2月29日(4) 学長候補所信表明のときに医学部候補の一人から、かなり深刻な問題があることが、最後の5分間の「出馬の経過の説明」でなされたが、非公式情報によれば、この問題がどうも悪い方向で進展しているようである。あるサイトで、「不穏な空気」とされていたことは、どうもこのあたりにも関係ありそうである[1]。
本学(法人・大学の最高指導部)には、こうした問題を処理する統治能力ありや?
噂が本当なら、副理事長は3月末で辞任の意向という。なぜ?
副理事長二人(経営最高責任者と学長)が、二人もいなくなるなかで、理事長の責任はどうなるか?
首脳部の欠けたところで、市当局派遣のOB(OG)・事務局長が力を持つか?
新学長が早々と乗り込んできて(誰と組んで?)、「大鉈」を振るうか?
大学内(法人・大学)の統治能力欠如状態は、学内基盤がない新学長のチャンスか?
あるいは、この機に乗じて、誰かが行動を起こすか?
いったいどうなるのか?
学生の悲痛な思いや苦境などほったらかして、法人・大学の首脳部は、それどころではないというのが本当のところか?
医学部の問題も大変だが、国際総合科学部のPEを中心とする諸問題も大変な局面だが・・・
非公式情報をもとに、推測を述べると、選考委員会では、最初に医学部からの候補二人が「内部割れ」等の理由で対象外とされたという。残りの4人をどのように絞ろうと、過半数の3を根回しで握っているものが勝ち、と。投票結果は、3:2で割れたという。
事実とすれば、委員長は、同数の場合のみ、投票権を行使するという規定ということなので、勝負は、委員長抜きで決まった、ということになろう。私の勝手な推測では、経営審議会サイドががっちり2名で組み、外部委員の一人を経営サイドが任命していればこの外部委員に根回しすれば、F候補に3名となる。
学内委員(副学長と病院長)がこれにたいして、別の候補を推した,のではないか。しかし、2人が結束しても、過半数は絶対に取れない構造、といった推測である。多分、私の情報不足で、本当は別のシナリオなのであろうが・・・本来なら、教育研究審議会の学内委員二人が結束すれば、ほかの選考委員がそれを尊重してもいいようなものだが、そうではなかったということでもあろう。
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2月29日(3) 日本人が、現在の日本国憲法の草案作成に当たってひとつの大きな役割を演じたことを示す映画『日本の青空』が、本学および金沢公会堂で上映されることになった。主人公は、憲法学者・鈴木安蔵である[2]。本学では、学生・院生・教職員の自発的な参加を求め、参加した人々の共感の輪によって、ほかの学生院生や一般の市民にも、鑑賞を薦めようという計画が進行している。
私自身は、本学内部の上映会(3月14日)には、海外出張(科研費)中で日本にいないので、残念ながら、参加できない。しかし、上映会の趣旨には賛同するので、この場を借りて、院生や学生諸君の参加を呼びかけたい。
金沢公会堂で開催される一般市民向けの上映会・鑑賞会は、4月17日。
この日は、午後、ベルリン大学(フンボルト大学)のケルブレ教授を国際学術セミナー、学部・大学院のセミナーに招聘したいと考えているので、午前の部なら、参加できるかもしれない。
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2月29日(2)TOEFL500点を「進級基準」とする学長・副学長・学部長の方針(欺瞞的に「中期計画」などを金科玉条に「変更できない」などとしているが、「卒業要件」としたり「ハードル引き下げ」を行っている医学部の実例(独自の自立的自治的判断・政策)を見ても、それは偽りであることは明確。「変更しない」という態度は学長・副学長・学部長の意思でしかない、あるいは、彼らを任命した法人・市当局の態度でしかない)によって、この間、辛酸をなめてきた学生、2年間の留年を余儀なくされる学生が、PEの実力を付けるために「休学しかない」と、休学許可願いを提出した。事務当局(窓口)は、「許可できない」との「決定」を学生に申し渡したそうでる。
事務当局(学務窓口)は、しかるべき審議決定機関の決定を受けて行動しているはずである。
それでは、いったい、いかなる機関・責任者が、いつ、この学生の休学願いを検討し、どのような審議を行い、決定したのか?
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2月29日(1) 『カメリア通信』第54号(本日付)を受け取った。学長選考の問題性に関する根底的な問いかけがなされている。「市当局のコントロール」が、今回の学長選考に露骨に出ている、という主張内容である、と理解する。私もそう考える。すくなくとも、一般教員の推薦を受けた人物はすべて落とされている。選考委員を選ぶのも、その後の処理も、大学の一般教員の一切かかわりないところで行われている。すべて、市当局が任命した人々によって、執行されている。大学の自治はない。
大学の構成員による自由な秘密の意思表明・意向表明による自治は、存在しない。市当局が任命したものたちの間での力関係・影響力・意思決定力がどうであるかは別として、市当局任命者たち(理事長・副理事長・大学事務局長など)によって、すべてがと執り行われている。その意味では、完全な「市当局コントロール」のもとにある。
ある有力者と立ち話したら、「今回は、市当局のコントロールはありませんでした」という。「なかった」ということをどのように証明するのだろうか?なぜ、そんなことをこの有力者は知っているのだろうか?「語るに落ちた」ということではなかろうか?上記のような意味での完全な市当局コントロール下にあるという現実は、どう見るのか?
この有力者の今後の行動を見れば、検証できるであろう。
ともあれ、下記の主張にもあるように、「市当局のコントロール」が効く2名の人物が、選考委員会のなかにいることは事実である。
OB・OGだから、というのでコントロールが効かない、というのは、「天下り」問題など、全国的・全社会的に問題になっていることを、嘲笑するものであろう[3]。
文書にもとづいて検証できるのは、今回の新学長の推薦者が誰であるか、これを公文書公開で明らかにさせればいいであろう。ただちに、その推薦者がほかの人に働きかけたということが浮かび上がってこよう。そう推測するのが、妥当であろう。
「ロス疑惑」ではないが、当面、個人情報などという口実で、文書資料を隠蔽することに成功しても、いずれは、本当のことが日の目を見るであろう。
下記主張においては、「今回、布施氏を学長にしたのが本当のところ誰なのかは分からない」としている。しかし、「過半数」を得るにあたって、行動した人間がいるはずである。それは、わずか6名の委員の中なのだから、特定できるはずである。今回の候補に賛成投票した人間のいずれかであることは、確実である。だれか?
誰が、誰の推薦(依頼・コントロール)を受けて、動いたのか? 各選考委員の態度表明が明確になれば、それがはっきりする。
一般の選挙のように、不特定多数者の秘密自由投票ならば、「誰か」を特定できない(権力・筋力などもたない弱い立場のものを守るには、秘密・自由投票しかない)。
しかし、「幸いにも(?)」、問題となるのは、わずか6名である。その一人一人の責任が問われている。
下記、主張も言うように、問題なのは、制度そのものにあると同時に[4]、選考委員会の選考委員の見識・選考理由がまったく不透明であり、社会的説明責任を欠如しているということである。今回もまた大学内部からの推薦を受けなかった(受けることができなかった)と思われる候補が、なぜ過半数を取りえたのか、という疑惑が浮上しているのである。
そのことが合理的に説明されなければ、すなわち、各選考委員の責任ある選考理由の説明抜きには、疑惑は疑惑として残り続けるであろう。
それは、大学の自由で民主主義的な発展にっては、マイナスでしかないであろう。(下線は、引用者による)
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横浜市立大学の未来を考える
『カメリア通信』第54号
2008年2月29日(不定期刊メールマガジン)
Camellia
News No.54, by the Committee for Concerned YCU Scholars
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学長選考の意味するもの――悪い制度から悪い結果――
国際総合科学部 一楽重雄
2月25日に横浜市立大学の新学長の選考結果が発表された。24日に候補者の面接審査があった翌日という超スピードであったが、驚くにはあたらない。すなわち、選考が始まる前から決まっていたというのである。この噂には、今のところ証拠はない。しかし、大学内部のものにとってはいかにも腑に落ちる話なのである。所信表明を聞いたものにとっては、とてもあり得ないと思った布施候補に決まったからである。この所信表明も実に中途半端である。教職員しか入場できない。そして、教職員に投票権が与えられているわけでもない。普通に考えて、いったいどういう意味があるのだろうか。なぜ一般公開しないのか、そのわけが今回の結果でよくわかった。教職員に限っておけば、マスコミは直接取材が出来ないからである。
教員組合も指摘しているように、市大の学長選考の制度は、まったく非民主的であり「悪い制度」である。一般論で言えば、悪い制度にもかかわらず、関係する人々の努力によって、悪くない結果をもたらすこともある。今回の結果は、まったく逆であって、制度の欠点がそのまま結果として出てきたと言えよう。学長選考という大学にとってとても重要なことについては、「公正らしさ」が求められる。しかし、市大の制度には、最初からそれが欠けている。実際に「公正」であるかどうかは、委員個人の胸に聞くしかないが「公正らしさ」は検証可能である。今回の学長選考委員会の構成を見ると、まったく「公正らしさ」は担保されていない。
選考委員会のメンバーが、市に直接関係している、あるいは、過去に関係していた人が2名、大学幹部が2名、その他に外部委員が2名という人選である。外部委員なら、常に公正であるということも元々あり得ない話であって、むしろ、お金の出所に忠誠を尽くすのは一般的にありうることである。よほどの人でないとその地位をかけてまでも信念に沿った行動をするということはなかなかできない。
こんな構成では、横浜市が圧力をかけることは容易である。しかし、市の幹部に良識があれば、憲法の保障する学問の自由の意味を分かっていれば、選考委員に圧力をかけるなんてことはありえない。また、見識を持った選考委員であれば、権力の圧力に屈することもない。そのような場合は、悪い制度であっても必ずしも悪い結果は生じない。
どうやら、今回は違うようだ。直接証拠はまだ入手していないが、状況から見れば大学の自治への干渉という大きな問題が発生したことは確かなことだと思う。
大学の公式ホームページには以下のような選考理由が掲げられている。
学長選考会議では、「大学運営に関して、どのような問題があると考えているのか」「問題解決のために、どのようなことが必要と考えているのか」「どのような大学にしていきたいのかという抱負について」の3点を評価基準とし、所信表明・面接等をもとに慎重かつ公平な審議を行いました。最終的には投票の結果、布施 勉 氏が過半数の票を獲得し選考されました。
上の評価基準に照らして、どうして布施氏に決定したのか、摩訶不思議としか言いようがない。このような少数で選考するのであるから、もともと、多数決で決めさえすればよいというものではない。投票結果ではなく選考理由が明快で納得のいくものでなければならないはずである。
選考基準を公表しても、いわば試験問題を公表しただけであって、各人の答えがそれにふさわしかったかどうか、そこが示されなければまったくもって「選考理由」にはなっていない。
なぜ私が、布施候補がもっともふさわしくない候補であると考えたのか、その根拠を述べよう。
第1に、布施候補ほど大学内で人望のない人はめったにいない。前回の学長選考の際に、支持者が推薦人15人を集められなかったという話は、大学内部ではよく知られた話である。また、そのことには理由がある。すなわち、市大の「改革」前夜に、多くの教授会の決議がなされ、教員の多くが横浜市という権力の横暴と戦っていたその時期に「大学改革を推進する会」を発足させたと神奈川新聞に報じられたのである。もちろん、思想信条の自由から言って、そのことだけで不見識だというつもりはない。しかし、その発表内容が真実を伴わないとすれば、それは非難に値しよう。当時の「小島、馬来、布施」の3教授が会を作ったという新聞報道はあったが、その会がまったく実態を持たないものだった。会合を開いたこともなければ、会員の勧誘もなかったし、会主催の行事も聞いたことがない。念のため、前回の学長選考の折に、私は布施候補にこの会の活動内容を教えてくれるよう質問状を出したが、回答はまったくなかった。
教職員の信頼を集めることができない人が学長として十分な責務を果たせるとは思えない。
第2に、その後の大学改革では、教員と対立して強権的にことを進めた。現在のPractical English問題の一番の責任者は布施氏なのである。教員サイドの強い反対を押し切って、3年への進級条件としてTOEFL 500点を課すことを制度化したのである。この問題がいよいよ大詰めを迎える今、布施氏の登板は事態を一層の混迷に陥らせるだけであろう。
今回、布施氏を学長にしたのが本当のところ誰なのかは分からないが、その人は市大の現実をまったく見誤っているとしか思えない。外部にいてまったく市大の状況が分かっていないと思われる矢部候補と布施候補を除いて、他の4候補はみんな現状に問題を感じ、このまま改革路線を続けさえすればよいと言った人はいなかった。また、ストロナク現学長も「プロジェクトRは外部だった、今度は内部で学部のあり方を考えなければならない」と我々教員に呼びかけていたのである。誰の目にも、今回の改革が大きな問題をかかえていることが誰の目にも明らかになっているのである。そんな時期に改革当初の責任者が大学に戻って何ができるというのであろうか。
今後、布施氏は教員を押さえつけ、改革路線を突っ走るばかりであろうが、そこには非暴力不服従やサボタージュといった抗議行動が発生するだろう。あるいは、短期的には改革が進むようにも見えることもあるかも知れないが、本質的には矛盾を増大させるばかりであり、そう遠くない将来に自壊の道をたどるに違いない。
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編集発行人: 矢吹晋(元教員) 連絡先: yabuki@ca2.so-net.ne.jp
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2月28日 PE留年問題の悲劇(カリキュラム編成・成績認定における教授会自治・大学自治の破壊状態との関連)は、新学長の経歴と選ばれ方とも関連して、広く関心を呼び始めている。ストロナク学長の新聞における発言は、明確に、「2割の留年」を確認している。この傾向が、もう一年続けば(滞留していけば)、すぐに一学年定員数の4割相当が留年ということになる[5]。これは、異常でしかない。
こんなことが許されるのか?
大学と法人の管理職(「上から」任命されたものだけで構成されている人々)周辺だけで、お互いほめあって、「80パーセント・クリアはたいしたものだ」、「大きな成果だ」などといっていて、すむ問題か?
「8割クリア」は、確かに、一面で、大きな成果である。だが、その裏面に巨大な犠牲、カリキュラム履修上のマイナス面はないのか? 8割の学生諸君が、どのような時間と精力を注いだのか、出席強制のもとにほかの科目をどのように犠牲にしたのか、残りの2割の諸君の多大な犠牲はどうなるのか[6]、そうした総合的評価が必要なはずなのである。
学生の視点はどこにあるのか?
学生全体への目配りはどこにあるのか?
学生の綜合的能力向上という見地での、評価視点で見た場合どうなるのか?
教育の質全体の向上という点で見た場合、どう評価されるべきなのか?(大学評価の重要視点・・・[大学評価学会])
PEだけを異常に重視(という名の強制を)することは、学生重視といえるのか?
むしろ、学生虐待ではないか?
学生諸君の専門分野・得意分野の違いを尊重し、彼らの多様な希望、多様な志向・進路、多彩な能力・個性を伸ばそうとする見地からは。
荒々しいやり方で、地位を保ち続けている(今後ももち続けようとする)人々には、「中期目標」、「中期計画」を金科玉条に[7]することが、保身のため、実利に即しているとしても。
中心で鞭を振るい続けている人々、「ブリキの太鼓をたたいている少年」(ならまだしも、熟年・老人?)たちも、そろそろ眼を覚ますべきではないか?
PE強制の総責任者(最高責任者)を「根回し」して(誰が?どのように?-推薦者は経営審議会の誰?)新学長にすえたことの背景・意図は何か?
責任を取らせるつもりか(所信表明では見直しなど言及しないどころか、原則堅持の態度だったが)、同じような路線を次の中期目標にも入れさせるためか?
この間、PEセンターができたために、われわれ一般教員に対するPEの達成状況のデータ開示などがまったくといっていいほど行われなくなった。最初は、ゼミの学生の達成度(割合)なども開示されていたが、現在では、「個人情報」なる名目の元に、開示されることがない。ゼミ生がどのような状況にあるのかさえ秘密にするのが、現在のやり方である。「病膏肓」ということなのかもしれない。
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2月27日 教員組合ニュースが発行された。私の「この一年を振り返って」も掲載されているので気が引けるが、この一年間何が問題となり、何が積み残し課題であるかの概観のために、リンク(組合HP)を張っておこう。
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2月26日(3) 医学部関係者から、医学部医学科の卒業要件との規定は、「募集要項にも掲載」との電話連絡をいただいた。
また、看護学科に関する卒業要件の点数も、すでに制度発足の夏の時点では、確定していたとの情報をいただいた。
正式にどこで決まったのか、そうしたことは、調べればわかるであろう。
私の言いたいことは、学部の独立性と自主性・自律性があれば(学校教育法に基づく重要審議事項としてのカリキュラムの決定権を教授会が行使すれば)、プラクティカル・イングリッシュを重視するという基本原則の下でも、柔軟な対応が可能だ、ということである。
「重視」の意味内容を、この間の経験に即してきちんと考えれば、分野・コースを問わない一律の「進級基準の強制」ということにはならないはずである。かえって、PE憎悪の学生を増やしているのが現実なのである。英文読解など入試段階では英語が比較的できた学生でも、絶望感にさいなまれている人もいる。PEのために大学を休学してまで、専門学校に通わなければならないと訴えてくる学生さん。他方、不得意クリアした学生のかなりの諸君が、もうPEなど見たくもやりたくもない、という気分になっている。
本来、TOEFL500点などは通過点にしか過ぎず、実力をつけるためには、次々とさらなる意欲的取り組みが必要なのだが、そうした動機付けにどこまで成功しているのか、はなはだ疑わしい。これで、「PE重視」といえるのか?
