西洋近現代史研究会合評会:

拙著『アウシュヴィッツへの道――
  ホロコ―ストはなぜ、いつから、どこで、どのように』
 (横浜市立大学新叢書13)春風社、2022年3月


冒頭(与えられた40-50分ほどの時間)の執筆者報告ノート

自著紹介:第二次世界大戦Weltkriegはいつから始まるか
         ーーヨーロッパ・
ユダヤ人絶滅政策=1941年12月画期説の見地からーー」


はじめに

拙著合評会という貴重な機会を、師走の皆様忙しいなか、いただき、感謝いたします。
研究会委員のみなさま、そして、
コメントを引き受けていただいた第三帝国関係の研究最先端で、
問題提起的お仕事を次々と出されている小野寺さん武井さんに、深謝いたします。



問題の限定(本日のお話の焦点)

武井さんの翻訳書にもありますように、ホロコ―ストをめぐっては、気の遠くなるような多岐にわたる研究がでております。
どこかに的を絞らないかぎり、歴史研究の実証的検討に入っていけません。


私の実証的研究の焦点:論争史

 ヒトラーのヨーロッパ・ユダヤ人「絶滅命令」をめぐる欧米の論争史
 (否定論の諸潮流とこれに対峙する歴史研究の積み重ね)

 その日本でのひとつ:私にとっては、栗原氏(1990年代半ばまでの欧米研究史)との論争

 実証の焦点・歴史理解の対立点は、1941年7月末・8月(栗原説)か、同年12月(永岑説)か
       (ゲーリング命令=委託7月31日説、ヒトラー対米宣戦布告・世界戦争への突入の12月か)。



現代的問題関心との関連

 ①現在世界の一つの重要関心(戦争、侵略、大量虐殺、ジェノサイド関連で):

   ㋐ロシアのウクライナ侵略戦争の長期化・ミサイル・ICBM・核兵器(?脅迫)等
          武器高度化・北朝鮮参戦・・・更に??

     ロシアのウクライナ侵略戦争が世界戦争に発展するのか、
         (インターネット上には、その危惧・不安を表出したサイト等がたくさん)

     すでに「第三次世界大戦は始まっている」(一部の著名人の言説)といえるのか。

     ロシアが理性に立ち返り、それにウクライナが譲歩(その条件がいろいろ呈示されている)することに成功すれば、
      話し合いで妥協的停戦が実現するとすれば、
      「第三次世界大戦」への拡大は阻止されるであろう。

     戦争のダイナミックな展開を世界全体の政治経済社会の変化と合わせて、見ていく必要があろう。
 
  ㋑ガザのジェノサイド

    ガザのジェノサイド(パレスチナ人、ガザ市民への老若男女を問わない大量殺害、
    口実・正当化理由=「テロ組織ハマス殲滅」)


   イスラエル国家(シオニスト、シオニズム国家)は、建国の理由・正当化根拠の一つに
   ナチスの迫害・殺戮(=ホロコ―スト)を掲げている。

  しかし、
   イスラエル国家が戦後の建国以来、ずっとやってきたことは、
      パレスチナ人の追放(パレスチナ人にとっての「ナクバ」、
      迫害、殺戮、民族浄化、居住空間・生活圏の圧縮といった、
      ナチスがやったホロコ―ストと同じではないか。

   シオニズム・シオニスト国家・・・・強烈な民族主義(シオニズム)、武力による国家建設、
   武力による先住民排除、植地・領土獲得・拡大、違法領土拡大の連続
ではないか?

   ナチズムとシオニズムは、同じ思想潮流であり、行動原理も同じ、ないし太い共通性。

   Cf.シンポジウム報告:永岑「ガザ侵攻に対するホロコ―スト研究者の視点
      明治大学国際武器移転史研究所主催、第11回公開シンポジウム報告。




 ②第一次世界大戦も、普通には、1914年7月―8月から始まるとされるが、
  研究史の論争が明らかにするように、また、当時の世論等からしても、
  戦争勃発と同時に世界戦争・世界大戦に突入したとは言えないであろう。
   (アメリカ参戦までを考慮すれば、3年近くで世界戦争へ)


  1918年までの経過すべてを踏まえたうえでの、通説・教科書的定義を見直す必要があるのではないか?
  「ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策」の時期を考えるとき、こうした問題が出てくる。



 ③第一次世界大戦・世界戦争の原因論・突入原因に関しては、膨大な研究と論争がある
  (小野塚知二編『開戦原因の再検討』)が、 

  第二次世界大戦・世界戦争の原因に関しては、どうか?

