2024年度後期エクステンション講座
「ナチズムとその記憶のありかた
〜ナチズムの歴史と「過去の克服」を考える〜」
2024年10月16日(水) 16:10〜18:10
第2回 ナチス親衛隊とホロコ―スト
〜ナチスによる暴力・虐殺〜
永岑三千輝
はじめに
*テーマ設定の意図
第二次世界大戦におけるナチス・ドイツのユダヤ人迫害・殺戮
しかし、誰が、いかなる機関・組織が、いかなる戦争目的・戦争計画・戦争遂行で、いつから、ユダヤ人迫害・殺戮を行ったのか?
これを解明することで、ナチス、あるいは「ナチス・ドイツ」という包括的全般的な表現では見えてこない重要問題を考える。
いうまでもなくヒトラーがなんといってもすべての頂点に立ち、
ドイツ民族の膨張、世界強国建設、戦争政策を指導・牽引、そして、
ユダヤ人迫害から殺戮の政治指導を行ったことは、厳然たる事実である。
ヒトラーの根本的思想構造を把握する必要がある。彼の中核的理念・要求は何か?
ドイツ民族の生存圏=東方大帝国
(第一次世界大戦での広大なロシアの占領体験・ブレスト・リトフスク講和1918年3月)
しかし、ヒトラーの指導理念・演説等(ドイツ民族・ドイツ国民の一定の要求・怒り・不満を体系化したもの)に共鳴・共感し、
彼の具体的指導・牽引に従う組織・人間群がいなくては、すべての政策は実行できない。
ナチ党員、突撃隊、諸職業におけるナチ系団体など多様な組織あり。、
これらナチ党諸組織に組織された大衆、さらに、
その外に大量の一般民衆の「支持」、「共感」・・・それぞれの問題にたくさんの研究(その一部の邦訳)がある。
だが、これら諸組織、諸大衆団体、傍観者の一般民衆が、殺戮の機能を遂行したわけではない。
それでは、ユダヤ人に対する迫害から殺戮において、
迫害と殺戮の執行を担った主体・中心組織は何か?
その主体・組織の行動原理・思想は何か?
この問いの答え・・・ナチス親衛隊(その思想・行動原理)
それが支配下に置いた警察機構
現代国家の二つの武力装置・・・軍隊と警察
その一つ、警察機構を握ったのが親衛隊。
忠誠宣誓:
ヒンデンブルク大統領死去後、ヒトラーが大統領権限も手に入れる・・・軍隊はヒトラーに忠誠を誓う。
ドイツ警察の長官の地位を、親衛隊全国指導者ヒムラーが手に入れる・・・親衛隊もヒトラーに忠誠を誓う。
突撃隊は、大きな組織で多党制民主種j着体制のワイマール共和制下、
街頭運動で国民をナチ体制(その主張・政策)に共鳴させ動員する部隊(1930年450万人の膨張)。
武器を持たない大衆組織(1933年から34年、「第二革命」を掲げ、武器を持とうとして(民兵軍への昇格)、
1934年6月、粛清される)
(1990年代後半の国防軍犯罪展がドイツ全国で開催され、「国防軍神話」を破壊)
軍隊と親衛隊・警察の緊密な協力関係
これをを実証する大量の史料・写真・・・その史料展をドイツ全国で開催。
(そのカタログが748ぺージの分厚い大判カタログ書籍として、刊行されている。)
*今回のエクステンション講座でのテーマ設定(テーマ絞り込み)の一つの契機
・・・最近出版の翻訳書(2024年3月)、拙稿書評(2024年5月5日)
*テーマ設定のもう一つの契機(栗原優氏の研究・最新出版書との対峙・異動の確認)
*ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅の大々的命令(絶滅政策への転換)の時期を、
1941年10月〜11月とする最近の説(ヘルベルト『第三帝国』該当箇所)。
この10月〜11月説に対する批判(12月説 の見地で)の拙稿論文・・・
「独ソ戦・世界大戦とドイツ・西欧ユダヤ人の東方追放
――「ユダヤ人問題最終解決」累進的急進化の力学――」
『横浜市立大学論叢』人文科学系列、74‐1投稿(2022年8月31日)
(刊行納品2023-05-18)
10〜11月説と12月説とは、ほとんど違いがないように見えるであろう。
しかし、この間に起きたことは、軍事同盟国日本による真珠湾攻撃と
これに対するアメリカの参戦(太平洋戦争への突入)であり、ヒトラーの対米宣戦布告である。
この世界史的転換(文字通りの世界戦争への突入)をホロコ―ストの展開との関係で、重要とみるかどうか。
*ガザのジェノサイドを行っているのは、誰か、いかなる組織・機関か?