あまりにも、進級基準を強調するものだから、通過したものは、何かものすごいことをしたような優越感にさえ浸っているという。その実、かつての学生がこなしたような英文を読めない学生も出ているという。ゆがんだ、おかしな現象はいくつも見聞する。
この間、各方面から改善のための合理的で柔軟な主張の数々が出ているにもかかわらず、また、たくさんの学生の苦悩、勉学放棄、PE憎悪、PE嫌悪感、その他の悲劇にもかかわらず、硬直的な態度を3年間も頑固に継続してきた、その姿勢に、その姿勢を学長以下の管理職が固執してきたところに、根本問題がある、というのが私の見地であり、多くの教員の意見である。そうした硬直的官僚的画一主義の態度を、かえるべきだということである。「2割くらいの留年や脱落は、アメリカなら普通だ」などというが、ここはアメリカではないのである。
硬直的な、分野・コースを問わない「進級条件」というような、およそ教養ある大学にあるまじき画一的基準とその強制を、これでもかこれでもかと、現実の提起している問題、学生諸君の苦悩を直視しないで続けてきた官僚主義的態度こそ、この際、根底から排除・払拭すべきである。教育における自由と民主主義を口先ではなく、行動で実現すべきなのである。
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2月26日(2) PEに関して、医学部からの情報が寄せられた。それに対する私の回答。念のためにいえば、「卒業要件」がいいというのではない。ほかの科目と同じように、各人の能力・意欲・努力は、それぞれの科目に関して、段階的であり、したがって、秀、優、良、可、不可の段階的な成績評価・成績認定が、bon sensであり、個性・個人を重んじる合理的で教養ある民主主義的な態度だと、私は考える。
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客観的データをありがとうございます。
最初から、その噂は聞いていました。
同じ大学でも、学部により、自立性の高いところは、そのような独自の判断ができたのです。
Fさんととそれに追随した(どちらが追随したのかわかりませんが)関内からの当時の豪腕派遣幹部やその他学内の便乗主義の人々が、国際総合科学部の「売り物」として、大々的に宣伝するものとして、PEの一律強制をやったのです。
まったくばかばかしい限りで、その被害者は、多くの学生です。
取り急ぎ、御礼まで。
----- Original Message
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ご存じかもしれませんが、医学部のPEについてお知らせします。
医学科では、卒業要件と聞いています。誰が、何時、どの場で決めたかは不明で
す。
看護学科は、・・・点に引き下げたと聞いています。詳細はY先生にお聞きくだ
さい。
掲示物を添付ファイルとしてお送り致します。右下の日付は掲示期間の誤りで
す。
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2月26日(1) 本学卒業生から、下記のようなメールがあり、それに対して、グローバル化・世界的競争の現実を踏まえた下記のような返事を出した。
(日本学術会議が、2月26日付で、ピアレヴューの現段階の問題性を公表した(●我が国における研究評価の現状とその在り方について
)[8]。大局的傾向と現段階の問題性との双方をきちんとみる必要があるということだろう。)
----------卒業生への返事------------
「ピア・レビュー」は、さまざまのところで行われます。
旧7帝大系がまだ強いとしても、ピア・レヴューをやらなければ、それで評価が高くなければ、生き残れない分野が広がり、しかも、そのピア・レヴューは、いまやますます世界的規模になってきています。
その意味では、「額に汗して春を待つ」人々が、つまり、本当に仕事をし、成果・実績を上げている人が、ますます日の目を見るような大局的傾向は貫徹していると、私は考えています。
そのためにも、一人一人ががんばる必要があると。
御礼まで。
----- Original Message
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日本の学者の世界も学歴社会です.
とくにその傾向は人文科学・社会科学で著しく,東京大学教授を頂点としたヒエラルキーが確立しています.
他方,基礎医学系では先生のおっしゃるピア・レビューが確立しているのでしょうか,他分野ほど学閥はないように思います.
日本の大学には,大学間の格差があります.それは厳然たる事実です.しかし,なぜ真理の探究の府にあらかじめ格差が付与されているのか,考えてみればおかしなことです.誰が何のために大学を格差付け,序列化をしているのでしょうか.
こんな子どものようなことをいって,先生には笑われるでしょうが,僕の偽らざる気持ちです.
学者の国会といわれる日本学術会議としても,研究者の評価はピア・レビューを徹底し,学歴によって研究者を差別しないことを明言するべきだと思います.
横浜市立大学を含め各大学には長い歴史と伝統があるのだから,それを真に継承して発展させることが真の改革です.大学を金勘定でしか見られない人物に首長の資格はありません.真理に対する冒涜といえるでしょう.
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2月25日(5) 学内公示があったことを教えていただいた。非公式情報のとおりだった(神奈川新聞関係ブログにも出ているとの連絡あり:17時過ぎ)。われわれとしては、本学の学長たるものは、矢吹名誉教授のような方であるべきだ、学問的業績のきちんとある方、国内外で評価される方、全国的に評価される業績をお持ちの方、学内に支持基盤がきちんとある方、との主張を展開できたので、それだけで、もって瞑すべし、あとは黙して語るなかれ、ということなのだろう、か。ほかの候補を推した人々も、それぞれにその思いをお持ちだろう。ただ、結果的には、これまでのさまざまのつながりからして、いろいろな意味でのマイノリティが今回も敗北した、ということだけは確実のようである。
いろいろな意味でのマイノリティは、15名の推薦人を何とか集めることに成功し、矢吹先生にご出馬願い、公の場で主張を展開できたこと、これだけでも、満足すべきなのかもしれない。
「外部から」決められる今回のような形の結果を予想して、現在の学長選挙制度自体の根本的問題を指摘している人もいるのであるが、どのような候補が、どのような支持を得て、どのような主張を展開したのか、どのような候補が学内推薦なしに「外からの根回し」によって選ばれたのか、といった事実関係を公然と世の中に示したことは、意味があったと考える。
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ご存じかもしれませんが、学長選考結果が、
教職員の方へ → 学内専用情報に載りました。
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2月25日(4) やはり、一番信じられないこと、私など大学の自治(行政当局からの大学の独立性)のかろうじての残存を信じているものからすれば、デマ情報としか思えなかったことがおきたようだ。TOEFLの進級基準の強制などを決めたときの一番の責任者である。立候補の所信表明では、「原則変更しない」としていたが。さて、どうなることか?
F氏は、前々回、医学部O氏のバックを受けて学長選挙に出馬した(所属学部からは推薦されなかった)が、それ以来、3度目の正直、となったわけだ。医学部O氏の勢力からは、大きな支援を受けることになりそうである。F氏の下で、果たして大学の融和は図れるのか?
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昼過ぎよる、医学部では、学長はF氏との情報が流れていましたが
市会議員の掲示板に、何故か、投稿されていました。
先生のブログの通りでした。
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以下掲示板をコピ−&ペ−ストします。
太田正孝の掲示板
市大学長、布施氏に決定!選挙は形だけ、市長筋の指令との情報
投稿者:M機関・調査部 投稿日:2008年 2月25日(月)14時16分39秒
学長選挙で問題なのは、これが形だけの選挙であり、事実上
令で行なわれていることである。新体制下初代学長ストロナク氏の
だった。つまり、候補者は教育審議会と経営審議会
免権をもっているのは市長―からそれぞれ2名以内を限度として推
者、または15名以上の教員の推挙を受けた者だけが立候補を許さ
だ。つまり、一般教員に立候補できる道が開かれているとしても
のこと。というのは、理事会が任命するわずか6名から成る学長選
長を決めるというシステムになっているからだ。その理事会は市長
結局は学長選挙といっても市長のムネひとつで決まる構造になって
その結果。松下政経塾ともゆかりのある布施氏に、当初の決定予定
で、本日、発表となったものである。
詳細は、追って、この欄で報告したい。
市大新学長 布施氏 の事
投稿者:事情通 投稿日:2008年 2月25日(月)14時24分17秒
航空自衛隊出身の布施氏は市大教授を経て、松下政経塾に関係した
らく講師か?)をもち、前回学長選挙でストロナク氏と争った人物
とき選考委員会の単純多数決では勝てたものの、中田市長の一声で
に譲らなければならなくなった人でもあると聞く。その代償として
体制下で副学長を歴任し、定年退職後は市大顧問(月給50万円と
す)、その後は市の監査に任命された。これは、市大教授歴10年
の処遇としては異例のことであったらしい。慣例では
定年後における就職の世話は受けないのがふつうで、つまり
氏を学長にするための「当て馬」にされた補償として過分の地位が
して、次代学長の地位が約束されていたようにも思える
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2月25日(3) 今は一組合員になったが、新執行部に対しても、下記のような趣旨の要望を送った。組合執行部も、任期制問題、テニュア制問題などで忙しいのだが・・・・
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学部長などには、下記のようなメールを送りました。
しかし、一教員、一組合員の立場でのものです。
やはり、組合執行部からも、学生・保護者たちの窮状を見るに見かねて、申し入れはすべきで
はないかと、思うにいたりました。
代議員会のルートもあるでしょうが、多様なルートが必要かと。
ご検討いただければと思います。
--------------これに対するある組合役職者の反応------------
こうしたメールが届くのは当然なことと思います。
組合の活動範囲がどこまでなのか今の時点では私は理解していません。しかし、こうした問題は以前から危惧し、早く対策をとるよう学部長にはお話をした覚えがあります。確か副学長にも。
今週の木曜日に理事長、副理事長に挨拶に伺うことになりました。そのときこのメールを手渡したいと思います・・・・。
恐らく全ての教員はTOEFLのために留年している学生に対し何らかの措置が必要であると考えているはずです。
・・・相談しながら、組合として動くのか、個人として動くのか。学長が未だ決まっていない現状ですと学部長も副学長も動きにくいと思います。また4月からの新学長では時間が間に合わないでしょうし。現学長に働きかけて、置き土産にできればいいのですが。・・・・
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絶望感や不安感にさいなまれている諸君、あきらめないで。
いろいろのレベルで、教員も努力していることをわかってください。
何らかの改善を求めて、みんなで、動きを強めましょう。
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2月25日(2) PE問題の重要責任者に、下記のような趣旨のメールを送った。
------送付したメールに趣旨を敷衍する添削を付したもの------
いよいよ、PE問題は、緊迫度を増しています。
しっかりしてください。
私は、すでに、昨年3月段階から、根本的改革を提言しています。
1.PE進級基準の廃止、
2.全学挙げて支援し達成すべき最低ライン(卒業時までにクリアすべき水準)としての目標
(これはTOEFL500点=TOEIC600点、さらにドイツ語検定、フランス語検定などのしかるべき対応水準・点数を目標とする)。
3.普通の科目と同じように、点数に応じて、秀(TOEFL550以上)、優(500―549)、良(450−499)、可(350―449)、不可、の段階区分を設定。
4.4年生・卒業時点で、各人の最終的達成点数をもとに、この段階区分で、成績を最終確定。
5.履修強制は、一年次前期のみ。あとは、各人の進む方向、専門分野・コース、希望、力量などを考慮して選択性で履修=成績・実力向上を目指す。
6.PE重視の基本政策から、上に伸びようとする意欲・希望のある学生諸君には、PE関連の豊富な特別クラスを多様に設定。意欲と希望のある学生諸君をのびのびと育てる(教育重視!)。
以上です。
教授会等での迅速な検討、上記のような抜本改正が必要かと思います。教授会機能再建の第一歩。
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2月25日(1) 組合を通じて、下記のような父兄からの訴えがあった。まさに、私が提案しているような根本的改革を、PEに対しておこなわなければならないことを示しているといえよう。
-----------父母・保護者からの切々たるしかも合理的な訴え--------------
17年入学の学生を持つ親です。TOEFL500点に満たないために仮進級そしてもらっていた奨学金もストッ
> プ。挙句の果て2割の留年組に入って2年生に戻ることになります。
>
> いくら大学の学費が安いといっても横浜市という土地柄、下宿代も生活費も高く奨学金をうち切られた
> 子どもに送れる仕送りもそうそう増やすことが出来ません。当然、子どももバイトを増やさざるを得な
> いために何のために大学に入ったのか、TOEFL500点クリアするために本当に悪循環な生活を強いられる
> ことになります。
>
> 本来ならもう就職活動に入る時期なのに、2年生に戻らなければならない子どもの心境はどんなに辛く重
> いのかめっきり連絡もしてこないようになりました。それまで仕送り前にお金が不足すると5000円でい
> いからおくってというメールさえも来なくなりました。
>
> 英語は確かに大切な学問には違いありません。しかし全ての学生が英語が得意なわけではありません。
> そして英語は実践で使う機会が増えればおのずとして実力がついてくるようにも思います。TOEFL500点
> のために2年に戻るということは、たとえ市大をやめても他の大学に編入する資格もないということにな
> ります。
>
> このまま在学していてクリアできなかったら?・・・2年生に戻ることになる2割の学生達は見えない不
> 安に苛まされ、打ちきられた奨学金のために親に迷惑をかけないようにバイトをしたりする学生が増え
> るか、或いは退学または休学する学生が増える可能性もあるでしょう。夢と希望に満ちて入った大学な
> のに専門に達しないまま英語のために前に進むことが出来ないのです。これが本当に大学教育なのでし
> ょうか?
>
> そして留年した学生を支えるために仕送りする親のほうにも限界があると思います。大学生の子どもを
> 持つ親にとって横浜市大に行っている子どもだけが大学生ではなく他にも1人〜2人くらいの大学生を抱
> えている親が多いと思います。
>
> 私も数人の下宿する大学生を来年度から抱えます。教務課の人には大学には8年いられます。その間にと
> ればいいですと簡単に言われました。しかしながら8年の生活を支える大変さはおわかりでしょうか?し
> かも奨学金が打ち切られていたとしたら・・・
>
> 学生だって生活費を切り詰めてTOEFL受験料を支払い続け、クリアできるまでは英語との戦いでしょう。
> それぞれの専門を勉強するために入ったのにTOEFL500点のために進むことが出来ない。何のために大学
> に入学したのか、せめてTOEFL500点の進級条件が3年生から4年生の条件だったら他大学に編入するとい
> う道も開けると思います。しかし、今の進級条件では選択肢は2年生をクリアするまで続けるか退学する
> か休学する 選択肢はそれだけしかないのではないでしょうか?
>
> 先日、2留のために自殺した東大の学生がいました。そういう学生が出ないように祈ります。
> 好きな学問・専門の中でもしかしたら思いもよらない才能を発揮する子もいるかもしれません。英語の
> ために前に進むことの出来ない学生たちは、自分たちの未来をそして可能性さえも捨ててしまうかもし
> れません。
>
> 留年は学生にとっても親にとってもとても辛く厳しいものだと思います。
>
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2月23日(2) 6候補全部に関する私なりの評価を、Seeing is believing で、所信表明を聞いた上で書いた。それぞれに、候補として選ばれるだけの、魅力・力量・得意分野がある人々ばかりだと思う。ただ、現段階(今の大学の抱える諸問題の解決能力という点)での学長候補としては、我田引水かもしれないが、矢吹晋候補(最新の朝河再発見の3部作+その解説の自著)しかいないというのが私の見地である。ほかの候補は、「関内出張所長」(この仕事ももちろん極めて重要である)や理事やその他の持ち場で、適材適所、大学発展のためにすべての候補が力をあわせて働いていただくのが、学内融和、団結と発展のために、いいのではないか?
United, there is
little we cannot do in a host of cooperative ventures.
Divided, there is little we can do―for we dare not meet a powerful challenge at
odd and split asunder. [9]
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2月23日(1) 次のような情報が寄せられた。愕然としている。もしも、下記匿名メールのいうように、事務局長・大学の事務の最高責任者の選考委員、関内の元高級幹部の選考委員とF候補とが、関内の有力筋(ない市議会特定政党の有力筋)をつうじて結びついているのだとしたら、そして、ほかの選考委員に「根回し」がすんでいるのだとしたら、すでに選考委員会6名のうち過半数までがF候補で固まっていてもおかしくはないことになる。しかし、これが仮に事実とすれば、大スキャンダル。大学にあるまじきこと、大学の自治など嘲笑しているとしか思えないことになるが?
この情報が仮にデマ情報としても、「顧問」に関することは、厳密に事実関係を洗い出すことができるはずである。
顧問の名目で、給料を受け取っていたのかどうか?
いったい誰が、顧問に任命したのか?
普通なら、経営陣が顧問を任命するであろう。とすれば、理事長あるいは副理事長が任命したのか?
ありうるとすれば、最高責任者の理事長名のはずだが。
顧問に任命した事実があるとすれば、その任命書状を見ればすぐに検証できるはず。
顧問として何を具体的やっていたのか?毎月、毎年、何日間、どこで、なにを、どのように? その仕事に見合う給料だったのか?
毎月、あるいは年俸で、どのくらいの「顧問料」[10]なるものを、いつまで受け取っていたのか?
万が一にも、大学から顧問料を受け取る期間と監査役の期間が一時的にでも重なっていたりすれば、これ以上のスキャンダルはないことになる。監査役が、顧問をしている会社のことを甘く見ることになるのは当然であり、道義違反(まさに法令倫理コンプライアンス違反)であり、職務違反であろうから。
下記情報が示すように、「監査委員」という高級ポストが得られるまでのつなぎだったのかどうか、検証は可能であろう。
市の情報公開のルートで請求すれば、直ちにわかるはずのものである。
デマ情報であることを、大学と市当局・視関係者のために、祈る。
------匿名メール--------
先生の日誌を拝読して、びっくりしています。学長選考の所信表明を
独立行政法人とは名ばかりで、市のリモートコントロ
それにしても現場にいる人は、幹部職員と言えども
それは、さておき
それは、先日の所信表明で、F氏は大学の「関内出張所長
定年退職になった教員が「顧問」の肩書を持つことはこれまで聞いた
本人も、このことに気がついたので、隠しているのかもしれません
さらにかんぐれば、市から「監査委員」の席が空くまで「顧問
このあたりの疑念は、本人が顧問をしていた理由、その内容
選考委員には事務局長も入っているのです
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2月22日(3) 下記(2)の「通報」などを考えると、矢吹教授の現在の到達点を、しっかりと選考委員の全員に理解してもらうことが、きわめて大切のようである。選考委員会宛への請願を、今一度、しっかり行う必要があるか? ともあれその前提としての、矢吹氏の業績の紹介が必須だろう。「口先」、「数の力」などではなく、業績・実績(その背後にある学界・社会の客観的評価=ピアレヴュー)さえしっかりみていただければ、と考える。以下に、再掲しよう。
---------19日本日誌より---------
矢吹先生のお仕事中、おそらくは、ながく歴史に残り、最も生命力の強いものとなるのではないかと思われる(私が歴史研究者だからかもしれないが)最近の三部作。
これら三部作の位置づけと全体的解説:『朝河貫一とその時代』2007年12月20日刊(朝日新聞・書評/2008/2/10)
------------横浜市立大学教員組合週報-------------
組合ウィークリー
2008.2.22
もくじ
●学長選考・任命に当たっての教員組合の見解
2008年2月21日
学長選考・任命に当たっての教員組合の見解
横浜市立大学教員組合
ストロナク学長の任期途中の辞任により、次期学長の選考が行われています。
周知のように、法人化以降、学長は、従来のような大学構成員の選挙ではなく、教育研究審議会および経営審議会を構成する者から選出される6名の選考会議によって選考され、理事長が任命することになっています。
前回に続き今回の学長選考方式によれば、経営審議会および教育研究審議会は各2名以内の候補者を推薦することができるとした上に、本学の専任教員が15名以上の推薦人を集めることによって候補者を推薦することが出来ることになっています。
われわれは、このような教員推薦方式を導入したとしても、選考方式の「権力集中性」や「不透明性」が払拭されるものとは考えません。
私たちは、横浜市立大学が従来採用してきた学長選挙方式に問題点がなかったと言うつもりはありません。しかし、私たちは、現在の学長選考・任命方式に対して、従来の学長選挙・任命方式のどこにどのような問題があり、何ゆえにこのような方式を採用するのか、十分な議論もなく、一方的に上から押し付けられた選考・任命方式であることを確認しないわけにはいきません。
公的な教育と研究の場である大学を運営する上で、学長は、最も指導的役割を果たすべき存在です。
その学長を選考する際に、教育・研究現場を直接担っている教員の声が充分反映されることが、大学組織の運営にとって必要不可欠であることは言うまでもありません。その意味で、現在の選考・任命方式は、一部の者に権限が集中し、法人化以前の選挙・任命方式と比べ明らかに後退しているといわざるをえません。私たちは、このような民主主義の後退に対して、警鐘を打ち鳴らすと同時に、より「民意」を反映しやすい方式に改める努力を始めるよう当局に要求するものです。
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2月22日(1) この間、きわめて重要な情報が、寄せられた。機密情報なので、まったく本当かどうかわからない。真実の情報かどうかは、歴史的に可能なかぎりの証拠で、あとで検証しなければならない。そのためには、選考委員会の議事録を全部きちんとテープレコーダー(隠蔽の可能性があるので、6人の選考委員すべて、および事務局の7台は必要であろう)にとり、すべての委員のすべての発言を検証できるようにすべきである。そのような責任ある議事の記録をもしも残さないとすれば、それは委員長、各委員、および事務局責任者の責任となる。
その「重要情報」とは、「大学の外」から(しかも、さまざまの意味で決定的力を発揮できるような筋、あるいは議会有力筋などからとされる)、選考委員の何人かに対する「根回し」がおこなわれ、多数決で勝つように仕組まれており、しかも、私の昨日の評価では、一番最初に排除されるべきと考えるF候補を、学長にしてしまおうというのである。
私は、これは、本当に信じられない。デマ情報ではないかと思う。しかし、この間、2度にわたり、「通報」があった。
F氏は、文書を調べてみればすぐわかるが、この間の新しいカリキュラム(もちろん余儀なく参加した教員たちの努力で前進面・積極面も多々あるが)、とくに、プラクティカル・イングリッシュの画一的強制に関して座長・委員会責任者として一番責任ある人物である。このF氏をいったい誰が、今回押したのか? 学外の人物しか考えられない。少しでも、大学のこの間の実態を知っている人は、推薦者となって大学内部のいたるところから指弾を浴びる勇気はもてないはずだからである。
それでは、F氏の推薦者はだれか。
これは秘密にできない。秘密であることは許されない。文書には、必ず推薦者名が記載されている。推薦者の氏名・所属はただちにわかる。その責任者に対して、決定的影響力を行使できるのは誰か、これを調べれば、すぐに大学の外から、学長人事を左右しようとした人物が誰かは特定できるであろう。
秘密情報だから、別のことも考えられる。
F氏を推薦しながら、実は、ほかの候補を拒否したい、という筋も考えられる。すでにわれわれのところには、「抵抗勢力のバックがある」とあるとして、ある候補を蹴落とそうとする情報もある有力筋から伝わってきている[11]。F氏を押す筋は、その「抵抗勢力がのさばるくらいなら、F氏の方がまだいい」、との判断かもしれない。
あるいは、資金力・権力・短期間に集めた全学部にわたる推薦者数からすれば、絶対に勝つと思われるO候補を、何とか抑えたい筋からの情報が、迂回して、外部から来ている可能性もある。O氏よりは、F氏をとろうと。
さらに、所信表明演説で明らかになったように、O氏とS氏とは、激しい対立関係(ご本人同志ではなくても、すくなくとも支持する勢力の間の利害対立関係)にある。5分間にわたる迫力ある出馬経過説明からしても、それがわかる。
とすれば、こうした激しい対立関係から距離をおくことができる候補として、F氏を考えているのかもしれない(しかし、この激しい対立関係から距離をおくことができるという点では、矢吹名誉教授こそ、一番、実社会の利害関係からは遠い方だと思われる。)
しかし、F氏の実績(プラスとマイナス)をきちんと見る必要がある。F氏には、本学の「関内出張所長」としての貴重なお仕事を今後も続けていただきたい。彼の一面的な「関内出張所長」の側面をあまりにも高く評価して姉妹、本社の社長に抜擢するのは、本社=大学を混乱に陥れるものである。それは、遠くから、この間の大学内部の実情をまったく知らない人の発想でしかない。
F氏は、大学内部の人ならば、今回は絶対に推薦しないであろう。
推薦者氏名を確認せよ!
