2003年3月前半の日誌
2003年3月14日 非常勤講師組合の委員長遠藤さんをつうじて、昨日の市議会の大学教育委員会の様子が伝えられた。非常勤講師問題や「あり方懇談会」答申の問題など、大学が抱えている問題が本当にきちんと検討されているのか、疑問に思う内容だった。いずれ出される議事録で、きちんと確認する必要がある。一つだけいっておけば、教員数対学生数の比率の問題がある。
学内開催の「あり方懇談会」でも、学生数と教員数の比率が問題にされていた。その場合、学部ごとの比率ではなく、医学部教員数(たしか400名ほど)を含めた全教員数と全学生の比率だった[1]。そのようにすれば、すなわち分母に比較のためには適当でない数値を入れれば、当然、非常に教員当り学生数が少なくなる。確か、教員一人当り6人という少ない数字を出していた。そうした数値操作の上で、委員からは、「教員一人当り学生数の比率が異常に低い」と槍玉に挙げる発言がいくつが出された。
だが商学部はどうか? 1700名ほどの学生・院生を五〇人の教員で見ている。教員一人当り34人くらいとなる。また文科系では商学部より学生数が少ない国際文化学部でも、900名ほどの学生・院生を五〇名の教員が受けもっている。教員一人当り18名程度ということである。大学の発展を考えるなら、けっして、教員一人当り6名という数字を一人歩きさせてはならない。その点が、市議会の議論でどのようだったのか、だれがどのように質問し、だれがどのように答弁したか、確認したい。
商学部の数値は、私学に比べても相当な教員当り学生数である。商学部教授会では、事務局が出した資料に関して、ワースト20くらいの大学と比較しているではないか、そのようなワースト20の某大学と比べれば市大の条件はいい、だから教員数削減だといっても、どのような意味があるだろうか? 教育研究の質[2]こそ大学の生命ではないだろうか?
少なくとも、公立大学の自然科学系学部と文科系学部を分けて教員数と学生数の比率を出さないと、意味のある比較にはならない。文科系中心の私立大学が教員対学生数の比率で教員一人当り学生数が多いのは周知の事実である。上述のように、市大でもすくなくとも商学部の教員と学生数の比率は、教授会でも問題になったが、私立大学並(あるいはそれに近くなっている)のである。
教員数対学生数の比率の比較は、学部別に行なうべきである。これは学部別収支構造とも関係する。教員一人当り学生数が少ないと一般的に指摘して改革を迫るとき、問題は、どこから教員数を減らすかということになる。文科系は、すでに国立大学や公立大学の比率で、飛び抜けて学生数が少ないわけではないにもかかわらず、教員を減らすことになれば、それだけ密度の濃い教育(非効率的だが公立大学が維持しなければならないような教育)を行えなくなる、ということを意味する。私学並に教員当り学生数を増やすという政策ならば、まさに私学と違いがなくなり、公立大学の意味はなくなるだろう。そのようなことを市民が知った上での改革強行なのか、この点が問題になろう。市民を代表する議会の人々が、どのような態度なのか、これは議事録をきちんと読んで確認してみたい。
「あり方懇談会」最終答申が藤山教務委員長から送られてきた。重大な変更が人事面に関してあるという指摘である。まだそこまで通読していないが、若干の問題点は忘れないうちに書きとめておこう。
(Cf.すでに、市民の会による存続発展をめぐる署名の訴えにおける批判点、「借金漬け体質」という誹謗中傷に対する批判点などが、明らかになっている。これまで指摘したように本格的には学長や評議会が組織し、きちんと問題点を洗いなおすべきだろうと考える。しかし大学人として、気づくことは、いくつか指摘しておきたい。)
2.横浜市立大学が存続するための条件において、
2-1、「収支均衡を達成する」のが条件だとされている。これは、私立大学に対してさえも、経常経費の半分までの助成を行うべきだという私学助成法が存在することから考えても、まったく、大学経営、学校経営の「非効率性」を理解しないものである。収支均衡は、「大学経営においてありえない」というのが、厳然たる現実であろう。さすがに、最終答申の財政項目では、もっと理性的なものになっている。
2-2、問われているのは、「大学を運営するための経常経費を市がどこまで支援するのか」ということである。あたかも、「現状」では、「市が大学の運営費の不足分をいくらでも補填するようなやり方」になっているというのは、事実に反する不当な言いがかりではないだろうか? これまで予算を毎年審議した中で、大学の研究教育の特質を理解し、運営費不足を承認してきたのではないか?
どこをどのようにどのていど削減すべきか、それが経済危機・財政危機の時代の大学の生き残りと発展のために最善の方法か、これこそ検討すべきである。
3.改革の方針について、
3-1、横浜市の課題に、具体的に寄与することが条件だとしている。しかし、大学を「行政的課題」、「地元企業が必要とする技術開発」などに具体的に応じることが、果たして大学の使命を実現するうえで、どこまで許されるのか、可能なのか? これは多いに議論の余地がある。大学が、地元企業のための研究機関になってしまっていいのか? 大学の一部にそのような自分の研究と地元企業の要望とがリンクするものがありうるが、その場合にも、直接的な私企業への奉仕、ということは相当に注意しなければならないのではないか。
3-2、「大学の経営管理を、大胆で先進的な仕組みに改める」というのは、目指すべき目標だが、大学予算(病院を除く)に占める学費負担の割合が16.9%だとして、槍玉に挙げ、大学の「収入の75.6%を、市の一般会計からの繰入金に依存している」として、これを「放漫な経営体質」だとするのは、大学の非効率性をまったくカウントしない暴論である。とくに、自然科学系(理学部、医学部、付属研究所)の場合、圧倒的に設備機械実験器具等の経費がかかることは、だれでも理解できることであり、それを学費に転嫁できない、学費に転嫁してはいけない、ということで国立大学や公立大学が存在するはずである。学費値上げは、公立大学を否定するものである。仮に、「廃校」ではなく存続しても、大幅学費値上げ・学部間大幅学費格差のある大学では、実質的には公立大学を廃止したことと同じになろう。「収支均衡」の議論は、実質的な廃校論である。
国公立大学に自然科学系学部が充実しているのは、そのような科学の経費構造・性質は、効率性経済性ではカバーできないからである。多大の国費や市費などを提供しても、自然科学をまなぶ優秀な学生を育てることが、大局的には産業の生産力活力を引き上げ世界水準を維持し、諸製品をすぐれたもの安価なものにし、まわりまわって循環的に市民、国民のためになる、という社会的コンセンサスがあるからこそ、国立公立大学が維持されてきた。国公立の大学教育を破壊すれば、世界の市場競争戦に敗北するのは目に見えている。そのような根本的なコンセンサスを破壊する理由は、なにか?
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2003年3月13日 佐藤真彦先生のHPから、河内洋祐:「草の根から見たニュージーランドの行政改革」(北海道大学 辻下徹氏ホームページより)を知って、早速一読した。知らなかったこととはいえ、新自由主義の「改革」なるものは大変なものだ。文字どおり、恐ろしい、といわなければならない。問題は上からではなく、民衆の目線で、草の根からみなければならない。そのときのニュージーランド改革の恐ろしさ!(佐藤真彦教授HPを経由して)。中田市長は、私のこのような恐怖感覚とは違って、むしろ、いくつかの著書ではニュージーランド「改革」を賞賛している。はたして、わが大学はどうなるか?
非常勤講師組合の遠藤委員長の痛切な訴え(3月12日付)も読んだ。非常勤講師予算の一方的な削減で浮いた人件費を「流用」しているのではないか、という疑惑など、驚くことばかりである。問題は、いずれ市議会や大学の評議
会でも明らかにされるべきことだろう。しかし、「あり方懇談会」の答申を御旗にかかげ、すでに大学の教学体制にまで大鉈をふるい始める武器とされていることを、大学人は直視しなければならない。これで本当に大学の発展はできるのですか?
同時に、これまでも、決算が問題だということがよくいわれた。「流用」と利権(物取り主義・実益主義・実利主義―予算削減の厳しい状況だからこそ、たとえわずかでも「アメ」が貴重になるという冷酷な悲しむべき構造[3])、この「流用」問題・「流用」手法と大学内部の支配構造(事務局責任者に従順な教学者の創出構造)とが関係していると耳にしている。今回の情報が本当ならば、まさにその具体例のように感じられる。
本当のところはどうか?