  第一次世界大戦・世界戦争と第二次世界大戦・世界戦争では、相互の密接な連関性と同時に本質的決定的に違うのでは?

  第一次世界大戦は、諸列強(ある意味で対等の大国)それぞれに「自由のため」、「防衛」などの戦争正当化を出来たことに対比するとき、
  第二次世界大戦では、ヒトラー・ナチ国家指導部の戦争の段階的拡大における主導性・犯罪性は、明確。

  その点では、第二次世界大戦においては「戦争責任」問題は、起きようがないのではないか。
  (ただし、第一次世界大戦との連続性の側面から見れば、単純なヒトラー・ナチズム単独責任論は、説得力を持たないであろう。)


 ヴェルサイユ条約体制(パリ講和会議・戦勝列強の敗者に対する戦争責任押し付け、
 ドイツ領土縮小・植民地剥奪、ドイツ単独責任=「天文学的な」莫大な賠償)の決定的意義
  (「勝てば官軍」、「力が正義」)

  ・・・ヒトラー・ナチ党・その支持国民大衆にとっての世界大戦・世界戦争・その敗北という経験意味・重み
  (世界戦争「敗北の克服」を基本戦略とするヒトラーの思想構造:『わが闘争』、『第二の書』



「第二次世界大戦」の場合、
 世界大戦世界戦争の定義は?
 いつから「世界大戦」、「世界戦争」と規定できるのか?
 当時の人びとは、いつから世界大戦・世界戦争と認識したのか?

ヒトラー国会演説(1939年1月30日)の想起=ゲッベルスの宣伝(1941年11月特別宣伝スローガン)、すなわち、

   「世界戦争が再びユダヤ人によって引き起こされたら
   ヨーロッパのユダヤ人の絶滅だ」という宣伝文句は、

裏を返せば、
  いまだ、「世界戦争」になっていないこと(ゲッベルスやヒトラーの認識・定義)を意味しないか?

  1941年11月でも、多くのドイツ人は、少なくともゲッベルスの宣伝を傾聴する多くのドイツ人は、
  「いまや世界戦争だ」、「世界戦争が始まっている」と認識していなかったのではないか?
   

 ヒトラーは?
  そのメルクマールは?
  ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅は、この文字通りの、現実の世界戦争との関連性を抜きには考えられない。


 Cf.通説的イメージ・定義(教科書的表現)

 栗原氏の場合(時期規定)・・・栗原1994(目次)・・・「大戦の勃発」
  「第二次世界大戦は、ドイツのポーランド一国に対する小戦争から発生したものである。」(629)
  他方で、「英仏との大戦争」。「イギリスとの大戦争」という表現・・・実際に即した表現。

   (この段階では、当然ながら、アメリカ参戦による世界戦争・グローバルな戦争は必然的とは想定していない。
    1939年9月から、これは世界戦争だと断定出来なかった、というのが本当ではないか。

    「1939年9月1日から世界戦争が始まる」というのは、その後の戦争の拡大を踏まえた結果論
   (その後1945年までの経過をすべて知ったうえでの)でしかないのではないか。)

  
 栗原2024(はじめに、目次)・・・ユダヤ人絶滅との関連

  「第二部 第四章 6「ユダヤ人絶滅政策の成立」、(5)ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策の成立」・・・
                             ・・・「成立」?
   1941年10月末以降、独ソ戦の戦局が悪化するにつれて、
   ユダヤ人絶滅を口にするようになったのも事実である(385)。

