1月31日 あるところからの情報では、「2チャンネル」の「横浜市大」のところで、本学のトッフル問題が盛んに議論されているそうである。

 

私自身は、公的な問題は公的に責任を持った場ですべきだということから、本日誌のような責任を取りうるような場で、責任ある人々の発言・意見を受け付け、対話する形式で行いたいと考えてきたので、一切、「2チャンネル」なるものを見たことはない[1][1]

 

ただ、私の耳にも、上記のような情報が入ってくるということは、おそらく、いよいよ瀬戸際に来て、学生諸君の不安・怒りが渦巻いているのだろうとは思う。

 

外部試験の一科目だけの成績(しかもその基準の合理性・妥当性には専門の英語教員集団からも制度設計の当初から、また進行途中でも、意見書が出されているもの)で、「進級させない、一年間留年させる」、などというのは、おそらく世界中でただひとつ、まさに「オンリーワン」の制度(大学)であろう。

さて、それが合理的なものかどうか、合法的かどうか、学生諸君や社会を納得させるものかどうか?

 

われわれも、その後、どのような対策が練られたのか、秘密のままなのでわからない。かつてならば、毎月一回は、正式の審議権を与えられた教授会が開催され、そこで議論することができたが、今は、コース会議という場で(学則上の審議権は与えられていない場)で、議論するだけである。

 

 さて、2月コース会議ではどのようなことが代議員の人から伝えられるか?

 何らかの展開はあるか?

 

 市大新聞に発表されるはずの学生諸君のアンケートはどうなったのか? 2日間で100名をこえたという話だったが。

 

「学長の承諾を得て」ということだったので、その後、当局からの何らかの介入で、自由な公表が抑えられているのか?

 

 

 

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1月26日 教員組合の独立行政法人化対策委員・給与関係ワーキング・グループ(WG)の一員として、組合の議論に参加した。

 

当局側の提案が12月27日、追加説明が、1月11日と18日、ということで、当局側の全体構想・さまざまの制度設計の意図・方針と個々の部分との関連、整合性が不明確で、問題点のみ浮かび上がってきたように感じられた。

 

われわれにとって、確実なことは、現給保障、および職務(教授、準教授、助教、助手)のランク設定とランク相互間の明確な給与条件の分離・格差(重なりの除去)であり、それに伴う若手層の一定の基本給における給与改善といったところであろう。

各職務段階の業績給のあり方(運用の仕方)など、そのほかの給与体系に関しては、あまりにも不確定・不明確なことが多く、検討時間もあまりにも少ないことはいうまでもない。

 

このまま当局が押し切ろうとすれば(回答期限を1月31日に設定してきたのだが)、まさに不当労働行為・不誠実交渉ということになろう。そんなことはありえないと思うが。

 

新しい給与体系に関しては、本来、もっと早く提案すべきであったものであり、この遅れ(提案が12月末にずれ込んだこと、さらに補足説明が1月になってからだったこと)の責任は、当局側にあることは明確だからである。

 

3月までに労使で合意し、協定に達しうる論点は、きわめて少ないであろう。

 

これから、大変なことになりそうである。

 

 

 

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1月24日(2) 今日は、昼休みから2時間あまり、教員組合給与関係ワーキング・グループ(WG)の検討会があった。素人ながら、議論に参加していると、いろいろ驚くことがある。

基本給体系と職務・業績給の体系の組み合わせという、それ自体としては原理的原則的に同意しうる提案であるが、問題は、その具体的な適用である。

 

先日、法人サイドから提示された追加説明による例示を検討したが、そもそもの数値的根拠など、出発点において首をかしげる問題点がいくつかあった。

 

藤原正彦の言うように、「出発点」を間違えれば、その後、計算上・形式上・論理上、正しくても、結論・結果はとんでもないことになる。彼は、ベトナム戦争やナチスのユダヤ人虐殺の例を挙げながら説明している。今なら、ブッシュのイラク戦争に当てはまるだろう。開戦・攻撃開始の大義・論理はなんだったか、それは正しかったか?真の論理だったか?ホロコーストに関しては、私も研究しているので、興味がある人は参照されたい[2][2][1]

 

藤原流に言えば、制度設計・議論の出発点の設定において、「情緒力」(適正な判断力・総合的で感性豊かな社会的価値の直観・算定、まさに本物の教養力)が必要となる。

総合的教養力は、関係する教員全体の直観・危険感覚と美的感覚・有利不利の感覚と主体的計算を通じて、その総合を通じて、発揮されるものであろう。

 

しかし、日々の研究教育で追いまくられている個々の教員がどこまで、そのことに関心を持つか?

私自身も、WGに加わることによってはじめて知ることが多い。これまで具体的数値にはまったく疎かったので、ほかの3人の議論が飲み込めないことも多い。主要WGメンバーの後塵を拝しつつ、何とか落ち度のないように、落とし穴に落ちないように発言しているに過ぎない。

 

基本給は、自然年齢にほぼ見合う形(特に若い層の引き上げ)となっているが、問題は職務・業績給の体系である。

 

問題は、個々の教員が、職務業績給の階梯のどの位置に格付けされるか。そして今後それがどうなるか、である。そこには教員評価問題、適正な格付けのあり方が重要問題として出てくる。

 

各人の格付けが、同じ大学教員・同じ年齢層・同じ業績レヴェル(質と量)で、また、その仕事量(持ち駒数、学生数、院生数など)で対応させて、社会的に見て妥当かどうか、本学の個々の教員の研究教育力の社会的価値(社会的評価)として、妥当であるかどうか、である。

「市民が誇りうる大学」であるためには、それにふさわしい教員陣が必要である。そして、その教員陣の質量(研究力・教育力)をある程度反映する給与等の対価体系(=給与体系)が、必要となろう。研究教育をただできるだけ低廉に入手しよう、というのは、社会的に見れば、好ましくないであろう。

「安ければ、悪かろう」(同一労働=同一賃金の一般原則の別様の表現)

 

本学の教員の研究教育力の文科系(文学系、経済経営系、法学系など)の場合の社会的価値は、どのようなものであるか。

理学系の年齢層別ランクで、同一レベルの研究教育力がどのような社会的価値(給与条件)となるか。

医学系、看護系ではどうか。

それぞれの競争的全国的地域的な水準(提供する教育研究力とそれに対応する給与等の対価)との比較(適正化)が問題となろう。

Fair play in fight!(Nitobe, Bushido

 

 そうした社会的平均傾向との比較で、上昇傾向の平均線を出す必要があろう。そうした平均線を踏まえて、その上下に、各人の一定程度の職務・業績のばらつきとそれに対応する給料のばらつきとが存在することになろう。

 

  個々の教員は、自分の位置づけについて、適正かどうか、フェアかどうか、考えてみるためには、また、不利益措置をこうむらないためには、きちんと計算してみる必要があろう。

 

  独立行政法人化対策委員会のメンバーには、WG責任者が作成したエクセル・ファイルが送られている。

教員組合事務室に問い合わせて、エクセルファイルを入手し、自分で計算してみてはいかがか。

疑問点を教員組合・給与関係ワーキンググループに集めていただければ、と思う。

 

 

 

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1月24日(1) 非公式に耳に入った情報では、医学部教授会は、大学自治再建の見地(人事等に関する学部自治の再建の見地)から、学長、副学長、学部長(すなわち大学の主要管理職)の選出・任命に当たっては拒否権を行使する決議を行ったということである。

 正確な情報は、いずれ判明するであろう。

 

現在の学長、学部長、コース長、専攻長などが「上から」(経営サイド)、「外から」(市当局サイド)の任命であり、大学自治・学部自治を無視ないし極限まで切り縮めたものであり、それに対して、憲法、新教育法(大学の自立は新教育法も保障し認めるところである・・・憲法違反の法律でない限りは当然のことだが)、学校教育法に基づいて正当なことを決議したものである。

 

 極端にきり縮められ、薄紙一枚でかろうじて法律違反でない可能性のあるに過ぎない学則に唯々諾々としていていいのか、それとも、学則の問題性を実質的な自治再建の努力で克服していくのか、大学人に問われている[3][3][2]

 

 その意味で、医学部教授会が、自治再建の意思を明確に示したことは、特筆に価する[4][4][3]

 それに引き換え、国際総合科学部は?

 

 

 

 

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1月23日 よこすか基地問題に関する訴え(神奈川大学人の会)を掲載しておこう。
           憲法と教育、軍事力強化・世界的(対米従属軍事「貢献」、考えるべき連関事項は多い。
           イラクの内乱状態の中で、大学の研究者が狙われることも多発している。
           平和と大学の自治・学問の自由は相関しているとみるべきであろう。  

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住民投票を実現するために
<原子力空母の横須賀配備を問う>
広く県民の皆さんに訴えます
横須賀市議会にはがきを送ろう
***

 横須賀では、横須賀を米原子力空母の母港にしようとする動きが進められており、日本政府は、地元自治体にその受け入れを迫っています。
 これに対し、横須賀市民が、原子力空母配備の是非を問う住民投票を求めて、4万筆近い署名を集めた請求を提出しました。これを受けて、市議会で住民投
票条例の制定をするかどうかが審議されます。
 しかし、状況は楽観を許しません。是非、市民の声を横須賀市議会に届け、住民投票を実現させましょう。
 住所が市内であるか、市外であるかを問わず、みなさんからも、葉書を出す運動に取り組まれ、また、あらゆる機会に人々にこの運動を伝え、参加するよう
訴えてください。急で申し訳ありませんが、25日までに市議会に届くようにお願いできればさいわいです。
  緊急のため、神奈川の会(仮称)・事務局の「訴え」をお借りしました。(同じ文を添付しています。)

2007年1月22日
米軍再編強化に反対する神奈川の大学人
共同代表 伊藤成彦・久保新一・下山房雄
事務局  山根徹也
メール  yamane@yokohama-cu.ac.jp
HP http://www.geocities.jp/kngw_dgkjn/index.html

***

今横須賀では、原子力空母の横須賀母港化の是非を問うために、住民投票条例の制定を求める運動が広がり、山場を迎えています。

 政府は求められるままに、米原子力空母の横須賀配備を容認し、地元自治体にも受け容れを迫ってきました。横須賀市長や神奈川県知事は、それまで安全へ
の危惧などから受け容れないと公約し、地元尊重の意思を示していたものの、昨年夏、あいついで配備容認に転じました。

  
これに対し地元横須賀市民は、原子力空母配備の是非を問う「横須賀市住民投票条例制定」を求めて直接請求の署名活動を行い、1ヶ月で実に37858筆の
有効署名を集め、必要数7114名を大きく超えました。


 直接請求署名は、市内在住有権者が、住所、氏名、生年月日を書き、押印するもので、この数字はきわめて大きいものといえます。蒲谷・横須賀市長は「原
子力空母の配備や防衛問題は国の専管事項だ。住民投票になじまない」として自らの容認姿勢を糊塗しています。
 原子力空母の安全や艦載機の爆音、そして戦争の危機と攻撃目標化される懸念など、横須賀市民にとって自らの生活に直接関わる問題です。
 この「自分たちの街づくり」や「住民自治」にかかわる重要課題について、市民の意見を反映して「重要な政策課題は住民投票で決定する」ことで、平和で
住みやすい豊かな横須賀市を実現しましょう。

 2月上旬とみられる臨時市議会では、何としても「住民投票条例」を制定させたいと、私たちは願っています。
 そこで、すでに各地で様々なご努力を重ねておられると思いますが、加えて、はがき等による横須賀市議会への働きかけを提案いたします。
 私どもの具体的な提案につきまして、ご協力をお願いいたします。(裏面をご覧ください)

2007年1月16日
米軍再編・基地機能強化に反対する神奈川の会(仮称)・事務局
***

[裏面]

はがきによる横須賀市議会へのはたらきかけについての具体的な提案

1、働きかけの対象

 これまでの経過からみて、2月上旬に開催される臨時市議会で、住民投票条例案に対する市長見解に同調する、あるいは同調を余儀なくされる横須賀市議会
議員および会派の一覧表をお示します。この方々が住民投票条例案に賛成することをめざします。(なお、2006年には、配備に反対する決議等が2度にわ
たって全会一致で採択されています。)

2、働きかけのポイント

  今回の住民投票条例制定の議会審議は、原子力空母の横須賀配備の賛否に関わらず横須賀市の将来に関わる重要課題を、「市民の直接投票」で決めようと
いうものです。この背景には、当初は配備に反対してきた自治体が、国の圧力に屈して市民の思いと乖離してきた経過があり、もう一度市民の声を確かめよ、
という意図があります。

 この重大な選択にあたって、

・議員の皆さんや会派に、初心に戻っていただくこと

・会派は党議で拘束することなく、議員が主体的に判断すること

などがカギになると思われます。



3、なぜ市外からか

  安全性に関わる問題点は、ひとり横須賀の問題に留まりません。原子力艦船の事故はひとたび起こると、東京湾及び首都圏の自治体住民全体の安全問題に
なります。

  私たちは、どこに居を構えていようが原子力空母を横須賀に配備に懸念をもち、国や県に対して反対の意思を表明してきました。座間の星野市長がふんば
り、岩国がそうであったように、横須賀の選択は全国に大きく響きます。



4、皆さんの思いを自筆でお書きください。

 あて先は、別紙議員名簿、および会派、議長、市長名簿から適宜お選びください。
1月25日までに届くようにご努力ください。

<例>(ご自身の文面をお作りください)
『横須賀への原子力空母配備計画は、国の専管事項だからといって容認したら、事故や犯罪、戦争の危機など市民生活の安全を確保する横須賀市の役割を放棄
するに等しい。まして、日米地位協定の一方的運用や「軍事機密事項」のもとに情報を隠蔽する軍隊の性格などを問題にし、市民の声を反映して横須賀市の将
来を見つめ市政を運営してください。住民自治とそれを生み出す「住民投票条例」を制定してください。』

以上、自筆によるはがき運動のため、相当に意識的に広げていただく
必要があると思われます。また、各方面に万遍なく届けられるための
工夫も、よろしくお願いいたします。





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1月22日(4) 今一度、次の緊急呼びかけを掲載しておきたい。
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《緊急情報》
陰謀的改憲手続き法案=国民投票法案を廃案にするために1.25国会内集会に参加しよう
             2007年1月21日 国立大学法人法反対首都圏ネットワーク事務局

   
25日に召集される通常国会において、「国民投票法案」という名の謀略的改憲手続き法案が強行成立する危険が急速に高まっています。それは、安倍首相が繰り返し成立させる意志を表明しているからだけでなく、与党と民主党の「共同修正案」づくりが急ピッチで進められ、その当事者が「5月3日までの成立を目指す」と成立日まで指定する段階に入っているからです。

この法律案は、改憲強行のために、現行憲法が保障する国民の民主主義的諸権利を圧殺した上で改手続きを行おうとする点で、まさに陰謀的とも言えるものです。陰謀の中心は2点あります。

第1は、国民、とりわけ公務員と教育者に対する運動規制・弾圧規定です。

第2は、衆参両院の各党・各会派の議席差を利用して改憲派に有利な不公正ルールを盛り込もうとしています。特に、「国民投票法案」と一体で提案されている国会法の「改正」案では、議席数によって委員数を配分する広報協議会の設置が含まれていることを見落としてなりません。

   こうした重大な事態を受けて、通常国会召集日の25日に「2007年5・3憲法集会実行委員会」が下記の集会を呼びかけています。
   
 教育基本法に続いて全ての基礎となる憲法が改悪されるならば、国立大学法人法下で既に重大な侵害を受けている“学問の自由”は根底的な危機に陥るでしょう。本事務局としても、1.25国会内集会に多くの方々の参加を訴えるものです。

++++++++++++++++++
改憲手続き法案を廃案へ!1.25院内集会

この通常国会では、改憲手続き法案が重大な対決法案になると予想されます。衆議院憲法調査特別委員会では与党と民主党の「共同修正案」作りに向けた作業が進んでおり、参議院にも特別委員会を作るという動きがあります。この通常国会で法案の成立をはかりたいなどと言う声が聞こえて来ます。
 衆院特別委員会の審議の中では、法案自体の問題がいっそう明らかにされつつあるときに、「戦争のできる国づくり」を急ぐ安倍内閣の要請に沿って改憲手続法をしゃにむに急ぐ動きを許すことはできません。
 この間、思想・信条・政治的立場の違いを超えて憲法改悪反対の共同行動を進めてきた「5・3憲法集会実行委員会」は、この通常国会の開会日にあたり、さらに大きな運動を起こすために下記の次第で院内集会を開きます。

 ぜひご参集下さい。

日時:1月25日(木)午後3時45分開会(開場は3時30分)
場所:衆議院第2議員会館第1会議室(地下鉄永田町駅または国会議事堂前駅)会館ロビーで入場券を配布します。
内容:各党代表挨拶、各団体発言

主催:2007年5・3憲法集会実行委員会
憲法改悪阻止各界連絡会議、「憲法」を愛する女性ネット、憲法を生かす会、市民憲法調査会、女性の憲法年連絡会、平和憲法21世紀の会、平和を実現する
キリスト者ネット、許すな!憲法改悪・市民連絡会
問い合わせは03−3221−4668
http://www.annie.ne.jp/~kenpou/index.html



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1月22日(3) 教員組合週報が届いた。以下にコピーしておこう。
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横浜市立大学教員組合週報

  組合ウィークリー

2007.1.22

 

もくじ

1.        1.        1.        1.               当局より新給与制度に関する追加説明がありました

2.        2.        2.        2.               月定例執行委員会概要

 

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 当局より新給与制度に関する追加説明がありました

 

 前号の組合ウィークリー(20061227日付)でお知らせしたとおり、昨年1227日、当局により新給与制度に関する考え方が、資料および口頭で提示されました。しかし、その場では同制度に関わるすべての問題が説明されたわけでなく、また説明に不十分な点も多々あったため、速やかな追加説明の機会を求めることにしました。

 その結果、本年1月11日および18日の2回にわたり、当局による追加説明がおこなわれました。その追加説明においては、

  ・新給与制度における退職手当の算定方法

    ・任期制同意者への対応に関する検討方向

  ・新制度における「経験年数」の考え方

  ・新制度における初任給格付けの考え方

  ・「助教」の職務業績給の給料表

などが示されました。

 この追加説明の詳細については、皆様に改めてお知らせしていく予定ですが、ここでは取り急ぎ、上記の概略とともに、両日に手交された当局側の説明資料(添付ファイル)をお知らせいたします。


概要

118日に定例執行委員会を開催しました。その概要は次のとおりです。

1.最近の状況と課題について

2.次期執行委員候補 次期代議員候補 選挙管理者候補 会計監査委員候補について

3.今後の日程について

4.総会議案書作成について

5.その他

 

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教員組合に皆様の声をお寄せください

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発行 横浜市立大学教員組合執行委員会

 〒236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号

 Tel 045-787-2320   Fax 045-787-2320

 E-mail : kumiai@yokohama-cu.ac.jp

組合HP:http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm



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1月22日(2) 「内部告発」文書を公開して改革の進め方に抗議し、ついには抗議辞職された佐藤真彦・本学元教授の一連の文書が、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)に掲載された。すべての文書は、その当時、われわれに衝撃を与えたものであったが、今、目にすると、改めて緊張感で背筋がピンとなる。

 現在、任期制問題が、労使交渉(団体交渉)のひとつの重要なテーマとなっているが、「任期制に同意するかどうか」、「任期制に共感するかどうか」で昇任差別はできないと見た法人サイドは、労働条件・研究条件差別をちらつかせて、あくまでも「全員任期制」を押し付けようとしている。

 いったい任期制とは何なのか?
 内容の不明な「任期制」に共感するかどうかを理由に、労働条件や研究条件の差別をしていいのか?
 さらにまた、制度設計の不透明性・非合理性・不法性が払拭されないままで、給与問題に決着をつけようなどというやり方は、許されるのか?


 こうした根本問題を考えると、そのやり方の背景にある「あり方懇」以来の行政当局の姿勢が、脳裏によみがえってくる。まさにそのときに、上記文書が改めて取り上げられた。

(付記:上で述べた見解も、これまで同様、わたしの研究室日誌で書いている個人的な見解である。他人を拘束するものではなく−そんなことは不可能だしありえない-、他人の多様な意見を無視しようというものでもない。「共感して」一時金をもらってもいいではないか、という意見がありうる。
  ただ、わたしの場合は、任期制が法的に適合する明確なもの(不安を抱かせないもの)であればいいが、いまだに不安感がぬぐえないし、任期制に対応する評価制度(主体・基準その他)も不明確なので、その種々不明確な段階で、「共感しているかどうか」を基準に、労働条件と研究条件に差をつけられるのは理解し得ない、というにすぎない。)


 任期制教員がまったく現在本学にないのかといえば、そうではない。
 
 浦舟病院の教員に任期制を適用する際には、大学教員任期制を適用し、「最先端の研究」という任期制法の第一の条項を適用した。その意味で限定的なものだった。

 また、大学教員管理職は、職員の管理職と違って、任期制である。そして、当然にも限定的な少数のポストである。
 学長は4年任期の特別職であろう。それだけに、その年俸は、普通の教員(教授職最高額)の倍くらいにはなるであろう。任期限定で、再任の保証はなく、その意味で、4年任期の限定性に見合った破格の増額となっている。

  研究科長、学部長、コース長、などの管理職も、その管理職任命期間中の増額(手当)が支給されている。しかし彼らは、ひとたび、その職務から解放されれば、クビ(解雇)になるのではなく、普通の教員(しかるべき年齢・経歴・研究教育業績のランクの教員)に戻るだけである。身分保障・地位とポストの保障はある

 これら学長以外の普通管理職は、その任期の間、管理業務に多大の時間を割くこと・精神的負担を想定されて、任期期間中の管理職手当てを得ている。当然にも、その期間、普通の場合には、研究教育時間・精神的余裕がほかの教員よりも少なくなる。その意味では、研究教育業績が、普通の場合、平均より以下であることも想定される。

(多くの事例を見ると、長期間にわたって管理職を続けている人の場合、研究業績はほとんどないに等しいが、それは人間の健康な労働時間に限界のあることの必然的結果である。通常の場合、健康な精神的肉体的労働時間は一日8時間ほどであり、週40時間ほどである[5][5][4]。その絶対的枠を踏み外すことは、普通人には不可能である。どこかに問題が生じるであろう。天才といえども、精神を集中する二つの仕事はできず、基本的労働日を超越することはできない。藤原正彦『天才の栄光と挫折』によれば、たとえば、コンピューターの理論的背景となり青写真となる業績をあげた天才数学者アラン・チューリングは、対独戦争勃発で「ノブレス・オブリージュ」の精神で国家機関に奉仕。暗号解読に「粉骨砕身の日々を送」る中では、「数学研究は実質的に中断された」p.198。20世紀の数学の天才の一人ヘルマン・ワイルの場合は、子供・息子のマイケルの目から見れば、「24時間数学に没頭」同、p.217していたというが、その意味合いには注意が必要だろう。日本語で「四六時中、研究に精出した」というときの意味合いを考えれば。)


 教員管理職においては、研究教育業績の評価を適正に行えば、ほかの一般教員より少ないということは十分(可能労働時間を考えれば必然的に)予想され、その分、研究教育業績評価では下に位置づけられても当然であろう。

 しかしだからといって、クビ(解雇)ということにはならないであろう。
(基本給体系と職務・業績給体系において、管理職手当は正当にも枠外におかれており、逆に言えば、基本給体系と職務業績給は通常の一般教員に求められる水準・質量を当てはめなければならないだろう。その水準は、管理職も行っているとの想定が成り立つであろう。検証が必要だが。教育時間を担当こま数とみれば、管理職の担当するこま数が一般教員の持ち駒数の最低限ラインということになろう。)


 一般教員に関しても、管理職教員並み(どの程度かを見積もるのは難しいが試行錯誤・検証するしかないであろう)の研究教育業績なら、クビ(解雇)はありえない、ということになるのではないか。
 

 いずれにしろ、各業務の適正な位置づけが行われ、任期内になすべきことが明確化されれば、そして、教員組合との合意が成立すれば、ある程度の合理的な「任期」(その評価基準など)の確定はできるともいえよう。  

 教員評価の責任者を誰にするか、どういった組織にするか、そこでの管理職の位置づけをどうするかは、上記のような諸側面をきちんと考慮したものでなければならないだろう。



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1月22日(1) 国会情勢はまたまた緊迫しそうである。

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《緊急情報》
陰謀的改憲手続き法案=国民投票法案を廃案にするために1.25国会内集会に参加しよう
             2007年1月21日 国立大学法人法反対首都圏ネットワーク事務局

