講義以後に追加の史料等で下記レジュメを補足。
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2024年度後期エクステンション講座
「ナチズムとその記憶のありかた
〜ナチズムの歴史と「過去の克服」を考える〜」
2024年10月16日(水) 16:10〜18:10
第2回 ナチス親衛隊とホロコ―スト
〜ナチスによる暴力・虐殺〜
永岑三千輝
はじめに
*テーマ設定の意図
第二次世界大戦におけるナチス・ドイツのユダヤ人迫害・殺戮
しかし、誰が、いかなる機関・組織が、いかなる戦争目的・戦争計画・戦争遂行で、いつから、ユダヤ人迫害・殺戮を行ったのか?
これを解明することで、ナチス、あるいは「ナチス・ドイツ」という包括的全般的な表現では見えてこない重要問題を考える。
いうまでもなくヒトラーがなんといってもすべての頂点に立ち、
ドイツ民族の膨張、世界強国建設、戦争政策を指導・牽引、そして、
ユダヤ人迫害から殺戮の政治指導を行ったことは、厳然たる事実である。
ヒトラーの根本的思想構造を把握する必要がある。彼の中核的理念・要求は何か?
ドイツ民族の生存圏=東方大帝国
(第一次世界大戦での広大なロシアの占領体験・ブレスト・リトフスク講和1918年3月)
しかし、ヒトラーの指導理念・演説等(ドイツ民族・ドイツ国民の一定の要求・怒り・
不満を体系化したもの)に共鳴・共感し、
彼の具体的指導・牽引に従う組織・人間群がいなくては、すべての政策は実行できない。
ナチ党員、突撃隊、諸職業におけるナチ系団体など多様な組織あり。、
これらナチ党諸組織に組織された大衆、さらに、
その外に大量の一般民衆の「支持」、「共感」・・・それぞれの問題にたくさんの研究(その一部の邦訳)。
だが、これら諸組織、諸大衆団体、傍観者の一般民衆が、殺戮の機能を遂行したわけではない。
それでは、ユダヤ人に対する迫害から殺戮において、
迫害と殺戮の執行を担った主体・中心組織は何か?
その主体・組織の行動原理・思想は何か?
この問いの答え・・・ナチス親衛隊(その思想・行動原理)
それが支配下に置いた警察機構
現代国家の二つの武力装置・・・軍隊と警察
その一つ、警察機構を握ったのが親衛隊。
忠誠宣誓:
ヒンデンブルク大統領死去後、ヒトラーが大統領権限も手に入れる・・・軍隊はヒトラーに忠誠を誓う。
1934年8月20日ドイツ国防軍兵士のヒトラーへの忠誠宣誓
(「いいこともあった」というが、恐るべき事態と表裏の関係)
ドイツ警察の長官の地位を、親衛隊全国指導者ヒムラーが手に入れる・・・親衛隊もヒトラーに忠誠を誓う。
(ワイマール期から刑事警察に属したアルトゥール・ネーベ
・・・ナチ体制最終局面ではヒトラー暗殺事件に関与処刑)
突撃隊は、大きな組織で多党制民主種j着体制のワイマール共和制下、
街頭運動で国民をナチ体制(その主張・政策)に共鳴させ動員する部隊
(1930年7万人から1934年450万人への膨張)。
武器を持たない大衆組織(1933年から34年、「第二革命」を掲げ、武器を持とうとして(民兵軍への昇格)、
1934年6月、粛清される)
(1990年代後半の国防軍犯罪展がドイツ全国で開催され、「国防軍神話」を破壊)
軍隊と親衛隊・警察の緊密な協力関係
これをを実証する大量の史料・写真・・・その史料展をドイツ全国で開催。
(そのカタログが748ぺージの分厚い大判カタログ書籍として、刊行されている。)
*今回のエクステンション講座でのテーマ設定(テーマ絞り込み)の一つの契機
・・・最近出版の翻訳書(2024年3月)、拙稿書評(2024年5月5日)
*テーマ設定のもう一つの契機(栗原優氏の研究・最新出版書との対峙・異動の確認)
*ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅の大々的命令(絶滅政策への転換)の時期を、
1941年10月〜11月とする最近の説(ヘルベルト『第三帝国』該当箇所)。
この10月〜11月説に対する批判(12月説 の見地で)の拙稿論文・・・
「独ソ戦・世界大戦とドイツ・西欧ユダヤ人の東方追放
――「ユダヤ人問題最終解決」累進的急進化の力学――」
『横浜市立大学論叢』人文科学系列、74‐1投稿(2022年8月31日)
(刊行納品2023-05-18)
10〜11月説と12月説とは、ほとんど違いがないように見えるであろう。
しかし、この間に起きたことは、軍事同盟国日本による真珠湾攻撃と
これに対するアメリカの参戦(太平洋戦争への突入)であり、ヒトラーの対米宣戦布告である。
この世界史的転換(文字通りの世界戦争への突入)をホロコ―ストの展開(絶滅政策への画期性)との関係で、
重要とみるかどうか。
ヒトラーの対米戦線布告(12月11日)翌日のゲッベルス日記(ナチ党最高幹部に対するヒトラー演説)は、
ユダヤ民族絶滅政策・画期性の証明。
*ガザのジェノサイドを行っているのは、誰か、いかなる組織・機関か?
主体とその理念・政策は?
イスラエル国家の創立(1948年)は、いかなる勢力、理念によるものか?
イスラエルのネタニヤフ政権、軍、国内外のイスラエル秘密情報組織
(今年7月の明治大学国際武器移転史研究所第11回シンポ、私の報告「ホロコ―スト研究者の視点」)
親衛隊とは何か?
突撃隊のなかのヒトラー身辺護衛隊から成長し、突撃隊から離れ、独立の組織へ。
この親衛隊の成長は、突撃隊レープ一派を「第二革命」、「反乱」分子として、
粛清(多数の幹部を処刑)するにあたって、軍から武器を得て、活躍。
ヒトラー・「総統への忠誠」を根本的使命・理念とする組織
・・・「ヒトラー崇拝」(民族強化、東方全体計画)。
この際も、核心的重要性を持つのが、ヒトラーの根本的思想構造、
彼の中核的理念・要求
1.親衛隊と警察の関係・組織構造・分業体制:
参照:Hein①、同訳②、ハインツ・ヘーネ(目次)
ライヒ保安本部Reichssicherheitshauptamt,RSHA
(邦訳では、帝国保安本部、国家保安本部などの訳あり)
その中でも治安警察・(親衛隊)保安部Sicherheitspolizei und SD(Sicherheitsdienst)
・・・例:「ガス自動車」開発極秘文書
2. 親衛隊の形成・発展の歴史
突撃隊の中の一部隊として発足・・・ヒトラー身辺護衛
突撃隊の中で、独自の自律性を確立していく・・・ヒムラー。
概観・概略の詳細は、上掲の最新翻訳書:(目次・年表)参照。
3.親衛隊が警察機構を掌握していく過程
決定的跳躍板としての1934年6月の突撃隊幕僚長レーム(「第二革命」を呼号)の
粛清事件。(ヒトラーは軍、保守派と妥協同盟) (隊員1930年7万人、1934年夏450万人)。
(レーム粛清の処刑場は現在ベルリン・リヒターフェルデのドイツ連邦文書館の敷地内)
4.領土拡大・侵略戦争における親衛隊・警察の役割
(1)「平和的」領土拡大の時期
1938年3月、オーストリア併合
1938年10月、ミュンヘン会談(9月29日)の結果、チェコスロバキア政府が屈服、
ヒトラー・ドイツ第三帝国によるズデーテン併合を認める
1939年3月、プロテクトラート(保護領)ベーメン・メーレン創設支配
(スロヴァキアと分離してチェコスロヴァキア解体し、チェコ部分を保護領に)
次のヒトラーの要求・・・ポーランド回廊・・・ポーランドへの圧迫、
国境地帯で騒乱状態を引き起こす、
「ポーランドの非道性・残虐性」を大々的に喧伝。
(『誰も望まなかった戦争』か(!?)