また、本日新たに「市大を考える市民の会」通信第15号が発刊された。本学卒業生の加藤誠氏(S38卒)は、市大の存続発展を求める署名にすでに五百人ほどの署名を集めているという。田村さん(H8年卒)もボランタリーな活動を展開中である。このような大学を愛する気持ちが盛り上がり、つながってこそ、大学を守ることが可能になり、発展させることができるだろう。一人一人の教員もそうだが、学長や評議員をはじめとする学内の要路にある関係者の責任はますます重い。
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2003年3月12日 非常勤組合の事務局との交渉結果が、教員組合から送られてきた。唖然とする内容であり、昨年春の不当な一方的措置を何ら反省しようとしていないものである。非常勤組合の立場へのこうした高圧的な態度は、教員組合、教授会に対する高圧的な態度と同じ背景を持つというべきだろう。これが、大学の研究教育をよくしようという誠意あるやり方とは考えられない。
これとも関連するが、大学の廃校・民営化の議論が「あり方懇談会」から打ち出されている背景に関して、その背後にある中田市長の姿勢についてわれわれは検討する必要がある。なにも知らないでは、大学の外部からの見解だけで大学の運命がきまってしまうことになろう。そのような大学を守り発展させようとする大学人ならばすくなくとも一読し、自分の頭で検討すべき資料だと思われるものが教員組合経由で送られてきた。これは公刊・公開資料を中心に整理したものだが、時間を書け注意深く整理してはじめて理解できる事柄が並んでいる。すくなくとも私には、はじめて知る内容が多く、なるほどそのような一貫した背景があったのかと納得することも多い。今後、大学人が改革を考えるためには、しっかり検討しておくべき論点が多いと感じた。
このような資料を見るにつけ、大学人がしっかりしなければ、あれよあれよという間に75年の伝統ある大学は効率主義的経営主義的な大学、普遍的な科学に奉仕する公立大学とはまったく別のものになってしまうという危機感を、私は持つ。
市民はどのように考えているのか?
学長は、このようなことを知っているのか?
学長はこのようなことを知った上で、大学を守る先頭に立つ体制になっているのか?
評議会はどうしているか、危惧は大きくなる[4]。
このような拱手傍観的な雰囲気と対比するとき、感銘深いのは総合理学研究科・佐藤真彦先生の言論活動である。本日もまた、この間の重要文書をHP:「学問の自由と大学の自治の危機問題」に新たに掲載されたので紹介しておきたい。すなわち、次の4文書である。
(1) 事務当局による「市大を考える市民の会」
第2回シンポジウムの立て看板撤去事件03-3-10
(2) 永岑公開書簡
「小川恵一学長,市議会で偽証」発覚か?03-3-10
(3) "部外秘資料"公表への弾圧事件,その後の経緯:
不誠実極まりない「学長返信」03-3-10
(4) 内橋克人:すり替えられた規制緩和/ジェーン・ケルシー:ニュージーランドで何が行われたか
ぜひ、これらを一読されたい。
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2003年3月11日 矢吹先生のHP・冒頭部分がこの間に大幅に変更され、先生のご研究の中国問題が前面に出てきた。いろいろと面白い記事が多い。そのなかで、「現代中国を読む31『チャイニーズ・ドラゴン』2003年2月25日『鄭超麟回憶録』信念の老トロツキストが語る共産党史(平凡社、東洋文庫、近刊予定)」のつぎの一節は、なるほどと考えさせ、思考を刺激する。すなわち、
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「旧ソ連の崩壊はむしろ遅きに失したのである。「一部の人々は号泣し、他の人々は社会主義が破産したと歓呼の声をあげた・・・歓呼の声をあげた人々は、早とちりの誹りを免れまい。社会主義はいまだ破産していないことを知るべきである。なんとならば、今に至るまで、世界のいかなる地域においても「社会主義」は、実現したためしがないからだ」。なるほど社会主義はいまだかつて実現したことがないとする立場ならば、破産するはずもないという論理になろう。ただし七〇年余にわたって現実に存在した「社会主義」を単なる幻影と呼ぶ観点が説得的かどうかは別問題だが。
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権力を握った「社会主義」(国営企業の支配者、国有財産の「所有者」としての国家・党の官僚、厳然たる「所有者」階級[5]、「民衆」「社会」の独裁的官僚主義的権力者による僭称)と理念や運動としての社会主義の相互関係(ソ連の「スターリン粛清」・「収容所列島」、中国の「大躍進」政策や「文化大革命」の悲劇が示すようにしばしば敵対的破壊的ですらある相互関係)の問題は、21世紀の一つの重要な問題でありつづけるだろう。
なぜ、二つの世界大戦の時代において、スターリン主義が支配しなければならなかったのか、現実に支配し得たのか? 世界戦争の時代がおおきく関係してはいないか? 世界戦争の意味をどのように深く捉えるか?
この問題は、二〇世紀前半までの世界の帝国主義の支配的潮流との相互関係でみていく必要があろう。この根本的事実を多くの議論は忘れているので、改めて歴史研究者として指摘しておかなければならない。広大な経済的後進地域を持つロシアで、なぜ一九一七年に革命が起きたのか? なぜ少数者にしか過ぎないボルシェヴィキが権力を握ることができたのか?長期にわたる総力戦のなかで後半な大衆が命を失い飢餓にあえぐ途端の苦しみのなかで平和とパンを約束し、また実現したのは誰か? 中国という資本主義発展の未成熟な地域で第2次世界大戦を経て毛沢東・社会主義者が権力の座につき得たのはなぜか?帝国主義戦争、列強の覇権争いと世界戦争、これらの主要な要因を捨象しては、歴史の多元的な悲劇が理解できない。
二〇世紀前半は、ホブズボームが言うように「極端の時代」、両極端の時代だったのだ。
イギリス、フランスその他の先進資本主義諸国が世界中に植民地をもち、自分の勢力圏を確保している。後進資本主義国ドイツ、イタリア、日本も、その論理を主張し、後進帝国主義の道を歩む。そのような世界の列強が、そのいずれもが武力を手に帝国主義を推進するとき、人はそれにどのように対抗すればいいのか?
現実の「社会主義」、血塗られた社会主義、独裁の社会主義、ソ連などが「社会主義」とはまったく違うものであるとしても、社会主義を掲げ帝国主義に対置しなければならなかったと言うのも、二〇世紀前半の人類の到達点・限界ではなかったか。
第2次世界大戦を民主主義の勢力、民主主義のベクトル群、すなわち、反ファシズム・反帝国主義・反植民地主義の勢力が、スターリン主義=独裁体制の国家とともに、勝ち抜いたという一面で重い、しかし他面で輝かしい現実をその両側面とも直視し噛み締めるべきであり、現時点のスタンスとして大切なことではないか?
二〇世紀後半、そして21世紀の現代はまさに人類のこの到達点(帝国主義の否定、植民地主義の否定、民主主義の尊重・拡大深化)の上に、その発展の上にこそあるのではないか。その発展こそわれわれ現代人の使命ではないか?
先進諸国の「社会主義」運動が、帝国主義の影の(あるいは表の)推進者になったりしたらどうするか? それを批判しないでいいのか? 他方で、スターリン主義が、社会主義を標榜しながらその反対物に転化しているとき、批判しないでいいのか?
岩波ブックレットのニュージーランドに関するものを読むと、労働党政権が新自由主義・民営化路線の政策の口火を切ったと言う。
また、現在の世界と日本に跋扈する新自由主義・民営化論を見ると、公的部門、公共部門の役割・意義・重要性は一体どうなっているのか、ということが深刻な問題となる。社会の共通の利益を公的部門が深く広く守らなくてはいいのか? すべて民営化してしまっていいのか? 大学や病院のように非効率的な部分、そのなかでも社会の先端を行くべき大学の使命を効率性の観点や民間企業の私的利益の観点で切って捨てていいのか、重大な問題である。税金とは本来そのような非効率的な非効率そのものの公的な目的・課題のためにこそ提供され、使われるべきではないのか? 市民税を払っている市民の共同の利益に使われるべきではないのか? 市民が何十年にもわたって血税で維持してきた公共の財産を民間に売り飛ばしていいのか? それが本当に市民のためになるのか? 市民のみなさんは、自分の血税がどうなるのか、本当によく考える必要があるのではないか?
税金によって成り立つ大学(国公立大学)は、だからこそ、自分の使命を果たしているかどうか、真剣に問い直さなければならないのではないか? ノーベル賞の小柴昌俊氏が、税金で研究機器・設備を買うのだからできるだけ値切るように(不正確な表現かもしれないが)とつねづね諭したのは、税金の支え=市民・国民の支えによる研究教育と言う研究の土台に、深い反省をつねに持っていたからではないか? この本質的な部分こそは、われわれの頭上に落ちてくるものではないか? われわれ一人一人は、これをよく受けとめ、しっかり抱きしめているか?