   
25日に召集される通常国会において、「国民投票法案」という名の謀略的改憲手続き法案が強行成立する危険が急速に高まっています。それは、安倍首相が繰り返し成立させる意志を表明しているからだけでなく、与党と民主党の「共同修正案」づくりが急ピッチで進められ、その当事者が「5月3日までの成立を目指す」と成立日まで指定する段階に入っているからです。

この法律案は、改憲強行のために、現行憲法が保障する国民の民主主義的諸権利を圧殺した上で改手続きを行おうとする点で、まさに陰謀的とも言えるものです。陰謀の中心は2点あります。

第1は、国民、とりわけ公務員と教育者に対する運動規制・弾圧規定です。

第2は、衆参両院の各党・各会派の議席差を利用して改憲派に有利な不公正ルールを盛り込もうとしています。特に、「国民投票法案」と一体で提案されている国会法の「改正」案では、議席数によって委員数を配分する広報協議会の設置が含まれていることを見落としてなりません。

   こうした重大な事態を受けて、通常国会召集日の25日に「2007年5・3憲法集会実行委員会」が下記の集会を呼びかけています。
   
 教育基本法に続いて全ての基礎となる憲法が改悪されるならば、国立大学法人法下で既に重大な侵害を受けている“学問の自由”は根底的な危機に陥るでしょう。本事務局としても、1.25国会内集会に多くの方々の参加を訴えるものです。

++++++++++++++++++
改憲手続き法案を廃案へ!1.25院内集会

この通常国会では、改憲手続き法案が重大な対決法案になると予想されます。衆議院憲法調査特別委員会では与党と民主党の「共同修正案」作りに向けた作業が進んでおり、参議院にも特別委員会を作るという動きがあります。この通常国会で法案の成立をはかりたいなどと言う声が聞こえて来ます。
 衆院特別委員会の審議の中では、法案自体の問題がいっそう明らかにされつつあるときに、「戦争のできる国づくり」を急ぐ安倍内閣の要請に沿って改憲手続法をしゃにむに急ぐ動きを許すことはできません。
 この間、思想・信条・政治的立場の違いを超えて憲法改悪反対の共同行動を進めてきた「5・3憲法集会実行委員会」は、この通常国会の開会日にあたり、さらに大きな運動を起こすために下記の次第で院内集会を開きます。

 ぜひご参集下さい。

日時:1月25日(木)午後3時45分開会(開場は3時30分)
場所:衆議院第2議員会館第1会議室(地下鉄永田町駅または国会議事堂前駅)会館ロビーで入場券を配布します。
内容:各党代表挨拶、各団体発言

主催:2007年5・3憲法集会実行委員会
憲法改悪阻止各界連絡会議、「憲法」を愛する女性ネット、憲法を生かす会、市民憲法調査会、女性の憲法年連絡会、平和憲法21世紀の会、平和を実現する
キリスト者ネット、許すな!憲法改悪・市民連絡会
問い合わせは03−3221−4668
http://www.annie.ne.jp/~kenpou/index.html


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1月20日 立ち話で非公式に耳にしたところでは、代議員会において進級判定を行うことの確認がなされたようである。
 法律からして、また薄紙一枚のその許容範囲のなかで、ごく当たり前のこととはいえ、新学部初めての進級判定である。その基準・論理等は、明確に社会的に理解できるようにすることが求められる。
 
 しかし、その進級判定を審議する代議員会はいつになるのか? これが決まっていない、公表されていない、ということが学生諸君の不安や疑心暗鬼をたかめる。この手順ひとつとっても、今後の改善が必要ということになろう。

 2月代議員会になるのか、それとも、かつて卒業判定教授会が開催されたような時期に行うのか?
 少なくとも、いつの時点が、学生諸君の運命の決まる時期なのか、学生諸君に早く広く知らせる必要があろう。

 そうした日程がはっきりしないことは、学生諸君の不安、「見通しのなさ」に対するさまざまのストレスを蓄積させるものだろう。

 制度設計の出発点における問題とその後に発生した種々の問題に、総合的にどう対処するか、当の学生諸君、その保護者、一年生、一般市民、受験生の重大関心事であろうから、きちんとした対応を代議員会では示してほしい。

 その処理如何では、教授会開催等がいよいよ必要となるであろう。

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1月19日(2) 教員組合給与問題ワーキンググループの責任者が、今回の新給与体系に関して、どのような変化が起きるのか、各人が自分のデータを入力すれば数値が出てくるエクセル書式ファイルを作成してくれた。さしあたり、最終確定版ではないので、教員組合拡大執行委員会のわれわれがそれを頂戴した。
 入力してみた。(大変な労力で作ったエクセルファイルで、いずれ、組合員には希望により配布されるのではないか、と思われる)

 その結果、年俸ほんの微量の増額(マイナスではないというだけ・・・物価が上がっているとすれば実質的には減少するといえるような額・・・・率で計算すると、昨年年俸の0.03%の微量増、こんな機会でもなければまったく気づかない額、個々人で入力する数値が違うのでわたしが間違っていないとして)で、これが年齢の高い層の「フラット化」と称することの実質的意味なのかとはじめて知った。

 われわれのような「フラット化」した年齢層にとっては、退職金計算のあり方(基準・支給率などと業績との関係、同一労働=同一賃金の原則の適用の仕方)が、むしろ大きな影響を持ちそうである。
 
 
 それに対して、@階層間(助手・準教授・教授)での差を歴然としたものにする(重なりをなくする)、A年齢層によって、アップ率が異なる、というのが今回の提案なので、基本給部分でアップ率の高い若い層で(特に昇任に該当する層)でかなりのアップとなるようである。

 人事評価・業績評価の強調(それによる個々人の号級の違い)が、法人サイドの主張であるとすれば、それが実質的に意味を持つのは(各個人の間で開きが出てくるのは)、まさに若い層のようである。

  とすれば、大きな格差の出る昇任が、できるかどうか、これが非常に大きな意味を持つことになろう。

  ということは、昇任審査の基準、公正さ・妥当性がきわめて重要な問題関心となろう。

 研究と教育の業績が、どのように評価されるのか、研究教育で努力した人が報われるかどうか、その実質的対応関係が、厳しく問われることになろう。それが、活性化の実現と関係してくるであろう。

  すでに、昇任基準では、大きな問題が指摘されている(研究教育に対する行政・管理優位の問題点・・・基準とその適用のやり方は研究教育の活性化と結びつくか? 噂では基準が11月か12月かに変更されたという。なぜか? 具体的必要に応じて、基準変更を隠密裏にやることになったとか、「お手盛り」との噂、いずれ具体的文書にもとづいて、適正さが検証されよう。問題ないことを祈る)。
  その基準が、また、その適用が、今後どうなるか?
 

  若い層の成長率においては、相当に違いが出てくる、ということで、長期的には、この新提案の場合、最終段階(フラット化が始まるまでに)にきたときに、同じ年齢でも、差がかなり出る可能性がある、その差がフラット化した段階でも続く、ということだろう。

 その差が、どのくらいとなるのか、その妥当性(基準の妥当性、判定・評価の妥当性、それにかかわる判定主体の適正さ)といったことが、今後問題となろう。

 比較的若い層(格差発生の可能性がある年齢層)では、教員評価問題(能力・業績の変化・上昇度合いとその評価の対応関係)に重大な関心が寄せられることになろう。


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1月19日(1) 今週火曜日夜、大学時代のゼミの仲間と会った。卒業以来始めての友人も一人いた。11人の同級生のうち、大学卒業直後くらいに病死した一人、50台半ばでがんでなくなった当時Panasonic勤務だった友人を除き、全員が集まった。成城大学経済学部で同じ仕事をしている友人とは研究会・学会で比較的よく会うが、海外勤務の多い実業界(商社関係)の友人たちとはめったに会うことがなかった。その一人の感想は、大学時代の勉学の意味を考えさせ、また教育研究の仕事の意味についても改めて考えさせてくれるものだった。

  ヨーロッパの経済の歴史、その大局的流れを具体的テーマに即して掘り下げながら認識するという作業は、直接の利益、実利には結びつかないが、重要な意味を持っていることが、この友人の話からもわかる。「プラクティカル」の意味は、多次元であり、数十年の検証が必要なものであろう。。

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本当に楽しい良い集まりでした。また、日本でか、どこでか会いましょうよ。

 

Yさんが言う通りです;”年を重ねるとともに利害が関わらない学生時代

の思い出に身をおく瞬間が次第に大切に感じるようになったのだと思います。”

 

それと、やはり、どれだけゼミで得たことが実社会で大きな支えとなった

ことか。西洋経済史をやって、物事の判断基準を学んだことが、いかに大き

かったか。こまかいことは、省きますが、仕事の上での大事な判断、右へ行く

か左へ行くか、その自分なりの判断基準は、表面に現れる事象の根本を突

き詰め、そこから思考を再構築してゆくと言う先生の教えに基づいていた

ことが、私の社会人の大きな自信になっていました。




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1月18日(3) いよいよ今日が代議員会のようである。はたして、学部長は、どのような態度で代議員会に望むのであろう。何が出てくるか。教育研究審議会はどのような議論をしたのか?

 この2年間の経過を考えれば、相当きちんとした対応が求められるはずだが・・・・。

 履修用件変更、不利益措置によって困る学生への対応はどうなるか?
 履修強制によってほかの科目群に及ぼす大きな影響をどのようにクリアするか?

 ある教員と立ち話したら、出発点の制度設計に問題があるのだから、筋の通った解決はありえない、妥協のみ、と。
 さて、?

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1月18日(2) 本学の場合、助教制度に関する明確な制度設計が示されていないが、下記のような京都繊維大学の事例が、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)に掲載されている。コピーしておこう。少なくとも、任期制適用は、新採用者においてであり、大学教員任期法の限定的趣旨に合致するものとなっている。

   「任期制は、学内の活性化がねらいだ。努力している人を引き上げるなど適正な人事や処遇ができる」と導入意図を経営サイドが述べているが、問題は、その目的・制度設計の趣旨が本当に実現できるかどうか、審査等における公正さ・社会的妥当性・社会的信頼を確立できるかどうかであろう。その真実の度合いによって、努力・業績とその評価の対応関係の適正さ・妥当さの信頼の確立度によって、活性化は達成できよう。

 それは、本学における新規採用者の任期制に関しても同様である。

 その場合、任期制からテニュア制度への移行制度の確立、その基準、業績基準に基づく公明正大な運用、これらが必要であろう。

 そのことと関連して、公務員として採用された教員(身分保障・身分継承)で、実質的に定年までのテニュアを確保している教員に関しても、公明正大な基準と運用による評価システムが求められることになろう。

 その場合、外部から、厳しい競争条件で選抜されて新たに採用された人の位置づけと内部で経歴を積んできた人との業績の適切な比較=位置づけとが必要となろう。

 多数の応募者の中から選抜されて新しく採用された人は、現時点での、そのポスト・地位の社会的価値(社会的評価)を内外に示すものだからである。

(厳正な社会的評価を得るためには、審査もまた厳正さが求められる。多くの競争者がある以上、その競争者は、誰が、どのような業績を持ったものが選ばれたのか、に深い関心を持ち、追跡するからである。落とされたものは、採用されたものの力量・業績を追跡し続けるであろう。この意味からも、仕事=労働とその実績の段階的向上とその検証が必要となろう。評価者が評価される。「本当に自分より上のものが選ばれたのか、選ぶ側の目と頭は確かか」と。)

 TOEFL500点基準の問題で、一度500点をクリアすればOK、という現在の制度の問題性を指摘する意見が多くあるが、そのことを教員の業績評価と関連させて言えば、あるハードルをクリアして、助教、準教授、教授への階梯を上ってきた個々の教員に関しても、適切に、その後の研究教育の努力とその評価を行わなければならない、ということである。

 「一発、一回、PEなるただ一科目で500点クリアすればいいのだ」、とする発想は、教員の場合、たとえば、一度(ある時点で、たとえば45歳で)、ハードルをクリアして教授になってしまえば、後は20年間、何をしていても問わない、ということと同じであろう。

 実際には、給与体系は、段階的に設定されており、その号級のどこに位置づけられるのか、各教員の能力と業績の段階的上昇がそれに見合っているか、その検証が求められる。

 TOEFL問題にどう対処するかは、まさに個々の教員のこうした自分たちの仕事に対する評価のあり方・姿勢と密接に関連している。

 個々の教員の発言・姿勢に、学内外の人々の注目が集まるであろう。

問いははっきりしている。

 学生の能力・実績の段階的違いをどのように評価するのか?

 「同一労働=同一賃金」(労働の段階的違いに対応した賃金システム)の適用・検証をどのように考え、実際に運用しようとするか?

  (平均的上昇線というものが、新給与体系の提案に示されている。これはごく普通の想定であろう。問題は、平均は、実は、諸個人に関する大量的経験値・諸個人のばらつきの平均値であって、平均線の上下に能力と業績による一定の違いがある、ということである。その違いを、どのように判定するか、これが問題となる。平均的には、教授の場合、新給与体系によれば、4号アップということのようである。・・・これはごく普通の大多数の教員の段階的教育研究力=その発揮を意味するだろう。)


現実にどうなっているか? また、どうすべきか?

諸個人に関して、
 検証手段は?
 検証基準は?
 検証機関・主体は?

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京都工芸繊維大、助教に任期制導入

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007011700055&genre=G1&area=K10

「助教」に任期制 来年度導入 5年、新採者対象 京都工繊大

 京都工芸繊維大(京都市左京区)は16日までに、現行の助手に相当し、4月から新たに導入する「助教」を任期制にすることを決めた。新規採用者を対象とし、同大学の助手が助教に移行する際には、任期を設けないという。

 助教は、自ら教育研究する職務とされ、全国の国立大で4月から、現行の助手が助教と、研究教育の補助をする「助手」の2種類に分けられる。同時に助教授は「准教授」に変更される。

 同大学によると、助教の任期は5年で、再任の回数制限は設けない5年ごとに研究、教育活動の業績などを審査し再任するかどうかを決め、決定に不服の場合は、任期中に再審議の場を設けるという。

 また、講師と助手は昨年10月1日から、新規採用者について5年の任期を設定。助手には再任に回数制限はないが、講師は再任できないようにしている。

 同大学は2004年秋、任期制の検討を開始。昨年1月、学内の人事委員会が助教と助手はすべて任期制にして、再任も1回限りとする答申をまとめた。しかし、職員組合などから反対意見もあり、新規採用者のみを対象にして回数制限も外すことにした。

 同大学の功刀滋理事(総務・教育担当)は「任期制は、学内の活性化がねらいだ。努力している人を引き上げるなど適正な人事や処遇ができると考えている」と話している。

 京都大は、基本的に助手を助教に読み替える方針で、任期制は一部の研究科や研究所などに導入されており、今後も各部局で対応することにしている。

(参考資料 これまでの記事)
京都工芸繊維大学職員組合、「大学教員の任期に関する規則の一部改正」への意見書
京都工芸繊維大学職員組合、任期制導入に関わる最近の動き
京都工繊大職員組合、「昇給に関わる勤務成績評価要領案」に関する交渉の報告
京都工芸繊維大学職員組合、「任期制は、本学教員の身分保障の根幹を揺るがすものである!」



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1月18日(1) 国連の報告では、イラクで昨年、民間人死傷者3万4000人以上と。(NewYorkTimes20070117)
      それは、イラク政府とアメリカ・ブッシュ政権の失敗の明らかな証拠、と。
      これを、今問題の、本学TOEFL問題(進級基準問題、その設定主体・設定機関・設定思想・設定システム)と関連させるとどうなるか?
      イラク政府にあたるのは、どこか? アメリカ・ブッシュ政権にあたるのはどこか? 

 
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1月17日 「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)によれば、大学の意思決定システムが、トップ・ダウンだけになると、いかにひどい人事やカリキュラムとなってしまうか、しかも、任期制で首切り自由となれば、どんなことになるか、それを示すのが、秋田の国際教養大学のようである。外国人教員のかなり乱暴な取り扱い(雇用差別ともみられているようだ)が、問題視されているようである。

 正当な合理的で説得力ある人事(評価)をしないと、不満・怒りはこうして世界に流れ出る。まさに、大学の評価は、世界的に行われるのである。教員の評価もまた次第に世界的になされるということでもあろう。

 すでに、本学でも、プラクティカル・イングリッシュ・センター(PEセンター)構想が動き始め、センター長、さらに、任期制英語教員5名などが採用されたという。いったいどのような審査が、誰によって行われたのか、われわれにはわからない。きちんとしたシステムでなければ、秋田と同じようになって、世界的に不評を買う事態となろう。ここでも、しっかりした制度設計があるのかどうか?、と疑念は残る。 

 本学における昇任人事等でも、全体としてかなり厳しくなったという声を耳にすることが多くなった。しかし、管理職など特定のところに関してはいったいきちんと評価がなされているのか、という不満の声も聞こえてくる。

 独裁的権力を持つものが、身の回りの人間(仲間)を優遇するのは、不可避的になる。基礎的なところ(人事評価、業績評価)で、公明正大な基準、公正な適用がなければ、組織は腐敗する。

  参考:『カメリア通信』第42号、http://edmath.sci.yokohama-cu.ac.jp/camellia42.html
      『カメリア通信』第44号

 ちなみに、本学では、公立大学であった時代の教員たちが任期制に不同意であっても、昇任を勝ち取るなど、教員組合と個々の教員の筋の通った断固たる態度で、基礎的な雇用安定は勝ち取れたと思われる。この基礎的な雇用安定の条件は、当然にも、種々の事情で任期制に同意せざるを得なかった教員にも保障されるものであろう。また、そうしなければいけない。

 同一労働=同一賃金は、それを成立させるための枠組みとして、共通の精神的安定条件が必要であろうから。競争条件、労働条件が違えば、精神的活動において有利不利の違いが出てくる。それは必然的に仕事の量と質に影響してくるであろうから。

 その意味では、次の課題として、一歩進んで、任期制に同意した教員(これからの新任教員は公募で任期制を明記されているので、すべてそうなるが)のテニュア制度、その基準を法人と組合の交渉で創出していかなければならないだろう。

 テニュア制度の創出。
 任期制教員のテニュアへの移行基準の創出。

 本家のアメリカにおけるテニュア制度からすれば、本来的には教授全員がテニュアをもつはず。
 教授昇進とテニュアの確立はイコールであろう。
 準教授においては、テニュアを獲得できるものと、そうでないものとがいる可能性がある。

 任期制教員のテニュアへの移行の基準は、仕事・業務・職務の基準(その給与の号俸・およびそのアップなどへの反映)としては、任期制不同意の教員にも適用されるべきであろう。同一労働=同一賃金の原則は、ここでも貫徹させなければならないだろう。


 現到達点の教員組合委員長・岡教授による総括は、全大教の新年挨拶を参照されたい。

 教員組合執行部の要請により、昨年末から、独立行政法人化対策委員会の一員になった。
 本日は、その仕事で、給与関係のワーキンググループの作業に加わった。この間に法人の新給与制度(案)が提示され、サイボウズ等で公開されているが、その内容の検討である。3人のプロ級の委員の議論を聞いていると、新参者のわたしには、何のことかわからないことが多かった。

 退職金の計算の仕方など、一体どう考えればいいのか、かなり身近な問題になっているが、それでもわたしにはよくわからない。
 もし新制度の提案どおりなら、60台の教員は相当不利になるようだ。具体的に計算したある人の話では、1割減だそうだ。これは、明らかにひどいのではないか?

 法人化は、定年が近い教員の退職金引き下げをも目指したものか?
 大学教員は、大学卒業後、最低でも5年間(多くの人は何年間は長引く)、大学院で、したがって、無給、むしろ学費・生活費の支出で苦しみ(負担があり)、やっと目の前に定年が見えてくれば(22歳で卒業し所得を得る人々、その人々は年金制度の関係もあり、定年延長で65歳に労働期間が長くなっており、大学教員の定年−62歳から65、私学の70歳まで幅はあるが−に接近しつつあるが)、長期的に念頭においてきた老後の生活設計の基礎が脅かされる、ということになりそうである。

 生涯賃金の面で、大学教員はどうなるのか?


 何人かの教員と話してみたが、新制度設計(案)には、「現給保障」の言葉がある。その精密な確定(意味内容の確認)も必要である。「現給」とはなにか? どの範囲までを「現給」とみなすのか?
 
 そのためには、計算式を具体的にエクセルか何かで提示する必要があろう。

 個々人の納得を得るためには、個々人における新旧制度の比較対象表が必要となろう。個々人が計算できるマニュアルが必要だろう。法人の計算が間違っていないかどうかの確認のためには、計算根拠が具体的に示されなければならないだろう。

 法人からの提案には、「任期制」に関する言及もあるが、制度設計の内容がまだ不明である。提案が、「任期制」の内容と表裏をなす負担・リスク(あるいは求められる仕事・業績、あるいは過去5年間ほどの間に達成した業績)との関連で、どのようになっているのか、この検討も必要である。
 小さなえさに食らいついて、憂き目(継続的不安状態への落下)を見ることがあってはならない。

 任期制に「同意した」とされる教員も、内容不鮮明な任期制に関しては、ごく一般的に同意したにすぎない、と見るべきだろう。

 「まあまあやっていれば、問題ない」などというのは、近代的合理的契約のあり方としては、成立しないであろう。
 契約成立要件としては、そんな漠然たる同意調達のやり方は、法律的には認められないだろう。(ただし、京都大学井上事件の最高裁判決もあることだから、危険は相当なものである)

 さらには、職務・業績給の体系において、その号級アップの仕方、判断基準、判断主体など、決定的に重要な点で漠然としている。

 このままの丸呑みは到底考えられない。

 組合執行部での検討、要求の定式化、明確な具体的要求項目と原則的な検討の約束の明文化など、なすべきことは山ほどあるようだ。




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1月16日 「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)は、この間の本学の動向、TOEFLに関する学生からの訴え、学生諸君の動き、それに対する本日誌での対応などを紹介してくださった。

 学生の成績評価のあり方、任期制適用のあり方、大学の管理主義的あり方などは、まさに全国的にも重要な大学自治・学問の自由に関する問題であり、その意味で、本学の問題が全国的関心を呼ぶことを意味している。

 学生諸君の動きは、全国的にも注目されている。諸君の能動的活動は、全国の学生のためにも有益でしょう。
 学生諸君、言うべきこと、日ごろ感じている怒り、あるいは日ごろこうして欲しいと感じている希望などを、積極的にアンケート用紙に書いて提出して下さい。
 学生自身が主体的に作る市大新聞がそれをまとめるようですので、かなり正確なところが、表現できるのではないでしょうか。(それを希望し、期待します。できれば、全部の生データ・生の声の回答用紙を、スキャナーでとって、直接、インターネットで公開して欲しい。歴史研究者として、一次資料こそが、大切なので。改革過程で行われた官製アンケートは、当局にとって都合のよい部分だけを公開するもので、不信の累積の原因となった。一楽教授の市民アンケート開示要求運動[情報開示請求意見書
2004/10/19up] の結果、全面開示となった[大学改革市民アンケート、全面開示へ 2005/2/18up] しかし、それは改革の嵐が過ぎ去った後のことである。)

 学生諸君のアンケート活動とその内容に、大学活性化の、大学の自治の再建への契機が豊富にあることを信じつつ、期待して市大新聞ブログ(http://blog.livedoor.jp/ycu_press/)・市大新聞本誌等に公表されるのを待とう。

 学生本位の改革を掲げている以上、多くの学生の生の声(その集約)を尊重しないわけには行かないでしょう。


 もちろん、一人ひとりの本学教員にも、PEをどのように位置づけるかということは、自ら担当する科目、カリキュラム体系の意味と関連して、重要な問題である。
 PE問題は、単に、学生の進級(ひいては在学期間、卒業)の条件にかかわるだけではない。大学の人事のあり方にもかかわっている。昨日の一教員からの返事にもあったように、「多くの先生方に共有されテいる」問題意識であろう。

 その意味で、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)が示すのは、本学教員の態度が、全国の注目の的になっていることもまた示しているだろう。

(教員の声は、この間の管理主義的経営主義的「改革」で、自由に表現できる場がなくなっていることは、教授会のあり方ひとつをとってみても明らかでしょう。全教員が所属する基礎組織としてのコース、そのコース会議の民主的運営は、内規によって行われているに過ぎず、制度的には基礎組織の声を無視できるようになっている、といえよう。一般教員の無力感、責任を発揮すべき権限の喪失感には深刻なものがあります。現実は、経営主導であり、教員の総力を結集する改革とはなっていない、ということです。

 全構成員の総力を結集するような改革でない限り、生き生きとした力強い発展はありえないでしょう。

 たくさんの学生の進級=ひいては在学期間=卒業年次がかかっている今回の問題は、わたしの法律理解からすれば、当然にも学部長が審議事項として取り上げ、教授会に進級判定の原案を示し、その可否を問うべきものです。

 先日の新聞報道では、進級基準を緩和することはありえない、などと言う学部長発言が出ていたが、現実を直視し、2年間の経験で出た問題点を衆知を集めて洗い出し、妥当な線を見出すためには、教授会審議しかない、とわたしは考える。

 新聞での発言は教育研究審議会かどこかの当初予定(目標)にしかすぎない、というのが、学校教育法第59条に基づく合法的スタンスだろう。

 現在の問題の深刻さ=多くの学生の人生設計・生活設計にかかわる状況からすれば、学生もその教授会に傍聴者として参加できるようにすべきものであろう。それこそ公明正大ということだろう。

 まさに、大学の問題に関して、とりわけ、学生の進級・卒業に関する基本的制度設計にかかわるものは、国における国会と同じく、公開教授会において、審議すべきだろう。秘密の陰に隠れて、多くの学生の運命=不利益処分が決まるのは問題だろう。)



 また、久しぶりに本日誌が、大学改革のあり方に抗議して退職された佐藤真彦先生のHP(http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/kikimondai-index.html)で取り上げられていることを確認した。



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1月15日(2) 先週、臨時教授会を開催してきちんと問題を総合的に議論し決定すべきではないかと、わたしの考えを何人かの教員に差し上げた。かなり多くの賛同があったが、他方では、すでに紹介したように、臨時教授会の開催に懐疑的・消極的な意見もあった。
 研究と教育を基礎で担う一般教員からの、そして当の学生さんたちからの声を踏まえて、代議員会等での議論が展開し、その上で、臨時教授会での審議要求へともっていけばという意見もかなり寄せられた。

二つほど、抜粋的に意見を紹介しておこう。

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先生からのメールの確認が遅くなり返事がすぐ出来ませんでした.

