院の体質は変わるのか?
大阪大医学部付属病院(大阪府吹田市)は1月初め、院長選の予備選挙にあたる「1次選挙」を実施した。従来、講師以上の約550人だけが投票できたが、今回初めて、課長級以上の事務職員、看護師長、技師長ら約60人が加わった。
1次選挙は教授の名前を自由に書いて投票する。このうち上位3人が教授会での「2次選挙」に進む。開票の結果、大学院医学系研究科の林紀夫教授(59)が院長に選ばれた。選挙に初めて参加した事務職員は「1次選挙だけとはいえ、教員だけで決められていた院長選びに、私たち現場の職員が関与できるようになった意味は大きい」と話す。
04年の国立大学法人化で、学長を選ぶ「学長選考会議」に外部の人間を参画させることが定められたことなどを契機に、同病院でも従来の院長選のあり方を再検討。「閉鎖的」との批判が根強かった選挙制度を改めることにした。
ある教員は「院長選のたびに、教員同士の多数派争いが起きるなどの弊害があった。体質を根本的に変えるためにも、一般の事務職員にもさらに投票資格を広げてほしい」と話す。
こうした動きは他の国立大病院にも広がっている。大学関係者によると、国立大病院の半数程度が何らかの形で投票権を拡大しているという。
院長選が終わったばかりの名古屋大医学部付属病院では、今回から係長級以上の職員[25][1][1]、看護師らに加え、「勤続5年以上のパート職員」も1次選挙の有権者に追加。この結果、有権者は従来の2倍近い約千人になった。病院関係者は「教員だけの投票なら、ある程度動向がつかめたが、有権者が増えたので予想がつきにくくなった」という。
東北大病院は04年の前回院長選から、1次選挙に看護部長や事務部長ら、教員以外の部長級職員の参加を認めた。北海道大病院では、05年の前回選挙から、課長補佐級以上の事務職員や看護師らに門戸を拡大した。
東大病院では、院長候補者を医学部代議員会に推薦する「執行諮問会議」に、各診療科の責任者ら一部の教員のほか、事務部長や看護部長、技師長も加わる方式をとっている。
投票資格を教授に限定している京都大医学部付属病院は来年に院長選を控え、「投票資格の拡大も含めて検討中」としている。
医療ジャーナリストの和田努さんの話 投票資格の拡大は、広く病院全体の声を選挙に反映させる上で有益だ。いずれは医学部の学生が選挙に参加するようなこともあっていい。ただ、投票資格の拡大で、多数派工作が大がかりになるだけでは、という懸念もある。公正さを担保するルールづくりが欠かせない。
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2月14日(1) 18:00からの当局との交渉の場で、教員組合の第二回目要求書提出。
12月27日に当局が始めて新給与体系の提案をした。その補足説明が、1月11日、ついで、1月18日であった。
まとまった提案の形をとったのがこのように年度の最後の、教員が年度末試験、学部や大学院の入試業務、学位論文審査、卒業判定・進級判定に関わる作業などで、一番忙しい時期、それぞれの業務の重要性からして精神的にも疲労困憊する時期になったということ、これをまず確認しておく必要がある。
この繁忙期を迎えると、10年程前、私の着任直前(2月だったか3月だったか)に急死した入試委員のことが想起される。
その遅延(教員にとって最繁忙期への提案の遅れ)は、当然のことながら教員サイドが求めたことではなく、教員サイドの責任ではない。
教員は過労死したくはない。当局の末端で働く提案サイドの当局職員の2月-3月の繁忙度合いがどのようなのか知らないが、過労死したくはないという点では同じ事情・同じ気持ちだろうし、教員サイドの苦境を理解できるだろう。
教員組合は、平成18年度担当の組合執行部のもと、新給与体系を考えているのなら、早く提案を出すように求めてきた。当初当局は9月には出すといってきたものである。
それが遅れに遅れて1月になったということ、これを直視しなければならない。
この遅れ(新給与体系提示の遅れ)の責任は、当局側にある。
この間、平成18年度給与改定に関する交渉は棚上げにされてきた。こうした点は誰も否定できないであろう。
(当局は、法人化の当初に宣言していた5年間・年俸固定制なるもの示していたが、その見地からすれば「棚上げ」は当然というスタンスになる。私の常識からすれば、それは非常識きわまる。労使交渉の基本的前提をないがしろにするものであろう)。
適切な時期に、合意できるような暫定的なしかるべき合理的な提案をきちんとするのが当局の責任であろう。
提案を非常に遅らせ、いったん提案したら、受諾の期限をぎりぎり切ってくるとしたら、そのやり方は、フェアなやり方、公正なやり方だろうか?