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2003年3月10日 昨年12月の大学教育委員会の議事録に問題がありはしないかと気付いた方から情報があった。研究生の研究料に関する問題である。これは、すでにこの日誌でも触れたように、実は、商学部では一大問題となった事件と関連している。当該研究生が裁判に訴える問題とも絡んで、当該研究生が市や文部科学省に訴え出て、広く知られることになった。事件の勃発は私の着任早々だったから、1996年のことだと記憶する(あるいは1997年1月ころか?)。この事件に関連して、数年後(たしか2000年3月)、教授会議事録公開が問題となり、これを契機に原則として教授会議事録の公開が決定された。請求のあった教授会議事録は当該研究生に公開された。
この議論の過程で、「研究料が高すぎる」という問題は、学内ですでに指摘され問題化されていたことであった。昨年、12月13日の市議会・大学教育委員会で横山正人議員が繰り返し、「高すぎるのではありませんか」と質問した点は、まさに大学内にあった現場の切実な声を代弁してくださったものである。
すなわち、横山正人議員は自分の学生時代の経験を踏まえつつ、つぎのように質問している。
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(横山[正]委員) 自分の学生生活を振り返ると、4年になると卒論と教育実習とかそういう程度で極端に講義を受けることが少なく
なるわけです。研究生自体、指導を受ける時間が非常に少ないにもかかわらず、34万6,800円は非常に高いように思うんですけれど も、実態はどうでしょうか。
◎(小川学長) 実は研究生は大学院が多いです。学部の学生ももちろんいますけれども、数は限られていると思います。したがって、 大部分は研究に従事するということで、卒論とか就職活動で時間がなくなるということはないと思います。
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答弁をよく読むと分かるが、指導というサービスと負担する研究料との相互関係(通俗的に言えば、コストとベネフィットとの関係)を横山正人議員は問題にしているが、学長はそれに真正面からは答えていない。不誠実ではないか。
別のところで注記したが、学部によって、研究生の数や学年・所属(大学院の研究生か、学部の研究生か)が違う。学長(事務局責任者・部局長)はそのあたりをきちんと把握していないことがわかる。そして、研究生にとっては「研究料が高い」、その高さに見合ったサービスを受けていないと言う不満は厳然として存在する。それが、一つの重大事件の重要な要因になった[6]。わずか2年ほど前に議論になったこと、それは、教授会議事録公開問題と関連することだったが、そのような重大問題との関連も忘れ去られている[7]。
そのことは、つぎの質問と答弁ではっきりする。同日の大学教育委員会の議事録で,小川学長は、つぎのように答弁している。
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◆(荒木委員) 学内の中でいろいろと検討する機関があります。そういう場で研究生の授業料が高いという声が出たことはないですか。
◎(小川学長)
委員会の中でそういうことが話題になったことは今までございません。
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これは、事実誤認である。
教授会の議論において、なぜ研究生が不満を蓄積させ,市や文部科学省にまで投書することになったのかを議論した際、研究料が医学部、自然科学系の研究料と同じで、高すぎることが一因だ、と矢吹教授などが繰り返し発言された。最初は、当問題の教授会の議論のとき(1996年ないし1997年)、第2回目は、その問題をどう処理したかの教授会の議論(議事録)の公開が請求され、それを教授会で議論したときである(2000年春3月から4月)。商学部教授会だけでも、少なくとも2回は、研究料が高すぎると大問題になった。
したがって、「話題になったことがない」などと言うのは、嘘の答弁である。嘘の答弁で研究料値上げを推進したことになる。
そもそも、学費値上げも、昨年度の場合、一度も教授会で議論しないで、報告事項で済ませてしまった。今回の学費等値上げ問題でも、教授会無視の態度は徹底していた。
この質問が前もって出されていたものかどうか、すなわち、事前に調査が可能だったのか不可能だったのか、わからないが、もし事前に質問通告がありながら、「話題になったことは今までございません」と答弁したとすれば、 嘘の答弁である。あるいは、意図的に調査を行なわなかった職務怠慢の罪がある、といえよう。
この件は、学長に公開書簡を出して確認を求めたい。放置すれば、偽証罪等で問題になるのではなかろうか? 大学人は大学内部の批判と反批判をつうじて、外部の法律問題になる前に、きちんと大学内部ですみやかに対処すべきだろう。
なお、言論抑圧問題に関する学長への公開質問書簡に関しては、ご返事を3月8日付でいただいた。ただ「部外秘」にしたことの形式的な説明だけで、この返事のためになぜこんなに時間がかかったのかと不思議なほどの簡単な内容であった[8]。
このような態度と第2回シンポジウムの案内掲示看板撤去事件とは関連があるのではないか?
シンポジウムの冒頭、主催者が抗議していたが、木曜日から金曜日まで、第2回シンポジウムの案内を書いた立て看板が総務課吏員によって撤去されたということである。大学問題をめぐる市民の会(事務局長・松井商学部教授)の立て看板であることは周知のことであり、このような重要な市民、学生、院生、教職員への参加呼びかけを、人目に触れさせないようにしようとすること自体、私が「部外秘」資料問題で、指摘した根本問題(大学における公的問題での言論・集会・出版の自由の問題)が理解されていないことを証明する。この間、言論抑圧事件を批判する文書や公開書簡をHPで公開し全国に紹介されていても、学長、事務当局は、大学における言論の自由の問題を本格的に真剣に検討しなおさなかったこと、大学における言論・出版・集会の自由の擁護・尊重の重大な意味がわかっていないこと、日本国憲法の基本精神がわかっていないこと、第2次世界大戦の悲劇を経て樹立された諸原則をかみ締めていないこと、これを新たな立て看板撤去事件が立証したということであろう[9]。
むしろ、市民の声をしっかり聞くと言う姿勢こそ大切ではないか。たくさんの市民に参加してもらい、多くの市民の前で議論されることこそ本当の声だ、少数の参加者では市民の本当の声が分からない、とできるだけたくさんの市民が集会に参加するように、様々に支援するくらいであってもいいのではないか。それが、市民の意向を大切にする、生の声を踏まえようとする学長の取るべき態度ではないか。「あり方懇」の答申案に対して、学内の気持ちを盛り上げ、市民の支えを強化して、大学を発展させる道ではないか。学長(事務局長、総務部長)は、この間、大学発展の真の方向とはまったく逆のことをしているように感じる。
せっかくたくさんの人が第2回シンポジウムにも集まっていたのだから、少しでも現場の空気を肌身で感じ、「あり方懇談会」答申批判の声明などをまとめる跳躍点とすべきであったと考えるが、学長は第2回シンポジウムにも欠席であった。シンポジウムの記録、公開資料はご要望に従い、矢吹教授HPの各資料をお伝えすることにしたい。
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2003年3月8日(19時) 3時から6時過ぎまで、「市大の将来を考える」第2回緊急シンポジウムを傍聴することができた。新原さんの基調報告は、普段耳にしたことのないことが多く、また,まとまったかたちで聞いたことがなく、大変興味ある刺激的な報告だった。大学とはなにか、原点に立ち返って考えさせてくれる刺激剤がふんだんにちりばめられていた。冒頭に他人事のように言っていたが,実は新原さんにとってもまさに本学教員としての「最終講義」だったわけで(聴衆のほとんどの人は知らなかっただろうが、4月から彼は中央大学文学部社会学科に移籍するので)、そのお別れの講義としても深い意義のあるものだと感じた。
とりわけ、「異端」を許容する自由な大学としての横浜市立大学の伝統・雰囲気の発展こそ、重要だというメッセージの部分、この大学における研究・教育の自由の具体的なシンボル的なことこそ大切だという主張の部分に、いちばん感銘を受けた。
市議会全会派(7会派とか)にシンポジウム・パネリストと資産かを依頼したが、共産党のあらき議員とかな側ネットワークの宗形議員の二名しか参加がなかった。お二人のお話は貴重だった。市義会でもぜひ市民の会の生きた感動的な話を元に、市長などにきちんと大学ん簿歴史や意義を認識するように活躍を期待したい。
「市大を考える市民の会」の副代表を引き受けられた名誉教授・長谷川先生のお話をはじめ、実にたくさんの方々が非常に多様な角度から市大の意義、伝統、必要性、オリジナリティ、個性と重要性などがしてきされ、しばしば涙ぐむほど感動的だった。市民の会としての声明をまとめ発表し、また「市大存続発展を」との署名活動をすることになった。