主体とその理念・政策は?
イスラエル国家の創立(1948年)は、いかなる勢力、理念によるものか?
イスラエルのネタニヤフ政権、軍、国内外のイスラエル秘密情報組織
(今年7月の明治大学国際武器移転史研究所第11回シンポ、私の報告「ホロコ―スト研究者の視点」)
親衛隊とは何か?
突撃隊のなかのヒトラー身辺護衛隊から成長し、突撃隊から離れ、独立の組織へ。
この親衛隊の成長は、突撃隊レープ一派を「第二革命」、「反乱」分子として、
粛清(多数の幹部を処刑)するにあたって、軍から武器を得て、活躍。
ヒトラー・「総統への忠誠」を根本的使命・理念とする組織
・・・「ヒトラー崇拝」(民族強化、東方全体計画)。
この際も、核心的重要性を持つのが、ヒトラーの根本的思想構造、
彼の中核的理念・要求
1.親衛隊と警察の関係・組織構造・分業体制:
参照:Hein①、同訳②、ハインツ・ヘーネ(目次)
ライヒ保安本部Reichssicherheitshauptamt,RSHA
(邦訳では、帝国保安本部、国家保安本部などの訳あり)
その中でも治安警察・(親衛隊)保安部Sicherheitspolizei und SD(Sicherheitsdienst)
・・・例:「ガス自動車」開発極秘文書
2. 親衛隊の形成・発展の歴史
突撃隊の中の一部隊として発足・・・ヒトラー身辺護衛
突撃隊の中で、独自の自律性を確立していく・・・ヒムラー。
概観・概略の詳細は、上掲の最新翻訳書:(目次・年表)参照。
3.親衛隊が警察機構を掌握していく過程
決定的跳躍板としての1934年6月の突撃隊幕僚長レーム(「第二革命」を呼号)の
粛清事件。(ヒトラーは軍、保守派と妥協同盟) (隊員1930年7万人、1934年夏450万人)。
(レーム粛清の処刑場は現在ベルリン・リヒターフェルデのドイツ連邦文書館の敷地内)
4.領土拡大・侵略戦争における親衛隊・警察の役割
(1)「平和的」領土拡大の時期
1938年3月、オーストリア併合
1938年10月、ミュンヘン会談(9月29日)の結果、チェコスロバキア政府が屈服、
ヒトラー・ドイツ第三帝国によるズデーテン併合を認める
1939年3月、プロテクトラート(保護領)ベーメン・メーレン創設支配
(スロヴァキアと分離してチェコスロヴァキア解体し、チェコ部分を保護領に)
次のヒトラーの要求・・・ポーランド回廊・・・ポーランドへの圧迫、
国境地帯で騒乱状態を引き起こす、
「ポーランドの非道性・残虐性」を大々的に喧伝。
(『誰も望まなかった戦争』か(!?)