強引・傲慢な押し付けではないか?
それは市民的な対等の交渉ではないであろう。
相撲を引き合いに出せば、丸い土俵の真ん中で立ち会う(フェアなやり方)のではなく、教員サイドが俵ぎりぎりのところで(しかも、年度末の一番精神的に消耗する瞬間に)、「はっけよい」と立ち会うことになったようなものである。フェアでないことは明らかだろう。
当局は、受諾できるような合理的で妥当な案を適切な形で出してくるのが筋であろう。
売買交渉において、買い手が一方的に買値を示し、ただちに合意しようなどといっても、通用しないであろう。
市民全体がこれは納得してくれることだろう。
まずは、当局が誠実交渉の前提となる提案をきちんとしてこなかったことを明確に認識すべきだろう。
その認識に基づき、平成18年度の妥当な給与改定は、新給与体系を問答無用で押し付けるのではなく、今後交渉を継続していくという土俵設定の上で(合意に基づいて)、社会的常識の線で実施すべきだろう。
社会的な妥当な給与改定の水準は何か?
市職員の全体的な給与改定状況は何か?
その市職員の給与改定の状況・内容には、大きな意味での、総合的な社会情勢が反映している、とみなさなければならないだろう。
独立行政法人化したとはいえ、市からの交付金の算定に当たっては、人件費に関する市全体の方針や算定が基準として反映しているはずであり、その確認が必要だろう。
タイムリミットの非常識な一方的宣言は、独裁国家・官僚主義的専制国家ならいざ知らず、ゆるされることではなかろう。
タイムリミットをきって、不利益措置を押し付けながら合意を迫るとすれば、それは対等な交渉に基づく友好的なものとはなりえないであろう。
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2月8日 18:00−22:00 教員組合拡大執行委員会に独立行政法人化対策委員・新執行委員候補として参加。新給与体系における不明確な部分の検討。第二回目の要求を議論。任期制・評価制検討委員会の報告とその議論。
教員評価システムは、全体としてウィン・ウィンの関係になるように、全体の力量が増大し、全体の業績が増えるように、教員全体が相互啓発・相互協力をやるように設計されなければならないだろう。
そのオープンな確認のためには、すべての分野に関して、各人が行った実績をそれぞれの領域に応じた個性的形で列挙するなど、総合的(教育・研究・学内諸委員会等運営・社会貢献の4分野)な実績を具体的に表現できる形式が必要となろう。ポイント制(数値化した表現)はあまりよくないと思われる[26][2][2]。
仮に、全体としてのパイが減るときでも、しかるべき平等の掛け率で全教員がその減少をカバーするようにしないと(全体でパイを増やす工夫、その可能性の追求)、共同体的モラルは崩壊し、熾烈なパイの分捕り合戦となろう。
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2月7日 昨日、教員組合の独立行政法人化対策委員の一人として、執行部4役と一緒に、顧問弁護士に相談のため四ツ谷まで出向いて行った(会談は18:00−20:00過ぎ)。法人サイドの提案の仕方、時期、団体交渉とその議事録の確認(調整困難な諸問題の噴出)など、いろいろと話し合った。
今日は、先日の組合サイドからの質問書(当面の個別的要求)に関する回答があるので、その折衝の場にも参加することとした。
当局の態度によっては、労働委員会に出向くことが必要となるかもしれない。
労使交渉は、商品の売買交渉であり、経営サイドと教員サイドが、教育力・研究力等とその対価としての給与との関係において、総合的に適正で合理的な社会的に妥当な線を模索する折衝である。この間の当局側の態度を見ると、社会的妥当性という点でも問題のある発言が見られる。