、
1938ー1939緊迫した英独関係・ヨーロッパ情勢
ヒトラーも、「平和的に領土拡大できれば、望むところ、
「平和的」領土拡大の成功はヒトラーの名声を高め、
民衆による神聖化が高揚。
だが、あくまでも「領土拡大」を追求すれば・・・)
ソ連は1939年5月からノモンハンで日本・関東軍と激突
・・・東西二正面の戦いを回避したい戦略的立場。
ヒトラー・ドイツは、電撃的にポーランドを征服したい立場。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
不倶戴天の敵であるはずのソ連とさえも「協力」・・・「悪魔の抱擁」
・・・全世界驚嘆・・・日本では平沼内閣が「欧州の情勢不可解」と、倒れる
「不可侵」とは、表面的には問題ない。しかし、ポーランド奇襲のための準備、
(秘密協定でポーランドの「第4次分割」・・・ポーランド西部をドイツに、
バルト三国の他、ポーランド東部をソ連支配下に
・・・この激変でのユダヤ人逃亡)
(2)ポーランド奇襲攻撃・独ポ戦と親衛隊・警察の特務部隊
(アドルフ・ヒトラー身辺護衛連隊(研究最前線)など武装化した親衛隊の部隊が
軍の下の編成され、1939年ポーランドへのドイツ奇襲攻撃に参加)
ポーランドの政治軍事指導者エリート
(強固なナショナリズム、反ソ・反共・反ユダヤ主義)
これに対し、ヒトラー・ドイツは、ポーランド支配層の殲滅を真正面に掲げ、実行。
・・・国家と軍の指導者層を殲滅して、「指導者なき」隷属民族ポーランドを奴隷化
ドイツ併合した地域のユダヤ人を総督府(特にワルシャワ・ゲットーなど、住宅・食糧など劣悪の極)に追放
・・・総督フランクは「厄介者」が増えると困ると、抗議。
他方、自分の管轄下に入ったユダヤ人に関しては、
総督フランクは1939年11月25日ラドムで地方行政当局幹部に
「ユダヤ人についてあまり時間を浪費したくない。
ユダヤ人種に最終的に肉体的に攻撃を仕掛けることができれば、うれしいことだ。
ユダヤ人がたくさん死ねば死ぬほどベターだ,、
ユダヤ人に打撃を与えることが我が国の勝利だ」と演説(ヴァンゼー会議記念館ドキュメント07.0.2.01)。
(ユダヤ人迫害、その結果たくさんのユダヤ人が死ぬことを正当化。
しかし、この時点では、「350万人を射殺できない」、しかし、何らかの方法で
片づけなければならないと1941年12月16日閣議で述べたような殺害政策=絶滅政策を
必要不可欠なものとして求めてはいない。ユダヤ人ガス殺へのヴェクトルは、
占領と軍事情勢に対応して強くなっていく)
1941年7月16日、ポーゼン保安部担当官ヘップナーからアイヒマン宛
・・・冬には大量飢餓が予想される、飢餓よりも「最もヒューマンな解決」が必要では、と(ヴァンゼー会議記念館ドキュメント)。
大きな流れ:
独ポ戦⇒ヒトラーの「期待」「想定」「思惑」に反して英仏の対独宣戦布告
⇒独仏戦⇒独英戦か独ソ戦か⇒独ソ戦へ
(Cf. 栗原優『ヒトラーと第二次世界大戦』ミネルバ書房、2023年3月)
ヒトラーの『わが闘争』以来の一貫した「親英反露」戦略(二正面戦争の回避)
・・・第一次世界大戦で、1918-03-03ブレスト・リトフスク条約ではロシアには「勝っていた」、
しかし、広大な植民地を持ち強大な海軍力・海上覇権を持つ英国に加え、大国アメリカが参戦。
最後に敗北。(敗戦責任を「背後の匕首」ユダヤ・マルクス主義・革命勢力に押し付けたが・・・)
こうした軍事力(海軍力)・資源力を踏まえて、再びは英米とは戦わないという、ヒトラーの根本戦略
しかし、
このヒトラーの根本戦略の挫折・・・バルバロッサ作戦(1940年12月18日総統指令第21号)
(西で対英戦争継続中に、東でソ連攻撃、という二正面作戦に突入)
(3)ソ連奇襲攻撃・対ソ電撃戦・独ソ戦勃発と親衛隊・警察の特務部隊
「奇襲」か?なぜ、いかなる意味で? 陰謀・諜報活動、正確な情報と偽情報の混淆の世界
・・・Cf.最近出版の富田武『ゾルゲ工作と日独ソ関係――資料で読む第二次世界大戦前史』山川出版、2024.