いずれ、公文書公開で、はっきりさせることができる。
この間の大学問題をきちんと整理し、大学の広範な人々の支持を得て改革を行うためには、内部の推薦者を集めたものの中から、行うべきである。
今回の学長選考の第一の基準は、内部の推薦者(推薦代表者)ないし推薦者集団から推薦を受けたものであるかどうか、これが最重要メルクマールであるとおもわれる。
私の乏しい情報だが、F氏以外は、内部の推薦者がいたはずである。
第二に、内部の推薦者・推薦者集団の推薦の真実味(真心・真情)・推薦の説得力・合理的説明力が問題となる。
170人もの「推薦人」を短期間に集めた候補に関しては、「パワーハラスメント」問題があると見るのが私の見解である。
大学は、真実・真理探究のために自由と民主主義を一番大事にするところ[12]として、諸個人の自由な精神を一番大切にすべきところとして、地位、資金力その他をバックにした「パワーハラスメント」は、絶対に許容できないものといわなければならない。大学の全体的発展を本当に真剣に考えるならば、この根本的重要問題をかみ締めるべきである。
第三に、内部といっても、推薦人15名を集めていない人物もいるかに噂される。それは、まさに、その候補に対する大学内部の厳しい評価を示すものであり、これまた、許容できない。単なる教育研究審議会の推薦では、管理職ばかりの推薦であり、現場の一般教員の推薦ではない。その意味では、「お上に」従順な人の、権力的推薦だからである。
第四に、大学内部の推薦があったといっても、一般教員推薦のないものは、大衆的支持基盤をもたないものといわなければならず、私の推測では、経営審議会で推薦されたY氏も、多数の一般教員の連名による推薦ではないはずだ。とすれば、昨日の日誌にも書いたように、内部事情をまったく知らない外部者として、今回の危機脱出の学長としては、不適格だろう。
この間、あまりにもいろいろのことがあり、胃の調子が悪く、これから胃カメラの検査を受けに出かける。
上記の文章中、不適切な箇所・誤字脱字などは、後で見直すしかない。
研究室に帰ってきて、下記のようなメールをいただいた。
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日誌を拝読し、貴重な情報に接することができましたこと、感謝いたします。
先頃、とある元国際文化学部教員と学長選について話をしました。この人物は、かつてF氏の熱烈な支持者で、・・・に対しても、F氏の見識と行動力について長々と説き、それを頼りにするよう、アドバイスをしたことがあります。そして、F氏が副学長職を去った後は、彼は何かと厳しい状況に置かれています。そのような人物ですから、当然F氏の学長就任を期待しているのではないかと憶測していました。しかし彼は、学長はF氏よりもK氏のほうがよい、と言い放ちました。
かつての支持者にも見限られたF氏が、学長になって何ができるのか、きわめて疑問です。
なお、私はK氏を支持するわけではありません。
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K氏は、理系実験系には強い支持があり、事務系にも強いとされる。しかし、医学系(とくにはっきりしているのはO氏)からは、非常に冷たい評価がなされているし、商学部系には、先ごろまでK氏、F氏と一緒になって強い力を持っていたM氏との連合にたいして、これまた猛烈に強い反発がある。
K氏が、選考委員会で浮上するチャンスはあるのか?
K氏が、仮に学長になったとして、学内はまとまるのか?
ただちに、医学系・商学部系の連合と激しい利害対立が発生するのではないか?
K氏の強みは、予算を理系実験系に取ってくる凄腕のはずだから。その凄腕は、逆に言えば、すくなくとも医学系とは対立するはずと思われる。
またまた、理系実験系と医学系がぶつかり合うなかで、文科系が、弾き飛ばされることになるのか?
しかし、文科系こそは、医学系や実験系と違い、人間こそが第一で、それぞれの学界の最高レベルの研究教育者を、たとえば任期制で1000万程度で招聘すれば、10人でもわずか1億、これで、全国に一挙に名前が知れ渡ることになる。たとえば、歴史学界、経営史・経営史学界、中東・関係の学界などを考えてみると、それぞれの大きな学界に1000人とか2000人の研究者がいるが、その研究者がみな知っているような最高レベルの研究者を集めたとなると、本学の文科系大学院(二つが予定されているが)は、大きな注目を全国から集めるはずである。
経営的観点からしても、これはすばらしいことではないか?
しかも、このような各学界トップクラスの研究教育者は、国際関係でも、普通には多様な人脈を持ち、ご本人が英語その他の言語で著書を出版しているだけでなく、外国の一流研究者とのつながりも密接で、横浜市・市大で国際シンポジウムなど開催するのは、きわめて容易になる。
文科系では、いい人物を、いい構想の元で集めてくるだけで、すばらしい効果がある。
この改革の過程で、一番、脱出が多かったのも、文科系である。
文科系こそ、補充すべき人事枠をたくさん持っているコースはない。逆に言えば、文科系諸コースは、この間、多くの脱出者・不補充者で、教授陣の構成が一番悪化しているところである。
こうした諸事情を考えれば、今回こそは、文科系の国際的著名人・現代中国論の大家である矢吹氏を学長にすえるしかないと思うのだが。
現代中国との良好な関係(矢吹氏は、大陸中国とも台湾とも、人脈が抱負であることもまた重要なファクター)を生かして、横浜市と中国との関係を急速に発展させる上でも、最適だと考えるのだが。
「第二の開港」、開港150年の祝いを、現代中国論の大家である矢吹名誉教授とともに、強力に推し進めることは、横浜市民の希望でもあるのではなかろうか?
医学部や理系実験系の人にも訴えたいのだが、横浜市の財政状況がよくならなければ、理系実験系や医学系の予算も増えない。
横浜市の財政状況がよくなるためには、横浜市の経済活動が活発にならなければならない。
横浜市の経済活動が活発になるためには、現代中国とのパイプを、どんどん太くしていくことも、大切なことである。
横浜市の財政基盤の強化なくして、すなわち、横浜市の財政のパイを大きくすることなくして、大学予算の予算が増える見通しは立たない。
このあたりをきちんと見据えていただきたい。
本学の全体の予算を大きくする正道のひとつは、横浜市・市民の現代中国・市民との関係を密接にしていくことである。
本学全体の発展は、横浜市・市民の全体的な発展の一部でしかありえない。
横浜市全体の発展を実現できる道は何か?
それを通じて正々堂々と(小さくなっていくパイの奪い合い、大学内部の細かな分配での分捕りあいではなく)本学を発展させる(予算の増加を勝ち取る)道は何か?
それに貢献できる学長は誰か?
その実績と可能性を持つのは誰か?
6人の候補の中では、唯一、矢吹名誉教授だけである。
口先だけの人はだめ。
実績のない人は信用できない。
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2月21日 昨日は、6時15分から8時半ごろまで、全学長候補者の所信表明を、届け出順に、聞いた。
まさに、Seeing is
believing.
冒頭の元副学長F氏は、大学の「関内出張所長」を自認し、その自覚から大学のために貢献してきたことを強調していた。おそらくはそうであろう。その実績こそが、経営審議会での推薦の背景にあろう。だが、大学の発展を本当に考えるならば、大学内部の悲鳴に耳を傾けるべきだが、その気持ちは伝わってこなかった。PEの強制などの責任者であるはずだから、その3年間の問題の累積への反省なしに、PEを原則的に変更する必要なし、と主張するのでは、学生諸君の悲鳴には耳を傾けていない(その情報を手に入れていない)ものといわなければならない。この方が、もし学長に選ばれるようなことになれば、悲鳴を上げる学生諸君の不穏な行動が発生するのではないか、とさえ危惧する。
二番目の医学部候補S氏は、新渡戸稲造を高く評価するところが印象に残った。また、その主張の多くに共感した。
しかし、最後の5分間、出馬にいたる背景の説明が、迫力あった。毀誉褒貶とは、まさにこのような場合にいうのであろうが、本学に着任してからの、そして最近の毀誉褒貶のすごさに関する訴えが、びっくりするようなものであった。医学部内部の激しい利害対立・路線対立、それとからみながらの「大学当局」との激しい複雑な対立構造を憶測させるに十分なものだった。「これは大変なことが起こっている」と、何も知らない聴衆のほとんどが、医学部の抱える重大問題・対立構造に気づいたのではないか?4番目の候補はどうしても許容できない人々が、この候補の背後にがっちりと存在する感じを受けた。
三番目は、商学部出身で中央官庁の公務員生活(三十数年も)を続けたあと阪大法科大学院・公共政策大学院の教官、それに現在は東京の女子大の教授をしているY氏であった。6年間の大学教授経験者ということだが、本学の実情にはまったく疎い方であることが明らかとなった。
たしかに、大学の会議の無駄は眼に余るものがあり、議論ばかりで結論が出ず、結論が出ても実行せず、といった非効率・無駄は、大学一般(そして本学でも)における顕著な特徴・弊害である。それを改善しなければならない、という主張には共感する。
しかし、まさに、そのような観点から、この間の本学の「改革」で断行された(サイレント・マジョリティを主張・僭称する人々もこれに加担したと思われるが)のが、教授会の破壊なのである。大学の教員組織は、「上から」の命令を聞くだけの組織にされてしまった。一般の教員は、大学の一切の重要事項の審議から排除された。
この間の「改革」は、教授会や評議会の非効率を憎むあまり、すべてを殺してしまった。「角を矯めて、牛を殺してしまった」というのが、本学の「改革」なのである。そして、それは、私の信じるところでは、憲法違反、学校教育法違反なのである。すくなくとも、憲法の根本精神である自由と民主主義の大学での実現という点では、深刻きわまる問題があるのである。
こうした本学の極端にまでいってしまった実情をまったく知らない、実情とずれた、恐るべき現状認識を持った方、というのが私にとっての、実感である。
届出一週間前に懇請され、「固辞したけれども、また、新しいことにチャレンジしてみようという気持ちもあって」決断したということだが、懇請した人間はいったい誰なのか?
出馬を依頼した人間の「軽率さ」、出馬をお願いした推薦者の彼(候補者)に関する人物評価(実績評価,ないし実績欠如の評価)の問題性が露呈しているといえよう。学長としての候補たるべき人物の評価におけるピアレヴュー能力の欠如した人が、推薦したのではないかと思われる。選考委員会で、支持する人がいるとすれば、いったい誰が、どのような理由で、支持するのだろう、はなはだ疑問である。
この方は、経営サイドの実務レベルで、さまざまの提言をするような役柄、理事(?)の一人としては、有能さを発揮するかもしれないが、もしも学長になどなったら、学内の支持、少なくとも教員の支持はほとんど得られず、「孫副さんの二の舞になるのでは」と危惧する声が聞こえる(幻聴?)。
四番目は、医学部の大物中の大物O氏の登場。声量といい,医学部の世界的発展を熱望する気持ちといい、大学全体の諸問題への目配り[13]といい、「今度こそ学長になるぞ」という決意が、全身からあふれ出るような感じであった。また、彼の目配りを支える参謀たちの有能さを感じさせた。
それだけに、逆に、恐ろしいものを感じた。私など、文系で、彼がどのような力を持とうとも、あまり被害を受けず、言いたいことも言えるだろう立場のものからは、親しみと愛嬌すら感じる[14]ことがあっても、恐怖を感じることはない。
しかし、最後のあたりで、「170人もの賛同」(推薦?署名?)を集めたことを強調しているところからは、恐ろしさしか感じなかった。これは、まさに、ギュンター・グラス(ノーベル文学賞作家)の「ブリキの太鼓」の少年ではないか、と。20分間の演説全体が、「がんがん鳴り響く」感じだったことも、その感を強くさせた。
「170人」もの署名を、いったい誰から、どのような手段で集めたのか?
権力・資金力・各種コネなどないものは、15人の推薦者を集めることさえ困難なのに、と。
すでに、この方の署名のやり方に関しては、立場の弱い助手・講師の人々から、「パワーハラスメントではないか」との声が上がっていた。
助手・講師といった弱い立場の人々に、直接、地位・権力・資金力を持つ人物が「署名をお願いします」と訴えた場合、それは、まさに「パワーハラスメント」となりうる。
研究条件の不利益、昇進等における差別の可能性を予想できるとき、その人に「署名をお願い」されれば、どれだけの人が、「心からの支持の気持ち」で、署名するだろうか?
「いやいやながら」署名した人は、いないといえるだろうか?
「いやいやだけど、不利益を予想できるとすれば、仕方ない」と署名した人の割合は、どのくらいだろうか?
すなわち、「170人」の署名の内訳こそ、内実こそ、その署名者ひとりひとりの本心こそが、検証されなければならない。(おそらくは、署名しなかった人、署名できない人々の多くが、上記の医学部の別の候補の支持者であろう。その意味では、170人の多くは、おおかれ少なかれ、同じ派閥の人、ということも考えられ、「パワーハラスメント」を受けたという感じよりは、「自分の派閥のボスに忠誠の態度を示した」、という自発性=見返りとしてのいろいろな意味でのメリットを感じている、ということかもしれない。)
すでに、署名集めの最初の段階から、「パワーハラスメントではないか」との抗議の声が上がっているくらいだから、もしも、学長にでもなったら、パワーハラスメント委員会への訴えが続々と出てきて、大学運営は収拾つかなくなるのではなかろうか。
この候補を押した人々は、弱い立場の人々の苦悩を理解しようとしているのだろうか?自由と民主主義の根本精神において、欠落したところがあるのではなかろうか、と思われる。私の誤解、理解不足であればいいのだが。
五番目は、その業績(学問的にも、社会貢献の上でも、啓蒙活動の上でもナンバーワンの実績)に驚嘆し敬服している矢吹教授である。
朝河貫一顕彰でのイエール大学との交流の冒頭の話の部分が少し長かったが、国際活動を楽しそうに行っている温和な姿から、すばらしいものを感じたのは、私だけではなさそうである。(『朝河貫一とその時代』、すなわち、最新の著作に対する朝日新聞:高原明生・書評)
定年退職後のこの4年間、大学にいなかった点で、内部事情や法人化後の諸問題は勉強中という感じであるが、大学の諸構成員の融和・協力・ハーモニーに関する発言などを見ても、また、最近数年間のその多産的な業績および中国評論におけるリアルな現実認識から見ても、本学の現状に合わせた改革にまい進してくださるものと期待したい。国際シンポジウム「第17回よこはま21世紀フォーラム」で陣頭指揮を執られたリーダーシップは、記憶に新しい。この私の感想は、ほかの候補に関する感想と同じように、一面的であることは、当然かもしれない。
六番目は、クールな理系(正確には理系実験系)の代表K氏であった。今年3月で定年なので、現役最後の年、ということになる。この間、現役だけに、任期制の問題性など、すべての問題にそつなく言及するクールさは、たいしたものである。
だが、大学自治の「9・11」において、どのような態度をとられたかを想起するものにとっては、この候補のクールさが、ひとたび、状況が違えば、どのような結果をもたらすかを、骨身にしみて感じているだけに、現在の制度で最高の権力をもつ立場には、到底、賛同できないと感じさせた。
しかし、これは、「9・11」以降の彼の態度を、自分たちの利益を守るための方便と考え支持している人にとっては、同意できない見方であろう。事実、この候補の所信が一番すっきりとしていてよかった、との感想も耳にしている。この方の強みは、長年の理系の管理職経験に加え、ほかの候補と違って、問題山積の八景キャンパスの現場を生で知っているというところにあろう。それが、話の具体性の背景にあったであろう。
したがって、この候補の支持者がどの程度のひろがりであり(理系の支持はあたりまえのこととして、全学的支持を得られるのかどうか)、また、それが選考委員のどれだけの人の共鳴を得ているかということ、これが問題となろう[15]。
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2月20日 朝、守衛室を過ぎたあたりで、本学有力者の人に後ろから声をかけられた。本日の学長候補者所信表明演説に,八景キャンパスのできるだけ多くの教職員、さらには学生も参加するのがいいのではないか、とのご意見であった。それに賛成した。それだけではなく、できれば、全キャンパスの教職員・学生院生にも、メールで、「可能なら参加を」と呼びかけるべきではないか、と意見具申した。
投票権は、われわれ教員にも職員,学生・院生諸君にもないのであるが、どのような人が、どのような風貌で、どのような主張を、どのような声で行うかは、その人物・見識等を判断する上で、決定的に重要であり(Seeing is believing)[16]、全構成員にその所信表明を聞く当然の権利があるのではないか。
そして、その感想を、文章にして(責任ある文章であることを示すために氏名・所属などきちんと書くべきであろう、匿名では無責任)、選考委員会(委員長:清成忠男氏・元法政大学総長・本学経営企画室が学長選考関係の担当事務局のはず)に届け出るなど、ボランタリーな行動をすることは許されるべきではないか、ボランタリーな行動の可能性を活用すべきではないか、と考える。
大学をよくしようという真情・真心が、そのしっかりした論拠・文章(立証力・証明力)でもって、選考委員会(委員長ほか各委員)の人に訴え、その心を捉えるならば、有意義なのではないか?