進級判定に関する臨時教授会の開催に賛同します.

臨時教授会開催の実現は難しいかもしれません.

当面の語学の問題に限らず,本学が抱えている様々な問題について

教員や学生の意見を何らかの形で大学当局に訴えていくことは必要と考えています.

その意味で今回先生が提起された臨時教授会の開催に賛成します.

語学教育については様々な意見(それぞれがそれなりの説得力がある)があり,

意見を纏めるのは大変ですが,当面の留年問題について意見を出し合い我々が何を

しなければいけないかを確認するいい機会になると思います.

 

TOEFL(TOEIC)の問題について一言:

試験で500点以上をとることを学生の努力目標にするだけでよいというのが

私の予てからの考えです.語学は持続した学習が必要で,1度だけ500点以上の

成績を得たというだけで進級させるというのも変な話です.この制度が大学改革の

一つの特色というのが,何とも情けない.


---A------
トーフル問題についての問題認識は多くの先生方の間に共有されていると思います。段取りとしては、まず代議員会で問題提起をしていただき、「権限外だから対応できない」というような消極的回答であれば、教授会開催要求を行うというのではいかがでしょうか。

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語学は持続した学習が必要」というのは、意欲的な学生の声でもある。ある親しい学生は1年生の7月にTOEICで基準をクリアしたが、「TOEICの実力の有効期限は1年間か2年間(?)なので、またチャレンジし、力を維持すると同時にアップしていきます」と。まさにそのとおりであろう。

 その方向で実力を不断に伸ばそうとする人に、その到達度に応じて、大学の中で環境条件を整備してあげる、ということはきわめて重要である。
 TOEFL550点以上クラス、あるいは国連英語検定を目指すクラスなど、意欲があり、国際的活動を目指す諸君にはそれにふさわしいクラスを設定し援助する、しかるべき単位を与えることもいいであろう。


 それは、画一的基準で留年させる、などという寒々しい官僚的統制的な発想とは逆のものである。

 全学生に対する画一的基準の押し付けの発想は、一般教員全体に対する寒々しい「全員任期制」の押し付けと同じ発想である。これには、「改革」全体の問題面を象徴するものとして、非常に強い反対が教授会などで示された。この問題を中心的問題として、抗議辞職をした教員(次の職場もないのに)、他大学に移った教員も多い。「全員任期制」の画一的押し付け(大学教員任期法に反するもの)には、苦しい状況の中で多くの教員が教員組合に結集しつつ、また個々人でも、断固として反対してきたのである。
 「全員任期制」問題で苦しめられた人々には、そのことが直ちに理解されるであろう。


一つの特色というのが,何とも情けない」という点に関しては、現在のPEの特権的例外的独裁的制度を、だれ・どのような人々が案出し、だれ・どのような人々がそれによってメンツ・地位・権益・発言権・優越感・自信などを得ているか、誰が特権・独裁権力を行使しているのか、という側面からも考えてみる必要があろう。

 すくなくとも、現在の入試制度で堂々と総合力で入学してきたために、英語が相対的に苦手、という学生諸君ではないことは確かだろう。総合的に見て、学生諸君に責任はない。責任があるのは、制度を設計した側、制度を運営する側にある。

 学生諸君との関係で言えば、わたしのような一般教員も、大学側の一人、制度運営の側である。だからこそ、一教員として、制度検討・制度変更が必要だという意見を公開し、わたしの意見に耳を傾けてくれそうな教員に働きかけてもいる。それが、制度設計をした人々、制度設計に責任ある人々に影響を与える(政策・制度の合理的合法的転換)ことを願って。

 制度を設計した人々、制度を運営している人々は、主観的には、悪意や優越感のためにやっているのではないだろう。その意味では、「良かれと思って」、「善意で」あろう[6]

 しかし、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」(ダンテの言葉とされる)。ヒトラーも、主観的には、「民族のため」、「民族の自由のため」、「民族を愛するため」にすべてを行った。600万のユダヤ人大量虐殺も、彼の主観(善意)においては、「ドイツ民族のため」、「ドイツ民族に感謝されること」だった。


 学生諸君、堂々と入学したのだから、そしてそれぞれの力量・個性・希望・問題関心に従い勉学に励んでいるのだから、萎縮する必要はない。
老婆心までに。
 元気をつけたい人は、『国家の品格』など、日本語の本質的基軸的重要性を説く自信に満ちた藤原正彦の一連の本を読んだらどうでしょう。新潮文庫にある8冊を一気に読めば、相当に刺激を受け、自信をもつことができよう。

(母国語だから、「アメリカ人は米語・英語ができる。でも、そのごくわずかしか、国際人ではない。国際的見識を持つものは、アメリカ人のほんの一握りだ・・・・」、米英語がしゃべれることは、国際的教養、深い教養とは別物だ・・・・ちょっと英語がしゃべれる日本人は? ちょっと日本語のできるアメリカ人を見よ。その人は、深い教養、国際的識見を持っているか? たとえば、日本語のほかにドイツ語ができるか? 数学・物理学・化学・生物学に対する造詣はあるか? などなど)

 なお、付言すれば、大人の社会、教員の世界も、、の仕事(労働)に関しては、各人の能力・業績に応じて段階的な評価システムとなっています。
 
 年功序列が最近では批判されますが、「年」齢に応じた能力の発達、さらにその成長段階での業績(「功」)の上昇は、普通の人間のそれぞれの分野での大量法則としては、妥当するものです。わずかずつとはいえ、右肩上がりというのは原則的方向性です。

 「同一労働=同一賃金」の商品交換社会の原則は、各個人の労働の段階的成熟に応じて賃金に対応させ適合させるべきものであり、仕事(労働)とその対価としての賃金・給料の関係に、大数法則的には反映させるべきだということになります。

(同一労働=同一賃金の原則は、理念的理論的なものである。
 それは、個々人への適用に当たっては、個別経営の労使交渉を通じて、全社会の労使交渉を通じて、練り上げ、発見し、時々刻々と修正し、実現していくべきものである。そのようなダイナミズムにおいてこの原則は把握されなければならないであろう。

 それは、一般商品の市場競争・売買交渉の総体を通じての価格形成と同じであり、同じようなダイナミズムを持つものである。
 そして、いまや、一般商品も、大学における教育研究労働=労働力商品も、そのようなグローバルな売買交渉・売買条件折衝のなかにますます組み込まれつつあることは、いうまでもない。
 労働(労働力)の対価で購入する生活物資・研究教育条件が、世界的市場連関=売買連関=価格連関の中にあるからである。)

 成績評価における段階的評価は、能力とその発揮の段階的発達が大数法則的には貫徹している、ということをしめしているのではないでしょうか。

 もちろん、学生諸君のTOEFLの成績の上昇の度合い(英語力上昇の度合い)が、各人によって違うように、われわれのような大学教員でも、研究教育力の上昇の仕方は違うでしょうし、上昇のスピードも多かれ少なかれ違うでしょう。(社会一般に、同分野・同業種の人々との社会的相対的スピードの違いも問題となるでしょう)。
 その違いをどのように評価するか、これが、教員評価と給与制度の問題として、教員組合の検討対象に、そして、労使交渉の課題となっています。

 学生諸君もわれわれ教員も、そして一般の市民も、自分たちの努力(労働)とその成果が正当に(かつ総合的に)反映される(評価される)ことを望む点で、その原則的な見地で、連帯しうるでしょう。
 ここにこそ、学生と教員の、そして市民の連帯の基盤があると考えます。




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1月15日(1) 日誌で報じられる教員の反応を読んで、次のような意見が寄せられた。実に貴重な情報である。この情報を知らせてくれた学生さんへのわたしからの返事とあわせ、下記にコピーしておこう。
 この日誌を読む学生諸君は、ぜひ、アンケート活動に協力し、できるだけ多くの体験談、率直な声を出すことを期待します。(なぜ、わざわざ「率直な声」を強調するかといえば、アンケート活動が、「学長の賛同を得て」行われる場合、ありうべき批判の声が出にくい危険があるからである。学生諸君のアンケート運動の独立性・自立性を願い、わたしの危惧が杞憂であれば幸いである。)

 一人ひとりの声こそが、大学の「改革」を真の改革として発展させ、教育のあり方を民主的に草の根から改善していくものと思います。

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N君

すばらしい情報、ありがとう。

まさにこうした形で,当事者である学生諸君が動くことが、わたしたち教員にとっても非常に重要です。

 

ぜひとも、学生諸君の議論の輪を広げ、アンケート活動の輪を積極的に広げ、多くの学生さんの率直な意見が集約され纏め上げられて、健全なPE教育、健全なカリキュラム体系、安心してそれぞれの学生の個性・希望・進路に合わせて総合的に力を高めていくシステムにして行くことが必要ですね。

 

ともに力を合わせましょう。

 

あなたの意見の部分を、匿名の形式で、日誌に掲載します。

実に貴重な、現場の学生の声ですから。

 

御礼まで。

 

ながみね

 

----- Original Message -----

・・・

・・・

Subject: 大学改革日誌 PE問題

 

少し学生側に動きが出始めましたので、日誌の感想とあわせてご報告します。

 

○「付き従う大学側」という表現(1/7(3)の日誌)

>「付き従う大学側」とは、どのような人々でしょうか?

もちろん大学改革を合理的合法的に、民主的に実現していこうとする教員ではありません。

大学運営をつかさどる責任者といったところでしょうか。

 

 

○「好きなように突き進めさせる」(1/12の日誌)

>「現行制度を押し進めてきた人たちの責任を明確にするためにも、このまま好きなように突き進めさせれば良い」

学生としてはそれでは不安になってしまうと思います。

学生からしてみても、「点数稼ぎのために改革を断行した役人」や「それに付き従う大学側」の責任を明確にすることはもちろん大事です。

しかし、このまま好きなように突き進めさせて、現行の制度を維持したままでは学生は不安であることには変わりありません。

 

やはり、責任を明確にすると同時に、現行の制度をも阻止しなければならないと思います。

(例として微妙ですが…↓)

金正日が責任を取っていなくなっても、金正日時代の体制が残ってしまっていては国民にとっては何も変わりがないということです。

 

 

学生側でアンケートをとっています

僕が主催しているわけではないので、主催者の名前は伏せさせていただきますが、

今週より、学長の賛同を得て正式に「TOEFL進級に関するアンケート」が行なわれています。
このアンケートはTOEFLスコアによる進級判定に関して、本学の語学教育の実情を評価するとともに、大学側と学生側の意見調整に役立てる目的で行われます。

集計結果は学長、議会に提出し、また集計結果は横浜市大新聞(紙面及びブログ)に掲示するそうです。

 

開始2日で既にアンケートを100以上回収した模様なので、臨時教授会などの話し合いの場に資料として活用されたらいいなと願っております。











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1月12日 わたしに伝えられる教員の多くの意見(支配的意見)は、昨日のひとつの意見、「責任の所在は経営者側、そして教育の長である学長、学部長、場合によっては共通教養長であることは明らか」というものである。別の表現では、「現行制度を押し進めてきた人たちの責任を明確にするためにも、このまま好きなように突き進めさせれば良い」、というところに尽きるようである。

 さらに突き詰めれば、下記の卒業生からの怒りがあろう。

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私は横浜市立大学の卒業生の一人です.

 

破滅に向かってひた走る横浜市立大学に歯がゆい思いをしています.

 

いわゆる「あり方懇」が「横浜市立大学はトップクラスの大学ではない」と断言したとき,はたしてそうだろうかと疑問を感じていました.

 

かつて教授であった三枝博音,遠山茂樹,西郷信綱,浅島誠氏などは日本での一流の研究者として広く知られています.

 

また,卒業生にも大企業の社長,公正取引委員会事務総長(後に大阪大学大学院法学研究科教授)などがいます.また,外交官にも強く,ペルー大使,ボリビア大使,外務報道官として活躍しています.

 

研究者になる人もけっして少なくなく,東京外大教授,東京工業大教授,都立大学教授,慶応義塾大学教授など広く活躍していると仄聞しています.

 

概して,横浜市立大学は公立大学としては最大限の成果を上げてきたのではないでしょうか.

 

横浜市立大学を正しく評価しようとしない態度こそが根本的な過ちを生んだとしか考えられません.

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   これらの見解には、「あり方懇」、「大学像」以来の、一連の「改革」(その手法)に対する怒りが深く沈潜し、染み渡っているように感じられる。
      
  その多くの気持ちを理解し、共鳴し、共感できる。と同時に、市民・卒業生に対しては、内部にいるものとしては、厳しい自己反省も求められる。


  現状を放置すれば、「振り回された学生諸君はどうなるのでしょう?それぞれに努力して、わずかの点数で留年や生活の危機にさらされている人々のことは?あるいは、制度変更、環境条件不整備等で意欲をなくした人々のことは?」。

  問題はまさに目の前に提起されている。
       
  多くの教員からすれば、問題は、
教育研究審議会・教職員管理職の組織、その背後の経営陣に投げかけられている。
       
  この間の予算措置は、経営陣の承認の元に、おこなわれてきたのだから。
  この間の教職員管理職人事PE関連人事は、経営陣によって行われてきたのだから、と。

   まさに、「予算」と「人事」こそは、大学の自治に対し、生殺与奪の力を持つ。
   それゆえにこそ、憲法の保障があるはず。
   
   言葉の上では誰も憲法的保障の大学自治を否定しない。
   だが、それは、実際にはどうなっているか、と。


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1月11日(3) 教授会の権限の再確立は本来の筋だが、現状では希望が持てない、との声も寄せられた。
 現行学則(私はこれこそ大問題だと思うが)のトップダウン方式、行政主義的管理主義的なしばりに、かなり多くの教員があきらめの感情を持っている。
 

 その上で、そのような学則(「悪法もまた法なり」)、「お上」が決めた中期計画や管理主義的システムを作った当局に、しかるべき責任を取らせるのがいい、と。

(ソクラテスが、「悪法もまた法なり」といったとき、自分もアテネ市民=主権者として法律の制定に参加した、ということが前提となっている。「自分も参加して、自分たちで決めた法律=ルールだから、たとえ悪法でも従う」ということになる。しかし、現在の本学の学則の制定は、普通の教員のあずかり知らないところで、市当局の大学改革推進本部で作られたものであり、大学の教員は主権者=法の制定者ではない。大学教員による法への同意調達のシステムは存在しなかった。これは大学の自治という点から、本質的に重要な問題点である。)

 当局が現在の体制・意思決定システムで責任を取らざるを得ない深刻な問題群をこそ、明確にしていけばいい、と。

  多くの教員の静かな怒りが、ひしひしと伝わってくる。

  「TOEFL500点は確か、大学の中期目標に掲げられていたことだったのではなかったでしょうか。そうだとすると、責任の所在は経営者側、そして教育の長である学長、学部長、場合によっては共通教養長であることは明らかです。責任の所在がそちらのほうにあることをここで改めて追求すべき」との見地である。



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1月11日(2) 別の学生さんから、多くの学生さんの気持ちを代弁するような意見が寄せられたので、抜粋的に掲載しておこう。

 2年になってから、「後出しじゃんけん」(悪法の上塗り)で、出席を強制され、その影響で履修科目(専門教養科目等、各コース本来の科目群の履修)に圧迫を受けたこと、さらに、「教員の質にムラ」、「拘束時間の割に非効率」と、傾聴すべき意見がのべられている。

 500点基準の厳守のまま、履修強制と「後出しじゃんけん」の出席強制を続ければ、ますます専門科目の履修への影響が大きくなろう。これが大学か?語学学校ではないのか?

 たんなるPE一科目に、そのような影響力(他の科目を履修できなくする単独の力=独裁的力)を持たせることが果たして妥当か?

  教員が履修と出席を強制できれば(独裁権力を持てば)、それにあぐらをかきがちになることはよくあることである。
  「ムラ」は、こうした教育力とは関係のない強制力とも関連するであろう。


                                 ---------
 「私自身TOEFL500点という基準を未だ満たしておらず、友人が合格していく中、非 常に焦っておりました。・・・大学受験当時この制度について存じておらず、三科目の受験科目という理由で志望校を選択・・・・。

 匿名の学生の方のメールを読み、共感する点が多々ありました。また先生が指摘された問題点も私の考えを代弁されている感じがしました。
 
 私自身、1学年の際は・・・、徐々に出席率は下がっていき、挙句授業に顔を出さなくなるようになっていきました。

 2年に進級し、前期、後期とも履修科目を減らし、出席条件を満たしても目標点を取らなければ単位はゼロ、留年という制度にはやるせない思いをもっています。
 
 親からも大学とは別の、TOEFL合格を目指す専門の学習塾のようなものに通っては どうかと勧められ、・・・、心労と迷惑をかけていることが気がかりです。

 また教わっておきながら恐縮ではありますが確かに先生の質にムラを感じることはありましたし、授業の拘束時間の割りにあまり効率的ではないのでは、と感じたこともあります。・・・」





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1月11日(1) TOEFL問題。
  臨時教授会を開いてきちんと議論すべきだ、ということに関しては、「重要な問題なので」と、何人から、当然との意見が寄せられた。

  しかし、その前に、一方では、教育研究審議会は何を考えているのか、といった疑問も寄せられた。
  コース別のクリア率の確認、クリア可能性、これまでの進級クリア率の歴史など、種々考慮すべき論点が指摘された。

  教務関係で長い豊富な経験を持つ同僚からは、実に綿密な選択可能性も示された。衆知を集めれば、妥当な線も出てくるであろう、と。

  他方、まさに、その衆知を集めるというシステムが、今度の改革によって破壊された、との意見も。だから、共通の議論の場としての教授会開催には賛成と。
 
  いずれにしろ、進級問題で不安を抱え、見通しのなさ、透明性の欠如などに苦しむ学生諸君を前に、早急に明確な理路整然たる対応が求められていることだけは明らかだろう。 

  学生さんの投稿を読んだ良心的教員の何人かは、学生さんの立場をよく理解しておられることがわかった。
 そのことを、この場で学生さんたちにお知らせしておこう。

 と同時に、ゼミや講義の先生に、実情をよく話すよう、学生さんの能動的な発言も期待したい。(苦しんでいる学生さん、怒っている学生さんがいたら、先日の学生さんのように、その実情、意見を私までお知らせください。ここで公開し、心ある教員の目に留まるようにしましょう。

 
「後出しじゃんけん」的な不利益措置(出席強制・出席しないとTOEFLを受験させないなど)に関しては、多くの教員が、その不当さを認識していることもわかった。
  学生さんの主張・怒りは、当然のこととして理解されている。

 

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1月10日 TOEFL問題であらたに意見が寄せられた。以下のようである。

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やはり、国際総合科学部学生の半数近い2年生がPE一科目だけで進級できないというのは、異常であり、学生の立場、保護者の立場、社会の立場から見ても到底、理解されず許されないだろう。その当初の設定自体(設定主体・設定機関・設定の仕方、どこで誰が何を根拠に?)に問題があることを示している。

とくに、今問題になっている2年次から3年次へ進級をさせないというハードルに関しては、合理的で明確な説明がない。現状では、脅かしによるPE強制としか受け取れない。留年の脅かしでPEの点数クリアに拍車をかけようという乱暴なやり方(およそ大学らしくないやり方)としか思えない。

カリキュラム体系との整合性が明確に示されていない。

三百数十名もの将来を左右し、最低1年間の留年期間を押し付ける(留年処分を下す)理由はどこにあるのか。

全教員にかかわるカリキュラム体系への深刻なしわ寄せ、非常に多くの教員にかかわるゼミ・講義の持ち方への深刻重大な影響などを考えて、また3年次以上に、TOEFL500点をクリアしていなければ受講できないような科目群がすべてのコース・分野に設定されていないなどを考慮すると、「進級条件」の設定自体が熟慮を重ねたものでなく、カリキュラム体系との整合性を検討した結果ではないことが明らかである。

PE一科目になぜこのような特権的例外的な地位を与えるのか?

以上のような諸論点に関する明確な合理的合法的説明のない限り、当面は、TOEFL「500点以上=正規進級」と「499点以下=仮進級」という形態を採用するしかないであろう。(問題はもちろん先延ばしというだけに過ぎず、一方で、上記諸論点をクリアすることが求められ、他方では、4年間の終了時点で大問題となることが予想される、つまり卒業判定に問題が先送りされたことになる)

また、仮進級者に関して3年次4年次でのPEに関しては、週3コマなどという履修強制は、出席における成績向上、履修における熱心さその他、現場教員しか判断できない側面に関して、まったくカウントされない以上、「強制」だけの意味しか持たず、そのような履修強制は百害あって一利なし(この2年間の学生の態度・出席状況、夏期講習等の履修状況を見ればそれがよくわかる)。

当初、TOEFLは出席点を考慮するものではく、基準点数クリアだけだとした原則を貫くしかないだろう。履修強制が意味を持つのは、せいぜい最初の1年間であろう。(2年次以上において、PEを活用したより発展的な講義体系が準備されることが条件となるが)

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  この意見は、段階的成績評価システム(ごく普通の科目の評価システム)に、PEの成績評価も今回、この2年間の経験を踏まえて、教授会審議によって改める(これまで教授会審議をやっていないのではじめて本格的に真正面から、全教員参加の議論を行う、というものであるが)というたたき台(昨年末以来の私や学生諸君の意見)には、むしろ反対の見解である。

  本日寄せられえた意見は、あくまでも500点基準を堅持することを前提にしている。
 ただ、経過措置を講じるという趣旨のものである。ひとつのありうる選択肢ではあろう。
 大量の学生の留年(最低一年間の在学期間延長・・将来の就職などで相当に不利になるやり方)を当面は回避する措置である。

しかし、この間、専攻分野・入試区分などによっては、TOEFL=500点基準があまりにも非現実的なものと感じられ、すでに相当数が強制的な履修プログラムにも参加していないし、試験も受けていない、とされる。
 そのような人にとっては、絶対達成不可能と思われる画一的基準を今後もずっと目の前にぶら下げられる、ということになる。PEという科目(基準点数)がそれに値するほどの絶対的価値を持つのか、果たしてそれが、大学(国際総合科学部)における教育のあり方として、妥当か。

私はこの際、初発の設定自体における問題を率直に認め(設定した人々が認められないとすれば教授会において)、教授会の主体性において、段階的成績評価のシステムに直すべきだと思うが、・・・。(その意味は、巷間、ひとつの意見としてささやかれている画一的基準の画一的引き下げ、たとえば、500点を450点に引き下げるといった変更には反対だ、という意味でもある。ここでは本来の諸個人の達成度に対応した段階的成績評価という至極もっともな基準体系にあらためるということである)






ここまで書いてきて、はっと連想した。これはブッシュが単独行動主義(独裁の手法)で突き進んだ無謀な・大義なき(まやかしの大義での)イラク戦争と同じではないか。
 退くのも困難、頑固に固執するのも困難。
 どの道をとっても、相当に大変ないろいろな犠牲が出るのは避けられない、と。
 真珠湾攻撃に突き進む日本の天皇制絶対主義国家指導部のあり方との連想は、すでにあったが・・・。

 

 

 

 新しい意見に関しても、そうしたことの決定はどこで、どの審議機関で下すのか?

