File No.1更新日:2004/09/10

ジョゼフ・スティグリッツ(ノーベル賞経済学者)

『マクロ経済学(2)』東洋経済新報社、2001年の批判的検討

 

古典派経済学・労働価値説体系との比較

―労働価値説体系の復活・復権と「地球人類」経済へのその今日的適用のために―

 

人類の労働と地球の相互関係・・・W.ペティ「労働は素材的富の父であり、土地はその母である」[1]

土地・地球なくして人類なし。

 地球史の一産物としての人類

 その人類の歴史的な経済生活(生産様式)の比較的新しい形態としての市場経済・近代資本主義(15世紀以降)

 

p.3競争市場・・・・需要曲線と供給曲線の交点[2]で価格決定[3]・・

・ミクロ経済学。

 

 常識的規定:あるいは、競争的市場社会のすべてを貫く規定。

しかし、その説明能力の限界は、明確化されていない。

すなわち、「交点」(需給の一致点)が、膨大な実に多様な商品種類のそれぞれの単純で同質的な価値・価格の量的・比率関係になっていること(資本主義先進国の現実を見れば分かるように、全国一律の通貨と通過単位、それによる商品の価格表現=価値表現)、したがって、全商品に共通する質を前提とする的関係であること、その質が何かということが明確にされていない。

 

諸商品に共通する質、同じ質のものであってはじめて、その量の多少が意味を持ち、比較でき、量的差、比率などを判定できる。論理的数学的思考の基本であろう。量の多少・比率が意味を持つのは、質が同じものの相互間においてである[4]

全商品世界に共通する全商品が、交換において具体的に示すもので、その実、商品自身の内部に持っている共通の質とは何か?

 

アダム・スミスデイヴィッド・リカード以来[5]労働価値説の根本的古典的意味(そして地球規模の商品経済、最高度に発展した市場経済の現在にも貫徹する基本法則の意味)はここにある。商品の価値(その貨幣表現としての価格)の実体は、労働(性格には抽象的人間労働)だ、というのである。

諸商品が等置関係におかれるとき(Aの商品XBの商品Y量、・・・)、その質的等置関係は抽象的人間労働が対象化されているということにある。そうした共通の質=実体を持つものとして(商品交換者が自分たちの商品を交換において等置することによってそうした共角質に還元する)交換されている、と。

諸商品においては相互に効用・使用価値が違う(したがって通約不可能だ)が、そうした違いのある諸商品が交換において等置されるのは(商品生産者たちが交換において自分たちの商品を統治するのは)、個々の商品がそうした共通実体を持つ限りにおいてだ、と。そういう共通質のものの量的比率で交換している、と。

 

スティグリッツもアダム・スミスを引用している。だが、一番肝心のところ(価値論)がすっぽり抜け落ちている。少なくとも、経済学説史における根本的に違う説を無視している[6]

 

自由競争、それによる需要と供給の一致した点=市場価格が何か、市場価格は何を表しているか、その実質、これこそ説明すべきだ、とスミス(商品の実質価値と名目価値について)、リカード(価値について)、マルクス(とくに、「効用=使用価値形成の労働」と「交換価値(価値)の実体としての抽象的人間労働」という労働の二重性の解明)はいう。

 

 

経済学[7]のコンセンサス 

シュティグリッツは、「経済学者の意見が一致している重要な点」として、希少性Scarcity, インセンティヴIncentives、取引と貿易Trades価格Prices4つがあるとする。

 

p.4「希少性」とは、「あるものをもっと多く食べるには、他の何かをあきらめなければならない。すなわち、フリーランチではない(There is no free lunch)。希少性は人間社会の基本的事実である」と。(それは、購入する手段に限界があるということである。各人は購入する手段を何によって手に入れているか?労働者ならば、賃金である。賃金は何によって決まるか?)

 

  しかし、ここでいう希少性は、二つの意味でありうる。一つは、自然科学的肉体的な側面であり、自分の持っている資源(貨幣)を前提とすると、多様な食料品のなかから自分が「食べる」ものの選択は、限定される、ということである。

市場社会・商品経済社会では、自分の持っている貨幣量で、多様は商品群から自らの要求・欲求を満足させる品物・商品を選択するしかない。(商品貨幣経済ではない社会では、すなわち商品生産が行われず、原始共同体や村落共同体といった古い社会、あるいは孤島のロビンソン・クルーソーでは、商品交換はなく、人間は、自分たちの労働(時間)を必要物資の生産に伝統的慣習的生産力に合わせて振り向け、生活を維持する。そこでは、労働力・労働時間の限定性(希少性)が問題となる。

じつは、商品貨幣経済においても、シュテーグリッツのいう「希少性」の根拠として、商品を購入するための貨幣を取得する労働時間の限定性(希少性)がある。

貨幣をどこから取得するか?

現代になればなるほど明らかなように、すなわち社会の中で労働力商品が一般化する度合いに応じて、労働を提供して、「その[8]」代価として貨幣を得ていることは社会的常識となる。貨幣とは「一定時間の労働」の対価(その証票)である。日本銀行券等の世界の中央銀行券は、紙への印刷に過ぎないが、その紙が、そうした「一定時間の対象化された労働」という実体を表現するものとして、その対応関係の安定性において、通用力・信用を得る。日本全国、サラリーマン5千万人以上は、一定時間の「労働の対価」として獲得する銀行券を、まさにそのような実体を表現する通用力のかぎりで信用する。

全経済生活(商品貨幣経済)は、そこに実質的実体的根拠を置いている。日本社会、現代世界の圧倒的多数の人日はまさにこれを常識として理解するのではないか。

すべての商品、すべて交換されるものは、人間労働の産物である。一定の労働時間の対象化されたものとして商品の価値(商品の価格の実体)がある。

新古典派以降の近代経済学はまさに、この点を直視しない。

 

以上のコメントは、古典派経済学(スミス→リカード→マルクス)を今日的な世界的市場経済・世界的資本主義の発展を踏まえて、生き返らせることが、世界の経済問題を見ていくうえで、諸問題の解決のために、必要であろう、との立場からのものである。

 

商品の価格(その実体としての価値)の内実は、人間の労働時間であるということ、個々の商品に投入・対象化された労働時間は、諸商品の交換そのものを通じて、質的に同じものに還元され量的にだけちがうもの(量的に限定性・希少性のあるもの)となるのであり、そうしたものとして(社会的必要労働時間として、社会的交換関係を通じて実証されるものとして)、評価される。

 

p.4インセンティブ」・・・「適切なインセンティブを提供することは、基本的な経済問題である。現代の市場経済においては、利潤企業に個人が望むものを生産するようにインセンティヴを与え、賃金は個人に働くインセンティブをもたらす。所有権もまた人々に、投資や貯蓄[9]だけ出なく、彼らの資産を最善の方法で用いようという、重要なインセンティブを与える」と。

 

  企業(資本)の目的が利潤であること、その目的の達成のためには市場で商品を販売しなければならず、したがって社会(諸個人)が必要とし望むものを生産し販売する必要があること、まさに資本主義的市場経済の原理を「インセンティブ」と表現している。

 ところで、「個人に働くインセンティヴをもたらす」ものは、「賃金」であろうか? 現代社会、資本主義社会において、諸個人に「働くインセンティヴ」をもたらすのは、賃金だろうか? 賃金は、生活のためである。「働くインセンティヴ」をあたえるのは、先ず第一には、圧倒的に多くの人々にとっては、生きるためには「働く」しか道がないからである。なぜか。生きていくための手段、生きていくための手段としての商品を入手するための貨幣や財産を所有していないからである。日々増大する社会の圧倒的多数の人間が、生きるための生活物資を生産する手段を所有していないからである。生きるために圧倒的多数の人々が持っているのは労働能力(労働力)しかないからである。

 

 資本主義の生産様式は、まさに農村から農民をさまざまの経路・方法で追放し、生産手段無所有の人々を大量に作り出すことと結びついていた。いわゆる資本の原始的蓄積(過程)は、農民の都市流出=都市集中=雇用労働者化の過程であった。それは、戦後日本の半世紀にも急激に進展したことであった。

 下記の政府の労働力統計によれば、1956年に就業者4,171万人のうち、雇用者は1,913万人、すなわち半分以下であった。これに対して40年後の1996年には、就業者6486万人のうち、雇用者が5,322万に、すなわち8割以上(82%)に上っている。農業・農民、零細な自営業・家族従業者が激減したこと、雇用者(生活手段を賃金(給料)に依存する人々)が絶対的にも比率的にも増えたことを示している。都会の近代化された社会、都市に集中する近代産業資本のもとでこそ豊かな生活の可能性があること、逆に豊かな経済文化生活は農村では不可能になること、がこの背景にあることである。農村から人々を追い出すプッシュ要因と都市が引き付けるプル要因との融合が、こうした就業構造を作り出し続けている。世界の多くの開発途上国ではまさに現在、そうした農村からの都市への人口移動(一時的な都市周辺部のスラム化を伴いつつ)・農民の労働者化が急速に進展している。

 日本の最近40年間の労働力調査結果(出所www.stat.go.jp/data/roudou/3.htm)

         1956  1966  1976 1986  1996 40年間

単位: 万人,

 

昭和31

 41年 

 51年 

 61年 

平成8年

増減数
平成8−昭和31

増減倍率
平成昭和31

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15歳以上人口

6,050

7,432

8,540

9,587

10,571

4,521

1.75

 労働力人口

4,268

4,891

5,378

6,020

6,711

2,443

1.57

  就業者

4,171

4,827

5,271

5,853

6,486

2,315

1.56

  完全失業者

98

65

108

167

225

127

2.30

 非労働力人口

1,776

2,537

3,139

3,513

3,852

2,076

2.17



 

 

 

 

 

 

 

 

 

雇用者
自営業主・家族従業者

1,913
2,258

2,994
1,831

3,712
1,551

4,379
1,458

5,322
1,147

3,409
-1,111

2.78
0.51

農林業
製造業
サービス業

1,437
805
507

1,006
1,178
682

601
1,345
876

450
1,444
1,205

330
1,445
1,598

-1,107
640
1,091

0.23
1.80
3.15

完全失業率
労働力人口比率

2.3
70.5

1.3
65.8

2.0
63.0

2.8
62.8

3.4
63.5

1.1
-7.0

1.48
0.90

(注)1.昭和31年、41年には沖縄県の数値が含まれていない。

2.完全失業率は、  労働力人口に占める完全失業者の割合=(完全失業者÷労働力人口)×100

  3.労働力人口比率は、15歳以上人口に占める労働力人口の割合=(労働力人口÷15歳以上人口)×100

 

 

 日本の15歳以上の就労可能な人口1571万人のうち、高齢者が3852万人いる。彼らもまた基本的にはサラリーマン(雇用者)の現役引退者であり、さらに失業者(225万人)も雇用を失っているものであり、社会的にいえば雇用者に属する(生産手段・財産を持つ人々ではないことは明確)。

 とすれば、日本社会は、実質的には「無階級社会」とでもいえそうな社会構成である。ほとんどすべての人が雇用者ないしその引退者である。階級として、資本(生産手段)を所有している人々の数は、日本全体の中で非常に少ない、といえよう。

 それでは、生産手段・資本を所有しているのは、誰か。それはまさに日本の場合、そして高度に資本主義が発展すればするほど世界のいたるところで、法人(企業)である。法人が生産手段の所有者であり、資本の所有者である。

 そして、その法人こそは、資本の所有の主体であり、多かれ少なかれ、また、その社会の民主主義的人間的成熟度に対応しつつではあるが、資本の論理によって導かれている。現代日本社会(広く世界の高度先進諸国)の「所有権」を問題にするのであれば、それは、まさに法人の所有権である、というべきなのではないか。その法人の行動原理が問題になろう。法人が資本としての基礎条件を満たしつつ、いかに人間的に合理的に経営を行うように成熟しているか、これが問題となる。

 法人企業における「資本の論理」と「人間と労働の論理」のせめぎあいは、日本的な「従業員主権」、「人本主義企業」においても、必然的なことであろう。

 いやむしろ、法人にどこまで人間的論理を貫徹する力量があるか、法人がいかに資本の論理を踏まえつつ人間的論理で運営されるか、これが現代社会の課題となっているのではなかろうか。

 

経済学者の意見が一致している第三の点、すなわち

p.4-5「取引と貿易」とは何を意味するか? スティグリッツによれば、

 

「自発的交換は利益を生み出す。個人間の取引であろうと、また国境を越えた貿易であろうと、すべての取引者は自発的交換から利益を売ることができる。取引または貿易によって、取引者は比較優位を持つ経済活動に特化することができる」と。

 

 自発的交換=自由の一つの重要な要素。ただし、人間生活において、経済上の交換は、自由の一側面でしかない。

 

 経済における財・サービスの「自発的交換」は、いかなる利益を生み出すのか?

 商品A(牛乳1リットル)と商品B(パン1)との交換は、商品A(牛乳)の所有者には、自分の持っていない別の効用のある商品B(パン)を手に入れる。商品B(パン)の所有者は、自分の持っていない別の効用のある商品A(牛乳)を手に入れる。ABも、自分が持っていない効用・有用さ・有益なものを手に入れる。お互いに利益である。これが商品交換の一つの側面である。効用・使用価値は別々であること、違う効用を持ったもの(商品)が交換される、商品が違う効用を持っているからこそお互いの利益(効用・使用価値の面で)となり、交換が成り立つ。

 だが、他方、その交換において、商品Aが仮に150円、商品B200円とする。お互いが利益を売るためには、等価交換でなければならないだろう。それとも、価値(価格)はちがうけれども、お互い持っていないものの交換で、その点でお互いに「利益」となるから交換しようということになるだろうか? 150円のものと一万円のものを交換するか? 150円のものと1億円のものとを交換するか? そうではないであろう。

しかるべき量的比率(交換比率)が必要となろう。例えば、商品Aの牛乳2リットル=300円と商品Bのパン1斤半=300円が等価であり、そうした等価において交換されるとき、両者はお互いに損をしない。

 等価交換=同じ価値の交換=同じ価格のものの交換、これが商品交換の原則であろう。

 つまり、商品交換においては、使用価値の面での利益と交換価値(価格・価値の貨幣表現)の面での利益とが成立しなければならない。使用価値の交換においては、質はまったく別である。交換価値においては、質が同じで量だけが問題になる(等価であることがお互いの利益であり、交換の基本原則となる)

 

 スティグリッツの表現は、この二つの関係をあいまいにしている。価格の実体=価値=その価値の実体をどう規定するか、ここがポイントになろう。

 

スティグリッツが、「経済学者の意見が一致している第4の点」とは、価格Pricesだという。

価格とは何か?

