最終更新:04/08/11

商品分析[1]

―商品と貨幣―[2]

 

 

(1)商品の価格とは何か? 価格は商品の何を表現するものか?

(2)商品に表わされる労働の二重性―経済学理解の決定的飛躍点!

(3)商品の価値はどのように表現されるか? 

価値の表現=価値形態はどのように歴史的論理的に発展してきたか?

 

 

 

貨幣論

(貨幣または単純商品流通に関しては・・『経済学批判』第二章 貨幣または単純流通、『資本論』第1巻第三章、信用制度の発達した段階での信用貨幣などに関しては、『資本論』第3巻、第27章 資本主義的生産における信用の役割、第28章 流通手段と資本、第29章 銀行資本の構成部分、第3031・32章 貨幣資本と現実資本、第33章 信用制度の下における流通手段、など)

 

(4)金融政策的インフレターゲット論の原理的批判のために

‐恣意的通貨発行量増大政策の危険性、

-貨幣の長期中立性」・・・M2GDPの相互関係

分業の深化発展・イノヴェーション(イノベーション)人間的現実的な有効需要創出=市場創出こそ模索すべき[3]

 

一読すべきもの:「物価の番人」「物価レポート」の担当者だった経済企画庁の元役人の仕事

 小菅伸彦『日本はデフレではない‐インフレ目標論批判‐』ダイヤモンド社,200365日刊

 

「まえがき」

   

 「1999年から消費者物価の下落が続いている。」

 この物価下落は,長引く経済停滞の原因か?

 

「実証的分析を欠いた思い込み」

「誤った物価指数の見方・・・」

「インフレ目標論者たちは現実の物価の動きをあまり知らない」

「物価下落と経済停滞という二つの語義をもつ“デフレ”という言葉が,意図的あるいは無意識的に意味をすり替えて用いられ、議論を混乱させている・・・」

「物価が純粋に貨幣的現象であり、マネーサプライの調節によって操作できるというインフレ目標論者の主張」・・・は誤り・・・「長期と短期の混同」、「短期の物価変動は純粋な貨幣的現象ではないし、日銀の金融政策自体が短期の経済情勢から完全に自由ではない・・・・」

 

「デフレの弊害とされる現象・・・・その多くが現実の日本経済では深刻な問題としては生じていない・・・デフレ論者・インフレ目標論者がいう物価下落による日本経済崩壊説にはほとんど実証的根拠がない・・・」

 

「物価動向・・・卸売物価には異常な事態はほとんど起きていない・・・消費者物価が卸売物価に収斂するかたちで下落している現象がデフレのように見えている・・・・(実は)それらは、日本経済の長年の宿弊であった高生産性部門と低生産性部門の並存が、構造改革・規制緩和によって解消に向かっていることを示す現象なのである。」

 

「物価下落が失業増大や消費停滞をもたらしたという論に根拠がない・・・・卸売物価と消費者物価の乖離の縮小は企業の賃金調整を容易にし、物価下落のもとでの交易条件改善は企業収益を下支えして回復傾向さえもたらしている。・・・「物価下落=不況原因」説には明確な根拠などなく、したがってデフレスパイラル危機の可能性は少ない・・・」

 

「物価指数には上方バイアスがあるからデフレはもっと深刻だとする見方にはほとんど根拠がない・・・商品やサービスの質向上を割り引いた物価指数が急速な技術シンポのもとでは統計上のデフレ幻想を生み出してしまう・・・」

 

第1章    デフレ問題の論点

 

 p.4-5 1990年代後半、物価はほぼ一貫して下落基調で推移し、最近では下落ペース加速の兆しもある。・・・しかし,物価の動きをよく見ると、これまでに起きたことのない新しい動きが生じているのは消費者物価についてであって、卸売物価の下落幅は過去と比べてとりわけ大きいものではない。企業間の取引価格で契機と関連の深い卸売物価を見るかぎり、これまでと違う異常なことなど起きていない。」

 

p.5 「たしかに最近まで卸売物価[4]も長期にわたって下落が続いてきたが、これは経済停滞の結果であって原因ではない[5]。製造企業の産出価格(生産物の販売価格)を投入価格(原材料や燃料などのの購入価格)で割った交易条件は、この間、改善傾向を示している。物価下落はむしろ企業の収益改善要因として作用してきた。最近では円安の影響もあって卸売物価はむしろ上昇傾向にある。」

 「消費者物価[6]の総合指数は1999年から2002年まで4年連続して下落している。より広い範囲をカバーする物価指標であるGDPデフデフレーターもほぼ同様の動きを示している。たしかに消費者物価やGDPデフレーター[7]の連続下落は少なくとも第二次世界大戦後では日本経済にとってはじめての経験である。・・・」