候補者を実際に見た人々、実際に所信を聞いた人々、この現場からの声を、どのように受け止め取り扱うかは、これまた、選考委員会の個々の委員および委員会全体の見識・良識であろう。
学長選考という決定的に重要な権限をもっている選考委員各位に訴える努力を、惜しんではならないのではなかろうか?
「額に汗して」こそ、春は来るのではなかろうか?
-----------今朝いただいたメール----------------
八景キャンパスの先生方へ
平成20年2月20日午後6時15分から、八景キャンパス・カメリアホールにて学長候補者による所信表明が行なわれます。詳細は市大ホームページ学内専用情報(http://www-cc.yokohama-cu.ac.jp/~info/gakunai.html)を参照してください。各候補者の所信表明も掲載されています。
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2月19日 学長候補(推薦人代表・松井道昭教授)・矢吹晋名誉教授の最近数年間の重要な仕事。
矢吹先生のお仕事中、おそらくは、ながく歴史に残り、最も生命力の強いものとなるのではないかと思われる(私が歴史研究者だからかもしれないが)最近の三部作。
これら三部作の位置づけと全体的解説:『朝河貫一とその時代』2007年12月20日刊(朝日新聞・書評/2008/2/10)
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2月16日 この間、私の一種の「Don Quixote」的(?)行為のなかで、打診した多くの人から、「無謀なこと、だめなこと、無駄なこと」はしないように、との温かい助言をうけた。
もちろん、そこには、提案の「甘さ」や力量不足に決定的な問題があった。しかしそれだけではなかった。
「改革」過程とその後の当局の今日にまで多かれ少なかれ続く硬直的態度(それによってつぶされ、詰め腹を切らされるなど)を悲観している声が圧倒的多数だった。選考制度のあり方に対する根本的不信もあり、ほとんどの人が、意識の上で、まだ絶望的状態にある。
さらに、大学外部から大学内部の勢力と結びついたある種の動きがあり、「権力闘争の結果」として、「すでに学長は決まっている」からという情報・考え方もあった。6名で構成される選考委員会の陣容とそれへの働きかけの噂、医学部O氏の動きなどから、それが出てくるようである。
ただ、それが事実とすれば、その結果は、今日の八景キャンパスの教員の冷え切った状態を、けっしてよい方向に向かわせるものとはいえないだろう。学長選考制度への根本的不振をまさに打ち固めてしまうであろう。今日のPEにおける問題などを作り出した人が権力を持ちそうなことが事実であれば、冬の時代がもう少し続くのかもしれない。品格ある大学への道は、遠いのかもしれない。
すくなくとも、PEだけでもこのあたりで、抜本的に改革しておかなければ、行き詰ると思われるが・・・
これに関心のある学生諸君は、20日にむけての各候補の所信表明を(18日夕方から大学HPで掲示とのことなので)、よく見てほしい。そして、声を出してほしい。現在のシステムでは、学長の姿勢が、きわめて大きな意味を持つから。すなわち、学部長レベルのできることは限定されるから。
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2月15日(2) 候補者公表(公示)ではじめて知ったが、医学部からは二人出ていた。調整済み、一本化された、という情報は誤っていた(反奥田派がぎりぎりのところで、駆け込みか?)。臨床と基礎から一名ずつ出た、ということなのだろう。
やはり6名だった。2月20日所信表明の場は,テレヴィ中継され全学で見ることができるようだ。
しかし、候補者は、それぞれ、背後に必死の思いの人々(自分たちの希望・政策・目標を実現しよう、そのためのルートを広くしておこう、話のわかる人を自分たちの代表にしておこう、など)を抱えている。それぞれの陣営の有力者ばかりである。
彼らは、すでに何度も候補になったような人がほとんどである。
候補となるたびごとに、引き受けた場合の負担・犠牲、当選した場合のメリットとデメリット、そして、とくに、落選した場合のさまざまのマイナスの結果(逆に、自由さ、余暇の時間などの多さ、人間的なプラスの要因ももちろんたくさんあるが)を見据えて、にもかかわらず、やむにやまれず、重い決断をした人ばかりだろう。
これは、大変なことである。
かつてならば、選挙の過程で、第一回投票,決選投票といった段階を経て、ふるいわけがなされた。その選抜に当たっては、間接選挙で選ばれた教員がかかわっていた。
今、そのような段階的に候補を絞り込む選抜システム、それへの教員の参加システムが、存在しない。
何を基準に、何を判断材料に、どのような手順で、選抜していくのか?
選考委員会は、どのように、合理的説得的に、全学(教員だけでなく職員、学生院生などを含むすべての大学構成集団)、そして全社会に説明できるように、決定を行うのだろう。
選考委員の一人一人は、大学内外に対して、説明責任をもつ。
選考委員の一人一人の見識が、大学の将来・運命を決定することになるわけだから。
5−6名の候補者のうち、誰が、いかなる理由で選ばれたのかに関して、選ばれた人も選ばれなかった人も、すなわち、候補者のすべての人が、明確な、納得の行く説明を求めるであろう。その合理性と説得性こそが、今後の大学の団結と結びつくだろう。非合理的な、特定勢力のための利権的な決定がもし、「多数決」の名目のもとに行われれば、すぐさま、分裂へ、すなわち、激しい利害闘争にもつれ込んで、焦眉の改革などは吹き飛んでしまうだろう。
所信表明は,わずかに20分。
それは,貴重な各候補のプレゼンテーションの場ではある。しかし、各候補とも、背後に大小の支持グループを抱えているわけで、それぞれの候補の共鳴板がそれぞれに違う。
とすれば、わずか20分で、ほかの陣営の候補を圧倒し折伏できるだけの政策内容を展開できるわけがない。
選考委員のそれぞれの役割、そして、各選考委員の背後の勢力と政策・希望・目標、それらを取りまとめる選考委員会の委員長の役割は、きわめて重いものとなろう。
至難だが、その取りまとめに成功すれば、次の発展が見えてこよう。
分裂(利害対立の再燃・激化)か、団結(発展的利害調整)か。
To be or not to be?
United, there is
little we cannot do in a host of cooperative ventures.
Divided, there is
little we can do―for we dare not
meet a powerful challenge at odd and split asunder.
[17]
選考委員全体の民主的で発展的な利害調整の努力に、そして、その成功に、期待するしかなさそうだ。
すべての候補者の間に、「大学をよくしていこう、すばらしいものにしていきたい」という点では、しっかりした共通項があることを信じて。その共通項を土台に、共通(共同)の目標=共通(共同)の希望=共通(共同)の願いを発見し、定式化し、その上に、調整が可能であることを信じて。
グローバル化・新自由主義の「強力な挑戦」、世界的な競争に直面している点では、すべての人が、共通しているはずだから。
世界が競争相手となったこと、これが21世紀初頭の地球・人類の到達点、であろう。
世界の大学間競争がリアルな現実であるとき、その競争で自らを主張し、日本と世界で自己を実現し、貫徹するためには、団結が、すなわち、大学全体の民主的な団結が、必要となろう。学長の資質も、そのような公明正大な、現代世界の競争において正々堂々たる競争の普遍的原理を代弁するような人物でなければならないだろう。
そして、実際において、競争に勝利するのは、自然科学分野で明確にわかるように、発見した真理群であり、その真理群の普遍性の度合いであり、開発した技術群・その普遍性であり、また、文化関係でもそれぞれの分野での卓越した業績群であろう。
したがって、結局のところ、各大学の研究教育力、それらの自由で総合的な発展への結集力、その成果としての総合的業績などが、決め手。
これらが、学長選びのリトマス試験紙であろう。
天才においてさえ自由が貴重であるとすれば、われわれにおいては、なおさらでは?
一例: ゲーテ[18]は『イタリア紀行』で、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会、イル・レデントーレ教会[19]、ヴィチェンツァのオリンピコ劇場、パラッツォ・キエリカーティなど世界遺産ないしそれに匹敵する建築を残したパッラーディオについて、次のように述べている。
ヴェネツィアの「カリタ教会の側廊は、この建築家が自由にうでをふるい、自分の精神を無条件に発揮させることができたために、ひじょうに価値あるものとなっているのだ」と[20]。
ゲーテは、天才パッラーディオが自分の才能を遺憾なく自由に発揮した対象として、建築家の自宅を最高傑作としている。
いかにして、大学を構成するすべての教員の自由で創造的な研究・教育を民主主義的に発展させるか、これに尽きる。
その制度枠組みとしての大学自治の、自由で民主主義的な創造的発展、これにどこまで貢献できる資質をもっているか(その実績如何)、学長に問われるのは、これであろう。
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2月15日(1) 現代中国論の大家、矢吹晋先生、すなわち、何十冊もの著書、新聞・ラジオ・テレビでの活躍、そして、最近も(定年退職後のこの数年間にさえも)朝河貫一(マルク・ブロックなどにも評価される世界的歴史研究者・イエール大学教授・『日本の禍機』などで小日本主義[21]=反帝国主義=反植民地主義=反膨張主義を主張、本物の平和主義者)顕彰の3部作『大化改新』、『入来文書』、『比較封建制論集』の英語原文と邦訳版の刊行[22]、さらに、朝河の生い立ちから生涯・仕事を描いた『朝河貫一とその時代』の公刊[23]など、どこにそんなにエネルギーと情熱が潜んでいるかと驚嘆する、ぴか一の矢吹晋先生が、「15名以上の教員の推薦人」を得て、昨日、学長候補者として届けられたようだ[24]。
(昨日は、午後、神田学士会館で研究会があり、書類を提出したという報告を受け取ったのは今朝である。ぎりぎりで間に合ってよかった)[25]。
さて、選考結果はどうなるか?
気の早いことだが、もしも彼が選ばれれば、私もしかるべき貢献−もちろん必要とされれば、その限りでであって、彼を支持する人は多士済々、私など必要ないとは思うが―をしたいと考えている。といっても、その場合も、「貢献」となるか、「妨害」となるかはわからない。主観的意図と客観的現実とは、ここでも乖離の可能性が、多かれ少なかれ、ある。
ともあれ、これで、商学部(矢吹名誉教授)・前々回医学部を代表・前回・法人ないし市当局サイド代表(F元副学長[26])、理学部(K元理学部長)、医学部(O元医学部長)が候補者をだしたということになる。このほか、商学部OBのY氏(現在は実践女子大教授ということである)も出ている。
問題は、この5名の候補の誰が、どこまで本学全体の現状を広く深く考え、現在の本学が抱える緊急の課題について認識し(情報提供を受けているか)、解決策を迅速に政策化するか(できるか)、ということである。また、5名のうち誰が、学生・院生・職員など大学を構成する広範な層の希望を実現できるか、が問題である。誰が、そうした諸階層の希望を一身に受けているか、受け止めているか、その可能性はどうか、である[27]。
2002年からの「改革」の激動期の3年間の「地獄への道」、法人化後の3年間の「どん底」から脱却の道(多分外部からはそんなことは見えないだろうが、PEひとつとっても、「改革」のひずみが累積してきたのが現実で、ここで抜本的改革をしておかなければ、という決定的時点)を、上昇方向に転換できる力量・熱意・覇気・構想を、その支持者・協力者の陣容とともに、誰が提示できるか、それが全学の関心の的となる。
この間の最大の悲劇は、ストロナク学長の見識・学識をもってしても、危機的状態の本学の諸問題、大々的な改革を前向きに行わなければならない本学の諸問題に関して、全学的な頭脳・神経中枢となりえなかった、現状打開の政策をまとめるという点で失敗した、相当数の自発的協力者の調達に失敗した、ということである。
ある人のことばでは、彼も「軽率」だったのである。ほかに選択肢がなかったからとも言えるが。
大きな改革を進めるには、大学の広範な人々の支持なくしては不可能である。支持を得るためには、日本語で、問題ごとに迅速に語りかけ、コミュニケーションをとらなければならない。いわば、秒単位、分単位で、決定を下し、あるいは、適切な部署に問題を投げかけなければならない。
会議で話される微妙なことの数々を翻訳による要旨でしか把握できないとすれば、致命的ではないか?
今は、平時とは違う。少なくとも私はそう考える。
平時とちがい、外部からの素人や名望家が、気楽におみこしに乗って、問題群を処理できる状況にはない。
任期途中で「更迭」されたO元学長に関しても、「軽率」だった、と評されている。
彼も、平時ならば、おみこしに乗って、品格ある風貌で、ゆったりと時間をかけて問題を処理できたであろう。
ところが、「あり方懇」以降に展開した本学の「9・11」においては、それは許されなかった。
あの世界貿易センタービルが短時間のうちに、瓦解しつくしたように、本学の自治システムは短期間に徹底的に壊滅させられた。
O元学長は、「民主的で、時間をかけて問題を粘り強く解決していく人」と紹介されて、それを私も信じて支持した一人である。
しかし、そのゆったりしたスタイルは、激動期には通用しなかった。また、改革断行の意思だけが明確であり、行政当局に仕事をマル投げしてしまった。改革の荒々しい仕事に求められる力量に問題があった。あるいは、彼を支持した人の進言を聞きながら、リーダーシップを発揮する点で、失敗した、ということだろう。
その大学自治の瓦解過程で、サイレント・マジョリティを主張(僭称)して新聞記者会見までした人たちも、今回の候補の中には存在する。唖然とする。個人的には「いい人」たち、主観的には「善意の人」たち。しかし、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」。
あの本学の「9・11」の状況で、大学自治の全システムが、世界貿易センターのように崩落しているときに、改革を進めるためにも大学自治を必死になって守ろうとした人々にとっては、到底、今回の立候補は信じられず、許容できず、ましてや、支持できない人々ということになる。(これはもちろん私の勝手な憶測でしかなく、15人のそれぞれの考え、思慮・思惑は違うであろう。)
さて、選考委員会の人々は、これら候補者に関して、どのような判断・評価をもっているのだろうか?
そもそも、選考委員6名は、誰が選んだのか?
選考委員6名の選抜基準は?
資格は?
大学改革に関する見識は? それは、どこに表明されているか?
選考委員=審査者自身が、選考=審査する資格・見識を持っていることを、まず証明すべきではないか?
審査者が、どこか「外から」、「上から」のご意向に、従順な人ばかりだったら、結論は、見えているのではないか?
「外から」、「上から」のご意向に従順でないとの明確な証拠を持った人は、選考委員の中にいるのか?「逆の人」がいるのではないか?
相対的かもしれないが、自由な立場は、清成氏くらいではないか?
清成氏は、何期も法政大学総長として、4−5つもの学部を創設し、戦後数十年の「停滞」を打破して、学内をとりまとめ(その意味で民主的に)大改革を実行した人である。その実績こそが、全国周知のこと、すなわち、外部評価をきちんと受けたひと、である。したがってまた、文部科学省やその他の諸官庁の審議会の委員や座長などの沢山の肩書きもある。
彼は、学者としても中小企業論、ベンチャー学会などで指導的な役割を演じ続けている。まさに、その実績こそが、選考委員たるにふさわしいことを物語っているようである。私は、そう見る。
(本当は、清成氏のような実績のある人が、全学の力を結集する頂点にたつ本学の理事長に一番ふさわしいのだろう。Betweenにおける記事を見ても、そう考える。ご出馬願えないものか? といっても、そのためには学内のコンセンサス=同意・支持が必要だろう。その前提は、学長選考委員会をどのように取り仕切り、決定の過程の内容をどのように大学内外に説得的合理的に説明するかであろう。この場合も、社会的説明責任能力が試されることになろう。数々の大改革を推進し、リーダーシップを発揮してきた先生だから、その点、まったく問題ないと信じるが)
しかし、ほかの委員は、大学改革の素人ばかりではないか?
大学改革の場合も、研究や教育と同じで、素人が何も知らないことにくちばしをいれ、素人がのさばるようでは、だめではないか?
大学改革の場合も、あるいは改革を指導し牽引するための学長を選ぶ見識に関しても、ピアレヴューが必要ではないか?
選考委員が、実績のある人かどうか、いったいどのようなことをなしてきた人か、検証されなければならないのではないか?
誰が、どのような発言をしたか、最終的決定にどのようにかかわったのか、それが検証されなければならないのではないか?
秘密のベールに隠れて、無責任なことが行われないようにすべきではないか?
いま、公開できない部分があるとしても、テープレコーダーで記録し、後世の人が、歴史的評価(各人の責任の評価)を下せるようにしておくべきではないか?
選考委員会は、いったいどのような議論をするのだろう?
議論の中身は、公開されるのか?
まったくの密室審議で結論を出すのか?