    ・・・??予言・脅迫の類…実際の絶滅政策への急進化とは別次元



欧米の多くの研究で転換点(ユダヤ人移送政策から絶滅政策への転換)の典拠とされるのは、

総統大本営ヒトラーのヒムラー、ハイドリヒへの食卓談話1941年10月25日

 このヒトラーの話をどう歴史に位置付けるか?
 通説的理解でいいのか?(永岑説:通説は談話の評価において誤り)

  ヘルベルト(ドイツ語原文2016, 91、邦訳182), カーショー(英語原文488、邦訳517)


  カーショーの488の注(144, 出典Monologe,106)と
  ヘルベルトの91の邦訳182の注4(出典ADAP)・・・私はADAPのこの箇所に当たれていない。
          邦訳中には注記でADAPの該当ページが出ている。
          ADAPが正確だとすれば、ドイツ語原文は、Hunderttausend(単数、10万)のはず。

  そして、ドイツ語原文の数(単数形のの十万)は、対米宣戦布告の国会演説(12月11日)でヒトラーが公然と語った
      戦死者数16万余12月1日までの数字)に照応する。
          つまり、複数のHunderttausendeにはならない。

      (「今度の戦争」の犠牲者数を、ヒムラーやハイドリヒに対し、実際の数倍に盛って語る必然性はない。)


 カーショーが依拠する 『ヒトラーのテーブルトーク』上、145, Monologe im Führerhauptquartier,44(S.106)


  邦訳(この日の談話の冒頭解説)の問題・・・ヒトラーは、この語りにおいては、「二つの世界戦争」などといっていない。
 「今度の戦争」が、世界戦争だといは言っていない。結果を知ったうえでの談話の理解、「解釈」としは、誤りではないか。

 ヒトラーの1939年1月30日の有名な国会演説において、「もしも再び世界戦争を引き起こしたら」と、「世界戦争」を明言している。
 ところが、この談話では、無限定の「戦争」を使い、「戦争が不可避のままならば(wenn der Krieg nicht vermeiden bleibt)と 話している。

 なぜ、この1941年10月25日の時点で、ヒトラーは、自分の国会演説と同じ言葉、「世界戦争」を使わないで、単なる「戦争」を使っているのか?
 1939年9月1日から1941年10月21日までのすべてのドイツ人戦士者を「数十万」と見積もって見せたのか?

 私の解釈では、「世界戦争」という言葉をつかいたくなかった。
 具体的証拠としては、たとえばイギリスとの妥協の可能性さえ、翌日―翌々日のフリッケ提督との談話の中で、語っているからである。

 しかし、この文脈で大切なことは戦死者の数ではなく、「戦争の責任はユダヤ人だ」ということにある
   (反ユダヤ主義者・自動車王フォードの主張と同じ)。

 そして、ドイツ人戦死者(ドイツ人の犠牲)に対して、ユダヤ人を湿地帯に追放する(in den Morast schicken)
 という恐怖
先走れば(wenn uns der Schrecken vorangeht), それはいいことだ(es ist gut)


(永岑解釈・・・まだ1939年9月1日の予言の段階には達していない、世界戦争にはなっていない、
  というのがヒトラーの認識。
  したがって、ユダヤ人絶滅という恐怖が先走っても、いいのだ、と。

  そもそも、1941年10月25日のヒムラー、ハイドリヒ招待は、ドイツおよびプロテクトラートからの
  一部ユダヤ人東方移送(ポーランドから切り取りドイツに併合地した地域の東端の都市リッツマンシュタット=ウッチに)に関して、
  そこで発生した問題、受け入れゲットー・ウッチゲットーの受け入れ不可能な状態をどう解決するかの相談、とみるのが妥当。

  当初予定の6万人――後、4万人に削減――の東方への追放を敢行するとすれば、
  射殺しかない、ということの確認とみるべきであろう。実際に、追放先を変更してリガとミンスクにしたが、射殺。
  そんなことは問題ない、世界大戦の200万の戦死者を考えれば、と。
  大々的なユダヤ人絶滅計画・政策の走りとは言えない、と解釈する。
  戦争勝利、戦後の大々的移送の構想は消失していないから)





