--------
2003年2月15日 2月8日の「市大の将来を考える」緊急シンポジウムの基調報告(松井道昭教授)Pdf.版を頂戴した。すでに矢吹教授HPで公開されているものである。当日、参加できなかったので早速通読した。現在の横浜市立大学が抱える問題がきわめて明快に、説得的に説明されている。市大の存廃・縮小に関わる危機は現在まで3回あったそうで、市大60年史編纂の中心的役割をになった教授ならではの説明は重みを持つ。松井教授の基調報告でとりわけ印象的な箇所は、
第1に、重大な市大の危機の根源についての説明であり、神奈川県下に国立大学医学部がないため、横浜市・横浜市民が多大の犠牲を払って医学部を創設し、医学部と付属病院を維持してきたこと、その財政的負担が不景気・長期不況(これは横浜市民だけの責任ではなく日本経済・日本政治全体の運営にかかわることであるが)で市財政が苦しくなると深刻な重荷と感じられること、そのたびに大学全体の廃校・縮小問題に飛び火することが、明快に説明されているところである。医学部は、今回の「あり方懇談会」の答申に適切に公然と反論しておかなくていいのか?
第2に、そのような危機にあたって、大学(および前進のY専)の長が率先し、「校長および学長を中心軸として大学首脳部が一丸となって防戦に努めたこと、教員がそれによく応え、学生を捲き込んで、抗議集会、座り込み、市役所への陳情を行った点である」という箇所である。今回の大学の危機において、学長と首脳部(各学部長・研究科長および評議会)の動きはまったく見えてこない。この間の動きは、むしろ大学内(実際には「外部」の立場・観点にたつ超越的な「内」)の事務局首脳部が大学をつぶそうとするかのような動きとなっている[1]。これに抗すべき学長が司令塔(正確には司令官[2])となっていない。事務局責任者の独断専行を学長や学部長・研究科長・評議会は毅然と制止できていない(評議会からの事務局責任者の指揮命令による事務局総退場へのふがいない対応)。外部(および「内部」)からの圧力に抗しつつ、大学世論を内発的改革に向け盛り上げるということが行われていない。
たちあがらない学長、評議会に対する批判をむしろ押さえこむようなことさえ行われている(言論抑圧事件の経過と批判を参照されたい)。学長や各学部長・研究科長・評議会は沈黙状態(屈服状態)に見える。この期に及んでもなお不動のまま、座して死を待つ姿勢か? 学長・評議会は「あり方懇談会」答申に対する毅然とした反論・批判を即座に出せるように準備しているか? 「あり方懇談会」橋爪座長私案に対し、明確な批判を行うべきだったが、なにも行わなかった。答申案に対してもなにも行動していないかにみえる。ということは、答申案は学長・評議会の合意の上の文章か? そうでないなら、その違いを明確に学内外に分かるように表明しなければならないだろう。
最終答申に対しても、これまでのように、またまた拱手傍観か?
このような状態で卒業生や新入生に、学長はどのような話をするのだろうか(できるのだろうか)?
事務局責任者の独断専行を批判し、それに追随する学長に対する批判の姿勢を強めてきた人々に対し、「学長を選んだのは自分たちだから」といって抑制しようとした人々は、いまどうしているのか? 大切なのは大学を守り発展させることではないのか? 大学人は、一昨年四月以来の、そしてとりわけ昨年5月以降の諸事件に象徴される事務局(その背後に「関内」市当局があるだろう)の大学に対する無理解や法秩序違反に対して、毅然と統一した共同の姿勢を構築すべきではないのか?
------
2003年2月14日 昨日の「あり方懇談会」の様子を紹介するメールが教員組合前委員長倉持先生から送られてきた。「最初の40分位を利用して将来構想委員会の中間答申について島田、小島、布施の将来構想委員長および副委員長が陪席し、説明とあり方懇委員による質疑応答がありました」と。予定の時間を1時間以上オーバーして、あり方懇談会の答申案[3]の内容、文言について委員のやりとりがあったそうである。これを報じる『神奈川新聞』と『毎日新聞』の記事のPdf版も頂戴した。
評議会からの事務局総退場事件などこの間の一連の経過で、また最近の言論抑圧事件で明確になったように、大学戦略会議や将来構想委員会に対しては陰に陽に事務当局責任者による大学にあるまじき「恫喝」「脅迫」が加えられたことは明白である[4]。最近の言論抑圧事件を批判するなかで示したように、大学人は毅然とした態度をとっていないと判断せざるを得ない。
そのような諸事実を顧みるとき、今回の「あり方懇」答申案がどのようにゆがめられているのか(あるいは「あり方懇談会」のメンバーを選んだ事務局の意向がどこまでストレートに出ているか)、どこまでが大学人の自主的・自立的・独立的な構想を吸収配慮したものか、どこまでが本学の研究教育の内実をつぶさに検討した上のものか[5]、さらに、どこまで現在の日本と世界と横浜市の学問研究教育の到達点を踏まえたものであり、どこまで大学人の内発的で建設的な意欲を引き出しうるものであるのか[6]、大学人の真剣な検討が必要であろう。
「独立行政法人」化に関しても、国会でいまだ審議もされていない問題について、どのような内容になるか最終的には明確でないにもかかわらず、またまだ大学内部で十分に検討してもいないのに、「あり方懇談会」答申案としてその方向性を打ち出すこと[7]がはたして妥当なのか、問題が残る。深い検討のないまま時流に流されているのではないか、との疑念を持つ。
さらにまた、この答申案をどのように「あり方懇談会」が最終的に練り上げ、答申に盛りこむのか、十分に注意しなければならないだろう。「あり方懇談会」座長の問題性はすでに多方面から批判されている通りであり、授業料値上げの構想をはじめ、公立大学の存在意義を否定するかのような提案の数々は、今後、市民とともに検討を加えるべきことであろう。
若い大学教員は、今回の答申をどのように考えるのだろうか? 「任期制」という点が今回の答申案にも出ている。また、独立行政法人化にあたっては「再雇用」だとも打ち出している。まったく平気なのか、それともこれが学問研究の自由を束縛すると感じるか? 「任期制」の場合、主任教授制と抱き合わせの構想になっている。主任教授が問題なければいい。そうでない場合はどうするか? どの制度も、不正・不適当な運用を阻止する装置が必要であり、それを可能にするシステム構築が必要だろう。どの場合も、大学人の真剣な対応が求められている。現在の人事システムでも、学問への情熱や社会への学問的貢献の意識から、すぐれた仕事をしている人々は多い。現在のシステムに甘んじている人々とそうでない人を区別し選別するシステムは、どのように構築すべきか。難問ではある。
研究費についてはどうか? 「市費による研究費の負担は原則として行わない。外部資金が得られた場合に、研究を進める」と。外部資金が得られるためには、基礎的研究を何年か積み重ねなければならない。そして、科研費なり、その他のファンドにチャレンジしなければならない。基礎的研究費を欠いて、どうして研究を続けられるのだろうか? 市の財政が厳しいとはいえ、このような答申を平気で出す人々の神経は異常としかいいようがない。ノーベル賞をもらった小柴さんは、一方では、外部研究費などの審査が「二流の人物、二流の研究者によって行われている」と痛烈に批判している[8]。時流に乗った、2流の人物だけが評価しうるような資金で研究を行っていては、日本の科学研究はだめになるだろう[9]。
小柴さんは、「基礎研究」で、企業などの寄付やファンドが得られない研究こそ、国家などの公共団体がだすべきであり、その非効率的である部分によってこそ長期的に科学研究を発展させることが可能だといっている[10]。そのとおりだと思う。小柴さんのカミオカンデやスーパーカミオカンデに対して、非効率的であるからといって資金が投じられなかったら[11]、ニュートリノ天文学、「ニュートリノ天体物理学の誕生」(ストックホルムでのノーベル賞受賞記念講演タイトル)はないし、日本の世界的貢献はないのである。日本の科学技術におけるただ乗り論は、ますます横行することになる。
今回のような答申を見ると、あまりにもばかばかしい部分が多く、まともな研究者が書いたものとは到底思えない。噂によれば、下書きはすでに学内の事務局が相当前から準備していたものだとか。それならば、この間の諸事件を想起しても、なるほどと合点がいく。
-------
2003年2月13日 定例学科会があった。全学の四〇%ほどの学生数(1700名ほど)を持つ商学部が、教員一人あたり負担という点で、教務関係をはじめ、いちばん負担は大きいはずであり、そのため、事務機構「改革」にともなう現行業務から新業務体制への移行において、教員サイドで減少する部分はいっさいなく、新たな業務が増えることだけは明確な一覧表が、問題となった(教授会でも配られたもの)。現在の学長、評議会は、どのように検討したのか、このような負担増をどのように考えるのか、伝わっては来なかった。事務局が提示した案(出席していた部局長の一人によれば部局長会議配布資料ということだが)を、部局長レヴェルはそのまま教授会や学科会におろしているということであろう。職員削減のしわ寄せを、教員の負担増[12]で乗りきろうとする構図は、これで明確になったといえよう[13]。商学部に対し、今回の提案においては秘書二人配置を前提に話を進めながら、突如[14]、「秘書2人はだめ、秘書1名のみ」ということで、秘書仕事量1名分だけでもすでに商学部教員の負担は増えたわけである。事務当局に対する不信感はここでもまた追加された。「また冷や飯を食うのはわれわれか」と。一体どこまで負担が増えるのか?