全学的に影響のある教学上の問題をどこで審議するのか?

学校教育法等の関係法規との整合性は?
  
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学校教育法:第五十九条〔教授会〕
大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない。


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学校教育法適用の「教授会」審議事項は、たとえば、旧学部の諸規定を見れば、

(7)学生の入学、退学、休学、除籍、賞罰及び卒業に関する事項



  

 

 

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1月9日 私の意見を何人かに直接お知らせしたところ、下記のような賛同の意見が寄せられた。貴重な意見に感謝したい。

 

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先生がメールやホームページで指摘されている問題点には、私も同様の印象を持っております。
 
教員全員参加による意思決定機関としての教授会は潰されましたが、教員の良識を示す何らかの意思表示は必要であろうと思います。
 
教職員管理職の独裁状態は、おろかな判断が大学運営にそのまま反映されてしまうため、大学はどんどん変な状態になっていきます。建て直しどころではありません。
 
それを少しでも是正するために、署名の様な形で単発的な意見表明が必要かと思いますし、実質的な教授会の制度化までいけたら望ましいと思っております。
 
組合に提起することも必要かと思っております。

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「教員全員参加による意思決定機関としての教授会は潰されました」とこの教員の方は判断しているが、それが文字通りであるとすれば、学校教育法に違反することは明らかではなかろうか。臨時教授会の開催は、一定人数の署名・開催要求があれば、開催されることになっているので、制度的には、薄皮一枚で学校教育法違反を免れるようになっているのではなかろうか。

 問題は、300余名もの1年間の在学期間延長を意味する留年判定(処分)を、全教員(その専門教育の仕方・あり方)にかかわるような全学的に重大な問題を、一切審議しないで済ませようとする独裁体制にある、ということではなかろうか? その点では、「教職員管理職の独裁状態」こそ問題だということではなかろうか?そうした「教職員管理職の独裁状態」を作り出した経営陣の問題性、ということではなかろうか?

大学経営陣がどれだけ自立的・自治的であるかによっては、直接的に市当局(市長)の問題性ということにつながろう。

 

 

他方で、次のような見解も寄せられた。

TOEFL500点=TOEIC 600点」であり(その意味は、TOEIC600点のほうがクリアするのに容易との判断)、現在の社会では多くの企業がTOEIC600 点クリアを求めるようになっているとする立場からの意見である。

「お久しぶりです。Webの方はいつも拝見しております。・・・いまやTOEICはかなり決定的です。日本IBMあたりが、TOEIC600を取れない人間を係長にはしないというのはまだ分かりますが、トヨタ自動車なども、たとえ地方の工場であっても、TOEIC600を取れないものは係長にはしないという時代になってきています。・・・トヨタフランス社長や、日産史上最年少重役はもちろん、活躍する卒業生の方々に申し訳ないので、就活が始まる3年生になる前に留年させるのも仕方がないのかなと思っております」と。

 

 これがひとつの貴重な意見(情報)であることは認めよう。経営陣などが、PEセンターの設置に踏み出し、予算措置を講じていることと認識が同じなのだろう。

しかし、なぜ、優秀な卒業生の存在を理由に、現役の学生が非合理的システムのために苦しまなければならないのでしょうか?

 

そもそも、「トヨタフランスの社長」や「日産史上最年少重役」といった人々の学生時代の成績は、さまざまの科目に関してどのようだったでしょうか?

学生さんの誰か、先輩であるトヨタフランスの社長さん、あるいは、日産史上最年少重役に尋ねてみたら?

もしかしたら、英語会話のような科目は履修していないか、成績が悪かった(たとえば、可)かもしれません。

その逆に、英会話など英語関連科目がすべて優や秀のクラスであるかもしれません。しかし、その場合にも、たとえば、当時は教養科目のなかで自然科学系の科目(たとえば数学や物理学など)はあまりよくなかったかも知れません。あるいは、すべて優や秀で超とびっきりの成績だったかもしれません。

個人個人により、多様な可能性があります。国際総合科学部は、商学部、国際文化学部、理学部の三つの学部を統合してできたものであり、それだけに学部の中には多様な進路・専攻分野の学生諸君がいるので、多様性の尊重はきわめて重要ではないでしょうか?

 

商学部出身のトヨタフランスの社長の事例などで、PEという単なるひとつの科目のみである基準を超えられないと、企業でしっかり仕事ができない、将来優秀な企業人になれないなどと立証できるでしょうか?

また自然科学系の人に対して同じPE基準を要求していいでしょうか?

自然科学系の学生は、一般的には数学・物理・化学のような科目群が得意な人(高得点の人)が入ってきていると見るべきではないでしょうか?その分、必然的に、入学時点で文科系の科目群が相対的に弱いということではないでしょうか?

このような多様性をどうして認めないのでしょうか?

 

 現在、いわゆる一流企業で「係長になるまでに」TOEIC600点をクリアすることが求められるようになってきたとしても、そのことと、2年生から3年生に進級させない、留年させていい(在学期間は5年間以上となる、奨学金をたたれる、など重大な影響がでてくるのだが、それでも)、ということとの間には大きな論理的現実的飛躍があるように思われる。また、自然科学系や専攻分野によっては、TOEICなど求めないところも多いのではないでしょうか。

 

 いずれにしろ、上記のような理由で、学部学生の半数近い300名余の人間を、最低一年間は留年させてもいいというような画一的な制度設計は、根本的に問題をはらんでいると思われる。すくなくとも教授会の場で設定した基準ではない。教授会などあずかり知らないところで(そもそも教授会が開催されていないところで)、決められたものである。

 

 全国・全世界の大学のごく普通の成績評価の仕方、科目ごとの段階的成績評価システムでなぜいけないのか?

私に賛同の意見を表明した学生さんの言うとおりではなかろうか? 

 「TOEFL500点以上はわが大学では優の成績として認定します、550点以上なら秀と認定します。わが大学のPEの優と秀の成績は、全国的世界的な基準では、これこれのTOEFLTOEICの点数に対応する客観的社会的なものです」ということで、十分ではないか?[7][6][5][1][1]

 その点数をクリアしようと学生がPEに励むか、あるいは自分の持ち時間をほかの専門科目群に振り向けるか、それは学生諸君一人一人の希望・進路などに任せればいいのではないか?

PEのある点数(合理性のない点数)という恣意的基準を画一的に全員に押し付ける必要はないのではないか?(恣意的というのは、教授会で審議したことではなく、現場教員の賛同を得たものではないという意味で・・・この点、本日誌で再掲した「教員組合週報」(HTML)も参照されたい)。

 PEだけのために、2年生にとどめ置く、留年(在学期間一年延長)までさせるなどという偏ったやり方は必要ないのではないか?いや害悪ではないか?

 社会(企業?)が必要とするなら、それこそ自己責任で、各人の必要度に応じて3年生や4年生になってある点数をクリアすれば十分ではないか?

就職活動でPE5000点をクリアしていないことが不利になるなら、それこそその学生の責任ではないか?

 

 学生諸君、教員のみなさん、黙っていれば、上記のような現状肯定の意見が通用するかもしれません。(私には、それはありえない、社会的に理解されず許されないと思われますが)

 学生諸君、おかしいと思ったことは、皆さんが接する教員(ゼミや講義の先生)にぶつけてみる必要があると思います。

 特に奨学金をもらっている学生さん、留年でも奨学金貸与があるかどうかは、キャリア支援センターできちんと確認する必要がありそうです。

 いずれ必要なら、先日の学生さんの言うように教員・学生有志による集会・そこでの決議、さらにその記者会見での発表などといったことも検討せざるを得なくなるかもしれません。

 

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1月7日(4) 教員組合の執行部関係者から、下記のご連絡があった。関心ある人は読んでいただきたい。

私の記憶では、2005年の最初のころの経営側と教員組合との話し合いで、学生の出席の評価をきちんとすべきではないか、講義現場の教員の成績評価の責任と権限をはっきりさせるべきではないかと教員サイドが言ったとき、当局側は、プラクティカル・イングリッシュの制度は、本質的に出席するかどうかで評価するものではない、と答弁していた。団体交渉か何かの記録に残っているはずである。その答弁からだけでも、当局側の責任は裏付けられると考える。いずれ、しかるべきときには、その記録も、組合関係者から出されるかもしれない。

 

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念のため情報としてお伝えします。2005年10月11日の教員組合の週報で、組合のTOEFL問題に対する基本的見解を出しています。http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/top-right.htm 

 この立場は、基本的に現在も変える必要のないものであり、ながみねさんのご意見とあい通じるものがあります」。

 

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2005.10.11

「教員組合週報」(HTML)を発行しました
もくじ
● 第二回の団交を申し入れています。
● 学長選考・任命に当たっての教員組合の見解
● いわゆる「TOEFL500点問題」について
● 時間外労働に関する労使協定の更新

 

1月7日(3) 最初の学生さんからの追加意見(抜粋)。

 

「付き従う大学側」とは、どのような人々でしょうか?

多くの教員は、制度設計の内容の不透明な任期制などの押し付けを前にして、どのような不利益措置が降りかかってくるかわからないと、とくに準教授以下の若い人々は、危険を感じ、萎縮し沈黙している(せざるを得ない)と思われます。現在の状況では、教員の立場は、弱いものです。(私はそう見ています)

 

「付き従う大学側」とは、上記の教員組合の文章が示すように、少なくとも、教員組合で任期制問題などで闘っている教員ではなさそうです。

「付き従う大学側」とは、大学改革を合理的合法的に、民主的に実現していこうとする教員の人々ではなさそうです。

 

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PEに関してはあらゆる切り口から問題点が山ほどでてきます。

だせばきりがないほど問題点だらけなのは学生としてつくづく感じています。

・・・・

さらに他大学からの友人からもマスコミで報道されただけあってPE問題でたまに「大丈夫?」

と言われたりもします。法政大の先生と週1で授業がありますが、そこでもよく聞かれます。

 

学生は相当振り回されたと思います。改革初年度という混乱を十分に味合わされたと思います。

学生からは「先が見えない」のです。全く見えません。

いつも水面下の話で、「夏期講習に出ろ」とか「出席数が足りないと試験を受けさせない」など、

勝手に決定されて、突然言われるの繰り返しです

 ・・・・

 永岑先生が学生側の現状を知る機会がなかなかないのと同じように、学生側も教授陣や大学側が何を考えて

いるのかを知る機会はほとんどありません。やはり、互いが情報・意見を共有できる場というものが必要なように思えます。
学生の現状・ニーズをも取り入れてこそ本当の改革なのではないでしょうか。

 

役人の点数稼ぎの改革があり、

それに付き従う大学側が突進し、

その負担を背負う学生はただそれに服従する

でいいとは思えません。普通に考えればこれでいいと思うのは異常です。

そもそも学生は改革の膿を押し付けられる役割ではなく、大学の主役のはずです。

 ・・・

たかが英語の単位認定や任期制導入の是非で大学を崩壊させるわけには行かないと思います。

 

 

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1月7日(2) 下記の日誌を読んだ学生から共感の意見が寄せられた。紹介しておこう。

         大変参考になる。学生のおかれたこのような具体的な問題状況は始めて知った。

このような学生の筋の通った生の声こそ貴重である。

 

当局が不合理な画一的基準に固執すればするほど、1年次生も含めた補習クラスの数は増える。そして、留年学生が増えつづける。こんなことで、多くの学部学生の将来をだめにしてしまっていいのか?

 

ところが、不合理な画一的500点基準を固執するとびとは、固執すればするほど、「500点基準を達成するため」という大義名分のもと、PE関連の組織(権益)を広げることになる。

PEセンターでいったい何人の人員をあらたに採用するのか?

どれほどの予算を使うのか?

誰が採用人事を行うのか?

誰がPE教員の適正・能力を判断するのか?

人事委員会は?人事の公正性は?その透明性は?

 

厳しい予算の状況で、研究費削減など本来の多様な科目群を担当する教員の教育研究条件はますます圧迫されている。どこに、PEのために大量の教員を雇用する予算があるのか?

このまま放置すれば、国際総合科学部の教員・教授会とは無関係のところでカリキュラムとその担い手に重大な変更が加えられる。教員の生活条件(給与等)にも重大なしわ寄せが発生する可能性もある。国際総合科学部は実にいびつな教員構成、実にゆがんだカリキュラム体系となる。

プラクティカル・イングリッシュをそのような極端に例外扱いしていいのか?

 

臨時教授会開催は必然的法的要請であろう。当局側が開催しようとしないなら、できるだけたくさんの教員の連名で、進級判定教授会(全体会)の開催を求めなければならないだろう。

 

今日紹介した二人の学生さんのメールだけからでも問題の深刻さはわかるが、この日誌を見た学生さんがほかにいれば、そして言いたいことがあれば、知らせてください。ここに適宜、掲載していくことにします。皆さん各人の具体的な経験・実情に即した多様な声が集まればと思います。

 

多くの学生さんの声が、現状に心を痛めている良心的な教員に影響を与えるであろう。学生と教員の声は、メンツ(?)や地位(?それに伴うのは狭い意味での経済的利益だけではない)をまもろうとする人々、権力と権限を持った人々に、臨時教授会を開催して、全学的に問題を再検討することを余儀なくさせるのではないかと思われる(甘い幻想か?)。

 

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国際総合科学部  2


名前を書かないでメールを送り非常に失礼ですが、寛容に見ていただければと思います。


私も実は未だTOEFL500に到達していません。留年の危機も迫っているということで私なりにこれまで非常に頑張ってきました。私は学費、生活費すべてを自分で払っています。そのお金というのは奨学金と自分で稼いだお金でまかなっています。なので奨学金とバイト代というのは私にとって両方なくてはならない存在であります。


しかしこのままの生活では留年はまぬがれないと思い、バイトを休み日々英語の勉強を頑張ってきました。しかし12月のTOEFLでは497点でした。あんなに頑張ったのにまた落ちました。12月にバイトを休んでしまったので1月からはもう生活ができなくなるので休めません





バイトを休んで受からなかったのに、バイトをしながら果たして2月のTOEFLにうかるでしょうか?非常に不安でなりません。





私は教職をとっていますがこの制度のせいで何度教職をやめようと思ったかわかりませんまた副ゼミをとりたかったのですが英語に受かってないので負荷が大きくなると思い、とることができませんでした。





もし留年になったら奨学金がおりなくなるというのを人から聞きました。そしたら私は大学をやめなくてはいけなくなります
またTOEFL70点位当初より上がりましたが、TOEFL攻略のノウハウは知ることができても、英語力は上がったかと聞かれたら疑問が残ります英語が不得意な人が得意な人より頑張っても評価がもらえない、しかもそれが単位を落とすとかではなく、留年するという非常に配慮に欠けた対応だと思います。このように思っている学生は私の周りにもたくさんいます。





まとまりに欠ける文ですがどうしても声を出さずにはいられなかったので……参考にしていただければ幸いです。

 

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1月7日(1) TOEFL500点問題で、怒り、苦しみ、不安でいっぱいの学生諸君は多いと思われる。先日の1月定例コース会議(コース内規で開催しているが、コースによっては基礎組織としてのコースでの会議さえ開いていないとも言われる、また、まったく権限のない会議に参加する義務はないと参加しない教員もいる・・・要事実確認)で示された数字によれば、9月段階から根本的な点での事態の変化はない。12月16日のTOEFL試験の合格者は30名程度のようである。非常に多くの学生が3年次に進級できない(進級させない)というのは異常極まりない。だからこそ新聞でも全国的に報道されたのであろう。

学長・学部長、それらを任命した経営陣(その経営陣を任命したのは市長=市当局)は、真剣に問題の合理的合法的改革のために、行動をとらなければならない。コース会議でも、「そもそも制度が根本的に問題だ」、と私は発言し、何人かの教員の明示的な(発言による)賛同もあった。

「臨時教授会を開くべきだ」との筋の通った意見も出された。まさに、学生の半数近い諸君の進級判定(=この場合は、進級不可の処分)を、一切教授会で審議しないなどということが、学校教育法上、許されるわけがない。

国際総合科学部の教員一人ひとりに、問いは投げかけられている。進級判定(不合格処分)を行う責任と権限は、学校教育法上の教授会にある。入学者判定、卒業判定、不正行為に関する判定などが、代議員会(運営会議)の責任と権限で行われている。一人二人の不正行為に関してさえ、教員組織としての代議員会や学生生活委員会といった教員の組織が、問題を審議し、決定を下している以上、たくさんの学生の進級にかかわることを教員組織・教授会で審議しないでいいということにはならない全学生の進級判定は、学校教育法にのっとり、教授会マターであろう。

これほど重要なことを、学部長・学長、そしてそれを任命した経営陣(それを任命した市長=市当局)の行政的決定システム(上意下達の独裁システム)の中におくことは、到底許されない。

この間何回か本日誌に書いた私の意見に学生の一人から、賛同の意見が寄せられた。匿名の形で、以下に掲載しておこう。今後、心ある教員と学生諸君が、問題を話し合う場を設定することに、賛成であり、ひとまずここにその意見を公開しておこう。

 

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あけましておめでとうございます。

はじめまして。永岑先生の大学改革日誌を読ませていただいてます。

 

私は国際総合科学部の2年生(1期生)です。
一昨年に入学してから、私は横浜市大の改革に疑問を持ち続けていました。

英語(Practical English)、複数ゼミの単位認定なし、教員の流出(外部講師の多さ)、教員の任期制…など

特に英語(PE)に関しては早急に解決が必要だと思っています。

 

単刀直入に言ってしまえば、私は永岑先生のPEへの問題提起・意見にはとても賛成です。

日誌にある「TOEFL500という進級基準をいつどこで誰がどのように決めたか」という問題提起は的確なように思えます。

さらに「秀〜可・不可」に評価基準を切り替えるという案もいいと思います。

 

 

国際総合科学部生としてPEを受けてきたわけですが、1年目はとても「悲惨」でした。

TOEFLを期末試験として受けさせられるのに、TOEICの教科書を買わされる。

○しかもそのTOEICの教科書は週1でしか扱わない。

○先生側の質にムラがありすぎる。

出席点は全く関係なし。

 

こんなひどい状況で出席率がいいわけがありません。誰が考えてもわかることだと思います。

自分のクラスでは出席者は毎週3〜6人程度でした。

 

2年目になったら大学側の焦りが見えてきました。

TOEFLの教材になった。(おそらくTOEFLゼミナールのもの)

○何故か一定の出席がないと期末試験がうけられない・単位認定されない。

PEのSクラスとそうでないクラスに分かれ、そうでないクラスではまともなTOEFL対策もされてない。(弱者切捨て)

○後期ではSクラスの中でもレベル別になり、あきらかに統一の目標に対する統一性に欠けている。

3単位なのに週4コマになる。

 

ほとんど外部(TOEFLゼミナール)に頼っているという感じが否めませんでした。

講師も教科書も市大オリジナルではないのです。

出席条件も勝手に新たにルールに書き加えているあたりもおかしいと思います。

(後出しじゃんけんもいいところです。)

 

2年後期では

PE-Sクラス上位→TOEFLゼミナールの教材を使い、難易度も高め。

PE-Sクラス下位→TOEFLゼミナールの教材を使うが、難易度は低め。

PEクラス→教材はよくわからないが、噂によると難易度的に初歩的なことしかやらない

 

このようにクラス分けが行われていましたが、そもそも、TOEFL500という画一的な目標があるのに、何故、難易度が違うのか。

苦手な学生に難易度の低い対策をすれば、高難易度の授業を受けた得意な学生と同じ得点が取れるのだろうか。

例えば、TOEFL500点突破と450点突破と400点突破のクラスがそれぞれあるということは全員がTOEFL500に到達しないということは誰が考えてもわかることです

旧学部または他大学のように、それぞれのクラスでの出席点と試験等の点数で評価を行っているのならば問題はないと思いますが、現在のPEの画一的な成績基準では下位クラスの学生はすでに切り捨てられていると言っていいと思います。

教育としてそれでいいのでしょうか?

 

学生全員が英語が得意だとは限りません。苦手な人だっています。

それはやはりPEのクラス分けから見てもわかることです。

そもそも入試の時点でたとえ英語が苦手でもこの大学には入れることになっています

 

私自身も英語がそこまで得意ではありません。

初回のTOEFLは・・・点台、TOEICでも・・・点台でした。

2年生の今ではTOEFLは460点、TOEICも570点にまで成長しました。

これは評価されません。基準を超えていないからです。

TOEFL500は評価され、TOEFL499は評価されないのです。

専門教養ゼミを2つ以上とっても評価されないのと同じく、学生の努力が単位として認められないのはとても残念なことのように思えます。

 

そこで永岑先生のPEの成績評価案はとても合理的だと思います。私も似たような段階的評価にならないものかと思っていました

秀(TOEFL550点以上)

優(500点以上―550点未満)

良(450点以上―500点未満に設定)

可(400点以上―450点未満に設定、あるいは380点以上−450点未満)

のように。

 

 

そう思っていたりしても、その疑問や意見をどこにぶつければいいのか?

学内でも不安感・絶望感があり、マスコミに問題として取り上げられているのに、

学生の意見を取り入れる場、改革について議論する場がないのはおかしいと思います。

 

TOEFL500問題が教授会で審議されたことがないまま突き進んでいるというのにも驚きです。

 

昨年12月のある日、・・・コースのX先生は

「市大は大学改革によってボロボロになった」

「この大学改革というのは学生にあわせてやっていくものなのに現状はそうではない」

「この大学改革は役人の点数稼ぎ」

というふうにおっしゃっていましたが、まったくもって同感でした。

 

今こそ、教授や学生が立ち上がって現制度と大量留年を阻止しなければならない時だと強く思います。

しかし、それはどうやってやるのか?よくわかりません。

このままでは学生としてとても不安です。

 

何か市大関係者が一同に集まって議論をする場がないといけないと思います。

例えば、横浜市大新聞でも取り上げられた、2005年12月20日に行われた教員集会や、昨年行われていたNOB

(Network of Out Burst 横浜市立大学有志学生組織)主催のイベント「話そう!市大改革!〜学生・教員ディスカッション〜」

のようなものがあればそこに教授や学生が集まり、議論ができるかもしれません。

しかし自分ひとりでは全く持って身動きがとれずじまいでどうすることもできません。

何か打開策があればいいなあと思っています。

 

 

長文失礼しました。

あまり考えがまとまっていなかったのですが、日誌を読んだ感想というか学生の一意見として思ってもらえれば幸いです。

 

 

 

 

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2007年1月4日 本日誌に関心をお持ちの皆様、新年おめでとうございます

 

大学内外の真の民主主義の実現の道は、いばらに満ちており、大変なものですが、大局的には、大学内外の人々、そして世界の人々は、まさにその民主化を紆余曲折を経ながらもすこしずつ実現し、またそのために一歩一歩、着実に歩んでいると考えます。その見通しに立って、長期的には楽観的に、しかし、目前の諸事全般に関しては緊張感を持って進みたいと思います。大小にかかわらず、ご教示、コメント、ご批判などよろしくお願いいたします。

 

大学における任期制の問題では、楽観は許されません。TOEFL500点問題同様、「難問」が山積しています。

合理的合法的理由なしに、「えさ」をぶら下げて、人々に任期制を押し付けよう、飲み込ませようとする考え方、勢力は存在します。大学教員任期制の法律がどのような趣旨のもとに、どのような説明原理で国会において成立したのか、そのときの付帯決議は何か、大学教員に対する労働基準法第14条の適用はいかなる合理的根拠を持つのか、きちんと確認すべきことがたくさんあります。

 

新しい公募人事に応じたため、「任期制に同意した」とされる教員に関しても、一般的全般的に「任期制」に反対を表明できない以上、やむなく「同意」したのであって、任期制の基準や適用における不透明性・不公平性など問題があれば、きちんと教員組合などを通じて、透明性・公平性など権利を確立していく必要があります。私の見るところ、「普通にやっていれば問題ない」などと言う口頭での基準説明は、合理的ではなく、人々を安心して仕事に没頭させる基準ではありません。むしろ、不安を撒き散らすやり方です。

非合理で不当な任期制の適用やその基準の設定の仕方、判定の仕方などに関しては、大学の自治、学問の自由を守る見地から、すなわち、大学人としての普遍的責任の見地から、どうどうと発言していくことが求められます。

 

一人ひとりの教員は、「同一労働=同一賃金」という商品交換社会の基本原則(商品=貨幣の等価交換という全世界的な公正明瞭な市民的合意)に立って、不当な任期制適用(基準のはっきりしない差別的賃金体系や差別的適用)には反対していくべきものでしょう。それとも、自分の労働が適切に評価されなくてもいい、あるいは逆に、自分の労働だけはほかの人より格段に有利に評価されればいい(不等価交換でも、自分だけよければいい)、などと考える人は、いるのでしょうか?