本当に経済学者の間で一致しているのか?

 

「競争的市場では、価格は需要・供給の法則で決まる。需要曲線や供給曲線がシフトすると均衡価格は変化する。同様の原理は、労働市場や資本市場にもあてはまる。労働の価格は賃金であり、資本の価格は利子率である。」

 

 競争がその競争の自由さ、完全さの度合いにおいて、需要と供給をそれぞれに左右すること、そしてこの均衡点で価格が決まること、これを否定するものはいない。

 問題は、その均衡点が、市場にある無数の消費のそれぞれに違うのはなぜかである。牛乳の均衡点は、1リットル150円である。牛肉の均衡点は、100グラム400円である、一戸建て130平米の家は5000万円であるなどなど。なぜ、諸商品は、物価=均衡点が違うのか?

 スティグリッツの生産物市場に関する叙述(p.21)によれば、「経済には無数の生産物市場があり、ここの財ごとに一つの市場が存在している・・・個々の財に関しては、その需要曲線と供給曲線との交点で均衡価格が与えられる」と。

 それでは、無数にある財の個々の均衡価格が、たとえば上記のように牛乳、鉛筆、パンなどなど無数の商品ごとに、ある均衡価格となっているが、その均衡価格が、あるものは100円、あるものは1円、あるものは100万円と量的に違いがあるのはなぜか? 

 

 均衡は、そうした無数の商品の個別的な均衡価格が、違う現実を説明できない。

 

 まさに、ここが、アダム・スミス、リカード、マルクスと続く労働価値説(=価値の実体は商品に投じられた社会的に必要な人間の労働量・労働時間)の出番である。

 

それぞれの財の均衡点(均衡価格)は、その時々のそれぞれの財に投じられた労働量(時間で計量する、それぞれの財の生産に社会的に必要な労働時間)の違いによる、価値の違い(価格の違いで表現される)は、それぞれの財に支出され対象化された労働量の違いである、と。

 

 労働市場でも、均衡点(賃金・給与の支払額)が無限の違いを持っているわけではない。

 大都会と地方都市、農村では時給、週休、月給などの違いがある。

 また、職階・職能によって、給料に一定の差がある。

 だが、政府統計が示すように、産業、職種、階層などによってある均衡点の序列がある。

 これらは何によって規定されるのか?何によって決まるのか?

 問題は、そこにある。

 マルクスは、「労働の価格」とされるものは、じつは、労働能力(労働力)の価値(その貨幣表現)であるとした。ある能力をもつ労働者(精神的肉体的に働くもの)が「生活し家族を養い教育するための費用」=「生活物資の総額」=「その生活物資に投じられ対象化された労働量・労働時間」が、労働力の価値(その貨幣表現としての価格)であり、普通の意識においては、この労働力の価格が、「労働の価格」と観念されて、支払われているのだというのである[10]

 

スティグリッツも、一般の観念と同じく、賃金=「労働の価格」である。

マルクスは、賃金=労働力の価格である、という。 

 

何が違うか?

 

付加価値の構成を考えるとき、この問題が決定的に重要になる。

 

下記の労働時間に対応する平成13年をとろう。付加価値構成は、どのようになていたか。(法人企業統計:H13)

法人企業統計(付表5:付加価値の構成)によれば、

 

人件費75.1+支払利息・割引料4.5+動産・不動産賃借料9.6+租税公課3.8+営業純益7.0%=付加価値100% となっている。

 

 付加価値の規定と構成から明らかなように、付加価値とはいっさいの有用な使用価値(効用)を捨象した価値である。

 

われわれが見たように、付加価値は、当該年度・人々の働き(肉体的精神的労働)によって新しく付け加えられた価値である。人間が労働によって、新しい価値を付け加える。

 その全体の付加価値のうち、人件費として働く人々・労働する人々が取得するのは、75%である。

(年によって、72%のこともあれば、73%のこともある、景気の変動、売上高の実績=付加価値の実現度が関係してくる、相対的に固定的な人件費部分に対して、それ以外の剰余価値の部分が、不景気の時には減少する・・・現象的には労働分配率が上がる=比率だとそうなる、これに対して好景気=市場の状況がよくて売上げ好調だと、その部分が増える・・・労働分配率は下がる[11])

 

 いずれにしろ、付加価値のすべてを働いた人が取得するのではない。

 人が、100時間働き、100という付加価値を付け加えた時、彼が労働の対価として受け取るのは、75時間分であり、価値的に75である。

 

 労働した時間の価格として賃金を考えているが、それならば、100すべてのはず。なぜ、その一部である75が、「労働の価格」なのか?

 

 この根本的問題に答えるためにマルクスは古典派経済学の検討を重ね、労働と労働力の違いを発見した[12]。彼によれば、売ったのは労働力であり、75時間分、75は労働力の価値に相当する、と。

 

日本経済を担うのは、働く人々、その総体である。

日本経済の毎年の売上高を生産するのは、働く人々の総体である。

日本経済の全活動を担うのは、働く人々の総体である。

 

その精神的肉体的労働(機械化・技術化・情報化の進んだ現代では、圧倒的に頭脳労働・精神労働のウエイトが、全労働の質と時間で圧倒的部分を示る)の時間は、毎月一人当たり平均、下記のとおりである。

総労働人口をかければ、日本の勤労する人々の総労働時間が算出できる。

 

まさに、日本で仕事をする人のこの毎日、毎月、毎年の総労働時間が、毎日、毎月、毎年の付加価値(v+m)、新しい価値を生み出す。働く人々はその新しい価値のなかのv部分は給与として受け取り、消費し、生命と生活を維持する。

 

日本の最近の毎年の法人企業統計によれば、日本の法人企業の毎年の総付加価値は、貨幣額で表現するとだいたい250兆円-260兆円程度である。これを毎年の総労働時間でわれば、日本の一労働時間あたりの貨幣表現(少なくとも法人企業のそれ)が、出てくることになる。

 

毎月勤労統計調査 平成13年分結果確報(厚生労働省統計)

 

賃  金(月間)

現金給与総額

きまって支
給する給与

所定内給与

所定外給与

特別に支払
われた給与

351,335

(-1.2)

281,882

(-0.8)

263,882

(-0.5)

18,000

(-4.2)

69,453

(-3.0)

労働時間   
   
    (月間)
  
    (年間)

総実労働時間

所定内労働時間

所定外労働時間

出 勤 日 数

所定外労働時間
(
製 造 業)

153.0時間

(-0.8)

143.6時間

(-0.7)

9.4時間

(-4.4)

19.9

<-0.1>

12.6時間

(-8.5)

1,836時間
[1,848
時間]

1,723時間
[1,714
時間]

113時間
[134
時間]

     

151時間
[169
時間]

雇  用
労働異動(月間)

常用労働者[13]

一般労働者

パートタイム
労 働 者

入 職 率

離 職 率

43,378千人

(-0.2)

34,281千人

(-1.1)

9,097千人

( 3.6)

2.06

<0.03>

2.15

<0.06>

  1)( )内は前年比(%)、< >内は前年差(ポイント又は日)、[ ]内は事業所規模30人以上である。
   2)総実労働時間、所定内労働時間の年換算値については、各月間平均値を12倍し、小数点以下第1位を四捨五入したものである。所定外労働時間については、総実労働時間の年換算値から所定内労働時間の年換算値を引いて算出している。

 

法人企業に働く人々は総体として、彼ら全体の総労働時間で、付加価値を生産する。100()の付加価値を作り出す。全従業員の仕事の成果が、付加価値の総額(100)である。

そのうち、働く人々は、人件費として75(%)を受け取る。

残りの労働時間(25)は、「人件費以外の付加価値」のための労働時間ということになる。すなわち、H13でいえば、それらは、つぎのようになっている。

 

支払利息・割引料4.5+動産・不動産賃借料9.6+租税公課3.8+営業純益7.0

 

@法人企業に働く全従業員は、金融機関から金を借りて(負債)、企業の資本とする以上、利子・割引料も自分たちの仕事(労働時間)で、支払わなければならない。(支払利息・割引料)

A土地・不動産を借りれば、地代・賃借料の支払いのためにも一定の労働時間を割かなければならない。(不動産等賃借料)

B法人企業の存在する社会の維持のために公共的負担(租税公課)を支払わなければならないが、それも自分たちの仕事(労働時間)で、まかなわなければならない。(租税公課)

Cさらに、株主には一定の配当金を支払わなければならない。この配当金も支払えるだけは労働しなければならない。さらに、役員は、そうしたすべての経営を毎期、成功のうちに遂行した報酬として特別の賞与を受け取る(役員報酬)。これも、全従業員が働いた労働時間の中からまかなわれる。(営業純益) 

 

 

 以上の説明を踏まえて、また付加価値統計をよく考えて、さて、学生諸君は、賃金(給料)を「労働(全労働時間)の価格」と考えるか、「労働力の価格」と考えるか?

 現実の競争的市場社会では、「労働の価格」と「労働力の価格」が渾然となっているので、じっくり考えてみる必要がある。。

 

 

 人件費以外の付加価値部分(それを生産する労働時間)を、全従業員が付け加える価値だ(付加価値生産のための労働時間)、それが生産手段の所有者、すなわち、土地所有者や資本の所有者、資本機能を果たした役員に配分されるのだ、と言う見方を、どうみるか?

 

 別の言い方をすれば、利子や割引料、地代・不動産賃借料、租税公課、配当金、役員報酬のすべてが、労働時間を基礎にしたものだ、とみるのか、そうした労働時間という実体のないものとみるのか? すなわち、諸価値の実体を労働と見るのか、そうでないのか?

 

 もし、利子・割引料、地代・不動産等賃借料、租税公課、配当金、役員報酬などの価値(貨幣額)の実体が、労働でないとすれば、他に何が実体としてあるのか? どこからそれらの実体は生まれてくるのか?

 すくなくとも、日本全国、5千数百万人の勤労する人々は、自分の「労働の対価」として受け取る賃金・給料から、租税公課を支払っている。勤労する人々の租税公課は、「労働の一定時間」と等しい。

 企業が支払う租税公課も、「支出された労働の一定時間分」と対応するのではないか? 

「一定時間の労働」(対象化されたもの)と言う実体こそが租税公課の内実ではないか。

 

スティグリッツ 「序章 3 基本的競争モデルにおける市場均衡」も、労働市場、生産物市場、資本市場の「市場均衡」を、それぞれの需要曲線と供給曲線の交点で説明する。

 しかし、経済原理として、一般的平均的に広範に妥当している「労働価格」は、それぞれの社会で、ある水準にある。上で見たように、「労働の価格」の水準はかなり固定的である。なぜか? 景気の浮沈はあるにもかかわらず、である。なぜか?

 労働の供給曲線も需要曲線も、それぞれの社会において、ある限界内にある。そのことの賃金決定における意味は、単なる需要・供給曲線では説明できない。需要・供給曲線が説明できる範囲は限定的である。

最低賃金制度は、単なる法律規定ではなく、現実的な根拠がある。労働時間と賃金との対応関係の現実的な根拠は何か。これが問われる。

 

 資本市場も、「資本の価格」とされる利子の均衡点が、同じ需要曲線と供給曲線の交点として説明される。すべて、競争条件下の需要供給関係で、きまるとする。

だが、資本の需要量が何で決まり、資本の供給量が何で決まるか、この決定的に重要な点は、二つの曲線それ自体からは何も明らかとはならない。

 

供給は、「家計による貯蓄の供給」から導き出されるという。しかし、現実の資本市場を見ればわかるが、企業自身も減価償却費、毎期の資本準備金、利益準備金その他、など「貯蓄」部分を資本市場に投じる。説明においてなぜ「家計」に限定するのか、叙述はない。そもそも、「家計」なる概念に勤労者家計も企業所有者家計も、一緒にすることに問題がある。

 

他方、需要は、「企業が新規投資をファイナンスするための資金需要から導き出される」という。だが、家計が住宅建設・消費目的のために「資金需要」を出す場合もある。

 

需要と供給を単純に「企業」と「家計」で二分するのは、おかしくはないか。もちろん一般理論は単純化が必要である。一般理論だから単純化しているのか? だが、この場合、一般理論としての単純化は、どこまで理論的抽象的に許されるか。

 

p.22「3.5 市場の相互関係」は、商品世界が全体として相互に影響しあうと言う点では、そのとおりだが、説明は単純化されてしまっている。

「例えば、物価水準上昇の影響は、労働市場に波及することになる」のは当然として、また、「財の価格が高くなると、家計の実質賃金(もう一時間多く働いた結果として家計が購入できるようになる財の増加分)は減少し、労働の供給量を減少させようとする」と。その傾向はあるとしても、むしろ実質賃金を少しでも増やそうと、労働時間をある程延長するファクターも働く。これは実証の問題であり、単純に「減少させる」とはいえない。

 

一般均衡の説明としては、諸種の価格変動の全体的な連関を通じて、ある均衡状態から別の均衡状態に移る、と理論的に想定することは、もちろん可能である。

 

 

スティグリッツは、「3.6 フロー循環」において、「経済を構成するさまざまな部門間の関係は、しばしばフロー循環circular flowによって図示される」とし、「図序-12 単純なフロー循環図」を示す。

 「単純」であるからといって、許される単純化には限度がある。(少なくとも初学者に対しては不親切)