教授会や教務委員会・入試委員会に実務担当職員がひとりもが出席しない(教授会や教務・入試委員会の議論の展開をいっさい知らない人々による事務処理)で円滑な事務運営ができるのかどうか、はなはだ疑問である。一体どこにそのような大学があるのか?
新しい事務機構への移行、これに伴う教員負担増に伴い、責任体制もはっきりさせる必要があるということで、国際文化学部とおなじようにわが学部も教務委員長・入試委員長は評議員がかねることがよかろうということになった(あくまでも経済学科の議論であり、今後学部長を中心に検討が行われるであろう)。従来の教務委員長・入試委員長の責任・負担の量に比べての新システムでの責任・負担増は、講義負担を減らして非常勤講師で手当てするか(人件費補填が必要である)、それが理解されない(予算関係者が理解しない)場合は一コマ講義負担を減らすため休講措置に踏み切らざるを得ない、といった事が確認された[15]。つまり、財政事情悪化、大学予算削減、人件費削減の余波は、結局のところ、学生に対するカリキュラム上の悪化(メニュー・講義選択余地の減少・教務入試の各委員長分だけなら毎年2コマの休講措置が追加と言うことになる、学部長は現在ヒトコマの講義をやっているがこれも新システムによる業務量増加を考慮して、非常勤対応ないし休講装置ということにせざるをえないであろう、商学部の場合、補充人事2名も行われていない[16]のでその程度の非常勤人件費は十分に出るはずだ)に帰結せざるを得ない、それも余儀ないということになる。いずれにしろ、学科会司会者松浦教務委員長が議論の正式な報告を学部長に提出し、学部長・評議員で検討の上、次回教授会でなんらかの具体的提案があるだろう。
大学改革のあり方、とりわけ、国立大学の独立行政法人化の方向性と絡んで、市大でも改革(それがはたして公立大学法人になるのか、そうでないのか、独自の大学を自由で創造的な先端的な制度を開発するのか)のために事務局サイドでは「大学改革担当」の部長や管理職の数だけは5名も増えるプランである。事務機構改革案が最初に出されたとき、改革という大変な問題では教員サイドにも、大学改革特別副学長なり、学長補佐2名ほどの学長室体制を創設すべきだと指摘したが、一体、職員サイドでの改革検討特別職員の増員に見合う教員の改革特別スタッフの増員は、どのようになっているのか? 現段階ではまったく存在しない[17]。事務局サイドは教員負担を増やす(増える)ことには無頓着で、自分たちの負担増についてはきちんとカウントしていることがよく分かる[18]。何か問題が起きたときには(過労死? 事務処理不始末? その他)、このような発想と人的物的配置のあり方も証拠にはなろう。一つ一つの業務移行の説明文書は、教員負担増の重要な証拠文書となろう。それが、業務移行表を改めてみた経済学科会の人々の空気だったように私は感じた。
------
2003年2月12日 2月8日の第1回緊急シンポジウム「市大の将来を考える」の発言録が送られてきた。出席者各位の熱意ある個性的で建設的な発言の数々、それらを詳細に記録した松井道昭先生のご尽力の成果である。臨場感あふれる発言記録の数々[19]に、時に目頭が熱くなった。是非一読されたい。そして第2回シンポジウム(3月29日:市大カメリアホール)には声を掛け合い連れ合って、多くの市民・卒業生・在学生・高校生などが参加して欲しい。市民、卒業生、在校生、高校生が活性化させ創造する21世紀型市民の大学として、本学を発展させたいものである。その重要な前提は大学・大学人の自主性・自立性・自律性・自治である。ところが、これに反する事件が学内で起きた。この大学の「言論抑圧」問題(総合理学研究科・佐藤真彦教授の経過報告)に関する私の意見表明(学長・学部長への意見具申)は、早速矢吹先生がHPで取り上げてくださった(その公開質問状)。一人でも多くの市民・学生の目にとまり、大学問題を考える素材・叩き台になればと願う[20]。「市大の将来を考える」第1回シンポジウムのいちばんの問題は、学長や評議員[21]、部局長といったひとびとが参加していないことであろう。卒業生・在学生・地域住民など市民の生の意見に耳を傾けないでも、大学改革を推進できると考えているのだろうか?せっかくのいい機会を逃したのではないだろうか?
----------
2003年2月11日 小川学長、商学部長には、言論抑圧事件に関するすみやかな態度表明を希望する旨、2月7日付日誌をコピーしてメールに張りつけ、意見表明メールを差し上げた。両先生が私のこの研究室HP(言論抑圧事件批判)を読む義務も必然性もないわけで、所属学部長、大学長には直接、一教授として意見をきちんと表明しておくことは、義務だと考えたからである。
テレビ・新聞報道ではアメリカのイラクに対する戦争のニュースがあふれている。アメリカの対イラク戦争には独仏ロの首脳も反対しているが、世界世論が平和的解決のために最大限の努力をしなければならないだろう。社会科学者も戦争勃発前に何事かなすべきだという訴えは、第2次世界大戦の悲劇の連鎖を研究するものにとっては、説得力を持つ。アメリカのイラクに対する先制攻撃反対の「社会科学研究者の訴え」に多くの方が賛同されることを期待する。本学の学則第1条にはまさに、世界平和のために尽力すべきことが明記されているではないか。
-------
2003年2月10日 2月8日(土曜日)の「市大の将来を考える」緊急シンポジウム[22]は、約160名もの参加で活発な議論が展開されたようだ[23]。この件では、神奈川新聞も的確な取材・報道をしている。掲載記事タイトル「市大関係者が緊急シンポ」、「当事者不在の議論に危機感」。その連絡が教員組合(委員長・倉持先生)からあった。ここにこの記事にリンクを張り、紹介しておこう。次回の予定は3月29日だそうだ。
--------
2003年2月9日 日曜日だが、編集している学会誌『歴史と経済』(政治経済学・経済史学会:旧土地制度史学会)関係の仕事で研究室に来てみると、総合理学研究科・佐藤真彦教授から言論抑圧事件の「経過報告最終版」を頂戴していた。すでに、教授HPにも掲載されている。ぜひ、一読されたい。わが大学の民主主義精神の水準、大学の自治の水準、大学における学問・言論・思想の自由の程度を検討する絶好の素材となろう。私はすでにこれまでの日誌で意見表明しているように、内部告発の法制化を議論するわが国の一般社会の民主主義の水準よりも、大学の方が低いのではないか、問題があるのではないか、と感じている。今回の事件は、「臭いものに蓋」、「言論抑圧」の精神が、社会の厳しい批判から守られてきた大学内で、じつは横行していることを象徴的に示すことではないか。本来、社会の中で民主主義や思想・言論の自由の最高水準を行くべき大学、率先垂範すべき大学にあるまじき事が起きていると感じる。活発な公然たる議論の展開を期待する。
-------
2003年2月7日 研究室に来て、パソコンを立ち上げて驚いた。総合理学研究科・佐藤真彦先生の勇気ある資料公開[24]に対し、削除させようとするなど、言論弾圧・抑圧が行われたのである(総合理学研究科・佐藤真彦教授の公開意見・経過報告:矢吹先生からの情報、矢吹先生HP)。あまりのひどさに、すぐには考えがまとまらない。じっくり考えて、意見をこのHPで公開し、世の人々からのご批判を仰ぐことにしよう。いずれにしろ、まさに大学内部における言論の自由、社会における公的な問題に関する言論の自由など、憲法的問題になってきたことだけは確かである(以上、9時20分)。
検討すべきは、まずはつぎのような事実確認・諸論点であろう[25]。
@
資料(議事録)は本当に「部外秘」に値するものか?