、
1938ー1939緊迫した英独関係・ヨーロッパ情勢
ヒトラーも、「平和的に領土拡大できれば、望むところ、
「平和的」領土拡大の成功はヒトラーの名声を高め、
民衆による神聖化が高揚。
だが、あくまでも「領土拡大」を追求すれば・・・)
ソ連は1939年5月からノモンハンで日本・関東軍と激突
・・・東西二正面の戦いを回避したい戦略的立場。
ヒトラー・ドイツは、電撃的にポーランドを征服したい立場。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
不倶戴天の敵であるはずのソ連とさえも「協力」・・・「悪魔の抱擁」
・・・全世界驚嘆・・・日本では平沼内閣が「欧州の情勢不可解」と、倒れる
「不可侵」とは、表面的には問題ない。しかし、ポーランド奇襲のための準備、
(秘密協定でポーランドの「第4次分割」・・・ポーランド西部をドイツに、
バルト三国の他、ポーランド東部をソ連支配下に
・・・この激変でのユダヤ人逃亡)
(2)ポーランド奇襲攻撃・独ポ戦と親衛隊・警察の特務部隊
(アドルフ・ヒトラー身辺護衛連隊(研究最前線)など武装化した親衛隊の部隊が
軍の下の編成され、1939年ポーランドへのドイツ奇襲攻撃に参加)
ポーランドの政治軍事指導者エリート
(強固なナショナリズム、反ソ・反共・反ユダヤ主義)
これに対し、ヒトラー・ドイツは、ポーランド支配層の殲滅を真正面に掲げ、実行。
・・・国家と軍の指導者層を殲滅して、「指導者なき」隷属民族ポーランドを奴隷化
ドイツ併合した地域のユダヤ人を総督府(特にワルシャワ・ゲットーなど、住宅・食糧など劣悪の極)に追放
・・・総督フランクは「厄介者」が増えると困ると、抗議。
大きな流れ:
独ポ戦⇒ヒトラーの「期待」「想定」「思惑」に反して英仏の対独宣戦布告
⇒独仏戦⇒独英戦か独ソ戦か⇒独ソ戦へ
(Cf. 栗原優『ヒトラーと第二次世界大戦』ミネルバ書房、2023年3月)
ヒトラーの『わが闘争』以来の一貫した「親英反露」戦略(二正面戦争の回避)
・・・第一次世界大戦の敗戦(1918-03-03ブレスト・リトフスク条約ではロシアには「勝っていた」、
しかし、最後にはアメリカが参戦し、すなわち、結局、英米と闘うことになり、
最後に敗北)を踏まえたヒトラーの根本戦略
しかし、
このヒトラーの根本戦略の挫折・・・バルバロッサ作戦(1940年12月18日総統指令第21号)
(西で対英戦争継続中に、東でソ連攻撃、という二正面作戦に突入)
(3)ソ連奇襲攻撃・対ソ電撃戦・独ソ戦勃発と親衛隊・警察の特務部隊
「奇襲」か?なぜ、いかなる意味で?
・・・Cf.最近出版の富田武『ゾルゲ工作と日独ソ関係――資料で読む第二次世界大戦前史』山川出版、2024.
戦争計画(歴史研究の90年代までの到達点を示す啓蒙的史料集「国防軍犯罪展」)
・・・ソ連の打倒(対英戦勝利の前に数か月でソ連を征服・・・
バルバロッサ指令第21号1940年12月18日)
・・・ユダヤ・ボルシェヴィズムの殲滅・・・「世界観戦争」
・・・ボルシェヴィズムの根底・源泉としての「ユダヤ民族」の殲滅
・・・ソ連ユダヤ人の殲滅
独ソ戦勃発・・・1941年6月22日ドイツ軍の奇襲攻撃
親衛隊警察の特殊部隊
(アインザッツグルッペー特別行動隊、出動部隊など邦訳各種)
・・・ドイツ国防軍急進撃の後、展開・進撃、軍後方地域の治安平定任務
アインザッツグルッペがわずかの抵抗も、苛烈に鎮圧(活動・情勢報告、事件通報ソ連)
(「ボルシェヴィズムの根源」としてユダヤ人の殲滅、
反ソ意識・反ユダヤ意識をまとめて住民統合に活用して、迅速な治安平定=陸軍後方地域の安全確保)
その前段:
独ソ不可侵条約でソ連圏支配下におかれた地域 (Cf.ポーランド分割時代のロシア領との重なり合い)
ソ連秘密警察が、反ソ的分子を逮捕・処刑。
・・・ソ連市内下に置かれた地域における住民の反ソ意識・反ユダヤ意識の先鋭化、
その証拠写真類
(レンベルク、現在のウクライナのリヴィウでの証拠写真
・・・国防軍犯罪展資料)
(同じく、タルノポルにおけるソ連・NKWDの大量射殺写真
・・・犠牲者の中にはドイツ兵士10人も
・・・ハイドリヒは、現地の反ソ意識・反ユダヤ意識を刺激、
現地の民衆にポグロムを引き起こさせる)
このソ連NKWDによる大量射殺を発見して、
ウクライナ人、ポーランド人などの中の親ドイツ・親ナチの人びとが、
ドイツ軍・親衛隊・警察の特別部隊と協力。
ユダヤ人(ソ連・ボルシェヴィズムと結び付けられて)にたいするポグロム
・・・レンベルクの場合、約4千人が犠牲。
スターリン・・・41年7月3日、軍後方地域における抵抗闘争・パルチザン決起を呼び掛ける
・・・ヒトラーは、スターリンの呼びかけを根拠に、「ユダヤ人をパルチザンとして」殲滅できる、好都合だと。
スターリンのパルチザン決起呼びかけ、ソ連の抵抗が激しくなるのと対応して、
・・・アインザッツグルッペによる「報復措置、贖罪措置」の名目のもと、パルチザン・ユダヤ人殺戮も過激化
(アインザッツグルッペの活動・情勢報告)。
「党や国家のユダヤ人」だけでなく、侵攻直後から全男子ユダヤ人を、晩夏からは婦女子のユダヤ人も射殺。
アインザッツグルッペ
1941年6月22日から7月16日までの活動
1941年7月17日から8月31日まで独ソ不可侵下ポーランド地域の活動
同リトアニア地域の活動
1941年9月〜10月 キエフ、オデッサ他
キエフ郊外バビヤールの33,771人のユダヤ人射殺。
「ユダヤ人移住措置は住民の完全な同意を得て、まったく摩擦なく遂行できた」と。
(作戦経過および事件通報1941年10月7日)
1941年10月16日 町ルブニー(戦前35,000人、残存者20,000人・・・多くのユダヤ人が逃亡していた)
ユダヤ人「移住」命令
・・・「3日間の食事と暖かい服を持参して」ユダヤ人集合せよ・・・
「1865人のユダヤ人、コミュニスト、およびパルチザン――
このうちには53人の戦時捕虜と数名の女性狙撃手Flintenweiberがいた――を処刑」と。
アインザッツグルッペの特別コマンド4aの報告(事件通報ソ連・1941年11月12日)
ーーーーー
イスラエルによるガザ・パレスチナ人・ジェノサイド
(Cf. 「ガザ―絶望から生まれた詩(If I must die, )」・NHKスペシャル)
(付言: 昨年10月7日以降、ガザで現在進行中のイスラエル軍の激しい「ハマス殲滅」作戦で、
一年ほどの間に、4万2千名のパレスチナ人市民が犠牲に、しかも、その40%〜半数が子供の犠牲、と。
まさに今、イスラエルによるジェノサイドが全世界で非難・抗議の声を呼び起こしている。
ーーーーーー
ナチス・ドイツ(軍と親衛隊・警察)の攻撃・鎮圧
これにに対抗・抵抗するパルチザンと一般住民の支援との関係、
パルチザンとそれを支援するユダヤ人の関係)
1941年8月30日ハイドリヒ命令・・・大量射殺現場を見物人に(国防軍将校を含め)見せること禁止
1941年6月から12月の親衛隊・警察特別出動部隊によるユダヤ人殺戮の広がり
(『ホロコ―スト地図』En、同邦訳より抜粋)」
英空軍によるドイツ諸都市への空爆・・・
1941年10月16日から11月29日のドイツ・オーストリアからの「臨時的東方移送」
(4)独ソ戦から世界大戦への戦争拡大・
泥沼化・総力戦と親衛隊・警察
