更新日:2004/09/22
1990年代の日本経済史−バブル崩壊・冷戦体制解体・グローバル化の中での日本経済−
前期講義で、なぜ戦後日本経済史に関して力点を置いたかを説明して、90年代長期構造不況ばかりが指摘される中で、日本における長期的経済発展の主要傾向とその基本的諸要因を把握しておくことが大切だからだ、といった。不況期にも(いや不況期こそ競争が激烈になり、むしろ厳しく)貫徹する法則。
生産の諸要因、資本の蓄積、労働の生産性の上昇など、一連の相互に関連した諸要因である。
前期の講義で統計を紹介しながらのべたように、バブルにおける地価高騰とその崩壊における地価下落のダメージ・・・資産価値が700兆円規模で減った。その金融的マイナス要因は決定的。
現実的な生産拡大(プラント建設その他)・現実的な社会(日本と世界)の市場規模の測定とそれに応じた生産能力拡大、この冷徹な計画なしに、投機的に土地を買い占めた法人企業の過剰な負債。
そうした産業資本に対して、これまたきちんとした市場予測に基づく生産プロジェクトがあるかないかなどおかまいなく、投機的な土地購入に対して資金を貸した金融機関。
貨幣資本の借り手も貨幣資本の貸し手も、双方が、現実的市場拡大・生産拡大の基盤を欠如したまま金融ゲームに狂奔した。
土地担保金融、土地の生産的な利用可能性に関する冷徹な計算抜きの投機的土地買占め=借金して土地購入=借り手側からすれば膨大な負債、貸し手側の金融機関からすれば不良債権。
あぶくのような妄想に資金を投下したのだから、焦げ付くのは必然。
そのつけを直接の法人企業(産業資本と金融資本)が背負うのは当然。
ところが、そのバブル崩壊の負担を乗り切るために、政府からの「公共事業」などの赤字支出。
この「需要創造」も、現実的な必要性などに関しては大甘な判定しかしないもので、湯水のように国家が資金が投じられ、いまや719兆円の公的累積債務に膨張している。
いったいだれがこの債務を支払うのか?
年次経済財政報告(2003年、2004年)のなかでは、消費税引き上げが語られている。つまり、一般国民の消費物資に対する課税(すなわち増税)である。国民が、巨額に上る累積債務の負担をしなければならないのである。
しかし、バブルに狂奔したのは、国民か?
投機に巻き込まれ、付和雷同した国民も多いが、そんなことにかかわりのなかった国民の方が多い。とりわけ、バブル期にまだ子どもだった人々やうまれていなかった人々、すなわち若い人々に責任がないことだけははっきりしている。その責任なきひとびとが、膨大な公的債務の負担を負わされるとすれば、それは不公正ではないか? 消費税というのは、直接税(法人税、所得税など)と違って、国民全部、とりわけ低所得層に重くのしかかる税金である。
バブル膨張に奔走したのは、圧倒的には法人企業であり、それらによる投機である。
ところが、下記の税制改正によって、法人企業は、この国家の財政赤字の厳しく苦しい時代に、減税を実現している。初年度だけで、法人関連税制が1兆3040億円も減税されるのである。
さらに、国民の中でも裕福な人々が主として支払う相続税や贈与税も、減税である。バブルをあおり、バブル期に大もうけした金融・証券業界、あるいは金融資産・証券等の財産を持っている人々には、初年度960億円、次年度以降1250億円の減税となっている。
全国民に関係する消費税の税率は、まださすがに引き上げられていない。
しかし、年次経済財政報告を読むかぎり、消費税増税の圧力はますますたかまっているといわなければならない。
すでに、下記(H16年次経済財政報告より)の付表1−22が示すように、中小事業者に対する特例措置を見直すことによって、中小事業者への課税が増え、毎年5040億円の増税となる。一般国民の所得税も引きあげられることになる。毎年4,790億円の増税となる。多くの国民が負担することになる酒・タバコ税も増税となっている。
こうした税制改革が、いったいどこの利益を守り、どこへ負担をかけることになるか、しっかり見据える必要がある。
国民はすでに、バブル絶頂からその崩壊、そして長期不況のなかで、失業という負担を負ってきた。
企業はリストラを敢行し、したがって、完全失業率は上昇を続けた。96年から2002年までは次第に完全失業率が高くなっている。少し少なくなり始めたのが2002年である。
国民の負担は、失業だけではない。国民の家計支出は、不況の中で次第に減少せざるをえなかった。給料等収入から貯蓄に回せる部分は少なくなった。
その点を示すのが、次の表である。貯蓄率が減少し、可処分所得と家計最終消費支出が傾向的に減少していることが分かる。下げ止まりがやっと2003年にやってきた、というところである。
高齢化が急速に進む中で、特にいわゆる団塊世代の人々が年金生活に入る時期になってきて、現在、そして将来の勤労国民は、今年度の年金改正もあって、年金負担が増え続けることになる。
それでは、法人企業は、この「長期不況」のなかで、不況に苦しむ企業ばかりだったのか?
そうではない。
「勝ち組」と「負け組み」とよく言われるように、法人も上昇拡大する企業群と下降・縮小する企業群とで二分化していることをみなければならない。
この点で、前期講義、および前期テストで利用した法人企業統計は何を物語っているか?
今一度その統計を見ておこう。
年 次,経 営 組 織, |
総 数 |
資 本 金 階 級 別 |
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300万円 |
300〜 |
500〜 |
1,000〜 |
3,000万円 |
1〜 |
10億円 |
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未 満 |
500万円 |
1,000万円 |
3,000万円 |
〜1億円 |
10億円 |
以 上 |
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平成3 年 |
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1,561,300 |
a)132,420 |
b)688,750 |
352,074 |
279,600 |
83,897 |
20,126 |
4,433 |
|
|
8 |
|
1,674,465 |
33,439 |
573,562 |
223,481 |
714,972 |
100,381 |
22,891 |
5,739 |
|
13 |
|
1,617,600 |
16,621 |
586,546 |
205,683 |
673,041 |
105,616 |
23,950 |
6,143 |
株式会社 |
|
744,506 |
48 |
288 |
345 |
613,448 |
100,496 |
23,762 |
6,119 |
|
有限会社 |
|
850,054 |
987 |
583,439 |
202,763 |
57,837 |
4,839 |
178 |
11 |
|
合名・合資等 |
|
23,040 |
15,586 |
2,819 |
2,575 |
1,756 |
281 |
10 |
13 |
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「事業所・企業統計調査」(10月1日現在)による。ただし,平成3年は7月1日現在。平成3年は長崎県島原市,深江町の企業を除く。 |
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1) 衣服,その他の繊維製品を除く。 2) 映画・ビデオ制作業を除く。
a) 資本金100万円未満。 b) 資本金100〜500万円。 |
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資料 総務省統計局統計調査部経済統計課事業所・企業統計室「事業所・企業統計調査報告」 |
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上記10年間(1991年から2001年)に、10億円以上の巨大企業は、1700社も増えている。
次のクラスの資本金1億円から10億円の大企業も、3600社以上も増えている。
さらに、資本金3000万円から1億円の企業の数も2万2千社ほど増えている。
こうして、資本金の大きい3つのランクは、経営形態としては株式会社が多く、この10年間に着実に増えているのである。
資本の蓄積・集中が前進していることが分かる。
資本金1000万円から3000万円の中規模企業でも10年間を取ってみれば、40万社近く増えているのである。
儲け(利潤)を獲得した産業資本は、それを一定規模に集めてさらに追加資本とする。蓄積した剰余価値(利潤)を生産を拡大するために資本として投下する(利潤=剰余価値の資本への転化)。
「資本の蓄積。すなわち、収入の一部分の資本としての使用。」(マルサス『経済学における諸定義』ケーズノヴ版、11ページ[玉野井訳、176ページ])
「収入の資本への転化」(マルサス『経済学原理』第2版、ロンドン、1836年、320ページ[岩波文庫版、下巻、181ページ])
生産規模の拡大と資本蓄積・資本集中・企業の巨大化が、不況のイメージの背後で進行していたことが分かる。
競争する資本主義企業は、弱小・零細な企業群を競争原理で打ち倒し、弱小資本・小規模経営を市場から駆逐する。
長期不況期こそはまさに、上昇する法人企業が、生産力を高め、合理化し、市場競争に勝ち抜き、資本を蓄積し、経営規模を拡大するのである。
ここには、資本主義蓄積の一般的法則が貫徹している。
逆に資本金額が少ない階級をみると、すくなくとも1996年から2001年の間だけでも半減している。
資本金300万円ないし500万円の企業では、有限会社形態が多いが、ほぼ同じ数を維持ないし若干増えている。
資本金500万円から1000万円のクラスも減少し、10万社近く減少しているのである。
これらのデータから分かることは、基本的に大規模な企業が増え、また比較的大きな資本金1000万円以上の企業群も増えているのである。
それに対して、資本金1000万円未満の企業群の数は全体として減少している。巨大な企業やや大きな企業が増え、小規模零細規模の企業が減少するということ、まさにこれこそ資本の集中というべきものだろう。
長期不況といわれる90年代に、実は、こうした二極分化が進んでいたのである。まさに「勝ち組」と「負け組み」がいたということがわかる。
そして、「勝ち組」は「儲け」(利潤)を資本金に転化し、資本金を増やし、会社数を増やしているのである。しかも、その過程で機械技術の導入、生産と経営の合理化を推進する。同時に「リストラ」が進展する。働く人の数は、相対的に減少する(相対的過剰人口=産業予備軍の創出)。
だから、「長期不況」の単純な一面的なイメージは、訂正されるべきである。
二極分化が進展したという基本的事実を把握しておく必要があるのである。
「失われた10年」は、小規模や零細規模の企業、淘汰された企業についていえることである。
大きい企業は、しっかりと資本蓄積し、弱小の企業を淘汰しつつ、また、経営の合理化・人員削減を行いつつ資本規模においても数においても大きく成長しているのである[1]。こうした基本的事実を、下記に述べる「論争」は、直視していない。
以上のような基礎的データをじっくりかみ締め、80年代後半からのバブル経済とその崩壊後の90年代長期構造不況を、現時点でどのように考えるかは、今後の経済構築・その方向性を探るためには重要であろう。
下記の論争を見るかぎり、90年代長期不況の分析において、バブルとその崩壊の影響の解明がきちんと真正面から行われていないと感じる。そのさい、現実にGDP520兆円前後にくらべて、700兆円にも膨らんでいる国債総額の意味(財政破綻)をどのように考えるか、決定的に重要だと考える(この点、都立大学・脇田茂教授の講義資料に、きわめて分かりやすい「財政破綻年表」、および「日本の公的債務の現状とリンク」があるので参照されたい)。
50兆円の税収で、毎年30兆円の国債を発行して予算総額80兆円で「長期構造不況」を乗り切ろうとしてきたことのつけは、国民が支払わなければならなくなる。財政切り詰めのためになすべきことは何か? 毎年30兆円もの国債を発行しているなかで、「総需要喚起」のためと称してさらに財政支出をつづけるべきか?