A
その判断はだれがしたのか?
B その判断に追随したのはだれか?
C その判断に疑問をいだき、批判したものはいないのか?
D 当該資料を「部外秘」とした責任者はだれか?
E その根拠・論拠はなにか?
F 秘密とすべき箇所はどこか?[26]
G 「秘密」とすべきだと判断した根拠、その論拠とされたことは、はたして大学の「戦略」を考えるという公的な問題、大学の生命、大学の将来という根本的な公的問題に照らし合わせて、妥当か?
H 情報公開における道義性とはなにか? もしも、当然にも(公的利益=公共の利益=大学の利益=大学の生命の利益と論理を判断規準とすれば、当然にも)公開すべき内容の議事録を非公開(秘密)にしたとすれば、それ自体が道義的に問題となる。総合理学研究科の検討で、佐藤教授の行動を「道義的に問題だ」とする意見が出たようだが(佐藤真彦教授公開情報参照)、その道義性の問題は、じつは、内容に即して判定されなければならない。 その場合には、かえって、「部外秘」としたこと自体が、大学人としてあるまじきことになり、その道義性が問題となる。他人を非難する論拠・ものさしは、必然的に、その非難者自身の頭上にも落ちてくる。「道義」の規準を持ち出したものは、今後の調査過程で、その妥当性が問われることになる。
I 企業(私的利益を追求する民間企業)における内部告発の法的保障さえ制度化されようという民主主義の現在の到達点からして、大学、しかも公立大学において、秘密とすべきでないものを秘密として隠蔽・封鎖することは許されるか? 秘密とはなにか、これが決定的に問題となる。
J 企業の論理(私的利益追求)からすれば、企業内部秘密の告発は「道義的」に(社員・社内倫理により?)罪とされ、告発者自身が不利益処分される。しかし、秘密隠蔽が公的・公共的・社会的には、幾多の悲劇・多大の被害を生んだ。企業内部の利益(私的利益、近視眼的・短期的・表面的利益)からする秘密(その護持・隠蔽)は、社会の利益と論理、公共の利益、市民の生命や利益の論理に反する場合がある。企業内の普通の社員、地方自治体・国家の公務員などは、一人一人としては弱い立場にある。その人が重大な秘密(だが公開することが社会と公共の利益となる秘密)を知った場合、どうするか? どうすべきか? 弱い立場の告発者(しかし社会と市民の公共的利益を守る勇気ある人・責任感のある人)を守らなければ、企業秘密が蔓延し、市民や社会の生命と利益が失われる。それが、内部告発保護の法律制定の背景であり、論理である。その公共の論理は、地方公共団体でも国家でも同じであろう。むしろ、公的団体であればあるほど、その点には厳しい態度が求められるであろう。
K 今回の議事録「部外秘資料」公開問題で、事務局責任者は、「地方公務員の守秘義務」を持ち出したようだ(上記、佐藤真彦教授公開情報参照)。事務局(責任者)がこれを持ち出す事例は結構ある[27]。まさに、これが今回の場合あてはまるのかどうか。それこそ重大問題となろう。このような脅迫や不正確な守秘義務理解に屈していいかどうか、それが問題だ。だれがそんな発言をしたのか? その人物には説明責任がある。このことを明確に指摘しておきたい。いずれ調査委員会でその点が明確にされるべきである。
L 大学の部局長で構成する「戦略会議」の議事録は、どのような意味で秘密なのか?どうして秘密にしなければならないのか?どこを秘密にしなければならないのか? 合理的な説明が必要である[28]。 「部外秘」とした事に関するアカウンタビリティが求められている。その議事録は、教授会議事録とどのように違うのか?教授会議事録はすでに公開原則が確立している。教授会議事録公開に関しては、迅速に処理できるように、教授会議事録公開システムも構築されている。公開原則を無視していい理由はなにか?[29]
M われわれの場合で言えば、情報公開対象は、戦略会議議事録である。科学技術の自由で豊かな発展、大学の生命・大学の発展に関わる問題、大学の自治や学問・思想・言論の自由という憲法的規準からすれば、戦略会議[30]の議事録をとうてい「部外秘」として隠しておくことは許されないと佐藤真彦教授は判断されたのであろう。その個人的判断に基づく勇気ある[31]情報公開が、佐藤真彦教授の研究室HPにおける議事録公開である。その民主主義的行動を押さえ込もうとしたこと自体、現在の社会の到達点から言っても、相当に問題となろう。したがって、総合理学研究科長の「削除」要求や、「監督不行き届き」発言(上記の佐藤真彦教授公開情報)は、大学自治破壊、学問・思想・言論の自由の抑圧活動として、逆に、今後、学内外で重大な社会問題となろう。
N 言論抑圧こそは、大学の自治の根本精神、科学技術の自由な発展の制度的法的保障という人類史的・世界的・憲法的な意味で、批判されるべきではないか?
O 言論に対しては、キチンと理路整然と言論による批判で応える(学長声明、戦略会議責任者声明、その他の形式で)のが、言論の自由の本質的構成要件である。人目に触れないように削除するように求めたとすれば、「言論弾圧」といわれてもしかたがないのではないか? その事実(削除要求=言論抑圧の事実)自体を消し去ることはできない。学長設置の委員会は、日本と世界が注目する重大な原理的問題を検討することになる。堂々たる調査検討、その検討過程と検討結果の全面的な公表を期待し、要求する。
P HPにおける意見公開について[32]・・・佐藤真彦教授の研究室HP掲載が、大学情報システムの「公共財」という一般的な性質から問題とする意見があるようだ。この発想自体、公共の意味をまったく考えない、軽薄な意見だ。大学を構成する「財」には考えが及ぶが、大学を構成する主体・個人の公的責任・公共的責任をしっかり考えたことのない人の発言だ。
Q 情報公開は、あくまでも佐藤真彦教授の個人研究室HPで行われているにすぎない。大学の公式HPではない。その点をはっきりつかんでおかなければならない。佐藤真彦教授個人の大学問題に関する責任ある(こそこそ隠れて陰で発言しているものではない)見解表明、資料=情報公開の態度を人目に触れさせたくない理由はなにか? 大学問題(将来構想)には、多様な(時に対立的な)見解がある。それらの構想について、公然と議論を戦わせてこそ、本当の(民主的な)大学改革ができるのではないか? 橋爪座長の発言が新聞を通じて報道されているのに、なにも大学として反論しないことこそ問題ではないか?戦略会議で議論するさまざまの人の意識内容・意識水準がわかる資料を隠すことこそ、問題ではないか。外部からの、そして内部における無理解・暴言に対し、拱手傍観していて、大学を守り発展させることができるのか?