 「図序―12」では、

   一つの流れ、「家計→財・サービスに対する支払い→企業」、

   その逆の流れ、「家計←賃金、レント、利潤←企業」が図示されている。

 

 正確に言うならば、この二つの流れは、簡明に説明するには、適切ではない(図に説明はつけているが)

 前者の流れに対するのは、「家計←財・サービスの購入←企業」である。これで売買が完結する。

 後者の流れに対するのは、「家計→「労働」、土地不動産等賃貸、資本→企業」である。これで、対応関係(「労働」の場合、売買関係、土地不動産の場合賃貸関係、資本の場合、投資・収益関係)が完結する。

 

 スティグリッツの図式では、家計と企業が対置されている。家計の中には、「労働」を販売する労働者と「企業の所有者」が一緒にされている。賃金と利潤が一緒にされている。賃金決定原理と利潤決定原理の根本的違いが、そこでは捨象されている。

 

 図序13には、「政府部門と海外部門が加わった場合のフロー循環」が示されている。ここの矢印には、上記のような不十分さがやはり見られる。

 

 次の点は基本的に重要であり、理論的に正確な定式化だと思われる。

すなわち、「資金のフロー循環図は、経済全体におけるさまざまな家計を描く上で有効な方法である。図を構成している多数の収支均等条件は、原理的に恒等式である。恒等式[14]とは常に成立する関係であり、それらは関連する概念の基本的な定義から導き出される。たとえば、家計の所得は、財を購入するための支出+貯蓄(企業への資金の流出額)に等しくならなければならない」と。

 

恒等式関係は、「原理的」なものであって、個別具体的な等式成立を意味するものではない。だから、後の方で、「なければならない」と表現せざるを得ない。

 

収支の恒等式関係を、常に一貫して適用しなければならない。「労働の支出」と「賃金」と関係でも適用しなければならない。

「労働」、「労働力」の違いの意味は、まさにここで決定的となる。その点こそが、冒頭に指摘した問題点(経済学者によってちがう点)である。それが付加価値の合理的説明を可能にするかどうか。これが問われる。

 

 

p.35 5.2 不完全情報」

 経済の基本的競争モデル(完全情報の前提)の適用の制約・・・基本的貫徹と個人的・個別的・一時的・地域的等の不完全情報imperfect information・・・法則と多様な偏差を持つ個別事象との相互関係に帰着する。

 

これは、市場経済・私的競争経済に本質的なことである。情報は隠される。

 

不完全情報→不完全競争

 

 

  

.56 「A.3 投資乗数の計算」で、乗数計算を行っている。しかし、その乗数の過程は、経済の現実を繁栄したものではなく、たんなる「仮定」である。

 すなわし、投資が10億ドル増えた場合を考え、また「限界消費性向は0.9であり、例えば、所得が10億ドル増加すると消費が9億ドル増加すると仮定している」。

 

 所得が10億ドル増加すると、そのうち商品が9億ドルになる、というのは、現実の契機の状態などをみなければ、成立しない。

 あくまでも、「仮定」にしかすぎない。

 しかも重大な問題がある。

 「最初の10億ドルの投資増加は支出を10億ドル増加させ」として、産出量すなわち所得を10億ドル増加させるか?

 

 10億ドルが投資だとする。算出を問題にしているので、財・サービスの生産に投じられたものとしよう。

         Ar

 われわれが、G-W ・・・P・・・W’-G’ で見たように、

         Pm

 

投資として支出される貨幣は、従業員(労働者)雇用のための支出(Ar=V)と、生産手段購入のための支出)Pm=c)に分かれる。そのcとvの比率は、それぞれの経済の発展段階の各産業分野の資本構成・技術構成(資本の有機的構成)によって規定される。

 たとえば、c:v=4:1 

 10億ドルの投資の場合、労働者を雇用するのに2億ドル、生産手段を購入するのに8億区ドルといった比率になる。

 その構成の資本が、生産過程ではどのように新しい付加価値を付け加えるか?

 日本の最近の付加価値構成は、人件費75(72パーセントから75%で一応75%としておこう)、利子・割引料、不動産等賃借料、租税公課、営業純益が合わせて25%ということになる。v:m=3:1なので、

 この生産過程から出てきた生産物は、

 c=8億ドル

 v=2億ドル

 m0.67億ドル

そうすると、この資本と技術の構成においては、W’G’=10.67億ドルということになる。 (厳密には、生産手段8億ドルのうち、原料など流動資本部分と機械など設備への投入=その単位期間における減価償却費部分に分けてみていく必要がある)

 

 つぎに、雇用者を新しく2億ドル分やとったということ、その給料の9割しか労働者(雇用者は使用せず、1割を貯蓄した、という過程はありうる。

だが、8億ドルに関しては、単純な売買である。貨幣8億ドルのと生産手段8億ドル分の財とが等価交換されたわけで、ここでの消費性向は、100%である。

 とすると、仮に消費性向が0.9としても、雇用への支出と生産手段への支出とでは影響が違ってくる。こうしたことが、乗数計算ではなんら考慮されていない。

 単なる仮定と、それにもとづく単なる数学の計算でしかない。経済の現実の動きを、現実の諸要素に分解して、波及効果をみていないのである。

 

 

第1部       完全雇用とマクロ経済学Full-employment Marcoeconomics

 

p.59「政府には、失業がなく物価が安定した経済を維持し、また経済成長を促進する環境を整備する責任がある、と広く国民に信じられている。こうした信念を反映した1946年完全雇用法(Full Employment Act of 1946)には、「あらゆる手段を用いて、最大限に雇用、生産、購買力を増進することは、連邦政府の継続すべき政策であり責任である」と。

 

 理想と現実の差

 多くの経済学者の間の議論、意見の違い

 

p.60 アメリカ経済に関する叙述・・・貿易赤字と財政赤字の関係について・・・「完全雇用モデルの応用」の検討・・・「貿易赤字は財政赤字の結果であることや、経済成長率の低下もまた財政赤字の結果であることなどが示される」と。

 日本は、90年代、周知のように、バブル後の長期構造不況で、莫大な財政赤字を抱えるようになった。だが、貿易は、構造的に黒字を続けている。

 したがって、アメリカの場合、「貿易赤字が財政赤字の結果」であるとしても、日本の場合は、「財政赤字にもかかわらず、貿易黒字が構造的に存在する」といえる。

 さて、どう説明するか?

 

第1章          マクロ経済活動の測定Macroeconomic Goals and Measures

1 マクロ経済の三つの病

   失業、インフレーション[15]、低成長率、

 

p.62「企業は労働と資本を家計から調達して財を生産する、また財は家計に販売され、家計は企業に労働や資本を提供して得た所得によってその財を購入する」というが、すでにコメントしたように、企業と家計との二分法は、現実の経済循環を考える場合、あまりにも単純化されすぎている。企業間取引が、現代社会の重要な売買関係をなし、企業は、「資本を家計から調達する」というのは一面的である。高度に資本主義企業システムが発達した現代社会において、社会の資本の圧倒的部分を掌握し運用しているのは企業そのもの(法人)であり、家計ではない。

 

p.64

2 経済成長

   競争力・・・高い生産性・・・生産性=労働時間あたり産出量[16]

2.1 産出量の測定

  産出量は、無数の商品の総括できる、「貨幣価値を合計」するという。「こうすれば、生産全体を要約する一つの数値を得ることができる。この数値を国内総生産gross demestic productまたはGDPと言う」と。

 

 そこで、商品の貨幣価値を表すものとしての価格を利用することについて、注で次のように説明する。

 「価格を用いるのは、比較の上で便利なためばかりではない。価格は、消費者たちがさまざまな財にどれだけの価値をおいているかのを反映している。たとえば、オレンジの価格がりんごの価格の2倍であるならば、オレンジは(限界的に)りんごの2倍の価値があることになる」と。

「限界的に」というのは、需要と供給を決める場合には意味を持つ。交点を設定する時には。

しかし、諸商品で違うその交点の相互の量的比率、これは「限界的」と言うことでは何も説明していない。

 

 オレンジ1個の価格=200円としよう。

 りんご1個の価格=100円ということである。

 

 オレンジ1個=りんご2個 これが等式である。

 

この等式を成立される同質のものは何か?

 この等式においては、価値が等しい。等式の両項が、同じ価値である。二つの商品に共通するものは何か? 二つの商品で量的にのみ違って、質が同じものは何か?

 アダム・スミス、リカード、マルクスの労働価値説は、二つの商品において、社会的に必要な人間の労働(投入された労働)が同質なものであり、その量は時間によって測られる、という。

 

 現在日本の時給は、単純労働でたとえば750円とか800円である(以下の計算では仮に750円としよう。この時給は、1時間あたりの労働者のそう労働量と等しくはない。日本の法人企業の付加価値統計によれば、給料(人件費)は、総労働時間の70%から75%である(以下の計算では仮に75%としよう)。

 単純労働1時間の価値xは、x ×75%=750円  X=1000

 「オレンジ5個=りんご10個」の生産に投じられた労働量=単純労働1時間=1000円ということになる。 

 オレンジ1個の生産に要した社会的に必要な労働時間=12分・・・オレンジ1個の価値=12分労働時間

 りんご1個の生産に要した社会的に必要な労働時間=6分・・・・りんご1個の価値=6分労働時間、

 

 社会的必要な人間労働というどちらの商品にも共通の質をもったものが、一定時間の量的比率で相互にはかられる、ということはこのようなことである。

 ロビンソン・クルーソーが、孤島で、オレンジの生産のための労働には、彼の労働時間の12分を使い、りんごの生産のためには6分を使う、といった関係である。りんごのほうが生産に要する(投じなければならない)労働時間がオレンジの半分で済む、ということである。

 普通の人間の意識では、それぞれの商品に投じる(支出する)貨幣額(コスト)だけが意識にのぼる。だが、その背後にあるのは、労働時間だということ、これが労働価値説であり、労働の一定量こそは商品価値(その貨幣表現としての価格)の実体である。

 

 すべての商品の価格(価値)は、同質的な人間労働のそのときどきの社会で必要な労働時間の量=同質的なものの量、だから合計することに意味がある。合計できる。

 

スティグリッツにおいても、生産性は労働時間と関係していた。したがって、労働時間が物価(商品価格)の規定要因であることは、ある面では認めている。それを首尾一貫したかたちで適用していないだけである。

 物価を労働時間にまで還元して計算すること、ここに労働価値説の固有の意義があると言っていいかもしれない。

 

 GDPの計算において、実質と名目を区別するが、現状では、物価水準で換算されている。その場合も、物価の水準をそれぞれの物価の労働生産性にまで還元して、全体を総合し、労働時間で比較することになれば、実質度は徹底するであろう。

 

  

2.2潜在GDP

2.3GDPの測定

 最終財アプローチfinal goods approach・・・最終的な利用者(最終的消費者=最終的な個人消費と生産的消費、政府、輸出マイナス輸入の差額)ごとに分類された財・サービスの貨幣価値の合計

 

最終財(中間財を控除したもの)の価値総額を計算[17]

@     C総個人消費consumption・・・民間消費

A     I建物を建てたり機械を工場に設置したりするために(生産的消費のため)企業が使用する財=総投資investment・・・民間投資

B     G政府が購入、消費する財・サービス・・・政府支出government spending

C     X輸出

D     M輸入

 

GDP=C+I+G+X-M

 

付加価値アプローチ

 付加価値=完成品(民間の個人消費と投資、および政府消費、製品輸出入)の販売から受け取った代金と中間財に支払った金額の差額

 

p.72「付加価値=企業の収入−中間財の費用[18]

 

p.73GDPは生産の各段階での付加価値を算出することによって測定される。すなわちGDPは、以下のとおりである。

 GDP=全企業の付加価値の合計

 

p.73 所得アプローチ 

 企業が得た収入が分配される項目を列挙してあらわすもの。

 

 企業の収入=賃金+利子支払い+中間財費用+間接税+利潤

 

企業の付加価値は、収入から中間財の費用を差し引いたもの

企業の付加価値=賃金+利子支払い+間接税(企業が支払う間接税)+利潤

 

総産出量=所得[19]の合計

 

 

 

p.74-75 GDP・・・・財・サービスの生産だけに焦点を当てて総括する数量(数値)

「キャピタル・ゲインは、資産価値の増加分であり、したがって生産(産出量)をあらわす数字とはまったく異なったものである。GDPを計測するための国民所得計算とは、財・サービスの生産だけに焦点を当てるものであり、キャピタル・ゲインを含んでいない

 

スティグリッツ『マクロ経済学第2版』p.75より作成

 

 

1−1

アメリカのGDP(1995)」最終財アプローチと所得アプローチ

       最終財アプローチ

       所得アプローチ

消費

49,234

雇用者所得

42,094

58.1

投資

10,675

利潤・賃貸料・利子等

24,425

33.7

政府支出

13,585

間接税

5,959

8.2

純輸出

-1,017

 

 

 

合計

72,478億ドル

合計

72,478億ドル

100.0

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1−2

 日本のGDP(1996年):最終財アプローチと所得アプローチ

       最終財アプローチ

       所得アプローチ

消費

303.0兆円

雇用者所得(賃金)

281.1兆円

55.9

投資

149.2兆円

利潤、賃貸料、利子等

186.3兆円

37.0

政府支出

48.5兆円

間接税

37.7兆円

7.5

純輸出

2.3兆円

統計上の不突合

マイナス2.1兆円

マイナス0.4

合計

503.0兆円

合計

503.0兆円

100

 

GDPのうち消費が、日本の場合約60%程度に対し、アメリカは、68%。日本の相対的過少消費が浮かび上がる。

GDPのうち投資が、日本の場合、約30%に対し、アメリカは14.7%。日本の相対的な過剰投資が浮かび上がる。

GDPのうち政府支出(消費)が、日本の場合の9.6%に対し、アメリカは18.7%と倍近いくらいの割合となっている。

GDPのうち、日本は純輸出=黒字で、アメリカは赤字となっている。これも、日本の相対的な過少消費と関連する現象であり、輸出で設ける企業の元への資本蓄積、日本企業の高度な資本蓄積・投資と関連するであろう。

 

日本の高投資=高蓄積に対応し、利潤、賃貸料、利子等のGDPにしめる割合が、アメリカより3.3%も高く、逆に雇用者の所得のGDPにしめる割合はは、アメリカより2.1%も低い。

日本とアメリカを比べると、日本の方がアメリカより資本主義(資本蓄積=生産拡大偏重・国民の消費抑圧)、というデータである[20]

 

「サービス残業」、「過労死」、青年の非常に多くのフリーター化(数百万人)、若者の所得不安定による家庭形成の難しさ、女性の社会進出に応じて必要な母子保護のための設備の不十分さ、少子化などは、企業の過剰な資本蓄積、過剰な勤務時間などを意味しないか?