ヘルベルト(Hunderttausend)とカーショー(Hunderttausende)の違い。

  実際にヒトラーが、1941年12月11日のl対米宣戦布告で語ったドイツ軍の戦死者・負傷者、行方不明者の数
  戦死者はこの時点では「数十万」ではない。12月1日まででも、16万余。
   (対するソ連戦時捕虜の統計、大包囲戦後の捕虜数1941年末で330万人、うち200万余は死亡。)

 カーショーの488(注144)の本文中引用最後の文章:
    The attempt to found a Jewish state wii be failure.(この部分がヘルベルトでは省略されている) 
    ユダヤ人国家を建設しようとする試みは、心配に終わるだろう。
    すなわち、シオニスト国家建設を否定した(Der Versuch, einenJudenstaat zu gründen, wird ein Fezhlschlag sein)のである。

    10月25日にヒトラーがヒムラーとハイドリヒを前に語ったことを読めば、
     翌実のフリッケ提督との談話で語ったイギリスとの関係での妥協の可能性、その他、かなり楽観的な雰囲気が浮かび上がる。


  永岑解釈:
    「ユダヤ人を絶滅」の始動、とは、言えない。
    ヒトラーの話を素直に読めば、ユダヤ人を泥沢地に追放しもいいではないか、
    そのような追放で、ユダヤ人が根絶されるという恐怖が先走っても構わない、と。
    つまりは、1939年1月30日国会演説と同じような脅迫・強がり

    私はむしろ、ヒトラーの頭には、1941年10月末でもまだ、プリピャチ湿地帯=白ロシア泥沢地への追放、という
    「戦後計画」の一つが強く残っていた、とみるべきである。
    この計画は、勝利を確信(予定)した言説

    1941年10月は、まさに、モスクワ攻撃を開始して一か月近く、全身全霊でモスクワ攻略に打ち込み、
    ソ連首都を壊滅・占領するという計画、したがって、それに成功して、
    ソ連にプリピャチ地帯を提供させる、と構想していた、とみるのが妥当と。(永岑説)










ヒトラーと第三帝国の国家・軍の「今度の戦争」の認識は?

 1941年10月末は、まだ、世界大戦・世界戦争、とは考えていない
     独ソ戦で、モスクワ攻撃最中であり、それに全力を投入している段階であり、
     世界戦争になど、まだなっていない、と。 

  1941年10月末から11月、さらに12月のヘウムノ、ベウゼッツ、そしてアウシュビッツ基幹収容所
     でのガス殺施設の建設・執行
     
     ・・・10月末開始の臨時的措置(9月中旬「総統のご希望」の執行-10月25日確認)に対応、
       大々的な絶滅政策への転換ではない(永岑説)。


  1941年11月末には、総督府のユダヤ人問題が深刻化
     ・・・処理をめぐる紛糾、当初予定外の総督府次官も招聘(1941年12月16日閣議フランク総督発言につながる)。


 私の見地は、ヒトラー第三帝国最高指導部の認識は、
  1941年12月(対米宣戦布告)から「ユダヤ的世界勢力によって余儀なく世界戦争に突入した、と。
  (ヒトラーの1941年12月11日の対米宣戦布告の国会演説のエッセンス)。

  この世界戦争の責任は、ユダヤ人にあり、と。
  (ヒトラーの41年12月12日大管区指導者等、ナチ党最高幹部への演説・・・ゲッベルス日記


  ヒトラー・ナチ国家指導部(そしてその背後にあるナチ党員大衆、国民大衆)にとっては、
  1941年12月は、
    電撃的に占領した西ヨーロッパ諸国・イギリスを中心とする敵との戦争からの圧力
              (ドイツ・オーストリア、プロテクトラートのユダヤ人の排出圧力=強制移住圧力)、
    独ソ戦の泥沼化の重圧
               (ソ連ユダヤ人の絶滅への圧力)、
    それに加えたアメリカとの戦争による重圧
               (世界戦争への突入と敗北の予感、総力戦と占領下治安秩序の厳しい相互関係)