R 佐藤真彦教授の意見が、いまのところ、大学の「公式」見解でないことは事実かもしれない。しかしそのことは、個人研究室HPと大学公式ページとの違いから明確ではないか? だれも、佐藤真彦教授の見解を、現在の大学の公式見解だとは思わないであろう[33]。佐藤教授は、総合理学研究科長や学長・部局長会議の態度自身を問題とし、経過報告を公開されているのである。
S 私もそうであるが、佐藤教授は、自分の意見を自分の意見として自分の責任で研究室のHPで公開しているだけであろう。この意見表明の方法は決して他人に自分の意見を押しつけるものではない。自分の意見を明確にし、他人からの批判を可能にしているのである。教授会や各種委員会などの場で自分個人の意見表明に長時間をとることは、場合によっては許されない。それに比べて、HPにおける明確な意見の表明は、人に迷惑をかけない方法、じつに物静かなやり方ではなかろうか。読むに値しないならば読まなくていい。HPにおける情報公開・意見表明というやり方こそは、こそこそと隠れて「寝業師」的に動き回ることに比べて、正々堂々たる態度、民主主義的な態度だといえないか。佐藤教授の意見が間違っていると思う人は、陰に(これはすでにおこなわれているであろう)陽に批判すればいいのである。むしろ、問題があると考えるなら、公然と批判することが大学人としての義務でさえある。
21 大学問題(大学改革、そのあり方、どう進めるべきか、未決定の諸問題、これから構想し作り上げていくべきプランの諸問題)という公的公共的なテーマに関する議論だからこそ、それぞれの大学人が自分の研究室のHPを立ち上げ、責任を持って自分の意見を公開すればいいのである。その諸氏百家の議論の百家争鳴・百花繚乱の中で、真に有力な意見が生き残り、影響力を持つように育てていけばいいのである。それこそ大学らしい民主主義的理性的やり方ではないか?
22 そのような現代的意見公開、公論の場としては、HPはすばらしいものだと考える。公式見解もどんどん大学HPで公開すべきである。毅然とした意見を関係各部局責任者が即座にだせないこと、公式見解をただちに出せないこと、これこそ大問題だ。
23 大学というところは、公式(学長、評議会、各部局長、教授会、事務局責任者それぞれ)の見解と各教授の個人的見解が違っていれば、むしろ、それが明確にわかるようにする言論の自由こそが大切である。大学(いや民主主義社会においてはどこでも)は、いろいろな意見のなかから大学(社会)を構成する各人が自分の頭で公正、正義、真実や真理を考え、意見を述べ、発見していく、創造していくことが、むしろ貴重なのではないか? その模範となるべき機関・組織こそが理性の府たる大学であり、真理探究につとめる大学の使命(学則第1条)ではないか。
24 またそのような使命をになった大学という最も自由で創造的な場での活発でオープンな議論を、可能な限り最大限、関心ある市民に公開し、市民がフォローして、市民としての認識を豊かにし鍛えていくことが大学の役割ではないか? 市民社会の言論の自由を豊かに発展させることは大学の使命ではないか? まさにその試みが、各研究室での各個人の責任でのHP作成ではないか? 今だ、HPを通じる意見表明が少ないことこそ問題ではないか?[34]
25 民主主義精神の深化・発展、各人の自立的精神、各人の個性・自立性・自律性と公的・公共的意思の形成のあり方において、いちばん大切なのは各人(学長として、各部局長として、評議員として、教授として、そして事務局責任者として)の責任ある公的な意見表明ではないか?
26 私は以上で展開したように、戦略会議という公的組織の、大学の将来を左右する改革問題の議論の内容は完全にオープンにすべきだという立場である。佐藤教授が勇気を持って公開に踏み切られた現在の資料(議事録)でも、公的な地位にある発言責任者の個人名が隠されている[35]という意味で、不充分な情報公開だと考える。助教授クラスの弱い立場の人々の発言は別としても、教授以上の人々、および事務局責任者の発言は個人名とともに完全に公開すべきだと考える。
27 かくして、今回の問題は、まさに大学における民主主義と言論の自由、大学の自治の成熟度が試される問題であろう。これに対する社会の関心度は、また市民と社会の民主主義の成熟度と関係するだろう。
しっかりとこの問題を大学人全体が真正面からとらえ、考え抜くことが求められているであろう。委員会が設置されるとのことだが、議論は公開し、各発言者の多様で時に対立的な発言内容を明記し(その意味で本格的な議事録を作成し)、正々堂々と議論すべきであろう。それこそ大学らしい言論の自由の保証された検討のし方であろう(10 時50分、14時半、15時、15時40分、16時半、2月9日、2月10日、推敲・添削)。
------
2003年2月6日 土曜日(2月8日)の市民シンポに関する関心は高いようで松井先生ところにはかなりの数の方から参加の意志が表明されているという。ぜひともたくさんの市民や卒業生[36]が結集され、活発な意見交換が行われるよう期待したい。大学を発展させるのは、設置者である市民であり、卒業生であり、本学の学生であり、活発な大学の動きを注目して入ってくる後輩諸君(現在の高校生や受験生のみなさん)であろう[37]。
OBの教員の皆さんにもぜひ多く参加していただきたい。
在学生諸君も、声を掛け合ってたくさんの人が、是非参加して欲しい。在学生諸君、年度末試験で忙しいだろうが、ひととき大学問題の議論を聞いてみるのも、頭脳の活性化にはいいかもしれない。
高校生の諸君、受験生の諸君も可能なら、ぜひ参加して欲しい。
今大学で何が問題になっているか、大学にとって大切なことはなにか、大学における研究教育とはなにか、21世紀の将来を担う大学はいかなる課題に直面しているか、市大の果たすべき役割はなにか、大学の発展のために市民の果たすべき役割はなにか、きっといい勉強になると思う。
市民の、市民のための、市民による大学の再出発・活性化・創造のために!
------
2003年2月5日 冒頭でも2月8日の市民シンポを案内しているが、北大の辻下教授のページでは、つぎのように紹介されている。
----抜粋----
横浜市立大学で進んでいる「廃校も辞さぬ大学改革」への疑義を唱える
シンポジウムが2月8日に開催されます[3]。
「教員は商品だ.