 

田中内閣・列島改造ブームにおけるバブル 

p.6「このときも日本中の企業が株や、道もない山中の土地まで買い漁った。平成バブルと大きく異なるのは、当時は資産インフレと同時にインフレが進行していたことと、その後に続くはずの不良資産整理の過程を,第一次石油ショック[8]による大インフレ、いわゆる狂乱物価が吹き飛ばしてしまったことである。

  事実上100%の原油を輸入に依存する日本経済は、第一次石油ショックにより先進国中で最も大きな打撃を受けたが、その後インフレ抑制に成功し、第二次石油ショックの影響は比較的軽微にとどまった。わが国の企業は石油ショック後の新しい価格体系にいち早く適応し、エレクトロニクス化を軸に省資源・省エネルギー型産業構造への転換を図り,1980年代以降、国際競争力をさらに高めることに成功した。同時期にインフレと不況が共存するスタグフレーションの克服に悩んだ他の先進諸国とはこの点で対照的であった。

 しかし、この成功の裏でわが国は不良資産,不良債権整理というもうひとつの重要な経験を積む機会を逸してしまった。狂乱物価のもとで資産デフレは深刻な問題とはならず、わが国の企業は不良資産の積み上がりによるバランスシート悪化の怖さを身にしみて感じることがないまま、十数年後にさらに大規模なバブルに狂奔することになった。狂乱物価が不良資産・不良債務を吹き飛ばしてくれた当時の記憶が,現在、不良債務に苦しむ企業の調整インフレ待望論につながっている。」

 

内外価格差を生んできた消費者物価と卸売物価の差

p.7「卸売物価の安定と消費者物価の継続的な上昇という二つの物価指標の対照的な動きが、従来、わが国の物価の際立った特徴であり、これが内外価格差問題を生み出してきた。現在の消費者物価の連続的下落は確かに過去に例のないことだが、これは異常なことでも何でもない。高止まりした消費者物価を引き下げることこそ内外価格差問題の課題だった・・・そのためにとられたさまざまな構造改革政策の成果がようやく出てきているのが現在の状況だ。川上の卸売物価が下がっても消費者にたどり着く段階になると物価が上がってしまうという体質が内外価格差を生み出してきたのだが、ここにきてようやく卸売物価が下がれば消費者物価も下がるという経済になってきたのである。」

 

p8 「為替レートは資本移動などによって日々変動しているが、長期的に輸出品の国際競争力によって決まる。円ドルのレートであれば日米の輸出価格の相対比によって決まる[9]。・・・

 輸出は企業間の比較的大規模な取引であり、比較的川上で行われる。したがって、輸出価格と卸売物価は同じような動きをするから、結局、為替レートは卸売物価と密接に連動した動きとなる。日本の卸売物価は国際的に見てきわめて安定していた・・・

 消費者物価・・・(の)相対的安定度合いは卸売物価ほどではない。この結果、消費者物価の購買力平価と為替レートに乖離が生じた。円を為替レートで外貨に交換して海外で使う場合の購買力に、国内での消費者の購買力が及ばない。つまり、国内の物価が海外よりも高い。これが内外価格差である。

 

P9 内外価格差を生み出してきた卸売物価と消費者物価の異なった動き、前者の安定と後者の継続的上昇という乖離を生み出してきたのは、高い流通コスト、生産性の高い貿易部門非効率な流通、サービスなどの非貿易部門、消費財産業を中心とした非効率な中小企業の温存、非貿易部門の生産性向上を阻む競争制限的な規制輸入品に対する市場障壁などだ。これらの問題はいずれも日本経済が抱えてきた構造問題そのもので、現在の構造改革のなかでも引き続き課題とされているものばかりである。

  ・・・

内外価格差縮小をもたらした卸売物価と消費者物価の乖離の解消は、企業の賃金調整を容易にするという点で景気面でも日本経済に高影響を与えている。」

 

p10 

「消費者物価の動きが卸売物価に収斂しはじめているという現状は、高生産性部門と低生産性部門の共存という構造問題が解消に向かっているということを示す・・・実はデフレのように見える物価の下落をもたらしている個々の現象それ自体が、これまでの構造改革の結果なのである。