総統・国防軍最高司令官指令第21号:バルバロッサ作戦
(Weisung Nr.21 Fall Barbarossa, 18. 12. 40)
…作戦の全体的方針、陸海軍の任務等を列挙し、それに従った具体的準備を命じる
戦争計画(この文書を含む史料集:歴史研究の90年代までの到達点を示す啓蒙的史料集「国防軍犯罪展」)
(犯罪展来場者、「記憶」の断絶・正当化意識)
・・・ソ連の打倒(ドイツ国防軍は対英戦勝利の前に迅速な進軍でソヴィエトロシアを征服・・・
バルバロッサ指令第21号1940年12月18日)
・・・ユダヤ・ボルシェヴィズムの殲滅・・・「世界観戦争」
・・・ボルシェヴィズムの根底・源泉としての「ユダヤ民族」の殲滅
・・・ソ連ユダヤ人の殲滅
独ソ戦勃発・・・1941年6月22日ドイツ軍の奇襲攻撃
親衛隊警察の特殊部隊
(アインザッツグルッペー特別行動隊、出動部隊など訳語は各種)
・・・ドイツ国防軍急進撃の後に従い、展開・進撃・鎮圧制圧作戦、軍後方地域の治安平定任務
(ソ連各地の犠牲者・大量射殺場所・埋葬地、記念碑・記念施設等)
アインザッツグルッペがわずかの抵抗も、苛烈に鎮圧(活動・情勢報告、事件通報ソ連)
(「ボルシェヴィズムの根源」としてユダヤ人の殲滅、
反ソ意識・反ユダヤ意識をまとめて住民統合に活用して、迅速な治安平定=陸軍後方地域の安全確保)
その前段:
独ソ不可侵条約でソ連圏支配下におかれた地域 (Cf.ポーランド分割時代のロシア領との重なり合い)
ソ連秘密警察が、反ソ的分子を逮捕・処刑。
・・・ソ連市内下に置かれた地域における住民の反ソ意識・反ユダヤ意識の先鋭化、
その証拠写真類
(レンベルク、現在のウクライナのリヴィウでの証拠写真
・・・国防軍犯罪展資料)
(同じく、タルノポルにおけるソ連・NKWDの大量射殺写真
・・・犠牲者の中にはドイツ兵士10人も
・・・ハイドリヒは、現地の反ソ意識・反ユダヤ意識を刺激、
現地の民衆にポグロムを引き起こさせる)
このソ連NKWDによる大量射殺を発見して、
ウクライナ人、ポーランド人などの中の親ドイツ・親ナチの人びとが、
ドイツ軍・親衛隊・警察の特別部隊と協力。
ユダヤ人(ソ連・ボルシェヴィズムと結び付けられて)にたいするポグロム
・・・レンベルクの場合、約4千人が犠牲。
スターリン・・・41年7月3日、軍後方地域における抵抗闘争・パルチザン決起を呼び掛ける
・・・ヒトラーは、スターリンの呼びかけを根拠に、「ユダヤ人をパルチザンとして」殲滅できる、好都合だと。
スターリンのパルチザン決起呼びかけ、ソ連の抵抗が激しくなるのと対応して、
・・・アインザッツグルッペによる「報復措置、贖罪措置」の名目のもと、パルチザン・ユダヤ人殺戮も過激化
(アインザッツグルッペの活動・情勢報告)。
「党や国家のユダヤ人」だけでなく、侵攻直後から全男子ユダヤ人を、晩夏からは婦女子のユダヤ人も射殺。
アインザッツグルッペ
1941年6月22日から7月16日までの活動
1941年7月17日から8月31日まで独ソ不可侵下ポーランド地域の活動