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2003年3月8日 昨日のビッグニュース(総合理学研究科決議)を知って,日誌に掲載したあと、学長、総合理学研究科長、商学部長に、「あり方懇談会」答申の幾多の問題点に関するきちんとした批判を文書で公開すべきだという意見書を送付した。そのことを総合理学研究科・佐藤真彦先生ほかの決議案作成者の人にお送りした。佐藤真彦先生は、この意見具申書を公開書簡として、先生の「学問の自由と大学の自治危機問題」のHPに掲載して公開してくださった(上にリンクを張っておいたので参照されたい。総合理学研究科緊急声明)。多様なルートから、本学のなか動きが広く知れ渡り、多くの人々の市大への関心を活性化し、市大の存続発展のために市民の支持、支援をうることが出きれば、すばらしい。
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2003年3月7日(午後4時) すばらしいニュースが飛びこんできた。昨日(3月6日)の総合理学研究科委員会(八景研究科委員会)において,下記の「緊急声明」が決議された。この決議文は、榊原徹研究科長を通じて,直ちに学長に提出され、決議文の主旨に沿ったアクションを小川恵一学長がとることを要請することになっているという。こんどこそ、榊原徹研究科長は、断固とした行動をとるように、そして、本学と全国の大学人そして市民と日本全国の人々に、名誉ある決然たる態度を示すように、希望する。民主的決議を実行に移し、実効あるものとする責任は研究科長にある。
「あり方懇」答申に対するこの種の決議は,本学の教員組織としてはじめてのもので、大変画期的な意義がある。まさに、目覚しい。
本来、率先して「あり方懇談会」答申に異議申し立てを行うべき学長はじめ評議会ほかの機関が、今まで全く異議申し立て(ばかりか,議論すら)を行わなかった[10]ことに比べて,「あり方懇」答申とそれを主導する事務局の乱暴さ・荒唐無稽さに対して,卒業生や学生・一般市民に遅れをとることなく、このような決然とした決議をあげたことは、一般社会、全国の大学人に甚大な影響を与えるものと信じる。
一般教員のなかにも怒りを沈潜させている人々が多かろう。明日(3月8日)の緊急シンポジウムなどにも参加されたい。
学長・評議会はこのような決議を踏まえ、"思考停止状態"を脱し、大学人として恥ずかしくない行動を起こされたい。
「あり方懇談会答申」について、学生・院生・社会に対し、文書による目に見える明確な意思表明が必要である。八景研究会員会が指摘した論点を含め、答申の問題点の主要なものを早急に文書にまとめ、公開し、市民と世論に訴えるべきである。記者会見を開いて、文書による異議申立てを社会に知らすべきである。
また本学と横浜市の多くの大学人は、「あり方懇談会」答申の内容が、新自由主義的民営化論であり、大学切り捨てであることを踏まえ、連帯して世論を盛り上げていただきたい。
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横浜市立大学総合理学研究科(八景研究科委員会)
緊急声明
去る2月27日に公表された「市立大学の今後のあり方懇談会」の答申には、大学で教育・研究に携わっている私たちには、どうしても受け入れることのできないさまざまな内容が含まれています。
たとえば、「市費による研究費負担は原則として行わない」という点です。
大学における研究と教育は表裏一体のものです。
特に理科系の学問においては、学生とともに「研究」を行なうことこそが最良の「教育」なのであって、両者を切り離して教育だけを行なう大学というものはあり得ません。
私たち自身も決して横浜市立大学の現状に満足しているわけではありません。
よりよい大学を作るために大学改革は不可欠のことと考え、その案を練っています。
しかし、私たちはこの答申をそのまま、長い歴史と伝統を持つ横浜市立大学の改革に反映させることは、どうしてもできないと考えます。
2003年3月6日
横浜市立大学総合理学研究科
八景研究科委員会
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2003年3月7日 独法化反対首都圏ネットワークの専門家が検討し昨日発表した「国立大学法人」法案の批判を読んだ。行政府の作成した法案が2月末に閣議で決定されたことはこのHPでも触れたところである。
現在の政府(行政府)が、どれだけ安定した21世紀の日本の命運を結する大学政策を扱いうるだけの政権であるかどうかはわからない。「構造改革」が耳たこが出きるほど繰り返されたが、現実は、空虚である。明治以来の伝統を持つ国立大学の法人化という「根本的」(表面的?)改革だけに、国民世論の真剣な検討が必要だろう。
歴史が示すように、行政府(政府・与党)の法案や政策が、社会のため、日本のためになるとは限らない。日本やドイツの当時の行政府が第2次世界大戦の火蓋を切ったことは、つねに反芻すべき現代日本・現代世界を考える場合の原点である。思考停止状態[11]に陥らず、学問科学の世界的な到達点を発展させるシステムを構築することになるのかどうかを検証しなければならない。
以下、この法案批判を紹介しておこう。
「閣議決定された法案は、その直前の「法案概要」をめぐる国大協理事会における紛糾に示されるように、国立大学側の了解を得ていない。また、法人化をめぐる強い批判・反対があるために国会提出後のこの法案の帰趨もいまだ定かでない。」
むしろ、国民、世論が真剣に法案の内容を検討すべきものである。それが、国会という国民意思決定の最高機関に反映されなければならない。試されているのは、日本の学問や科学に対する国民的認識水準である。草の根からの認識水準の引き上げと深化が必要である。
いつの時代にも、どのような問題でも、一方の極には先覚的な先進的な人間集団[12]がおり、他方の極には無知蒙昧の狭い問題関心しか持たない後進的人間集団[13]とがいる[14]。世論、諸政党の政策と態度、国会の討論がその多様性を示す。国会の決定は、結局のところ、そのような先進的集団と後進的集団の認識水準の中間的平均的水準になるだろう。だが、どこが中間的平均的水準か? それを決めるのも様々の潮流の人々の主体的営為に関わってくる。様々の潮流がぶつかり合いせめぎあう歴史のダイナミズムのなかで、中間的平均的水準が形成される。水準を形成していくのも人間であり、日本の法律水準、日本の大学制度の水準を形成する主体的責任は日本人にある。大学改革問題をつうじて、従来の水準を乗り越えていくのも日本人である。
日本国民がはたしてこの法案を通過させてしまうことになるのか、待ったをかけることになるのか、その意味で、日本国民の科学認識・学問認識、それによる制度の改革意識の水準、その全体としての力量が試されているのである。
まず第一に、設置形態と国立大学法人の性格が問題になる。
法案は、調査検討会議の「最終報告」までの、国立大学を法人とする「直接方式」ではなく、「国立大学」を設置する「国立大学法人」を設立することとしている(法案2条1項)。法案の「間接方式」によれば、学校教育法上、国立大学の費用負担の第1次的責任は法人に帰せられることになる(学校教育法5条)。国の財政責任を回避する意図が込められている。法人の自己責任を強化するための財務の仕組みがとられようとしている。
「国立大学法人」が「法人」としての独立性を持つ以上、財務基盤ば問題になる。国民(しかし、直接的には行政府)が国立大学にどのような財政基盤を提供し、その提供した財政基盤に見合って、どのように法人の責任を検証するのか、これが問題となる。その点を見ると、「国立大学の官僚的統制は現行システムよりもはるかに強まるだけでなく、法案の規定する管理運営組織などは、私立学校法が定めるそれよりもはるかに自由度の小さいものになっている」という。
本学ではすでにたくさんの事例において、現行の法体系や現行学則の規定を無視する事務局責任者の政策が実質において強行されている(「人事凍結」のやり方、評議会無視の行動など)が、「あり方懇談会」答申でその既成事実の正当化を行ない、また、今回の国立大学法人[法案]の考え方をいわば先行的に実験している、と言ったところかもしれない。
今回の法案では、「法人に設けられる学長・役員会が最終的な意思決定権限を有し、役員会、経営協議会には学外者を含むことが強制されている。かつ、経営協議会と教育研究評議会の審議事項などを見れば、従来、教授会、評議会が有していた権限は大幅に無力化される」ことになっている。
すでに大学の自治はかなりの部分で形骸化していた、骨抜きにされていたと考えるが、今回の法案によって「大学の自治」は最終的に「崩壊の危機に瀕している」ということになろう。
また、独自の国立大学法人法案ではなく、基本的には、行政法人の通則に従うものとされている。すなわち、「通則法体系に組み込まれた国立大学法人法案」である。「通則法中、特定独立行政法人(公務員型)に関する規定を除けば、通則法のほとんどの規定が「準用」され、準用されない規定のほとんどすべてが法案における同等の規定に置き換えられているにすぎない」と。
中期目標・中期計画と評価のシステムにおいても、通則法の規定が、国立大学法人に「ダイレクトに適用される。再編淘汰の仕組みがビルトインされている」と。
実質上大学の自治は形骸化されてきた。多くの良心的な人々さえ、「大学の自治」という言葉を聞くと、嘲笑的な顔つきになるほどである。
大学のなかで、「自治」に安住し、徒党を組み、数が支配するという衆愚政治が行なわれる、という側面も現実にはある。科学的精神、社会的批判にたえる学問的業績といった点で、現在の大学が自己規律を厳しくしなければならないことは多い。
だが、第2次大戦の結果として法的に確立した大学の自治の、その最後の法的形式すらも抹殺する、そのような方向性を日本国民は選ぶべきなのだろうか?
大学の自治が形骸化してきた上に、今回の法案で否定され、それが存在しない状態で、再編淘汰の仕組みが組みこまれているということは何を意味するか? だれが再編淘汰の判断をするのか? その判断主体、認識主体は何か?