数年にわたる連続的下落というこれまでになかった様相を低している消費者物価も、内訳をよく見れば、工業製品などでは目新しい動きは生じていない。工業製品の多く、とくに大企業製品は従来から価格下落が普通の動きであった。それに対して、これまで上昇を続けてきたサービスや公共料金が下がるようになったこと、アパレルによる流通支配は百貨店中心の販売などによって価格が高止まりしてきた繊維製品なども価格が下がるようになったことが、消費者物価総合指数の下落というこれまでに見られなかった動きをもたらしているのだ。

デフレギャップ[10]による一般物価の下落がまずあって個々の部門で物価下落が生じているのではなく、卸売物価には少なく消費者物価には多く含まれていた下方硬直的な商品・サービスの価格がようやく下落するようになってきたことが消費者物価総合指数を引き下げているのであり、それはこれまでさまざまな問題を生んできた低生産性部門と高生産性部門の並存[11]という日本経済の構造が大きく変わり始めていることの結果なのである。」

 

p.11「サービス部門などの物価下落が生産性上昇によるものばかりでなく、景気低迷による需要不足、過度の競争によるデフレ的な部分が多いという主張」・・・「それはその通り」。

 

「流通問題を例にとれば、1960年代に薄利多売を旗印として登場したダイエーなどの大手スーパーは、零細小売店や卸売業者を淘汰しつつ急速に全国展開し、流通革命と呼ばれる大きな変化をもたらした。だが、その後、大規模小売店舗法(大店法)の規制のもとで次第に保守化していった。大店法は伝統的な商店街を形成する既存小売店―彼らは商工会、商工会議所を通じて強い政治力を持つ―を大手スーパーの攻勢から守るために作られた法律で、これが零細小売店の淘汰を遅らせる効果を持ったことは疑うべくもない。そして同時にこの法律は、大手スーパーを同業他者との競争から守る役割を果たすことにもなってしまった。」

 

p.12

「大手スーパーが大店法の規制に安住するなかで、1980年代には大店法の規制、特に規模の規制をかいくぐって各種ディスカウントストア(DS)が台頭してきた。当初は、倒産、質流れ品等を買い叩いて売る円高不況時の一時的な業態、いわゆるバッタ屋稼業と見下し、永続的、本格的な流通変革であることを疑問視する見方もあったが、ビックカメラなどはいまやわが国の流通業界をリードする企業に発展している。

 ついでながら、大店法の規制のために、都心の主要駅の駅前はDSの規制くぐりの中規模店舗群のタコあし展開によってみるも無残な都市景観になってしまった。」

 「DS台頭の延長線上で、八〇年代末以降、大店法の規制緩和の流れのかなでカテゴリーキラーといわれる新しい流通企業が輩出し、流通業の変革が急速かつ目覚しく進んでいる。・・・・・

 「九〇年代半ばの円高時に輸入品との価格競争が激化するなかで、価格破壊という言葉が流行語になった。この言葉は高止まりした価格を壊すというようなポジティヴなニュアンスで用いられる通俗語、・・・・

 九〇年代以降、DS、カテゴリーキラーと呼ばれる新しい流通業者が展開した新ビジネスが価格破壊とよばれるからといって、それ(は・・・)破壊的価格競争[12]を意味しない・・・

 非効率企業の淘汰は自由主義経済の宿命だが、それは当然、痛みをともなう。淘汰された企業の労働者は職を失い、新しい就業の場をさがさなければならないが、不況時の転職は難しい・・・・」

 

新しいビジネス機会を創造することで民間投資を盛り上げる必要がある。

 

p.14

「低生産性部門の非効率企業が新しい高能率企業にとって代わられる、あるいは同じ企業が高能率企業に脱皮する(それがリストラの本来の意味だが)ことは、J・シュンペーターがいう創造的破壊そのもので、そこには大きな投資機会がある。変化を阻む規制や慣習がこれまで投資機会を制限してきた[13]。日本経済にとっての構造改革とは資源が非効率部門から高生産性部門へと移動することを阻む規制、制度、慣行をなくしていく[14]ことで、それのみが日本経済が停滞を脱する唯一の道である。・・・

規制緩和や構造改革が進むことによって生じた個々の現象―流通業の変革がその典型―が総体としてデフレと見えるような物価下落をもたらしている・・・・」

 

 流通業も、スペシャルな知識と熟練とを必要とする専門店と大量消費型・一般消費型・スーパー型の大規模店舗向きのものとの差別化が必要なのであろう。

 

.15

「高生産性部門では価格が継続的に下落、低生産性部門で上昇ということが過去の日本経済にとって普通の姿だった。それに加えて、これまでの低生産性部門でも価格が下がるようになったというのが、現在起きていることである。過去の日本経済は高生産性部門の生産性上昇による価格低下が需要を喚起し、成長を続けてきた。」