バブルに狂奔し、その崩壊後の長期不況においては、財政破綻に陥っている国家から「公共投資」を引き出し、結局、700兆円もの累積(くわしくは、「わが国における公的債務の現状等」2003年3月、財務省理財局:平成15年度年次経済財政報告H15年10月内閣府、同16年度「2004年度末の国及び地方の長期債務残高は719兆円程度」[2])となったわけだが、バブルに熱狂した人々、その崩壊後に赤字財政を促進し、ここまで膨大な赤字を累積してきた人々、そうした国家政策に影響を与え、それを運営してきたのは誰か・どのような人々か・どのような論理か?
今一度、政治経済学political economyの総体を根底から批判的に考え直して見ることが求められてはいないか?
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たくさんの議論があるなか、これまでの各種議論(いわゆるスタンダードな経済学におけるそれ)を整理した論争が書物になった。
1. 浜田宏一・堀内昭義・内閣府経済社会総合研究所編『論争 日本の経済危機−長期停滞の真因を解明する−』日本経済新聞社、2004年5月刊、である。スティグリッツ『マクロ経済学』の一般理論の批判的検討の過程で、この本も読むこととなった。ただ、一読後の感想だが、「大論争」というほどには鋭い対立点は見られず、ただ、議論が細かな部分で対立しすれ違うところも多い。結局、「失われた10年」は、どのような主要因の連関によるものなのか、すっきり理解されるものとはなっていない。
2. 関連して、上記と論者が何人も共通する約一年前の本、岩田規久男+宮川努編『失われた10年の真因は何か』東洋経済新報社、2003年6月
3.
野口悠紀雄『日本経済 企業からの革命―大組織から小組織へ―』日本経済新聞社、2002年・・・1940年体制=総力戦体制=その継続=「いまや日本は世界で最後の社会主義経済国になったといって過言ではない」との見方。総力戦体制=ソ連型社会主義でもある。国有・国営・官僚権力と中央集権的国家体制(社会主義体制)における共通性。「日本再生の第一歩は、政府に期待するのをやめることだ。・・・「政府への依存」は、1940年体制の基本的なメンタリティである。この意味においても、40年体制からの脱却が必要なのだ。」 「第7章 大学改革がなぜ重要か」では、「日本の大学の後進性」を批判し、「文系の専門家養成が必要」、「金融における専門家の不足」「明治時代から変わらぬ学部構成」、「『自社内調達』ですまされてきた人的資源」のあり方を批判し、プロフェショナル・スクールの創設拡充を提案。
『従業員を大事にする経営』の堕落」を主張。「経営者が内部昇進者で独占されるのは、企業経営に株主の意向が働かないからだ。これは株式が資金調達で主要な役割を果たしておらず、銀行からの借入れに頼っているからである。こうして、日本型企業は、従業員が構成する共同体であり、従業員の生活を守るための組織だと観念されている。株主の所有物とは考えられていないのである。とくに大企業については、こうした考えが一般的だ。従業員のことを考えない企業経営は非情だといわれる。しかし、『従業員を大事にする』という日本型経営が、結局は企業を衰退させ、失業という形で従業員に最もこくな結果をもたらしつつあることを忘れてはならない」(p.199)などと主張。しかし、具体的な分析があるわけではない。
前期講義で何回か紹介した伊丹敬之「人本主義企業」論の潮流を批判するスタンス。
最初の二つの本のなかで、「スタンダードな経済学がおかしい」(吉川洋「過ぎたるはなお及ばざるの如し?!」岩田・宮川編『失われた10年の真因は何か』所収、p.22)という箇所に目が止まる。
二つの本を読み、また第3の本を見ても、90年代長期不況の原因をめぐっては、まさに決定的な説明力のある分析が出ていないことが判明する。それはなぜか?「スタンダードな経済学」の無力・非有効性を意味しないか? 少なくとも経済の論理、経済学の基本論理を洗いなおす必要はあるのではないか?
ともあれ、
1.浜田宏一・堀内昭義・内閣府経済社会総合研究所編『論争 日本の経済危機−長期停滞の真因を解明する−』日本経済新聞社、2004年5月刊
「まえがき」冒頭・・・「日本経済は、1990年代以降、長期の低迷状況にあり、その原因をめぐり大論争が繰り広げられてきた」と。
それでは、「長期の低迷状況」とはなにか? 本書まえがきのとらえ方は、つぎのようである。
「極端な仮定として、90年代の日本の実質GDPが、1991年から現実の年率1.2%ではなくて、それまでのトレンドである年率3%で成長していたら、2003年の実質GDPは679兆円になっている。ところが、現実の実質GDPは547兆円にすぎない(いずれも95年価格)。すなわち、現実の実質GDPはトレンドのGDPよりも20%も低いことになる」と。
とすれば、解明すべきは、80年代までの年率3%の成長率を成立させた諸要因であり、90年代成長率1.2%の諸要因であり、その比較である。
本書が整理するところでは、「二つの見方」があるという。
「一つの見方は、政府がマクロ政策、すなわち金融財政政策の運営に失敗したために需要が不十分となり、日本経済はその潜在成長力を生かしきれなかったと考え方である。もう一つの見方は、一方、もう一つの見方は、10年以上も続く停滞は供給能力を需要不足で生かせなかったためではなく、供給側の潜在成長力の鈍化によるものだという考え方である。この見方によれば、需要喚起政策の失敗よりも、潜在成長力を低下させた構造要因がより重要だということになる。」
相互に関連しあい、相互に排他的であるというわけではないが、「4つの説が有力」という。
「1 停滞は日本経済が抱えている構造問題を解決しなかったからだという「構造問題説」
2 刺激すべきときに刺激しなかった財政政策の失敗によるという「財政政策要因説」
3 デフレをもたらした金融政策によるものだという「金融政策要因説」
4 不良債権の早期処理に失敗したことが銀行機能低下を通じて長期停滞をもたらしたという「銀行機能低下要因説」
まさにこれら諸要因は、具体的に実証的に検証すべきである。それをそれぞれの説の主張者に論文を書いてもらって、相互批判、反批判を掲載したのが、本書である。その意味で、一つ一つの説を吟味してみる価値は、十分にある。
「1章 日本経済の長期停滞と供給サイド 宮川努」は、とくに、「賃金の下方硬直性によってGDPギャップが拡大した現象の持続が、日本経済の長期停滞の姿であると言う議論に着目する」。「需要サイドの論者が強調する賃金の下方硬直性が、供給サイドからみると、資本の利潤率を低下させる要因となり、それが資本蓄積を鈍化させ、1990年代からの経済成長率を低下させたと言うロジックが成り立つ」と。
そして、「実質賃金の上昇が、利潤率を低下させてきたことを確認」し、日本経済が「失われた10年」から脱却するためには、利潤率(期待も含めて)を上昇させるような施策が必要であることを強調する」。
しかし、長期不況とは、まさに長期的な構造的な「利潤率の低下」である。この相互関係だけならば、「長期不況」のたんなる定義と同じで、なにも分析していないことになる。
p(利潤)をk(費用=c+v)で割った%が利潤率である(売上高利益率など、いろいろの指標はあるが、考慮すべき諸要因は下記で指摘するように、賃金だけではないことは明らかである、いやむしろ高度に発展した資本主義法人企業の場合には、工場機械設備など不変資本部分の大きさ=c部分が、利潤率に決定的に大きなウエイトを占める[3])。
利潤率が低下する要因は、pが少なくなること(市場競争の激化などによる利潤部分の圧縮)、費用(c=機械や原料のコスト、それに賃金v)の種々の理由による増大の結果が、利潤率を引き下げる。「利潤率の低下」の一因が、したがって売上げ全体(c+v+p=k+p)に占める賃金部分vの相対的増加であることは事実だが、cの変動要因も利潤率には関係する。賃金vの増加だけを利潤率低下の要因として強調するのは、一面的であり、イデオロギーにすぎない。
なぜ、供給側からいえば売上げが増えないか、売上げ条件が厳しくなる(pの絶対額と売上げに占める割合が減少する)のはなぜか(消費サイドからいえば、なぜ日本の商品が需要されないか、需要増・需要開拓ができないか)、なぜ賃金が硬直的か、などの諸要因をこそ分析すべきである。
野口悠紀雄(2002)『日本経済 企業からの革命』日本経済新聞社・・・「日本経済の低迷は実物的な要因によって引き起こされたものであり、具体的には中国を始めとしたアジア諸国の急速な工業化とアメリカを中心とするIT化に日本が乗り遅れたために生じた」・・・これは、かなり広く指摘されていることだが、「長期低迷」の二つの実物的な重要な要因を指摘している。
「アジア諸国の急激な工業化」を促進する要因が、高利潤・利潤率極大化を求める日本企業(資本)の中国その他アジア諸国への進出であり、それが、日本国内の生産の空洞化をもたらすものとして、したがってまた失業、リストラを必然化するものとして、広く指摘されている。したがって、日本資本・日本企業の利潤極大化行動(すなわち、安い賃金を求めてのアジア諸国への生産移転・工場移転)が、翻って日本国内の経済を長期的に停滞させる(空洞化に変わる新産業を創出し得ない期間)、ということになる。
「アメリカを中心とするIT化に乗り遅れた」というのがどの程度の事実なのか、野口悠紀雄(2002)に直接当たって検証して見る必要がある。
供給サイドの要因を強調する実証分析として、代表的な分析としてHayashi, Fumio
and Edward C. Prescott (2002), “The 1990s I Japan: A Lost Decade,” Review of
Economic Dynamics 5, oo.206-235が紹介されている。それによれば、「1990年代の日本経済は、労働時間の減少と全要素生産性上昇率(TFP上昇率[4])の下方シフトにより、成長経路が低下したために、低迷を余儀なくされていると主張している」という。
日本の労働時間は90年代において本当に減少したのだろうか?(cf.ILO統計[5])
「サービス残業」、「過労死」が騒がれ問題化したのは、まさに90年代長期不況においてではないか。
それはおくとしても、この議論だと、長期低迷の原因は、労働者・勤労者の「労働時間の減少」にあり[6]とされる。
それでは、労働時間を延長すれば、長期低迷から脱することができるのか? 日本の産業空洞化はなくなるのか? アジア諸国の相対的低賃金労働者との競争に勝てることになるのか? この議論だと、冷戦体制崩壊後、90年代に新興したアジアの工業化の進展の日本経済への影響などが分析されることなく、日本の労働者(その労働時間減少)に原因があることになる。国際的な労働時間比較[7]から考えても、おかしくはないか?