大学人の自主・自律が否定され、官僚[15]統制が支配するということである。そのことは、法案の準備段階から、今回の実際の法案に規定された文言の変化がすでに証明している。すなわち、
中期目標・中期計画に関して唯一、通則法と実質的に異なりうるのは、文部科学大臣が中期目標を定める際に、「国立大学法人等の意見を聴き、当該意見に配慮する」(法案30条3項)とする規定である。国立大学の自主性を尊重するというのが、本来のこの規定の趣旨であった。当初、大学が提出する「原案」を「十分に尊重する」(調査検討会議「最終報告」)とされていた。それが多くの人々に幻想を与え、国立大学法人化への防御体制解除・理論的心理的武装解除を促した。
だが実際に提出された法案では、大学の「意見」に「配慮する」だけのものとなった。それだけ、主務大臣が中期目標を独立行政法人に付与するという通則法に近似するものになった。
普通の行政機関とは違う大学固有の自律性・自治性の否定・削減は、すでにこのような規定の変化にも現われている。行政優位、統制優位の発想である。「国立大学法人法案は、国立大学を行政の「実施機関」の如く統制・管理するシステムである」と[16]。
これで果たして科学の自由な活発な発展を促進することになるか? 目的と手段とは混同されてはならない。今回の法案のような大学改革(システム構築)で、本当に世界最先端を行く科学技術の研究を行なうことが可能か? これこそ問題である。
その根本問題に関する国民全体の平均的認識水準の到達状況がまさに問題となる。法案作成の中央官庁の官僚の認識水準を国民の認識水準が越えていることを願わずにいられない。独立行政法人化反対首都圏ネットワークのような先進的認識水準が国民のなかに浸透することを期待する。
「財務・会計」においても、企業会計原則、会計監査人、利益(剰余金)・損失の処理、財源措置など通則法36条以下の規定が全面的に適用される。財源措置に関する通則法の規定によれば、「政府は、予算の範囲内において、・・・業務の財源に充てるために必要な金額の全部又は一部に相当する金額を交付することができる」(通則法46条)とされており、国立学校特別会計の廃止(整備法2条)と相まって、運営費交付金の額は不確定な要素を多く含むことになる。
法案が、通則法に加えて規定する条項は、以下のとおりである。−積立金の使用(大臣の承認を受けた金額:法案32条1項)−通則法45条5項の「個別法に別段の定め」に基づく長期借入・債券発行(法案33条)
「これらを総合すれば、運営費交付金、剰余(積立金)などにおける大臣の裁量が広く認められることになるであろう。それは、“評価に連動した資源配分”を可能にする」と。
問題は、科学の成果・業績をだれが「評価」するか、ということである。その「評価」がはたして世界水準であるのかどうか。その「評価」が財政的金銭的な「配慮」に支配されないのかどうか。内容の空虚な「効率」などに左右されないのかどうか。そこでも、「資源配分」の限を握る判断主体がだれであるのか、が決定的に問題となる[17]。判断主体の科学性・専門性・水準などが問題となる。判断を間違えば、世界の到達点から取り残されるのであるが、その判断主体の適正な選別が行なわれるかどうか、これが決定的に問題となる。
その重要なポイントにおいて、大学人の自主性が発揮されないようなシステムになっているとすれば、どうなるか? すでに思考停止状態の人間類型、機械のような人間類型(したがって非人間的人間類型)が、大学社会を歩き回ってはいないか? そのような反省すら多くの大学人はしなくなっているのではないか? この間の本学の「あり方懇談会」や「戦略会議」をめぐる問題状況は、端的に、この深刻な問題を突き付けている(矢吹晋教授HP、佐藤真彦教授HPにリンクを張っておいたので、それらに対する批判を参照されたい)。
それでは、「国立大学法人法案」は、「大学の特性」をまったく考えていないばかげたものか? そんなことはない。言葉の上では、表面上は、そのようなばかげたことを「優秀な」官僚がするはずがない。「優秀な」官僚とは、まさにそのような表面的形式上の過ちはしないように訓練された人々であり、そのような修練を積んだ人々である。
だが本当に恐ろしいのは、ナチスの時代の研究者として指摘しておきたいのは、実は、「優秀な」エリート(官僚)なのだ。鬼の金棒[現代官僚機構]を握ったエリートこそ恐ろしいのだ。
ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の主体的推進機関・帝国保安本部の中心にいたのは「優秀な」官僚だったということである。三〇〇人ほどの「優秀な」、民族主義的人種主義的信念を持った法学部卒業生が、ホロコーストの中心にいたのだ[18]。
現在のわが国のエリート(法案作成に従事する文部科学省や財務省などの中央諸官庁)は、大学をどのような基準、どのような主義、どのような原理で「国立大学法人」に変化させようとしているか、これこそ根本的に重要なことである。
「1」 大学の特性法案3条は、法律の運用において「教育研究の特性に常に配慮しなければならない」と規定する。」模範解答だ。
「2」 通則法3条3項に独立行政法人の「業務運営における自主性」に配慮しなければならない、という規定がある」模範解答だ。
「3」 だが、歴史の悲劇をたくさん知るものからすれば、「模範解答」こそ問題がある。模範解答の背後にある理念、主義が不問に付されているからだ。模範解答を実際に運用する人間達の心性が根本的に問題なのだ。
「4」 だから、法律の問権上に「配慮」規定があったからといって、それが「どの程度実質的な意味をもつか不明」なのである。
「5」 ともあれ、しかし、法案が、大学の特性に関連して、独自の規定を有していることは明らかである。法案は、独立行政法人一般ではなく、大学に特殊な規制を加えている。法案は、以下のような通則法と異なる規定をもっている。
「6」 −学長任免における学長選考会議の申出−中期目標についての「意見」への配慮。しかし、これらがどの程度大学の自主性を保証しうるか定かでない。「配慮」する判断主体の者の考え方を忖度して、大学側がまえもって従順かつ奴隷的になっていれば、すなわち、前もって文部科学大臣の意向が分かっていれば、それにあわせた人物を申し出ることになる。文部科学大臣は、大学側の申し出を完全に配慮した、という形式は、十分に整えることが出きるのである。表面的形式的には完全に「自主性」を尊重したように見える。
「7」 学長選考会議(法案12条2項)は、経営協議会から選出される学外委員と教育研究評議会から選出される委員とが同数で構成され、場合によって学長・理事を含むことができるとされているからである。学外者の役員・委員の役割がきわめて高くなっており、これまでの教員による全学投票を慣行としてきた伝統的自治との差異は大きい。また、学長解任事由とされる「業績悪化」の規定(17条3項)は、通則法とまったく同じであり、業務の効率、財務事情などが解任事由になりうることを意味している。 後者の中期目標策定における大学の「意見」への配慮義務も前述のように法案の立案過程で弱められてきた。文部科学大臣の権限が強化されているのである。さらに、現下の中期目標・中期計画作業の実情を見るなら、大学が自主的に作成する中期目標・中期計画という考え方はほとんど形骸化する可能性が高いといえる、と。その通りであろう。
法案の大学内部の管理組織規定は、大学の内部組織が思考停止状態の機械のような人間を大量生産するシステムとなっている。首都圏ネットワークの文章をそのまま引用しておこう。
「国立大学法人に特有の管理運営組織
国立大学法人の内部組織についての詳細な規定は、通則法に見られない法案の特徴である。通則法による独立行政法人であれば、内部組織はより自主的に定めることができるはずである。すなわち、法人法案は、国立大学を統制するための法律であるといいうる。
−学長および役員会の権限
法案において、学長・役員会の権限は異様に強化されている(法案11条2項)。私立学校法における業務の決定に関する規定が「理事の過半数」(同法36条)としていることと比較しても特異である。さらに、学長の決定権限が明示されていることとの関係で、経営協議会や教育研究評議会の権限がどのような性質のものになるか不明である。
−学外者役員の必置
文部科学大臣が任命する監事、学長が任命する理事には学外者が含まれなければならない(法案14条)。理事は、法案12条7項に規定する者のうちから任命されなければならないとされている(法案13条1項)が、学外者の理事に期待されているのはおそらく、財務・人事に関する民間の経営専門家であろう。企業会計原則の採用や債券発行の可能性、職員の非公務員化などに対応するために、これらの学外専門家が導入される可能性は高い。
−経営協議会と教育研究評議会
経営協議会(法案20条)、教育研究評議会(法案21条)は、国立大学法人内の経営と教学を分離し、「経営」における学外委員を優位させる、という特徴をもっている。言うまでもなく、これは、教員の発言権を狭い「教学」の分野に閉じ込め、「経営」から排除することを意味する。さらに、両機関の審議事項から「当該国立大学、学部、学科その他の重要な組織の設置又は廃止」(法案11条2項、役員会の議決事項)が排除されている点に注目すべきである。大学内の教育研究組織の再編が「トップダウン」で行われる可能性があるということになる。
教育研究に密着したこうした問題について教授会の権限、教育研究評議会の権限が失われるとすれば重大な問題である。[19]
−部局の地位
首都圏ネットワークが公開した法案(骨子素案)に規定されていた「学部及び研究科等」に関する款が法案では全体として脱落した。学部、研究科、付置研究所等を文部科学省令で定めるとした規定がなくなったために、国立大学法人は省令によらず、法人の判断で学部等の改廃をなしうることになるものと思われる。法人の「経営」判断による学内の教育研究組織の再編成を促すねらいがあると思われる。