世界大戦・・・ヨーロッパの戦争とアジア・太平洋戦争が結合…グローバルな対抗軸の形成
この意味では、1941年12月8日(現地時間では7日)を契機に真の世界戦争の開始。
ヒトラーの国会演説(1941年12月11日)
・・・対ソ戦の圧倒的戦果を誇示。対米宣戦布告の論理
…イギリスに対し何度も停戦を呼び掛けたが、応じなかった。
英米のユダヤ勢力により、日本の対米戦争開始で、対米宣戦布告に至った、と。
ヒトラーの対米宣戦布告・国会演説の論理――「ユダヤ人絶滅命令」との関連で――
ヒトラーのナチ党最高指導部に対する演説(12月12日)・・・ゲッベルス日記記載
ヒトラーとヒムラーの会談
・・・親衛隊全国指導者・ドイツ警察長官ヒムラー業務日誌1941年12月18日メモ(ヒトラーへのVortrag報告・具申)
・・・12月12日のヒトラーのナチ党最高幹部演説を受け、
「ユダヤ人問題をパルチザンとして根絶」Judenfrage als Partisanen auszurotten.と。
(「として」というところが眼目。
「である」=事実ではなく、反ユダヤ主義(ユダヤ人に責任を擦り付ける論理)のイデオロギー
ヒトラーの対米宣戦布告(1941年12月11日)に対抗する日独伊無条件降伏まで戦い抜く
連合国宣言は1942年1月1日
1942年年ヒトラーの年頭挨拶
――「チャーチルとローズヴェルトはヨーロッパをスターリンの手にゆだねてしまった。」
「チャーチルとローズヴェルトの同盟者としてのユダヤ・ボルシェヴィズム」
(M, Domarus, Reden und Proklamation, S.1821).
1942年1月8日 ハイドリヒ・・・「ユダヤ人問題の最終解決」の会議を招集(1月20日開催)
1942年1月20日ヴァンゼー会議:議題「ユダヤ人問題の最終解決」(対象・全ヨーロッパ1100万人))・・・
総督府次官「約250万のユダヤ人のほとんどは労働不能。総督府から最終解決をはじめて」と。
1942年1月30日国会演説――「ユダヤ人が思っているようなヨーロッパのアーリア諸民族が根絶されるのではなく、
この戦争の結果はユダヤ人の絶滅だ。」「目には目を、歯には歯を」だ。
この演説で、ヒトラーは、
ユダヤ人は「ヨーロッパ・アーリア諸民族が根絶」されるとみているが、
「逆に、「この戦争の結果は、ユダヤ民族の絶滅」だ(ヒトラー)との対置。
(M, Domarus, Reden und Proklamation, S.1828-1829).
1941年12月15日リバウ(ラトヴィア西部バルト海沿岸の都市)での射殺直前の婦人たち
ーーーーーーーーーー
Cf.以下の独ソ戦の基本的経過と世界大戦への突入
電撃戦挫折・・・長期戦化・総力戦・戦争泥沼化
(一方的にドイツ敗北が決まったわけではない、
ナチス・ドイツのソ連占領・戦勝のための必死の闘い、油田地帯獲得をめぐる戦い)
(ヒトラーが「敗北を覚悟した」(栗原2023)と繰り返し強調している。しかし、
「敗北の覚悟」と ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策を結びつけるのは、直接的であり、結果論ではないか。
ヒトラーは世界戦争をユダヤ人が引き起こしたものと断定し、
「目には目を」とヨーロッパ・ユダヤ人絶滅を正当化。
1942年1月30日国会演説で、「目には目を」を叫び、勝利を目指す、
ナチ党幹部・国家軍部の首脳部もそれに共鳴・支持、
1942年から44年のドイツの全体的闘いを導く精神構造・・・単にヒトラーだけでなく、
ナチ党諸組織、軍の戦闘力を貫くものを見る必要・・・第一次世界大戦の敗戦経験