教員側が提供する教育力・研究力が適正に評価され、現在と将来の生活設計に安心できること、自らの提供する教育力・研究力が安定的で適正な対価を受け取っているとの確信に基づいて、生き生きと仕事ができること、そうした給与体系の構築が必要なのであり、そのやり取りが、誠実なものでなければならないのはいうまでもない。
教員が提供する教育力・研究力が年々一定程度向上していくというのは厳然たる事実であり、その検証の方法・手段・基準等を労使合意で解明しつつ、能力とその成果の上昇に見合った給与の一定の(ある程度の幅のある)合理的上昇線が保障されなければ、労使間合意は成り立たないであろう。
大学教員が提供する教育力・研究力は、全国諸大学でどのように評価されようとしているのか(すでにされてきたのか)、その参考となる文献(=佐々木恒男・齊藤毅憲・渡辺峻編『大学教員の人事評価システム』、念のため、その抜粋・若干のコメント)は、教員組合でも検討してみる必要があろう。(参考図書)
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2月5日(2) TOEFL問題で学生さんから情報があった。私の日誌の記述へのコメントであり、また学生サイドの新しい情報を含むものである。
以下に、匿名で掲載しておこう。
アンケートを行う学生諸君たちの動き、「シンポジウム開催」への提案など、興味深い動きが紹介されている。
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おひさしぶりです。
>外部試験の一科目だけの成績で、「進級させない、一年間留年させる」、などというのは、おそらく世界中でただひとつ、まさに「オンリーワン」の制度(大学)
ということですが、似てるようで似ていない大学として任期制導入で問題となっている国際教養大学(秋田)があります。
国際教養大学は学生は全員留学することを前提としています。(1年間の留学が義務)
まず、EAP(English for Academic Purposes)とよばれるプログラム(Freshmanに相当する)においてTOEFL500をクリア条件として設定し、
次に留学するためにはTOEFL550点を必要条件、さらに、TOEF600点を卒業時の目標として設定してあります。
このようにTOEFLが学生が学業を進めていくハードルとしていくつか立ちはだかっているわけですが、
この大学ではすべての授業を英語で行うし、全学生が1年以上の海外留学をすることを前提としているのでまだそのハードルの設置理由を理解することができます。
悪く言ってしまうと、よく見てみると市大の改革は「国際教養大学をマネしようとして中途半端に制度をコピーした」ようにしか見えません。
YCUのAIUからコピーしたと思われるカリキュラム制度その他一覧
・AIUではFreshmanでTOEFL500 → YCUでは2年生でTOEFL500
・AIUでは国際教養学部のみの単科大学 → YCUは国際総合科学部に一本化(医学部を除く)
・AIUでは「ABCDF」の5段階評価 → YCUでは「秀優良可不可」の5段階評価に変更。
・AIUでは124単位で卒業可能 → YCUでは124単位に卒業要件を変更
・AIUではGPA制度を導入 2.00以上ないと卒業不可 → YCUではGPA制度を導入しますと大学案内に書きながらも、学生は把握してないし、実行されているかどうかは怪しい。
・AIUのEAP(英語に相当)では合格/不合格の成績評価基準 → YCUでもPE(英語に相当)では合格/不合格で成績評価
・AIUは3年時にコース専攻申請をする → YCUは2年からコースを選択する
そして…
・AIUでは教員の3年任期制を導入 → YCUでも任期制を導入?