−不明な「国立大学」の組織
法案は、「国立大学」を設置する「国立大学法人」の組織を規定するのみで、国立大学の組織について規定するところがない。後述するように国立学校設置法が廃止されるので、学校教育法が国立大学を規制することになる。学校教育法によれば、大学の重要事項を審議するために教授会を置かなければならない(学校教育法59条)が、教学事項を含めて国立大学法人の組織に審議・決定権限が移行するために、教授会に関する規定は形骸化されるおそれがある。
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2003年3月6日 昨日は疲労困憊した。一昨日も、入試関係業務が予定より3‐4時間も遅れる事態が発生し、疲労が蓄積した。頭のなかが冴えて一晩眠った感じがせず、朝研究室に来てから昨日1日のことを思い出しながら日誌をこまごまと書き連ねた。早速読んだ親切な方々が注意してくださるところがあり、その助言に従い削除することにした。ご助言いただいた方々に厚く御礼申し上げたい。いろいろの角度からのご助言ご批判を今後ともよろしくお願いいたします。
昨日の教授会の結論のうち、「評議員が教務委員長・入試委員長を兼ねる」という決定は、国際文化学部や理学部の体制と足並みを揃えたものであり、責任と権限の関係を明確にし、事務機構改革にともなう混乱を処理する責任体制の構築としては必要な改革だったといえよう。また、経済学科の結論として提出された見解のうち、評議員(教務委員長・入試委員長それぞれ兼任の2名)の負担コマ4単位・一科目を休講とする、という措置は今後学部執行部でつめられることになるはずだが、これも、仕事の大変さから考えて妥当だろう。負担増だけ引き受けていては、教員の身体は持たない。この点もはっきりしておく必要があろう。
他方、昨日の教授会には、将来構想委員会の答申(案)が配布された。独立行政法人化の議論のなかででてきている教学と経営の分離など、大学の自治、大学の自律性、学問の自由などを脅かすいくつもの項目が目についた。それらは、国立大学法人法(案)という「悪法」の先取りをするかのようである。すでにいくつもの独法化反対ネットワークが指摘している問題点であり、大学人としては今後注意が必要であろう。
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2003年3月5日 本日の「市大を考える市民の会」通信編集者・矢吹教授のHPには、通信第11号:非常勤講師問題特集の第二弾が掲載されている。本学卒業生であり、本学の非常勤講師として、非常勤組合委員長の立場にある遠藤氏の教員組合へのメッセージ、「非常勤組合‐嘆‐」、そして、首都圏の非常勤講師組合の国会議員に対する訴えなどが掲載されている。「建学の精神」に立ち返って大学改革を考えようというとき、これら文書が示唆するところは多いと思う。学長や各学部長、評議員はぜひ読んでもらいたいものだ。
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2003年3月4日 本日の矢吹教授HPに、「市大を考える市民の会」通信第10号非常勤講師問題特集が掲載された。冒頭の横浜市在住の女性非常勤講師の「市長への手紙」は、国民番号制に対して市民一人一人の尊厳・プライヴァシーを守る態度を示している(かに見える)市長・横浜市の行政が、大学に関しては独自の見地で発展させる見識を持たず、立場の弱い非常勤講師に対する謝礼問題ではご都合主義的に国立大学の事例を持ち出していることを批判している[20]。その通りである。一貫した見識をきちんとしめすのではなく、非常勤講師謝金削減に役立つと見れば何でも引き合いに出すというご都合主義がある。その御都合主義は、大学改革問題、「あり方懇談会」の委員の人選その他にも現われている。
氏名を明らかにしたリンダ・ゴミさんの中田市長宛て手紙も、今回のような非常勤講師謝金支払方法の変更がいかに大学教育の質を悪化させ、非常勤講師の教育への内面的情熱を破壊するものであるかを説得的に論じている。
非常勤講師へのアンケート結果も重要であるが、とりわけ(5)の非常勤講師組合の遠藤委員長の主張は大学改革、「あり方懇談会」答申の問題性を明らかにする上で重要である。エーリヒ・フロムは『自由からの逃走』(邦訳あり)で、ファシズムが登場したとき多くの人にはそれに対して理論的実践的に準備がなかった、多くの人は、「弱者の権利へのそのような蔑視を信じられなかった[21]」と書いているが、大学社会における非常勤講師の弱い立場に無関心であることは、大学全体・大学の全体的な研究教育条件に対する侵害・攻撃に無関心であることと表裏一体であろう。
小川学長は「古きよき時代は終わった」、非常勤講師謝礼は「パートのおばさんよりいい時給」、といった表現で昨年3月末の突如の制度変更を正当化する無神経な発言を非常勤組合の人々に繰り返ししたようだが、そこには学長としての見識は見られず、単なる時給の金銭比較しかできないことを示し、悲しむべきことである。その無神経な発言が示すことは、「教員は商品だ」と言った発想が実は学長にもあるということなのであろう(あるいは正確には、そのような発言をするまで、事務局責任者の操り人形になっているというべきなのか?)。
同通信第10号には首都圏の非常勤講師ネットワークが国立大学行政法人化に反対を表明していることが紹介されているが、その内容・意味合いをわれわれはしっかり見つめる必要があろう。いわゆる普通の新聞で、最大の発行部数を誇る読売新聞が、この国立大学法人法(案)に関して、いくつか重要な点で問題をはらんでいることが指摘されている(佐藤真彦教授の紹介で知った)。マスコミ報道を鵜呑みにすることの危険性を教えるものとして、リンクを張っておきたい。
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2003年3月3日(AM11) 矢吹教授HPで「市大を考える市民の会」通信最新号・第9号news0303.pdf)を拝見した。重岡さんのボランタリーな活動と案内を受け取った市民の生の声がすばらしい。まさに、「市大を考える」市民の輪が、このような多様な活動で広がっている。それが実感できる。同通信第9号に掲載の次の記事、すなわち初代学長・関口泰の大学論、それを最終講義のテーマに選んだ遠山茂樹教授の講義録も、大学創設時の「建学の精神」・原点にかえって大学改革を考えよう(「あり方懇談会」答申に対する学長談話・『神奈川新聞』報道2月28日参照)とするなら(口先だけでないのならば)、「市大を考える市民の会」のみなさんだけでなく、学長や評議会メンバーは率先して熟読し、しかるべき行動をとるべきものだろう。矢吹教授HPには、本学卒業生の大学改革論(「あり方懇談会」答申批判)も掲載されている。これも答申の問題点をきちんと見ている、国立大学法人法などとの関係もきちんと踏まえている。
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2003年3月3日 いよいよ国立大学法人法(案)が、閣議決定されたということで、独立行政法人反対首都圏ネットワークの情報では、国立大学協会における反対の情報などが紹介されている。国立大学法人化の動向と公立大学法人化の動向とは密接に関連するものであり、この法案に対して、各大学が主体的にどのような態度をとるのか、学長や大学評議会の姿勢と検討が問われることになる。「あり方懇談会」の答申には「独立行政法人化」が、一項目として掲げられているが、これにどのように対処するのか、これは公立大学の歴史と存在の根幹に関わるものであり、大学の学長、評議会、教授会の態度が問われる問題である。小川学長には、全国的見地にたって、国家百年の大計を誤らないような見識を、公立大学の立場からも示すべきであると、進言した。傍観者のようにしているのか、国立大学の動向を十分に検討し、公立大学の法案に対して、主体的に行動していくのか、大きな分かれ目のように感じる。国立大学協会内部の動き、36大学から国立大学法人法案「概要」に関する意見(3分の2が法案に対する批判の論点)がだされているという。その要点は、(1)設置者が国でないこと、(2)経営と教学が分離されていること、(3)学長権限が強大であること、そして(4)学術体制のグランドデザインがないこと、の4点である、という。
とりわけ、宇都宮大学、静岡大学、高知大学、千葉大学など各大学の学長の主体的行動については、きちんと内容を確認し、どのような論点があるのか、把握しておく必要があろう。
千葉大学の各学部長などの意見書は、貴重な論点を提示しているので、これも紹介しておこう。
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[105-3-1] 国立大学協会法人化特別委員会2/20
http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/wev030224syutokenn.html
国大協理事会および各国立大学長に求める
―国大協理事会は法人化特別委員会報告を了承せず、
直ちに同報告を各大学に送付するとともに、
臨時総会の招集を議決すべきである―
2003年2月24日 独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局
2月20日に開催された国大協法人化特別委員会では、36大学から国立大学法人法案「概要」に関する意見が寄せられ、その内容が紹介された。意見の3分の2は「概要」に関して批判的なものであり、その主要な論点は、(1)設置者が国でないこと、(2)経営と教学が分離されていること、(3)学長権限が強大であること、そして(4)学術体制のグランドデザインがないこと、の4点であると伝えられている。