就業者があまりにも長時間仕事をしすぎると、働き場所を少なくする、家庭生活の時間を犠牲にする、勤労者の人間の再生産を脅かす→まさに現在の日本で世界に類を見ないほど急速に進展している少子化は、企業中心社会=企業に市民的生活の豊かさが奪われていることの反映ではないか?)

 

 アメリカの場合、日本などより所得格差が大きく、拡大しているといわれる。

日本も所得格差が拡大しているといわれる。

いわゆるジニ係数[21]で議論されている。

GDPの中に占める消費割合、雇用者所得割合は、こうした所得格差を考慮した場合、アメリカと日本で何を意味するか?

 

 

 スティグリッツは、GDPが機械の減耗(減価償却部分)をまったく考慮に入れていないことに注意を促している。v+m=付加価値部分だけをGDPはあらわしている。

 このことは、じつは捨象された減価償却とともに、生産がよって立つ環境などの大前提の諸要因の捨象にもつながりかねない。

 

同『マクロ経済学第2版』p.78・・・「GDPは、経済成長にともなう環境の悪化は反映されない。またGDP統計は誤解を招く指標でもある。例えば、ある貧しい国が、所得を増加させるために森林の伐採を決定したとしよう。しかしこれらの森林は、何世紀もの時間を経て、生育したものである。森林伐採によって、その経済の産出量は計画上は上昇するが、その国の資産は減少する。こうした産出水準は、持続可能(サステナブル)なものではない。そこで国連が導入したのが、環境や天然資源への影響も考慮に入れたグリーンGDPと呼ばれる新しい国民経済計算体系[22]である。上の森林伐採を例にとるならば、グリーンGDPでは通常のGDPから天然資源の減少分が差し引かれることになる。政策担当者は、グリーンGDP指標によって、森林伐採により通常のGDPは増加するが、それは長続きしないことを知ることができる。森林伐採は、社会の富を増加させるのではなく、それを減少させているのである」と。

 

 

4 インフレーション 

 スティグリッツの定義は何か?

 「無声映画の全盛期であった1920年代には、映画の入場料は5セントだった。ハリウッド全盛期の1940年代後半には、価格は50セントに上昇した。1960年代後半には2ドルになり、現在は7ドルを越えている。こうした価格上昇は決して異常なことではなく、他のほとんどの財にも同様のことが起こっている。こうした複数の財の価格の全般的な上昇をインフレーションと言う。」

 

 ここで問題は何か? 価格は、商品(財・サービス)の価格である。商品の価値が高くなれば、価格は高くなる。

 「入場料」という抽象的な規準で価格を評価していいか?

 映画の作成費(原価)、上映会場の規模や機械設備、映画スターの生活費や出演料その他、入場料を算定する基礎となる諸物価があるであろう。

 したがって、そうした入場料を規定する諸物価があがる場合、当然の帰結として、入場料が上がることになる。ここでは、諸財の価値と価格(その価値の貨幣表現)との関係が並行して上がることになる。

 生活関連の財とサービス(消費者物価指数[23]consumer price index CPI・・・平均的な家計の所得の使い方をあらわす財のバスケット[24]、その変化)がしかるべき平衡性を持って上昇すれば、消費生活における問題はない。労働生産力の発達に伴い、それに応じた財とサービスの豊かさ(効用、使用価値の質と量)が増える。

 

4.1 インフレーションの測定

  財・サービスによってインフレ率がちがう。

 財・サービスによっては価格が下がるものもある。

 「過去20年間にわたって、果物や野菜の価格が220%、ガソリン価格が138%、医療費が383%上昇する一方で、コンピューターの価格は90%以上も下落している。経済学では全般的な価格水準の変化を見きわめるために、複数の財の価格上昇率の平均を計算する。」

 

p86「経済学では、財による重要度の違いを反映するに際して、直接的な方法を用いる。すなわち、消費者が昨年購入したのと同じ財の組み合わせ(バスケット)を今年購入したらいくらになるのか、を問うのである。

 

4.2       アメリカのインフレーション 

1.                            第一次世界大戦期、第二次世界大戦期、および1973-81年の三つの時期を除き、インフレ率は5%以下であり、20世紀を通して、物価は比較的安定。事実、20世紀初頭から1960年代初めまでの期間を取ると、インフレ率は平均すると約1%にすぎなかった。

2.                            物価下落の時期・・・第一次世界大戦語の不況期には物価は15%以上、下落。1930年代の大恐慌期には物価は30%以上下落した。・・・19世紀末には物価水準が下落をつづけるデフレーションdeflationが重大な関心事。

3.                            物価急上昇・・・高インフレ期・・・最近では、1970年代末から1980年代初めにかけて。1980年には13%以上も上昇。 

 

4.3       インフレーションの重要性 

 

p.89 インフレーションは、政府が歳入(収入)をはるかに上回る歳出(支出)をしたり、過大な信用供与をしたりという、経済政策の重大な失敗の帰結であることが多い。

 しかし、真の問題が背後にあるにもかかわらず、原因がインフレーションに帰されることもしばしばある。1973年の石油価格高騰は、世界中を連鎖的なインフレーション(インフレ・スパイラル)に巻き込んだ。アメリカの石油輸出国への支払いは急増し、ある意味では貧しくなった。・・・石油価格上昇による世界的不況のため、賃金の減少はいっそう大きくなった。こうしてアメリカの労働者の実質賃金は下落してしまった。

 

4.4       その他の物価指数 

消費者物価指数CPIは、平均的な消費者の支出を対象とするインフレーションの尺度。

 生産者物価指数PPI・・・生産者から販売されるさまざまな財の平均価格。

 

5. 主要な3変数間の関係

  政府が目指すマクロ経済政策の三つの主たる目的・・・低い失業率、低いインフレ率、高い経済成長

 

 三つの変数間の規則性

   不況→(生産削減・減少)→失業率上昇(レイオフ=一時解雇、増加)→インフレ率低下→経済成長停滞→競争的市場では、製品販売が困難化→価格引き上げはあまりない

 

 

6.フローとストック

 GDP、GNP,NDPなどの指標は、1年当たり(年率)の指標。・・・・期間あたりで測定される量をフローflowsという。

 

  フローと対比されるのは、ストックstockの統計。・・・ある一時点での指標。

 なかでも最も重要なのは、資本ストック。・・・それは経済の潜在生産能力の基礎となる建物・機械の総価値である[25]

 

 

 ある時点の失業者数は、ストック。

 

 

 

 

-------補論p.98-101--------- 

国民経済計算の諸項目の相互関係

 

付加価値概念と国民経済計算におけるその実際との相互関係が、明示的でない。

 

付加価値概念の使い分け問題(法人企業統計の場合と国民経済計算の場合の違い)。

 

p.74 では、「国内総生産=GDP=全企業の付加価値の合計」という。

 そして、GDP=国内総支出=GDE ・・・国内総支出には、「固定資本減耗」=固定資本からの生産物への価値移転・価値補填部分が含まれている。

 (GDPの場合は、「全企業の付加価値の合計」というが、この場合の付加価値はv+mだけではなく、cの部分もふくんでおり、企業の場合のc++mが国内総生産=国内総支出 となっている)

 

日本の法人企業統計における付加価値=人件費+利子・割引料+地代賃貸料+租税公課+営業純益、

 ・・・したがって、この場合の「付加価値」には、固定資本減耗分は含まれていない。

    それどころか、流動資本部分(原料等の価値)の移転部分も含まれていない。

 

企業の売上高にはそれら不変資本の価値移転部分cが含まれている。だから、国内総生産額(500-530兆円)よりも大きい額となる。すなわち、

2002年度売上高=1,326兆8,020億円=c+v+m

               =1,068兆9,329億円(c)+257兆8,691億円(v+m)

 

-------------------

 

 

 

第2章           完全雇用モデル

 

1 マクロ経済均衡・・・モデル

2 労働市場・・・労働市場の均衡・・・労働供給は「非弾力的」との仮定[26]

2.1       労働の需要と供給の変化

  技術進歩・投資増大における労働市場の変化(需要)は、熟練・科学技術労働の需要増加(実質賃金の増加傾向)、単純労働(未熟練労働)の需要減少(実質賃金の低下傾向)

  機械制大工業の技術進歩の意味合い

3 生産物市場

3.1       総供給

3.2       総需要と均衡産出量

4 資本市場

4.1       貯蓄・・・p。117「実証研究によると、貯蓄は利子率に対して恐れほど感応的ではなっく、貯蓄曲線はh簿垂直になる」

4.2       投資

個人や企業が株式や債券を購入する・・・この投資は、金融投資financial investments

  金融投資は、企業に機械や建物などの資本財を購入するための資金を提供する・・・

p.118「新しい機械や建物などの資本財[27]の購入は、資本財投資capital goods investments・・・マクロ経済学で言う投資とは、資本財投資のことであり、金融投資のことではない。」

 

投資の重要な決定要因・・・@将来予測(市場拡大可能性・収益拡大可能性)

             A利子率・・「多くの企業は投資をファイナンスするために資金を借り入れる。その資金をもちいるために銀行に支払わなければならない金額である資金費用は、利子率である。企業が支払う債務は貨幣額であらわされており、その購買力はインフレーションによって減少するため、問題となる資金費用は実質利子率である。 利子率が高くなると、利潤を生み出す投資プロジェクトはすくなくなる。すなわち、銀行に利子を支払った後に、投資家が冒したリスクを補償して余りある収益をもたらす投資プロジェクトはすくなくなる。

 たとえ企業が十分に現金を持っていても、利子率は重要である。利子率は、企業の持っているお金の機会費用、すなわち企業が投資を行わずに、政府か他の企業にそのお金を貸していたならば得られたはずの収入である。

 

利子率と将来の貨幣額の割り引き現在価値の関係

 

4.3       資本市場の均衡

 

5 一般均衡

6 基本的完全雇用モデルの拡張

6.1政府

6.2マネーサプライ

6.3貿易 

 

第3章           完全雇用モデルの応用

1 財政赤字

1.閉鎖経済

2.小国開放経済

3.大国開放経済

2 貿易赤字

  貿易赤字と財政赤字は、相対的に自立的なものである。日本の財政赤字は大きいが、貿易は黒字である。

 ところが、スティグリッツは、p.148 36 財政赤字と貿易赤字 の統計を示しつつ、「この二つは連動して動いているが、それは偶然ではない」とこともなげに書いている。「開放経済において増税をともなわない財政支出増加(あるいは財政支出削減をともなわない減税)は、貿易赤字と海外からの借り入れの増加をもたらす」というが、図36が示しているのは、財政赤字が急激に増えるときに貿易赤字が急速に減少している時期を示している。財政赤字と貿易赤字は、必ずしも並行的に連動するのではなく、乖離もするのである。

 

当然の相互連動(並行的連動)関係は、貿易赤字と財政赤字の相互の間にあるのではない。

だが、「海外からの借入れの増加が貿易赤字の増加を意味する」というのはそのとおりで、まさに直接的な対応関係にあるといえる。なぜか?

 

2.1 資本の流出入

 貿易のフローと資本の流出入(フロー)の連関(リンケージ)は、市場経済原理の必然的結果、市場経済原理そのものである。

アメリカ・・・貿易赤字=輸入(支払い)−輸出(受け取り)=資本()流入

 

「貿易赤字と海外からの資本流入は、同じものを二つの言い方であらわしたに過ぎない」のである。

「総輸入マイナス総輸出(=貿易赤字)は、資本()流入と等しくなければならない」と。これは、「基本的な恒等式」だと。

 

スティグリッツが書いてはいないが、逆に日本について言えば、

 貿易黒字=輸出−輸入=資本(純)流出 ということになる。

「貿易黒字と海外への資本流出は、同じものを二つの言い方であらわしたに過ぎない」と。

 

スティグリッツが最近の日本について、

「現在では、日本は輸入を上回る輸出を行っており、その差額は日本からの資本流出額に等しくなっている」と。

 

 

2.2       為替レート

 

p.151 「為替レートも価格、すなわち二つの通貨の相対価格である。すなわち、あらゆる価格と同様に、為替レートも需要・供給の法則により決定される」と。

 

 だが、なぜ、あるときは1ドル200円前後で、別の時期には1ドル100円前後なのか、ドイツと円との相対価格の日常的な変動をつらぬく大局的変化の背景にあることはなにか、ということは、相変わらずスティグリッツではあきらかにされない。その背後にある、日米の労働の生産力の変化にまで検討が進められない。

 

 その時々の為替レートの変化を規定する要因には、商品の輸出入(日米の商品価格・・・したがってその生産のための生産力格差など))、貿易差額→投資誘因→利潤率→配当率・利子率など多様な要因が関連してくるが、なぜ大局的にある範囲内にあり、また趨勢的に変化するのか、そのことの検討のためには、商品価格の基礎を成す労働とその生産力をこそ問題にしなければならない。

 

P160-161の日本語版クローズアップ「高齢化と日本の貿易収支の長期傾向」は、客観的データとその分析であり、興味深い。

 

p.167

 第三章の結論部分で、第三章の各部分ではまったく議論されてこなかったことが、したがって第三章のそれまでの叙述からは必然的な結論として出てこないことが、「本章で得られるマクロ経済学の7番目の意見の一致は経済成長に関するものである」という形で述べられる。内容的には、まさに労働の生産力の発達こそが経済成長だということを述べている。すなわち、