・・・名誉もなく、戦争責任を一方的に断定され、
莫大な賠償金、領土・植民地喪失の記憶
・・・「麻痺の構造」)
「1941年11月〜12月」…「冬の危機」
モスクワ前面での敗退
1941年12月11日、対米宣戦布告・・・巨大なアメリカ、
アメリカとの戦争だけは開始したかったが、まさにそのアメリカに対し宣戦布告。
(第一次世界大戦はアメリカ参戦により、世界戦争に突入、そのアメリア参戦でドイツは敗北への道を歩む
・・・まさにこの第一次世界大戦の記憶がヒトラー、ナチ党幹部、軍首脳部、ナチ党員大衆、ドイツ国民に鮮明。
ヒトラーの戦略は一貫してこのアメリカ参戦を回避することにあった。
しかし、それは、1939年9月3日の英仏の対独宣戦布告に始まって、挫折。
タブーの二正面作戦への道(「バルバロッサ」指令)--対ソ攻撃――に突き進まざるをえなかった。
食糧・原料資源、特に石油のための広大「生存圏」獲得の絶対的必要性
ヒトラー自身、同盟国日本との約束により、アメリカへの宣戦布告をせざるをえなかった。
日本がアメリカをアジア・太平洋戦線に引き付けることを期待
・・・しかし、それは半年ほどのうちに打ち砕かれる)
世界戦争の罪をヨーロッパ・ユダヤ人に(すなわちソ連ユダヤ人だけではなく)押し付ける論理が確定。
1942年1月20日、「ユダヤ人問題の最終解決」を議題とするヴァンゼー会議開催
対象とされるユダヤ人は、文字通り、ヨーロッパ全域のユダヤ人(アイヒマン作成の会議資料・統計参照)。
会議主催者は、親衛隊ナンバーツー(次官級)ラインハルト・ハイドリヒ
(ライヒ保安本部長官・治安警察・親衛隊保安部長官)
会議には各省庁の次官クラスが出席。
ーーーーーーーーーーーーーー
ヒトラーは、折に触れて、1942年以降、大演説で、繰り返し、
「ヨーロッパ諸民族」、「アーリア諸民族」の絶滅と、「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」を対置させて、
実際に、秘密に絶滅収容所で開始され、断行中のユダヤ人殺戮を正当化。
1939年1月30日の予言:
「ユダヤ人たちが国際的な世界戦争を引き起こして、ヨーロッパ諸民族を皆殺しにしようと思っているなら、
その結果はヨーロッパの諸民族の皆殺しではなくて、ヨーロッパのユダヤ人の皆殺しとなるだろう」と。
いまや、世界戦争への突入で、それが、実際のこととなった、と。
問い:
いつから世界戦争になったのか?
いつから第二次世界大戦となったのか?
(ヒトラーにおいては、そして、実際にも、通念的通説的第二次世界大戦とは定義・概念が違う)
1942年1月30日の政権掌握記念日演説。
(「世界戦争だといわれる」ことになったことを公然と認めた演説)
1942年夏から、石油を求めて、スターリングラード攻撃
最新の翻訳書:ワシーリー・グロスマン著『スターリングラード』上、中、下、2024, 地図
1943年1月末-2月初め・・・半年余の激戦の末、、ドイツ第6軍敗北・・降伏
これ以降、敗退に次ぐ敗退。
占領地縮小。
食糧・資源の基盤縮小。
むすび
単なるヒトラー命令ではなく、総力戦敗退の諸ヴェクトルが、ユダヤ人殺戮を規定していく。
その担い手が、親衛隊、それが支配下に置く武力装置=警察。
ヒトラー・ドイツは、最後には敗北した。
その原因・諸要因は何か?
ソ連・英米,、連合国総体の戦闘力・・・その内実は?
連合国の闘いの理念は? どのような人々が立ち上がったのか?
ヒトラー・ナチスが見失っていた重要な敗北要因は?
本日の講義内容から導き出せる諸要因は?
現在の日本人としての「過去の克服」は?、
Cf.旧研究室HP