 

.17

「現在生じている物価下落は生産性工場による物価下落ばかりではない。長期の経済停滞の結果、なかなか縮小しない需給ギャップ(デフレギャップ)による物価下落がかなりの部分を占めることも事実・・・」

 

.18 通常使われているデフレの意味・・・二つの側面

「デフレという言葉は物価の継続的な下落という意味で使われるほかに、経済停滞、不況というような意味でも使われる。デフレギャップとはマクロ経済で需要が供給量に満たない需要不足の状態、需要不足の大きさをいう。これと対称にマクロの需要超過についてもインフレギャップという言葉が使われる。ところが私たちの日常用語として物価の継続的な上昇をインフレとはいうが、インフレギャップが存在するような好況時の経済、景気過熱気味の経済のことそれ自体をインフレとはいわない。インフレという言葉は、インフレギャップのような分析用語は別として、物価の動きについてだけ用いられる。

ところが、デフレは物価下落と不景気な経済状態の両方について用いられる。むしろ不景気について用いられることのほうが多い。

 

 

 



[1] 『資本論』は、「商品と貨幣」を冒頭で扱う。まさに、「商品と貨幣」という不可分の相互関係こそ、大切である。

 生産物が商品として交換されるという現実、その商品世界の発展によってか比叡が生みだされるという歴史的事実、この分析から、マルクスは経済学を構築する。

 ある生産物が別の生産物と交換される社会関係、この基本的な社会関係から、マルクスの分析は出発する。

 しかもこの基本関係は、商品世界が発展すればするほど、普遍的になる。まさに人間の身体でいえば、60兆といわれる細胞にあたるものが経済社会の細胞としての商品である。この細胞としての商品を分析するのが冒頭である。

 商品が経済生活の普遍的な要素=細胞になっている社会は、歴史的な社会であり、人類史のある発展段階で初めて、そのような商品社会となる。

社会が生産する圧倒的な生産物が商品として生産される社会は、そんなに古い時代から見られるものではない。

せいぜい15世紀16世紀以降の近代資本主義社会になってからの現象である。商品経済の発展した社会から近代資本主義社会が生みだされる。

 

[2] 商品(世界)が貨幣の前提であることを忘れてしまうと、経済学の根底が崩壊する。

 たとえば、岩井克人『貨幣論』(筑摩学芸文庫、1998)は、本のタイトル通り、貨幣論を検討しているが、その前提としての商品(世界)が忘れ去られている。

 その必然的結果として、冒頭にくるのは、「第1章 価値形態論」である。

 マルクスの場合、冒頭にくるのは、「第1篇 商品と貨幣」であり、まず最初に「第1章 商品」がある。そしてその第1節が「商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体、価値量)であり、第2節が「商品に表わされる労働の2重性」である。

 これら商品分析、商品に表わされている労働の2重性の分析を終えた後、商品の価値を表現する形態が分析されるのである。

 この基本的な叙述の進み方は、根本的に重要である。それを忘れると、マルクスの叙述は、「循環論法」(岩井、p.47)というように見えてくる。また、それを媒介として、労働価値説を否定する(同、p.48)ことになる。

 

 岩井克人『貨幣論』が、マルクスの基本的スタンスをどのように誤解しているかは、つぎの文章が示す。

 「労働価値論を前提にして商品世界の貨幣形態をみちびきだし、商品世界の貨幣形態をとおして労働価値論を実証するという循環論法」をマルクスのやり方だと見る。

 では、岩井克人は、完全に循環論法を批判するのかと思えば、そうではない。 

「「貨幣形態」にもし「秘密」があるとしたら、それはこの貨幣形態を固有の価値形態とする商品世界がまさに「循環論法」によって存立する構造をなしているということなのである。それは同時に、貨幣という存在が、商品世界におけるまさに「生きた循環論法」に他ならないということを示すことにもなるのである」と。

 

 なんのことかわかるだろうか?

 

 次に唐突に、次の文章がくる。

「もちろん、なにかを得るためには何かを捨てなければならない。そして最後に捨て去られるのは労働価値論である。労働価値論から出発した価値形態論が最終的に行きつく貨幣形態の「循環論法」のなかには、もはやその労働価値論が入りこむ余地はない。登るために使われたハシゴは、上り終わった後には捨て去られなければならない」というのである。

 

 これは論理的な文章であろうか?

なぜ、労働価値論を捨てるのか?

そもそも労働価値論を理解していないのではないか?