 

 「経済成長Growth

 生活水準の上昇は、生産性の上昇を必要とする。生産性の上昇は、研究開発(R&D)への支出、新しい技術・プラント・設備・インフラストラクチャーへの投資、そして労働力の熟練の向上を必要とする」と。

 

 ところが、その説明部分を読むと、経済成長の諸要因の説明とはなっていない。

ただし、だいぶあとの第13章では、章全体で「経済成長と生産性」を取り扱っている。そこでの内容こそが問題となる。

 

 

 

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第2部    失業とマクロ経済学

 

1 マクロ経済モデル:再論

 

p.176「失業の基本的な説明は、労働の供給曲線あるいは需要曲線のシフトに対して、賃金が十分速やかには調整されず、その結果、少なくともしばらくの間、また時にはかなり長期間にわたって、市場賃金における労働需要が労働供給より小さいということが起こりうる、ということである」と。

 

 失業の原因が、これでは「賃金が十分速やかに調整され」ないことに求められている。

資本の蓄積、過剰生産など、市場吸収力を超える生産過剰・資本過剰には、また、資本蓄積に伴って進展する生産力の発達、資本の有機的構成の高度化といった相対的過剰人口を創出する法則は、知らないか、無視されている。

 

p.177「株価のようにすばやく調整される価格がある一方で、ゆっくりとしか調整されない価格もある。賃金は、とりわけゆっくりとしか調整されない価格である。たとえばアメリカでは、労働組合はしばしば機関3年の賃金契約を結んでいる。また、労働組合が存在しない企業も、労働者に年初にその賃金水準を伝え、他にもっと低賃金の労働者を雇えたり、製品需要が減少したとしても、それに反応して賃金を速やかに引き下げるという行動をとることは躊躇する」と。

 

 ここでも、失業の原因が、賃金の硬直性に求められている。

 

 そして、その「賃金の硬直性」を規程するものとして、最低賃金法があるという。「実際には、たとえ雇用主(雇い主)が賃金を低下させることを望んだとしても、最低賃金法がそれを妨げている」と。

 それならば、「最低賃金法」をなくせば、失業はなくなるか、すくなくなるのか? そもそもなぜ「最低賃金法」が制定されたのか? その経済学的解明なしに、「最低賃金法」や「賃金の硬直性」に、失業の原因を求めるのは、説明すべきこと解明すべきことの放棄でしかない。

 

「過去15年間にわたってヨーロッパ諸国の失業率は非常に高水準であったが、その理由は部分的には賃金の硬直性にある、と一般には考えられている」と。

 それでは、スティグリッツはそうではないのか?

 「部分的には」というが、いかなる意味合いか?

 

「第2部で焦点が当てられるのは、1週間、1ヵ月、せいぜい数年間というタイム・スパンである短期である。短期においては、資本ストックの正味の増加は非常に小さく無視できると仮定される」と。

 

 1週間、1ヵ月ならば、労働供給量が大きく変化するはずがない。すでに前に見た日本の戦後統計を見ればわかるように、人間の生産、労働者、勤労者の生産(人口変動)は、こうした短期間で変化するものではない。労働者の数が1週間や1ヶ月で急に増えたり、急に減ったりするわけがない。

短期間を考察するならば、労働供給を一定と想定するのはむしろ自然である。

 

そうした短期間に失業が発生したり、雇用の増大が発生したりするとすれば、それは、労働の供給の側(すなわち生きた人間の就業可能人口・有優者人口など)の変動ではなく、商品市場の側、資本の側に原因があるだろう。だから、解明すべきは、短期的なそのときどきの商品市場の変化の要因であり、資本の側の要因であろう。ところが、その検討はない。

 

 それと関連して、ここでは、失業の重要な原因としての資本蓄積・生産力の高度化を、考察範囲から除外してしまっている。非常に生産力の発展が緩慢な時代を想定していることになろう。しかし、すでに19世紀以来、10年おきの経済循環などがあり、生産力上昇と資本蓄積のああまりの緩慢さは、現実無視ということになろう。

 

しかも、現実の経済の動きのなかでは、最近になればなるほど(資本主義的生産の高度化に伴い)、数ヵ年もあれば、資本蓄積は無視できるものではなく、またそれに伴う資本の有機的構成の変化(技術的発展と資本構成の変化)も無視できないだろう。

失業をもたらす重要な要因を捨象しておけば、非常に限られた「失業発生要因」しか見つからないことになる。

問題を解いたのではなく、問題を回避したということではないか。

 

 

2 労働市場

 

p.178 「なんらかの理由により、労働需要曲線が突然左方にシフトし、一定の賃金水準において需要される労働者の数が減少したとしよう」という。

 

この仮定そのものに問題はないか?

 

 労働需要の突然の減少は、市場の「突然」の変化の関数であり、生産する必要性・労働する必要性が減少したからではないのか?

 たとえば、これまで商品を購買していた地域が大災害で急激に需要を減らした場合、こうしたことはありうるだろう。その場合、市場自体が縮小したので、同じ規模の生産では過剰になる。だから、他の条件が同じなら、生産を減らし、労働を減らす、というのは必然となる。

 その労働の減らし方には、二つある。一つは普通のやり方で、一定数の労働者を解雇する。他方でありうるのは、ワークシェアリングで、全雇用労働者の労働時間を短縮し(それに応じて比率的に賃金を引き下げるが)、雇用自体は維持することである。

 「突発的」な原因ならば、それにふさわしい対応の仕方があろう。

 それにたいして構造的な原因ならば、それにふさわしい対応の仕方があろう。

 

P.179で、「労働需要減少に関連する社会的問題の大部分は、経済的な負担が一部の人たちに過重に集中してしまうことから生じる」というのは、非常に一時的突発的な原因による「労働需要減少」の場合には当てはまっても、「労働需要減少」一般には当てはまらないだろう。

 

p.180 「自発的失業」と「非自発的失業」の定義・説明もあいまいであり、「自発」「非自発」の意味合いが恣意的である。

 「労働需要が減少し、労働需要曲線が・・・左方へシフトしたとしよう」とし、その場合、「賃金が速やかに調整されるならば、新しい均衡において、賃金はw2/Pに下落し、雇用量はL2に減少する。この場合における雇用の減少は自発的失業である」と。

 

「速やか」だと「自発的」というのである。これは「自発」性(ヴォランタリー)に関するひどい定義ではないか?

 

「対照的に、労働需要曲線のシフト後も賃金がw1/Pにとどまるならば、雇用量はL3まで減少する。この賃金水準では、働きたい人は高水準L1にとどまっているが、彼らのすべてが職を得られるわけではない。これが非自発的失業であるinvoluntary unemployment」と。

 

 

p.181 「議論を単純にするために、以下の分析では、労働者1人当りの労働時間は一定であり、総労働時間への需要の減少は直接的に雇用減少に結びつくと仮定」している。

 

これは、資本主義的市場経済でごく普通の仮定である。

 しかし、なぜ、「労働時間は一定」でなければならないのか?

 社会の発展(生産力の発達)とともに、人類は労働時間を減らしてきたのではないか。まさに、社会の全体的発展は、労働時間短縮をもたらしてこそ、余暇と自由をそれだけ満喫でき、人間的なのではないか。

 生産力(科学技術の発達)は、より少ない労働時間でより豊かな生活を保障するのではないか?

 

2.1       失業と賃金の硬直性

 

客観的データ・事実

p.181 「実質賃金、すなわち物価水準の変化を調整済みの賃金データで見れば、経済状態が変化しても、賃金はきわめてわずかしか変化しないことがわかる。図4-3は、1982年から1994年のアメリカの実質賃金と失業率を描いたものである。この期間に、失業率は5.3%あkら9.7パーセントの間を変動しているが、実質賃金はほとんど一定である。大量の失業が存在していた大恐慌期においてさえ、実質賃金は下落しないか、きわめてわずかしか低下しなかった。」

 

 これは厳然たる事実である。

 この厳然たる事実から、理論を導き出さなければならない。

 この厳然たる事実が意味していることは、

第一に、実質賃金が硬直的だから失業率の変動が発生するのではない、ということである。なぜなら、実質賃金が問題の全期間を通じて、ほぼ安定的に推移し、大きな変化がないにもかかわらず、景気変動、景気循環は見られるからである。実質賃金が硬直的で変化しないという長期条件の中で、失業率には大きな循環的変動・変化がある、ということなのである。その循環性の変動は、従って、別の要因で説明しなければならない。

 

第二に、失業率は、循環的に変動があるにしても、この期間中を通じて、最低でも5.3%あったという厳然たる事実である。古典派経済学が予感し、マルクスが精緻に理論化したように(資本主義的蓄積の一般的法則:資本の有機的構成の高度化・資本の集積集中・相対的過剰人口=産業予備軍の累進的生産)、資本主義的市場経済においては、相対的過剰人口=産業予備軍が構造的に作り出され、維持され、つねに存在するのである。

 

ところが、スティグリッツは、「失業は、典型的には、賃金が調整されない時に労働の総需要曲線がシフトすることによって発生する」と、あたかも、失業の発生原因を「賃金が調整されない」ことにおいている。これは、経済的論理の説明というよりは、資本主義の弁護論に過ぎないのではないか。

 ただ、その批判を感じてか、「労働の総需要曲線のシフトは、典型的には、産出量が変化することによって発生する」と付け加えている。

 まさに、「産出量の変化」こそが、すなわち、自由な市場競争のなかでの生産キャパシティの変化と市場の大きさこそが、失業をとく鍵である。「賃金の硬直性」に失業の原因を求めたことをここで修正しているのである。

 

 

2.2   失業と総労働供給 

 

p.183 「ほとんどの失業は労働需要曲線の急激な左方シフトから生じる」と繰り返す。すなわち、失業の短期的な要因しか見ようとしない。

 

資本主義世界に恒常的なあるパーセント以上の失業率はどうなるのか、それを説明しない。

 

「短期間で総労働供給が大幅にシフトするような場合もある。たとえば、1990年代初頭のイスラエルでは、ロシアからのユダヤ人の大量移民により、労働力が10%以上増加した」と。

単純に移民が増え、労働力が絶対的に一時的に増大したのだから、それを受け入れる職場がないのは当然である。だから、こうした労働供給の急激な変化による失業の多さは、実質賃金の調整とは関係ない。ところが、この場合も、つぎのような言葉が挿入される。

「そのため短期においては、実質賃金が十分には速やかに調整されず、失業が増大した」と。

失業と賃金調整速度とだけを固定観念で結合しているといわなければならない。これは、経済学の理論ではないだろう。

 

まさに、実質賃金の調整が失業の多さと関係ないことは、スティグリッツが指摘するつぎの文章のとおりである。すなわち、

「さらに注目すべき事実は、その高失業率が5年間を経ずにもとの水準を回復したことである。ただし、その調整は、実質賃金の低下ではなく、(労働供給の増加を埋め合わせるような)労働需要曲線のシフトによって実現された部分が大きかった」と。

 

まさに、「労働需要曲線のシフト」は、先ほども見たように「産出量が変化すること」、すなわち生産の拡大によって、必然的に労働力需要が拡大するのである。

 

 

 

p.184 Close-Up「G7と雇用問題」

 ここでは1994年3月の先進7カ国蔵相会議(いわゆるG7)のデトロイト会議にコメントしている。「世界的な雇用問題とその対策を議論する史上最初の雇用サミットとなった」と。

「実際、1980年代から1990年代にかけてのヨーロッパは、高水準の失業に悩まされていた。アイルランドとスペインでは、5人に一人に近い割合が失業者という状態がつづいていた。オランダの公式失業統計はそれよりはましな水準だったが、身体障害者登録が実態をおおい隠していた。オランダでは、身体障害者給付が失業保険給付よりも手厚く、かつ審査にも厳しさを欠いていたので、失業者の多くが、失業保険給付ではなく身体障害者給付の申請をおこなっていたのである(実際の失業率は、5人に1人という水準だった)。」

 

p.185

「G7諸国は、問題の主要な要因が未熟練労働者と低熟練労働者にある点については同意を得た。すなわち、()熟練労働者の供給過剰を相殺するに十分なほどには、彼らにたいする需要曲線が右方へシフトしていなかった。むしろ未()熟練労働者の需要曲線が左方にシフトした国さえあったのである」と。

 

これは、科学技術の発展、その生産過程への投入という労働の生産力の発達の必然的結果ではないか? 資本主義の発達、それに伴う蓄積・集積集中と資本の有機的構成の高度化とは、未熟練労働者の大群を過剰にすることではないのか。

 

事実、スティグリッツも紹介するように、その原因として「最も広く受け入れられたのは、高失業の原因を技術進歩に帰するものである。すなわち、(コンピューターを使える能力のような)熟練度の高い労働者に対する需要が、そうした熟練を持たない労働者に対する需要に比して増加したことが高失業の原因である、とするものである」

 

この一般的な原因を無視するわけにはいかない。

ところが、スティグリッツは、あくまでも、賃金の硬直性、最低賃金などを高失業率の原因として持ち出し、強調する。すなわち、原因はあたかも働く人々にあるかのようである。

「アメリカでは未熟練労働の実質賃金は低下したが、ヨーロッパでは高水準に設定された最低賃金が熟練度の低い労働者の実質賃金が下落することを妨げた。むしろ1970年代から1990年代にかけて雇用者(従業員)の実質賃金は、アメリカではほとんど停滞していたのにたいして、ヨーロッパでは毎年約2%上昇を示していた」と。

 

スティグリッツはアメリカの実態を正当化する。 

アメリカの労働者の実質賃金の低下があるが、勤労者の実質賃金が低下し生活が多少劣悪化しても、多くの人が働ければいい、雇用創出があるからいいということのようである。すなわち、

「 1993年から1995年にかけて700万人以上の雇用創出がなされたアメリカとは対照的に、1990年代前半のヨーロッパでは民間部門の総雇用創出はほとんどゼロであった。ヨーロッパの雇用悪化に関して・・・広く受け入れられている見解の一つは、ヨーロッパの労働市場の硬直性にその原因を求めている。ヨーロッパでは、企業が労働者を解雇することは非常に困難であるが、そうした大きな雇用保障の裏面には、企業が雇用労働者数を増やすことに関して神経質になるという問題がある。すなわち、ヨーロッパでは、職を得られた人は少ないが、職を得た人は十分な幸福が得られるのである。ヨーロッパ流解決策は、未()熟練労働者間の不平等(高賃金か賃金ゼロか)と人的資源のきわめて深刻な過少利用という経済効率性の喪失をもたらしているようである」と。

 

オランダなどでは、先進的なワークシェアリングが見られる。スティグリッツの上記のような指摘は、すでに克服されつつあるのではないか。

 

 

 

.185

3 短期における生産物市場

.185

さて、いよいよスティグリッツも、失業の基本的な原因である「産出量の変化」の問題にとりかかる。

まず、「生産物市場から議論を始めよう」と。

 

p.186

そこで、どのような仮定でどのような図を提示するかというと、

まず、「完全雇用産出量」Ysの直線を垂直に描く(このやり方は他の図でも一貫して用いられている)。

4-5で説明で次のようにいう。「完全雇用産出量Ysは、垂直な総供給曲線によって決定される」と。

ちょっと待って欲しい。

総供給ということは、国民経済全体の完全雇用状態での総生産物のことであるはずだ。とすれば、その生産には、その時々の生産力水準に応じて、必ず一定の労働時間が対象化されているはずだ。すなわち、その労働時間の貨幣表現としての物価のある水準が明確にある一定の範囲にあるはずだ。

にもかかわらず、図とその説明では、物価水準は、あたかもゼロから上は際限なく高くまで、自由にありうるかのような「垂直の総供給曲線」とは、まったくの空想の産物でしかない。

 

いったいこうした直線は意味のあることなのか?「完全雇用状態」での産出量(Ys)は、いかなる物価水準(P)でも可能としているのだが、これは現実無視ではないか?