良し悪しは置いておいて、少なくともホームページを見ただけでこれだけの類似点がありました。
ここまで似ていると、大学改革の会議時にはこの大学の制度をコピーして市大に無理やりねじりこんだという印象を受けずにいられません。
決して一方的に国際教養大学のカリキュラムが悪いわけではないと思います。
そもそもこの大学は、留学することを前提とした学生が集まる大学であり、そのために英語の教育を強化していて、なおかつ欧米の大学スタイルを踏襲しているわけで、この制度自体にはなんら問題はないと思います。
しかし、YCUの場合では
・伝統のある3学部を無理やり国際教養大学と同じ1学部として当てはめてみた
・そもそも留学を前提としてない大学(今も同じ)
・2年と3年でのカリキュラムの違いはあまりないのにも関わらずそこの間になぜか英語の進級条件がハードルとして加わる。
・AIUのように英語で全授業を行っていないのに、TOEFL500をとる必要性はあるのか微妙なのにも関わらずTOEFL500を設置。
・AIUに比べて学業に関する幅(経営・国際文化・理・医・看)や学生の進路の幅が広い。
小さい大学ではあるものの総合大学として幅広い教員と多種多様な学生を育ててきた大学として十分にオンリーワンだったのではないでしょうか。
それにも関わらず、AIUのマネ事をしようとして(しかも中途半端に)、それを無理やり市大のカリキュラムに押し込めたことに関しては、それを担当した人物が責任を問われるのは当然ではないでしょうか。
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1月のことですが、僕はTOEICで665点をマークしました。
しかし、「自分がよければそれでこの問題は終わり」ではないと思っています。学校全体の問題であると思います。
学生それぞれが「自分さえ受かればいい」、それではこの問題は解決しないでしょう。
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>市大新聞に発表されるはずの学生諸君のアンケートはどうなったのか?
アンケートを主催している方によると、学長と対談をし、シンポジウム開催を初めとする提言を行なわれたようです。
提案内容を最高幹部会にもっていってもらえました。事がうまく進めば、想像していた以上に有意義な企画を開催できるかもしれません、とのことです。
2月の中旬には開催されるようなので僕は期待しています。
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2月5日(1) TOEFL問題に関しては、「中期計画」に書き込まれているので「仕方がない」などということが、以前からも、最近も口頭に上る。
しかし、「計画」は、あくまでも計画であり、しかも、その「計画」の作成過程、作成主体などに問題があれば、当然にも「計画」は実質的な諸条件の裏づけを欠いたものとならざるを得ない。まさに、その問題が、この間、TOEFL問題で全国的に明らかになった、ということであろう。
官僚主義的中央集権的な上位下達の「計画」が、国民と乖離すれば強大な権力でさえも崩壊することは、ソ連の歴史が示している。
計画の作成過程が民主主的なプロセスでなく、計画の内容が民主主義的実質を欠くとき、「計画」の非実現性が露呈することになる。非現実的「計画」で各方面にさまざまのマイナス効果が発生している。
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2月2日 昨日の国際文化創造コースの会議において、3月のいつの時点かは不明確だが(臨時代議員会もありうるとのことだが)、代議員会に進級判定案がだされることになったことが紹介された。
その進級判定案が妥当なものかどうか、代議員各位がどのように議論を進めるか、これが次の関心事ということだろう。“Courage is doing what is right.”[27][3][3][1][1][1]
大学当局に対しては、当然のことながら、全国的なマスコミの取材要請もあるようである。どのように対処するかは、目下はまったくの秘密、という態度のようである。
コース会議では、これまでも出された意見だが、制度設計そのものの問題を指摘する意見、大学経営への深刻な問題(大量休学の場合の授業料収入減の問題など)の指摘などがあった。
いうまでもなく、私立大学では、大量留年はありえない。入試で合格させた以上、適正な数の留年しか許されない。
私学への国庫助成は、大学の定員に対応して出されており、大量留年者が定員内に含まれる以上、計算基準から言って、新入生の数を減らさなければならなくなる。水増し、学生数の隠蔽は許されない。教育の質、研究の質に関係してくるからである。
本学の経営陣・大学執行部は、このような問題をどのように考えているか、今後の展開を見よう。
市当局の主導で行った改革なので、定員を大幅に超えることになる大量留年も可能だと甘く見ているのかどうか、それを学生はもちろん、市民や社会が許すかどうか。
独立行政法人化の主たる目的のひとつは、独立化によって見えてくる不合理な制度の払拭であろうから、その独立行政法人において合理性のない制度や基準が横行してはならないだろう。