また、アジア諸国の工業化に日本企業・日本資本自身が乗り出していったのではないか? そうした根本原因はどうなるのか?
日本の資本・企業が低賃金労働を求め、アジア工業化の波に乗って中国を始めとするアジア諸国に海外進出を遂げるとき、一方で同じ日本の資本・企業がなすべきは、日本の労働者が勤労する場を新しく創出することではなかったのか。まさに、日本企業・日本資本の一面的で一方的な対外資本輸出・工場移転の行動が、日本経済の長期停滞の原因を作り出したのではないか?
とすれば、みずから進めてきたアジア経済の工業化の現段階を踏まえて、日本とアジア諸国の分業関係を構築することが必要であろう。その時、日本の工業の高度化、機械技術の高度な発達にもとづく生産システムが、アジア諸国の製造業と有機的に連携することになろう[8]。
こうした展開は、アジア諸国相互における排外的ナショナリズムを芽のうちに摘み取るなかで達成されなければならないだろう。日本におけるその主体的責任はもちろん日本自身の行動にある。
宮川の主張は、実質賃金の高まりを長期低迷の主要因として繰り返し、指摘するところにある。
「1970年代から最近までの推計では、全産業、製造業とも、実質賃金の上昇が利潤率の低下をもたらすという関係が明確に示されている」と(p.16)。
しかしそうだとすると、90年代までの年率3%の成長率はどうなるか?その諸要因は? その諸要因のどれがどのような理由でなくなったのか?
宮川は、90年代の年率1.2%への成長率低下という原因を求めていたのではないのか?
実質賃金と利潤率の関係を求めていたのか?
いずれにしろ、宮川の議論は、90年代の停滞原因を実質賃金の上昇に求めるという一面的な分析が、基調となっている。
そこからは結論はあきらかである。
すなわち、「実質賃金の動きを生産性上昇に見あった動きへと伸縮的に変化させるとともに、従来以上に労働力の産業間移動を促す政策をとる必要がある」と(p.21)
これにたいし、第2章は、批判的である。
「2章 日本経済の長期停滞は構造問題が原因か−産業構造調整不良説の批判的検討− 野口旭」
ここで注目した用語だけをまず書き抜いておこう。
「資本ストックという本源的生産要素ではないもの」という定義(p.42)、他方における「経済が必要に応じて増加させることのできない資源である本源的生産要素としての労働力」という定義(p.43)
である。
近代経済学では、「本源的生産要素」をどういう意味に使っているか。有斐閣・『経済辞典』で確認しておくと、「財の生産に用いられる経済資源すなわち労働・土地・資本は一般に生産要素と呼ばれるが,このうち資本を除いた労働と土地(一切の自然を含む)を本源的生産要素という。生産された生産手段としての資本または資本財に対する用語」と。
潜在GDPや潜在成長率を算定する上で、「資本ストックという本源的生産要素ではないものを含んだ「潜在水準」を推計」するのは問題だと言うのである(p.42)。それにたいして、GDPギャップあるいは潜在成長率を推計する方法としては、「経済が必要に応じて増加させることのできない資源である本源的生産要素としての労働力に基づいて潜在GDPを考えると言う、オークン法則を用いた推計方法」を採用すべきだと言う。だが、この方法を選択することで、なにがわかるのか?
Krugman(1998)(p.168)では、「オークン法則に基づいて、1998年末の日本のデフレギャップ率(潜在GDPにたいするデフレギャップの比率)を10%程度と推定している」と(p.44).
だから、どうなるというのか?長期低迷の真因は何だというのか、その肝心のことはかかれていない。
ただ、「4 総需要不足の結果としての擬似的構造問題」というタイトルからしても、総需要不足に原因をもとめていることはわかる。
なぜ、総需要が不足した(する)のか?
「総需要」と言ってしまえば簡単だが、そのどのような部分がどのように減少したのか? その具体的数値こそが、問題解明のために必要だと思われる。
P.45
もちろん、野口が指摘するかぎりでは、『経済白書』(平成13年版)も、現象的な言葉を連ねるだけである。
すなわち、「近年における構造的失業の増加の多くは、雇用のミスマッチによるものと考えられる」というのは、説明にはなっていないであろう。「増加」したという現実、その失業増加の「多く」が、いったいどの分野で、どの産業で、どのような規模の企業群において発生したのか、その具体的中身こそが、「ミスマッチ」の具体像を明らかにするはずである。白書の見地は、「最近時点における失業率5%のうち、構造的失業率は4%弱、循環的失業率は1%程度となっている」としているが、その分離を説明する論理とデータとが明らかにされる必要がある。それが欠如していることを野口は批判する。
野口は、白書を引用しながら、白書が、「90年代に入って規制緩和が進んだものの依然として残る公的規制、民間企業の経営方式や意思決定システムの制度疲労など」を指摘しているが、こうした要因が80年代の年4%平均から90年代の年1%への実質GDP成長率の3%もの低下をもたらしたとは、とても信じがたい、という。
そもそも、80年代の年平均4%の成長率が可能だった要因は何か? その要因がどのように制度疲労しているのか?これがあきらかにされなければならない。 民間企業の経営方式のいかなる物が現実に照応しなくなり、意思決定システムのどのような制度疲労が90年代に起きたのか? 肝心なことが明確にされていないところが問題であろう。
そうした諸要因分析を野口もしていない。にもかかわらず、「恒常的な総需要不足」が長期停滞の原因だと考える。「総需要」の中味こそが、産業部門や地域の雇用ミスマッチや停滞・不況を明らかにするはずだが、その具体的な分析はない。
P.47
元橋(2002)を参照しつつ、「米国において見られた1990年代後半における情報化投資の進展と生産性の伸び率上昇という現象は日本においても起こっている」ことを示唆しているとし、「90年代後半の日本においては、一般的通念とは異なり、生産性は上昇し、総供給は拡大した」という。
だが、問題は、「総供給」がどのように拡大したかということであろう。すなわち急激な供給拡大が、需要の掘り起こしに対応しない場合、供給と需要のギャップが発生する。
しかし、日本の実質GDP成長率は低下し続けた。供給能力の拡大に伴う需要拡大が全体としては発生しなかった。それは事実としても、「総需要が縮小したから」と、結果だけをいってみても、具体的中身はまったくわからない。なぜ、どのような分野での需要減少が、一方における需要拡大の効果を消し去るほどの大きさだったのか? これは説明がない。
具体的な指摘は、日本経済新聞(2001)記事の引用にのみ示されている。すなわち、「建設、不動産、流通の不振三業種の滞留」という産業構造の調整不良問題、と。
ところが、なぜかという理由とデータに基づく説明なしに、そうした不振三業種の滞留という問題は、「必ずしも産業構造調整不良の現われであるとはいえない」とし、むしろ、「産業構造調整の現われであり、技術進歩や比較優位構造の変化等々が存在するかぎり必ず存在する」と。「構造不況は、市場の資源配分機能の作用を示すシグナル」と。
われわれが知りたいのは、その具体的な内容である。どのような分野に過剰に資源が配分され、どのような分野に過少な資源が配分されているのか、その具体的指摘である。
それについては、p.48で、「問題は、日本の90年代以降においては、『不振三業種』のような低収益産業がなかなか縮小せず、滞留したままになっている点である」と。
「低収益産業がなかなか縮小しない」のは、低収益でも生き残れるメカニズムが働いているからである。そのメカニズムは何か? これが知りたい。だがその説明はない。説明は、「その理由は、本来はその低収益産業から労働その他の資源を吸収していくべきく高収益産業が十分に存在していないからである」と。
新しい「高収益産業」の創出こそが課題だ、それこそ必要だ、というのは論理的にそのとおりだろう。
問題は、新産業の創造なのである。それは同時に新しい需要の発見であり、創造である。
ところが、そうした「発見」や「創造」を課題として示すのではなく、原因論にとどまる。すなわち、「そのような高収益産業が現われないのは、経済が恒常的な総需要不足の状態にあるからである」と。つまり、これでは、堂々巡りなのである。
p.49
5 問題は需要側か供給側か−宮川論文へのコメント
この問題の設定の仕方自身は、本書全体を貫くものだが、この単純な設定に問題があるように思われる。
5 にたいするし反論なども含め、90年代長期不況(停滞)の説明として、説得的な議論は、みられない。
第U部 財政政策が不十分だったのが原因か
3章 長期停滞期における財政政策の効果について 山家悠紀夫
4章 長期停滞と90年代の財政運営 中里透・小西麻衣
3章
90年代以降の景気循環のみながら、主として財政政策に求める
ただ、景気の上昇と下降に影響する具体的な条件(アメリカの景気動向、民需動向など)がかなり明確に述べられている。抽象的理論が多かった1,2章より、要因分析はそれだけ具体化している。
しかし、財政政策の有効性を強調する視点からは、財政再建への道筋は見えてこない。
1 長期停滞の主要要因−需要面か供給面か
p.82-84 「2001年度年次経済財政報告」(ケインズ経済学・政策批判の見地)・・・「潜在成力の低下」がキーワード・・・「長期停滞から日本経済が脱出していくためには供給面の強化を図り潜在成長力を引き上げねばならない」「これまでのように政府支出を拡大していくら需要をつけても、問題の解決にはならない。潜在成長力の引き上げは経済構造改革を進めることによって可能になる」。日本経済の潜在成長率について、「80年代前半は3%強、後半のバブル期は4%を上回っていたが、90年代後半には1%今日に落ち込んでいる、と推計している。」設備投資の落ち込み、少子化・高齢化に伴う労働人口の伸びの鈍化等がその背景にあるとするのがその分析結果である。大筋のところ、これに異議はない」と。
2 長期停滞期の景気循環と財政政策
1 景気循環・・・・図表3−1・・・参考になる。
2 景気局面と財政政策の効果
p.90
(1)91-93の景気下降局面と財政政策・・・・「財政出動の時期が遅く、また当初は小規模にとどまっていた・・・危機意識が比較的薄かった・・・」
(2)94−96年、景気の回復・上昇局面と財政政策・・・p.93「公共投資の拡大を柱とする財政支出の拡大がかなりの程度景気の落ち込みを防ぎ、その間に民間需要が徐々に力をつけて次第に契機の上昇をもたらるようになるという、景気の理想的な展開」
(3)97−98年、景気の再下降と財政政策
「97年についてみると、公的固定資本形成が大幅にマイナス寄与」
p.93-94 「97年からの景気下降が、96年下期以降の公共投資削減政策の影響を強く受けている・・・」
p.94 「97年4月からの消費税率引き上げ(3%→5%)によって物価が上昇」・・・「実質消費支出の伸び率は96年の2.4%あkら97年には0.9%へと大きく低下」
「消費税率の引き上げが実質消費を抑制し、そのことが実質GDp成長率の低下(景気の下降)を招く役割を果たした・・・」
p.96 「96年度下期の公共投資抑制に始まる財政再建政策が、・・・経済成長率の落ち込み、そして景気の下降をもたらした・・・」・・・財政再建は必然的要請ではなかったのか?
p.96−97 アジア経済危機、98年の輸出の落ち込み、一部金融機関の経営危機、98年のマイナス成長
p.97 「この間の財政政策の対応を見ると、対応の遅れとチグハグさが目に付く。それが景気の落ち込みを深刻化させたとみられる・・・」
「大きな障害となったのは、『財政構造改革法』である。97年度の緊縮・財政再建型予算の成立を受けて、98年度以降の歳出も厳しく抑制していくと言う趣旨の『財政構造改革法』・・・「98年度予算案は、『財政構造改革法』に基づき一般歳出を前年日、11年ぶりのマイナスとする緊縮型・・・対策は後手後手
・ ・・と厳しい評価だが、
(4)99~2000年、景気の回復・上昇局面と財政政策
p.98 「ともあれ、99年初以降、景気はバブル経済破裂以降二度目の回復・上昇局面に入る。97年から98年に賭けての大型の景気対策、そして99年に入ってもなお発動された強力な景気対策−経済新生対策」(小渕内閣,99年11月11西、事業規模18兆円、公共投資6・8兆円など)の効果があってのことである」と。
・・・しかし、それでは、国家財政の再建はどうなるのか?