完全雇用水準の産出量は、物価水準がゼロなどでも、また限りなく高い物価水準でもありうるのか(描かれている垂直の実践はそのことを意味するのだが)仮定の非現実性が先ず問題とされなければならないだろう。

 

ところが、他方で、「労働市場の短期分析の場合と同様に、生産物市場の短期分析において、物価は固定されていると仮定する」のである。「すなわち短期においては、総需要曲線と総供給曲線が変動しても物価はほとんど変化しない」と。

この仮定ならば、「完全雇用産出量」Ysを固定しておいて、物価水準がゼロから非常に高い水準まで可能であるかのような実線を引くのは誤りである。

 

 

p.188 「需要が供給を上回る場合にはインフレーションが問題になる」と。

 物価上昇とインフレーションとは同じか?

 

 

3.1 生産能力を下回る経済

 

p.188 「完全雇用産出量以下の水準」にある経済で、雇用回復のためになにをしたらいいか、

 

p.189 「政策立案者が取るべき選択肢は明らかだ」という。本当か?

   .M.ケインズの言葉、「長期では、われわれはみな死んでしまう」という言葉を引用して、経済の自動調節に任せる長期的解決策は「失業者にはほとんど慰めにはならない」として、「総需要曲線を右方シフトさせる」政策を提言する。

 

それでは、スティグリッツが持ち出すのはなにか。ITバブル崩壊を受けて共和党ブッシュ政権が行ったことを正当化するようなことである。すなわち、国防支出増加を例としてあげるのである。これが、ノーベル経済学賞を取った経済学者が、一般的な経済学教科書で言うことか?ノーベル賞のそもそもの基金のもとはなんだったのか?何にたいする反省からノーベル賞は設定されたのか?

短期的効果は別として、国防支出増加が長期的にもたらすものは何なのか?

同じ政府支出でも、将来の人間的経済・人間的科学技術等の構築のための支出もありうるではないか。

  

 「(所与の物価水準における)消費、投資、政府支出、あるいは純輸出の需要を増加させるどのような出来事も、総需要曲線を右方シフトさせる」と、まず一般的な選択可能性を指摘する。ところが、次が問題である。

 「政府にとっての一つの選択肢は、政府支出の増加である。たとえば、国防支出を増加させれば(あらゆる物価水準で)総需要は増加し、総需要曲線は右方シフトする。このとき経済に過剰生産能力がある場合には、総需要曲線のシフトは産出量を増加させる」と。

 

 ナチス・ドイツも財政支出(軍備増強)で、「産出量を増加させ」、わずか数年で「完全雇用状態」をもたらし、景気を回復した。しかし、その後に来たものはなんだったのか?

 ブッシュ政権の国防支出増加の後に来たのは、大義なきイラク攻撃戦争ではなかったのか。大量破壊兵器はどこにあるか?いまだに見つかってはいないではないか。

 

3.3   市場の供給サイド

 

 けんとうにあたいするところなし。

 

4 資本市場との連関

 

p.192 労働市場と生産物市場・・・「この二つの市場は資本市場と重要な点で連関(リンケージ)している」と。そのとおりだが、まさに「どのように」こそが問題となる。

 

「資本市場において利子率は、金融政策monetary policyによって影響を受ける」と。それはどうであろう。だが、利子率は、政府や中央銀行等の金融政策によってどこまで影響を受け、どこまで自立的な運動法則に従うのか、それが問題ではないか。

 単に「影響を受ける」というのは、現象の説明でしかない。

つづけて、

「金融政策とは、マネーサプライ(貨幣供給量)と利子率のコントロールにたいして責任を負う政府機関である連邦準備制度理事会Federal Reserve Boardが実施する行為である」と。

 

マネーサプライは、どの程度まで政府機関の実施する行為によって左右されるのか?政策選択の可能性は、どの範囲か?

 

「連銀(Fed)は利子率を上下させ、生産物市場と労働市場に重要な影響を及ぼすことができる」というが、「上下させる」基準はなにか?「上下させる」ことと経済循環・現実の経済社会の必要性の変動とはどのようにかかわるのか。もっとも肝心のことが明確ではない。

 

p.192-193「連銀が、経済活動は停滞気味であると考えたときには、連銀は利子率低下を選択するかもしれない」という。

 日本では、構造的不況下で、日銀が非常に低い利子率に陥った時(それ以上に利子率を引き下げることなどできないような低利子率に陥った時)、相当期間、何もできなかったではないか。また、それ以上に利子率を引き下げることはできないではないか。

 

 利子率を引き下げても、余剰資金(余剰資本)を借りようとする企業が出現しないかぎり、超低利子率は続く。

他方、資本を需要する企業群の出現(市場の開拓・生産拡大・投資拡大)こそが、利子率引き上げ(上昇)を可能にする。

 

p.193

「他方、連銀がインフレ率の上昇を懸念していたならば、通常、連銀は利子率を引き上げる」という。それはどのとおりとして、「上げ幅」、および「どこからどこへ」を規定するものはなにか?

 現実に、貸付資本を借りる需要との相互関係であろう。

 貸付資本を借りる主体はどこにいるか?

 貸付資本を借りる主体は何のために資本を借りるか?どの程度の利子率ならば、借りるか。

 これは、貸付資本を借りる企業(産業資本)の利潤予測(利潤率)に関係する。利潤率(営業利益率)が低ければ、その低い範囲で支払いが可能な利子率の資金しか借りることができない。

 産業資本は、通常の理論的想定では、自分が稼ぎ出す利潤(営業利益)のなかから利子を支払うからである。

正常な企業の場合、かならず、利潤(=営業利益>利子(=支払利息・割引料)の関係がなければならない。それで初めて正常な営業純益(企業者利得Unternehmersgewinn)がえられる。

 

日本の法人企業統計を引用すれば、次のような関係が成り立っていなければならない。

営業純益=営業利益−支払利息・割引料

 

第5表 付加価値の構成

(単位:億円、%)

 

年 度

区 分

10

11

12

13

14

 

構成比

 

構成比

 

構成比

 

構成比

 

構成比

付加価値

2,704,127

100.0

2,675,469

100.0

2,766,294

100.0

2,568,917

100.0

2,578,691

100.0

 人件費

2,033,555

75.2

2,019,617

75.5

2,025,373

73.2

1,928,607

75.1

1,899,189

73.7

 支払利息・割引料

182,101

6.7

144,427

5.4

135,564

4.9

116,524

4.5

109,119

4.2

 動産・不動産賃借料

273,979

10.2

249,560

9.3

256,993

9.3

247,182

9.6

258,664

10.0

 租税公課

143,363

5.3

113,593

4.3

107,279

3.9

97,515

3.8

100,415

3.9

 営業純益

71,129

2.6

148,272

5.5

241,085

8.7

179,089

7.0

211,304

8.2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

付加価値率

19.6

19.4

19.3

19.2

19.4

労働生産性(万円)

712

694

702

695

712

 

(注)1

.付加価値=人件費+支払利息・割引料+動産・不動産賃借料+租税公課+営業純益

営業純益=営業利益−支払利息・割引料

.付加価値率=

 付加価値 

×100

売上高

.労働生産性=

 付加価値 

従業員数

 

 

つまり、利子率を規定する重要な要因は、企業の営業活動であり、その利潤率(営業利益率)である。

他方、利子率を規定するのは、どれだけの余剰資金が市場にあるかという供給側の条件である。日本における低利子率は、まさにその供給側においては安定した投資先を待ち望む(投資機会を捜し求める)膨大な過剰の資金余剰がある、ということである。

 

 

失業率と産出量との相互関係に関する実証分析から、「オークン(オーカン[28])の法則」なるものが提唱されている。

p.194「おおざっぱな経験則・・・・有名なのがオークンの法則・・・ジョンソン大統領の経済諮問委員会(CEA)委員長を務めたアーサー・オークンArthur Okunの名をとったもの・・・オークンは、パーセントで計測した産出量の増加幅は、同じくパーセントで計測した失業率の低下幅の約2倍であることを計算によって示した。すなわち、失業率が7%から6%へ低下すれば、産出量は2%増加するのである」と。

 

 

5 第二次世界大戦後のアメリカ経済に学ぶマクロ経済学的教訓

 

p.195「マクロ経済学上の幅広い分野にわたるコンセンサスは、部分的には、第二次世界大戦以後の数十年間における得がたい経験を通じて形成されたものである」という。

 

 その数十年間の経験で検証されたコンセンサスは、じっくり批判的に検討するに値する。

 

5.1 ケネディ政権下の減税 

 

p.195 スティグリッツは、ケネディ政権下の1963年以降の所得税減税が、総需要曲線を右方シフトさせ、物価水準をたかめることなく産出量を増加させたと評価している(当時の経済が過剰設備の状態で、生産的な労働者と機会が有給化していると考えていた政権の経済顧問の予測が正しかった)と。

p.196「失業率は1965年には4.4%に低下し、1960年代後半を通じて4%以下にとどまった。さらには1964年から1966年の実質GDPは、平均5.5%という驚異的な成長を示した」と。

 

 しかし、この当時はベトナム戦争拡大の時期だった。戦時特需が需要を拡大し、供給に刺激を与えた、といえるだろう。

 そしてその帰結は、アメリカ経済の大幅赤字、ニクソンショックに至る道である。とすれば、1960年代の成長は、一面的に成功物語で評価されてはならないだろう。

 

5.2       レーガン政権下の政策

 

p.196-197 「レーガンが政権に就いた1981年当時のアメリカのインフレ率は、すでに高率に達していたが、なお上昇傾向にあったため、インフレーションを止めなければならないという考えが広まっていた。このインフレーションにストップをかけたのは、連邦準備制度理事会議長であったポール・ボルカー(Paul Volker)の手腕であるとされている(しかし、その過程で、アメリカ経済は戦後最悪の景気後退に陥ることとなった)。連銀は、信用のアベイラビリティー(入手可能性)の引き締めと利子率の引き上げという強行手段をとった。ボルカーがインフレーションは収束したと考えた直前の利子率は20を記録した。・・・連銀の政策により、企業は投資を削減し、また家計は自動車や住宅などの購入を削減した。」

 

p.197 「興味深いことに、連銀が総需要抑制策をとっていたのにたいし、財政政策は経済を刺激しつづけていた。すなわちレーガン大統領は、減税額を相殺するだけの政府支出の削減を伴わずに、減税を行った。しかし、この利子率上昇の効果は、減税の効果を相殺する以上のものであり、・・・総需要曲線は左方シフトした。」

 

「そのため、アメリカは大きな景気後退に陥った。失業率は11%を超え、地域によっては20%に達した。しかし反面で、この景気後退のインフレ抑制効果は非常に大きく、1980年に速く13%に達していたインフレ率を、1983年にはわずかに3.2まで低下させた。」

 

5.3       1991年の景気後退

5.4       経済を刺激するための財政赤字削減

 1993-1994.クリントン経済回復政策

 「クリントンの1993年予算・・・総額5000億ドルの財政赤字削減のため、その後5年間にわたって焼く2500億ドルの政府支出削減と2500億ドルの増税を行うことを内容に含むもの。」

 

 財政削減と増税・・・・総需要減少効果

 他方、「借入れにたいする需要の減少(そして将来も借入れは減少するであろうという予想)は、利子率を低下させ、そして利子率の低下は投資を刺激した。差し引きした正味の効果は、総需要曲線を右方シフトさせることになった。その結果、経済は回復に向かい、事実、2年間に渡って500万人以上の雇用が創出された」と。

 

 ブッシュ政権の湾岸戦争とその後の景気後退

 これにたいする民需主導の経済回復

 冷戦解体後の1990年代の軍需予算削減などの可能性もカウントに入れる必要。

 

p.200-201

「このエピソードと、前述のレーガン政権初期に起こったエピソードにおいて、両方のケースで、利子率の効果は財政政策の効果を凌駕している。レーガン政権下のケースでは、財政政策が拡張的であったにもかかわらず、高利子率が景気後退をもたらした。一方クリントン政権下のケースでは、財政政策は緊縮的であったにもかかわらず、低利子率が経済を回復させた」と。

 

p.201資本主義的市場経済システムの必然的結果として、経済データが不確実であることに関する面白い現実認識

「政策立案者は、将来が見通せる水晶球を持っていないだけでなく、今日の経済がどのような状態にあるのか、また昨日の経済がどのお湯な状態にあったのかさえ、正確にはわからないのである。経済の強さを測定する信頼できるデータを作成するには時間がかかる。アメリカでもっとも迅速に作成されるのは雇用データであるが、毎月の雇用データは当月第2週に収集され、翌月第1週に発表される。他の重要な経済データは作成されるのに数週間かかる。そしてデータが最初に利用可能になった時点では、数字は暫定的なものであり、後日大きな修正がなされることもある。

 1991年に発表された産出量データには、景気の下落は非常に緩やかであることが示されていた。しかし4年以上を経た19951月に発表された改定データでは、1991年の景気下降は以前考えられていたよりもはるかに深刻なものであったことを示していた。・・・品質が良くかつ迅速に提供されるデータがありさえすれば、政策立案者がより良い情報に基づいた決定をよりりよいタイミングで行ううえで役に立つだろう」。

 

 

 

p.207

第5章       総需要Aggregate Demand

 

第4章「不完全雇用」では、「失業のおもな原因は、労働需要曲線がシフトしたにもかかわらずそれに相当するような実質賃金の下落を伴わないことにあるということを学んだ」という。繰り返し、批判的にコメントしたが、これは、一種のイデオロギーというべきである。きちんとした経済現象の説明とはいえない。

 

 「実質賃金」が下落すれば、失業は起きないかのごとくに、失業問題を「実質賃金」の問題にしている。恐るべき経済学。これがノーベル賞の経済学か?