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2月1日 昨日、教員組合定期総会があり、すべてが議案書どおりに承認された。
任期制、年俸制、教員評価制度を、合法的で合理的なもの、社会的全国的に妥当なものとしていくことが、継続の中心課題である。
組合の原則的立場(探求し実現していくべき目標)は、全世界的な労使交渉の原則(労働力商品売買の基本原則=商品売買の公正な基準=等価物交換原則の実現)であり、「同一労働=同一賃金」である。
これを、大学独自の研究・教育の仕事に即して言えば、実現すべきは、「同一教育研究[労働](力)=同一賃金」、ということになろう。
われわれ大学の教育研究者は、一公立大学の大学内部に孤立して教育研究を行っているわけではない。
日本内外の諸大学のなかで、教育研究活動を行っている。「同一教育研究労働(力)」の算定・評価・意味内容は、そのような意味で社会的であり全世界的なものでもある。
本学から出て行く人、本学に公募で応じてくる人、実際に採用された人、これらすべてのファクターが現在の社会的評価をある程度反映している。
個々人の教育研究労働(力)を、どのように大学内外で公正に評価・算定するか、これがまさに問題となる。
評価が公正であればあるほど、社会的妥当性があればあるほど、大学は活性化するであろう。会計の基礎は、個々の商品の適正・公正な売買であろう。そして、会計基準は、いまやますます国際的基準が求められている。
現在、法人から提案されている新給与制度に対する態度でも、その組合のスタンスは、貫徹されることになろう。
この基本活動方針が出席者・委任状を合わせた圧倒的多数の教員組合員の支持できまったことは、重要である。
現在までのところ、「同一教育研究[労働](力)=同一賃金」(その実現)をめぐる三つの重要な問題のすべてに関して、法人の態度は明確ではなく、合理的合法的に十分な説明がなされてはいない。
三つの制度を、言葉の上で、スローガンのように打ち出しただけで、その首尾一貫した合理的で合法的な実質化のための作業は何も進んでいないというのが現状のように思われる。
そのような曖昧模糊とした提案を鵜呑みにするわけにはいかない。
[1] 「胃が痛くなるような」パワーハラスメントを繰り返し受けているようである。
それぞれが独立の文科系の教員・研究者には想像もできないようなことが、おきているようである。いずれ、教員組合でもしっかり問題にしなければならないであろう。
[2] その責任者を任命したのは経営陣であるが、法人経営者を任命したのが市当局であり、「改革」過程を見れば明らかなように、独立行政法人とはいえ、独立度は限定的であって、市長・市当局の責任が重大であることはいうまでもない。かつての大学のように教員が選挙で選んだわけではなく、大学の自治的自立的意向調査が行われたわけでもない。
大学が自治的に解決することは、現在の学則のあり方からして、非常に困難である。
「上から」、「外から」、中期計画・中期目標で「決められたこと」という形で、身動きできない、あるいはそう思っている精神風土がある。「上から」、「外から」任命された人々が、経営と大学の重要ポストを占めていれば、当然にもそうなる。
その精神風土を変えていく可能性を持っているのは、現場に責任を持つ教員であり、職員であり、学生だが、みんな自分の日常の仕事や課題で手一杯という状況にある。「ひとさまのことよりじぶんのこと」と。こうして問題は深刻化する。
「計画」や「目標」は、あくまでも、その言葉どおり、「計画」や「目標」であるに過ぎない。それらを作成した当時の条件と、その後の経験や環境条件は、ちがっているのであり、変化している。
その象徴的な問題が、学生にとっての全員一律のTOEFL問題であり、教員にとっての「全員任期制」なるものである。学生と教員は、「全員」、「一律」・「画一」の基準なり制度なりで、苦しめられているという点では、連帯しうる立場にある。
もし、過去にとらわれず、現状を直視し、今目の前にしている深刻な問題を利害打算でなく見れば、「計画」や「目標」の大枠(精神)を変更しない範囲で、柔軟に個別的政策を変更できるとみなければならない。
しかし、統制的官僚的システムでは、それが非常に難しくなっている。管理職を民主的に、「民意」を確認しながら選ぶシステムでないと、このようになってしまう。
大学における民主主義の再建は、まさに、重大課題となっている。
[3] というか、「全員有期契約」などという会社は、この社会にそんざいしないであろう。
[4] これに触発されて考えたのは、むしろ、シーソーゲームで比喩したほうがいいのではないか、と。
公務員特例法時代の非常に強固な身分保障時代を、一方の極とすれば、全員任期制は、一応は、逆の極に位置する。
これをほぼ水平の位置までもってくる、それが、時代の要請であり、独立行政法人化の意味合いではないか、と。
そのためには、教員評価制度を有意義な制度として構築していく必要があるということではないか、と。
[6] 塩野七生『ローマ人の物語−ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)』新潮文庫、まえがき。
[7] 「任期制」教員は、その任期の再任条件が明示されるべきであるが、それが漠然としている。「普通にやっていれば」という漠然としたものを、なぜ、数値・貨幣額・給与の号数・雇い止めの可能性の有無、などで評価できるのか?