 

「同一労働=同一賃金」の原則を実現するためには、何が同一の労働であるか、誰の労働と誰の労働が同一かが問題となります。

別の表現をすれば、違った労働をどのように段階的に区別して違いを評価するかという問題となります。評価の仕方、評価に当たっての基準となる諸項目、評価の主体などが問題となります。

 

各人の労働の違いを賃金の違い(量的に違うだけの違い)にいかに適切に合理的に反映するかが問題となります。不当な、合理性のない(合理的説明のない)差別賃金は、安定した魅力的で生き生きとした研究教育環境を実現するという見地からは、許されません。「決まったことだから」という言葉のオームのような繰り返し(内容説明ぬき、説得的制度説明ぬき)は、合理的説明に根本的に反するものです。

合理性のない賃金体系(その押し付け)は、結局のところ、不満を撒き散らし、働く人々の意欲、モラールをだめにしていくでしょう。それは、それぞれの組織の活性化とは正反対の結果をもたらすでしょう。

 

任期制問題で巷間の関心を呼んでいるのは、秋田の国際教養大のニュースです。

誰が、どのように評価しているのか?

ピアレヴューはどうなっているのか?

「教養大の3年間」とは、なんだったのか? どこにその内容が明らかにされているのか? その内容の評価は誰がするのか?

京都大学井上教授問題における最高裁判断もしっかり見据えつつ、「任期制」の意味を吟味する必要がある。

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倍率20・1倍の狭き門 教養大教員募集、世界各国研究室HPトップへ日誌表紙ページ「大学改革日誌」

 「憲法23条」と解説:芦部『憲法』   

         

 

 

1月24日 非公式に耳に入った情報では、医学部教授会は、大学自治再建の見地(人事等に関する学部自治の再建の見地)から、学長、学部長の選出・任命に当たっては拒否権を行使する決議を行ったということである。

 正確な情報は、いずれ判明するであろう。現在の学長、学部長、コース長、専攻長などが「上から」(経営サイド)、「外から」(市当局サイド)の任命であり、大学自治・学部自治を無視ないし極限まで切り縮めたものであり、それに対して、憲法、新教育法(大学の自立は新教育法も保障し認めるところである・・・憲法違反の法律でない限りは当然のことだが)、学校教育法に基づいて正当なことを決議したものである。

 

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1月23日 よこすか基地問題に関する訴え(神奈川大学人の会)を掲載しておこう。
           憲法と教育、軍事力強化・世界的(対米従属軍事「貢献」、考えるべき連関事項は多い。
           イラクの内乱状態の中で、大学の研究者が狙われることも多発している。
           平和と大学の自治・学問の自由は相関しているとみるべきであろう。  

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住民投票を実現するために
<原子力空母の横須賀配備を問う>
広く県民の皆さんに訴えます
横須賀市議会にはがきを送ろう
***

 横須賀では、横須賀を米原子力空母の母港にしようとする動きが進められており、日本政府は、地元自治体にその受け入れを迫っています。
 これに対し、横須賀市民が、原子力空母配備の是非を問う住民投票を求めて、4万筆近い署名を集めた請求を提出しました。これを受けて、市議会で住民投
票条例の制定をするかどうかが審議されます。
 しかし、状況は楽観を許しません。是非、市民の声を横須賀市議会に届け、住民投票を実現させましょう。
 住所が市内であるか、市外であるかを問わず、みなさんからも、葉書を出す運動に取り組まれ、また、あらゆる機会に人々にこの運動を伝え、参加するよう
訴えてください。急で申し訳ありませんが、25日までに市議会に届くようにお願いできればさいわいです。
  緊急のため、神奈川の会(仮称)・事務局の「訴え」をお借りしました。(同じ文を添付しています。)

2007年1月22日
米軍再編強化に反対する神奈川の大学人
共同代表 伊藤成彦・久保新一・下山房雄
事務局  山根徹也
メール  yamane@yokohama-cu.ac.jp
HP http://www.geocities.jp/kngw_dgkjn/index.html

***

今横須賀では、原子力空母の横須賀母港化の是非を問うために、住民投票条例の制定を求める運動が広がり、山場を迎えています。

 政府は求められるままに、米原子力空母の横須賀配備を容認し、地元自治体にも受け容れを迫ってきました。横須賀市長や神奈川県知事は、それまで安全へ
の危惧などから受け容れないと公約し、地元尊重の意思を示していたものの、昨年夏、あいついで配備容認に転じました。

  
これに対し地元横須賀市民は、原子力空母配備の是非を問う「横須賀市住民投票条例制定」を求めて直接請求の署名活動を行い、1ヶ月で実に37858筆の
有効署名を集め、必要数7114名を大きく超えました。


 直接請求署名は、市内在住有権者が、住所、氏名、生年月日を書き、押印するもので、この数字はきわめて大きいものといえます。蒲谷・横須賀市長は「原
子力空母の配備や防衛問題は国の専管事項だ。住民投票になじまない」として自らの容認姿勢を糊塗しています。
 原子力空母の安全や艦載機の爆音、そして戦争の危機と攻撃目標化される懸念など、横須賀市民にとって自らの生活に直接関わる問題です。
 この「自分たちの街づくり」や「住民自治」にかかわる重要課題について、市民の意見を反映して「重要な政策課題は住民投票で決定する」ことで、平和で
住みやすい豊かな横須賀市を実現しましょう。

 2月上旬とみられる臨時市議会では、何としても「住民投票条例」を制定させたいと、私たちは願っています。
 そこで、すでに各地で様々なご努力を重ねておられると思いますが、加えて、はがき等による横須賀市議会への働きかけを提案いたします。
 私どもの具体的な提案につきまして、ご協力をお願いいたします。(裏面をご覧ください)

2007年1月16日
米軍再編・基地機能強化に反対する神奈川の会(仮称)・事務局
***

[裏面]

はがきによる横須賀市議会へのはたらきかけについての具体的な提案

1、働きかけの対象

 これまでの経過からみて、2月上旬に開催される臨時市議会で、住民投票条例案に対する市長見解に同調する、あるいは同調を余儀なくされる横須賀市議会
議員および会派の一覧表をお示します。この方々が住民投票条例案に賛成することをめざします。(なお、2006年には、配備に反対する決議等が2度にわ
たって全会一致で採択されています。)

2、働きかけのポイント

  今回の住民投票条例制定の議会審議は、原子力空母の横須賀配備の賛否に関わらず横須賀市の将来に関わる重要課題を、「市民の直接投票」で決めようと
いうものです。この背景には、当初は配備に反対してきた自治体が、国の圧力に屈して市民の思いと乖離してきた経過があり、もう一度市民の声を確かめよ、
という意図があります。

 この重大な選択にあたって、

・議員の皆さんや会派に、初心に戻っていただくこと

・会派は党議で拘束することなく、議員が主体的に判断すること

などがカギになると思われます。



3、なぜ市外からか

  安全性に関わる問題点は、ひとり横須賀の問題に留まりません。原子力艦船の事故はひとたび起こると、東京湾及び首都圏の自治体住民全体の安全問題に
なります。

  私たちは、どこに居を構えていようが原子力空母を横須賀に配備に懸念をもち、国や県に対して反対の意思を表明してきました。座間の星野市長がふんば
り、岩国がそうであったように、横須賀の選択は全国に大きく響きます。



4、皆さんの思いを自筆でお書きください。

 あて先は、別紙議員名簿、および会派、議長、市長名簿から適宜お選びください。
1月25日までに届くようにご努力ください。

<例>(ご自身の文面をお作りください)
『横須賀への原子力空母配備計画は、国の専管事項だからといって容認したら、事故や犯罪、戦争の危機など市民生活の安全を確保する横須賀市の役割を放棄
するに等しい。まして、日米地位協定の一方的運用や「軍事機密事項」のもとに情報を隠蔽する軍隊の性格などを問題にし、市民の声を反映して横須賀市の将
来を見つめ市政を運営してください。住民自治とそれを生み出す「住民投票条例」を制定してください。』

以上、自筆によるはがき運動のため、相当に意識的に広げていただく
必要があると思われます。また、各方面に万遍なく届けられるための
工夫も、よろしくお願いいたします。





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1月22日(4) 今一度、次の緊急呼びかけを掲載しておきたい。
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《緊急情報》
陰謀的改憲手続き法案=国民投票法案を廃案にするために1.25国会内集会に参加しよう
             2007年1月21日 国立大学法人法反対首都圏ネットワーク事務局

   
25日に召集される通常国会において、「国民投票法案」という名の謀略的改憲手続き法案が強行成立する危険が急速に高まっています。それは、安倍首相が繰り返し成立させる意志を表明しているからだけでなく、与党と民主党の「共同修正案」づくりが急ピッチで進められ、その当事者が「5月3日までの成立を目指す」と成立日まで指定する段階に入っているからです。

この法律案は、改憲強行のために、現行憲法が保障する国民の民主主義的諸権利を圧殺した上で改手続きを行おうとする点で、まさに陰謀的とも言えるものです。陰謀の中心は2点あります。

第1は、国民、とりわけ公務員と教育者に対する運動規制・弾圧規定です。

第2は、衆参両院の各党・各会派の議席差を利用して改憲派に有利な不公正ルールを盛り込もうとしています。特に、「国民投票法案」と一体で提案されている国会法の「改正」案では、議席数によって委員数を配分する広報協議会の設置が含まれていることを見落としてなりません。

   こうした重大な事態を受けて、通常国会召集日の25日に「2007年5・3憲法集会実行委員会」が下記の集会を呼びかけています。
   
 教育基本法に続いて全ての基礎となる憲法が改悪されるならば、国立大学法人法下で既に重大な侵害を受けている“学問の自由”は根底的な危機に陥るでしょう。本事務局としても、1.25国会内集会に多くの方々の参加を訴えるものです。

++++++++++++++++++
改憲手続き法案を廃案へ!1.25院内集会

この通常国会では、改憲手続き法案が重大な対決法案になると予想されます。衆議院憲法調査特別委員会では与党と民主党の「共同修正案」作りに向けた作業が進んでおり、参議院にも特別委員会を作るという動きがあります。この通常国会で法案の成立をはかりたいなどと言う声が聞こえて来ます。
 衆院特別委員会の審議の中では、法案自体の問題がいっそう明らかにされつつあるときに、「戦争のできる国づくり」を急ぐ安倍内閣の要請に沿って改憲手続法をしゃにむに急ぐ動きを許すことはできません。
 この間、思想・信条・政治的立場の違いを超えて憲法改悪反対の共同行動を進めてきた「5・3憲法集会実行委員会」は、この通常国会の開会日にあたり、さらに大きな運動を起こすために下記の次第で院内集会を開きます。

 ぜひご参集下さい。

日時:1月25日(木)午後3時45分開会(開場は3時30分)
場所:衆議院第2議員会館第1会議室(地下鉄永田町駅または国会議事堂前駅)会館ロビーで入場券を配布します。
内容:各党代表挨拶、各団体発言

主催:2007年5・3憲法集会実行委員会
憲法改悪阻止各界連絡会議、「憲法」を愛する女性ネット、憲法を生かす会、市民憲法調査会、女性の憲法年連絡会、平和憲法21世紀の会、平和を実現する
キリスト者ネット、許すな!憲法改悪・市民連絡会
問い合わせは03−3221−4668
http://www.annie.ne.jp/~kenpou/index.html



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1月22日(3) 教員組合週報が届いた。以下にコピーしておこう。
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横浜市立大学教員組合週報

  組合ウィークリー

2007.1.22

 

もくじ

3.        3.        3.        1.               当局より新給与制度に関する追加説明がありました

4.        4.        4.        2.               月定例執行委員会概要

 

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 当局より新給与制度に関する追加説明がありました

 

 前号の組合ウィークリー(20061227日付)でお知らせしたとおり、昨年1227日、当局により新給与制度に関する考え方が、資料および口頭で提示されました。しかし、その場では同制度に関わるすべての問題が説明されたわけでなく、また説明に不十分な点も多々あったため、速やかな追加説明の機会を求めることにしました。

 その結果、本年1月11日および18日の2回にわたり、当局による追加説明がおこなわれました。その追加説明においては、

  ・新給与制度における退職手当の算定方法

    ・任期制同意者への対応に関する検討方向

  ・新制度における「経験年数」の考え方

  ・新制度における初任給格付けの考え方

  ・「助教」の職務業績給の給料表

などが示されました。

 この追加説明の詳細については、皆様に改めてお知らせしていく予定ですが、ここでは取り急ぎ、上記の概略とともに、両日に手交された当局側の説明資料(添付ファイル)をお知らせいたします。


概要

118日に定例執行委員会を開催しました。その概要は次のとおりです。

1.最近の状況と課題について

2.次期執行委員候補 次期代議員候補 選挙管理者候補 会計監査委員候補について

3.今後の日程について

4.総会議案書作成について

5.その他

 

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教員組合に皆様の声をお寄せください

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発行 横浜市立大学教員組合執行委員会

 〒236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号

 Tel 045-787-2320   Fax 045-787-2320

 E-mail : kumiai@yokohama-cu.ac.jp

組合HP:http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm



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1月22日(2) 「内部告発」文書を公開して改革の進め方に抗議し、ついには抗議辞職された佐藤真彦・本学元教授の一連の文書が、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)に掲載された。すべての文書は、その当時、われわれに衝撃を与えたものであったが、今、目にすると、改めて緊張感で背筋がピンとなる。

 現在、任期制問題が、労使交渉(団体交渉)のひとつの重要なテーマとなっているが、「任期制に同意するかどうか」、「任期制に共感するかどうか」で昇任差別はできないと見た法人サイドは、労働条件・研究条件差別をちらつかせて、あくまでも「全員任期制」を押し付けようとしている。

 いったい任期制とは何なのか?
 内容の不明な「任期制」に共感するかどうかを理由に、労働条件や研究条件の差別をしていいのか?
 さらにまた、制度設計の不透明性・非合理性・不法性が払拭されないままで、給与問題に決着をつけようなどというやり方は、許されるのか?


 こうした根本問題を考えると、そのやり方の背景にある「あり方懇」以来の行政当局の姿勢が、脳裏によみがえってくる。まさにそのときに、上記文書が改めて取り上げられた。

(付記:上で述べた見解も、これまで同様、わたしの研究室日誌で書いている個人的な見解である。他人を拘束するものではなく−そんなことは不可能だしありえない-、他人の多様な意見を無視しようというものでもない。「共感して」一時金をもらってもいいではないか、という意見がありうる。
  ただ、わたしの場合は、任期制が法的に適合する明確なもの(不安を抱かせないもの)であればいいが、いまだに不安感がぬぐえないし、任期制に対応する評価制度(主体・基準その他)も不明確なので、その種々不明確な段階で、「共感しているかどうか」を基準に、労働条件と研究条件に差をつけられるのは理解し得ない、というにすぎない。)


 任期制教員がまったく現在本学にないのかといえば、そうではない。
 
 浦舟病院の教員に任期制を適用する際には、大学教員任期制を適用し、「最先端の研究」という任期制法の第一の条項を適用した。その意味で限定的なものだった。

 また、大学教員管理職は、職員の管理職と違って、任期制である。そして、当然にも限定的な少数のポストである。
 学長は4年任期の特別職であろう。それだけに、その年俸は、普通の教員(教授職最高額)の倍くらいにはなるであろう。任期限定で、再任の保証はなく、その意味で、4年任期の限定性に見合った破格の増額となっている。

  研究科長、学部長、コース長、などの管理職も、その管理職任命期間中の増額(手当)が支給されている。しかし彼らは、ひとたび、その職務から解放されれば、クビ(解雇)になるのではなく、普通の教員(しかるべき年齢・経歴・研究教育業績のランクの教員)に戻るだけである。身分保障・地位とポストの保障はある

 これら学長以外の普通管理職は、その任期の間、管理業務に多大の時間を割くこと・精神的負担を想定されて、任期期間中の管理職手当てを得ている。当然にも、その期間、普通の場合には、研究教育時間・精神的余裕がほかの教員よりも少なくなる。その意味では、研究教育業績が、普通の場合、平均より以下であることも想定される。

(多くの事例を見ると、長期間にわたって管理職を続けている人の場合、研究業績はほとんどないに等しいが、それは人間の健康な労働時間に限界のあることの必然的結果である。通常の場合、健康な精神的肉体的労働時間は一日8時間ほどであり、週40時間ほどである。その絶対的枠を踏み外すことは、普通人には不可能である。どこかに問題が生じるであろう。天才といえども、精神を集中する二つの仕事はできず、基本的労働日を超越することはできない。藤原正彦『天才の栄光と挫折』によれば、たとえば、コンピューターの理論的背景となり青写真となる業績をあげた天才数学者アラン・チューリングは、対独戦争勃発で「ノブレス・オブリージュ」の精神で国家機関に奉仕。暗号解読に「粉骨砕身の日々を送」る中では、「数学研究は実質的に中断された」p.198。20世紀の数学の天才の一人ヘルマン・ワイルの場合は、子供の目から見れば、「24時間数学に没頭」同、p.217していたというが、その意味合いには注意が必要だろう。)


 教員管理職においては、研究教育業績の評価を適正に行えば、ほかの一般教員より少ないということは十分(可能労働時間を考えれば必然的に)予想され、その分、研究教育業績評価では下に位置づけられても当然であろう。

 しかしだからといって、クビ(解雇)ということにはならないであろう。
(基本給体系と職務・業績給体系において、管理職手当は正当にも枠外におかれており、逆に言えば、基本給体系と職務業績給は通常の一般教員に求められる水準・質量を当てはめなければならないだろう。その水準は、管理職も行っているとの想定が成り立つであろう。検証が必要だが。教育時間を担当こま数とみれば、管理職の担当するこま数が一般教員の持ち駒数の最低限ラインということになろう。)


 一般教員に関しても、管理職教員並み(どの程度かを見積もるのは難しいが試行錯誤・検証するしかないであろう)の研究教育業績なら、クビ(解雇)はありえない、ということになるのではないか。
 

 いずれにしろ、各業務の適正な位置づけが行われ、任期内になすべきことが明確化されれば、そして、教員組合との合意が成立すれば、ある程度の合理的な「任期」(その評価基準など)の確定はできるともいえよう。  

 教員評価の責任者を誰にするか、どういった組織にするか、そこでの管理職の位置づけをどうするかは、上記のような諸側面をきちんと考慮したものでなければならないだろう。



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1月22日(1) 国会情勢はまたまた緊迫しそうである。

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《緊急情報》
陰謀的改憲手続き法案=国民投票法案を廃案にするために1.25国会内集会に参加しよう
             2007年1月21日 国立大学法人法反対首都圏ネットワーク事務局

   
25日に召集される通常国会において、「国民投票法案」という名の謀略的改憲手続き法案が強行成立する危険が急速に高まっています。それは、安倍首相が繰り返し成立させる意志を表明しているからだけでなく、与党と民主党の「共同修正案」づくりが急ピッチで進められ、その当事者が「5月3日までの成立を目指す」と成立日まで指定する段階に入っているからです。

この法律案は、改憲強行のために、現行憲法が保障する国民の民主主義的諸権利を圧殺した上で改手続きを行おうとする点で、まさに陰謀的とも言えるものです。陰謀の中心は2点あります。

第1は、国民、とりわけ公務員と教育者に対する運動規制・弾圧規定です。

第2は、衆参両院の各党・各会派の議席差を利用して改憲派に有利な不公正ルールを盛り込もうとしています。特に、「国民投票法案」と一体で提案されている国会法の「改正」案では、議席数によって委員数を配分する広報協議会の設置が含まれていることを見落としてなりません。

   こうした重大な事態を受けて、通常国会召集日の25日に「2007年5・3憲法集会実行委員会」が下記の集会を呼びかけています。
   
 教育基本法に続いて全ての基礎となる憲法が改悪されるならば、国立大学法人法下で既に重大な侵害を受けている“学問の自由”は根底的な危機に陥るでしょう。本事務局としても、1.25国会内集会に多くの方々の参加を訴えるものです。

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改憲手続き法案を廃案へ!1.25院内集会

この通常国会では、改憲手続き法案が重大な対決法案になると予想されます。衆議院憲法調査特別委員会では与党と民主党の「共同修正案」作りに向けた作業が進んでおり、参議院にも特別委員会を作るという動きがあります。この通常国会で法案の成立をはかりたいなどと言う声が聞こえて来ます。
 衆院特別委員会の審議の中では、法案自体の問題がいっそう明らかにされつつあるときに、「戦争のできる国づくり」を急ぐ安倍内閣の要請に沿って改憲手続法をしゃにむに急ぐ動きを許すことはできません。
 この間、思想・信条・政治的立場の違いを超えて憲法改悪反対の共同行動を進めてきた「5・3憲法集会実行委員会」は、この通常国会の開会日にあたり、さらに大きな運動を起こすために下記の次第で院内集会を開きます。

 ぜひご参集下さい。

日時:1月25日(木)午後3時45分開会(開場は3時30分)
場所:衆議院第2議員会館第1会議室(地下鉄永田町駅または国会議事堂前駅)会館ロビーで入場券を配布します。
内容:各党代表挨拶、各団体発言

主催:2007年5・3憲法集会実行委員会
憲法改悪阻止各界連絡会議、「憲法」を愛する女性ネット、憲法を生かす会、市民憲法調査会、女性の憲法年連絡会、平和憲法21世紀の会、平和を実現する
キリスト者ネット、許すな!憲法改悪・市民連絡会
問い合わせは03−3221−4668
http://www.annie.ne.jp/~kenpou/index.html


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1月20日 立ち話で非公式に耳にしたところでは、代議員会において進級判定を行うことの確認がなされたようである。
 法律からして、また薄紙一枚のその許容範囲のなかで、ごく当たり前のこととはいえ、新学部初めての進級判定である。その基準・論理等は、明確に社会的に理解できるようにすることが求められる。
 
 しかし、その進級判定を審議する代議員会はいつになるのか? これが決まっていない、公表されていない、ということが学生諸君の不安や疑心暗鬼をたかめる。この手順ひとつとっても、今後の改善が必要ということになろう。

 2月代議員会になるのか、それとも、かつて卒業判定教授会が開催されたような時期に行うのか?
 少なくとも、いつの時点が、学生諸君の運命の決まる時期なのか、学生諸君に早く広く知らせる必要があろう。

 そうした日程がはっきりしないことは、学生諸君の不安、「見通しのなさ」に対するさまざまのストレスを蓄積させるものだろう。

 制度設計の出発点における問題とその後に発生した種々の問題に、総合的にどう対処するか、当の学生諸君、その保護者、一年生、一般市民、受験生の重大関心事であろうから、きちんとした対応を代議員会では示してほしい。

 その処理如何では、教授会開催等がいよいよ必要となるであろう。

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1月19日(2) 教員組合給与問題ワーキンググループの責任者が、今回の新給与体系に関して、どのような変化が起きるのか、各人が自分のデータを入力すれば数値が出てくるエクセル書式ファイルを作成してくれた。さしあたり、最終確定版ではないので、教員組合拡大執行委員会のわれわれがそれを頂戴した。
 入力してみた。(大変な労力で作ったエクセルファイルで、いずれ、組合員には希望により配布されるのではないか、と思われる)

 その結果、年俸ほんの微量の増額(マイナスではないというだけ・・・物価が上がっているとすれば実質的には減少するといえるような額・・・・率で計算すると、昨年年俸の0.03%の微量増、こんな機会でもなければまったく気づかない額、個々人で入力する数値が違うのでわたしが間違っていないとして)で、これが年齢の高い層の「フラット化」と称することの実質的意味なのかとはじめて知った。

 われわれのような「フラット化」した年齢層にとっては、退職金計算のあり方(基準・支給率などと業績との関係、同一労働=同一賃金の原則の適用の仕方)が、むしろ大きな影響を持ちそうである。
 
 
 それに対して、@階層間(助手・準教授・教授)での差を歴然としたものにする(重なりをなくする)、A年齢層によって、アップ率が異なる、というのが今回の提案なので、基本給部分でアップ率の高い若い層で(特に昇任に該当する層)でかなりのアップとなるようである。

 人事評価・業績評価の強調(それによる個々人の号級の違い)が、法人サイドの主張であるとすれば、それが実質的に意味を持つのは(各個人の間で開きが出てくるのは)、まさに若い層のようである。

  とすれば、大きな格差の出る昇任が、できるかどうか、これが非常に大きな意味を持つことになろう。

  ということは、昇任審査の基準、公正さ・妥当性がきわめて重要な問題関心となろう。

 研究と教育の業績が、どのように評価されるのか、研究教育で努力した人が報われるかどうか、その実質的対応関係が、厳しく問われることになろう。それが、活性化の実現と関係してくるであろう。

  すでに、昇任基準では、大きな問題が指摘されている(研究教育に対する行政・管理優位の問題点・・・基準とその適用のやり方は研究教育の活性化と結びつくか? 噂では基準が11月か12月かに変更されたという。なぜか? 具体的必要に応じて、基準変更を隠密裏にやることになったとか、「お手盛り」との噂、いずれ具体的文書にもとづいて、適正さが検証されよう。問題ないことを祈る)。
  その基準が、また、その適用が、今後どうなるか?
 