「成長への寄与度がゼロとなってしまった公的需要の増加に代わって、2000年度の経済成長に寄与したのは、輸出と民間需要の増加である。景気回復・上昇の進行とともに、その主因が公的需要から民間需要(と輸出)に置き換わると言う、94−96年時と同様の好ましい転換がここでもみてとれる」と。
(5)2001年、3度目の景気下降と財政政策
「景気の回復・上昇はきわめて短期間で終了し、日本経済は2000年11月以降、バブル破裂以降3度目の下降局面入りする。・・・アメリカ景気の失速−それに起因しての輸出の落ち込み−にその主因を求めることができる。」
(6) 2002年以降、きわめて緩やかな景気回復と財政政策
p,100−101 「在庫調整の進展、アメリカ経済の若干の持ち直し(による輸出の増加)により、景気は200得年にきわめて緩やかに回復に転じたが、その回復速度はきわめて緩やか・・・これもやはり、この間の財政政策(支出抑制を基本とする政策)の結果である(並びに企業倒産増、失業増をもたらす不良債権処理の促進というデフレ政策を政府があえてとっていることの結果でもある)・・・」
3 若干の補足
財政政策の効果を否定的に見る見方について
公共投資の乗数効果について・・・・経済企画庁の「世界経済モデル」等に於ける推計紹介
その他・望ましい財政政策について
p.104 とられるべきではなかった政策(公共用地の先行取得、累進税率の引き下げを主体とする所得減税、法人税減税、地域振興券の交付、等々)
採れば良かった政策(消費税現在がその代表的なものである。そのほか、教員の増員、介護サービス・福祉サービス・医療サービスの充実のための職員の増員、あるいは予算の拡充など、教育・福祉のためのみならず、景気対策として有効であったろう政策も数多い)、と。
山家著『「構造改革」という幻想』(岩波書店、2001年)「第2章 景気を失速させたのは不良債権問題か」を参照せよ、と。「不良債権問題ではない。財政政策の失敗である」というのが山家の結論。
4 結論
p.105
「90年代の長期停滞期は、97年で2分してとらえるべき・・・90年代前半、すなわち97年初まで・・・バブル反動不況とそこからの回復期・・・90年代後半以降、すなわち97年以降最近までを、新しい「停滞期」としてとらえる・・・」
「90年代前半の年平均実質成長率は1・5%(91年比96年)と確かに低いが、これは高すぎたバブル期の反動として理解できる・・・バブル期と合算しての成長率は3.2%(85年比96年)であり、バブル期以前−80年代前半−の日本経済の成長率とほとんど変わらない・・・一方、90年代後半の年平均実質成長率は0.5%(97年比2002年)ないし、0.7%(96年比2002年)であり、・・・日本経済の本当の停滞は97年から始まった・・・」
p.105「90年代前半における、バブル景気の反動不況からの回復期において拡張的な財政政策が大きな効果を持った・・・・」
p.106「90年代後半−97年央以降−の日本経済の「停滞」をもたらしたのは、財政政策の緊縮型への急転換である。そして、厳しい不況の訪れのもと、財政政策は再び拡張型へと転換して景気回復の主要因となるが、アメリカ経済の失速とほとんど同時期にふたたび緊縮型へと転換して日本経済の「停滞」を長引かせることになる」
「前半期の拡張型の財政政策とその効果にさほど問題はなく、後半期の収縮型のそれに大きな問題があった」
「日本経済の「停滞」も、著しい財政赤字の拡大も、96−97年時における財政政策の誤りにその因を見出せる」というのが山家の結論。
どのような財政政策が有効であり、どのような財政政策が非効率的部門の温存につながったのか、といった具体的分析が必要であろう。
4章
長期停滞と90年代の財政運営 中里透・小西麻衣
1 はじめに
2 景気対策としての有効性
p.112 経済企画庁など9種類の統計研究(図表4−1)を踏まえ、総括的に見て見ようとする見地
p.113 「これらの研究では、いずれにおいても財政支出の拡大や減税がGDPや民需にプラスの影響をもたらすことが確認され、財政政策が景気の下支えに一定の役割をはたしてきたことが分かる。しかしながら、・・・・財政政策の政策効果が90年代(あるいは80年代後半以降)に低下したことが示されている。財政政策の効果については、乗数効果の大きさとならんで効果の持続性が重要であるが、図表4−1に掲げた各研究における財政政策の変更にかかわるイノベーションにたいするGDP等の反応をみると、4半期(1年)ないし6四半期(1・5年)程度で政策効果が減衰しており、効果の持続性という観点からも財政政策は力強さを欠くものであったことが分かる。この結果は、『財政による景気刺激をやめるとすぐに景気が減速してしまう』という一部の積極財政政策論者の指摘を裏付けている。
このように、財政政策の効果が限定的で持続性に欠けるものとなっている理由としては、財政政策の民需に対する波及効果が小さく、財政出動が景気の自律的な回復に結びつくものになっていないということが考えられ[9]る。」
p.114 図表4−2 インパルス応答
1981年第2四半期~2001年第一四半期・・・公的総固定資本形成[10]、民間総固定資本形成、民間最終消費支出、GDPデフレーター、およびマネーサプライ(M2+CD9)(平残)の5変数からなるVARモデルを推定し、財政政策と金融政策の政策変更が民間消費と民間投資に与える影響(公的総固定資本形成およびマネーサプライに係わるイノベーションに対する民間総固定資本形成ぴょび民間最終消費支出のインパルス応答)
p.115 「これによると、公共投資の拡大は民間消費に対して一時的にプラスの影響を与えるものの、その効果は半年ないし1年程度で急速に減衰している。これに対し、マネーサプライの増加が民間消費に与える効果は、時間の経過につれて低下していくものの、持続的である。また、民間投資に対する影響については、マネーサプライの増加に伴う民間投資の増加が1年程度でピークアウトするものの20四半期先でもピーク時の半分程度の効果を残しているのにたいし、公共投資の拡大は効果がほとんど認められず[11]、1年未満の短期では民間投資に対してむしろマイナスの影響を与えていることが分かる。」
p.115−116 「民間消費と民間投資のいずれについても財政政策の寄与が金融政策に比べて小さなものにとどまっている・・・。以上の結果は、『財政政策の民需に対する波及効果が小さいことが、財政政策の景気対策としての有効性を限定的なものにしている』という見方を支持するもの」
p.116 「財政政策の効果が限定的なものであるという見方は、歴史的分散分解を利用した分析においても確認される。」
p.117 「以上の点をまとめると、財政政策は景気対策としてまったく無効ではなかったものの、その効果は80年代後半ないし90年代に低下した可能性が高く、拡張的な財政運営によって景気回復を計ることができるほどその政策効果は大きなものではなかったということになる。したがって、財政出動が不十分であったことが長期停滞の原因であると言う見方は支持されないものと判断される」
3 財政構造改革の影響
財政構造改革、消費税増税などの影響に関して、本章の執筆者は景気へのマイナスの影響を低く評価。
結論的には、大手金融機関の破綻など、p.121「97年秋に生じた金融システムの不安定化に伴う景況感の悪化が景気に大きな影響を与えた」と。
しかし、大手金融機関の破綻は、なにに由来するか? そこに財政構造改革の影響はないといえるか?
財政構造改革のための「公共投資」抑制は、金融機関の貸出先の経営不振を拡大し、顕在化させるという経路をたどって、金融機関の破綻に結びついたのではなかったか?