「任期制を受け入れた」ことと、「任期制に不同意」のこととの差は、ある。
その差は、しかし、どのような基準で計算して、どの程度の貨幣額や研究条件(研究費)の差として、設定できるのか?
後出しじゃっけんは、フェアでないことの象徴である。「任期制」に関しては、その条件が漠然としたままで、どのような条件が「後出し」ででてくるかわからない。
だから、その明確な条件設定を希望する教員は、同意できない。
漠然としていても、「大体のところ心配ないだろう」と考える教員は、同意する、といった違いが出てくるだろう。
[8] かつて、「改革」の激動が始まるとき、ある当局者が、「教員は商品だ」と発言した。
人間を商品だということは、現在で言えば、「女性は産む機械」といった大臣と同じである。
人間を人間としてみていない発言なのである。
商品としての人間は、売買される人間=奴隷=「もの」としての人間である。
われわれ人間が、給料・賃金を対価として打っているのは、一定の時間的契約での労働力(その発言としての労働サービス)である。自分自身、人間自身、人格自身を売っているのではない。
[11] ただ、記録の交渉の中では、「昇任発令」の断言を、「可能性」に変更したり、といった後退の「訂正」が見られるようである。それが、記録作成者の神経を逆なでしている。
だから、記録確定は行えない状態になっている。
[12] 「任期制」に同意しても、実害(実際の危険)がないのは、任期5年なら定年前5年の人、すなわち60歳以上の年齢層であろう。私なども、実害がないという点ではその中に入る。
実利という点では、「一時金をもらえば、もらっただけとく」という年齢層に入る。
60歳未満の人は、任期制の適用如何によっては、多かれ少なかれ、不利益・危険な措置をこうむる可能性がある。
こうした年齢層別の危険性の相違をきちんと見ておく必要がある。
若手になればなるほど、危険性は高い。
若手教員の発言を注意深く聞き取る必要がある。
また、「任期制」で採用された教員たちの声に、注意深く耳を傾ける必要がある。
[13] しっかりした明確公平な制度設計を示さないままの「全員任期制」に同意しない人々が、瀬戸キャンパスで非常にたくさんいること、その態度が、「全員任期制」の非現実性・問題性を示していること、したがって、無理な任期制を教員に押し付けることができないこと、このような現実がある。
それは、「全員任期制」に同意しない教員の存在によって、その圧力によっている。その社会的圧力があるからこそ、「任期制」の極端な適用(雇い留めなど)ができないという発言を法人サイドから引き出せている。
その意味では、任期制同意者の安全保障は、任期制不同意者の問題提起に依拠しているのである。
その根本的なところを忘れて、任期制同意者が、昇任等において有利な条件となるなら、安全保障に関しては不同意者のお陰をこうむりながら、昇進等の条件では有利となることになり、犠牲と利益とのバランスが不公平である。
この現実も良く見ておく必要がある。
現在の今日今日では、任期制非同意者は、その精神的負担に加えて、任期制同意者の安全に一役買っているのである。
[14] 「同意者は経営に協力しているから、御褒美を」というのは、私には納得できない。
任期制が不明確だし、全員任期制は大学にはなじまない、文科系を中心として身分不安定な社会情勢で、しっかりした制度設計で限定的な任期制を導入するのでない限り、大学教員の精神的不自由・隷属状態は増す、それは決して大学の活性化に結びつかない」との認識の下での非同意だからである。
つまり、大学の発展のためには、現状のような「全員任期制」の縛りはよくないという観点、その意味で、大学を発展させるという見地、大学経営の長期的観点からの協力の姿勢からである。
不法行為に「同意した」としても、それが経営に協力したことにならないのと同じである。