  若い層の成長率においては、相当に違いが出てくる、ということで、長期的には、この新提案の場合、最終段階(フラット化が始まるまでに)にきたときに、同じ年齢でも、差がかなり出る可能性がある、その差がフラット化した段階でも続く、ということだろう。

 その差が、どのくらいとなるのか、その妥当性(基準の妥当性、判定・評価の妥当性、それにかかわる判定主体の適正さ)といったことが、今後問題となろう。

 比較的若い層(格差発生の可能性がある年齢層)では、教員評価問題(能力・業績の変化・上昇度合いとその評価の対応関係)に重大な関心が寄せられることになろう。


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1月19日(1) 今週火曜日夜、大学時代のゼミの仲間と会った。卒業以来始めての友人も一人いた。11人の同級生のうち、大学卒業直後くらいに病死した一人、50台半ばでがんでなくなった当時Panasonic勤務だった友人を除き、全員が集まった。成城大学経済学部で同じ仕事をしている友人とは研究会・学会で比較的よく会うが、海外勤務の多い実業界(商社関係)の友人たちとはめったに会うことがなかった。その一人の感想は、大学時代の勉学の意味を考えさせ、また教育研究の仕事の意味についても改めて考えさせてくれるものだった。

  ヨーロッパの経済の歴史、その大局的流れを具体的テーマに即して掘り下げながら認識するという作業は、直接の利益、実利には結びつかないが、重要な意味を持っていることが、この友人の話からもわかる。「プラクティカル」の意味は、多次元であり、数十年の検証が必要なものであろう。。

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本当に楽しい良い集まりでした。また、日本でか、どこでか会いましょうよ。

 

Yさんが言う通りです;”年を重ねるとともに利害が関わらない学生時代

の思い出に身をおく瞬間が次第に大切に感じるようになったのだと思います。”

 

それと、やはり、どれだけゼミで得たことが実社会で大きな支えとなった

ことか。西洋経済史をやって、物事の判断基準を学んだことが、いかに大き

かったか。こまかいことは、省きますが、仕事の上での大事な判断、右へ行く

か左へ行くか、その自分なりの判断基準は、表面に現れる事象の根本を突

き詰め、そこから思考を再構築してゆくと言う先生の教えに基づいていた

ことが、私の社会人の大きな自信になっていました。




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1月18日(3) いよいよ今日が代議員会のようである。はたして、学部長は、どのような態度で代議員会に望むのであろう。何が出てくるか。教育研究審議会はどのような議論をしたのか?

 この2年間の経過を考えれば、相当きちんとした対応が求められるはずだが・・・・。

 履修用件変更、不利益措置によって困る学生への対応はどうなるか?
 履修強制によってほかの科目群に及ぼす大きな影響をどのようにクリアするか?

 ある教員と立ち話したら、出発点の制度設計に問題があるのだから、筋の通った解決はありえない、妥協のみ、と。
 さて、?

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1月18日(2) 本学の場合、助教制度に関する明確な制度設計が示されていないが、下記のような京都繊維大学の事例が、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)に掲載されている。コピーしておこう。少なくとも、任期制適用は、新採用者においてであり、大学教員任期法の限定的趣旨に合致するものとなっている。

   「任期制は、学内の活性化がねらいだ。努力している人を引き上げるなど適正な人事や処遇ができる」と導入意図を経営サイドが述べているが、問題は、その目的・制度設計の趣旨が本当に実現できるかどうか、審査等における公正さ・社会的妥当性・社会的信頼を確立できるかどうかであろう。その真実の度合いによって、努力・業績とその評価の対応関係の適正さ・妥当さの信頼の確立度によって、活性化は達成できよう。

 それは、本学における新規採用者の任期制に関しても同様である。

 その場合、任期制からテニュア制度への移行制度の確立、その基準、業績基準に基づく公明正大な運用、これらが必要であろう。

 そのことと関連して、公務員として採用された教員(身分保障・身分継承)で、実質的に定年までのテニュアを確保している教員に関しても、公明正大な基準と運用による評価システムが求められることになろう。

 その場合、外部から、厳しい競争条件で選抜されて新たに採用された人の位置づけと内部で経歴を積んできた人との業績の適切な比較=位置づけとが必要となろう。

 多数の応募者の中から選抜されて新しく採用された人は、現時点での、そのポスト・地位の社会的価値(社会的評価)を内外に示すものだからである。

(厳正な社会的評価を得るためには、審査もまた厳正さが求められる。多くの競争者がある以上、その競争者は、誰が、どのような業績を持ったものが選ばれたのか、に深い関心を持ち、追跡するからである。落とされたものは、採用されたものの力量・業績を追跡し続けるであろう。この意味からも、仕事=労働とその実績の段階的向上とその検証が必要となろう。評価者が評価される。「本当に自分より上のものが選ばれたのか、選ぶ側の目と頭は確かか」と。)

 TOEFL500点基準の問題で、一度500点をクリアすればOK、という現在の制度の問題性を指摘する意見が多くあるが、そのことを教員の業績評価と関連させて言えば、あるハードルをクリアして、助教、準教授、教授への階梯を上ってきた個々の教員に関しても、適切に、その後の研究教育の努力とその評価を行わなければならない、ということである。

 「一発、一回、PEなるただ一科目で500点クリアすればいいのだ」、とする発想は、教員の場合、たとえば、一度(ある時点で、たとえば45歳で)、ハードルをクリアして教授になってしまえば、後は20年間、何をしていても問わない、ということと同じであろう。

 実際には、給与体系は、段階的に設定されており、その号級のどこに位置づけられるのか、各教員の能力と業績の段階的上昇がそれに見合っているか、その検証が求められる。

 TOEFL問題にどう対処するかは、まさに個々の教員のこうした自分たちの仕事に対する評価のあり方・姿勢と密接に関連している。

 個々の教員の発言・姿勢に、学内外の人々の注目が集まるであろう。

問いははっきりしている。

 学生の能力・実績の段階的違いをどのように評価するのか?

 「同一労働=同一賃金」(労働の段階的違いに対応した賃金システム)の適用・検証をどのように考え、実際に運用しようとするか?

  (平均的上昇線というものが、新給与体系の提案に示されている。これはごく普通の想定であろう。問題は、平均は、実は、諸個人に関する大量的経験値・諸個人のばらつきの平均値であって、平均線の上下に能力と業績による一定の違いがある、ということである。その違いを、どのように判定するか、これが問題となる。平均的には、教授の場合、新給与体系によれば、4号アップということのようである。・・・これはごく普通の大多数の教員の段階的教育研究力=その発揮を意味するだろう。)


現実にどうなっているか? また、どうすべきか?

諸個人に関して、
 検証手段は?
 検証基準は?
 検証機関・主体は?

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京都工芸繊維大、助教に任期制導入

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007011700055&genre=G1&area=K10

「助教」に任期制 来年度導入 5年、新採者対象 京都工繊大

 京都工芸繊維大(京都市左京区)は16日までに、現行の助手に相当し、4月から新たに導入する「助教」を任期制にすることを決めた。新規採用者を対象とし、同大学の助手が助教に移行する際には、任期を設けないという。

 助教は、自ら教育研究する職務とされ、全国の国立大で4月から、現行の助手が助教と、研究教育の補助をする「助手」の2種類に分けられる。同時に助教授は「准教授」に変更される。

 同大学によると、助教の任期は5年で、再任の回数制限は設けない5年ごとに研究、教育活動の業績などを審査し再任するかどうかを決め、決定に不服の場合は、任期中に再審議の場を設けるという。

 また、講師と助手は昨年10月1日から、新規採用者について5年の任期を設定。助手には再任に回数制限はないが、講師は再任できないようにしている。

 同大学は2004年秋、任期制の検討を開始。昨年1月、学内の人事委員会が助教と助手はすべて任期制にして、再任も1回限りとする答申をまとめた。しかし、職員組合などから反対意見もあり、新規採用者のみを対象にして回数制限も外すことにした。

 同大学の功刀滋理事(総務・教育担当)は「任期制は、学内の活性化がねらいだ。努力している人を引き上げるなど適正な人事や処遇ができると考えている」と話している。

 京都大は、基本的に助手を助教に読み替える方針で、任期制は一部の研究科や研究所などに導入されており、今後も各部局で対応することにしている。

(参考資料 これまでの記事)
京都工芸繊維大学職員組合、「大学教員の任期に関する規則の一部改正」への意見書
京都工芸繊維大学職員組合、任期制導入に関わる最近の動き
京都工繊大職員組合、「昇給に関わる勤務成績評価要領案」に関する交渉の報告
京都工芸繊維大学職員組合、「任期制は、本学教員の身分保障の根幹を揺るがすものである!」



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1月18日(1) 国連の報告では、イラクで昨年、民間人死傷者3万4000人以上と。(NewYorkTimes20070117)
      それは、イラク政府とアメリカ・ブッシュ政権の失敗の明らかな証拠、と。
      これを、今問題の、本学TOEFL問題(進級基準問題、その設定主体・設定機関・設定思想・設定システム)と関連させるとどうなるか?
      イラク政府にあたるのは、どこか? アメリカ・ブッシュ政権にあたるのはどこか? 

 
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1月17日 「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)によれば、大学の意思決定システムが、トップ・ダウンだけになると、いかにひどい人事やカリキュラムとなってしまうか、しかも、任期制で首切り自由となれば、どんなことになるか、それを示すのが、秋田の国際教養大学のようである。外国人教員のかなり乱暴な取り扱い(雇用差別ともみられているようだ)が、問題視されているようである。

 正当な合理的で説得力ある人事(評価)をしないと、不満・怒りはこうして世界に流れ出る。まさに、大学の評価は、世界的に行われるのである。教員の評価もまた次第に世界的になされるということでもあろう。

 すでに、本学でも、プラクティカル・イングリッシュ・センター(PEセンター)構想が動き始め、センター長、さらに、任期制英語教員5名などが採用されたという。いったいどのような審査が、誰によって行われたのか、われわれにはわからない。きちんとしたシステムでなければ、秋田と同じようになって、世界的に不評を買う事態となろう。ここでも、しっかりした制度設計があるのかどうか?、と疑念は残る。 

 本学における昇任人事等でも、全体としてかなり厳しくなったという声を耳にすることが多くなった。しかし、管理職など特定のところに関してはいったいきちんと評価がなされているのか、という不満の声も聞こえてくる。

 独裁的権力を持つものが、身の回りの人間(仲間)を優遇するのは、不可避的になる。基礎的なところ(人事評価、業績評価)で、公明正大な基準、公正な適用がなければ、組織は腐敗する。

  参考:『カメリア通信』第42号、http://edmath.sci.yokohama-cu.ac.jp/camellia42.html
      『カメリア通信』第44号

 ちなみに、本学では、公立大学であった時代の教員たちが任期制に不同意であっても、昇任を勝ち取るなど、教員組合と個々の教員の筋の通った断固たる態度で、基礎的な雇用安定は勝ち取れたと思われる。この基礎的な雇用安定の条件は、当然にも、種々の事情で任期制に同意せざるを得なかった教員にも保障されるものであろう。また、そうしなければいけない。

 同一労働=同一賃金は、それを成立させるための枠組みとして、共通の精神的安定条件が必要であろうから。競争条件、労働条件が違えば、精神的活動において有利不利の違いが出てくる。それは必然的に仕事の量と質に影響してくるであろうから。

 その意味では、次の課題として、一歩進んで、任期制に同意した教員(これからの新任教員は公募で任期制を明記されているので、すべてそうなるが)のテニュア制度、その基準を法人と組合の交渉で創出していかなければならないだろう。

 テニュア制度の創出。
 任期制教員のテニュアへの移行基準の創出。

 本家のアメリカにおけるテニュア制度からすれば、本来的には教授全員がテニュアをもつはず。
 教授昇進とテニュアの確立はイコールであろう。
 準教授においては、テニュアを獲得できるものと、そうでないものとがいる可能性がある。

 任期制教員のテニュアへの移行の基準は、仕事・業務・職務の基準(その給与の号俸・およびそのアップなどへの反映)としては、任期制不同意の教員にも適用されるべきであろう。同一労働=同一賃金の原則は、ここでも貫徹させなければならないだろう。


 現到達点の教員組合委員長・岡教授による総括は、全大教の新年挨拶を参照されたい。

 教員組合執行部の要請により、昨年末から、独立行政法人化対策委員会の一員になった。
 本日は、その仕事で、給与関係のワーキンググループの作業に加わった。この間に法人の新給与制度(案)が提示され、サイボウズ等で公開されているが、その内容の検討である。3人のプロ級の委員の議論を聞いていると、新参者のわたしには、何のことかわからないことが多かった。

 退職金の計算の仕方など、一体どう考えればいいのか、かなり身近な問題になっているが、それでもわたしにはよくわからない。
 もし新制度の提案どおりなら、60台の教員は相当不利になるようだ。具体的に計算したある人の話では、1割減だそうだ。これは、明らかにひどいのではないか?

 法人化は、定年が近い教員の退職金引き下げをも目指したものか?
 大学教員は、大学卒業後、最低でも5年間(多くの人は何年間は長引く)、大学院で、したがって、無給、むしろ学費・生活費の支出で苦しみ(負担があり)、やっと目の前に定年が見えてくれば(22歳で卒業し所得を得る人々、その人々は年金制度の関係もあり、定年延長で65歳に労働期間が長くなっており、大学教員の定年−62歳から65、私学の70歳まで幅はあるが−に接近しつつあるが)、長期的に念頭においてきた老後の生活設計の基礎が脅かされる、ということになりそうである。

 生涯賃金の面で、大学教員はどうなるのか?


 何人かの教員と話してみたが、新制度設計(案)には、「現給保障」の言葉がある。その精密な確定(意味内容の確認)も必要である。「現給」とはなにか? どの範囲までを「現給」とみなすのか?
 
 そのためには、計算式を具体的にエクセルか何かで提示する必要があろう。

 個々人の納得を得るためには、個々人における新旧制度の比較対象表が必要となろう。個々人が計算できるマニュアルが必要だろう。法人の計算が間違っていないかどうかの確認のためには、計算根拠が具体的に示されなければならないだろう。

 法人からの提案には、「任期制」に関する言及もあるが、制度設計の内容がまだ不明である。提案が、「任期制」の内容と表裏をなす負担・リスク(あるいは求められる仕事・業績、あるいは過去5年間ほどの間に達成した業績)との関連で、どのようになっているのか、この検討も必要である。
 小さなえさに食らいついて、憂き目(継続的不安状態への落下)を見ることがあってはならない。

 任期制に「同意した」とされる教員も、内容不鮮明な任期制に関しては、ごく一般的に同意したにすぎない、と見るべきだろう。

 「まあまあやっていれば、問題ない」などというのは、近代的合理的契約のあり方としては、成立しないであろう。
 契約成立要件としては、そんな漠然たる同意調達のやり方は、法律的には認められないだろう。(ただし、京都大学井上事件の最高裁判決もあることだから、危険は相当なものである)

 さらには、職務・業績給の体系において、その号級アップの仕方、判断基準、判断主体など、決定的に重要な点で漠然としている。

 このままの丸呑みは到底考えられない。

 組合執行部での検討、要求の定式化、明確な具体的要求項目と原則的な検討の約束の明文化など、なすべきことは山ほどあるようだ。




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1月16日 「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)は、この間の本学の動向、TOEFLに関する学生からの訴え、学生諸君の動き、それに対する本日誌での対応などを紹介してくださった。

 学生の成績評価のあり方、任期制適用のあり方、大学の管理主義的あり方などは、まさに全国的にも重要な大学自治・学問の自由に関する問題であり、その意味で、本学の問題が全国的関心を呼ぶことを意味している。

 学生諸君の動きは、全国的にも注目されている。諸君の能動的活動は、全国の学生のためにも有益でしょう。
 学生諸君、言うべきこと、日ごろ感じている怒り、あるいは日ごろこうして欲しいと感じている希望などを、積極的にアンケート用紙に書いて提出して下さい。
 学生自身が主体的に作る市大新聞がそれをまとめるようですので、かなり正確なところが、表現できるのではないでしょうか。(それを希望し、期待します。できれば、全部の生データ・生の声の回答用紙を、スキャナーでとって、直接、インターネットで公開して欲しい。歴史研究者として、一次資料こそが、大切なので。改革過程で行われた官製アンケートは、当局にとって都合のよい部分だけを公開するもので、不信の累積の原因となった。一楽教授の市民アンケート開示要求運動[情報開示請求意見書
2004/10/19up] の結果、全面開示となった[大学改革市民アンケート、全面開示へ 2005/2/18up] しかし、それは改革の嵐が過ぎ去った後のことである。)

 学生諸君のアンケート活動とその内容に、大学活性化の、大学の自治の再建への契機が豊富にあることを信じつつ、期待して市大新聞ブログ(http://blog.livedoor.jp/ycu_press/)・市大新聞本誌等に公表されるのを待とう。

 学生本位の改革を掲げている以上、多くの学生の生の声(その集約)を尊重しないわけには行かないでしょう。


 もちろん、一人ひとりの本学教員にも、PEをどのように位置づけるかということは、自ら担当する科目、カリキュラム体系の意味と関連して、重要な問題である。
 PE問題は、単に、学生の進級(ひいては在学期間、卒業)の条件にかかわるだけではない。大学の人事のあり方にもかかわっている。昨日の一教員からの返事にもあったように、「多くの先生方に共有されテいる」問題意識であろう。

 その意味で、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)が示すのは、本学教員の態度が、全国の注目の的になっていることもまた示しているだろう。

(教員の声は、この間の管理主義的経営主義的「改革」で、自由に表現できる場がなくなっていることは、教授会のあり方ひとつをとってみても明らかでしょう。全教員が所属する基礎組織としてのコース、そのコース会議の民主的運営は、内規によって行われているに過ぎず、制度的には基礎組織の声を無視できるようになっている、といえよう。一般教員の無力感、責任を発揮すべき権限の喪失感には深刻なものがあります。現実は、経営主導であり、教員の総力を結集する改革とはなっていない、ということです。

 全構成員の総力を結集するような改革でない限り、生き生きとした力強い発展はありえないでしょう。

 たくさんの学生の進級=ひいては在学期間=卒業年次がかかっている今回の問題は、わたしの法律理解からすれば、当然にも学部長が審議事項として取り上げ、教授会に進級判定の原案を示し、その可否を問うべきものです。

 先日の新聞報道では、進級基準を緩和することはありえない、などと言う学部長発言が出ていたが、現実を直視し、2年間の経験で出た問題点を衆知を集めて洗い出し、妥当な線を見出すためには、教授会審議しかない、とわたしは考える。

 新聞での発言は教育研究審議会かどこかの当初予定(目標)にしかすぎない、というのが、学校教育法第59条に基づく合法的スタンスだろう。

 現在の問題の深刻さ=多くの学生の人生設計・生活設計にかかわる状況からすれば、学生もその教授会に傍聴者として参加できるようにすべきものであろう。それこそ公明正大ということだろう。

 まさに、大学の問題に関して、とりわけ、学生の進級・卒業に関する基本的制度設計にかかわるものは、国における国会と同じく、公開教授会において、審議すべきだろう。秘密の陰に隠れて、多くの学生の運命=不利益処分が決まるのは問題だろう。)



 また、久しぶりに本日誌が、大学改革のあり方に抗議して退職された佐藤真彦先生のHP(http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/kikimondai-index.html)で取り上げられていることを確認した。



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1月15日(2) 先週、臨時教授会を開催してきちんと問題を総合的に議論し決定すべきではないかと、わたしの考えを何人かの教員に差し上げた。かなり多くの賛同があったが、他方では、すでに紹介したように、臨時教授会の開催に懐疑的・消極的な意見もあった。
 研究と教育を基礎で担う一般教員からの、そして当の学生さんたちからの声を踏まえて、代議員会等での議論が展開し、その上で、臨時教授会での審議要求へともっていけばという意見もかなり寄せられた。

二つほど、抜粋的に意見を紹介しておこう。

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先生からのメールの確認が遅くなり返事がすぐ出来ませんでした.

進級判定に関する臨時教授会の開催に賛同します.

臨時教授会開催の実現は難しいかもしれません.

当面の語学の問題に限らず,本学が抱えている様々な問題について

教員や学生の意見を何らかの形で大学当局に訴えていくことは必要と考えています.

その意味で今回先生が提起された臨時教授会の開催に賛成します.

語学教育については様々な意見(それぞれがそれなりの説得力がある)があり,

意見を纏めるのは大変ですが,当面の留年問題について意見を出し合い我々が何を

しなければいけないかを確認するいい機会になると思います.

 

TOEFL(TOEIC)の問題について一言:

試験で500点以上をとることを学生の努力目標にするだけでよいというのが

私の予てからの考えです.語学は持続した学習が必要で,1度だけ500点以上の

成績を得たというだけで進級させるというのも変な話です.この制度が大学改革の

一つの特色というのが,何とも情けない.