土木・建設等の老舗の破産は、まさに「公共投資」の非効率性、過剰化と関係するであろう。
そういう意味で、この節の主張は、説得的ではない。
4 構造調整の遅れと非ケインズ効果
p.122 「90年代の財政運営は短期的な視野に偏りがちで、長期の視点を欠くものであった。経済対策の策定に際しては、何よりもまず対策の「規模」が重視され、いわゆる「真水」をめぐる議論がおこなわれるまでは経済対策の事業総額が、それ以後は「真水」の大きさが経済対策の効果を評価するうえでの重要なポイントとなった。経済対策の内容の決定については、景気に対する「即効性」が重要な選択基準とされ、経済対策に盛り込まれる事業の効率性はしばしば軽視された」と。
ゼネコン救済の大型公共投資が、かえって、不況や非生産的部門を温存するという問題を引き起こしたとすれば、財政政策のあり方としては失敗である。
「このような財政運営は、景気を一時的に下支えする効果があったとしても、本来なされるべき構造調整を遅らせるというコストを伴うものであった」という評価は、そのかぎりで妥当であろう。
ついで、「累次にわたる景気対策においては、公共事業がその中心的な役割を果たしてきたが、従来型の公共事業のストック効果(生産力効果)が90年代に入って著しく低下したことを踏まえれば、公共事業を中心とした財政支出の拡大は効率性の低いものであった[12]」と。
「このような公共事業の拡大は、建設業における就業機会を拡大させ、雇用対策としては一定の役割を果たしたといえるが、建設業の生産性が低下するなかで就業者数の増加が生じたことは、本来あるべき構造調整の方向とは逆の動きであった[13]」と。
P.122-123 「景気対策としての財政政策の積極的な活用を主張する論者からは「不況の原因は需要不足にあるのだから、需要面の対策として財政措置を講じるのは当然である」との主張が繰り返しなされてきたが、この主張の妥当性を判断するためには、「需要不足の原因は何か」ということを考えて見る必要がある。例えば、近年における消費の伸び悩みの原因として、「将来不安」ということが指摘されることがあるが、このような場合には一時的な需要追加策を講じても景気対策として十分な成果をあげることはできない。この場合に必要なのは、将来不安の原因になっている雇用や年金、財政等の将来見通しを改善させる制度改革を実施することであり、これらは景気対策を重視する論者がしばしば批判の対象とする「構造改革」に属する政策である。」
P.124「景気対策の名目で将来の生産性向上につながらない非効率な公共事業が行われると、経済全体としてその分だけ将来利用可能な資源が減少してしまうため、公債発行の将来負担が強く意識されて、現時点の消費が減少してしまう可能性がある。また、本来であれば現時点の増税によって措置されるべき財政負担が公債発行によって先送りされ、近い将来財政危機が現実の物となる恐れがある場合、景気刺激策として減税が実施されても、それによってかえって財政破綻のリスクが高まり、そのコストの方がより強く意識されるようになるため、減税がむしろ消費の現象をもたらしてしまうこともある。これが財政政策の非ケインズ効果といわれる現象である。[14]」
5 政策思想の構造改革
教科書的なケインズ的財政政策の批判
「90年代以降の長期停滞を説明する上で財政運営(の失敗)はマイナーな要因に過ぎなかったにもかかわらず、その原因を「緊縮的な」財政運営に求める見解は依然として根強くある」として、これに批判的。
p.126 「政府といえども通じてきな予算制約を無視して政策運営を行うことはできない」と。・・・「財政赤字のサステナビリティに対する懸念から、財政出動が躊躇されている現状」
「拡張的な財政政策はしばしば構造調整を遅らせる方向に作用しがちである」・・・「重点分野を中心に追加がなされたはずの財政支出が、実際には従来型の公共事業をサポートすることに使われてしまう」といった問題性
p.127 ・・・「この意味で、「不景気だから財政出動を」というナイーブな政策思想の構造改革をひきつづき行っていくことも、重要な課題」と。
「将来不安の原因になっている雇用や年金、財政等の将来見通しを改善させる制度改革を実施すること」というのが積極的主張だが、さて、雇用に関する制度改革とは?年金「改革」の具体的あり方は?
6 結論
@ 財政政策の景気刺激効果は限定的
A 消費税率の引き上げや財政構造改革に向けた取り組みが素恩後の景気後退をもたらしたという見方は支持されない
B 過大な公債発行、財政負担の将来への先送りなどの景気対策の非ケインズ効果
山家のコメント・リジョインダー
それに対する中里の更なるリジョインダー
第V部 金融緩和にさらにふみこむべきだったのか
5章
金融政策の失敗が招いた長期停滞 岡田靖・飯田素之
6章 不十分な金融緩和が長期停滞の原因か 渡辺努
5章
1 長期停滞の原因についての二つの考え方
p.149 「90年代以降の日本経済のパフォーマンスは、平均した実質GDPの成長率が1%前後にとどまったことや、一貫して失業率が上昇したことなど、主要なマクロ経済指標でみるかぎり、過去の実績と比較しても、あるいは他の先進経済諸国と比較しても、著しく不満足なもの」
「在庫循環や設備投資循環と呼ばれている通常の景気循環であれば、10年もの長期にわたりこのような状況が持続することは難しい」
p.150
構造派・・・構造問題の存在、90年代の経済停滞にとってそれが主要因、とする人々
本章に立場・・・「我々はマクロ経済政策の失敗が長期停滞の主要因であると考えている」と。「長期にわたっている物価と資産価格の下落の持続、つまりデフレという事実は、金融政策の失敗が長期停滞の原因であることを明確に示している」と。
その見方の必然的結果として、「金融政策の運用を根本的に転換しデフレを阻止し、マイルドなインフレを実現すること、すなわちリフレーション(リフレ)政策を実行することが、長期停滞から脱出するためには欠くことのできない条件」と。
「マイルドなインフレを実現する」手段・手法は何か? その有効性の証明は?
p.172
5
おわりに
「以上で整理したように、10年を超えて続いている現代日本経済の長期低迷を、その物理的な時間の長さを根拠にして非貨幣的な現象であると断定する根拠は薄弱である。これに対して、金融政策の失敗が長期にわたる経済の低迷とデフレを引き起こした事例は歴史的にも確認されている。そして、金融政策ルールを日本に適用して評価を試みると、事実として90年以降ほぼ一貫して金融政策は引き締め的なスタンスを維持していたことが分かる。さらに、妥当と思われる金融政策ルール(マッカラム・ルール)が実際に日本経済に適用されていた場合、名目GDPの水準と成長は、実績に比較して明確に安定化されることが、単純なモデルのシミュレーションで確認できた」と。
もしそうだとすると、そんなに簡単なことがなぜ日銀当局にはわからないのか(できないのか)?
すなわち、金融政策ルール(マッカラム・ルール)は、なぜ日本経済に適用されなかったのか?
この本を手に取るまで、マッカラム・ルールとは何かを知らなかったので、有斐閣・経済辞典を引いて見た。しかし、見出し語検索ではでてこなかった。本章の執筆者からすれば、10年以上にわたって日銀責任者たちは、「金融政策ルール(マッカラム・ルール)」を知りもせず、適用も考えなかった、ということになるのだろうか?
それでは、マッカラム・ルールとは何か?
4 金融政策と長期停滞の実証的関係、(ii)マッカラム・ルールの説明をみることにしよう。
p.164「 貨幣量から物価に至るメカニズムはブラックボックスに放置[15]したとしても、すでに述べたように、(トレンド修正などを施した後には)比例関係の成立することは否定できない」と。貨幣量と物価の関係において、比例関係が成立する、ということにほかならない。
だが、それはなぜか。その説明は(すくなくともここには)ない。事実関係として「比例関係が成立する」というわけである。
「そこで、名目GDPとベースマネー[16]の間に比例関係の成立することを仮定しながら、その比例定数の可変性を考慮したのが、マッカラム・ルールであるといえる」と。
名目GDPが商品生産の総量とその交換を表現するかぎりで、またその交換が流通手段による割合が、信用制度の発達度によってある時期ある地域において相対的に確定できるものであるとすれば、GDPの変化、信用制度の変化にともなって、比例関係が変化していくのは当然であろう。その背後にあるのは、だから、商品生産の総量やその貨幣への転化速度や、その速度を規定する信用制度の発達度合いなどであろう。
ところで、マッカラム・ルールはどのように適用するのか?
p.164-165「すなわち、ベースマネー増加率=ベースマネーの流通速度の低下+名目GDP成長率が成立するものと仮定し、名目GDP成長率に目標値を与え、それと整合的なベースマネー成長率を実現することを金政策のルールとしようというものだ」と。
そして、「それを日本経済に適用して見ると、テイラー・ルールを用いた場合に導かれる90年代前半における過剰な金融引き締めという同じ結果を得ることができる」と。テイラー・ルールの適用による金融政策への診断(判定)はあとでみることにして、議論の続きを見ると次のようになっている。
p.165「図表5−1は名目GDPの毎期年率5%成長を目標とするマッカラム・ルールに従ったケースで、必要とされるベースマネーの増加率と、その実績値を比較している」と。
しかし、毎期年率5%成長というのは、いったいどのようにして正当化される目標なのだろうか? その現実的根拠は何なのか? 問題となっているのは、80年代までの年率3%に比べて、90年代hあ1%に低迷していることではなかったのか? なぜ突如、5%が目標になるのか?
現実的根拠が不明の目標値で経済政策・金融政策を云々したり、運営していいのだろうか?根本的疑問が湧く。そのような「毎期年率5%成長」という目標に照らして、実績と比べることにどのような意味があるのだろうか? それは問わないとすれば、次のような文章になる。
「これによれば、80年代のベースマネー増加率は、後半の一時期を除きほぼマッカラム・ルールと系統的な誤差を持たずに推移している」と。しかし、まさに80年代こそは、その後半期におけるバブルを必然化したのではないのか?80年代ベースマネーの増加率は、バブル経験後の現在から評価する時、果たして妥当なのか? その疑問はさておいて、次の文章を見ると、「90年代前半期にはベースマネーの増加率はおよそ6%程度で維持されるべきであったが、実際には平均して3%程度の伸びにとどまっていたにすぎないのである」と。
だが、この差は、日銀がどのような手段で埋め合わせればよかったと言うのか? その肝心な具体策が示されていない。ベースマネーを増加させる手段は何か? ベースマネーを増やす諸要因のどれをどのように日銀は操作しうるのか? それが示されていない。経済法則に従ったかたちでのベースマネーの増加手段とは何なのか?
それは示されないまま、次のような日銀批判が続く。
「さらに、大規模な金融緩和に移行したといわれている95年以降には、すでに(GDPデフレーターでみると)デフレが始まっており、名目金利の操作によって景気に刺激的な効果を発揮することは困難なものになっていたが、依然として日本銀行は「常識的」レベルでの金融緩和しか行っていなかっておらず、デフレの結果急激に上昇させることが必要になっていたベースマネー増加率に、現実のベースマネー増加率はまったく追いついていなかったことが分かる」と。
「ベースマネーを増やせば経済成長が達成できる」と言う立場からすれば、デフレ期にベースマネーを「急激に」上昇させることが「必要」という議論は、成り立つ。だが、具体的にどうするのか?何をするのか?
この章の執筆者が喜びそうなデータが、この章の執筆者作成の「図表5−1 マッカラム・ルールと現実のベースマネー増加率」(p.164)にでている。すなわち、2000年Q1のベースマネーの激減後、政策的に強行されたと見られる変化、すなわち2002年Q1にかけてものすごい「現実ベースマネー増加率」が見られるのである。しかし、2002年Q1以後、「現実ベースマネー増加率」は、前記の急激な増大の逆作用のように、激減している。こうしたベースマネーの乱高下はどのように評価するのか?