  この三重の重圧のはけ口・いけにえとしてのユダヤ人排除、さらには絶滅へ。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本書に至る経過

直接的契機:この間、 
 史料集『ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人の迫害と殺戮 1933〜1945』全16巻
 2008年から史料集、刊行開始。.
   (史料集のタイトルが、ホロコ―ストではないことに注意。
    ホロコ―ストの多義性・多様な使われ方の問題)


 しかし、この史料集の完結が迫るなる中で、
 最初の単著、すなわち、
 拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942』同文舘、1994
   (主として依拠したのは、Europa unterm Hakenkreuz, 特にSowjetunionの巻
 の確認。



 上記全16巻、最新の包括的史料集に基づきながら、
  1994〜2000年代初頭に、自分がかかわった論争についても、今どうなっているのか、吟味の必要。
 
 欧米における沢山の実証的理論的著作、そしてさまざまの論争を反映した本格的史料集。


問題関心の焦点:
 私が直接かかわった論争点
 アウシュヴィッツ否定論(日本への登場、マルコポーロ事件)との対決・根底的批判の必要性、
 歴史科学的契機は、特に、拙著(1994)に対する栗原優氏『歴史学研究』書評、そこでの批判的コメント、

ヒトラー、第三帝国、ホロコーストをめぐる多くの論争点のなかで、
 ひとつの論争点は、極右作家アーヴィングの投げかけた問題(ヒトラー直筆署名の「ユダヤ人絶滅命令文書はない」)、

 ヒトラーの大々的な「ユダヤ人絶滅命令」の有無、あるとすれば、その形態や時期


 栗原氏書評(拙著の丁寧な紹介、いろいろの問題点の指摘、その書評の最後に、

   永岑のヒトラー絶滅命令1941年12月説は、欧米の「研究史」を無視したものだ、と。

 (1990年代半ばまでの研究史は、
   実際には、後述のモムゼンの2010年総括が示すように、欧米における1990年代までの研究史の限界を示すもの、
  ある意味で私の12月説は、それまでになかった。)

  (ヴァンゼー記念館の史料紹介パンフレット:佐藤健生監訳も、1941年7月説)

  (ソ連崩壊後の史料と思考枠組みの自由化で、「ヒトラー絶滅命令」の時期をめぐる論争、再活性化
   2006年以降のヴァンゼー会議記念館の展示史料・解説(2015J)は、1941年11月説、
  従って、現在の通説的理解は、1941年11月説、

  ヘルベルト2014は「遅くとも12月初めまでには」475と。
  私の1941年12月11日、12日説=世界大戦突入説とは違う)


 栗原氏は、それまでの欧米の研究史を踏まえ、1941年7月末・8月初旬説

  (その「証拠」とされるのは、
  ①1941年7月31日のハイドリヒへの命令=委託、
    および、一連のアイヒマンの戦後証言
  ②8月から始まるソ連でのユダヤ人老若男女無差別、大量射殺。


 それへの私なりの応答、すなわち、

 『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001
    41年7月末から8月初旬のユダヤ人大量殺戮(射殺)は、
    ヒトラーの大々的ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅命令によるものではなく、
    バルバロッサ作戦のもとで、独ソ戦の闘いの熾烈化の現象、との立場。
 
  立論・実証の根拠
    半年間の在外研究の機会を得て、ドイツ連邦文書館(コブレンツ)の文書の調査、
    特にヒムラー幕僚部文書、およびライヒ(帝国・国家)保安本部文書、
    そのなかでも事件通報ソ連・国家警察重要事件通報を研究。

 他方で、栗原説の根拠となる諸史料の検証作業、
 さらに、ゲルラッハ等、ソ連崩壊後の史料状況を踏まえた研究を踏まえ、
 『ホロコ―ストの力学――独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』青木書店、2003


 以上の研究の
 実証・筋道の再確認・再検証の必要性。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



課題意識・問題意識の限定

 ①最新の史料集(最新の研究の到達点を反映)によって、論争の焦点、すなわち、
  「絶滅命令」発令時期に関連する諸問題が、どのように検証できるか、

 ②独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法・ダイナミズムが私のホロコ―スト理解の重点だが、
  第一世界大戦・その終結の在り方、ワイマール期の問題、ナチ政権初期からポーランド侵略、
  西方ヨーロッパに対する電撃戦勝利段階も、ホロコ―ストに至る前提条件として叙述にの中に組み入れて
  概説を試みる。