 もちろん、他の重要な要因も見落としてはいない。

 すなわち、「また、労働需要曲線のシフトのおもな原因は総産出量の減少であることも学んだ」と。

 だが、なぜ、総産出量は「減少」するのか? そう産出量の拡大、膨張、ついで減少という景気循環を規定するものはなにか? 



[1]Die Arbeit ist sein Vater, wie William Petty sagt, und die Erde seine Mutter.“  『資本論』第1巻第1章第2「労働の二重性」より引用。

 

[2] その「交点」において、ミルク1リットル150円、食パン・パン一斤200円、ボールペン180円、皮靴一足15000円、といった風に多様な額の違い(交換比率の多様性)が出てくるのはなぜであろうか? しかも、神経衰弱的な微分計算的な変動ではなく、あるい一定時点・一定地域の一定期間において、諸物価相互間の関係がある安定性を持つのはなぜか。それら諸物価は、量的にのみ違い、質的に同じ貨幣単位で表示されるのはなぜか。解くべき問題はここにある。

 

需要と供給の交点としての商品の価格を前提に毎日それらの品物を購入している。だが、個々の商品の価格の違いは何を根拠にしているか? 需要と供給の一致ということなら、すべての商品に共通している。それでは量的な違い(商品価格の違い)を説明できない。

 

日々、物価が移り変わるが、ある一定期間の平均的な諸物価をとってみれば、ある安定した諸商品の価格が見られるのはなぜだろうか?

需要と供給の一致(交点)だけではは、まさに、この諸物価の違いを説明できない。ミクロ経済学批判が必要だが、それは別の機会に。

 

一言だけ言っておけば、アダム・スミス、リカード以来の労働価値説は、まさにその個々の商品の取得のために投じられた労働量(労働時間)こそが、それぞれに商品によって違うのだ、その違いが諸商品の交換比率となって現われるのだ、その労働量(労働時間)こそが物価の違い(価格の違い)にあらわされているのだ、というのである。

 

私の立場は、この労働価値説が科学的に正しいという見地である。

このような見地が、いまではほとんど皆無に近い、マイノリティ中のマイノリティ、異端中の異端になっていることは、スティグリッツを初めとする流行の支配的な経済学教科書を見るだけで明らかである。

 

「だが、それでも地球は動く」(ガリレオ、その先達者としてのコペルニクス、ブルーノなど)

「だが、それでも商品価値の実体は労働だ」(マルクス、その先達者としてのアダム・スミス、リカードなど)

 

また、「およそ科学的批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。私がかつて譲歩したことのない世論と称するものの先入見に対しては、あの偉大なフィレンツェ人の標語が、つねに変わることなく私のそれでもある。

 汝の道をゆけ、そして人にはその言うにまかせよ!(ダンテ『神曲』「浄火」篇、第五曲より)(『資本論』第一巻第一版、序文・末尾)と。

 

学生諸君は、経済学において、対立的理解があることを踏まえて、自分の頭で考え、比較検討・熟慮検討してみて欲しい。

何らかの結論だけを公式のように暗記しても何にもならないだろう。

 

[3] 「需要と供給の一致」・・・これは何を意味するか?

 「この定式に逃げ場を求める場合には(そしてそのような場合にはそれはじっさいに正しいのでもあるが)、この定式は、競争に左右されないでむしろ競争を規定する原則(競争を規制する限界、または限界を画する大きさ)を見出すための定式として役立つ。

 ことに、競争の実際や競争の諸現象やそこから発展する観念にとらわれている人々にとっては、競争のなかで現われる経済的諸関係の内的な関連の一つの観念―たとえこれもまた皮相なものだとはいえ―に到達するための定式として役立つのである。

 それは、競争に伴う諸変動からこの諸変動の限界に到達するための一方法である。」『資本論』第3巻第22章 利潤の分割、利子率、大月訳C453454

 

[4] アリストテレスは、価格の基礎に諸商品に「共通なもの」、「同等性」、「通約可能性」がなければならないことをすでに発見していた。しかし、それが何であるかを発見できなかった。その発見のためには、対等な商品生産者の膨大な交換関係が歴史的に成熟しなければならなかった。

 「同等なもの」を発見できなかったアリストテレスは、便宜的にプラグマティックに「実践上の要求」を持ち出して、問題を解決した。

 

「すべてのものは価格をもたなければならない。なぜなら、そうしてこそともかくも交換が行われ、したがって社会が存在するであろうからだ。

« Alles muß einen Preis haben; denn so wird immer Austausch sein und folglich Gesellschaft.

貨幣はものさしと同様に、実際にものを通約可能にし、ついでそれらを互いに等置する。なぜなら、交換なしには社会はありえず、しかし、同等性なしには交換はありえず、通約性なしには同等性はありえないからである。」

Das Geld macht, einem Maße gleich, in der Tat die Dinge kommensurabel (symmetra), um sie dann einander gleichzusetzen. Denn es gibt keine Gesellschaft ohne Austausch, der Austausch aber kann nicht sein ohne Gleichheit und die Gleichheit nicht ohne Kommensurabilität.“

  彼は、貨幣で測られるこれらのいろいろなものが、まったく通約できない大きさであることを見落としはしなかった。彼の求めたものは、交換価値としての諸商品の統一性であるが、古代ギリシャ人である彼は、これを見出すことができなかった。

Er verhehlt sich nicht, daß diese verschiedenen vom Gelde gemessenen Dinge durchaus inkommensurable Größen sind. Was er sucht, ist die Einheit der Waren als Tauschwerte, die er als antiker Grieche nicht finden konnte.

 

彼は、それ自体では通約できないものを、実践的な要求にとって必要なかぎりで貨幣によって通約できるものとすることによって、この困難からまぬかれた。

Er hilft sich aus der Verlegenheit, indem er das an und für sich inkommensurable durch das Geld kommensurabel werden läßt, soweit es für das praktische Bedürfnis nötig ist.

 

「たしかに、このようにさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、けれども実践上の要求におうじてそれが行われるのである」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第5巻第8章

« Es ist zwar in Wahrheit unmölich, daß so verschiedenartige Dinge kommensurabel seien, aber für das praktische Bedürfnis geschieht dies.“ (Aristoteles, „Ethica Nicomachea“, L. V, C. 8, edit. Bekkeri, Oxonii 1837.) [Marx: Zur Kritik der politischen Ökonomie, S. 272. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3169 (vgl. MEW Bd. 13, S. 0)]

 

[5] もう少し厳密に言えば、マルクスが使用価値と価値を明確に分析するまでに、労働価値説の発見と洗練の過程として「1世紀半以上」かかった。

 Cf.商品分析の歴史:『経済学批判』第一章、A

 

[6] 654ページ、あるいは、「16章 経済体制」で、スティグリッツは、マルクスの経済学についてもある程度ふれている。そこで改めて言及することにするが、一応、叙述の順序に従って、みていこう。

 また貨幣論でも、当然ながら、スティグリッツとマルクスの違いがでてくる。

 

 スティグリッツは、普通の支配的通俗的な意識にしたがって、マルクスが(それよりだいぶあとに死んだエンゲルスも)知らなかった20世紀のソ連型社会主義をマルクスと同一視しているが、その点も問題となる。

 

 後進資本主義国において世界戦争の渦中から誕生したソ連型社会主義、その中央集権的(非民主主義的)官僚統制的な経済システムは、21世紀初頭までの歴史的経験からすれば、二つの世界大戦とその後の冷戦によって規定され制約された戦時統制経済の一種と考えるのが妥当だろう。生産手段の国有化は、官僚の権力権限を肥大化させ、勤労民衆の自由で創造的な能力の開花を遅らせるものであり、労働の生産力の総合的発展を実現できな物となった。

 それだけに、ユートピアと現実とは、ちがっていたということであろう。

 ソ連東欧の内部崩壊の諸原因の解明は、20世紀世界史の全体構造のなかでおこなう必要がある。

 

 一言しておけば、スティグリッツは、マルクスの「労働価値説は、イギリスの経済学社デイヴィッド・リカードによって以前から展開されていた」と、学説史上の系譜を述べている。このようにして、マルクスを低める見方も広く流布している。

しかし、問題なのは、リカードとマルクスの違いである。『経済学批判』、『資本論』、『剰余価値学説史』など何十年にもわたる研究で、マルクスはリカードの達成したことと不十分なことをより分け、みずからの労働価値説を完成した。

 

リカードとマルクスの違いは何か?

 「労働価値説にもとづくならば、どのような財の価値もそれをつくりだした労働者に関連している。すなわち、より多くの労働が必要な財の価値はより高く評価され、少ない労働ですむ財は低く評価されることになる」と。それぞれの財の生産に投じられた社会的に必要な労働時間が、価値の実体である、ということをこのように表現している。「労働者」と「労働」との間には違いがある。労働者がどのような生産手段を使うかによって、同じ労働時間でも生産された財に含まれた価値は違ってくる。

労働過程・生産過程の結果としてでてくる生産物の価値は、不変資本cの価値(生産手段の価値=生産物に移転)+可変資本v(労働力購入)の価値+剰余価値mからなる。すなわち、生産物の価値=c++m である。

 

一日8時間労働で、v+mという労働時間が対象化されたとして、その条件が同じでも、c(生産手段の価値=固定資本磨耗分と流動資本部分の価値からなるもの)は、それぞれの生産部門、企業によって違うのである。

 

スティグリッツは、マルクスを正確には理解していない。理解しないで批判している。

 

次もまた不正確であり、マルクスの歪曲である。

「マルクスは、財が売られるときの対価と労働コストとの差額、すなわち企業の利潤と資本の収益は、労働からの搾取であると考えた」と。

 

マルクスは、企業にとっての「労働コスト」は、労働力の価値であることを発見した。労働力という商品の価値は、他の商品と同じく、その商品の生産に必要な労働時間であるとした。人間の労働する能力は、その労働能力(労働力)を生産し維持する諸商品の価値と同じだとした。したがって、単なる「財」ではなく、労働力と交換される財(=労働力を生産し維持するための諸商品のバスケット)のことである。この労働力と交換される財の価値が「労働コスト」と普通には意識されている。

しかし、労働者が現実に生産過程で労働する時間は、その労働力の価値(その労働時間=必要労働時間)にとどまらず、それよりも長い労働時間である。この超過分を剰余労働時間という。

その剰余部分が、労働者のものとはならずに、労働力商品を購入した資本(企業)の所有となるということ、これが、利潤(その細分化としての利子・割引料、企業者利得、地代など)である。これは「搾取」と表現するかどうかは別として、労働者のものとならないことは事実である。『資本論』第1巻第4章、5章を参照。

「搾取」と言うところに問題があるのではなく、一番の基礎的事実は、人間・人類は、労働する人間たちがその生活・生命の維持再生産に必要な労働時間(必要労働時間)を越えて、生産に従事し、剰余労働時間とそれによって生産される剰余生産物を生産してきたということである。その労働時間と生産物が、労働するものと生産手段の所有者とが分離すると、生産手段の所有者のものとなった、ということである。

 

スティグリッツは、利潤をどう説明するか。

「市場経済では、利潤は企業のインセンティブを提供するものであり、資本は稀少な資源であり(土地や労働などのその他の稀少な要素も同様であるが)、資本は収益があるときにのみ効率的に配分される、と理解されている。」

 

資本に対しては利潤である。

土地に対しては地代である。

労働に対しては労賃である。

これら三つは、それぞれに違った決定原理である。

資本主義社会が発達した眼前の日本を見ればわかるが、利潤の動きと労賃の動きはまったく別の動き方をする。

労賃は、最低賃金法(制度)、週給・時給・月給のように、ある労働時間に対応して、ある時点・ある地域ではある安定的な水準ににある。利潤にそのような安定性があるか。諸企業における利潤には、決まりきった所与の水準があるか。

地代は、農村地域と都会・都会周辺では違う。同じ土地の希少性の中で、何が違うのか?