マッカラム・ルールの説明とその適用に関する説明をよむかぎり、経済合理性や説得的な箇所はまったくない。(日銀の政策の妥当性については、検証が必要であるが)
テイラー・ルールとは何か。
P.163「4 金融政策と長期停滞の実証的関係」、(i)テイラー・ルール を見てみよう。
まず、「金融政策の評価」で、「90年代の金融政策が、大恐慌期における「金本位制の呪縛」のとりこになっていた各国の金融政策同様に、過剰に引き締め的なものであったか否かを判断するためには、単に金利水準や、マネーサプライの伸び率の高低を観察しても意味はない」という。「そうした金融的な変数の動きが、マクロ経済の状況と比較して妥当であったか否かを判断する必要がある」と。そうした「基準として今日広く用いられているものとして、テイラー・ルールとマッカラム・ルールという二つの金融政策ルールがある」と。
そんなに素晴らしい打出の小槌のようなルール、「今日広く用いられている」ルールを、なぜ日銀は適用しなかったのか? 不思議である。少なくとも、マッカラム・ルールの適用に関する文章を読むかぎりは、有効性は理論的に証明されていないように思われる。
p.163-164
「(i)テイラー・ルール
金融政策の手段変数として短期金利を用いるテイラー・ルールを日本経済に適用した最もすぐれたものの一つである地主・黒木・宮尾(2001)の研究結果によれば、91年から94年まで(の)期間、政策金利(具体的にはコールレート[17])は適正水準を大幅に上回っていたことがわかっている。GDPデフレーターの前年比での下落が始まった94年終わりごろ、そして円ドルレートが79円/ドルという非常な円高に向かって急騰を開始する直前まで、テイラー・ルールでは正当化し得ない(相対的な意味での)高金利政策がとられていたことが明らかとなっている」と。
つまり、結論的には、バブル崩壊後、金融引き締め、高金利政策ではなく、もっと政策金利を低くしておけばよかった、というわけである。
しかし、バブルとはなんだったのか。現実的な生産の必要を欠如した過剰投資は、どのようにして清算されるのか? バブル崩壊後の高金利は必然ではなかったのか? 「適正」とは?
なぜ、適正基準を「大幅に上回っていた」のか、その日銀の政策判断の基礎にあった事実(理論的スタンスを含めて)は何か? それこそが解明されなければならないだろう。だが、それはここにはみられない。「適正水準を大幅に上回っていた」という断定があるだけである。批判としては不十分であり、説得的でない。
P.165(iii)金融政策ルールからの逸脱の意味
p.166「90年代前半期の金融政策の運営は明らかに過剰な引き締めスタンス・・」と批判。「明らかに」? 「過剰な」?
「さらに、95年以降になると円の対ドルレートが大幅に上昇し始め、一方ではGDPデフレーターの上昇率は一貫してマイナスとなりデフレが始まっている。こうした事態に対し、日銀は後に「ゼロ金利政策」と呼ばれるようになる非常に低い水準にコール金利を抑え込む政策を発動した。しかし、経済はデフレの結果として、名目金利がゼロとなっても実質金利はプラスを維持するという、現代的な意味での「流動性の罠」に落ち込んでしまったため、ゼロ金利政策は目立った効果を発揮することはできなかったと考えられる」と。
問題は、したがってあくまでも90年代前半の日銀の金融化上引き締めだ、ということになる。
しかし、なぜ日銀がそのような過剰な引き締めを行い、実行できたのか、ということであろう。バブルとその崩壊の日本経済全体に占める意味を解きほぐす必要があろう。
p.175
6 不十分な金融緩和が長期停滞の原因か 渡辺努
1 分析の視点
「実質GDP成長率は1990年代初め以降、低迷を続けている。一方、消費者物価は90年代末から下落しており、デフレが進行している」というのは事実認識。そこから、その原因をどこに求めるかが問題となる。原因と結果の間にはたくさんの関連がある。したがって、「この二つの評価基準に照らせば、90年代初め以降の金融政策運営が及第点を大きく下回っているのは明らかである」となるかどうか? それほどに日銀の金融政策運営は現実の経済動向に影響力を発揮するといえるのだろうか? バブルに踊ったのは日銀か?民間企業のバブル期の行動は? 日銀いけにえ論は、経済の合理的運営の方法を模索する上で、あまり有益でも合理的でもないのではないか?
すくなくとも、本書の論争を見てくるかぎり、「明らか」とはいえないのではないか?
日銀批判の側が、「日銀はバブル膨張に加担しただけでなく、バブル潰しでも失敗した」という。バブル崩壊後に、このように評価することはある意味で簡単である。問題は、バブル期において、どうだったのか? バブル期の民間企業の狂ったような不動産買占め、土地投機は、いったいだれがどのような条件で引き起こしたのか?
プラザ合意[18]に至る日本経済と世界経済の不均衡的発展は、だれの責任か? 「過度のドル高」是正のために協調介入→ドルの大幅下落→日米貿易収支不均衡、円高対策→国際収支不均衡→黒字国の内需拡大による黒字縮小の要請→赤字国の国内不均等と赤字縮小など。
こうした連関から浮かび上がることは、日本経済の輸出が不均衡に大きくなった、それが毎年のように続いた、ということが基礎にある。
日本の輸出が増える(貿易黒字が増える)諸要因は何か?
アメリカを始めとする他の国々が、それにふさわしい日本への輸出を行えない(行わない)のはなぜか?
そうした貿易不均衡、国際収支不均衡の背景にある生産構造が問題となろう。
輸出を抑制された生産能力・生産力・資金はどこに流れるか?
外国から要請されたのは、貿易黒字国の内需拡大?
正常な内需拡大政策は行われたか? 国民の生活が豊かになるような意味での「内需拡大」は?
そのための国民の最終需要の拡大は?
それなくして、不必要な分野に資金(過剰資金)が流れ込んだのではないか? 土地投機。
以上のようなバブルに向かう問題連関があるとすれば、日銀だけの責任でないことはいうまでもない。
諸外国の市場条件を無視した過剰ないびつな日本の生産能力、それを基にした過剰な資本蓄積(膨大な金融資産)が、根底にあるということになりはしないか。
そこ(資本の過剰蓄積)には、日本国民の生活の豊かさなどが抑え込まれ切り刻まれたことがありはしないか? 現代日本資本主義の問題性が露出しているのではないか?
アメリカなど先進諸国への輸出・資本輸出が抑制され、内需拡大にも限界があるとき、輸出(商品と資本の)ドライブは、中国や東南アジアに向かったのではないか。
それがまた「中国発のグローバル化」、「供給ショック(中国の工業化)」、「物価下落」、デフレを引き起こす一因となったのではないか?
とすれば、90年代後半から2000年初頭にいたるデフレは、単なる金融的現象ではなく、基礎に工業化の不均等発展・利潤率の不均等などがある、と見なければならない。
p.177「1990年代末以降のデフレとの関連では、中国からの廉価な商品の流入や、パソコンなどIT(情報通信)関連製品の値下がりなど、負の供給ショック(サプライショック)の影響を受けているとの見方」は、一つの合理的連関を示している。つまり、金融政策の次元とは違うところに問題があることになる。
P.198
4 まとめ
「金融緩和が不十分でそれがネックになって投資が低迷しているとの仮説は棄却された」
「90年代後半以降に負の供給ショックが発生し、それが物価を押し下げたという関係が確認された。一方、不十分な金融緩和がデフレの主たる原因であるとの仮説は棄却された」と。
P.202 渡辺論文へのコメントとリジョインダー
P.210 論争を通じて浮かび上がる論点
第IV部
不良債権問題のインパクトはどれだけか
7章 銀行機能の低下と90年代以降のデフレ停滞 宮尾龍蔵
8章 銀行機能低下元凶説は説得力を持ちうるか 堀 雅博・木滝秀彰
7章 銀行機能の低下と90年代以降のデフレ停滞 宮尾龍蔵
p.219
「マクロ生産性の低下→地価下落→バランスシートの悪化による需要低迷」の連関のなかで、前半の要因を強調。
たしかに、この地価下落・過剰負債は、バブルとその崩壊の主因のように思われる。バブルとその崩壊で、たしか(今その統計が見つからないが、700兆円だったかの膨大な不動産価値(地価)下落が統計上出ていたと記憶する(確認必要)。
p.238 おわりに
本章では、「貸し渋り」と「追い貸し」の二つを検討した結論:
「まず、貸し渋り現象については、92−93年、および97−98年の二つの時期にみられたが、それが実物投資へ顕著な影響をもたらしたといえるのは、97−98年の銀行危機の時期のみであり、90年代全体を通じた長期停滞の説明要因とはならない・・・」
「つぎに追い貸しについては、既存の実証結果から、非効率業種への貸し出しが特に大手銀行の貸し出しを中心に続けられてきた実態が明らかとなった。また現実のデータを利用して、生産性が低下している部門に、より多くの資本ストックが張り付くと言う資産配分の歪みについても確認した」
p.239「銀行による追い貸し行動は、不良企業を温存して過剰供給構造を助長し、企業部門全体の収益性・生産性を低下させてきた主要因の一つと考えられる。また、それが地価下落を通じて総需要を低迷させ、長期のデフレ停滞をもたらした可能性についても実証的に示唆」
「追い貸しによる資源配分の歪み[19]を是正するためには、現在進行中である資産査定の厳格化をより強化し、銀行部門の過剰(いわゆるオーバーバンキング)を是正することが何より重要である。多くの企業は(そして優良な企業ほど)、バランスシートの健全化を優先してゼロ金利環境でも借金を返済しており、資金制約にある経済主体自体が少ない」と。
この低金利は、まさに全体的な日本経済における過剰資本を意味する。優良な産業資本投下先が見つからないこと、これが現在の一番の問題であろう。
しかし、世界の人々は、よりよき生活を求めて、産業資本の投下を求める声を発している分野があるのではないか?
世界の貧困地帯、低開発地域は、その具体的な姿ではないか?資本不足、資本の有機的構成の低いそうした低開発地域は、利潤率の高い地域でもあるのではないか?[20]
アジア開発銀行総裁就任予定者の発言記事が本日(2004年9月3日朝日朝刊)にでていたが、アジア開発における日本の平和的経済的貢献は、今後ますます重要になろう。
またすでに、2004年9月現在、株式市場はかなり活気を取り戻しており、新興企業のためのマザーズ市場なども大証上場数を抜いたとか、報じられている。新しい分野のヴェンチャー企業が新しい市場を掘り起こし創造して、その将来性が市場の余剰資金を集め始めた、ということであろう。どのような企業群が、新しい分野を切り開いているか、検討が必要。
「りそな銀行の実質国有化についても、公的資金投入により12%にまで膨らんだ自己資本は、以前の貸出規模を維持するためではなく、あくまでも不良な中小企業向けの貸出しの清算、貸出し総額のスリム化に使われなければならない」と。
「非効率業種」、「過剰資本化した部門」、「生産性が低下している部門」をリストラすることが遅れたということのようである。
なぜか? 各産業部門と銀行との関係の歴史が問題となろう。他方、「非効率業種」、「過剰資本化した部門」は、言葉で言うと簡単だが、それを見分けること、また個別企業に即して見分けることは、そんなに簡単なことではない。多数の民間企業の市場競争の中で、どれが生き残るかは競争が決めていくのであり、当該核、各産業費本にとっても、各金融機関にとっても、どこまで判断能力があるかは、問題だろう。さしあたりは、優良銀行と不良銀行とが相対的に分離してくるということであろう。統合する側の銀行と統合される側の銀行、などとして。UFJという巨大な獲物をめぐる争奪戦として。
8章 銀行機能低下元凶説は説得力を持ちうるか 堀 雅博・木滝秀彰
1 はじめに
p.246 都道府県別データの比較分析などからの結論として、「都道府県単位で区分した地域別の金融機関の健全性と当該地域経済のパフォーマンスとの間には優位な関係は見いだせない」
「金融の機能不全は1990年代以降の低迷に一定の影響を与えているだろうが、その影響は副次的であり、長期停滞の主因とは考えがたい」。そのさい、「貸し渋り説」に加え、「追い貸し説」についても、それを停滞の主因とみなせるほどの材料はない、とやや否定的に踏み込んでいる点が、本章と全焼とを分かるポイント」と。
------------------
上記のような論争を評価する場合には、具体的な事実をできるだけ多面的立体的に確認しておく必要がある。それぞれの対立的立場が、実は、総体的な関連の一部だけを取り出して強調しているという側面があるからである。
その基礎的な統計をたとえば、内閣府の「年次経済財政報告」を手がかりに、検証して見ることも意味があろう。
最近のもの、すなわち、平成15年度年次経済財政報告、同16年度を、まずは最新の16年度をみてみよう。
事実問題として、バブル絶頂期の1990年から2003年までの輸出入動向は、どうであったか?