同リトアニア地域の活動
1941年9月〜10月 キエフ、オデッサ他
キエフ郊外バビヤールの33,771人のユダヤ人射殺。
「ユダヤ人移住措置は住民の完全な同意を得て、まったく摩擦なく遂行できた」と。
(作戦経過および事件通報1941年10月7日)
1941年10月16日 町ルブニー(戦前35,000人、残存者20,000人・・・多くのユダヤ人が逃亡していた)
ユダヤ人「移住」命令
・・・「3日間の食事と暖かい服を持参して」ユダヤ人集合せよ・・・
「1865人のユダヤ人、コミュニスト、およびパルチザン――
このうちには53人の戦時捕虜と数名の女性狙撃手Flintenweiberがいた――を処刑」と。
アインザッツグルッペの特別コマンド4aの報告(事件通報ソ連・1941年11月12日)
1941年12月1日、特別コマンド3(Einsatzkommando 3)報告書
・・・リトアニアにおける治安警察活動による処刑報告書
射殺したのは、男性ユダヤ人、女性ユダヤ人、
リトアニアとロシアのコミュニスト役員(女性リトアニア人コミュニストも)、
41年7月28日までに3,834人
8月22日までに16,152人
9月1日までに47,814人
12月1日までに99,804人
労働配置は、シャウレン4,500人、カウエン15,000人、ヴィルナ15,000人。
ドイツ占領支配に対する抵抗・反撃の高まり、
対する鎮圧・処刑の増大・拡大の連関
(累進的過激化の論理・・・鎮圧・処刑遂行の部隊=アインザッツグルッペの過酷さが突出する構造)
ーーーーー
イスラエルによるガザ・パレスチナ人・ジェノサイド
(Cf. 「ガザ―絶望から生まれた詩(If I must die, )」・NHKスペシャル)
(付言: 昨年10月7日以降、ガザで現在進行中のイスラエル軍の激しい「ハマス殲滅」作戦で、
一年ほどの間に、4万2千名のパレスチナ人市民が犠牲に、しかも、その40%〜半数が子供の犠牲、と。
まさに今、イスラエルによるジェノサイドが全世界で非難・抗議の声を呼び起こしている。
ーーーーーー
ナチス・ドイツ(軍と親衛隊・警察)の攻撃・鎮圧
これにに対抗・抵抗するパルチザンと一般住民の支援との関係、
パルチザンとそれを支援するユダヤ人の関係)
1941年8月30日ハイドリヒ命令・・・大量射殺現場を見物人に(国防軍将校を含め)見せること禁止
1941年6月から12月の親衛隊・警察特別出動部隊によるユダヤ人殺戮の広がり
(『ホロコ―スト地図』En、同邦訳より抜粋)」
一方で東部線瀬では10月はじめモスクワ攻撃タイフーン作戦開始、
他方でドイツ本土では英空軍によるドイツ諸都市への空爆・・・
1941年10月16日から11月29日のドイツ・オーストリアからの「臨時的東方移送」(「総統のご希望により」)
・・・「来春にはさらに東方へ」(モスクワ攻略成功・戦況好転の「楽観」のもとでの臨時措置とみるべき)
(手始めにドイツに併合した地域・総督府に接した「東方」リッツマンシュタットへ)
しかし、この臨時移送(3月に停止した移送の・再開措置)は、ただちに、難問群に直面