「同意したか、同意しないか」を基準に、経営への協力姿勢を判断するのは、問題だからである。
これに対する法人サイドからの教員組合への要請・確認事項は、
「教員評価制度の試行の本格実施、制度設計への能動的参加、検証作業への積極的関与、教員評価制度を大学をよくするために練り上げていくイニシアティヴ発揮を約束する」といったことになろうか。
[16] 国立大学の多くで採用されているとされる「業績点検」期間としての任期制、といったものならば、すなわち、毎年毎年業績リストを作成するのではなく、5年に一度は業績リスト(教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力を総合的に表現できるリスト)を作成し、公刊するといったことならば、その限定の範囲で、ほぼ全教員の承認はえられるのではなかろうか。
事実、本学では、2000年から2006年8月までの研究業績リストを作成して、研究院の陣容を公開しよう、というプロジェクトは成功し、近いうちに、大部の研究業績リストが完成するのではないかと思われる。
しかも、そのリスト作成には、国際総合科学部の場合、5名を除くすべての人が参加したという。国際総合科学研究院の圧倒的多数(180−200名程度?)が、参加したことになる。
[17] 「危険」(背水の陣)が人々を猛烈に勉強や仕事に駆り立てる側面を否定しないが、雇い止めの危険が果たしてどの程度、教育研究の豊かな発展に結びつくのかは、実証が必要だし検証が必要である。
一教育研究機関の全員に、長期にわたって(無限定的に、テニュア制度のような将来展望もなく)背水の陣を引かせることは、本当に大学を豊かに発展させることになるのか、そんなことは可能なのか?
それは、悪しき官僚主義的組織の見本ではないか?
大学教員任期法は、そのようなことを合理化・合法化するものか?
労働基準法第14条の改正(有期雇用の合法化)は、大学のような教育研究機関への適用を立法の趣旨としたのか?
就業規則は、使用者側が制定できるとしても、それは、雇用される側の納得する、合理的で合法的なものでなければならないのではないか。
強権・制定権を握ったものが、一方的に制定したルールで、組織は生き生きと発展するのか?
現実は、面従腹背や萎縮情況のみが増幅されていると考える。
最近の事例では、公募に応じた優れた若手研究者が、採用直後にすでに他の大学(国立)の公募に応じ、採用され、あっという間に去ってしまう、という事例が、私の知る限り、2件も発生している。
優秀な教育研究者をせっかく採用しても、「任期制」を飲み込ませての採用であり、現状では、「将来的にある基準さえ達成すればテニュアを与える」、といった制度もない以上、当然の行動であろう。
市当局、経営サイドは、当面はこのようなやり方ですごせるかもしれないが、長期的には本学を悪くしてしまうことに早く気付くべきだろう
任期制同意者の圧倒的多数は、医学部である。医学部は、地域独占であり、圧倒的な数の人的流れもその地域内に限定される。その地域その地域の国公立大学の医学部が、最高の教育研究機関となっているから、全国各地からの引抜なども多くはない。
ところが、国際総合科学部(商学部・国際文化学部・理学部)は、全国にたくさんの競争・競合大学がある。したがって、教員の全国各地の大学への(からの)流動性は、医学部とは比較にならないほど高い。
そのような条件下で、医学部と同じ様な全員任期制を国際総合科学部にも押し付けるとすれば、結局は、国際総合科学部の教員の陣容を常に悪く保とうと努力していることになろう。
いい人材であればあるほど、「任期制」をぶら下げられることで、脱出を図ることになり、本学への愛着などそれだけ欠如・規格化することになろうから。
[18] そもそも、これまで、日本の大学では、定年までの終身雇用が保証されていた。現在でも、任期制の全学的な全面的採用は悪名高い例外に属する。