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トーフル問題についての問題認識は多くの先生方の間に共有されていると思います。段取りとしては、まず代議員会で問題提起をしていただき、「権限外だから対応できない」というような消極的回答であれば、教授会開催要求を行うというのではいかがでしょうか。

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語学は持続した学習が必要」というのは、意欲的な学生の声でもある。ある親しい学生は1年生の7月にTOEICで基準をクリアしたが、「TOEICの実力の有効期限は1年間か2年間(?)なので、またチャレンジし、力を維持すると同時にアップしていきます」と。まさにそのとおりであろう。

 その方向で実力を不断に伸ばそうとする人に、その到達度に応じて、大学の中で環境条件を整備してあげる、ということはきわめて重要である。
 TOEFL550点以上クラス、あるいは国連英語検定を目指すクラスなど、意欲があり、国際的活動を目指す諸君にはそれにふさわしいクラスを設定し援助する、しかるべき単位を与えることもいいであろう。


 それは、画一的基準で留年させる、などという寒々しい官僚的統制的な発想とは逆のものである。

 全学生に対する画一的基準の押し付けの発想は、一般教員全体に対する寒々しい「全員任期制」の押し付けと同じ発想である。これには、「改革」全体の問題面を象徴するものとして、非常に強い反対が教授会などで示された。この問題を中心的問題として、抗議辞職をした教員(次の職場もないのに)、他大学に移った教員も多い。「全員任期制」の画一的押し付け(大学教員任期法に反するもの)には、苦しい状況の中で多くの教員が教員組合に結集しつつ、また個々人でも、断固として反対してきたのである。
 「全員任期制」問題で苦しめられた人々には、そのことが直ちに理解されるであろう。


一つの特色というのが,何とも情けない」という点に関しては、現在のPEの特権的例外的独裁的制度を、だれ・どのような人々が案出し、だれ・どのような人々がそれによってメンツ・地位・権益・発言権・優越感・自信などを得ているか、誰が特権・独裁権力を行使しているのか、という側面からも考えてみる必要があろう。

 すくなくとも、現在の入試制度で堂々と総合力で入学してきたために、英語が相対的に苦手、という学生諸君ではないことは確かだろう。総合的に見て、学生諸君に責任はない。責任があるのは、制度を設計した側、制度を運営する側にある。

 学生諸君との関係で言えば、わたしのような一般教員も、大学側の一人、制度運営の側である。だからこそ、一教員として、制度検討・制度変更が必要だという意見を公開し、わたしの意見に耳を傾けてくれそうな教員に働きかけてもいる。それが、制度設計をした人々、制度設計に責任ある人々に影響を与える(政策・制度の合理的合法的転換)ことを願って。

 制度を設計した人々、制度を運営している人々は、主観的には、悪意や優越感のためにやっているのではないだろう。その意味では、「良かれと思って」、「善意で」あろう。

 しかし、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」(ダンテの言葉とされる)。ヒトラーも、主観的には、「民族のため」、「民族の自由のため」、「民族を愛するため」にすべてを行った。600万のユダヤ人大量虐殺も、彼の主観(善意)においては、「ドイツ民族のため」、「ドイツ民族に感謝されること」だった。


 学生諸君、堂々と入学したのだから、そしてそれぞれの力量・個性・希望・問題関心に従い勉学に励んでいるのだから、萎縮する必要はない。
老婆心までに。
 元気をつけたい人は、『国家の品格』など、日本語の本質的基軸的重要性を説く自信に満ちた藤原正彦の一連の本を読んだらどうでしょう。新潮文庫にある8冊を一気に読めば、相当に刺激を受け、自信をもつことができよう。

(母国語だから、「アメリカ人は米語・英語ができる。でも、そのごくわずかしか、国際人ではない。国際的見識を持つものは、アメリカ人のほんの一握りだ・・・・」、米英語がしゃべれることは、国際的教養、深い教養とは別物だ・・・・ちょっと英語がしゃべれる日本人は? ちょっと日本語のできるアメリカ人を見よ。その人は、深い教養、国際的識見を持っているか? たとえば、日本語のほかにドイツ語ができるか? 数学・物理学・化学・生物学に対する造詣はあるか? などなど)

 なお、付言すれば、大人の社会、教員の世界も、、の仕事(労働)に関しては、各人の能力・業績に応じて段階的な評価システムとなっています。
 
 年功序列が最近では批判されますが、「年」齢に応じた能力の発達、さらにその成長段階での業績(「功」)の上昇は、普通の人間のそれぞれの分野での大量法則としては、妥当するものです。わずかずつとはいえ、右肩上がりというのは原則的方向性です。

 「同一労働=同一賃金」の商品交換社会の原則は、各個人の労働の段階的成熟に応じて賃金に対応させ適合させるべきものであり、仕事(労働)とその対価としての賃金・給料の関係に、大数法則的には反映させるべきだということになります。

(同一労働=同一賃金の原則は、理念的理論的なものである。
 それは、個々人への適用に当たっては、個別経営の労使交渉を通じて、全社会の労使交渉を通じて、練り上げ、発見し、時々刻々と修正し、実現していくべきものである。そのようなダイナミズムにおいてこの原則は把握されなければならないであろう。

 それは、一般商品の市場競争・売買交渉の総体を通じての価格形成と同じであり、同じようなダイナミズムを持つものである。
 そして、いまや、一般商品も、大学における教育研究労働=労働力商品も、そのようなグローバルな売買交渉・売買条件折衝のなかにますます組み込まれつつあることは、いうまでもない。
 労働(労働力)の対価で購入する生活物資・研究教育条件が、世界的市場連関=売買連関=価格連関の中にあるからである。)

 成績評価における段階的評価は、能力とその発揮の段階的発達が大数法則的には貫徹している、ということをしめしているのではないでしょうか。

 もちろん、学生諸君のTOEFLの成績の上昇の度合い(英語力上昇の度合い)が、各人によって違うように、われわれのような大学教員でも、研究教育力の上昇の仕方は違うでしょうし、上昇のスピードも多かれ少なかれ違うでしょう。(社会一般に、同分野・同業種の人々との社会的相対的スピードの違いも問題となるでしょう)。
 その違いをどのように評価するか、これが、教員評価と給与制度の問題として、教員組合の検討対象に、そして、労使交渉の課題となっています。

 学生諸君もわれわれ教員も、そして一般の市民も、自分たちの努力(労働)とその成果が正当に(かつ総合的に)反映される(評価される)ことを望む点で、その原則的な見地で、連帯しうるでしょう。
 ここにこそ、学生と教員の、そして市民の連帯の基盤があると考えます。




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1月15日(1) 日誌で報じられる教員の反応を読んで、次のような意見が寄せられた。実に貴重な情報である。この情報を知らせてくれた学生さんへのわたしからの返事とあわせ、下記にコピーしておこう。
 この日誌を読む学生諸君は、ぜひ、アンケート活動に協力し、できるだけ多くの体験談、率直な声を出すことを期待します。(なぜ、わざわざ「率直な声」を強調するかといえば、アンケート活動が、「学長の賛同を得て」行われる場合、ありうべき批判の声が出にくい危険があるからである。学生諸君のアンケート運動の独立性・自立性を願い、わたしの危惧が杞憂であれば幸いである。)

 一人ひとりの声こそが、大学の「改革」を真の改革として発展させ、教育のあり方を民主的に草の根から改善していくものと思います。

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N君

すばらしい情報、ありがとう。

まさにこうした形で,当事者である学生諸君が動くことが、わたしたち教員にとっても非常に重要です。

 

ぜひとも、学生諸君の議論の輪を広げ、アンケート活動の輪を積極的に広げ、多くの学生さんの率直な意見が集約され纏め上げられて、健全なPE教育、健全なカリキュラム体系、安心してそれぞれの学生の個性・希望・進路に合わせて総合的に力を高めていくシステムにして行くことが必要ですね。

 

ともに力を合わせましょう。

 

あなたの意見の部分を、匿名の形式で、日誌に掲載します。

実に貴重な、現場の学生の声ですから。

 

御礼まで。

 

ながみね

 

----- Original Message -----

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Subject: 大学改革日誌 PE問題

 

少し学生側に動きが出始めましたので、日誌の感想とあわせてご報告します。

 

○「付き従う大学側」という表現(1/7(3)の日誌)

>「付き従う大学側」とは、どのような人々でしょうか?

もちろん大学改革を合理的合法的に、民主的に実現していこうとする教員ではありません。

大学運営をつかさどる責任者といったところでしょうか。

 

 

○「好きなように突き進めさせる」(1/12の日誌)

>「現行制度を押し進めてきた人たちの責任を明確にするためにも、このまま好きなように突き進めさせれば良い」

学生としてはそれでは不安になってしまうと思います。

学生からしてみても、「点数稼ぎのために改革を断行した役人」や「それに付き従う大学側」の責任を明確にすることはもちろん大事です。

しかし、このまま好きなように突き進めさせて、現行の制度を維持したままでは学生は不安であることには変わりありません。

 

やはり、責任を明確にすると同時に、現行の制度をも阻止しなければならないと思います。

(例として微妙ですが…↓)

金正日が責任を取っていなくなっても、金正日時代の体制が残ってしまっていては国民にとっては何も変わりがないということです。

 

 

学生側でアンケートをとっています

僕が主催しているわけではないので、主催者の名前は伏せさせていただきますが、

今週より、学長の賛同を得て正式に「TOEFL進級に関するアンケート」が行なわれています。
このアンケートはTOEFLスコアによる進級判定に関して、本学の語学教育の実情を評価するとともに、大学側と学生側の意見調整に役立てる目的で行われます。

集計結果は学長、議会に提出し、また集計結果は横浜市大新聞(紙面及びブログ)に掲示するそうです。

 

開始2日で既にアンケートを100以上回収した模様なので、臨時教授会などの話し合いの場に資料として活用されたらいいなと願っております。











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1月12日 わたしに伝えられる教員の多くの意見(支配的意見)は、昨日のひとつの意見、「責任の所在は経営者側、そして教育の長である学長、学部長、場合によっては共通教養長であることは明らか」というものである。別の表現では、「現行制度を押し進めてきた人たちの責任を明確にするためにも、このまま好きなように突き進めさせれば良い」、というところに尽きるようである。

 さらに突き詰めれば、下記の卒業生からの怒りがあろう。

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私は横浜市立大学の卒業生の一人です.

 

破滅に向かってひた走る横浜市立大学に歯がゆい思いをしています.

 

いわゆる「あり方懇」が「横浜市立大学はトップクラスの大学ではない」と断言したとき,はたしてそうだろうかと疑問を感じていました.

 

かつて教授であった三枝博音,遠山茂樹,西郷信綱,浅島誠氏などは日本での一流の研究者として広く知られています.

 

また,卒業生にも大企業の社長,公正取引委員会事務総長(後に大阪大学大学院法学研究科教授)などがいます.また,外交官にも強く,ペルー大使,ボリビア大使,外務報道官として活躍しています.

 

研究者になる人もけっして少なくなく,東京外大教授,東京工業大教授,都立大学教授,慶応義塾大学教授など広く活躍していると仄聞しています.

 

概して,横浜市立大学は公立大学としては最大限の成果を上げてきたのではないでしょうか.

 

横浜市立大学を正しく評価しようとしない態度こそが根本的な過ちを生んだとしか考えられません.

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   これらの見解には、「あり方懇」、「大学像」以来の、一連の「改革」(その手法)に対する怒りが深く沈潜し、染み渡っているように感じられる。
      
  その多くの気持ちを理解し、共鳴し、共感できる。と同時に、市民・卒業生に対しては、内部にいるものとしては、厳しい自己反省も求められる。


  現状を放置すれば、「振り回された学生諸君はどうなるのでしょう?それぞれに努力して、わずかの点数で留年や生活の危機にさらされている人々のことは?あるいは、制度変更、環境条件不整備等で意欲をなくした人々のことは?」。

  問題はまさに目の前に提起されている。
       
  多くの教員からすれば、問題は、
教育研究審議会・教職員管理職の組織、その背後の経営陣に投げかけられている。
       
  この間の予算措置は、経営陣の承認の元に、おこなわれてきたのだから。
  この間の教職員管理職人事PE関連人事は、経営陣によって行われてきたのだから、と。

   まさに、「予算」と「人事」こそは、大学の自治に対し、生殺与奪の力を持つ。
   それゆえにこそ、憲法の保障があるはず。
   
   言葉の上では誰も憲法的保障の大学自治を否定しない。
   だが、それは、実際にはどうなっているか、と。


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1月11日(3) 教授会の権限の再確立は本来の筋だが、現状では希望が持てない、との声も寄せられた。
 現行学則(私はこれこそ大問題だと思うが)のトップダウン方式、行政主義的管理主義的なしばりに、かなり多くの教員があきらめの感情を持っている。
 

 その上で、そのような学則(「悪法もまた法なり」)、「お上」が決めた中期計画や管理主義的システムを作った当局に、しかるべき責任を取らせるのがいい、と。

(ソクラテスが、「悪法もまた法なり」といったとき、自分もアテネ市民=主権者として法律の制定に参加した、ということが前提となっている。「自分も参加して、自分たちで決めた法律=ルールだから、たとえ悪法でも従う」ということになる。しかし、現在の本学の学則の制定は、普通の教員のあずかり知らないところで、市当局の大学改革推進本部で作られたものであり、大学の教員は主権者=法の制定者ではない。大学教員による法への同意調達のシステムは存在しなかった。これは大学の自治という点から、本質的に重要な問題点である。)

 当局が現在の体制・意思決定システムで責任を取らざるを得ない深刻な問題群をこそ、明確にしていけばいい、と。

  多くの教員の静かな怒りが、ひしひしと伝わってくる。

  「TOEFL500点は確か、大学の中期目標に掲げられていたことだったのではなかったでしょうか。そうだとすると、責任の所在は経営者側、そして教育の長である学長、学部長、場合によっては共通教養長であることは明らかです。責任の所在がそちらのほうにあることをここで改めて追求すべき」との見地である。



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1月11日(2) 別の学生さんから、多くの学生さんの気持ちを代弁するような意見が寄せられたので、抜粋的に掲載しておこう。

 2年になってから、「後出しじゃんけん」(悪法の上塗り)で、出席を強制され、その影響で履修科目(専門教養科目等、各コース本来の科目群の履修)に圧迫を受けたこと、さらに、「教員の質にムラ」、「拘束時間の割に非効率」と、傾聴すべき意見がのべられている。

 500点基準の厳守のまま、履修強制と「後出しじゃんけん」の出席強制を続ければ、ますます専門科目の履修への影響が大きくなろう。これが大学か?語学学校ではないのか?

 たんなるPE一科目に、そのような影響力(他の科目を履修できなくする単独の力=独裁的力)を持たせることが果たして妥当か?

  教員が履修と出席を強制できれば(独裁権力を持てば)、それにあぐらをかきがちになることはよくあることである。
  「ムラ」は、こうした教育力とは関係のない強制力とも関連するであろう。


                                 ---------
 「私自身TOEFL500点という基準を未だ満たしておらず、友人が合格していく中、非 常に焦っておりました。・・・大学受験当時この制度について存じておらず、三科目の受験科目という理由で志望校を選択・・・・。

 匿名の学生の方のメールを読み、共感する点が多々ありました。また先生が指摘された問題点も私の考えを代弁されている感じがしました。
 
 私自身、1学年の際は・・・、徐々に出席率は下がっていき、挙句授業に顔を出さなくなるようになっていきました。

 2年に進級し、前期、後期とも履修科目を減らし、出席条件を満たしても目標点を取らなければ単位はゼロ、留年という制度にはやるせない思いをもっています。
 
 親からも大学とは別の、TOEFL合格を目指す専門の学習塾のようなものに通っては どうかと勧められ、・・・、心労と迷惑をかけていることが気がかりです。

 また教わっておきながら恐縮ではありますが確かに先生の質にムラを感じることはありましたし、授業の拘束時間の割りにあまり効率的ではないのでは、と感じたこともあります。・・・」





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1月11日(1) TOEFL問題。
  臨時教授会を開いてきちんと議論すべきだ、ということに関しては、「重要な問題なので」と、何人から、当然との意見が寄せられた。

  しかし、その前に、一方では、教育研究審議会は何を考えているのか、といった疑問も寄せられた。
  コース別のクリア率の確認、クリア可能性、これまでの進級クリア率の歴史など、種々考慮すべき論点が指摘された。

  教務関係で長い豊富な経験を持つ同僚からは、実に綿密な選択可能性も示された。衆知を集めれば、妥当な線も出てくるであろう、と。

  他方、まさに、その衆知を集めるというシステムが、今度の改革によって破壊された、との意見も。だから、共通の議論の場としての教授会開催には賛成と。
 
  いずれにしろ、進級問題で不安を抱え、見通しのなさ、透明性の欠如などに苦しむ学生諸君を前に、早急に明確な理路整然たる対応が求められていることだけは明らかだろう。 

  学生さんの投稿を読んだ良心的教員の何人かは、学生さんの立場をよく理解しておられることがわかった。
 そのことを、この場で学生さんたちにお知らせしておこう。

 と同時に、ゼミや講義の先生に、実情をよく話すよう、学生さんの能動的な発言も期待したい。(苦しんでいる学生さん、怒っている学生さんがいたら、先日の学生さんのように、その実情、意見を私までお知らせください。ここで公開し、心ある教員の目に留まるようにしましょう。

 
「後出しじゃんけん」的な不利益措置(出席強制・出席しないとTOEFLを受験させないなど)に関しては、多くの教員が、その不当さを認識していることもわかった。
  学生さんの主張・怒りは、当然のこととして理解されている。

 

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1月10日 TOEFL問題であらたに意見が寄せられた。以下のようである。

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やはり、国際総合科学部学生の半数近い2年生がPE一科目だけで進級できないというのは、異常であり、学生の立場、保護者の立場、社会の立場から見ても到底、理解されず許されないだろう。その当初の設定自体(設定主体・設定機関・設定の仕方、どこで誰が何を根拠に?)に問題があることを示している。

とくに、今問題になっている2年次から3年次へ進級をさせないというハードルに関しては、合理的で明確な説明がない。現状では、脅かしによるPE強制としか受け取れない。留年の脅かしでPEの点数クリアに拍車をかけようという乱暴なやり方(およそ大学らしくないやり方)としか思えない。

カリキュラム体系との整合性が明確に示されていない。

三百数十名もの将来を左右し、最低1年間の留年期間を押し付ける(留年処分を下す)理由はどこにあるのか。

全教員にかかわるカリキュラム体系への深刻なしわ寄せ、非常に多くの教員にかかわるゼミ・講義の持ち方への深刻重大な影響などを考えて、また3年次以上に、TOEFL500点をクリアしていなければ受講できないような科目群がすべてのコース・分野に設定されていないなどを考慮すると、「進級条件」の設定自体が熟慮を重ねたものでなく、カリキュラム体系との整合性を検討した結果ではないことが明らかである。

PE一科目になぜこのような特権的例外的な地位を与えるのか?

以上のような諸論点に関する明確な合理的合法的説明のない限り、当面は、TOEFL「500点以上=正規進級」と「499点以下=仮進級」という形態を採用するしかないであろう。(問題はもちろん先延ばしというだけに過ぎず、一方で、上記諸論点をクリアすることが求められ、他方では、4年間の終了時点で大問題となることが予想される、つまり卒業判定に問題が先送りされたことになる)

また、仮進級者に関して3年次4年次でのPEに関しては、週3コマなどという履修強制は、出席における成績向上、履修における熱心さその他、現場教員しか判断できない側面に関して、まったくカウントされない以上、「強制」だけの意味しか持たず、そのような履修強制は百害あって一利なし(この2年間の学生の態度・出席状況、夏期講習等の履修状況を見ればそれがよくわかる)。

当初、TOEFLは出席点を考慮するものではく、基準点数クリアだけだとした原則を貫くしかないだろう。履修強制が意味を持つのは、せいぜい最初の1年間であろう。(2年次以上において、PEを活用したより発展的な講義体系が準備されることが条件となるが)

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  この意見は、段階的成績評価システム(ごく普通の科目の評価システム)に、PEの成績評価も今回、この2年間の経験を踏まえて、教授会審議によって改める(これまで教授会審議をやっていないのではじめて本格的に真正面から、全教員参加の議論を行う、というものであるが)というたたき台(昨年末以来の私や学生諸君の意見)には、むしろ反対の見解である。

  本日寄せられえた意見は、あくまでも500点基準を堅持することを前提にしている。
 ただ、経過措置を講じるという趣旨のものである。ひとつのありうる選択肢ではあろう。
 大量の学生の留年(最低一年間の在学期間延長・・将来の就職などで相当に不利になるやり方)を当面は回避する措置である。

しかし、この間、専攻分野・入試区分などによっては、TOEFL=500点基準があまりにも非現実的なものと感じられ、すでに相当数が強制的な履修プログラムにも参加していないし、試験も受けていない、とされる。
 そのような人にとっては、絶対達成不可能と思われる画一的基準を今後もずっと目の前にぶら下げられる、ということになる。PEという科目(基準点数)がそれに値するほどの絶対的価値を持つのか、果たしてそれが、大学(国際総合科学部)における教育のあり方として、妥当か。

私はこの際、初発の設定自体における問題を率直に認め(設定した人々が認められないとすれば教授会において)、教授会の主体性において、段階的成績評価のシステムに直すべきだと思うが、・・・。(その意味は、巷間、ひとつの意見としてささやかれている画一的基準の画一的引き下げ、たとえば、500点を450点に引き下げるといった変更には反対だ、という意味でもある。ここでは本来の諸個人の達成度に対応した段階的成績評価という至極もっともな基準体系にあらためるということである)






ここまで書いてきて、はっと連想した。これはブッシュが単独行動主義(独裁の手法)で突き進んだ無謀な・大義なき(まやかしの大義での)イラク戦争と同じではないか。
 退くのも困難、頑固に固執するのも困難。
 どの道をとっても、相当に大変ないろいろな犠牲が出るのは避けられない、と。
 真珠湾攻撃に突き進む日本の天皇制絶対主義国家指導部のあり方との連想は、すでにあったが・・・。

 

 

 

 新しい意見に関しても、そうしたことの決定はどこで、どの審議機関で下すのか?

全学的に影響のある教学上の問題をどこで審議するのか?

学校教育法等の関係法規との整合性は?
  
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学校教育法:第五十九条〔教授会〕
大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない。


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学校教育法適用の「教授会」審議事項は、たとえば、旧学部の諸規定を見れば、

(7)学生の入学、退学、休学、除籍、賞罰及び卒業に関する事項



  

 

 

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1月9日 私の意見を何人かに直接お知らせしたところ、下記のような賛同の意見が寄せられた。貴重な意見に感謝したい。

 

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先生がメールやホームページで指摘されている問題点には、私も同様の印象を持っております。
 
教員全員参加による意思決定機関としての教授会は潰されましたが、教員の良識を示す何らかの意思表示は必要であろうと思います。
 
教職員管理職の独裁状態は、おろかな判断が大学運営にそのまま反映されてしまうため、大学はどんどん変な状態になっていきます。建て直しどころではありません。
 
それを少しでも是正するために、署名の様な形で単発的な意見表明が必要かと思いますし、実質的な教授会の制度化までいけたら望ましいと思っております。
 
組合に提起することも必要かと思っております。

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「教員全員参加による意思決定機関としての教授会は潰されました」とこの教員の方は判断しているが、それが文字通りであるとすれば、学校教育法に違反することは明らかではなかろうか。臨時教授会の開催は、一定人数の署名・開催要求があれば、開催されることになっているので、制度的には、薄皮一枚で学校教育法違反を免れるようになっているのではなかろうか。

 問題は、300余名もの1年間の在学期間延長を意味する留年判定(処分)を、全教員(その専門教育の仕方・あり方)にかかわるような全学的に重大な問題を、一切審議しないで済ませようとする独裁体制にある、ということではなかろうか? その点では、「教職員管理職の独裁状態」こそ問題だということではなかろうか?そうした「教職員管理職の独裁状態」を作り出した経営陣の問題性、ということではなかろうか?

大学経営陣がどれだけ自立的・自治的であるかによっては、直接的に市当局(市長)の問題性ということにつながろう。

 

 

他方で、次のような見解も寄せられた。

TOEFL500点=TOEIC 600点」であり(その意味は、TOEIC600点のほうがクリアするのに容易との判断)、現在の社会では多くの企業がTOEIC600 点クリアを求めるようになっているとする立場からの意見である。

「お久しぶりです。Webの方はいつも拝見しております。・・・いまやTOEICはかなり決定的です。日本IBMあたりが、TOEIC600を取れない人間を係長にはしないというのはまだ分かりますが、トヨタ自動車なども、たとえ地方の工場であっても、TOEIC600を取れないものは係長にはしないという時代になってきています。・・・トヨタフランス社長や、日産史上最年少重役はもちろん、活躍する卒業生の方々に申し訳ないので、就活が始まる3年生になる前に留年させるのも仕方がないのかなと思っております」と。

 

 これがひとつの貴重な意見(情報)であることは認めよう。経営陣などが、PEセンターの設置に踏み出し、予算措置を講じていることと認識が同じなのだろう。

しかし、なぜ、優秀な卒業生の存在を理由に、現役の学生が非合理的システムのために苦しまなければならないのでしょうか?

 

そもそも、「トヨタフランスの社長」や「日産史上最年少重役」といった人々の学生時代の成績は、さまざまの科目に関してどのようだったでしょうか?

学生さんの誰か、先輩であるトヨタフランスの社長さん、あるいは、日産史上最年少重役に尋ねてみたら?

もしかしたら、英語会話のような科目は履修していないか、成績が悪かった(たとえば、可)かもしれません。

その逆に、英会話など英語関連科目がすべて優や秀のクラスであるかもしれません。しかし、その場合にも、たとえば、当時は教養科目のなかで自然科学系の科目(たとえば数学や物理学など)はあまりよくなかったかも知れません。あるいは、すべて優や秀で超とびっきりの成績だったかもしれません。

個人個人により、多様な可能性があります。国際総合科学部は、商学部、国際文化学部、理学部の三つの学部を統合してできたものであり、それだけに学部の中には多様な進路・専攻分野の学生諸君がいるので、多様性の尊重はきわめて重要ではないでしょうか?

 

商学部出身のトヨタフランスの社長の事例などで、PEという単なるひとつの科目のみである基準を超えられないと、企業でしっかり仕事ができない、将来優秀な企業人になれないなどと立証できるでしょうか?

また自然科学系の人に対して同じPE基準を要求していいでしょうか?

自然科学系の学生は、一般的には数学・物理・化学のような科目群が得意な人(高得点の人)が入ってきていると見るべきではないでしょうか?その分、必然的に、入学時点で文科系の科目群が相対的に弱いということではないでしょうか?

このような多様性をどうして認めないのでしょうか?