顕著なことは、日本とアジアの結びつきが非常に強くなった反面、輸出入ではアメリカ合衆国の割合が大幅に減少したことである。この点を確認するため、H16年度年次経済財政報告の次の表を見てみよう。輸出地域ではアジアの割合がこの間に31.9%から47%にまでに上昇している。これに対して、アメリカの割合は30.7%から23.9%にまで下落している。単独の国家としては米国が一位を維持しているが、第二の国として中国が急上昇しており、わずか2.2%から現在では12.4%まで割合を増やしている。
輸入も同じ傾向である。すなわち、アジアはこの十数年間に日本の輸出先として圧倒的な重みを持つようになり、29.1%から45.0%に増加している。輸出先国とちがって、輸入では中国がいまや20.1%を占めて筆頭に躍り出た[21]。
[1] 肉体的精神的労働者が、文化的に自分たちの生命と生活を維持する水準の給料を獲得しなければならない。生命と生活を維持する最低限は、人口の同じレベルの再生産である。ところが、この間、十数年、一貫して、少子化が急速に進展している。人口減の脅威!
勤労者を物言わぬ従順な働き手とだけして飼いならすことに成功したとしても、その付けは、少子化という厳しいしっぺ返しである。もし、生産を健全な形で拡大しようとするならば、それを保証するだけの賃金・給料・育児保護施設・福祉施設等が必要となる。
ところが現在は、そうした保育所なども削減する傾向にある。
「資本主義的生産の機構は、・・・労働者階級を労賃に依存する階級として再生産し、この階級の普通の賃金は、この階級のこの階級の維持だけではなくその増殖をも保証するに足りるからである」というのは、マルクスの『資本論』第1巻第22章剰余価値の資本への転化、すなわち拡大再生産の前提条件を述べる箇所の文章である。しかし、少子化・人口減に直面する日本社会(日本資本主義の機構)は、こうした勤労者の「増殖」を保証するどころか、その縮小に向けて突き進んでいるのであり、したがって単純再生産の最低限の前提さえも破壊しているかに見える。
簡単に外国人労働者(移民)を受け入れればいいと言うスタンスである。経団連の「外交人労働者」政策(今年4月だったと記憶するが、公開された)。
だが、そのような「安上がり」の人口増加策は、文化摩擦・人権無視等の諸問題を引き起こし、社会的コストは大きくなろう。人権を無視されたものは、他人の人権(生命・財産・文化的価値)を無視し破壊することに躊躇しなくなるのではないか。
そして、その社会的コストの重圧も、勤労者の上に押しかぶせられる。
悪循環の連鎖が見えてくる。
[2] 「このうち、普通国債残高は483兆円程度である。2004年度には、新規に発行される国債は37兆円程度、借り換えのために発行される国債は84兆円程度あり、合計で121兆円の国債が発行される予定となっている(財政融資特会債を除く)(第1−5−5図)。」
「H16年度年次経済財政報告」第1章第5節。
[3] 『資本論』第3巻第三篇、利潤率の傾向的低下の法則、第13章 この法則そのもの13.
Das Gesetz als solches、冒頭部分
「労賃と労働日とが与えられていれば、たとえば100という可変資本は、一定量の動かされる労働者数を表わしている。この可変資本は、この労働者数の指標である。
Bei gegebnem
Arbeitslohn und Arbeitstag stellt ein variables Kapital, z.B. von
100, eine bestimmte Anzahl in Bewegung gesetzter Arbeiter vor; es ist der Index
dieser Anzahl.
たとえば、100ポンド・スターリングが100人の労働者の一週間分の労賃だとしよう。
Z.B. 100 Pfd. St. sei der Arbeitslohn für 100 Arbeiter, sage für eine
Woche.
この100人の労働者が必要労働と同じだけ剰余労働をするとすれば、つまり、毎日自分自身のために、すなわち自分の労賃の再生産[3]のために労働するのと同じ時間だけ資本家[3]のために、すなわち剰余価値の生産のために労働するとすれば、彼らの総価値生産物は200ポンド・スターリングで、彼らが生産する剰余価値は100ポンド・スターリングであろう。
Verrichten diese 100 Arbeiter ebensoviel
notwendige Arbeit wie Mehrarbeit, arbeiten sie also täglich ebensoviel Zeit für
sich selbst, d.h. für die Reproduktion ihres Arbeitslohns, wie für den
Kapitalisten, d.h. für die Produktion von Mehrwert, so wäre ihr
Gesamtwertprodukt = 200 Pfd. St. und der von ihnen erzeugte Mehrwert beträge
100 Pfd. St.
剰余価値率m/vは、100%であろう。
Die Rate des Mehrwerts m/v wäre = 100%.
とはいえ、すでに見たように、この剰余価値率は、不変資本cの大きさが違い、したがってまた総資本Cの大きさが違うのにしたがって、非常に違った利潤率に表わされるであろう。なぜならば、利潤率は m/Cだからである。
Diese Rate des Mehrwerts würde sich jedoch, wie
wir gesehn, in sehr verschiednen Profitraten ausdrücken, je nach dem
verschiednen Umfang des konstanten Kapitals c und damit des Gesamtkapitals C,
da die Profitrate = m/C.
剰余価値率が100%ならば、次のようになる。
Ist die Mehrwertsrate 100%:
c=50、v=100ならば、 p' = 100/150 = 66 2/3%.
c = 100, v = 100ならば、p' = 100/200 = 50%.
c = 200, v = 100ならば、p' = 100/300 = 33 1/3%.
c = 300, v = 100ならば、p' = 100/400 = 25%.
c = 400, v = 100ならば、 p' = 100/500 =
20%. 」
すなわち、c部分=機械設備工場・原料等=不変資本の部分が大きくなるにしたがって、従業員全体が同じ条件で働く場合でも、利潤率は、どんどん低下するのである。
[4] 有斐閣・経済辞典によれば、
全要素生産性 total factor productivity |
|||
|
|||
生産性 productivity |
|||
|
[5] 公式統計上は、確かに、90年代において、日本は顕著に労働時間が減少している。アメリカでむしろ労働時間が増えたこととは対照的である。
1999年の日本の労働時間は、オーストリア、ニュージーランドと同じくらいである。
だが、ドイツやフランスはもちろん、カナダなどよりもかなり多い。日本の労働時間は、いわゆる先進7カ国では、アメリカに次いで長時間労働だ、という見方・表現もできるであろう。
90年代におけるアメリカの高利潤率が、アメリカの勤労者の相対的な長時間労働に支えられていた、ということ、それとの対比で、日本の労働時間が相対的に少なかったこと、これは事実だろう。
労働者を長時間働かせて利潤率を上げることが、求められるのか?
そこから、日本の労働時間の延長を引き出すのか。
あるいは、アメリカにおける失業者の大きさを考えて、むしろアメリカの就労者の労働時間の圧縮をこそ進めるべきであるのか。ここが分かれ道、ということだろう。
ノルウェー、オランダ、ドイツ、フランスなどがなぜこのように少ない労働時間で、やっていけるのか、これまた研究すべきことだろう。
ところが、本文で紹介したように、宮川、Hayashi&Prescottの議論は、そうした方向に向かうのではなく、日本の労働時間延長、それによる利潤率の向上というものを求めることになっている。
これは、人間の論理よりは、資本の論理の優先であろう。そうではないか?