そのような終身雇用の状態でも、日本は、学術研究において、社会の高度な科学技術の発展において、世界の最先端を行くような、その前提になるような大学制度を樹立し、運営し、成果を上げてきた。
終身雇用の中でも、よく働く人とあまり働かない人、ノーベル賞に象徴されるような優れた業績を出す人とそうではない人、この中間に「普通の」多くの学者研究者がいた。
よく働く人、いい業績を上げること、またその逆と終身雇用とは、両立してきた。日本では、現在世界の最高水準を行く研究教育が行われているではないか。
この現在の日本の総合的な到達点を、さらにより良くする一つの方法として、「活性化」の一つのありうべき手段として、「任期制」も考えられる。問題は、その限定的な適用の積み重ねを通じて、どのような「任期制」が、真の意味で、教育研究を活性化する一つの方法となるのかを、確認し、検証していかなければならない。
何の実証も、何の検証もないときに、したがって、合理的説明を求める声が多く、一律の全員任期制などという制度設計に反対が強いときに、キャッチフレーズ的に導入しようとしたのが、首都大学や国際教養大学、そして本学のような制度設計であろう。
[19] 「国際的視点から見たわが国の大学教員人事システムの現状と課題−21世紀知識基盤社会の人事システム構築をめぐって−」佐々木・齊藤・渡辺編著『大学教員の人事評価システム』中央経済社、2005年(2006年1月、第2刷)、第2章、参照。
[20] これまでも、教員ひょうかせいどがけつじょしていたわけではない。
旧制度において、助手から講師へ、講師から助教授へ、助教授から教授へという階梯において、業績審査(すなわち教員評価)が行われてきたからである。
最近の社会的要請、学内外の要請は、その緻密か、短期化ないし定期化であり、教授層に関しても一定期間ごとの業績審査(教員評価の実施)を求めるものであろう。
「教授にさえなってしまえば、後は・・・」という状態は許されない、ということである。
もちろん、そうした教授は例外の存在であり、ほとんどの教員は、教育力・研究力・大学運営力・社会貢献力を、その個々の専門分野に応じて向上させてきたのであり、それに対応する給与の段階的向上があった。
しかし、現在では、その力量の検証をもっと精密に、明確に、公開で行うことが求められている、ということであろう。
[21] 最近私が着目したのは、世界で第3位の引用数を誇る自然科学系の論文を発表した本学若手準教授の業績がある。これは、顕著な世界的業績として、大学内でも評価に値することではないか。しかるべき特別処遇に値する顕著な事例ではないか。
[22] 不当なことと対峙するとき、「対決」という厳しい言葉とならざるをえない。
[23] 独立行政法人化対策委員は、「識見、責任感、能力、経験ともにふさわしいと認められたものだけ」が入ることを許されていたというローマ元老院のようなものだと感じる。塩野七生『ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず』(下)、新潮文庫、112ページ。
[24] 塩野、同書によれば、ローマ共和制は、前390年のケルト人(ローマ人は「ガリア人」と呼んでいた)来襲を受けて壊滅的な敗北を喫したことから、その敗北から学んで、後の強大なローマへの道を歩んだという。
独立行政法人化の荒波にもまれた本学も、復興・再建への道を歩む可能性はあるだろうし、それを目指すべきであろう。
[26] その意味では、研究院が行った2000年から2006年8月までの全研究業績・全社会貢献業績等の総括報告書は、プラスの意味があろう。これを継続すれば、年々、各人が多かれ少なかれ前進し、業績が蓄積されていくことが、法人に対して、学生・院生・職員、市民に対して、はっきりするであろう。
[27] Nitobe, Bushido, p.43.