これまた、利潤とは違った原理で規定される。

希少性という抽象的な原理では、それぞれ(利潤、労賃、地代)の額、その変動、その違いを説明できない。

 

スティグリッツは、理論の上で、完全雇用状態などを想定して一般理論を構築する。それでは、資本が効率的に配分された結果として、たくさんの企業が利潤率、売上高収益率などが違うのはなぜか。それぞれを規定する諸要因は何か。

単なる希少性や効率的配分では何も説明できない。

 

 「労働者にインセンティブが与えられていないならば、なぜ彼らが働くことをやめてしまうのか、については問わない」という。

 この「問わない」と言うことこそ、理論の破綻と関係する。

 近代産業資本主義の誕生以来、労働者は、労賃をもらって働くしか生存できない。産業資本主義の成立とは、労働力の商品化という歴史の産物(産業資本の存立=労働力商品の存立、両者の相即不離)の関係である。

 生存のためには、必然的に働かなければならない。なぜなら、働くための手段(労働の手段、労働の対象、生産手段)を持っていないからである。労働者は、「働くことをやめてしまう」ことは、できない。労働しか生きる道がない、自分の所有する労働力を販売するしか生存の道がない。それが近代労働者である。働く「インセンティブ」は、労働者の生存条件そのものによって大前提として与えられている。

 スティグリッツは、経済のメカニズム、経済学のもっとも根本的なところを『問わない』のである。

 彼はまた次のような問題も、「経済学の枠を超えるもの」とする。

 すなわち、マルクス経済学は、「政府が企業の利益を守るための戦争を遂行するために何千億ドルも費やす一方で、都市のスラム街の再開発や貧困家庭にかんする大学教育の無料化には十分な資金を投じていないことを非難している。こうした主張が正当であるかどうかをめぐる論争は、道徳的な問題や価値判断に属する問題がそうであるように、本書で学んでいる経済学の枠を超えるものである」と。

 

 『マクロ経済学』の教科書の枠を超えるとしても、政府の経済的活動はまさに経済の枠内にある。国民経済計算、GDP,GDEなどで取り扱う諸項目には、政府支出・政府消費があるのは厳然たる事実である。

 

政府の収入である租税、その支出である消費、そのなかに軍事費支出=消費も福祉的支出も、公教育費もある。その支出のあり方をめぐる議論は、スティグリッツの言う意味での「純粋」経済学ではないとしても、大きな経済学のなかにはいる。政治経済学、という大きな枠組みに。アダム・スミスの国富論、リカードの経済学原理、など経済学はその体系の最後の方で租税を問題にし、国家の収入と支出を問題とする。

国家財政のあり方はまさに経済学の重要な一部門である。

 

 

[7] スティグリッツのいう「経済学」は、新古典派経済学であり、歴史上の経済学説のなかのとくていのものである。

 

[8] 厳密には、「労働力」「労働能力」・・・能力は労働実績によって検証される。「労働能力」と「労働成果」の社会的な相互検証・相互対応関係が、個々人の現実の給料を決め、また修正していく。個々的個別的な「能力」と「評価」のアンバランスを通じての、社会的な健全な検証(社会的説得力)が、社会を安定させる。

 

[9] 資本が、利潤を上げて、それを蓄積し、資本に転化する場合と、労働者など非資本家がみずからの収入(労働力の対価)の一部を貯蓄するのとは、本来区別しなければならないが、いわゆる近代経済学において「貯蓄と投資」というのが対立概念とされる時には、この違いは区別されないことになる。

 資本が利潤を獲得し、それを蓄積することは、単純な意味での「貯蓄」ではない。

 

[10] 月が地球の周りを回っているように、地球が太陽の周りを回っていることが発見され、理論的に説明されても(地動説)、「普通の意識」、「日常の意識」、「通常の視覚」では、「太陽が東から昇り西に下りる」、「地球は不動で太陽が動いている」。

 それと同じように、労働の二重性が明らかにされ、また、労働力と労働の違いが解明されて、経済学の飛躍点として説明された後でも、「普通の意識」、「日常の意識」、「通常の視覚」には、市場社会と市場競争の現実から見ると、賃金(給与)は、「労働の対価である」と認識されている。

 

[11] この現象はいろいろなところで指摘される。人件費部分(労働分配部分)と利潤部分の比率関係は、相対的に固定的な部分(労度分配部分)が原因だが、不況になるとこの相対的に固定的な人件費部分(労働分配部分)が重荷に感じられ、しきりに「労働分配率が高すぎる」との声が上がることになる。人件費切り下げを求める声が、強くなる。

 

 Cf.「実質賃金水準自体は硬直的であるという指摘も多い。とくに周知のように、日本の労働分配率は好況期に低下し、不況期に上昇するという反循環的な動きを持つが、このような動きは企業利潤を不況期に減少させ、投資を減退させると指摘されることが多い」と。脇田成『日本の労働経済システム』東洋経済新報社、2003年、21-22ページ。

 

 「周知のように」とあるが、本当だろうか?

好況期に労働分配率が低下し、不況期に労働分配率が上昇する、というのは日本だけではない現象だろうと思っていたが、「とくに」日本的なのだろうか。検証が必要だろう。

 逆に言えば、外国では、そんなに労働分配率には伸縮性があるのか。すなわち好景気になればそれに連動して人件費が上昇し、景気が悪くなればそれに連動して日本より速やかに人件費が低下するのか? アメリカの場合にはそうかもしれない。ヨーロッパの場合は?

比較研究が必要だ。

 

脇田(2003)p.22の脚注19によれば、「いわゆる平成景気では日本の労働分配率が低すぎて、本当の豊かさは享受できないというような議論が盛んだった」と。

逆に、橋本寿郎が岩波から出した本(死去の直前に書いたものだったと記憶する)のなかでは、平成の長期構造的な不景気の原因として、日本の労働分配率が高すぎる、と書いていた。

 

[12] 「労働」と「労働力」の違いは、利潤(営業利益)、利子(利息・割引料)、地代といった諸範疇(その基礎にある剰余価値)を理解するうえで、決定的に重要である。

 

 科学における概念規定の重要さに関して、次の引用(エンゲルスの『資本論』英語版序文から)をしておこう。

 

 「われわれが読者のために取り除くことができなかった困難が一つある。というのは、いくつかの用語をそれらの日常生活での意味と違うだけではなく、普通の経済学上の意味とも違った意味で使用しているということである。

 しかし、これは避けられないことだった。

 一つの科学の新しい局面は、すべて、その科学の述語の革命を含んでいる。このことを最もよく示しているのは、化学である。化学では述語全体が焼く20年ごとに根本的に変えられている。また、化学では、たくさんの違った名称の列を通ってこなかったような有機化合物は、おそらく一つも見いだせないであろう。

経済学は、総じて、商業界や産業界の用語をそっくりそのまま取ってきて、それをあやつることで満足してきた。そうすることによって、そのような用語で表現される観念の狭い範囲内に自分自身を閉じ込めたことには、まるで気がつかなかったのである。

こうして、古典派経済学でさえ、利潤も地代も生産物のうち労働者がその雇い主に提供しなければならない不払部分の細分であり断片であるにすぎない(雇い主・・・現代では企業法人(永岑注記)・・・はこの不払部分の最後の唯一の所有者ではないが、その最初の取得者である)ということには十分に感づいていながら、しかも利潤や地代の通例の観念を超えて進んだことがなく、生産物のこの不払部分(マルクスが剰余生産物と呼ぶ部分)その完全性において一つの全体として吟味したことがなく、したがってまた、その源泉と性質とについても、その価値のその後の分配を規制する諸法則についても、明瞭な理解に到達したことがなかったのである。」

Die politische Ökonomie hat sich im allgemeinen damit zufriedengegeben, die Ausdrücke des kommerziellen und industriellen Lebens, so wie sie waren, zu nehmen und mit ihnen zu operieren, wobei sie vollkommen übersehen hat, daß sie sich dadurch auf den engen Kreis der durch diese Worte ausgedrückten Ideen beschrönkte.

 So ist selbst die klassische politische Ökonomie, obgleich sie sich vollkommen bewußt war, daß sowohl Profit wie Rente nur Unterabteilungen, Stücke jenes unbezahlten Teils des Produkts sind, das der Arbeiter seinem Unternehmer (dessen erstem Aneigner, obgleich nicht letztem, ausschließlichem Besitzer) liefern muß, doch niemals über die üblichen Begriffe von Profit und Rente hinausgegangen, hat sie niemals diesen unbezahlten Teil des Produkts (von Marx Mehrprodukt genannt) in seiner Gesamtheit als ein Ganzes untersucht und ist deshalb niemals zu einem klaren Verständnis gekommen weder seines Ursprungs und seiner Natur noch auch der Gesetze, die die nachträgliche Verteilung seines Werts regeln.

 [Marx: Das Kapital, S. 39. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3353-3354(vgl. MEW Bd. 23, S. 38)]

 

[13] さらに厳密には、営業外の利益・損失の操作の作業(労働)もカウントしなければならない。営業外収益(損失)は、有価証券からの利得(損失)その他であり、企業の資本操作に関わるものが中心である。法人企業の資本所有機能による利益(損失)ということになろう。この操作も、従業員の分業関係で、従業員が行うのであり、厳密な全労働時間の配分では、カウントしなければならない。

 ただ、営業外の利益損失をカウントした経常利益については、その利益配分に関係するのは、企業従業員のなかでは経営者(役員)だけであり、その特別賞与に関係するだけである。したがって、賃金(給料)=人件費が、「労働の価格」なのか、「労働力の価格」なのかという議論においては、カウントしなくてもいいであろう。

 基本的に、賃金(給料)=人件費が、全労働時間の一部(日本の現代法人企業ではH13で全労働時間の75)だということを確認しておけばいいだろう。

 

[14] こうとう‐しき【恒等式】

〔数〕式中の文字にいかなる数値を代入しても常に成立する等式。等号として≡を用いることがある。

 (ab(ab)a×ab×b

の類。fx)とgx)が整式のとき、fx)=gx)が恒等式であることと、fx),gx)の次数が等しく、各項の係数がそれぞれ等しいこととは同値である

[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 

[15] 少なくとも、この数年以上、日本では長期構造不況に伴うデフレーションが「病」とされている。インフレーションはむしろ、「病」からの回復を示すものとして、現状では、期待されている。インフレさせるターゲット、インフレターゲット論者まで登場している。

 したがって、インフレとデフレの両方を引き起こす、経済不況こそが、「病」ということだろう。

 

[16] ここでは、労働の生産性が、競争力であることが示されている。

 なぜか、その説明はここにはない。

 生産性が競争力と結びつくには、価格引下げとの相関が問題となる。価格は、商品の価値の貨幣表現である。それでは、生産性が価格(価値)を引き下げるのはなぜか?

 単位あたり商品のコスト(価値)を引き下げると、ここの商品の何が少なくなるのか?

  労働価値説では、社会的に必要な労働量(したがって労働時間)が少なくなるからだという。

 需要供給曲線の説明では?

 

[17] これは、使用価値側面から、国内生産の総額を大きく、民間最終消費、民間投資、政府消費、輸出マイナス輸入に整理・分類したもの。

 

[18] 最終財アプローチと同じことであり、「最終財」を一括して(民間消費・投資・政府消費などに区別分類せずに)表現し、企業の収入(総売上高)から中間財の費用を控除しているだけのこと。

 

[19] 労働者、株主資本と貸付資本の資本所有者、地主等不動産所有者、政府のそれぞれの所得(労働者の場合は賃金、株主資本の場合は配当金、貸付資本の場合は利子・割引料、政府の場合は税収、地主の場合は地代)

 

[20] 伊丹敬之は、日本企業を人本主義企業と言うが、アメリカと比してみた場合、果たして本当にそうか? GDP統計は別の側面を示していないか?

 

[21] 有斐閣『経済辞典』第5版より。

ジニ係数Gini coefficient

所得分配の不平等度を測る指標。縦軸に累積所得の百分比,横軸に累積人員の百分比をとるとき,対角線は分配の完全平等を示し,現実の分配は対角線を弦とする弓形の曲線で示される。これをローレンツ曲線といい,ジニ係数はローレンツ曲線と対角線で囲まれた部分の面積対角線下の三角形の面積の比となる。() ジニ法則

 

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有斐閣『経済辞典第5版』より

集中指数

index of concentration

例えば,ある産業の生産高であれば,その産業の総生産高の内,トップ1社が占める割合,トップ2社が占める割合,と順に求めるとローレンツ曲線を導くことができる。集中度としてよく使われるジニ係数は,ローレンツ曲線を元にした係数で,トップ数社の占有率が高いと1に近い値を取る。

 

 

[22] 受講生のみにテストにおける反応では、このグリーンGDPの概念を印象深く受け止めた人がいた。そうであろう。今後の世界においてますます重要になってくる概念であろう。

 

[23] 物価指数には、消費者物価指数だけではなく、卸売物価指数企業向けサービス価格指数などもある。詳しくは、日銀の金融経済統計「物価指数のFAQ」参照。

[24] 現在の日本では、消費者物価指数算定のために、各商品を10000ポイントの中で占める割合を定めているが、その指数品目とここの商品のウエイトについては、総務省統計局の具体的な表、参照。現在の日本人が、総労働時間のうち、各消費物資にどれだけの割合の労働時間を配分しているかと言う目安でもある。

 

[25] 建物・機械の総価値」は、厳密に言えば、固定資本ストックである。

これに対して、ある時点での資本ストックには、流動資本ストックもある。

貸借対照表の資産部分には、まさにある時点の固定資本ストックと流動資本ストックの項目が立てられ、明確に分類されて表示されている。 

 

[26] (相対的には、確かに非弾力的)労働力の生産(人口増加)は、そんなに簡単ではない。人減らしもまたそうである。

[27] 固定資本投資

[28] 有斐閣・経済辞典によれば、オーカンの法則はつぎのようであり、パーセントの相互関係は、この説明の場合は、13.2である。失業率を下げる場合と失業率をあげる(上がる)場合との違いか。

産業循環・景気循環のあり方、資本の有機的構成の高度化の違いなどによって、率は違ってくるであろう。

 

オーカン(A. M. Okun)はアメリカ経済の実証分析により,失業率が1%増大したならば,経済の潜在的産出量と現実の産出量との差は3.2%増大することを示した。潜在的産出量と現実産出量とのギャップと失業率の関係を,オーカンの法則という。