 

 これは、はじめから労働価値論を理解していない証拠である。すなわち、マルクスが価値形態論の前提としておいた商品分析と商品に表わされた労働の2重性の分析の意味を理解しなかったことを意味する。

 無数の商品交換関係が商品世界を構成している。

 そのすべての交換関係に共通する要素を分析したのがマルクスの商品分析であり、商品に表わされる労働の2重性の分析である。この二つの部分に労働価値説のエッセンスがある。価値の実体が労働であるということ、しかもその価値の実体としての労働は有用労働の多様性を捨象したどの有用労働にも共通したもの=その意味で抽象的人間労働というものであること、その共通性においてのみ(共通の社会的性格においてのみ)、交換が可能であること、そうした労働価値説の基本を踏まえて初めて、そのような商品世界に共通する価値の表現形態として、価値形態が検討されることになる。

 価値の実体としての労働(抽象的人間労働)を抜きにしては、価値の表現も問題にならず、価値の形態も問題にならない。その根本が岩井説では理解されていない。 

 

[3] 1985年、S.クラインは、「イノベーションの起点は市場発見にある」とする「連鎖モデル」を発表した。Cf.亀岡秋男・古川公成編『イノベーション経営』放送大学教育振興会(H(放送大学教材)2001年、「まえがき」。

 産業革命のところで説明するように、市場の隘路を見つけ、高価格の製品市場を見いだし、発明発見で低価格・良質の商品を生み出すこと=技術革新、まさにその技術革新の連鎖こそは、革命的飛躍的生産力発展を意味する。

 

[4] 企業間の取引価格であり、日本銀行によって毎月の上・中・下旬別に価格が調査,公表されている。国内卸売物価、輸出価格、輸入価格に大別され、出荷額および輸出入額をウエイトとして加重平均された卸売り物価指数が公表されている。

 

[5] 結果と原因とを二つとも規定している生産性・生産力と日本および世界の市場規模は?

[6] 消費者が小売店などで購入するときの物価。総務省統計局が実施している全国小売物価統計の品目別価格を,基準年における家計調査統計の全国全世帯の品目別購入割合をウエイトしに加重平均した消費者物価指数が毎月公表されている。

 

[7] 国民経済計算体系(GDP統計)のなかの物価指数の呼称。GDP独自の物価指数があるのではなく、現実の取引データからまず名目GDPが推計され、次いで名目GDPを校正する個別品目ごとに個々の小売物価や卸売物価で実質化を行い、それを集計して実質GDPが求められる。

 その上で、事後的に、名目GDP/実質GDPとして全体の物価指数が求められる。そのため、「インプリシット・デフレーター」と呼ばれる。

 

[8] 石油価格の大幅上昇。オペックによる石油の生産制限・生産量統制(=供給制限)と物価

 

[9] 為替レート決定の「購買力平価」説・・・為替レートが両国通貨の購買力が等しくなるように決まるという学説。通貨の購買力は物価の逆数だから、物価が等しくなるように決まるといってもおなじである。たとえば、日本の物価がアメリカに比べて高ければ、やすいアメリカ製品の輸入が増え、高い日本製品の輸出が減るから、貿易収支が赤字になり、円安となってドル建てでみた日本の物価は下がる。この変化は両国の物価格差が解消されるまで続く。為替レートは短期的には資本移動などによって大きく変動するが、期間を鳴らしてみると購買力平価説が当てはまることが多い。

[10] 「労働力や資本設備をフルに活用した状態の生産(完全雇用生産量、潜在GDP)を総需要が下回っている場合」、したがって相対的過剰生産能力がある場合、「その需要不足分デフレギャップといい、逆の場合の需要超過分をインフレギャップという。デフレギャップが生じている景気の悪い状態では物価が下がりやすく、反対にインフレギャップが生じる景気過熱の時期には物価が上がりやすくなる」」

 

 

[11] 部門間の生産性欠くさ、資本の有機的構成の格差は、資本主義的発展の必然的結果であり、「並存」という現実は、日本経済に限らず、普遍的現象ではないか?

 例えば農業などのような自然条件と結びついた部門の生産性が、つねに工業部門より生産性が低いという格差は、世界的に問題となっており、農業へのさまざまの援助が必要になっているのではないか?

 

[12] 「競争相手を倒すための一時的な値下げ、ダンピングなどの不公正な価格競争を指す経済学用語もしくは法律学用語で、正常なビジネスの枠外のものをいう。」

 

[13] 具体的にはどんなこと? 一般的ないい方では、問題を見つけたとはいえない。取り払うべきは、どんな規制? どんな慣習?

 

[14] 具体的には何をどうする?