商品が運営に口だして,
商品の一部を運営のために時間を割くことは
果たして教員のため,大学のためになるのか.」[3-1]
という発言は「国立大学法人」が実現したならば、
その役員会や経営協議会でも日常的に聞かれる言葉となるのでしょう。 (編集人)
----------
悪名高い先例として、わが大学の「部外秘資料2」の発言が引用されている。本学の名誉と将来を考える人々は、「横浜市に大学を持つ資格なし」とさえいわれることを裏づけるようなこの不名誉な事実をきちんと見据える必要があろう。将来構想委員会の中間報告が示すように、大学の学長の諮問機関が審議した答申において、法人の長を学長とは別の人格に設定し、法人の長を学長の上に置いているのであって、まさに、大学の長たるものが経営の下に従属することが図解(概念図:上記中間報告3ページと4ページのあいだに挿入されたもの)されているのである。国立大学法人法や公立大学法人法の法律が通過する前から、先取り的に[38]大学全体の長としての学長の地位を低める答申を出すというのは、このHPのOB教員読者から寄せられた意見のように「情けない」。辣腕事務当局者の猛烈な発言に大学人が「思考停止」状態に陥り、脅えたものと評されても仕方ないであろう。現在は、学長は大学人の選挙で選ばれ、市長によって任命されることになっている。市民から直接選挙で得らばれた歴代の市長は、大学の自治、大学の諸規定、大学の選挙を尊重し、学長を任命してきた。「概念図」が示すような法人化が行われ、市民の選挙の洗礼を受けないような「法人の長[39]」が任命されそれに振り回されることになれば(現在では事務局長や総務部長などが市長任命であるが、概念図からすれば事務局長が法人の長になることになろう)、大学の自治を尊重しない辣腕の法人の長がやってくれば、大学はただちに崩壊してしまうであろう。現在は、大学学則で事務局長は少なくとも学長の指揮統率下にある[40](昨年秋の評議会無視の行動のように実態は問題だが)。それが決定的に変化してしまうということであろう。
なお、総合理学・佐藤真彦教授のHPには、2月1日の「国立大学独立法人化阻止集会の宣言」が掲載されている。研究教育体制が大学らしいものになるのかどうか、公立大学も国立大学を他人事だと安心しておられない。
--------
2003年2月4日 昨日教員組合の総会があった。出席できなかったが、上掲の「神奈川新聞への抗議・要望」書を決議したとのことである。大学の研究教育の現場を担う教員の団体として、目配りの行き届いた論点を穏やかに説得的に指摘し、橋爪私案やその一方的でセンセーショナルな垂れ流し報道を批判している。さすがである。市民、学生諸君がこの教員組合の抗議要望文書を熟読し、問題点をしっかりつかんでいただければと希望する。市民が設立して75年(戦後だけでも50年以上)にわたって、苦しい財政事情の時代をも通じて、維持し発展させてきた市民の大学をきちんとした公立研究教育機関としての財務分析を欠如したままの短期的な視点や経営主義的営利的視点で誹謗中傷し[41]、だめにしてしまっていいのかどうか。市民・学生は何を大学に求めるのか、これこそは市民と学生に対して問いかけられていることである。
昨日の総会では、大学事務局から提示された機構改革案も紹介されたようである。
機構「改革」案は、教員組合に対する「提示」であり、意見を踏まえて変更するというものではないということである。つまり、機構「改革」の責任は、事務局責任者が負う、教員組合には結論だけを示し、意見聴取はおこなわない、問答無用ということである。だからといって、現場に責任を持つものが、「改革」の検証・批判をおこなわないでいいと言うことにはならない。
機構「改革」案の細部、たとえば、医学部のところを見ても何が何だか、「改革」になっているのかどうか、私にはまったく判断が付かない。事務局責任者が関係事務機構の人々としっかり議論した上で「改革」案として出したのかどうか、一昨年4月以来の教学の歴史を踏まえない強引なやり方の数々、学部事務室廃止などに関連する身近な諸問題を直接知るものにとっては、相当強引な一方的なものではないかと危惧される。
「改革」案は、経営主義的観点が支配するものではないか。そこでは病院経営の観点が優先されているのではないか。治療の安全をきちんと考えたものかどうか、疑念も残る。なぜなら、戦略会議「部外費資料2」(それに対する佐藤真彦教授の批判)が明確に示しているように、直接そのように経営主義を打ち出している大学事務局責任者が中心になって今回の「改革」を推進しているからである。
われわれにとっての問題は、研究教育という大学の使命・目的の遂行と実現にとって土台となる研究教育条件としての事務機構が本当に「改革」されたのか、ということである。それこそが問題であり、その点から、今回の「改革」が、改革になっているかどうか、実際には大幅な改悪ではないか、を検証しなければならない。そこでの「思考停止」、「感覚麻痺」は大学人として許されない。
真の合理的な改革は行われているのか、その具体的な実態をこそ研究と教育の現場に責任を持つ教授会、教員組合、職員組合はそれぞれの職務・機能の固有性に応じて情報収集し、意見書を纏め上げ公開し、市民や学生と意見交換し、本当の改革を実現する必要があろう。教員組合や職員組合は、個々の教員や職員から出される個別的な不満や抗議であっても、きちんと見据えて、そのなかに本質的な問題(大学の使命実現を阻止・妨害し、研究教育の重要な諸条件を悪化させる問題)がないかどうか、検討していくことが必要であろう。議論は、こそこそとした非公開のものに留めるのではなく、公然とやるべきだろう。教員組合はHPなどを充実させ、議論を展開するようにしていく必要があろう。
-------
2003年2月3日 総合理学研究科・佐藤真彦教授とのリンクが回復した[42]。佐藤先生が新たに掲示・紹介された新聞記事(都立大学事務の大学改革担当の発想:首都圏ネットより)は一昨年来の本学の「改革」の議論が先例として学んだところだろう。改革請負人に対し、「骨は拾ってやる」と送り出した、せっかちな石原知事の課した宿題の期限は(2000年)9月末に迫っている、とのことだが、はたしてどのような構想を提案できたのか? 例の都立短大などの統合策がその提案か?
来年度からの教員事務量増加を先取りすることが、今日あった。今まで大学生協で研究費を使う場合、購入時に署名し、その使用総額だけに注意していればよかった。ところがこの大学生協購入に関しても、またまた新たな書類をこまごまと書き、何箇所にも印鑑を押す作業が必要となった。なぜ余分な作業を介在させるのか? 合理化どころか、教員の事務作業を増やすばかりの「改革」ではないか。「事務職員がやっていたことを教員にやらせる」という仕事量転換である。担当職員に命令しているのは、事務局責任者である。担当職員の話では、「国際文化ではすでにやっており、商学部では自分が肩代わりしていたのだ」とのことである。理学部は? 医学部は?
担当職員の話を踏まえると、やり方は教員分断・各個撃破で、すくなくともまず国際文化で教員への事務転嫁を実現していたのだ。「国際文化はやっているのだから商学部も」と。
このような論理を言われると首をかしげ、カチンとくる。国際文化学部と商学部は教員数は同じだが、学生数は倍である(学部別収支統計表参照)。学部間でこのような作業量・負担の違う点はどのようにカウントされるのだろうか? 合理的な説明と対策が必要だろう。各学部の教員が仕事をこなす能力がほぼ同じだとすると、こなすべき作業量と作業時間は、研究時間・教育時間・教育準備時間などの総体の割り振りにかかわってくる。1週間四〇時間をノーマルな勤務時間だとすると、その割り振りが変わってくる。学生数などはこれまでと変化なく、事務負担が増えるだけ、商学部教員は研究教育条件が不利になると言えないだろうか? 国際文化でまず実現できたのは、その仕事量総体と関係ないのであろうか。仕事量を増やすときだけ「他の学部ではすでにやっています」というのは、いかがなものだろうか?すべてが細かな作業の積み重ねであり、一つ一つを小さいことといってしまえば、すんでしまうことかもしれないが、疑問が残る。感じられるのが負担増だけだと気は腐る。大きな目に見える合理化(大幅な事務作業量の削減)が実現され、それが実感されれば、このようないらいらは発生しないのであろう。「小さなこと」と笑ってすませるのであろう。また、助手その他の研究上の補助をたくさん持っている場合には、そのようなことは意識にも上らないであろう。
新しい研究留学生制度は、すばらしいと思われるが(その新設は遅きに失したと思われるが)、その留学を認める条項には、「学部内の業務に差し支えなければ」ということが明記されている。 人数は全学で2名と。とすれば、またまた商学部は、他の学部に比べて仕事総量が多く、内外地留学を申請しにくい雰囲気がかもし出されはしないか。この間、実際に統計を取ってみればわかるが、内地留学などの数は商学部が一番少ないのではないか? 色々と問題点を発見し、問題提起をするのは商学部、条件が相対的によくてじっと黙っていれば、新しい制度のメリットはこれまで相対的に有利だった学部が享受できる、ということにならなければいいのだが。在外研究などの配分問題でも、同じようなことが起きている。条件の悪いところがますます悪くなる悪循環の構造。いやはや! 悪いと思えば逃げ出せばいい。これが客観条件を分析すれば聞こえて来る内なる言葉である。マイノリティ抑圧・排除の構造は、ここにもあったのだ。
新しい会計制度導入にあたってはどのように説明していたか? 年度末ドサクサの時の説明では、「まったく変わりありません」と、教員にとって便利になると言うことだけが事務当局責任者の説明だったのだ。かくしてまた、末端どうしをぶつかり合わせ、消耗させ、教員の研究教育への専心や前向きの姿勢に水を差すのが今回の「改革」のようだ。教員が研究教育に没頭できるように努力する精神というのは、この間、の事務局責任者の政策(末端の人はその命令にしたがっているだけだ)からは感じられない。少なくとも私は、非常に気分を害した。事務作業転(仕事量の増加)は、きちんと教授会で前もって言うべきではないか?