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2月14日 医学部関係者から、今年の1月30日付け『倶進会だより』を送っていただいた。医学部医学科定員増20名という喜ばしい「長年の悲願」の達成という事実と、その裏面にある教員不足の問題、その教員不足を促進している「中期目標」の問題性が、印象に残った。
まさに、八景キャンパスも、この間の「改革」で、ある面では「荒れ野」と化し、定年退職不補充、途中退職も不補充という事例が多く、教授陣の縮小、カバーする学問領域・対象領域の狭隘化などに苦しんでいる。学生や院生のなかには、「抗議退職」、「見切り退職」などで、何人も指導教官が代わるというひどい状況におかれたひともかなりの数に上る。
「中期目標」、「中期計画」を、この間の「改革」の問題を踏まえて、きちんと見直し、下降・切り下げから反転して発展の土台を築かなければならないだろう。それは、必然的に予算獲得と結びつくのであり、市の財政事情、市当局の理解、その他の諸要因にかかってくるであろう。
八景キャンパスの3つの大学院の独立化も、まさに、その予算獲得・予算配分と密接に関係する。市大が、一体となって、各部局の希望・計画・目標を切磋琢磨して練り上げ、優れたプランの競争状態のなかで、全体としての発展を勝ち取るように、奮闘する必要があろう。しっかりしたプロジェクトでなければ、弾き飛ばされることになろう。
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2月13日(2) 大学評価学会の第5回大会のプログラム最終案が送られてきた(ワード版)。回を増すごとに、内容が充実してきていると感じる。多くの人が、[大学評価学会]に参加されることを、理事の一員として、期待する。昨年は、教員組合執行委員長就任直後で、新しい給与制度の最終的つめの段階で、参加できなかったが、今年は参加できるかどうか。
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大学評価学会第5回全国大会
大会テーマ
大学教育の『質』をどう扱うか
―評価と多様性―
最近の大学改革のなかでは、「質保証」「質評価」「質の向上」等々、教育の「質」が問題にされることが多い。しかし、その「質」が何であるか、という内容まで踏み込んだ議論がなされることはほとんどありません。大学評価学会第5回全国大会では、このような「大学教育の『質』」の問題に焦点を当て、多様なステークホルダーの視点から社会的ニーズを汲み上げて調整を図りたいと思います。そして、世界と未来の教育を見越した大学教育の「質」について議論したいと思います。
日時;2008年3月15日(土)9:30受付開始 〜 3月16日(日)17:00終了
場所;大阪大学(豊中キャンパス)大学教育実践センター共通教育管理講義棟B
(大阪府豊中市待兼山町1−16、Tel 06-6850-6111)、最寄り駅;阪急・宝塚線石橋駅下車徒歩約10分、大阪モノレール柴原駅下車徒歩約5分)
参加費;会員1500円、会員外3000円、(学生・院生1000円)
懇親会費;4000円
開催校責任者:望月太郎(学会理事)taromoch@cep.osaka-u.ac.jp
連絡先;612-8577京都市伏見区深草塚本町67龍谷大学・重本研究室気付大学評価学会事務局
Tel 075−645-8630(重本)or 8634(細川)
3月15日(土)
10:00〜12:00 会員報告
<第1会場>(B−107教室)
1)「大学評価文化の国際比較をめぐる諸問題」 細川孝氏(龍谷大学)
2)「地域連携活動と大学の役割」 藤原隆信氏(京都経済短期大学)
<第2会場>(B−108教室)
1)「大学コンソーシアムにおける事業評価の必要性」 岩崎保道氏(同志社大学)
2)「職員および学生参画に関する『評価―機能モデル』の研究方法について―大学内ステークホルダー間調整視点から―」 重本直利氏(龍谷大学)
12:00〜13:30<昼食休憩、第6回理事会>
13:30〜14:15 年次総会(B−107教室)
14:30〜14:35 開催校挨拶;大阪大学・高杉英一副学長
14:35〜18:00 シンポジウム(B−107教室)
(龍谷大学国際社会文化研究所<指定研究(細川G)>との共同開催)
テーマ; 「大学教育の『質』をどう扱うか―評価と多様性―」
シンポジスト
1)“Innovating quality management of
university education”(大学教育の質管理を革新する)
ピーター・M・ハーテロー氏(オランダ・エラスムス実践哲学研究所)
2)「学士課程教育における学習プログラムの改善と質保証」
山内正平氏(千葉大学)
3)「価値創造のための仕事のデザインと評価」
宮原明氏(富士ゼロックス相談役・元社長、国際大学副理事長、関西学院大学理事)
司会・コーディネーター;望月太郎氏(大阪大学)
18:15〜20:00 懇親会(生協食堂4階)
3月16日(日)
10:00〜12:30 分科会(午前の部)
◆第T分科会 座長;村上孝弘氏(龍谷大学)(B−107教室)
テーマ;「大学職員の働きがいと評価問題」
「FDの義務化」に伴って、昨今、教員評価特に教育評価のあり方をめぐる議論が盛んである。そこにおいては、「PCDAサイクル」に代表されるいわゆる「工学的経営学的モデル」の教育現場への導入が現実化されている。このような定量的評価は、職員の人事評価などにおいてもその影響力が大きくなっている。本分科会では、このような職員評価により生じている各大学職場の様々な変化の実態や、個々の職員の現状を報告していただき、「大学職員の働きがいと評価をめぐる問題」について検討を深める契機としていきたい。
1)「大学経営における自己評価と認証評価の関係」
山崎その氏(京都外国語大学)
2)「自律と協働の仕事の創造―大学職員の働きがい―」
津田道明氏(日本福祉大学)
3)「モチベーションと評価」
中元崇氏(京都大学)
4)「3年目から見た働きがいと評価問題」
藤田圭子氏(秋草学園短期大学)
◆第U分科会 座長;細井克彦氏(大阪市立大学)(B−108教室)
テーマ;「国立大学法人化から4年」
2004年4月に国立大学法人制度が発足して4年が経とうとしています。2008年度は国立大学法人評価委員会の暫定評価の年であり、2009年度には総務省の政策評価・独立行政法人評価委員会の評価があって、最初の中期目標期間の評価が定まっていくことになります。評価の結果は、運営費交付金の額や組織の改廃、あるいは次期中期計画などに関わってきます。一方、経済財政諮問会議等では次期の中期目標に向けて評価のルールを見直しや大学再編を含む、大学・大学院の在り方に関わる青写真の検討・作成等も要請しており、すでに重要な争点にもなっています。ここ2、3年は各国立大学法人にとって試練の年になることは間違いないといえるでしょう。本分科会では、このような状況認識を持ちながら、国立大学法人が発足するまでの時期に国立大学協会などでどのように捉えられていたのか、そして、現に国立大学法人が発足してからどのような状態に置かれているのかを報告を元に検討したいと思います。
1)「国立大学法人成立の経緯」 田中弘充氏(鹿児島大学・前学長)
2)「法人化で教職員は労働者であることを学んだ」 長野八久氏(大阪大学)
3)「国立大学法人化と教員養成制度の変質」 山口和孝氏(埼玉大学)
12:30〜13:30 <昼休み休憩、第7回理事会>
13:30〜16:00 分科会(午後の部)
◆第V分科会 座長;橋本勝氏(岡山大学)(B−107教室)
テーマ;「認証評価機関を『評価』する」
認証評価制度が導入されて3年が経過した。本学会では、制度導入期の第2回全国大会(駒澤大学)で制度の内容理解を中心とした分科会を設け、多くの会員の関心を呼んだが、既に多くの大学が認証評価を受けている現時点で改めて制度の意義と問題点を整理し、今後の制度のあり方に向けて議論を深めたいと考え、再度、分科会を設けることとした。話題提供者は3名。大学評価・学位授与機構の荻上紘一氏から「機構」の認証評価を、また、元大学基準協会の前田早苗氏から「基準協会」の認証評価をそれぞれ自己評価・総括してもらう一方、九州大学の佐藤仁会員にこの代表的2評価機関を中心に、認証評価機関全体の状況を第三者的に分析・整理してもらう予定である。フロアからの意見も積極的に受けながら参加者全員で今後の認証評価制度のありようを模索したい。
1)「認証評価を自己評価する―大学評価・学位授与機構の認証評価の総括―」
荻上紘一氏(大学評価・学位授与機構)
2)「認証評価は質保証足りうるのか―大学基準協会の認証評価の総括―」
前田早苗氏(千葉大学、元大学基準協会)
3)「認証評価機関に対する『評価』の視点について」
佐藤仁氏(九州大学)
◆第W分科会 座長;熊谷滋子氏(静岡大学)(B−108教室)
テーマ;「大学におけるハラスメント対策の現況と教育の『質』確保」
現在、多くの大学においては、セクシュアル・ハラスメント、アカデミック・ハラスメントに対して、相談窓口を設置したり、ガイドラインを作成したり、一定の防止対策に取り組むようになってきている。しかし、その対策には、まだまだ不十分な側面があり、被害を訴えても、きちんと対応していない事例もある。今回は、そのような状況を具体的に取り上げながら、どこにその問題点があるのかを指摘し、どうあれば改善するのか、防止できるのかを考える糸口を探りたい。さらに、ハラスメントを含めた人権侵害問題を大学評価のあり方の前提として考えるべきであることも確認したい。この分科会では、この問題に関心のある、または、悩みを抱える方々と共に、人権を大切にする大学づくりのための大学評価はどうあるべきか、語り合っていきたい。
1)「アカデミック・ハラスメント案件に対する大学の対応」
泉谷洋平氏(NPOアカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク)
2)「公立大学法人O大学セクシュアル・ハラスメント事件の概要と問題点」
櫻田和也氏(大阪市立大学)
事例研究;「被害者からのメッセージ」
〔代読〕竹内優理氏(大阪市立大学)
3)「キャンパス・ハラスメント対応の現状と問題点」
吉野太郎氏(関西学院大学)
4)「大学の非正規雇用・有期研究者の現状―事例から見るアカデミック・ハラスメントの現状―」
吉澤弥生氏(大阪大学)
5)「全国の大学におけるアカデミック・ハラスメント対策の現状と問題点」
御輿久美子氏(奈良県立医科大学)
16:10〜17:00 ◆総括討論(各分科会座長の報告と質疑)(B−107教室)
司会;中村征樹氏(大阪大学)
17:00 閉会挨拶 終了
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2月13日(1) 『カメリア通信』が、送られてきた。以下に掲載しておこう。
病理現象は、一挙に、からだの全体に出現するのではなく、末端から、微細なところから、微分的な極限から、発生するのであろう。確か、がんの発生から、検知されるような大きさになるまで10年以上とか、ドキュメンタリー番組で報じられていたと記憶する。
その意味では、『カメリア通信』記事が告発するような一見、「微細な」、「瑣末な」もめごとも、巨大な問題(グローバル化・新自由主義の世界的潮流の荒波・津波)が、大学にまで押し寄せてきたことの末端的な一現象であろう。「歴史の神は細部に宿る」。
大学教員の精神を奴隷化する危険性のある「暴力の任期制」(その強制)は廃止し(任意に同意するのは自由、魅力的な制度内容なら自発的に同意するであろう)、大学教員の自由な精神(旺盛な多面的批判精神=現状を乗り越えようとする創造的破壊の精神=すぐれた業績を積み重ねようとする前向きの向上精神)をさらに生き生き発展させるような「魅力の任期制」(すでにその着想をこの日誌でだいぶ前に書いたが[28])を、現在所与の諸条件の可能性の中で追求していくことが、求められる。
教員評価制度も、ビアレヴュー原則(学界の同僚による評価=学位論文・学術雑誌掲載・著書論文の書評・学界発表・学界の回顧と展望その他研究史における評価など、多様な形態での学界による評価=外部評価、学生の授業評価アンケート、社会貢献における市民・社会の評価、大学運営における教職員の評価など)を適切なものとしていけば、直接のコース長や学部長、あるいは学長の恣意的評価・権力的評価を抑える(少なくとも最小限にとどめる)可能性が、大きくなる。そのような客観性のある教員評価制度は、現在、グローバルな競争(高等教育・大学教育の世界的競争)のなかでは、必要不可欠のこととなりつつあるのであろう。
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横浜市立大学の未来を考える
『カメリア通信』第53号
2008年2月11日(不定期刊メールマガジン)
Camellia News
No.53, by the Committee for Concerned YCU Scholars
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内容略
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2月12日 2月9日の日誌に関しては、各方面からいろいろの意見が寄せられている。
そのひとつ:
「コース長など管理職を引き受けないのは、任期制のことだけでなく、現在の学生教育、特に・・・が押し進めるPEに象徴される異常な教養教育に対して、積極的に協力したくないからではないかと思います。学生を深く思う教育熱心な人たちが、自分の処遇だけを考えて、学生が一番の被害者となる事態である新年度コース長不在を容認しているとは、到底思えません。」
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2月9日(2) 大学院関係の業務が午前中から午後5時まで続いた。
ここで、すでに「非公式情報」とされた学長候補に関する情報が、O副学長が一個人としての立場、ということで出された。すなわち、経営審議会から、F元副学長、Y商学部OB/大手企業重役、教育審議会から医学部代表O氏、理系代表K氏であるという。
文科系大学院研究科の出席メンバーは、沈うつな空気のなか、誰も発言するものがいなかった。新しく学長になる人物は、これまでどおり、コース長や学部長に任期制を承認させなければならず(説得しなければならず)、任期制を承諾するものがいない場合、そのコースは機能不全におちいる。その機能不全も、学長の責任になる[29]。
国際総合科学部の自治機能の回復を行おうとしても、現在の学則の元では、これまでどおり、機能しない。その責任も、新学長の責任となる。
そもそも、新学長が、広範な学内の意向を基礎におくのかどうか、確認することも不可能である。
現在の定款等と学内構成員の考え方の間で、板ばさみになる人を、候補に押して、1カ月か2ヶ月で過労死する(孫福氏)ようなもこともありうる、また任期途中でやめざるを得なくなる(O前学長、ストロナク学長)ことが想定される状況で、推薦人に名を連ねようとする人もいない。
それが、心優しい(?)、またこの間の悲劇を沢山見てきた(? そして身分継承教員の圧倒的多数が任期制を不利益措置と考え、その強制を違法だとし、同意していない)文科系の教員の現状のようである。
「火中の栗をひろう」ことが、文科系教員にも求められるにしても、あまりに火の手が強ければ、どうしようもないであろう。
巷の予想では、医学部名望家O氏が当選するであろう、と。
医学部(医学科)で、2人の候補が競争し、O氏が勝利し、調整が済んだ以上、その予想が一番、確かかもしれない。
私も、この間の改革過程を見ていて、そのかかわり方を見ていて、彼が医学部(医学科)自治を堅持しようとする一貫した姿勢を感じ、その意味で、本学の「9・11」・「ground zero」に抵抗する姿勢を示していたと感じている。その意味では、4人の中では一番いいと感じる。
ただ、問題もあるようだ。
O氏は、優れた人であり、医学部内外の多くの人から好かれ、医学部内(正確には医学部の中の医学科)での信望にはきわめて厚いものがある[30]。
しかし、その人気の高さの裏面として、私に聞こえてくるところでは、医学部(医学科)ナショナリズム(ないし医学部医学科優越意識・優越主義・・・ご本人が自覚しているかどうかは別として八景のものにはそう感じられる)が強い面があり、看護学科との関係でも、八景の理系諸分野との関係でも、かなり反応が冷たい。
大学自治の見地ではなく、医学部医学科自治の大学支配(人員、予算など圧倒的なウエイトを持つから)が危惧されるからである。
そのあたりがどうなるか?
本来、教育研究の現場を担う圧倒的多数の教員から、「15名以上」の推薦を集めて、出る候補があってもいいのだが、少なくとも、伝えられる情報が正しければ、そうした下からの、一般教員15名以上の推薦を集めた候補は出ていない[31]。
一切の下からの意思表示をしないで[32]、経営審議会や教育審議会(それらの委員はすべて、下から選ばれた委員ではなく、「上から」任命された委員である)の候補だけが、存在するということでいいのか?[33]
現在の制度のおかしさを指摘する「下から」の候補を出さなくていいのか(仮に敗北することがわかっていたとしても)、との気持ちが、本学教員のなかからは出てこないのであろうか?
Don Quixoteを待つしかない、ということか?
誰が、Don
Quixoteとなるか?
一人や二人のDon
Quixoteくらい出てきてもよさそうだが?
沈うつな空気( ?)、無気力感( ?)・しらけ( ?)が瀰漫する雰囲気のなかで、世の中を面白くするDon Quixoteの一人や二人、本学にはいるのではないか?
悲劇の次には、喜劇が求められているのでは?
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2月9日(1) 久しぶりに、『カメリア通信』を受け取った。以下に、コピーしておこう。
一楽教授の「学長に求める条件」は、これまでがあまりにもひどかったからか、きわめてハードルが低いように感じられるが、どうだろう。それとも、「通常の責任感と常識を持ち合わせた学長」というのが、そもそも、まれなのか? そうかもしれない。
この間の、「本学の9・11」、「ground zero」、21世紀初頭の「黒船」の襲来からストロナク学長辞任にいたる「改革」過程において、「通常の責任感」とは何であり、「常識」とは、何だったのであろうか?
「改革」過程のさまざまの人間像(そのすべてのタイプが「通常の責任感」と「常識」を持っていると主観的には信じているようだった)を振り返ると、「通常の責任感」と「常識」の定義は、なかなか難しそうである。むしろ、われわれのように、大学自治を主張して、いろいろと異論をとなえるものは、「批判ばかり」と疎んじられ、変人・非常識だと思われたのではないか。
大学自治の基本原則を「愚直」に(「変人」のように・「非常識」に)まもろうとするかどうか、これを「通常の責任感」、「常識」のリトマス試験紙にすると、ある程度、ふるいわけは可能かもしれない。
一楽先生の文脈は,そのように解釈すべきなのだろうか?
もうひとつ、「何も代わり映えしなくてもいい、通常の責任感と常識を持ち合わせた学長が選ばれることを切に期待する。」とあるが、誰によって、どのように選ばれることが、「通常の責任感」と「常識」の選別の民主主義的原則なのであろうか、ということ。
だれしも、主観的には、「通常の責任感」と「常識」を持っていると信じ、また、そのような主体として、「彼こそがふさわしい」、「彼こそがその基準に合致している」と判断するであろう。
その判断の主体が、経営審議会や教育審議会の少数者(しかも「上から」任命された人々で、選挙などによる一般教員による選別の洗礼を受けていない)でいいのかということ、これが、大問題となっている。
教員組合が主張しているのは、まさにそのことである。(現在の学長選考の密室政治的非民主的あり方を批判している。制度そのものを根本的に批判している。)
選挙制度自体が、民意を問う形でないこと、これが、決定的に問題だということになる。
それでは、今回の場合、教員の民意は、どのようにして確認すべきか?
何らかの形で、全教員が、自由な秘密の意思表明のチャンスを持たなければ、学長選考への参加の意識が生まれないのではないか?
参加意識、直接間接に関与した意識がなければ、ほとんどの教員にとって、多かれ少なかれ、外部から「投げ込まれた」、「自分たちには疎遠な」、「自分たちとは心の結びつきのない」学長、ということになりはしないか?
それは、悲劇(学長の過労死、任期途中辞任など、そして、それは大学運営の混乱として、結局は学生や院生にとっての悲劇、ひいては教職員全体の意気消沈・教育研究の沈滞などの悲劇)の再生産をもたらすのではないか?