さらに1月31日付の法制化対応グループ文書(「国立大学法人法案の概要」について)に対しては、各方面から批判が出されたようである。これを受けて法制化対応グループは1月31日版の修正版を用意し、24日理事会に特別委員会報告として提出するとされている。
本日、国大協理事会はその特別委員会報告を了承することによって、国大協として国立大学法人法案「概要」に同意する旨の意思表示を行おうとしている(1月30日国大協会長文書)。しかしながら、本日提出される特別委員会報告は全国の大学に全く公表されておらず、当然のことながら意見を提出した大学への回答もなされていない。こうした状況のまま、本日の理事会で同報告を了承し、それをもって国大協の態度表明とすることは、理事会ならびに会長が国大協という機関を僭称することになる。
我々は国大協理事会に以下のことを要求する。
第1に、本日提出される法人化特別委員会報告を了承せず、直ちに各大学に送付すること。
第2に、準備中の国立大学法人法案ならびに関連法案の全文公開を文科省に要求すること。
第3に、国立大学法人法案について検討する国大協臨時総会招集を議決すること。
他方で現在、国大協臨時総会の開催を要求する声は全国で急速に大きくなっている。既に2月23日の段階で、34大学・大学共同利用機関の組合委員長が連名で臨時総会の開催要求を行っている。また、国立大学学長においても、1月27日に宇都宮大学、静岡大学、滋賀大学、高知大学の4学長が正式に要請したのに続いて、愛知教育大学長からの要請が同大学で決定された。また、千葉大学教職員組合からの連絡によれば、同組合の学長交渉(2月4日)席上、磯野学長は1月30日の理事会おいて4学長の臨時総会開催要求を支持した旨
発言している。宮崎大学長も、法案全文の公表を求めるなど、拙速な決定に反対している。国大協会則によれば、8分の1の会員(13大学に相当)の要求があれば総会を開催しなければならない。
各大学長におかれては、本日午後3時開催の理事会に対して、臨時総会開催の要請を集中していただきたい。日本の大学の将来が、各大学長の決断にかかっているといっても決して過言ではないのである。
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[105-6-5] 「私たちは「概要」にもとづく法案に反対します」(千葉大学の有志)
私たちは「概要」にもとづく
国立大学法人法案に反対します
文部科学省は、1月31日、国大協法人化特別委員会に対して、「国立大学法人法案の概要」
(http://www.bur.hiroshima-u.ac.jp/~houjin/agency/specialcommittees/specomsiryou.htm参照)を示しました。それによれば、国立大学の設置者は国立大学法人とされ、国立大学法人の管理運営は、「役員会」と、学外委員が過半数をしめる「経営協議会」が主に行い、国立大学としての組織は「教育研究評議会」のみで、その審議事項は狭い教学のみに限定されており、「教育研究組織」についてさえ審議事項から除外されています。
2002年3月の文部科学省の法人化問題についての「最終報告」でも、教学と経営の一体的運用を図る観点から、「大学」の組織とは別に「法人」としての固有の組織は設けないとしていました。今回の案は、このことからも大きくはずれた組織編成となっており、しかも「教育研究組織」についても審議事項とされないようでは、教学の経営に対する自律性さえ保障されないとの懸念を抱かざるをえません。これは、これまで多くの先達の不断の努力によって築きあげられてきた、学問の自由をおびやかすことにはならないでしょうか。
さらに「概要」によれば、学長の権限が非常に強大になり、私立大学の学長・理事長・総長の権限を併せもつことになります。ひとりの人に過度な権限が集中したときの組織の危うさは過去の様々な事例が示しており、たとえ大学といえども大いに懸念されます。しかるに学長選出の手順では、その時の学長・学外者の意見が極めて色濃く反映される仕組みになっており、大学構成員の意思がどこまで反映されるのか、学術の自律性が危うくならないか、危惧の念を抱かざるをえません。
以上のように、「国立大学法人法案の概要」は、教育と研究の場である国立大学を、経営優位の論理で組織しなおし、民主的な大学運営を行い難くするなど、重大な問題をはらんでいます。教育公務員特例法の第一条にある「教育公務員の職務とその責任の特殊性」についての崇高な精神などには、ほとんど配慮が払われていません。
大学の教育・研究に直接携わっている者が主体となりえないような、「概要」にもとづく国立大学法人法案に、私たちは反対します。
2003年2月13日
[呼びかけ人 (2003年2月13日現在)]
南塚 信吾 (文学部長) 田栗 正章 (前理学部長)
小川 建吾 (理学部長) 御領 謙 (元文学部長)
古在 豊樹 (園芸学部長) 水内 宏 (前教育学部長)
大日方 昂 (自然科学研究科長) 村上 雅也 (前自然科学研究科長)
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2003年3月1日 伊ヶ崎暁生「国立大学法人化と教育基本法第10条」 (2002.12.27):この教育基本法の重要条項である第10条の解説(大学の自治,学問の自由,国民の民主主義的権利)を読んだ。学長はじめ、総合理学研究科で言論抑圧に無頓着になっていた(いる)かに見える人々には是非一読を勧めたい。言論の自由、理性による批判と相互批判こそ、大学と学問・科学の命だ、ということを今一度根本から考えてみるべきだ。その根本的なことに無頓着である大学人は、大学人としての資格がないといわなければならない。(この文章もまた、公然たる批判の一つの形態である.反論があれば、お寄せいただきたい。)
さらに、独立行政法人反対首都圏ネットワークの事務局長小沢弘明氏(千葉大学)が北海道大学で行なった講演の抜粋を読んだ。印象的だったのは,次の箇所である。
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「・・・何よりも、あきらめたり、単につぶやいているだけではなくて、積極的に文句をいうことが大事でありまして、この間の状況を見ていきますと、文句をいって潰されたところなんてないんですね。例えば、教員養成系の再編統合の問題で、大体文句をいったところは止まっているわけです。できないんですね。鹿児島大学の田中学長はこの数年一貫して文句をいってきましたけれども、それによって鹿児島大学が不利益を受けたことはないんですね。むしろ文科省は一生懸命建物とかをつくって懐柔に努めようとしたらしいですけれども(笑)。学長は最後まで懐柔されなかったわけです。それと同時に、文句を言う活動として、この後、雑誌の『世界』でもう一回特集が組まれる予定ですし、それから『現代思想』も特集を組むそうですし、首都圏ネットではブックレットの発行を視野におさめておりますので、これらを通じて問題のありかを示していきたいと思っております。
また、あるべき大学像というのをわれわれの側が考えて、それを批判の論拠、批判の基礎にすえていくことが必要だと思います。つまり、こういう運動を行っていくと、今の国立大学が良いのかということが必ず出てくるわけですけれども、私の考えでは、今の国立大学ではダメだということをやはり基礎にすえなければいけない。今の国立大学のままではダメだ、ということですね。・・・」
われわれにひきつけて言えば、今の市立大学でもだめだ、改革すべきことはたくさんある、ということだろう。21世紀型の創造的で活性化した大学にするには、いまのままではだめだ、と。
科学技術の最先端の自由な担い手として、大学の自主性・自律性をもっと高める方向に、主体と制度とを変革する必要があろう。
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[1] 教員定員は、どこかに正式のデータがあるはずだが、商学部51、国際文化学部50、理学部や90名、合計で二〇〇名弱。大学教員として総数600ほどとなっているので、圧倒的多数は病院関係の教員(教授、助教授、講師、助手といった学部関係の教員ではなく、病院の医師としての教員)ということになるであろう。
[2] もちろん、「教育研究の質」は、単に教員一人当り学生数ではかれるものではない。質を維持し向上させるための研究教育条件には、他のたくさんの要因がある。
だが、経済的で効率的な基準で教員一人当り学生数を増やすことには、問題があることも事実だろう。だからこそ、これまで、水増し入学などが厳しく制限されてきたのではないか? 定員ということの意味が厳しく捉えられてきたのではないか?
[3] ナチスの時代の強制収容所において、まさにそうだった。全体としては被害者・犠牲者であるユダヤ人囚人のなかにも階層構造ができた。一切れのパン、よりましな衣服など生活条件、何日か何ヶ月かの延命のチャンスをめぐって、囚人のあいだで利権・利害と支配抑圧がぶつかり合い、渦巻く。プリーモ・レヴィ『溺れるものと救われるもの』参照。Cf.拙稿「ドイツにおける「普通の人びと」の戦争犯罪論争」日本経済評論社『評論』No.121、2000年10月。現在の本学の改革論議とそこに見られる諸潮流には、これと類比すべき現象があるように思えてならない。「あり方懇談会」答申も、日本の経済危機、財政危機における魅力的な脱出策を提示できない無力を示している。
この答申の象徴されるように、経済危機、財政危機など乗り越えていくべき課題の荒波が大学にも押し寄せているが、どのようにすれば大学人の出きるだけ多くの力を結集してこれを乗り切ることができるか? 現在の危険な徴候は、新原さんが「最終講義」で指摘していたあの芥川の小説「くもの糸」のような現象の出現である。
[4] デカルトは言う。「完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかない」(岩波文庫版38ページ)と。それでは、大学を本学の大学人の一人一人は、どのように捉えているのか。その思想はなになのか?