学内のこまごました問題にいかっているうちに、日本全体では、国立大学法人法に関する問題(2月1日の集会宣言参照)が、緊急性を増し大きくなっているようである。身近な問題と全国の問題は、連動している。
[1] 大学の存廃に関わるような問題状況になると、現在の市長部局の一つとしての大学の@づけがいろいろと問題を引き起こすということだろう。大学の独立性・自立性と市長部局の一つとしての組織上の位置づけとの相互関係である。「あり方懇談会」答申案にみあれるような教学・研究教育と経営との分離は、その相互関係の規定次第では、大学の自由で創造的な発展という点からは、現在以上に問題を引き起こすだろう。大学はまさに教学と経営との有機的な統合こそが求められるからであり、教学優位の元での経営システムこそ求められる。現在のシステムこそは、すでに、研究・教学と経営が分離している(しかも、実質上の経営優位、文部省優位、市大の場合は市長部局事務組織優位)が確立しているからである。
[2] 大学戦略会議の議事録問題も、つまるところは、大学全体の戦略を練る頂点に立つべき学長が、事務局の責任者(氏かもそのさい高責任者ではない人物)に振りまわされていることにあるのだろう。問題は、現状ですら、設置権限を一事務局責任者が振りまわし、学長・大学を操作できる(実際にはそう簡単ではないので結局研究教育体制にゆがみをもたらすということになるのだが)ということであろう。
[3] 倉持先生によれば、「配布された答申案」は、「前回の座長私案をもとに他の委員からの意見を聴取し、事務局がまとめたもののよう」だということである。というか、むしろ、ある程度事務局が練り上げてきた構想に基づき、それを大々的に打ち上げてくれる人物を担ぎ、「あり方懇談会」がなくても出るような結論を出した、ともいえる。今回の答申案の幾つかの特徴が、かつてから事務局の一部が主張していたことをそのまま盛り込んでいるからである。
[4] 教養があるとは思えない言動と圧力で無理強いされた「国際教養大学」とは、はたしていかなるものであろうか? 魂の抜けた言葉だけを持ってくることは簡単であって、「国際教養」の中身こそが、決定的に問題となろう。全大学人がどのように教養をとらえるのか、これが問題だろう。決定的に問いなおされるのは、現在の大学人の「教養」ということになろう。大学(大学人)の自立性と自律性、大学の自治の中身とその担い手の素養など、厳しい問いかけが投げかけられていると感じる。理念の欠如したままで財政危機による事務機構「改革」がまず強行的に推し進められ、それに合わせただけの(外的に強制された)魂の抜けた答申ではないのか、これがこれからの議論で問いなおされることになろう。もしも、本当に21世紀型市民の大学を創出しようとするのであれば。
[5] 本学の研究や教育に関する修飾語としての「標準」とか「平均以上」といった言葉の頻出に見られるのは、特別に個々人の研究や教育の現状を検討しなくてもだれでも言える程度の大雑把な言葉である。そのような表現でばっさり切られても、なにか「精彩」のある研究教育が出てくるとは感じられない。
[6] 魂の抜けた財政主導のプランでは、活性化した大学とはならないであろう。
評議会における予算見積もり審議権を一度も行使してこなかった(それを疑問にも感じずよしとしてきた)大学の体制が、今後も続くことになろう。
[7] つまり、大学の自主的自立的検討以前の御託宣。このような姿勢や答申のあり方が、「民力を生かす」方法の対極にあることはいえるのではないか?
[8] 「理論屋にも一流と二流がいて、やっかいなことに、二流が一流の五〇倍いる。見分けは簡単で、自分は何でもわかっていると思いこんでいるのが、二流の理論屋。つまり、自分の理論の適用限界を意識していない。
一流の理論屋は、自分の理論の適用限界を知って、それ以外のことを自分は知らないと認める。困ったことに研究計画の審査委員会には、二流の理論屋がはいる可能性が多い。すると、『これは』という目を見張るような研究は、はねられる。数でまとめてきたら、勝てない」と。何重もの意味で、恐るべし、恐るべし!!
小柴昌俊先生ノーベル賞記念受賞記念『ニュートリノ』東京大学総合研究博物館、田賀井篤平編、東京大学出版会、2003年1月17日、95ページ。「ニュートリノ」展のパンフレット、解説書。同展覧会の案内ポスターは仮事務室棟の前にもある。
[9] 今回の第六回「あり方懇談会」答申案では、本学は「さまざまな数字や証拠から見るかぎり、わが国のトップレベルの大学ではない。平均的な大学よりも多くの点で上回っている」とのご託宣である。評価するものが評価される。大上段の一括的な平均的なこのような評価の仕方自身が問題を孕む。
それはともあれ、仮にそうだとすると、わが学内の研究費審査システムはどうなるだろうか? しっかりした研究を発見し評価できているだろうか? それとも別の動機が支配しているだろうか? どのような人がどのような仕事でどの程度の学内研究資金を獲得し、どのような業績をあげたか、検証が必要だろう。厳しいことではある。評価はしなくても、すくなくとも、毎年の研究費取得者のリスト公表(大学公式HPでの)は必要ではなかろうか。
小柴さんは、国の研究資金は国民の税金によるものであることを肝に命じるように繰り返しているが、まさに国民や市民の付託に応える義務観念・責任倫理は、われわれの研究姿勢を貫くものでなくてはならないのだろう。これまた厳しいことだ。
[10] これは新聞報道などでもよく引用されている。総合博物館で上映しているビデオでも発言している。
[11] まさに今回のあり方懇談会答申案は、きちんとしたないよう分析抜きに、累積負債は「1140億円(内訳大学が約320億円、付属病院が約204億円、センター病院が約617億円)と、膨大な額にのぼる」としている。このような総額の指摘など、特別の懇談会で指摘されるまでもなく明確なことだ。
問題はその発生原因を的確に分析し、横浜市民にその負担を耐えるに値するかどうかを提示すべきなのだ。その要因分析は決定的に不足しているといわなけれればならない。大学の累積負債約320億円の分析がないが、もちろん、そこでも医学部、理学部、理系付属研究所などがそのほとんどを占めることは言うまでもない。医学系理科系が、その設備機械実験用具で科学の最先端を維持するために巨額を必要とするのは、普通の学生でも分かっていること、理解できることである。苦しくなったから、学部別学費体系を提案しているが、これは公立や国立の大学の取るべき道ではないだろう。私立大学に対しても、医学系や理工系を持つ大学には国費による私学助成を行っている。医学系・理工学系がその研究装置に多額を要することは自明のことだ。問題は、せいぜい本当にそれら巨額の装置設備が効率的で有効に使われているかどうかの検証だろう。