(独ソ戦泥沼化・総力戦化とソ連からの反撃の中で
・・・白ロシアへの移送についてはex.1941年11月20日国防軍からの抗議)
・・・一連の臨時的移送も実行不可能、国防軍などからの抗議で頓挫、射殺へ)。
・・・あるいは、開発した移動型ガス室(自動車排気ガス・一酸化炭素)で12月からヘウムノ・クルムホーフで殺害。
(4)世界大戦への突入
独ソ戦泥沼化・総力戦化と親衛隊・警察の課題
――危機増大の中での治安平定――
世界大戦・・・ヨーロッパの戦争とアジア・太平洋戦争が結合…グローバルな対抗軸の形成
この意味では、1941年12月8日(現地時間では7日)を契機に真の世界戦争の開始。
ヒトラーの国会演説(1941年12月11日)
・・・対ソ戦の圧倒的戦果を誇示。対米宣戦布告の論理
…イギリスに対し何度も停戦を呼び掛けたが、応じなかった。
英米のユダヤ勢力により、日本の対米戦争開始で、対米宣戦布告に至った、と。
ヒトラーの対米宣戦布告・国会演説の論理――「ユダヤ人絶滅命令」との関連で――
ヒトラーのナチ党最高指導部に対する演説(12月12日)・・・ゲッベルス日記記載:同(ドイツ語英語)
ヒトラーとヒムラーの会談
・・・親衛隊全国指導者・ドイツ警察長官ヒムラー業務日誌1941年12月18日メモ(ヒトラーへのVortrag報告・具申)
・・・12月12日のヒトラーのナチ党最高幹部演説を受け、
「ユダヤ人問題をパルチザンとして根絶」Judenfrage als Partisanen auszurotten.と。
(「として」というところが眼目。
「である」=事実ではなく、反ユダヤ主義(ユダヤ人に責任を擦り付ける論理)のイデオロギー
ヒトラーの対米宣戦布告(1941年12月11日)に対抗する日独伊無条件降伏まで戦い抜く
連合国宣言は1942年1月1日
1942年年ヒトラーの年頭挨拶
――「チャーチルとローズヴェルトはヨーロッパをスターリンの手にゆだねてしまった。」
「チャーチルとローズヴェルトの同盟者としてのユダヤ・ボルシェヴィズム」
(M, Domarus, Reden und Proklamation, S.1821).
1942年1月8日 ハイドリヒ・・・「ユダヤ人問題の最終解決」の会議を招集(1月20日開催)
1942年1月20日ヴァンゼー会議:議題「ユダヤ人問題の最終解決」(対象・全ヨーロッパ1100万人))・・・
総督府次官「約250万のユダヤ人のほとんどは労働不能。総督府から最終解決をはじめて」と。
1942年1月30日国会演説――「ユダヤ人が思っているようなヨーロッパのアーリア諸民族が根絶されるのではなく、
この戦争の結果はユダヤ人の絶滅だ。」「目には目を、歯には歯を」だ。
この演説で、ヒトラーは、
ユダヤ人は「ヨーロッパ・アーリア諸民族が根絶」されるとみているが、
「逆に、「この戦争の結果は、ユダヤ民族の絶滅」だ(ヒトラー)との対置。
(M, Domarus, Reden und Proklamation, S.1828-1829).