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横浜市立大学の未来を考える
『カメリア通信』第52号
2008年2月8日(不定期刊メールマガジン)
Camellia News No.52, by the Committee for
Concerned YCU Scholars
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学長辞任の意味するもの
国際総合科学部
一楽重雄
去る1月17日に私は大学で学長辞任のニュースを耳にした。まったく予想外のことではあったが、正直なところ、この閉塞した市大の現状が少しでも変わるならこれは歓迎すべき事態だと思った。
しかしながら、まさに任期半ばであり、「これからの学部の内容を今度は外部ではなく、教員自身が考えてほしい、この大学のメジャーをどうするか、そのメジャーに合わせて教員を集める、その逆ではないのだ」と、ついこのあいだまで熱を込めて言っていたのは誰だったのか。このように想いをめぐらしていると、つい先日の安倍元首相の辞任劇が思い出された。そういえば似ている。
両者ともに決断が遅い。学長は、昨年の秋になって「教養の理念(プラクティカル・リベラル・アーツ)」についてペーパーを書いた。そして、教員との懇談会をコースごとに開いた。どちらも確かによいことではある。しかし、教養の理念は3年前に言うべきことだったし、教員との懇談も最初の任期の一年間にすべきことであった。いくら遅くてもしないよりはいいと私は建設的に考え、学長と数学グループとも懇談の機会も持った。そこでは、「プロジェクトRは外部であった。それではだめで、教員が学部の内容を考えてほしい、内部で考えなければいけない」と言われたのであった。しかしながら、そういわれて真剣に学部のことを考えようとなるはずもない。なぜなら、今の市大では「真剣に考えれば、それだけ考え損」になるだけだからである。つまり、大学の自治をすべて取り上げた大学改革のどこも変えずに、「単位認定の権限のほかには何も決定権は渡さない、もちろん人事権も渡さない、カリキュラムの編成権も渡さない。でも教員が考えて欲しい」とは、いくらなんでも虫がよすぎる。
実際、誰一人として懇談会に参加しなかったコースもあったと聞く。学長がテンプル大学に移る理由は明確ではない。いずれにしろ、4年の任期の2年終わった段階での辞任とは、「無責任」以外の何物でもなかろう。体を壊したとか、4年かけて行う改革があまりにうまく行って2年でめどがついてしまった、とでも言うのなら別であるが、実際は、さきほど述べたような状態である。そして何よりも大学案内や、京浜急行の吊り広告に、学長の顔写真が大きく大きく出ているのである。
本来、市大では教員管理職の任命権はすべて学長にある。学長は、強大な権限を持っている。にもかかわらず、我々から見て学長の意向によると思われる人事は、昨年4月の比較的若い教員を副学長に抜擢したもののみであった。すべて遅すぎた。そのあげくに、学長職そのものを投げ出したのである。
本来、「大学の自治」は憲法に規定された「学問の自由」を担保するための具体策であり、学校教育法第59条には、「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」と規定され、教授会自治が謳われている。しかし、法文には「教授会自治」とか「大学の自治」という文言が見られないため、横浜市の一部の政治家や官僚は、まったくこれを無視しているのである。
憲法上の学問の自由の観点とは別に、「教授会の自治」なくしては大学の運営自体が困難である、ということが今回の学長辞任劇で明白になった、と私は思う。オールマイティのはずの学長自身が、尻尾をまいて逃げ出したのはなぜか。それは、「大学の自治をまったく否定したところでは、大学運営さえままならない」ということなのである。
教授会の自治や教員による学長選挙にもいくらかの問題点はあっただろう。しかし、現在の市大の方式のどこにそれより優れた点があるのだろうか。伝統ある私立大学と違い、「にわか経営者」や「雇われ学長」が自分のことだけを考えてことを運ぶとするならば、もはや市大に未来はない。
たとえ、少しずつではあっても本来の大学の姿を取り戻すことが、どの立場の人にとっても、今必要なことなのではないか。「公立大学初の・・・」は、もうたくさんである。何も代わり映えしなくてもいい、通常の責任感と常識を持ち合わせた学長が選ばれることを切に期待する。
当局は、教員に対して辞職にあたっては6ヶ月前に申し出るようにと就業規則を定めた。「それを守らない場合には、契約違反として損害賠償の請求も考えられます。しかし、そういうことはしません。」と説明してきた。教員には6ヶ月前にと言っておきながら、任期2年も残しての突然の辞職、これこそ損害賠償の対象ではないだろうか。本人の希望だからやむをえないで済むものなのだろうか。いったい、契約はどうなっていたのか、疑問の残るところである。
もう一点見落とせないことがある。それは、学長が学生に対して辞任についての説明をまったくしていないことである。学生に対して、きちんと説明をしないと「学長は市大のことより、自分のキャリア形成を重視した」と思われても仕方ないのではないか。
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編集発行人: 矢吹晋(元教員)
連絡先:
yabuki@ca2.so-net.ne.jp
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2月8日(5) 最終講義は、大盛況。
カメリアホールがほぼいっぱい。
立って聴講する人もかなり多かった。
中国、台湾、韓国などからも、最終講義にはせ参じた人が居ると紹介があった。
300人以上に上るとされるゼミ生のかなりの多くの人が平日にもかかわらず、かなり沢山参加しているようだった。
斉藤先生の教育力・研究力と温厚なお人柄とが、この盛況をもたらしたのだ。
弘前時代から45才ころまでの自分独自の研究の確立の時期の苦労の話が、とりわけ、共感の持てるものだった。私自身の苦闘と重なって。
現在、「教育重視」が、喧伝されるが、斉藤教授がおっしゃっていたように、教育しようにも若いときには、他人の借り物しかない。教えるべき自分独自の内容がない。自分独自のものを打ちたてるには苦闘が必要であって、一定の年数がかかる。
斉藤教授の場合は、45歳(1987年)で学位を取得。学位とは、まさに自分独自の貢献を学会に対してなしたことの証明であり、外部評価の明確な客観的証拠である。
文科系の一定年齢以上の研究者にとっての博士の学位(論文博士・単著の公刊書籍)は、まさに、研究者としての独自の貢献をしたことの証明であり、ある確固とした城を構築したことを意味する。
しかし、現在の「課程博士」は、研究者としての自立を意味するに過ぎない。したがって、先にも書いたように、教授になるには、教授資格論文(Habilitation)ないしそれに該当する業績が必要だというのは、もっともなことである。
「教育重視」を本当の意味で実行できるのは、研究実績が豊富で、確固とした独自の研究実績を上げるまでの苦闘を知りつくしているような人であろう。そのような苦闘と自信とを踏まえて、若い学生や院生に対して、温和で内容のある教育ができるのではなかろうか。「教育重視」を文字通り、また真の意味で実行できるのは、研究の上で、すでにしかるべき頂点に達して、これ以上研究のために時間を割くよりは、むしろ蓄積した研究を学生や院生に対して伝授していく(教育していく)ことに意味があるような人々であるのかもしれない。
「教育重視」というと、ゼミ生の数の多さや履修生の数の多さを競うような軽薄な傾向は、教育すべき内容について、真剣に考えたことのない人々、自己欺瞞に陥っている人々のやることだろう。
それにしても、斉藤教授の仕事の質量のすごさ。
単著・編著(これらも、さまざまの出版社からの出版であり、客観的社会的評価の明確な証拠)、論文、社会貢献(実にさまざまの市や県の各種委員を歴任)など、大学教員に求められる全分野で、顕著な仕事をしていることがわかる。
5時20分から、斉藤教授最終講義後の懇親会。シーガルセンター1階。
最初ちょっと乾杯の挨拶のときだけ参加。
超満員。
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2月8日(4) 小耳に挟んだ話。
PEで挫折し、休学に追い込まれた学生の父親が大学に来て、語学センターの英語教員と、大学のPEのStrategyは何か、かなり議論していったようである。
その父親に、背景を理解してもらうために、ストロナク学長辞任に関する教員組合の抗議声明(ウィークリー)(2月8日付)などを、その父親にはお渡ししたという。
PEのために、一年間休学し、東京に下宿して語学学校に通うとのこと。
それが、どれだけ、本人の将来に意味があることなのか?
どれだけの犠牲を、多くの学生に強いればいいのか?
PEで挫折し、休学等に追い込まれた学生の話は、ほかの教職員も漏らしている。
画一的統一基準と硬直的な態度によって、かなりの犠牲者が出ている可能性がある。「8割の学生がクリア」と楽観的なことを言っている場合なのではないだろう。もちろん、そのことと、学長辞任とは関連がある。その説明がないではないか、というのが教員組合のスタンスである。
私が構想するような制度改革ならば、こうした悲劇は生じないと思われる。
先の件で、英語センターの教員は、自分の地位とスタンスでは、与えられたStrategy(統一的画一的基準の進級基準の強制)のなかでのtacticsの可能性しかないと、父親に答えていたという。その実態を知る人から耳に挟んだところでは、tacticsとしては、「進級基準」をクリアできそうなクラスに優秀な教員を配置するという。それが事実なら、クリアできそうにないクラスには、相対的に低い水準の教師が割り当てられることになる。悪循環、絶望的状態!
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2月8日(3)”There are few earthly things more beautiful than a university,” wrote
John Masefield, in his tribute to the English universities. ……
He admired the splendid beauty of the university, he said, because it
was a place where those who hate ignorance may strive to know, where those who
perceive truth may strive to make others see.”[34]
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2月8日(2)場所は、カメリアホールに変更。2時半から受付。3時から4時半:講義。
そういえば、「未確認情報」で教育審議会から推薦されたという医学部名望家O氏は、斉藤教授最終講義で、挨拶する予定とか小耳に挟んだ。
なぜ、どうして、どんな関係?
さらに、国際総合科学部長は、「用事」で、最終講義には出席できず、花束だけを贈呈したとか?
こうしたことが、私の「妄想」、「憶測」となんらか関係あるのか?
ご講義を拝聴する楽しみに加えて、楽しみがひとつ増えた。
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2月8日(1) 「未確認情報だが」と、下記のような情報が伝えられた。さて、予想された顔ぶれがほとんどだが、「ground zero」から、今日に至る全経過(その中での書きの人々の立場と行動)を見守ってきた大学の教職員はどのように感じ、どのように行動するであろうか?
これら4名のかたがたは、それぞれに著名なかたがたで、それぞれの専門分野でぬきんでた業績をお持ちだ(私の知っている限りで)。
どの方も、本学をよくしようという主観的なお気持ちは確かであろう[35]。
しかし、
O氏は、医学部(少なくともその一部[36]−仮に教員15名の推薦人だとすれば)の発展的利害と希望を代表するであろう。
K氏は、理系(少なくともその一部−仮に教員15名の推薦任だとすれば)の発展的利害と希望を代表するであろう。
F氏[37]は、そのかつての所属学部からすれば、文科系(国際文化系−少なくともその一部−仮に教員15名の推薦人だとすれば)の発展的利害と希望を代表するであろう。
そして、Y氏は、商学部OBとして、経営科学系(少なくともその一部−仮に教員15名の推薦人だとすれば)の発展的利害と希望を代表するであろう。
すくなくとも、これらの人々を推薦したグループの主観的意図においては、そうであろう。
しかし、何かが欠けてはいないか?
大学教職員・学生院生(OB/OGを含む)の全体的な広範な支持基盤(その検証・確認)という点から、また、大学の民主的で総合的発展という見地から、各人を、どのようにみるべきであろうか?
どのかたが、学長が任期途中で辞任しなければならないような諸問題を抱える本学の全学的頂点に立って、諸利害を発展的に調整しつつ、強力なリーダーシップ(その基盤は広範な構成員の支持だが)を発揮できるであろうか?
これらの方のどの方が学長になっても、それぞれ固有のバック・希望・政策・利害を背景にしているため、ほかの勢力は、多かれ少なかれ、許容できないのではないか?
その危惧は、どの陣営においても、ぬぐえないのではなかろうか。
現在の大学の状況においては、6名全員の選考委員が合意できるような候補が求められるのではないかと思われる。
それは無理としても、すくなくとも、6名の選考委員の過半数(といえば4名だが)が合意できる人はいるのか?
少なくとも、われわれには、それを判断するデータはないし、与えられてもいない。
われわれ一般の大学構成員は、6名という少数の選考委員会の「叡智」に期待し、幸運を祈願しなければならないのか?
----------未確認情報---------
未確認情報ですが、
教育研究審議会から、O氏、K氏が推薦されたとのことです。
経営審議会から、F前副学長、Y氏[38]が推薦されたとのことです。
ご存じかもしれませんが、取り急ぎお知らせいたします。
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2月7日(2) 昨日の団体交渉に関する週報20080207が発行された。
-------------横浜市立大学教員組合週報------------
組合ウィークリー
2008.2.7
もくじ
●
団交を行いました
● 学長の辞任と学長選考のありかたについて
● 教員の担当科目の変更に関しては担当教員の意思確認を
● 団交を行いました
2月4日、当局との間で団交を行いました。団交要求書をすでに12月25日に当局に出していたのですが、具体的な要求項目は、「昇任人事等における任期制の強要について」、「職務業績給の平均的・恒常的アップの要求」、「教員評価制度」についてでした。
任期制について当局は、昇任をすれば新しい職に就くことになり、新たな雇用契約を結ぶことになるので、あらかじめ任期制への同意を尋ねたものであり、手続き上必要と考えている、法人化によって運営形態が変わったためであると述べましたが、組合は、そもそも法人化以前任期のなかった教員に任期制への同意を求めることは、不利益変更であると主張し、もし仮に不利益変更でないというなら、その法的根拠を示すよう求めたのですが、明確な回答がありませんでした。
学長は「任期制への同意状況の確認」と「任期制への同意状況も加味した上で」人事委員会へ諮問をするとの文書(平成19年11月14日付)を出していますが、教学の長である学長が、雇用内容にも踏み込んで出されたものです。労働契約である以上、同意によって成り立つのであり勝手に条件変更を押し付けることは許されないとして、改めて学長の出席を要求しました。その結果、この点に関しては、学長の出席も含め、当局が持ち帰って検討するということになりました。
職務業績給のアップと評価制度に関しては、当局は評価制度の活用方法の交渉に入りたいと述べましたが、まだ評価制度が処遇に反映されることになっていない(処遇への反映は組合との協議事項)、また19年度の評価は20年度に反映されないのは明らかであるので、その間の過渡期が凍結状態になることは許されない、職務業績給という部分の内容についても議論しなければならない、教員評価委員会の行っていることはFDが中心であり、処遇への反映ということは当然組合との協議ということにとなると組合は主張しました。さらに、よりよい評価制度とするため平成18年度の試行と平成19年度の教員評価の結果と問題点を全教員に公表するよう求めました。
概括的には以上のように団交が行われましたが、団交での問題点整理や今後の運び方に関して、さらに事務折衝をまず行っていくこととなりました。
● 学長の辞任と学長選考のありかたについて
学長は、任期をまだ2年残したまま、3月31日に退職することが明らかになっています。任期途中で学長が他大学に移るというなどということ自体、前代未聞のことです。
団交でも問題としたように、学長は昨年11月、「任期制同意状況を加味し」して人事委員会に諮ると、教学の長が経営判断、教員の処遇そのものにかかわる文書を、その職として出しています。そこで今回の団交でも、学長の出席を求めたにもかかわらず出席しなかったことは、無責任という他はありません。
学長は、「プラクティカルなリベラルアーツ」を述べ、「Toefl500点」といった進級要件を推し進めてきていたわけですが、それらが大学において、うまく機能していないことも明らかになっているこの時点で辞任し、他大学に移るということは、これも無責任という以外の何物でもありません。
また、横浜市立大学の標語のひとつに「学生中心」ということが掲げられているにもかかわらず、学長の辞任に関して、学生全体に向けての説明が現在に至るまで何らなされないということは、きわめて大きな問題であると考えます。
そもそも学長は、学長選考委員会が選び理事長が任命するということになっています。教員は15名の推薦をもって学長候補者を推薦できるということにはなっていますが、選考は、わずか6名の選考委員会(学外委員、事務局長、副学長等)において行われるわけです。選考委員会には、教員としては副学長が入っていますが、それらの副学長は教員によって選ばれたわけではなく学長が任命した者です。
横浜市立大学における学長の選び方は、一般の教員の意思が反映される制度になっていません。このような選考方法をとる限り、誰が学長になっても、それが広く教員によって支持されることにはなりません。端的に言えば、非民主的な選び方しかされていないからです。これは横浜市立大学の大学全体としての発展にとっての大きな障害となることは明らかです。学長の選考にあたっては、大学全体の教員の意向が曖昧なかたちではなく明確に反映されるものでなければならないと考えます。
● 教員の担当科目の変更に関しては担当教員の意思確認を
この間、教員の担当科目が、担当教員の了解を得ないまま、変更などが行われているという事例があるということが数学担当の教員から組合に知らされ、執行委員会でも議論しました。科目の改編・改廃などは、本来であれば教授会の重要な審議事項であるはずですし、学生の教育にも大きな影響を及ぼします。法人化以降、教授会が、学校教育法、大学設置基準による本来の機能を果たしていないためにこのような問題が起こっていると思われますが、教員の担当科目の変更・改変・改廃は、教員配置の変更を伴うことにもなり、それは教員の働く場そのものの問題であり、任期制の枠組みの中では、分限免職にもつながりうる可能性があるということから、組合としても座視できない問題と考えています。
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2月7日(1) 昨夕、教員組合総会は、無事終了。当初心配された出席者・委任状は、予想より多かった。出席者・委任状を合わせて、ちょうど100名分の明示的支持を得て、活動報告・活動方針・会計決算予算等が承認された。
総会議案の一部の字句上の修正・加筆などがおこなわれたが、原案が、現在の組合員数(海外出張、産休その他で出席不可能を除く)の75%強の支持を得たことは、きわめて重要である。
今後、本日から21日12時まで、新役員の信任投票が行われる。教員組合は、現在の大学の状況のなかでは、最も民主主義的原則を堅持している組織、といえるであろう。
総会議案のうち、添削部分は、労災の100%補償の制度的保障を求める要求、学内の関連諸組合(市従支部、医従、自治労、その他)との連携協力の文言の正確化、同一労働=同一賃金原則の多義的理解可能性から、その字句の削除(これによって文脈上は問題ない文章に簡潔化)、など。
とりわけ強調されたのは、教員組合の組織率の拡大の課題であった。
看護学科、環境生命、さらには鶴見キャンパス、そして医学部(流動性の激しい教員医師が人的構成の圧倒的部分なので、ほかの職場とは少し事情が違い、組織率、ないし組合結集率はきわめて低い)での、組合への参加・結集(人的物的貢献の調達)に努力することとなった。自由と安全の確保のためには、それなりの人力・資金力等が必要不可欠だから。
そしてまた、当該職場での組織率の向上は、打ち出される政策・主張の発言力の民主主義的基盤の強化を意味するから。
ただ一人しか主張していないことには、ほとんどの人は耳を貸さない。
ヒトラーは、大衆的支持(国民主義的・民族主義的熱狂と共感・共鳴)を得て、初めて、軍指導部、官僚などのエリートに対し、優位に立ち、「指導者」、「命令者」、総統として望むことができた。
ただし、ヒトラーの大衆的支持は、ワイマール憲法の下では、すなわち、多数の政党がしのぎを削る民主主義的議会政治の状況では、最高時点(1932年7月)でも、4割に満たないものであった。
1933年2月末、国会炎上(放火)事件をでっち上げて、左翼(共産党・社会民主党など)の自由な活動を封じた(非合法化した)1933年3月選挙においても、ナチ党の得票率が、過半数を超えているのは、35選挙区のうち8選挙区にすぎなかった。すなわち、オストプロイセン、ポンメルン、フランクフルト・アン・デア・オーデル、ブレスラウ、リーグニッツ、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン、オスト・ハノーファー、ケムニッツ・ツヴィッカウにしか過ぎなかった。
自由な選挙のもとでは、ナチ党は、過半数を獲得できなかった。
したがって、政権の座について、暴力・陰謀が駆使された。
自由な選挙(多様な選択可能性=複数政党制[39]、および、弱い立場の人でも行使できる一人一人の秘密の意思表明の制度)の重要性が、改めて確認される。
学長選考などにおいても、本当は、こうした秘密投票による大学構成員(教職員、さらには学生院生)の意向の調査は、必要であろう。
もちろん、これはある程度、自主的に教職員や学生・院生が、それぞれの基礎組織で実施しようと思えば実施できることではある[40]。
しかし、制度として確立されていれば、大学内部の民主主義のためには、すばらしいのではないか。大学の発展に、全構成員が何らかの意思表明を行い、結集するためには。
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2月6日 本学にとっての「9・11」において、大学の中枢に居た人々、大学の管理体制を担っていた人々・勢力は、どのような立場におかれたであろうか?