大学をどのような思想と理念で維持し発展させようとしているのか?
その総結集の場として評議会があり、統合するものとして学長があるだろう。
学長は理念と思想を示すべきだろう。廃校の恫喝を背景に強引に推し進められる民営化でいいのか? それに対峙する大学人としての毅然とした思想と理念をもっているのか? そのような大学人の思想と理念を、大学人の総力を結集して打ち固めなくていいのか?
[5] これは、遠くの国のこと、昔のことではない。
大学を支配する事務当局者・行政の責任者が「設置者」を僭称し、設置者権限を振りまわしてはいないか?
予算の見積もり配分の単なる事務処理を行なうにすぎない事務局が、あたかも予算を所有し、予算を左右する雰囲気はないか? これに、思考停止状態の大学人が追随してはいないか? 事務局はその自らの職務の限界をわきまえているか?
もっとも肝心のこと、すなわち、設置者である真の市民のことを忘れてはないか? 事務局の顔色を見て、陰でこそこそ交渉する人間はいないか? 学費値上げなども、事務局責任者を困らせないなどという「配慮」で、評議会で審議もしない。その精神構造はどうなっているか?
市民、市民といい、地域貢献、地域貢献というが、事務局責任者・行政当局者の都合の言い「市民」をでっち上げてはいないか? 地域とはなにか? 地域の人々が市大を考えることをできるだけ阻止するように立て看板を撤去することと、地域貢献を声高に叫こととは整合するのか?
新原さんが第2回シンポジウム基調報告で、その冒頭で指摘されたことは、まさにこの根本問題だった。「あり方懇談会」答申のいう「市民」とは一体なんですか、と。
われわれ一人に、市民の内容理解が問われ、地域貢献の意味理解が問われている。
問題の本質は、市民、国民の真の希望、真の意思をどこまで、どのように反映しているか、その条件はなにか、市民国民のおかれた状況は何か、列強が血で血を洗う世界大戦の時代かそうではないのか、現代はなにか、などであろう。
[6] 私は、この大問題をきっかけに、研究生について、その研究料とサービスとの相互関係を考えさせられたから、非常に記憶が鮮明である。
[7] 実は、「忘れ去られている」のか、本当のことを隠蔽し抑圧したいのか、じっくり考え得るべき点があるが、ここではさしあたり触れないでおこう。
[8] 本HP読者から、早速つぎのような意見をいただいた。
「小川学長からの返事は,永岑先生の公開質問や佐藤先生の「部外秘資料が語る横浜市立大学独裁官僚・・・」などで指摘された問題に対し,誠意ある回答にまったくなっておりません.
責任あるリーダーとしてだけでなく,論理を重んじる科学者(物理学者)としても失格であることを告げ,このようないい加減な返答をもって,回答したという実績だけを残させることなく,あくまでも誠意ある回答を求めるようにお願い致します.
学長がこのような回答を続けることで,やがて,すでに判明しかかっている学長の素
顔を,(市民にも分かるように整理して追及し)さらに浮き彫りにできると思います.
あり方懇答申に対しても,本来真っ先に反論すべきところをそうしないことで,(また,一般教員も沈黙していることで+市長も賛同することで)あり方懇答申通りの路線に進んでしまいつつあるという現状に対する学長責任の重大さを考えれば,追及の手を緩める必要はまったくないと思います」と。
もっともである。ことは大学の命運、大学の生命に関わっている。
私は、大学の学長と事務局責任者の根本的姿勢が問題ではないかと言うことを、改めて発生した立て看板撤去事件で重ねて指摘しているところである。学長、事務局責任者が今後どのような態度を取るか、無視を続けるかどうか、みていきたい。追及を止めたわけではない。私が鈍くなっても、私のHP読者が厳しい目を持ちつづけている。
学長、事務局責任者の根本姿勢が改まっていないかぎり、重ねて問題が発生する。このことは、すでに榊原研究科長と学長宛ての意見書で指摘したところである。
以上のHP掲載記事を見た人から、「論理を重んじる科学者(物理学者)としても失格である」という「ご意見に賛成です。科学者が小役人の下僕になってはおしまい」との意見も寄せられた。このような意見がすでに出されていることを公開し、学長ご自身と広く読者の検討をお願いしたい。言論に対しては、言論をもって、堂々と反論を公開されたい。
[9] 「市民の会」通信第14号で、シンポジウム準備委員有志が、学長、事務局長、総務部長、総務課長宛てに抗議と釈明を求め、その文章を公開したので、参照されたい。
[10] これは、まさに「思考停止状態」というべきではないか? 拱手傍観の態度というべきではないか?
[11] 「戦略会議は,管理者的教員の"民主的協議"に基づく委員会という体裁をとっているが,事実は"辣腕"官僚の完全支配下にある"思考停止状態"というのが実態である。」総合理学研究科・佐藤真彦教授のこの文言(「部外秘資料が語る横浜市立大学独裁官僚と似非民主制 佐藤真彦03-1-28」の「2つの委員会を支配する"独裁官僚"」の節参照)は、たんに本学の戦略会議だけではなく、日本の大学の多くの組織にも見られることのように実感する。他人事だと思う大学人は、身体全体が現状にどっぷりつかっている、満足した保守派ということである。
[12] これはことの本質からして、数の上ではいつも少数派である。歴史上の様々の分野の天才は、この少数派の先頭を走るものである。
[13] これはことの本質からして、数の上ではいつも多数を形成する。衆愚の上に安住するのが保守派である。頑迷固陋な部分は、根底から自分の存在を否定されるまで、古い制度・意識にしがみつく。
[14] ガリレオの発見した科学的真理、たとえば地動説が、民衆の認識となるまでに一体何世紀が必要だったか?
権力(実利実益配分)と「権威」を持つものが、無知蒙昧と偏見に凝り固まっているとき、悲劇が大きくなる。コペルニクスなど世界の天才は、自分の科学的発見を公表することを恐れた。死後に公表することにした。生きているときは、真理の発見に没頭した。デカルトも、同じようなことを書いている。
知識としては多くの人がこのようなことを知っている。だが、それはあくまで知識に留まり、他人事である。自分が抑圧の側にたち、自由な研究と発想をおさえる権力の側にいるということは、なかなか反省されることがない。自分が「自由」なので、他人が不自由だとは理解できない。
[15] 官僚は、何を判断基準にするのか?
大学をコントロールする主体の認識内容と水準が、きわめて重要になる。
実際には、各種の官僚に擦り寄る当該大学のなかの飼い猫のような平均以下的人間が支配するということである。
[16] デカルトの文章を比喩的に引用しよう。大学制度を、「根底からすべて変えたり、正しく建て直すために転覆したりして改造しようとすることは、まったく理に反しているし、さらに同様に、学問の全体系や、その教育のために学校で確立している秩序を改変しようとするのも理に反している」と。『方法序説』岩波文庫版、23ページ。
形骸化してきた大学の自治や学問の自由の深化発展、大学の真の意味での自主性や批判性の新しい創造こそが大切だと思われるが、事態は逆に、官僚統制強化の方向、経営主義的大学改変、国公立大学の民間企業化の方向性が進んでいるようである。
[17] この点で疑問を持っている人といない人とでは、相当な差がある。割きに紹介したノーベル賞科学者・小柴昌俊氏など世界の優秀な人々の発言に耳を傾けるか、自分の狭い利益に閉じこもるか?
[18] 人間が作り出した法律を紙のように崇め奉る現象、物神化現象はいたるところにみられるのであり、条文としての法律を崇め奉る人々は、その一つのタイプである。
だから、法学部と聞くだけで偉いかのような錯覚をする人々に対し、「ア法学部」と揶揄する人もいる。明治の昔から、「三百代言」という批判的で醒めた見方が流布しているのでわざわざ言う必要もないかもしれないが、「法律家」にもいろいろなタイプと水準があるので、よく注意する必要がある。どの学問分野でも、その主体的担い手の水準をよく検証し注意しないと、大変なことになる。
これは、歴史の悲劇をたくさん見てきた歴史研究者が言っておくべき警告であろう。
だが、そのような警告を時に応じて発信するという歴史家・歴史学の独自の意義と効用は、「効率化」「経営」優先の大学ではどうなるだろうか? 経営優先、効率優先の大学は、歴史学をどのように扱うであろうか?
[19] まさに、本学で、一昨年4月以来、連続して起きてきたことは、この先例となるであろう。
[20] 実際には、市民諸個人のプライヴァシー、人間としての尊厳を守るということについても、不徹底であるということを意味していないであろうか? よく考えてみる必要がある。
[21] Erich Fromm, Die Furcht vor der
Freiheit(1941), dtv.35024, München 1990(10. Auflage Juli 2002), S.12. 非常勤講師問題に対応一つ問っても、弱者の人間的尊厳、弱者の権利に無神経になっていることが露呈している。