1941年12月15日リバウ(ラトヴィア西部バルト海沿岸の都市)での射殺直前の婦人たち
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Cf.以下の独ソ戦の基本的経過と世界大戦への突入
電撃戦挫折・・・長期戦化・総力戦・戦争泥沼化
(一方的にドイツ敗北が決まったわけではない、
ナチス・ドイツのソ連占領・戦勝のための必死の闘い、油田地帯獲得をめぐる戦い)
(ヒトラーが「敗北を覚悟した」(栗原2023)と繰り返し強調している。しかし、
「敗北の覚悟」と ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策を結びつけるのは、直接的であり、結果論ではないか。
ヒトラーは世界戦争をユダヤ人が引き起こしたものと断定し、
「目には目を」とヨーロッパ・ユダヤ人絶滅を正当化。
1942年1月30日国会演説で、「目には目を」を叫び、勝利を目指す、
ナチ党幹部・国家軍部の首脳部もそれに共鳴・支持、
1942年から44年のドイツの全体的闘いを導く精神構造・・・単にヒトラーだけでなく、
ナチ党諸組織、軍の戦闘力を貫くものを見る必要・・・第一次世界大戦の敗戦経験
・・・名誉もなく、戦争責任を一方的に断定され、
莫大な賠償金、領土・植民地喪失の記憶
・・・「麻痺の構造」)
「1941年11月〜12月」…「冬の危機」
モスクワ前面での敗退
1941年12月11日、対米宣戦布告・・・巨大なアメリカ、
アメリカとの戦争だけは開始したかったが、まさにそのアメリカに対し宣戦布告。
(第一次世界大戦はアメリカ参戦により、世界戦争に突入、そのアメリア参戦でドイツは敗北への道を歩む
・・・まさにこの第一次世界大戦の記憶がヒトラー、ナチ党幹部、軍首脳部、ナチ党員大衆、ドイツ国民に鮮明。
ヒトラーの戦略は一貫してこのアメリカ参戦を回避することにあった。
しかし、それは、1939年9月3日の英仏の対独宣戦布告に始まって、挫折。
タブーの二正面作戦への道(「バルバロッサ」指令)--対ソ攻撃――に突き進まざるをえなかった。
食糧・原料資源、特に石油のための広大「生存圏」獲得の絶対的必要性
ヒトラー自身、同盟国日本との約束により、アメリカへの宣戦布告をせざるをえなかった。
日本がアメリカをアジア・太平洋戦線に引き付けることを期待
・・・しかし、それは半年ほどのうちに打ち砕かれる)
世界戦争の罪をヨーロッパ・ユダヤ人に(すなわちソ連ユダヤ人だけではなく)押し付ける論理が確定。
1942年1月20日、「ユダヤ人問題の最終解決」を議題とするヴァンゼー会議開催
対象とされるユダヤ人は、文字通り、ヨーロッパ全域のユダヤ人(アイヒマン作成の会議資料・統計参照)。
会議主催者は、親衛隊ナンバーツー(次官級)ラインハルト・ハイドリヒ
(ライヒ保安本部長官・治安警察・親衛隊保安部長官)
会議には各省庁の次官クラスが出席。
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ヒトラーは、折に触れて、1942年以降、大演説で、繰り返し、
「ヨーロッパ諸民族」、「アーリア諸民族」の絶滅と、「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」を対置させて、
実際に、秘密に絶滅収容所で開始され、断行中のユダヤ人殺戮を正当化。
1939年1月30日の予言:
「ユダヤ人たちが国際的な世界戦争を引き起こして、ヨーロッパ諸民族を皆殺しにしようと思っているなら、
その結果はヨーロッパの諸民族の皆殺しではなくて、ヨーロッパのユダヤ人の皆殺しとなるだろう」と。
いまや、世界戦争への突入で、それが、実際のこととなった、と。
問い:
いつから世界戦争になったのか?
いつから第二次世界大戦となったのか?
(ヒトラーにおいては、そして、実際にも、通念的通説的第二次世界大戦とは定義・概念が違う)
1942年1月30日の政権掌握記念日演説。
(「世界戦争だといわれる」ことになったことを公然と認めた演説)
1942年夏から、石油を求めて、スターリングラード攻撃
最新の翻訳書:ワシーリー・グロスマン著『スターリングラード』上、中、下、2024, 地図
1943年1月末-2月初め・・・半年余の激戦の末、、ドイツ第6軍敗北・・降伏
これ以降、敗退に次ぐ敗退。
占領地縮小。
食糧・資源の基盤縮小。
むすび
単なるヒトラー命令ではなく、総力戦敗退の諸ヴェクトルが、ユダヤ人殺戮を規定していく。
その担い手が、親衛隊、それが支配下に置く武力装置=警察。
ヒトラー・ドイツは、最後には敗北した。
その原因・諸要因は何か?
ソ連・英米,、連合国総体の戦闘力・・・その内実は?
連合国の闘いの理念は? どのような人々が立ち上がったのか?
ヒトラー・ナチスが見失っていた重要な敗北要因は?
本日の講義内容から導き出せる諸要因は?
現在の日本人としての「過去の克服」は?、
Cf.旧研究室HP
2024-10-16講義当日のレジュメ