かれらもまた、きわめて苦しい立場におかれたことは、理解できるし、病で倒れた学部長もいたという情報を得ている。
保守勢力、行政的武断的「改革」勢力−当時の学長は、大学内部においては、この勢力の形式上法制度上の頂点にあった−、そして、これらに抗する批判的改革勢力などの諸潮流のハザマで、精神的に不調になった人も多く、また怪我をして、一時期、かなり長期にわたってびっこを引いていた学部長のことも思い出される。
大学管理体制の中枢(学部長・研究科長などの役職)を握っていたのは、自分たちの希望・要望を実現するためであろう。
そこにも、改革(内容、手法など)に関しては、さまざまな対応(保守派、武断的改革追随派、日和見派、抵抗派など、複雑に入り組み合っている)があった。
保守勢力の希望・要望は、細かな「利権」を別とすれば、「古い体制」、「アンシャン・レジーム」の維持(すなわち、現在との対比で言えば、商学部・国際文化学部・理学部の3学部体制を維持し、3つの研究科を維持する体制)であった。
「9・11」の嵐の改革は、こうした「アンシャン・レジーム」を、大学自治[41]とともに、なぎ倒してしまった。したがって、「9・11」の嵐は、保守勢力・「アンシャン・レジーム」固執ないし擁護勢力にとって、一番の打撃であった可能性がある。
その意味では、一番苦しんだのは、われわれ、グローバル化、新自由主義の世界的な荒波の中で、大学自治の原則(学問・思想・精神の自由、大学人の自由、したがって身分保障・安全保障の堅持=任期制反対)を守りながら、教職員の力量を最大限に結集して民主主義的な改革を着実に行うべきだと考えた批判派・教員組合勢力ではなく、彼ら「アンシャン・レジーム」派であった可能性がある。
そのせめぎあいの過程では、数理科学系のように、所属上は理系の中にいて(予算制約がほとんどなく自由、批判的で)、必死で生き残ろうとする大勢力(「金縛り」・予算制約の大きい実験系など、研究至上主義から面従腹背をいとわない人々も居るか?)の陰になり、粉みじんにされてしまったところもあると見るべきではないか。
「改革」の歴史を書こうとしている人々は、私のこの見方に対して、どのような感想を持つであろうか?
さて、問題は、現在の状況である。
立候補を噂されている理系名望家は、この間の「改革」において、どのような態度をとったか、諸般の事情からとらざるを得なかったか?
立候補を表明したとされている医系名望家は、この間の「改革」において、どのような態度をとったか、諸般の事情からとらざるを得なかったか?
彼らのこれまでの態度・資質および将来予想される行動のあり方は、大学自治の再建、全学の教員・職員の力を民主主義的に結集する、という観点から見て、どのように評価すべきか?
昨日、新しいニュースで驚いたのは、S教授が隣のK大学に「特任」教授として採用される、との情報である。
これが本当なら、私の「妄想」は、まさに妄想でしかなかった、ということになってしまうが・・・・・そのあたりの詳しい事情は、8日(金曜日)3時からのカメリアホールでの最終講義で、披露されることになるのか?
孫副さんの急逝、今回の学長辞任の背後にあるのは、グローバル化、新自由主義の世界的な荒波の中での、武断的「改革」であり、大学の自治的機能を廃止した大学統治のあり方である。しかし、その大学統治の責任は、少なくとも、論理的には、理事長・副理事長にまで行き着くものである。だからこそ、私は、退官を目前にされたS教授の行き場所に関する「妄想」をしたのである。
ある意味では、理事長・副理事長も、グローバル化・新自由主義の世界的潮流の犠牲者である。
しかし、だからといって、学長辞任だけで、責任問題は、なくなってしまうのであろうか?
それなら、「トカゲの尻尾きり」といったことになるのではないか?
市民的感覚からすれば、それはありえないと思われるのだが・・・
現理事長・副理事長は、新体制構築を推進することで、自分たちなりの責任を取り、新法人人事が、近いうちに発表される、ということか?
しかし、その人事が、また、大学内部の広範な支持、という基盤を欠く場合には、これまでと同じような悲劇的展開が目に見えている。
さて、どうなるか?
「大学内部の広範な支持」を確証・立証するのは、何か?
もしも、新しい学長が、すくなくとも、「大学内部の広範な支持」を立証できるものであれば、その新学長との連携・共同が保障されているということでの間接的な「大学構成員支持」を主張できるかもしれない。
新学長の、いわゆる「権威・権力」の「正当性」が問題となろう。
問題の根本は、したがって、大学構成員(教職員)の支持如何、すなわち、民主主義の度合い、ということになる。
その検証可能性如何、ということになる。
ときあたかも、アメリカ大統領選挙の予備選挙の真っ最中。
民主主義の成熟が問われている。
現在の学長候補選出のシステムで、「大学内部の広範な支持」を確認するために、何が、どこまでできるのか?
誰が、その支持調達のために、動くのか?
人任せか? それとも、下からの、三々五々の、主体的行動とその総合的結果か?
アメリカ的なグラスルーツの民主主義は、本学では、どこまで実現できるか?
大学構成員全員(教職員・学生院生の全体)の一人一人にたいして、問われているのは、そのことであろう。
大学の自由で民主主義的な発展のために、学長選びにおいて、「あなたは何をするのか」、「あなた自身は、どのような貢献をするのか」と。
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2月5日(3) 教員組合のかたがたは、私の日誌にかなりの方が、関心をお持ちだと思われる。それで、明日の総会にむけて、まだ、成立要件となるだけの委任状が集まっていないということを、ここでもお知らせしておこう。
総会が成立しないと、再び、日を改めて総会を招集しなければならない。
組合員各位は、どうか、下記のように電子メールでの委任状提出などにより、総会を成立させるため(総会が成立しないと、役員バトンタッチも延期となる)、組合員の皆様のご協力をお願いしたい。
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組合員の先生方
教員組合総会が明日(6日)に迫っておりますがまだ
出欠の返事が半数に届いておりません。
このメールをご覧になりましたら、どうぞご返信下さい。
もし、ご欠席の場合は、委任状もお付け下さいますよう
お願い致します。
すでに、御提出済みの先生方には度重なる要請になり
誠に申し訳ございませんがご了承下さい。
教員組合事務室
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2月5日(2) 各方面から、学長候補者の推薦者を集める動きが伝えられる。やはり、これまで噂の大物、医学部O教授、理系K教授の周りのかたがたのようである。それはある意味で、当然で、医学部の発展を考えれば、医学部のことをよく知っている人が学長になるべきだと考えるであろうし、理系の発展を考えれば、理系の人を学長にして、将来計画を前進させたいと思うであろう。医学系、理系は、とりわけ予算が大きく、その分配のあり方、したがって予算の立て方に、自分たちの代表を送り込みたいのは山々である。
文科系は?
この間、「9・11」によって一番打撃を受けた文科系は?
文科系に近い数理系の人々は?
もちろん、学長たるものは、各学部・専門分野を超えて、全学的見地での発展を構想するものでなければならないのは言うまでもない。
しかし、全学のことをよく知っている人は、いるのか、という問題がある。あるいは、一人で、多様な分野の構想・発展計画とその妥当性をすべて理解できる人はいるかという問題がある。山形大学のように、対立、ないし正確には競争する候補を、大学最高指導部に統合すれば、かなりの程度、大学の広い範囲・多様な部局の希望・構想を取り込むことが可能となるのであろう。
統合した執行部が統一性と同時に多様性を発展的に生かすには、頂点に立つ学長にそれなりの資質(国際系・医系・理系の個別構想を包み込む大きな発展構想、視野・度量の広さ、その他)が求められるのであろう。
そんな人はどこにいるか?
ある方が、『医学部教員通信』166を送ってくださった。医学部教員通信 168は、 「奥田副学長の学長選考への出馬表明」、とある。助教授講師会の要望を受け、正式に出馬表明がなされた、という関連にあるのであろう。
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> * 医学部教員通信 *166
> ********************
>
> ● 下記の文面の配信を医学部助講会幹事会より依頼されましたので、配信します。
>
> ● なお、末尾には
> 1)現在の学長選考過程に関する公示文(横浜市大HPより)
> 2)1/17の時点で読者から寄せられていた前学長の辞任に関連した情報
> (すでにご存知の方は多いと思います)
>
> を添付しております。ご参照ください。
>
>
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>
> 医学部から学長選挙に出馬されようとしている先生方へのお願い。
>
>
> 近日、学長候補者の推薦に関する手続きが始まることはご存知のことと思います。
> 学長候補者になるためには教授・準教授15名以上の推薦が必要です。最近、学長就任希望者が準教授を
> 訪れ、十分な抱負等を示さないで推薦だけを依頼していくという複数の事案がみられ、助講会構成員から
> このようなことは謹んでほしいという要望が幹事会に寄せられております。
>
> 助講会は現学長選挙制度を肯定しているわけではありません。しかし、現制度で今度の学長選が行われる
> 以上、学長就任希望者に対して最低限、以下の3点を強く要望します。
>
> 1、 広く学長選に出る意思を公開していただきたい。
> 2、 「大学・医学部をどのような方向に導き発展させるのか」を明快に示した所信表明書を作成していた
> だきたい。
> 3、 個人的に訪れて推薦を依頼するようなことは謹んでいただきたい。この行為はまかり間違えればパ
> ワーハラスメントとも受け取られかねません。
>
> もし学長選挙出馬希望者が立候補の意思を igakunet@fukuhp.yokohama-cu.ac.jpにお知らせいただければ
> 学内通信にて広く広報するとともに、推薦していたいただける人材の募集をお手伝いすることも可能で
> す。
>
> 助講会幹事会
>
>
*******************************************************************************************
<学長選考公示文>
>
> 上記に伴い、平成20年度以降の学長選考を実施します
>
> 【参考】学長選考について
> 1 選考手続きの概要
> 公立大学法人横浜市立大学学長選考会議が、学長を選考します。
> 選考にあたり、経営審議会及び教育研究審議会は、各2名以内の学長候補者を推薦することができます。
> また、本学の専任の教授及び准教授は、選考会議に対し15名以上の推薦人の連名により、学長候補者を
> 推薦することができます。
> ※学長選考会議とは
> 地方独立行政法人法及び公立大学法人横浜市立大学定款に基づき設置された学長選考会議は、経営審議会
> から学外委員を含む3名と、教育研究審議会から学外委員を含む3名の計6名で構成されています。
>
委員は以下のとおり。
> 経営審議会
> 清成 忠男(法政大学学事顧問、前法政大学総長・理事長)
> 今田 忠彦(横浜市教育委員長、横浜市リハビリテーション事業団理事長)
> 田中 克子(横浜市立大学事務局長)
>
> 教育研究審議会
> 岡田 公夫(横浜市立大学副学長)
> 奥田 研爾(横浜市立大学副学長)
> 西村 太良(慶応義塾常任理事)
>
>
> 2 新学長の任期
> 平成20年4月1日から平成24年3月31日までの4ヶ年とし、1回に限り再任されることができま
> す。
> ただし、再任の場合の任期は2年です。
>
>
> 3 選考日程
> (1)選考の依頼 平成20年 1月17日(木)
> (2)推薦の受付
> 自 平成20年 2月 8日(金)午前9時
> 至 平成20年 2月14日(木)午後5時
> (3)候補者所信表明 平成20年 2月20日(予定)に公開で実施します。
> (4)最終選考 学長選考会議で決定します。
>
>
**********************************************************************************************
> ********************
> * 医学部教員通信 *168
> ********************
>
> ● 多くの教授、准教授の支持を受けて、現副学長の奥田医学部教授が今回の学長選考に出馬する決意を
> 固めておられ、以下のような「出馬にあたっての抱負」を本通信に寄せられましたのでご紹介します。医
> 学部に関連しては、以下の諸点に全力で努力したいとの抱負を持っておられることを紹介すると共に、多
> くの先生方の理解と協力を賜りたいとの要望がありましたのでお知らせいたします。
>
>
> 医学部について
>
> @横浜市立大学の医学部大学院医学研究科の活性化とブランド力向上への尽力
> A附属2病院における高度先端的医療の充実と市民への還元の促進
> B医学部研究部門の充実、先端医科学研究所などの充実、鶴見連携大学院と医学系大学院の関係強化によ
> る生命科学研究の大幅な充実
> C横浜市立大学の生命医科学研究の国際的競争力強化のための研究環境の整備と国際交流活発化の推進
> D横浜市立大学医学系教員及び附属2病院の医師の労働環境の改善
> E横浜市、神奈川県地域の医療崩壊阻止のための医師確保対策への重点的支援
> F教員や医師の増員
> G横浜市立大学の運営に教職員の意見をさらに反映させていきたい
>
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2月5日(1) 市大新聞に、ストロナク学長のインタヴュー記事が掲載されていることを、ある人がメールで教えてくれた。「学長 辞任の胸中を語る」である。
アメリカ人は、自分がやった仕事のポジティヴな面・功績を強調する(他人の仕事もか?---他人のやったことをほめる)とは、日本の教育との対比で語られることが多いと記憶するが、今回の記事もまさにそのとおりである。
彼の主張と、われわれ「改革」の嵐の中で苦しみ、教員組合に団結して、不当な制度に反対し、修正させてきた文字通り血のにじむような体験をもつわれわれにとっては、実感が違う。
私の実感からすれば、これまで何回か書いたように、新市長の登場→市長任命の「あり方懇」→その答申→市当局の改革本部による「改革」の嵐は、まさに、大学自治の見地からすれば、「9・11」・「ground zero」であった。
その証拠に、沢山の教員が、抗議の意思を表明して、あるいは辞職し、あるいは他大学に移っていった。
大学(八景キャンパス)は、一時、荒れ野と化した。
あまりに急激な「改革」は、教員と職員の間の亀裂を深めた。
民主的ボトムアップのシステムを欠如した大学運営は、神経中枢が麻痺し、一般教員は、無気力状態に陥った。学長が外国人としては優れた能力を持っていても、教職員・学生との意思疎通は不十分であり、情報の血の循環は滞っていたといわなければならない。
その崩壊状況を何とか、土俵際で押しとどめたのは、教員組合に結集した教員たちであった、と考えている。
もちろん、この嵐の中で、「大学人の会」、「市民の会」など、大学内外から多くの支援があったことは、内部で絶望的な闘いを進める教員たちにとって、大きな励ましとなった。
小耳に挟んだところでは、この「改革」の嵐に関しては、歴史をまとめようという動きがある。「改革」の嵐が一段落して、歴史を語ることができるようにまで、やっとなったというのが現状であろう。奈落のそこへ向かって落ちていくとき、あるいは、どん底にあえいでいるとき、歴史を語ることなど、ましてや歴史を書くことなどできない。
現在、どん底からの回復過程、気力回復過程が始まっている、ということであろう。
ストロナク氏の言うとおりであるとすれば、すなわち、ground zeroの辛酸をなめてなお、本学が、日本と世界の中でかなりの高い評価の大学であるとすれば、今後、ふたたび、大学自治の再建によって、かすかに上昇機運にある教員の気力を民主的に統合し、大学を構成する教職員の自主的自発的精神の喚起、協力・共同精神の統合に成功するならば、地球的規模での超一流大学に仕上げることは短期間のうちに可能だということになる。
しかし、それは、まさに、内部にいるものこそが、市民・卒業生など、支援者とともに成し遂げるべきことである。
さて、どうなるか。
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2月4日(4) 今日は、6時半から、団体交渉である。団体交渉の要求事項は、組合HP掲載のとおり。
昇任問題、任期制問題、教員評価のあり方に関する問題は、すべて、教授会が審議決定権を回復し、自治機能を再建できれば、その多くは解決する問題ばかりである。教員組合は、評価における不当な問題、不服申し立て制度、不服審査制度などを提案しており、労使代表と中立の委員との、一種の法廷が設定されることになれば、一定の前進であろう。
コース教授会(自治権回復を明確化するために、単なる「会議」ではなく、教授会とすべきである)、学部全体の教授会の審議・決定・執行体としての全機能を回復し、大学自治の主要な担い手としなければならないだろう。
教員組合は、教授会(コースと学部)が再建されたあとも、当局から権益の面でも財政的にも独立した自立組織として、組合員のみの労力・資金力に依拠する組織として、大学自治の主要な担い手である。組合員の生活条件・研究教育の経済的保障などにおいて、独自の要求を持ち、主張する立場にある。この間、「改革」過程では、本来の意味での大学自治が破壊されたため、唯一、教員組合だけが、大学自治の担い手として孤軍奮闘しなければならなかった。カリキュラム編成、人事問題などにおける教授会機能の回復後は、分業関係、そして、緊張感を保ちつつ展開される有機的な協力関係が目指されることになろう。
身分保障問題、任期制における「客観的基準」の設定をめぐる問題など、当局から完全に独立した組織でなければ、自由に主張できない問題も多い。教員組合がかろうじて守ってきた大学の自治を健全なもの・強靭なものとするためにも、教員組合への教員の最大限の結集が、すなわち組合員の増加が、不可欠であろう。わずかの組合員しかいない状況では、組合の発言の重みがない。発言力のバックとなる組合員の結集力が求められる。
「9・11」的大学自治破壊の過程で、かろうじて守られてきた大学の自治の恩恵は、その先頭に立った教員組合だけではなく、非組合員にも及んでいる。フリーライダーは、市民的道徳からしても許容されないのであり、分野・職場によってなお割合の高い非組合員の、組合への結集を呼びかけなければならないだろう。教員組合の運動方針は、そのことを強調している。
自由と安全は、国家の場合にも、一定の予算(国費の一定の投入、それに基づく人的物的支出、したがって他の予算項目との関連での国民の犠牲)を求めるように、大学・大学自治においても、一定の労力や金銭の犠牲・供出ないし貢献を求められるであろう。
その場合、すでに書いたが、公務員身分継承の任期制不同意教員は、その身分保障からしても、任期制同意教員より有利なわけで、その自由・有利さを活用した積極的な態度、当局に対してしっかりと意見を言える立場を現実の行動で発揮することが、道義的には求められるであろう。任期制非同意組合員の責任は、任期制教員よりも、重いといわなければならない。
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2月4日(3) 外部の人から、写真が見えない、というお知らせがあったので、ホームページビルダーで写真を挿入。
なお、企画者が相談しているのを小耳に挟んだところでは、参加者が多くなりそうで、カメリアホールを確保したとか。先週末現在で、懇親会だけでも、100名余の参加とか。
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2月4日(2) 大学関係者K氏から、次のメールをいただいた。私が、「小耳にはさんだ」と非公式情報だと思ったことは、実はすでに大学のHPに公開されていた。
私が、大学の経営審議会の議事録など読んでいないことが、はしなくも暴露された結果となるが、「そうだったのか」という思いである。
これも、大学教員一人一人にも問題を開示する教授会のような討議の場(意思決定と執行の両面での責任と権限のある場)がないからである。ディアレクティークの場、討議の場、対話の場こそ、「文殊の知恵」のつむぎだされる場、理性・知性の発展の場であるのに、それをつぶしてしまったのが、わが大学における「9・11 ground zero」である。
その再建こそが、緊急の課題。
-----------大学関係者からのメール----------
永岑 先生へ
総会議案書受け取りました。総会には出席させていただきます。
一年間の執行委員長の職務ありがとうございました。
大学法人といっても、横浜市からの派遣官僚が牛耳っているというのが実体では
ないでしょうか。先生の様な方に引き続き、お願いしたいところですが、ボラン
ティアにも限界があると思います。
話は変わりますが、
都心部進出等に関するエンジン・プロジェクトについては、サイボウズに載って
いる第9回経営審議会議事録に記載されています。当局としては、公開したとい
う認識ではないでしょうか。理事長に、先生の様な方を参画させるという懐の深
さが無いのが残念です。
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2月4日(1) 卒業生から、次のメールをいただいた。現在では、ハラスメント委員会が、学生の苦情を受け付けていると思われるが、本当に学生の苦情を進んで聞こうとする姿勢になっているか、それが問われるであろう。単に、外面的な制度では、学生の信頼は得られない。
TOEFL問題で、ハラスメント委員会には、どの程度の学生が訴えたのだろう。
「専攻、専門分野を問わない一律の500点進級基準の強制などは、おかしいのではないか」、「自分は、英語文献をひとり静かに読むのはすきだが、英会話などいやだ」、「数学が好きだ、物理が好きだ、生物の観察に時間を割きたい、PEに8割も出席を強制するなんて、最低の大学だ」、「TOEFL500点に達するまで、2年間も3年間も、PEへの8割もの出席を強制するなんて、さながら、現代の強制収容所だ」、「このファシズム体制が大学を横行していることを、最悪のハラスメントといわないでどうするか」、といった目安箱への投書はないのであろうか?