[12] 現在の社会情勢、横浜市の財政事情から、「負担増はしかたないではないか」と言う意見もある。その場合、人間の使用可能時間・仕事可能時間に限界があること、労働日が1日8時間、1週間40時間とすれば、事務処理の仕事に教員の仕事可能時間がこれまでより多く割かれるということを意味する。個人の能力には差があろうが、平均的にはそのように見るべきであろう。つまり、事務処理増加に伴い、大学教員の研究教育の本来的時間はそれだけ削減されると言うことである。この側面からも、大学の研究教育の、学生への還元の質量の悪化が帰結するということである。悪循環の構造になっている。
教員の研究教育の内容の開示、その評価が問題となる場合、このような要因もカウントしなければならないだろう。
[13] この新システムの上で、この新システムを推進し、擁護し、異議を唱えなかった人が副学長の地位について、新システムを運営していくのであろう。さて、どのような人、どのような理念、どのような実務能力を持った人を学長は選ぶか? 近いうちにその結果が出るであろう。
[14] 学部長の説明では、2月定例教授会の前日。
[15] 商学部は二つの研究科ももっており、経済学科会の議論では、大学院入試教務委員長も評議員とすべきではないかと言う意見が出された。評議員は2名が学部、2名が大学院選出なので、その点も配慮してのことである。これも、制度化するのかどうかは別として、一つのコンセンサスとして、責任・負担と役職の相互関係として、熟考に値することであろう。「現在、経済学研究科の院生が少ないから、そのような配慮は必要ない」という側面が指摘される一方、もし現状を打開しようとするなら、そのために各種調査や活動をするためにこそ、多大の時間・負担が必要となるということもいえるであろう。
[16] この点に関し、昨日の学科会での新情報では、商学部が補充人事をしないで言いと言う決定をしていると、関内には説明されていると言う。学科会決定→教授会決定の結果をいつどのように起案したのか? すでにこれまでも指摘してきたことだが、今後、起案日時、どこでストップしているのか、だれの責任か、が問題となろう。ここでも文書証拠が決定的に重要になろう。消えさってしまう発言部分で、関係者がどのように述べているかは、責任追及調査委員会(これまた消耗な委員会で、教員の研究教育時間を奪い去るだろう)でも設置して、日程表に則してつめない限り、不明のままだろう。
[17] 副学長制度は新設されたが、一人の副学長は教養部長・学生部長職を兼務するのであり、かつて二人の職務がむしろ一人に集中された。激務となるはずである。またもう一人は研究担当副学長で、それはそれで大変な仕事のはずである。独自の改革問題担当の教員スタッフ増員は存在しないのである。事務サイドの特別な配慮増員と比べてのこの違い。ここに今回の事務機構改革の本質がよく現れている。
[18] なぜ事務局がそうなのかは、多くの教員が指摘するように、現行のシステムによる。すなわち、普通の職員にとって、大学という職場の負担がほかの職場より重ければ、区役所その他へ配転願いを出せばいいのであり、当然の権利として数年で移ることができる。大学における特別の負担増など深刻にとらえる必要はないということである。その典型が事務局責任者である。彼ら自体、2年か3年で転々とすることがシステム化され、「出世」コースの歩み方であるという。「わが亡き後に洪水は来れ」(?)。噂では大学からの一般職員の転出希望が今年は異常に多いとか。これも客観的データであり、転出希望者数変化の長期的な統計がきちんと公開されれば、現在の大学が大変になっていることが証拠づけられるのではないか。
今回大学から削減される17名(?)(1割)もの人員(市のほかの部局に比べての削減割合はどうか?「辣腕」事務局責任者はこの点では「業績」を上げたということか?市の全部局において、仕事総量と人員総量・労働時間の相互関係はどうなっているか?)は、図書館などの職場だとも言われる。図書費の大幅削減は常態化しており論外としても、機械化などにより、サービス低下がないことがきちんと保障されているのかどうか、実質的な合理的な業務改善があるのかどうか、これが問題となろう。経済・財政状態が悪くなったときにこそ、可能な職場・職種では機械化と本物の合理化(単なる人員削減による負担増・過労の慢性化ではなく)を真剣にやらなければならないだろう。
[19] もちろん個々の論点に関しては、必ずしも同意できるわけではないが。「高秀市政はハコモノづくりに熱心だったが、大学を甘やかしたともいえる。とにかく大学に対して好意をもっていた」との指摘は、医学部病院などに関して言っていることか?「甘やかした」とはどういうことか?正確なデータが欲しいところである。
[20] 各論点に関する積極的な賛否両論のご意見があれば、うかがいたい。それこそ公然と議論すべきこだから。佐藤真彦教授が公開された「言論抑圧」事件経過の個々の論点(抑圧、隠蔽を「組織の規範」だとか、「事務局から情報がもらえない」とか言う理由で正当化する議論、その他、削除要求を正当化する論理と諸論点のいくつか)については、まだ批判していない。
根本的な考え方が情報公開の民主主義的原則・大学の自治の原則や基本姿勢からずれている場合、いずれ同様の発言が繰り返されるであろうから、そのさいに、適切に批判することにしたい。一度にすべてを批判することはできない。学長・学部長への意見表明で述べた点は基本的な論点はクリアしていると現在は考えている。
[22] 緊急シンポジウム「市大の将来を考える」(2月8日の集会):北海道大学・辻下教授HP掲載のシンポ案内
[23] 私は残念ながら、政治経済学・経済史学会『歴史と経済』誌の編集のため、およびその後の文部科学省科研費研究会のため、欠席せざるを得なかった。
[24] 勇気あると同時に、批判的思考力が活発に働いていることを示す。すなわち、佐藤真彦先生の言葉をそのまま使えば、頭脳の状態が、「思考停止」状態の対極にある。普通は、「部外秘」などと印刷してあると、なにも疑問を感じないで(無批判的に)信じこんでしまう。その言葉で、自分の精神を縛ってしまう。
[25] 直接の当事者、総合理学研究科長や学長、部局長会議のメンバーは、下記の点に関して、それぞれの見解につき、個別の職務・職責に応じ、学内外に対する説明責任がある。アカウンタビリティは、佐藤教授を批判する側に求められている。
[26] 以上、7項目の諸論点に関しては、事実確認であり、調査委員会を開くまでもなく直ちに公開できるはずのものである。そうではないか? そうできないとすればなぜか?