しかも、「労働時間延長」(絶対的剰余価値)は、資本の利潤拡大には直接的に有利であっても、産業構造の改革をむしろ阻害する。労働の生産力の上昇・拡大による相対的な利潤拡大(相対的剰余価値)こそは、産業構造の革新であり改革だからである。低生産性部門における生産性上昇こそは、そうした相対的剰余価値生産の増大を可能にする。これが資本主義発達の長期的法則であった。
日本やアメリカにおける資本の論理(労働時間延長の方向性)のなかでは、国際競争・産業立地間競争で、ドイツなどにおける労働時間延長がむしろ強制される方向が現時点(2004年8月)では顕著である。日本の労働時間のあり方、日本人の生活の豊かさは、世界の労働者のそれと相関関係を持っている。すなわちそれだけ、市場競争・生産条件の競争がグローバル化した、ということでもあろう。
労働時間の国際比較
一人当たり年間労働時間 |
|||||||||||
|
1990年 |
1991年 |
1992年 |
1993年 |
1994年 |
1995年 |
1996年 |
1997年 |
1998年 |
1999年 |
2000年 |
オーストリア |
1,869.0 |
1,858.0 |
1,850.0 |
1,874.0 |
1,879.0 |
1,876.0 |
1,867.0 |
1,866.0 |
1,860.0 |
1,864.0 |
1,860.0 |
カナダ |
1,789.8 |
1,769.5 |
1,761.0 |
1,765.4 |
1,783.3 |
1,779.8 |
1,787.4 |
1,776.9 |
1,767.4 |
|
|
日本 |
2,031.0 |
1,998.0 |
1,965.0 |
1,905.0 |
1,898.0 |
1,884.0 |
1,892.0 |
1,864.0 |
1,842.0 |
1,842.0 |
|
USA |
1,942.6 |
1,936.0 |
1,918.9 |
1,945.9 |
1,945.3 |
1,952.3 |
1,950.6 |
1,965.9 |
1,956.8 |
1,975.8 |
1,978.7 |
韓国 |
2,514.0 |
2,498.4 |
2,478.0 |
2,476.8 |
2,470.8 |
2,484.0 |
2,467.2 |
2,436.0 |
2,390.4 |
2,497.2 |
2,474.4 |
NewZealand |
1,820.1 |
1,801.7 |
1,811.7 |
1,844.0 |
1,851.2 |
1,843.3 |
1,837.9 |
1,822.7 |
1,825.3 |
1,841.5 |
1,817.3 |
仏 |
1,657.0 |
1,645.0 |
1,646.0 |
1,642.3 |
1,638.9 |
1,613.9 |
1,607.7 |
1,605.3 |
1,604.2 |
|
|
独 |
1,593.3 |
1,572.7 |
1,622.1 |
1,610.3 |
1,576.6 |
1,557.2 |
1,545.3 |
1,546.1 |
1,503.1 |
1,556.2 |
1,480.1 |
アイルランド |
1,728.0 |
1,708.0 |
1,688.0 |
1,672.0 |
1,660.0 |
1,648.0 |
1,656.0 |
1,604.0 |
1,552.0 |
1,524.0 |
1,520.0 |
ノルウェー |
1,432.0 |
1,427.3 |
1,436.9 |
1,434.0 |
1,431.0 |
1,414.0 |
1,407.4 |
1,399.4 |
1,398.6 |
1,395.1 |
|
スウェ-デン |
1,546.3 |
1,533.2 |
1,550.6 |
1,567.4 |
1,605.7 |
1,613.2 |
1,623.0 |
1,624.0 |
1,629.4 |
1,635.1 |
|
イギリス |
1,767.4 |
1,767.8 |
1,728.9 |
1,722.8 |
1,736.5 |
1,740.0 |
1,738.0 |
1,736.5 |
1,731.0 |
1,719.9 |
|
オランダ |
1,433.0 |
1,421.0 |
1,413.0 |
1,404.0 |
1,388.0 |
1,384.0 |
1,374.0 |
1,365.0 |
|
|
|
出所:ILO労働統計 Annual hours
worked per person
なお、「より長時間働くことが、より良い労働につながるか?」(ILO)(JISHAのHP)参照:ILO発行「World of work」1999年10,11月号(訳 国際安全衛生センター)
[6] さきにも述べたように、労働時間短縮が長期不況の原因だとされるとき、実は、労働時間延長への圧力が高まっているのである。この労働時間の絶対的増大は、まさに、絶対的剰余価値の生産を求めることなのである。
[7] 上記、ILO統計、参照。
[8] この点、アジア諸国の人々と有機的な経営ネットワークをつくるうえでの諸問題とその解決策への示唆として、伊丹敬之『経営と国境』白桃書房、2004年1月刊、参照。
[9] まさに問題となるのは、「財政出動」とはなにを行うことなのか、ということである。
政府最終消費支出であれば、それは、G(貨幣)−W(商品) である。政府は、現実の租税収入か借金(国債発行)かによって、現金(通貨)を手に入れ、最終消費支出を行うことになる。
90年代の問題は、バブル崩壊とその後の不景気のたびごとに政府の借金(国債の膨大な累積)による最終消費物資としての商品購入が行われたことにある。政府の支出は、最終消費物資の商品市場を作り出したとしても、その反面として政府の借金の累積的増大を伴ったということである。
政府の借金の返済のためには、民間企業・民間人の租税負担能力を高めることしかありえない。民間部門の活性化が不可欠である。それは、経済成長を実現することによるしかない。それを可能にする新産業の創造や、既存産業の革新、新市場(世界各地の日本製品市場など)を開拓することしかない。
経済成長は、マルクスの『資本論』体系で言えば、拡大再生産の状態である。資本蓄積と拡大再生産のメカニズムが問題となる。
90年代において、そうした資本蓄積・生産拡大のメカニズムがどのような分野で実現し(いわゆる勝ち組)、他方どのような分野から資本が追放されたのか(いわゆる負け組)、これが問題となる。民間総固定資本形成の内実が分析されなければならない。
[10] 「公的な総固定資本形成」の内実は何か?
「社会資本」の固定的部分、すなわち、道路、その他、生産と流通の公共的なインフラストラクチャーの建設整備が行われたということならば、それは政府による最終消費支出であり、厳密な意味での「固定資本」ではない。あくまでも政府の最終消費支出である。
それは、有益な最終消費支出であるかぎり、国民(企業と市民)の生産と生活の利便性・有効性・効率を総体として高める。しかし、道路等の建設整備費は、固有の意味での投資ではなく、その政府支出から利潤が生まれてくるわけではない。社会資本であるインフラを利用する諸企業は、その社会資本・インフラ整備が高度であればあるほど、私的企業活動が効率的に有利に行えるといういみでは、利潤極大化の一つの土台となる。しかし、ここの企業は、社会資本の支出をみずからの利潤計算において入れない。同じような生産資本を持つ諸企業を、そうした社会資本の土台が充実しているところとそうでないところ(国や地域)比較し競争すれば、社会資本が充実している地域・国の企業が、競争優位に立つことは明らかである。
ともあれ、政府の最終消費支出は税金(またはその前借としての借金=国債)による最終消費物資としての商品購入である。G−Wである。Gは税金収入またはその前借=国債。
こうした政府支出を利潤率の計算などに入れると、当然にも利潤を生み出さない政府最終消費支出額は、資本の利潤率を不当に引き下げ、民間企業の経営状態を不当に低く見ることになる。
90年代における「利潤率の低下」が嘆かれる時、こうした計算問題の誤りが一つの重要な根拠となろう。なぜなら、膨大な政府最終消費支出は、それが多ければ多いほど、利潤を生み出さないものとして、利潤率計算の分母だけを大きくし、分子には影響を与えないからである。「単なる貨幣」(流通手段・支払手段として)と資本(利潤を生み出すもの)との違いという最も基本的なことが、ここでは混同されるからである。
ということは、「90年代不況」はもっと厳密に検証しなおす必要がある、ということになる。
[11] 「公共投資」が、実は、最終消費物資(市場であふれている最終消費物資)の購入に当てられたとしたら―真に公共的な多数の民間企業と民間人の経済と生活の活動に有効な物にではなくして−、それは過剰生産設備を温存しただけのことにとどまり、全体としての再生産の拡大をもたらさない点で、経済成長に貢献することがないのは当然となる。
「公共投資」が、真に公共的な基盤整備として、社会の生産効率のために投下されたかどうか、が問題となろう。
生き絶え絶えの不良企業の存命だめのために「真水」と称して、公的資金が投じられたとすれば、経済成長への効果が少ないのは当然となる。
[12] ここに注として、塩路悦郎2001)「経済成長の源泉としての社会資本の役割は終わったか」『社会科学研究』第52巻第4号、東京大学社会科学研究所 が挙げられている。
[13] 原注:
内閣府(2002)『年次経済財政報告(経済財政白書)』財務省印刷局によれば、90年から96年の期間に建設業の全要素生産性は、平均で5%程度低下したにもかかわらず、就業者数は2%程度増加している。また、宮川(2003)「“失われた10年”と産業構造の転換」岩田規久男・宮川努編『エコノミックス 失われた一〇年の真因は何か』東京経済新報社によれば、90年から99年までの期間に建設業の全要素生産性上昇率は、対象としている業種の中で最もマイナス幅が大きかったにもかかわらず、就業者の構成比はサービス業(全要素生産性はわずかに上昇)、卸・小売業(全要素生産性は3%程度上昇)に次ぐ伸びを示している。これらの分析結果は、公共事業を中心とする景気対策が構造調整を遅らせる要因になったことを示唆している。
[14] 原注で、政府長期債務残高の民間消費に対するマイナスの影響を示す研究論文があげられている。川出・伊藤・中里(2003)未公刊論文。
[15] 物価と貨幣の関係、商品の流通総量と貨幣量の関係は、貨幣論の重要な対象である。貨幣論は当然、商品論を前提とする。商品の価値表現の問題でもある。貨幣は商品の価値尺度となり、その前提の上で、流通手段(商品の変態、その媒介手段、商品総量とその媒介手段の量的関係)となり、また。蓄蔵手段、支払手段などとなる。
だから、物価(商品価格)と貨幣、貨幣と商品の価格(価値)の相互関係を押えることは、すべての議論の前提となる。
しかし、これについては「ブラックボックスに放置」しても、立論は成り立つという。これは不思議ではないか?
この理論的解明はなくても、物価と貨幣量の相互関係が比例関係にあるとすれば、その背後には、物価と貨幣の相互関係を規定する重大な根拠があるのではないか?
まさに、これこそ、商品分析、価値論に属することである。
すなわち、商品価値を表現するものとしての貨幣であり、流通する貨幣量は、商品総量とその流通を媒介する貨幣の流通速度に反映する。信用制度の発達に応じて預金等の貨幣量も、媒介すべき商品流通総量と貨幣流通速度とに関係してくる。
[16] 有斐閣・経済辞典:「ハイパワードマネー」・・・「マネタリー・ベースあるいはベース・マネーともいう。民間部門の保有する現金と民間金融機関の中央銀行預け金の合計。これは民間金融機関の信用創造の基礎となり,その何倍かのマネー・サプライを生み出すので,こうした呼名が付けられている。(参) 中央銀行通貨, 通貨供給(量) 」
[17] 有斐閣・経済辞典、より。
コール・レート call rate |
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[18] 有斐閣・経済辞典 より。
プラザ合意 1985年9月ニューヨークのプラザ・ホテルで5カ国蔵相会義が極秘理に開かれ過度のドル高是正をするため協調介入に乗り出す声明を発表した。日米独の協調介入は顕著な成功を収め,当時1ドル=240円台から翌年2月には150円台に突入以後円高の基調は今日まで変わることはない。87年2月フランスのルーブル宮殿で過度の円高対策が話し合われたが,日米の貿易収支不均衡は是正されずドル安の進行が続いた。(参) ルーブル合意 |
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ルーブル合意: プラザ合意でドル高是正が行われたが不均衡は解決しなかったため,1987年2月,パリで開催されたG7の合意。相場の当面の水準周辺での安定,世界経済の成長促進,各国のインフレなき安定成長,国際収支不均衡是正の政策協調,黒字国の内需拡大による黒字縮小,赤字国の国内不均衡と赤字縮小などを内容とする。しかし,ドルの下落が続くなど実態の改善は見られず,89年9月協調介入が行われた。(参)
ブラック・マンデー |
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ブラック・マンデー
暗黒の月曜日。1987年10月19日の月曜日にニューヨーク証券取引所で起こった株価暴落のこと。これに端を発して日本,欧州へ波及し,世界的な株価暴落が経験された。株価暴落の原因として,システム売買や派生証券取引などへの批判が取りざたされた。 |
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[19] 不良部門への継続貸付は、銀行と低収益・借入れ企業の双方の問題(もたれあい)であろう。産業資本は、世界の市場が求めるあらたな製品・その生産部門・分野を開拓していくしかないであろう。
[21] イラク戦争で問題になっている中東の場合、輸出先としてはわずか2.5%から2.9%のあいだであり、逆に、石油資源との関係で、輸入は10.6%から13.7%の間である。輸出入で大きなアンバランスの関係にある。