 ③横浜市立大学叢書(教養書としての位置づけ)
  その一応のとりまとめが今回の拙著(2010年頃叢書申請、その横浜市立大学新叢書の出版期限2020頃と記憶)。


実証・叙述の絞り込みの課題意識
 アウシュヴィッツばかりがホロコ―ストにおいて特筆されることへの歴史的批判の必要性――
 独ソ戦とホロコーストの関連性のあらためての強調。
 私の1941年12月画期説の再検証。 
 (ボリュームの点でも、今回の拙著の範囲に限定する必要があった。)

 そうした意味で、極めて限定的な問題意識


 ただ、方法意識としては、
 第二の拙著『独ソ戦とホロコースト』2001、『ホロコースの力学――独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』2003で、
 明示してきたところであり、その方法意識に、変更はない。

 最新の研究状況を踏まえて精選された史料群に当たり、
 多様な史料を検討・・・ホロコ―ストの展開に関する私の実証と突き合わせる。


方法意識

 * 意図主義と機能主義の対抗的見地ではなく、意図と機能の総体的立体的な、
 闘いの全体状況(戦争の拡大過程・敗退過程)によるダイナミックな絡み合いと展開
 
において――それを弁証法として端的に表現――、
 ユダヤ人迫害と絶滅政策の展開を位置づけ理解するという方法意識である

 (研究経歴の最初の段階からの方法的問題意識:
  第三帝国における国家と経済をどうみるか、ヒトラーの思想構造への着眼永岑1982


 * 意図主義への批判、そのターゲット:「ユダヤ人絶滅政策」なるものを、ヒトラー・ナチスの二つの目標の一つとする見方への批判
   古くはイエッケル、最近ではカーショーなどにもみられる

   この点では、栗原氏と同じ「機能主義」の戦列、「機能主義の勝利」(栗原氏)に同意、
   しかし、機能主義の実際の適用の在り方には、私との間に重要な差異がある。

 繰り返しになるが、
   独ソ戦の現場への着眼、親衛隊・警察の行動(「敵との戦い」の実相・RFSS権限統一命令権)の直視
   (この点、拙著『独ソ戦とホロコースト』の主たる史料・着眼点)



12月説への重要な契機

 *四か年計画の総括文書の紹介(1942年春作成の秘密文書
   ・・・この時点でも
「世界戦争」概念は第一次世界大戦のことが暗黙の前提的認識
   ・・・現在進行中の戦争が世界戦争との認識は官僚層のなかでもまだ一般化していない、
      世界戦争に突入したと思っていても、表現は回避)

 *1941年12月の歴史的画期性=独ソ戦の決定的転換期の認識
       ・・・1991年6月、日ソ歴史学シンポ参加時の体験=
          モスクワ攻撃を阻止した記念・「巨大な鉄塔」
          歴史認識への楔・・・
          「ドイツ国防軍はよくもここまで」。ソ連は「よくぞここから」

 *ARD「ヴァンゼー会議」(1980年代終わりから90年代にヴィデオで何度も視聴)
  (芝健介氏、佐藤健生氏の解説、佐藤氏からは映画作成の監督からもらった80ページほどの史料・)





本書(2022年3月)以後の実証的展開

 今回検討していただく拙著(2022年3月刊)の投稿後、

  第16巻、アウシュヴィッツ関連資料集の検討(論文Pdf)、
  第15巻、ハンガリーに関する史料集の検討(論文Pdf)、
さらに、ドイツ・西欧からの移送・絶滅政策に関する史料集について検討(2022・08・31投稿の論文Pdf)、


 まさに、以上の仕事を終わった段階で刊行されたのが、
 栗原優『ヒトラーと第二次世界大戦』ミネルヴァ書房、2023年3月刊




最近の検討課題:

 私が栗原氏の批判を踏まえて、検証し確認してきた1941年12月説が、
 果たして、栗原氏(2023)の新著ではどのように位置づけられているのか、
 栗原氏のゲーリング命令(1941年7月31日)を基にした7月末・8月初旬説は、今回の著書でどうなったのか、

 これを、この間、調べてきた。

 結論から言えば、まさに、私の12月説、それに至る過程のユダヤ人迫害の歴史――段階的過激化・急進化――が、
 私の実証と重なるかたちで、

 さらに、世界大戦に関する豊富な史料・研究を踏まえて、素晴らしい面白い叙述に満ちていることを確認できた。

 ただし、7月末8月初旬段階での「絶滅命令」も維持している。
 絶滅命令2段階説となっている。 (ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅を意味するのならば、モムゼン2010ンが示すように、研究史無視)


 この点だけに一言コメントしておけば、1941年7月31日のゲーリング命令を、
 ヒトラーのユダヤ人「絶滅命令」(第一段階)と解釈しているとすれば
 --叙述からはそう読み取れるが――、問題であろう。

 命令系統の違い、命令の筋道の違い(ソ連ユダヤ人なのかヨーロッパ・ユダヤ人なのか)が、無視されていることになる。 

繰り返しになるが、
 モムゼン(2010)219も指摘抜粋メモ)するように、
  ゲーリングがハイドリヒに7月31日に与えた全権が、長い間
  ヒトラーの「ヨーロッパ・ユダヤ人問題最終解決」命令と混同されてきた、のである。





 ソ連奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)準備段階のユダヤ人移送政策停止(1941年3月)と7月31日の文書は、つながる。

 しかし、8月初旬からの老若男女への無差別射殺・殺戮への過激化とは、筋道が異なる。

 後者は、バルバロッサ作戦遂行に関わるもの、バルバロッサ作戦(発動・侵攻正当化6月22日演説における急激な占領地拡大、

 対するソ連の反撃・抵抗(赤軍の大量の戦死者・捕虜、パルチザンの活動、アインザッツグルッペへの出動・鎮圧命令殲滅作戦)の拡大と関連する。

すなわち、
 ヒトラーのこの時点でのいわゆる「大々的絶滅命令」によるのではなく、独ソ戦現場(広大な軍後方地域における死闘)の実態。
 つまり、バルバロッサ作戦の進展と抵抗反撃の高まりの結果、である。

 

 しかし、前者(1941年7月31日ゲーリング命令は、戦後のユダヤ人政策のあくまでも準備作業(関係中央諸官庁調整の命令である。

 それは、7月末までの「戦勝気分」、短期電撃的ソ連征服に成功する情勢認識のもとでの、
 (バルバロッサ作戦のため41年3月停止した)ユダヤ人の「移住Auswanderungあるいは疎開Evakuierung」などで
  全体的総体的な解決のため、関係中央諸官庁と準備する会議を開け


 1941年8月から、軍事情勢、国際情勢(大西洋憲章の発表、米英協力の高まり)が変わり始める。
     数か月でのソ連征服は不可能なこと(バルバロッサ作戦の短期的実現の不可能性)がはっきりしてくる。

  

 これを受けて、ゲッベルスをはじめとする大管区指導者(ドイツ、オーストリアなど)から、
 自分の管轄下のユダヤ人の「移住」、「疎開」、追放要求が高まって来る。

 8月後半から9月前半、プロテクトラートをはじめ、ドイツ占領下民政統治の各地で不穏状態
 (チェコ人たちの意識:「世界戦争終わり」との比較抵抗鎮圧・ユダヤ人排出要因の累積
  戦争の頂点に立つヒトラーは、この段階ではキエフ攻防戦の戦果に満足・楽観

 ハイドリヒをプロテクトラート総督代理に任命
   (1941年9月24, ヒトラーが苛烈な処置の執行者として命じる、
   10月2日総統指令による最大限の苛烈さによる治安確立S.108を行う、
   今は、DolchstossS.113-114の状況だ、とハイドリヒの危機意識
 