 

 現在、いわゆる一流企業で「係長になるまでに」TOEIC600点をクリアすることが求められるようになってきたとしても、そのことと、2年生から3年生に進級させない、留年させていい(在学期間は5年間以上となる、奨学金をたたれる、など重大な影響がでてくるのだが、それでも)、ということとの間には大きな論理的現実的飛躍があるように思われる。また、自然科学系や専攻分野によっては、TOEICなど求めないところも多いのではないでしょうか。

 

 いずれにしろ、上記のような理由で、学部学生の半数近い300名余の人間を、最低一年間は留年させてもいいというような画一的な制度設計は、根本的に問題をはらんでいると思われる。すくなくとも教授会の場で設定した基準ではない。教授会などあずかり知らないところで(そもそも教授会が開催されていないところで)、決められたものである。

 

 全国・全世界の大学のごく普通の成績評価の仕方、科目ごとの段階的成績評価システムでなぜいけないのか?

私に賛同の意見を表明した学生さんの言うとおりではなかろうか? 

 「TOEFL500点以上はわが大学では優の成績として認定します、550点以上なら秀と認定します。わが大学のPEの優と秀の成績は、全国的世界的な基準では、これこれのTOEFLTOEICの点数に対応する客観的社会的なものです」ということで、十分ではないか?[8][7][6][1][1]

 その点数をクリアしようと学生がPEに励むか、あるいは自分の持ち時間をほかの専門科目群に振り向けるか、それは学生諸君一人一人の希望・進路などに任せればいいのではないか?

PEのある点数(合理性のない点数)という恣意的基準を画一的に全員に押し付ける必要はないのではないか?(恣意的というのは、教授会で審議したことではなく、現場教員の賛同を得たものではないという意味で・・・この点、本日誌で再掲した「教員組合週報」(HTML)も参照されたい)。

 PEだけのために、2年生にとどめ置く、留年(在学期間一年延長)までさせるなどという偏ったやり方は必要ないのではないか?いや害悪ではないか?

 社会(企業?)が必要とするなら、それこそ自己責任で、各人の必要度に応じて3年生や4年生になってある点数をクリアすれば十分ではないか?

就職活動でPE5000点をクリアしていないことが不利になるなら、それこそその学生の責任ではないか?

 

 学生諸君、教員のみなさん、黙っていれば、上記のような現状肯定の意見が通用するかもしれません。(私には、それはありえない、社会的に理解されず許されないと思われますが)

 学生諸君、おかしいと思ったことは、皆さんが接する教員(ゼミや講義の先生)にぶつけてみる必要があると思います。

 特に奨学金をもらっている学生さん、留年でも奨学金貸与があるかどうかは、キャリア支援センターできちんと確認する必要がありそうです。

 いずれ必要なら、先日の学生さんの言うように教員・学生有志による集会・そこでの決議、さらにその記者会見での発表などといったことも検討せざるを得なくなるかもしれません。

 

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1月7日(4) 教員組合の執行部関係者から、下記のご連絡があった。関心ある人は読んでいただきたい。

私の記憶では、2005年の最初のころの経営側と教員組合との話し合いで、学生の出席の評価をきちんとすべきではないか、講義現場の教員の成績評価の責任と権限をはっきりさせるべきではないかと教員サイドが言ったとき、当局側は、プラクティカル・イングリッシュの制度は、本質的に出席するかどうかで評価するものではない、と答弁していた。団体交渉か何かの記録に残っているはずである。その答弁からだけでも、当局側の責任は裏付けられると考える。いずれ、しかるべきときには、その記録も、組合関係者から出されるかもしれない。

 

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念のため情報としてお伝えします。2005年10月11日の教員組合の週報で、組合のTOEFL問題に対する基本的見解を出しています。http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/top-right.htm 

 この立場は、基本的に現在も変える必要のないものであり、ながみねさんのご意見とあい通じるものがあります」。

 

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2005.10.11

「教員組合週報」(HTML)を発行しました
もくじ
● 第二回の団交を申し入れています。
● 学長選考・任命に当たっての教員組合の見解
● いわゆる「TOEFL500点問題」について
● 時間外労働に関する労使協定の更新

 

1月7日(3) 最初の学生さんからの追加意見(抜粋)。

 

「付き従う大学側」とは、どのような人々でしょうか?

多くの教員は、制度設計の内容の不透明な任期制などの押し付けを前にして、どのような不利益措置が降りかかってくるかわからないと、とくに準教授以下の若い人々は、危険を感じ、萎縮し沈黙している(せざるを得ない)と思われます。現在の状況では、教員の立場は、弱いものです。(私はそう見ています)

 

「付き従う大学側」とは、上記の教員組合の文章が示すように、少なくとも、教員組合で任期制問題などで闘っている教員ではなさそうです。

「付き従う大学側」とは、大学改革を合理的合法的に、民主的に実現していこうとする教員の人々ではなさそうです。

 

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PEに関してはあらゆる切り口から問題点が山ほどでてきます。

だせばきりがないほど問題点だらけなのは学生としてつくづく感じています。

・・・・

さらに他大学からの友人からもマスコミで報道されただけあってPE問題でたまに「大丈夫?」

と言われたりもします。法政大の先生と週1で授業がありますが、そこでもよく聞かれます。

 

学生は相当振り回されたと思います。改革初年度という混乱を十分に味合わされたと思います。

学生からは「先が見えない」のです。全く見えません。

いつも水面下の話で、「夏期講習に出ろ」とか「出席数が足りないと試験を受けさせない」など、

勝手に決定されて、突然言われるの繰り返しです

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 永岑先生が学生側の現状を知る機会がなかなかないのと同じように、学生側も教授陣や大学側が何を考えて

いるのかを知る機会はほとんどありません。やはり、互いが情報・意見を共有できる場というものが必要なように思えます。
学生の現状・ニーズをも取り入れてこそ本当の改革なのではないでしょうか。

 

役人の点数稼ぎの改革があり、

それに付き従う大学側が突進し、

その負担を背負う学生はただそれに服従する

でいいとは思えません。普通に考えればこれでいいと思うのは異常です。

そもそも学生は改革の膿を押し付けられる役割ではなく、大学の主役のはずです。

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たかが英語の単位認定や任期制導入の是非で大学を崩壊させるわけには行かないと思います。

 

 

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1月7日(2) 下記の日誌を読んだ学生から共感の意見が寄せられた。紹介しておこう。

         大変参考になる。学生のおかれたこのような具体的な問題状況は始めて知った。

このような学生の筋の通った生の声こそ貴重である。

 

当局が不合理な画一的基準に固執すればするほど、1年次生も含めた補習クラスの数は増える。そして、留年学生が増えつづける。こんなことで、多くの学部学生の将来をだめにしてしまっていいのか?

 

ところが、不合理な画一的500点基準を固執するとびとは、固執すればするほど、「500点基準を達成するため」という大義名分のもと、PE関連の組織(権益)を広げることになる。

PEセンターでいったい何人の人員をあらたに採用するのか?

どれほどの予算を使うのか?

誰が採用人事を行うのか?

誰がPE教員の適正・能力を判断するのか?

人事委員会は?人事の公正性は?その透明性は?

 

厳しい予算の状況で、研究費削減など本来の多様な科目群を担当する教員の教育研究条件はますます圧迫されている。どこに、PEのために大量の教員を雇用する予算があるのか?

このまま放置すれば、国際総合科学部の教員・教授会とは無関係のところでカリキュラムとその担い手に重大な変更が加えられる。教員の生活条件(給与等)にも重大なしわ寄せが発生する可能性もある。国際総合科学部は実にいびつな教員構成、実にゆがんだカリキュラム体系となる。

プラクティカル・イングリッシュをそのような極端に例外扱いしていいのか?

 

臨時教授会開催は必然的法的要請であろう。当局側が開催しようとしないなら、できるだけたくさんの教員の連名で、進級判定教授会(全体会)の開催を求めなければならないだろう。

 

今日紹介した二人の学生さんのメールだけからでも問題の深刻さはわかるが、この日誌を見た学生さんがほかにいれば、そして言いたいことがあれば、知らせてください。ここに適宜、掲載していくことにします。皆さん各人の具体的な経験・実情に即した多様な声が集まればと思います。

 

多くの学生さんの声が、現状に心を痛めている良心的な教員に影響を与えるであろう。学生と教員の声は、メンツ(?)や地位(?それに伴うのは狭い意味での経済的利益だけではない)をまもろうとする人々、権力と権限を持った人々に、臨時教授会を開催して、全学的に問題を再検討することを余儀なくさせるのではないかと思われる(甘い幻想か?)。

 

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国際総合科学部  2


名前を書かないでメールを送り非常に失礼ですが、寛容に見ていただければと思います。


私も実は未だTOEFL500に到達していません。留年の危機も迫っているということで私なりにこれまで非常に頑張ってきました。私は学費、生活費すべてを自分で払っています。そのお金というのは奨学金と自分で稼いだお金でまかなっています。なので奨学金とバイト代というのは私にとって両方なくてはならない存在であります。


しかしこのままの生活では留年はまぬがれないと思い、バイトを休み日々英語の勉強を頑張ってきました。しかし12月のTOEFLでは497点でした。あんなに頑張ったのにまた落ちました。12月にバイトを休んでしまったので1月からはもう生活ができなくなるので休めません





バイトを休んで受からなかったのに、バイトをしながら果たして2月のTOEFLにうかるでしょうか?非常に不安でなりません。





私は教職をとっていますがこの制度のせいで何度教職をやめようと思ったかわかりませんまた副ゼミをとりたかったのですが英語に受かってないので負荷が大きくなると思い、とることができませんでした。





もし留年になったら奨学金がおりなくなるというのを人から聞きました。そしたら私は大学をやめなくてはいけなくなります
またTOEFL70点位当初より上がりましたが、TOEFL攻略のノウハウは知ることができても、英語力は上がったかと聞かれたら疑問が残ります英語が不得意な人が得意な人より頑張っても評価がもらえない、しかもそれが単位を落とすとかではなく、留年するという非常に配慮に欠けた対応だと思います。このように思っている学生は私の周りにもたくさんいます。





まとまりに欠ける文ですがどうしても声を出さずにはいられなかったので……参考にしていただければ幸いです。

 

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1月7日(1) TOEFL500点問題で、怒り、苦しみ、不安でいっぱいの学生諸君は多いと思われる。先日の1月定例コース会議(コース内規で開催しているが、コースによっては基礎組織としてのコースでの会議さえ開いていないとも言われる、また、まったく権限のない会議に参加する義務はないと参加しない教員もいる・・・要事実確認)で示された数字によれば、9月段階から根本的な点での事態の変化はない。12月16日のTOEFL試験の合格者は30名程度のようである。非常に多くの学生が3年次に進級できない(進級させない)というのは異常極まりない。だからこそ新聞でも全国的に報道されたのであろう。

学長・学部長、それらを任命した経営陣(その経営陣を任命したのは市長=市当局)は、真剣に問題の合理的合法的改革のために、行動をとらなければならない。コース会議でも、「そもそも制度が根本的に問題だ」、と私は発言し、何人かの教員の明示的な(発言による)賛同もあった。

「臨時教授会を開くべきだ」との筋の通った意見も出された。まさに、学生の半数近い諸君の進級判定(=この場合は、進級不可の処分)を、一切教授会で審議しないなどということが、学校教育法上、許されるわけがない。

国際総合科学部の教員一人ひとりに、問いは投げかけられている。進級判定(不合格処分)を行う責任と権限は、学校教育法上の教授会にある。入学者判定、卒業判定、不正行為に関する判定などが、代議員会(運営会議)の責任と権限で行われている。一人二人の不正行為に関してさえ、教員組織としての代議員会や学生生活委員会といった教員の組織が、問題を審議し、決定を下している以上、たくさんの学生の進級にかかわることを教員組織・教授会で審議しないでいいということにはならない全学生の進級判定は、学校教育法にのっとり、教授会マターであろう。

これほど重要なことを、学部長・学長、そしてそれを任命した経営陣(それを任命した市長=市当局)の行政的決定システム(上意下達の独裁システム)の中におくことは、到底許されない。

この間何回か本日誌に書いた私の意見に学生の一人から、賛同の意見が寄せられた。匿名の形で、以下に掲載しておこう。今後、心ある教員と学生諸君が、問題を話し合う場を設定することに、賛成であり、ひとまずここにその意見を公開しておこう。

 

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あけましておめでとうございます。

はじめまして。永岑先生の大学改革日誌を読ませていただいてます。

 

私は国際総合科学部の2年生(1期生)です。
一昨年に入学してから、私は横浜市大の改革に疑問を持ち続けていました。

英語(Practical English)、複数ゼミの単位認定なし、教員の流出(外部講師の多さ)、教員の任期制…など

特に英語(PE)に関しては早急に解決が必要だと思っています。

 

単刀直入に言ってしまえば、私は永岑先生のPEへの問題提起・意見にはとても賛成です。

日誌にある「TOEFL500という進級基準をいつどこで誰がどのように決めたか」という問題提起は的確なように思えます。

さらに「秀〜可・不可」に評価基準を切り替えるという案もいいと思います。

 

 

国際総合科学部生としてPEを受けてきたわけですが、1年目はとても「悲惨」でした。

TOEFLを期末試験として受けさせられるのに、TOEICの教科書を買わされる。

○しかもそのTOEICの教科書は週1でしか扱わない。

○先生側の質にムラがありすぎる。

出席点は全く関係なし。

 

こんなひどい状況で出席率がいいわけがありません。誰が考えてもわかることだと思います。

自分のクラスでは出席者は毎週3〜6人程度でした。

 

2年目になったら大学側の焦りが見えてきました。

TOEFLの教材になった。(おそらくTOEFLゼミナールのもの)

○何故か一定の出席がないと期末試験がうけられない・単位認定されない。

PEのSクラスとそうでないクラスに分かれ、そうでないクラスではまともなTOEFL対策もされてない。(弱者切捨て)

○後期ではSクラスの中でもレベル別になり、あきらかに統一の目標に対する統一性に欠けている。

3単位なのに週4コマになる。

 

ほとんど外部(TOEFLゼミナール)に頼っているという感じが否めませんでした。

講師も教科書も市大オリジナルではないのです。

出席条件も勝手に新たにルールに書き加えているあたりもおかしいと思います。

(後出しじゃんけんもいいところです。)

 

2年後期では

PE-Sクラス上位→TOEFLゼミナールの教材を使い、難易度も高め。

PE-Sクラス下位→TOEFLゼミナールの教材を使うが、難易度は低め。

PEクラス→教材はよくわからないが、噂によると難易度的に初歩的なことしかやらない

 

このようにクラス分けが行われていましたが、そもそも、TOEFL500という画一的な目標があるのに、何故、難易度が違うのか。

苦手な学生に難易度の低い対策をすれば、高難易度の授業を受けた得意な学生と同じ得点が取れるのだろうか。

例えば、TOEFL500点突破と450点突破と400点突破のクラスがそれぞれあるということは全員がTOEFL500に到達しないということは誰が考えてもわかることです

旧学部または他大学のように、それぞれのクラスでの出席点と試験等の点数で評価を行っているのならば問題はないと思いますが、現在のPEの画一的な成績基準では下位クラスの学生はすでに切り捨てられていると言っていいと思います。

教育としてそれでいいのでしょうか?

 

学生全員が英語が得意だとは限りません。苦手な人だっています。

それはやはりPEのクラス分けから見てもわかることです。

そもそも入試の時点でたとえ英語が苦手でもこの大学には入れることになっています

 

私自身も英語がそこまで得意ではありません。

初回のTOEFLは・・・点台、TOEICでも・・・点台でした。

2年生の今ではTOEFLは460点、TOEICも570点にまで成長しました。

これは評価されません。基準を超えていないからです。

TOEFL500は評価され、TOEFL499は評価されないのです。

専門教養ゼミを2つ以上とっても評価されないのと同じく、学生の努力が単位として認められないのはとても残念なことのように思えます。

 

そこで永岑先生のPEの成績評価案はとても合理的だと思います。私も似たような段階的評価にならないものかと思っていました

秀(TOEFL550点以上)

優(500点以上―550点未満)

良(450点以上―500点未満に設定)

可(400点以上―450点未満に設定、あるいは380点以上−450点未満)

のように。

 

 

そう思っていたりしても、その疑問や意見をどこにぶつければいいのか?

学内でも不安感・絶望感があり、マスコミに問題として取り上げられているのに、

学生の意見を取り入れる場、改革について議論する場がないのはおかしいと思います。

 

TOEFL500問題が教授会で審議されたことがないまま突き進んでいるというのにも驚きです。

 

昨年12月のある日、・・・コースのX先生は

「市大は大学改革によってボロボロになった」

「この大学改革というのは学生にあわせてやっていくものなのに現状はそうではない」

「この大学改革は役人の点数稼ぎ」

というふうにおっしゃっていましたが、まったくもって同感でした。

 

今こそ、教授や学生が立ち上がって現制度と大量留年を阻止しなければならない時だと強く思います。

しかし、それはどうやってやるのか?よくわかりません。

このままでは学生としてとても不安です。

 

何か市大関係者が一同に集まって議論をする場がないといけないと思います。

例えば、横浜市大新聞でも取り上げられた、2005年12月20日に行われた教員集会や、昨年行われていたNOB

(Network of Out Burst 横浜市立大学有志学生組織)主催のイベント「話そう!市大改革!〜学生・教員ディスカッション〜」

のようなものがあればそこに教授や学生が集まり、議論ができるかもしれません。

しかし自分ひとりでは全く持って身動きがとれずじまいでどうすることもできません。

何か打開策があればいいなあと思っています。

 

 

長文失礼しました。

あまり考えがまとまっていなかったのですが、日誌を読んだ感想というか学生の一意見として思ってもらえれば幸いです。

 

 

 

 

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2007年1月4日 本日誌に関心をお持ちの皆様、新年おめでとうございます

 

大学内外の真の民主主義の実現の道は、いばらに満ちており、大変なものですが、大局的には、大学内外の人々、そして世界の人々は、まさにその民主化を紆余曲折を経ながらもすこしずつ実現し、またそのために一歩一歩、着実に歩んでいると考えます。その見通しに立って、長期的には楽観的に、しかし、目前の諸事全般に関しては緊張感を持って進みたいと思います。大小にかかわらず、ご教示、コメント、ご批判などよろしくお願いいたします。

 

大学における任期制の問題では、楽観は許されません。TOEFL500点問題同様、「難問」が山積しています。

合理的合法的理由なしに、「えさ」をぶら下げて、人々に任期制を押し付けよう、飲み込ませようとする考え方、勢力は存在します。大学教員任期制の法律がどのような趣旨のもとに、どのような説明原理で国会において成立したのか、そのときの付帯決議は何か、大学教員に対する労働基準法第14条の適用はいかなる合理的根拠を持つのか、きちんと確認すべきことがたくさんあります。

 

新しい公募人事に応じたため、「任期制に同意した」とされる教員に関しても、一般的全般的に「任期制」に反対を表明できない以上、やむなく「同意」したのであって、任期制の基準や適用における不透明性・不公平性など問題があれば、きちんと教員組合などを通じて、透明性・公平性など権利を確立していく必要があります。私の見るところ、「普通にやっていれば問題ない」などと言う口頭での基準説明は、合理的ではなく、人々を安心して仕事に没頭させる基準ではありません。むしろ、不安を撒き散らすやり方です。

非合理で不当な任期制の適用やその基準の設定の仕方、判定の仕方などに関しては、大学の自治、学問の自由を守る見地から、すなわち、大学人としての普遍的責任の見地から、どうどうと発言していくことが求められます。

 

一人ひとりの教員は、「同一労働=同一賃金」という商品交換社会の基本原則(商品=貨幣の等価交換という全世界的な公正明瞭な市民的合意)に立って、不当な任期制適用(基準のはっきりしない差別的賃金体系や差別的適用)には反対していくべきものでしょう。それとも、自分の労働が適切に評価されなくてもいい、あるいは逆に、自分の労働だけはほかの人より格段に有利に評価されればいい(不等価交換でも、自分だけよければいい)、などと考える人は、いるのでしょうか?

 

「同一労働=同一賃金」の原則を実現するためには、何が同一の労働であるか、誰の労働と誰の労働が同一かが問題となります。

別の表現をすれば、違った労働をどのように段階的に区別して違いを評価するかという問題となります。評価の仕方、評価に当たっての基準となる諸項目、評価の主体などが問題となります。

 

各人の労働の違いを賃金の違い(量的に違うだけの違い)にいかに適切に合理的に反映するかが問題となります。不当な、合理性のない(合理的説明のない)差別賃金は、安定した魅力的で生き生きとした研究教育環境を実現するという見地からは、許されません。「決まったことだから」という言葉のオームのような繰り返し(内容説明ぬき、説得的制度説明ぬき)は、合理的説明に根本的に反するものです。

合理性のない賃金体系(その押し付け)は、結局のところ、不満を撒き散らし、働く人々の意欲、モラールをだめにしていくでしょう。それは、それぞれの組織の活性化とは正反対の結果をもたらすでしょう。

 

任期制問題で巷間の関心を呼んでいるのは、秋田の国際教養大のニュースです。

誰が、どのように評価しているのか?

ピアレヴューはどうなっているのか?

「教養大の3年間」とは、なんだったのか? どこにその内容が明らかにされているのか? その内容の評価は誰がするのか?

京都大学井上教授問題における最高裁判断もしっかり見据えつつ、「任期制」の意味を吟味する必要がある。

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倍率20・1倍の狭き門 教養大教員募集、世界各国から応募

 国際教養大(中嶋嶺雄学長)が、開学以来初めて教員の任期満了(3年)に伴い「若干名」を募集したところ、世界各国から402人の応募があった。20人が合格したため、倍率は20・1倍という狭き門だった。
 今回、契約が切れるのは全教員45人中27人で、このうち11人は契約を更新。15人が採用試験を再度受験したが、合格したのはわずかに4人。残留を希望しなかった1人を含め、全教員の約4分の1に当たる12人が来春、同大を去ることになった
 10、11月に行われた採用試験には、欧米のほかインドやエジプトなど幅広い地域から応募があり、半数以上が外国人だった。書類審査で34人に絞り込んだ後、自費で大学まで足を運んでもらい、模擬授業と面接を行った。合格した20人のうち、日本人は8人だった。
 同大事務局の佐々木昌良次長は「原則3年任期という厳しいシステムなので、どの程度応募があるのか不安もあっただけに、402人という人数には驚いた。教養大の3年間が評価されたとすればうれしい」と語る。
 同大は、国内の国公立大が人事の硬直化で活力が損なわれ、結果として国際競争力を失っているとして、競争原理による教育のスキルアップを目指し、全国に先駆けて教員の任期制を導入。学生や他の教員、学長ら複数が行う評価制も実施している。

2006/12/30 09:30更新)http://www.sakigake.jp/p/akita/topics.jsp?kc=20061230b
 

 



[1][1] “Nothing is more loathsome to him than underhand dealings and crooked undertakings.”(Nitobe, Bushido, p.39) ただし、弱い立場の学生諸君が鬱憤を晴らすことは必然と思う。

 

“Rectitude is a twin brother to Valour.”(Ibid., p.40.)

 

[2][2][1] 拙稿「アウシュヴィッツへの道−「過去の克服」の世界的到達点の見地から−」(1)『横浜私立大学論叢』人文科学系列、Vol. .58, No.1.2合併号,20072月刊予定(現在、再校提出)は,まさにヒトラーの論理を一次史料に立ち返りながら、整理したものです。 

 

[3][3][2] 教員組合は、一貫して、学則改定や就業規則改正を目指して、すなわち、大学自治の再建を制度的に確立していくことを目指して、取り組んでいる。

 

[4][4][3] なぜ医学部がこの時点で、憲法的見地を教授会として決議したのか、その真意(利害関係)は必ずしも明らかではなく、そのうち、「ああこういうことだったのか」と理解できるかもしれないが。

 

[5][5][4] 新田次郎(藤原正彦氏の父)は、気象庁の課長補佐としての仕事をきっちりこなした上、通勤の電車などを活用し、夜間に執筆をこなして、完全に一人二役をこなしたという。日銀の吉野氏(森鴎外研究)と同じような、人並み以上の人の場合は、一定の管理職業務とほかの業務とが可能だということを示している。

 

[6] 「どんなに悪い事例とされているものでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によったものであった。」(カエサル「カティリーナの弾劾」より、塩野七生『ローマ人の物語−ユリウス・カエサル ルビコン以前』上、新潮文庫、p.181

 

 

 医学部の場合、教授会は文字通り、「教授だけによる」構成体であり、準教授以下の人々にとっては、教授会自治それ自体の持つ意味は限定的だろうが、それでも、大学の教育研究を知らない行政当局による外部からの介入を阻止する、チェックする、という点では、自治・自立の再建の側に組するのではないか?