[27] 学部教授会でも、不適切な場と問題でそれを持ち出す発言者がいる。議論を抑えこむ手法・手段となる場合がある。
[28] 2月6日の商学部定例教授会には、「部外秘資料2」が配布された。部外秘にした理由の説明は特につけられなかった。「部外秘」と「学内資料」とのずれに関係も、説明はなかった。
[29] その一つの理由は、教授会議事録のほうにある。公開原則が確立しているので、市民や学内の人々は、入手可能であるから見てみるといいだろう。私がこの間に指摘してきた教授会の議論(とりわけ批判的対立的な論点)が、教授会議事録に明記されているかどうか。
これは評議会の議事録でも同じである。なにも波風立たなかったとしか思えないような議事録となっている。だからこそ公開している、とさえいえる。本格的な議事録ではないということである。
[30] プライベートな、個人的な会議ではない。内容な公人の公的な問題に関する公的な議論である。
[31] 私はすでに何日か前の日誌でその勇気と確固たる信念に深甚の敬意を表明した。
[32] 研究室HPにおける公的問題に関する意見表明・公開について、苦々しく思い、できれば封殺したい気持ちの人がいる、ということは複数の情報から耳にしている。今回の「部外秘」資料公開問題で、その人々は「尻尾をつかんだと思っているので.ご注意を」と親切に助言してくれる人がいる。「守秘義務」違反で、責任追求できる絶好のチャンスと見ていると。
その親しい人との親切さ、助言に感激している。と同時に、なお、このHPでの意見公開は大学改革のために必要な事と信じ、可能な限り継続したい。
今回の「言論抑圧事件」は、私の考えでは、むしろ、学長設置の委員会がきちんと調査を公開で進めれば、HP封殺を狙った人々の墓穴を掘ることになるのではないか、とも見ている。
[33] だが、将来は佐藤真彦教授の見解が、大学の正式の見解になりうる。大学の意思形成に対する主体的能動的寄与が、佐藤真彦教授のHPでの意見公開である。
[34] 私の「大学問題日誌」開設は、昨年5月であり、大学予算問題に関する若手教員の問題提起と悲鳴の声を聞いてからである。多くの人が、研究と教育に忙しく、その気持ちはあってもHP立ち上げまでには至らないということであろう。
[35] 匿名性の背後に隠れて、浅薄ないいたい放題のことをいっている人物がいる、というのがこれまでこのHPで指摘してきたところであり、私の見方である。
[36] 卒業生のメールを通じた最近の意見表明(「民の力が存分に発揮される社会」という中田市長の理念に反する「あり方懇」批判)は、矢吹先生HPに紹介されている。
[37] われわれ研究教育を担う大学教員とそのバックアップをする事務機構がとりわけ重要な責任を負うことはいうまでもない。しかし、大学内の閉鎖空間で、市民、卒業生、学生、高校生、受験生と言った多様な人々の声をこそ、今回は聞きたい、参考にしたい、ということである。そういう趣旨のシンポジウムである。
[38] 将来構想委員会中間報告の決定的問題は、国立大学法人法・案(それに連動して公立大学法人法・案)が通過することを前提に物事を組み立てていることである。
民主主義国家、議会制国家においては、国会・議会が最高の権力機関であり、行政府が提出する議案は、必ずしも国会で決定されるとは限らない。つまり、現在噂される国立大学法人法の内容を先取りするのは、国会の決定、国民の最高意思決定の権限をおびやかすことである。行政府の立場を無批判的に受け入れることである。今だ法律に基づかない行政府の政策を推進することになる。
国民の意思最高決定機関(すなわち国会)の審議に対して、どのようなスタンスと方向性で議論を進めるのか、これが問われるのである。法が制定される以前こそ、全国民的に自由な議論を展開することが肝要なのである。それこそが民主主義である。結果の 民主主義ではなく、創造の民主主義である。
大学改革は進めなければならない。
しかし、本学では、商学部の矢吹先生、総合理学研究科の佐藤真彦先生や私のように、はたして現在予定されているような「国立大学法人法(案)」(公立大学法人法(案))が、日本の21世紀の大学の制度設計としてすばらしいものか、将来性のあるものか、世界の最先端を行く大学システムを構築するものであるか、これを問題にしている。
「思考停止」状態ではないかというのは、その意味では「国立大学法人法(案)」(公立大学法人法(案)に無批判的な態度である。経済危機に掉さして大学の「民営化」などを一面的に主張する潮流、世界を跋扈する「新自由主義」に落とし穴はないのか。これこそが歴史的理論的に問われなければならないのである。市民と国民に歴史と現実に関する情報をきちんと提示するのが大学人の責務だろう。大学(大学人)こそは、長年の研究蓄積をもとに、「新自由主義」の問題性も、広く市民国民に指摘しておくことが求められているのではないか?
経済危機・財政危機の克服と真の大学(科学技術・研究教育)の発展、真の日本(経済・文化)の活性化とを統合する方策はなにか、これこそが求められている。そのためには、まさに活発な議論が必要である。受験勉強的模範解答はない。明解な模範回答がないからこそ、議論が必要である。
問題は提起されている。10年以上の「長期停滞」の背後に何があるのか。経済の主体、日本の主体、主人公としての人間(勤労する人々、大学においては教職員の全体と学生諸君)の活性化こそ、この活発な議論を通して達成しなければならない。
[39] ある方か、「法人の長」(その選出:任命のされ方)と学長との関係もさることながら、学長自身がどのように選出されるかも重要である。国立大学法人法の問題は、まさに従来のような大学教員の選挙による学長選出を問題にしており、その意味では、問題はもう少し別の視点からも見ていく必要があるとの指摘をいただいた。貴重な論点であり、大学の研究教育機関としての真の発展にとって、どのような制度設計がいいか、大学人は問駆けられている。
[41] 大学の現状がすべていいというのではない。すでに述べたように、学長の諮問機関・戦略会議「部外秘資料2」が示すように、戦略会議で匿名形式で指摘された諸論点のなかには、大学人がきちんと反省し、克服すべき問題点がいくつもあることは事実である。だが、なぜ匿名なのか。なぜこそこそ秘密に議論しなければならないのか。根本問題はここにある。目線が内にしか向いていないのである。そのような人々が学長諮問会議の要職を務めているということ、ここに問題がある。戦略会議メンバーには若手の助教授たち(したがって、大学を改革しようという意気込みはあるが、考えていることをそのままいえばさまざまの不利益措置が予想される人々、任期制導入などをちらつかせられ、助教授という地位からして教授昇進を危惧しなければならない立場)もいるが、どこまで自由なことをいえたのか? 若手の「任期制」や「昇進」は、生殺与奪の権限を「上のもの」に与える(少なくとも可能性として)という意味で、よほど慎重にしなければならないはずのものである。
「部外秘」は若手の弱い立場を守るという側面もあったか?
それなら、若手発言だけは責任者が取り纏めで行えばいい。それとも、長年大学と歴史をともにしてきた人々の保身・自己正当化のためか? それなら、21世紀の大学の将来を語るにふさわしくない人々が「戦略」を議論したことになる。「部外秘」という措置自体が、このような疑念を次々と引き起こすのである。「部外秘」にして、隠しおおせるという発想自体、戦略会議関係者・責任者の根本姿勢に問題があるといえよう。
問題点の発生根拠まで含めて(すなわち「大学の自治」・「教授会の自治」の形骸化の歴史、予算問題を真正面から考えない教学の姿勢、評議会審議事項の規定を無視してそうした態度を再生産してきた歴代の大学事務局責任者、これを可能にした市当局の大学の位置づけ、市長・市議会・議員・その背後にある市民の大学に対する姿勢など)、きちんと分析していかなければならない。的確な問題の所在の発見こそ、解決の、大学発展の前提条件だろう。もちろん、これは、大学人全体に課せられた課題であり、問題提起であって、その重荷は本学に籍を置いている以上、そのすべての人に圧し掛かるものである。
もちろん、教授と助教授や講師、助手とでは、研究教育における蓄積や責任などが違うのであり、その人その人に即して責任の所在・軽重があるだろう。現在のように社会的評価・視線が直接諸個人に対して注がれるようになれば、若手の人々の研究教育への専念(その時間的予算的保証)は以前以上に重大問題となろう。その分、教授以上の人々の大学改革における責務は大きくなろう。
[42] リンク混乱騒動の一因は、定期点検(これは確かにかなり前から掲示等で注意が促されていた)と個人ファイルのアドレス転換・ソフト問題とが不幸にもかさなり結びついたものであったことがわかった。
だが、この定期点検を年度末試験(直前)・入試直前(大学センター試験終了後・志願最終決断の段階)時点でやることに関しては、つぎのような意見交換が行われている。すなわち、
「なお、市大のサーバーがこの二日間ダウンしているようですが、メンテナンスにしては妙な時期にやるものですね。学生のレポート作成や提出、さらには受験生にも影響があるのではないかと思うのですが・・・」
これに対し、
「・・・・まったくその通り。事務の都合しか考えていないのです。大学にとって、繁忙期はいつか。まるで無視している。事務局独裁の一つの形です。つまり、学生や受験生、教員、これらの都合をまるで無視しています。」
「落下傘部隊」でやってくる事務局首脳の顔色だけ見なければならない「経営」のあり方では、このようになるであろう。
いずれにしろ、このような学生・受験生・教員の声(じつは声なき無数の声を背景に持っている)を敏感に察知し改革の契機として行くか、それとも、長年の官僚主義への従順から「思考停止状態」(佐藤真彦先生の鋭い表現)に陥ってしまい、事勿れ主義や傲慢な態度で無視し居直るか、このあたりに公立大学改革の課題があるように思われる。