 8月後半から9月前半にかけて、ヒトラーの方針に変化・・・「総統のご希望」
  プロテクトラートなど占領地からの抵抗・不穏な動向をうけて。


 来年春までの臨時措置」としての部分的な「移住」・「疎開」の実施へ。

 10月15日から、ユダヤ人のウッチ(リッツマンシュタット)への移送・・・受け入れ不可能な難問群の露呈


 10月25日 ヒトラーとヒムラー、ハイドリヒの会談(ヘルベルトの10月―11月説の重要根拠) 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 
問題提起:世界大戦はいつ始まるのか? ヒトラーの意志・認識においては、いつなのかなど?
   
   「第一次世界大戦」の概念は、第二次世界大戦の勃発(突入)を認識・確認したときからのはずだが、それはいつか?
   第一次世界大戦も、勃発当初は、「世界大戦」、「総力戦」、「長期戦」という認識・定義はなかったはずでは?
    (「3か月もすれば終わる」といった空気が一般的だったのでは?)
   
 私は、「第二次世界大戦」という規定を、ヒトラーの「ユダヤ人絶滅命令」との関連で定義しようとしていくとき、
1941年12月が第二次世界大戦の開始、突入と規定しなければならないと常々考え、そのように拙著・拙稿論文で何度も書いてきた。

 最新論文でも、その問題意識からして、ヘルベルトの主張(1941年10月〜11月説)、
 その小野寺氏による翻訳の該当箇所)に、異論を持ったことを明記

 1941年10月〜11月には、世界戦争への予感・危惧などが次第に大きくなってきたとはいえ、
 「世界戦争だ」という認識・定義はなかったとみている。 


 栗原氏(2023)は、カーショー説批判の文脈で、11月を批判
 その点では、いまや、私と同じ、ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策の画期=1941年12月説に接近。

 しかし、上記最新著作でも、通説的表現で、1939年9月1日を第二次世界大戦の勃発、と何度も、各所で表現している。

 ただし、本文の叙述においては、独ポ戦⇒独仏戦⇒独英戦か独ソ戦か⇒独ソ戦の展開⇒「世界大戦の拡大」と、
 戦争の諸段階ごとに区別しながら、最後に、「世界大戦の拡大」という叙述となっている。

  (私は、「世界大戦の拡大」という表現に違和感を持つ)

 この把握だと、独ポ戦から世界大戦がはじまっている、という判定と見受けられるが、どうであろうか?

 しかし、私の見地では、このように連続的に見ていいのか、
 1939年9月1日の最初から、世界大戦勃発、世界大戦の第一段階=独ポ戦とみていいのか、ということが疑問。
 
 このような見方は、1939年9月1日に世界大戦がはじまった、という判定=通常の見方と同じになる。

 それは、結果論(結果を最後まですべて知ったうえでの後世の視点から立論)ではないか、と。


  「独ポ戦⇒独仏戦⇒独英戦か独ソ戦か⇒独ソ戦の展開⇒世界大戦の拡大」という図式は、
  歴史を直線的に結果から見ているという問題はありはしないか?


 世界戦争を経験したドイツとヨーロッパ諸国の人びとにとって、世界戦争の悲惨さは十分に認識済みであり、
 軽々に「世界戦争だ」とはいわないのではないか?

 まさに、ヒトラー自身が1939年9月段階では、「世界戦争に突入した」とは言わなかったのではないか?
 突入したのは、短期的・電撃的な局地的戦争だ、と。



 現在のロシア・ウクライナ戦争は、「世界戦争」か?
  ウクライナをNATO諸国が支援し、ロシアを北朝鮮が支援するという段階にまでなっているが、「世界戦争」とは言えないのではないか?

 世界戦争に突入してしまうとすれば、いかなる要因が重なったときか?
 核戦争?
 
 
   
 ヒトラーの生存圏獲得=東方大帝国建設の基本的な前提は、第一次大戦敗戦の反省により、
 米英と戦わない、海外植民地争奪に乗り出さない、ボリシェヴィキ政権・ソ連打倒ならば、それが可能だ、と見たことにある。