中期目標やそれに従った中期計画などを根拠に、何もできないという人々は、「目標」や「計画」は、現実の経験を踏まえて修正すべきだということが変わらないのか?
巨大なソ連の崩壊の原因が、そうした硬直化した官僚的発想とその発想を押し通す権力の中央集権化であったことを、認識しようとしないのか?
「目標」や「計画」の設定過程に問題があれば、悪しき結果が出るのは、必然ではないか?
「悪しき結果」を修正する柔軟性こそが、一番大切なのではないか。
--------ある卒業生の意見-------
先日は僕の意見を大学改革日誌内でご紹介いただきありがとうございました.
大学時代の後半になって,国際文化学部に「目安箱」が置かれたので,何回か意見を投稿しました.当時はFD(教育改善プログラム)を実施しているとのことで,学生からの授業評価や教員相互の授業参観をしているとのことでした.しかし,十分とは思えませんでした.
ここで一つ提案をしたいと思います.人格高潔,清廉潔白な教員を複数人選び,学生相談担当の教員を設置してほしいと思っています.家庭的な問題や学生生活の上での疑問,あるいは苦情などを受け付ける場が必要だと考えます.
大学時代,授業中に暴言を吐く教員や,あまりにもレベルが低い教員がいて,その怒りをどこにぶつけていいかわからないことがありました.教員の能力や人格は変わるものではありませんが,せめて対話をする場が必要だと思います.
ご検討くだされば幸いです.
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2月2日(2) この間、小耳に挟んだのは、関内の市庁舎の後の利用方法に関する提案の問題であった。本学からもいくつかの提案が出ているという。その情報を私に漏らした人は、「市庁舎は立て替えず、そのまま使う、内装もそんなにきちんとやってくれるかどうかわからない」ということだった。
市の財政事情から、「金かけないで、古いまま使う提案を」ということだろう。
私は、このような場所こそ、文化系で構想されている「グローバル社会研究科」の拠点として、すばらしいと感じた。文化系は、儲かるものではなく、また、巨額の最新式設備を必要とするわけでもなく、人々の集まり交流する場所が第一次重要である。
「3人寄れば、文殊の知恵」。多様な人々、さまざまの個性と視点を持った人、しかも、世界中の人々が、意見交換し、議論するなかでこそ、まさに、その対話の中でこそ、発展があり、進化がある。弁証法ということばは、まさに、Dialektik(対話・弁論・弁証・・・弁論・言論で対話・討論を通じて証明する)の翻訳であり、対話そのものである。
2月8日に最終講義をされる斉藤毅憲先生(案内1.案内2)が大学の教育の場におけるゼミナールの重要性を強調しておられるが、まさに、ゼミナールこそは、大学生相互間・学生と教員の間の「対話」、「弁証」、「弁論」の場であり、相互交流の場であり、頭脳進化の最も重要な場−少なくとも文化系にとって−であることは間違いない。
さまざまの意見がぶつかり合い、せめぎあい、しのぎを削り、闘い合う中でこそ、この理性の土俵・理性の闘技場(シンポジウム)でこそ、最新のもの(思想・英知・叡智・理論など)が得られる。文化系諸学問・思想にとって、一番重要なのは、その対話の闘技場であり、世界の人々が集まり来る場・空間こそが、求められる。そのような場としては、関内の便利な立地は、最適である。文化系諸学問が必要とする立地条件の本質的なものを持っている。
古くなった市庁舎は、文化系諸学ためには、絶好の空間、ということができる。
まさに、グローバル社会大学院を新たに設置申請しようとする人々は、マル合教授ばかり(人的要因の本質的なもの)を集めて、一挙に、大学院を創設し、この場所に立地するといいのではないか。超優秀な教授も、かならずしも、国際化・グローバル化の中心拠点・東京や横浜に再就職先が見つかるわけではない。したがって、それぞれの専門研究者の情報網を手繰れば、みんなが、「うーん」と驚くような、すばらしい「掘り出し物」がみつかる可能性は十分ある。
それぞれの学問分野でのそのようなスーパースター(テレビに出ているとは限らない、テレビで「活躍」しているのはしばしば2流。3流、いや研究者仲間からは認められていないような単なる「タレント」の場合も多い)を集め、しかも、教育熱心・社会貢献への熱意が検証できれば、問題ない。
週約40時間の労働時間のうち、八景で20時間、関内の市庁舎跡にできる「グローバル研究科」棟を中心に社会貢献(国際シンポジウム、全国学会、地域学会、その他、学者研究者だけでなく市民に開かれたもイベントを企画実行)に20時間、という目安を設定すれば、いいのではなかろうか[42]。
それぞれの学会のスーパースター(「一騎当千」のつわものたち)である以上、国際的な友人関係・同僚(ヒーア)関係に事欠くことはなかろう。毎年、日本と世界の注目を集めるような国際シンポなどを開催する力量を持っているはずである。
また、そのような企画立案・実施の中心者としての実績を、経歴書に書いているような人のみを、選抜基準とすればいい。
学生院生諸君には、八景に立派な設備の整った校舎を建ててあげることも重要である。
しかし、教育研究者、とりわけ国際学会をやろうとするような研究者の場合、ゼミナールやシンポジウムの場所が古色蒼然としているのは、何も意に介さない。平穏でかえっていいくらいである。
よく知っている大学のある有名な先生(私より1歳年上だがまだ、助教授ないし准教授ではないか?[43])が、明治維新(ブルジョア革命の一形態)の偉人たちを生み出した松下村塾(小さく狭い)の例を引き合いに出して、「校舎など高層・モダンにしてどんな意味があるのか」、「吉田松陰の精神はどこにあるか?」と、校舎に金をかける現代的風潮を厳しく批判されていた。大学の全体が、校舎立替に奔走しているときに、鋭敏この上ない批判的言辞をはくわけだから、多くの人を困惑させ、怒らせてしまう。
しかし、S氏の鋭敏で明晰な頭が感じ取ることは、本当だと思い、記憶に鋭く深く刻まれている。
一面では、学生諸君のためには、超モダンな校舎設備を整える努力も必要。
だが、ベルリン大学(フンボルト大学)など世界の大学が古い建物をそのまま使っていることを見てもわかるように、古い建物であることは何もマイナスを意味しない。
学問・科学が、深く伝統に根ざすべきものであり、その伝統を踏まえながら、乗り越えていくべきものであるかぎり、軽薄な建物の中での学問は軽薄さを生み、伝統ある重厚な建物の中でつむぎだされる学問・科学は、それだけ重厚である可能性を持っている。
昨年11月に研究科のFDで講演された法政大学元総長・清成教授が、法政大学の多数学部の新設に成功した理由を、どこかのHPで述べておられた。
開港記念会館での講演でも語られたことと重なっている。
要は、全学的に改革を提起し、すべての学部から提案を出すようにし、それらを組み合わせて、すべてを包み込むように民主的に討議し、練り直し、一挙に3−4学部を創立した、と。その際、新しい企画を出さない学部は乗り遅れることなり、したがって、学部間に競争ができ、それが相乗効果を発揮した、といった意味であったと記憶する。
本学の改革、関内の市庁舎後の利用への提案でも、治験関係実務型大学院、都市研究センター、経営科学系の国際税務系の研究所ないし実務型大学院の構想、それに、われわれの属する文化系のグローバル社会大学院の構想が、せめぎあい、競争しあうことになるのであろう。これに、そもそもの大学院の再編への動きの起爆剤となった理科系の構想(生命ナノ大学院?)が、絡まりあってくる。どれが、本物の構想か、どれが今横浜市が求め、そこを出発点として、世界に広がるべきものか?
これら相互の競争、そして、その対外的説明、予算獲得。
この状況において、実現できる競争力・説得力のある構想を提起しなければならない、ということだろう。
その切磋琢磨の競争の組み合わせによって、「ground zeroから21世紀型超モダンな新大学の構築」に向け、急速な行動を興す必要があるということだろう。総選挙はサミット以降、秋のことだという。それまでが勝負、ということか。
---------------
2月2日(1) 昨日、木下芳子先生退職記念パーティに最初30分ほど参加して、ご健康でのご退職をお祝いしたあと、学生さんと飲み会に出かけた。
そこで、TOEIC600点クリアを目前に、とどかず、「留年するのではないか」と苦しんでいる学生さんのことを,知った。
そこで、今日、その学生さんに、下記のようなメールを送った。
これはある特定の人へのメールだが、おそらくは2年生でも、相当数、一年生も、さらに新聞報道で「2割」とされる進級不合格だった人にも、共通することであろう。
---------------ある学生さんへのメール---------
昨日、Nさんがあなたのことを心配していました。
TOEIC600点をクリアしていればいいのだが・・・と
私は、現在のような一律の、全員に対して進級条件として強制するやり方には、一貫して反対してきました。
そして、この制度の廃止を主張してきました。
私の意見が、妥当である、共感できる、ということであれば、やはり、TOEICで苦しむ多くの友人・先輩・後輩のためにも、自分のためにも、理事長、副理事長(経営最高責任者)、あるいは、学長などに、意見を述べるべきでしょう。
その際、「HPで見た永岑先生の意見は、自分としては十分考慮する価値のあるものだと思う」、といったことを言って、
下記のようなHP公開の意見をつけて、学長室に提出すればいいでしょう。
そうした請願の数は、多いほどいいと思います。
苦しんでいる仲間と行動する必要がありますね。
--------------TOEFL制度改革に関する請願書------------------------
下記のような永岑意見(HP公開)を参考に、改善を図っていただきたい。
-------永岑HPより抜粋-------------
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/Nisshi20080110-31.htm
@ TOEFL500点は、進級要件としては廃止し、進級は全員4年までは可能とする。
TOEFL500点は、全員が4年までにクリアすべき目標として設定しなおす。
A その目標達成のために、さまざまの到達度の学生の意欲を増進するようなクラスを増設する。学生の自発的自主的意欲の向上、それに基づく実力向上を、特別クラス担当の教員の評価に反映する。この科目の場合、向上を示す客観的データは、数値化されたものとして存在するので、ほかの普通の科目と比べて、容易。学問や思想の自由を侵害することにはならないだろう。
B TOEFL500点だけを優先するのではなく、TOEFL500点水準を基礎にして、ドイツ語やフランス語の検定も、可能とする。英語とそれ以外の語学の教員の競争を可能とする。英語に、特権的、独占的地位を与えない。
C 各コースによる目標値の設定は、それぞれのコースの特性により行うものとする。
D 各コースは、コースの教育体系の独自性・個性を考え、外部評価(すなわち、英語ならTOEFL,TOEIC、ドイツ語ならドイツ語検定、など)を基にした代替科目の設置を行う。ただし、法人化の際の中期目標等の設定からして、英語重視は続くであろうから、第二外国語のための実践的な講義のために予算を獲得することは難しいかもしれない。
E 学生の意欲・能力・希望・目標などを無視した画一的なPE必修は、法人化の理念と政策を明確化するために、一年生の一学期だけに限定する。後は、本人の自由にまかせ、到達度別のクラスに進むもよし、第二外国語の履修に向かうもよし、数学やそれぞれの進む方向のメニューに力を入れるなど、さまざまの自由を与える。
F 4年生の卒業判定時に、TOEFL500点−549点を優とする。TOEFL550点以上を秀とする。TOEFL450点−499点を良とする。TOEFL350-449を可とする。甘すぎるか?
G 英語重視の中期目標、英語センターの設置等から考えて、高い水準を望むものを伸ばすための、特別到達度クラス(外国人と日本人を問わない、内容による特別クラス)は増設する。
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[2] 鈴木安蔵氏は、私が、立正大学に勤め始めたころ、立正大学教養学部(所在地・熊谷市)の教授(憲法学)であった。
当時(1973-74年ごろ)、学長選挙の際に、鈴木安蔵教授の名前が挙がった(推す人々がいた)ようだが、「保守派」(?)の反対(?)があって、学長候補選考委員会において、一般教員の選挙対象となる学長候補とはならなかった。
「なぜ、鈴木安蔵氏を学長候補としないのか」、「候補決定の委員会の決定に関し問題あり」といったことが、経済学部などの教授会で議論となった。
そのことを、鮮明に思い出す。
[3] 市のある幹部の「天下り」問題は、逮捕者まで出る事件に発展している。
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[4] 「悪い制度」であっても、選考委員の良識を信じて、選考委員が大学内部の問題、大学が対社会的に抱えている問題を直視し、吟味を重ね、議論を積み重ねれば、おのずと、いい結果も出てくるだろうと考えて、われわれは、矢吹候補を支援し、支援理由を公開で説明してきた。
問題は、したがって、「悪い制度」それ自体にあるのではなく、「悪い制度」に便乗して「根回し」が行われた、ということにあるであろう。
制度が根本的に悪く、大学の発展に向けて、なんらの希望も可能性も持たないようなものであるならば、われわれは矢吹候補を推薦したりはしなかったのではなかろうか?
「制度が根本的に悪いので、教員の推薦15名を集めて出すなどというのはやめたほうがいい」、という意見も強かったのである。
私としては、一縷の望みであれ、また、学長たるものはこうあるべきだという主張の場を確保するためにも、ごくわずかかもしれない可能性にかけたのである。それが裏切られた、というのが現実だろう。
各選考委員は、社会的説明責任を果たしていないということ、これを選考委員諸氏はどのように受け止め、どのように社会的に説明していくのだろうか?
少数の選考委員の選考理由に大学の命運がかかっている以上、それを広く公開する責任は、各選考委員にあるのではなかろうか?
制度が、一定、大学教員の民主的選挙(間接選挙で、さまざまの細かな利害調整が働き、かならずしも問題がなくはないことは、われわれの苦い経験として、記憶に新しい)によるものであっても、結果が悲惨であることはよくある。
ワイマール憲法体制下で、ナチスが躍進し、第一党に躍り出て、「暴力と魅惑」を武器として、ワイマール憲法を廃棄し、世界的悲劇を引き起こした。
制度の悪さと同時に、それを運用する人々(今回の場合でいえば選考委員6名)の良識が、まずは問われなければならないだろう。
そして、その6名の選考委員を選んだ責任者(誰? 理事長? 副理事長? 市当局? 市長? 大学事務局長?・・・これらの人々は、すべて、大学の教員でないことだけは確実である。つまり、大学外部の支配、大学外部からのコントロールという現実は、はっきりしている)が、社会的責任を問われることになろう。
都合の悪いデータは出さないのが、当局者である。この間のイージス艦の事故でもそうである。
17年度入学生(本来4年生になる学生諸君)が、いったい現在どこまで到達しているのか、われわれにはわからない。
18年度入学生、19年度入学生がどこまでクリアできているのか、分野別・コース別でどうなっているのか、これも秘密となっている。
客観的データを直視してこそ、問題解決の道が開けてくるはずだが・・・・
国際総合科学部の一般教員(代議員も課?)には、データを開示しない。教授会も開かない。これが現実である。
逆に医学部は、非常に多くの人が一学期中にクリアしてしまうので、英語の科目がなく、しかるべき専門英語修練への英語授業もないようである。
頂戴した医学部通信を掲載しておこう。
************************
* 医学部教員通信 175 *
************************
● 表題のかなり衝撃的なタイトルは、本学の看板カリキュラム、「プラクティ
カル・イングリッシュ」に苦しむ国際総合科学部の学生の父兄から教員組合に寄
せられた言葉の一つです。この言葉が出てくる文面は、成績の悪い子供をかばう
という単純に感情的なものではなく、ある程度理性に基づいて切々と述べられた
ものです。本学の抱えている現在の一つの深刻な問題を考える材料として一読さ
れることをお勧めします(本文終了後に、全文記載してあります)。
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi2007/SaishinNissi.htm
● 国際化を謳う本学が目玉の一つとするこのカリキュラムは、TOEFL500点獲得
を単位取得の条件とする教養課程の英語科目であり、それは、裏を返せば、
TOEFL500点をクリアさえすれば、その後、必修の英語教育がなくなってしまう
(少なくとも医学部学生においては)という制度でもあります(医学科の学生の
多くは早々に基準をクリアするので、後者の状況に当たります)。
そして、新学長に選考された布施氏は、法人化にあたってその制度設計にかなり
の責任のあった人物であったといいます。
この「プラクティカル・イングリッシュ」については、市大HPに非常に魅力的な
記事で紹介されており、かつ、昨年 10月18日の記者発表では、「80%の学生
がTOEFL500点相当を達成!」というタイトルでその成果が宣伝されてい
ます。
http://www.yokohama-cu.ac.jp/faculty/common/pe.html
http://www.yokohama-cu.ac.jp/univ/pr/press/071018.html
ストロナク前学長も、その辞任の弁で、「プラクティカルイングリッシュセン
ターの設立により、国際総合科学部ではTOEFL500点相当の進級要件を8
0%の学部一期生がクリアした」と誇っていました。
● ただ、上記の記事は、逆に、「外部団体が主催する試験を合格基準とする全
国でもまれにみるこの科目の単位がとれないがために、TOEFL500点を2年生から3
年生への進級要件としている国際総合科学部の20%の学生が進級することができ
ない状況になった」という影の部分があることに全く触れていません(注:医学
部医学科では、4年から5年への進級における必修要件と柔軟に修正されていま
す)。
添付の日経記事(昨年10月31日付)をご参考ください。
実はことはもっと深刻で、この20%という数字は、なんと緊急措置としてこの春
に3年生に仮進級していた、平成17年入学の法人化第一期生に関する数字らしい
のです(彼らが二年生の時点(昨年末)では、全体の半数近い留年者が出る事が
危ぶまれたために、大学側が急遽、仮進級という救済措置を出したということで
す)。つまり、来年はいよいよ卒業学年か、、という今の3年生の学生の20%
が、この「英語科目」のためだけに、なんと2年分落第し、来年度はまた2年生か
らやり直す、、ということのようなのです。少なくとも、昨年9月末の時点の学
生の記事では、彼らが「3年前期で取得した単位は取り消される」とあります
(文末参照)が、そうだとすればあまりにも過酷です。奨学金も打ち切られ、他
の大学に編入することもできず、先の見えない不安に打ちひしがれ、足踏みして
いる学生が2割(新聞では149人となっています)存在するという事態はかなり異
常な事態ではないでしょうか(但し、正確な事実は公開されておらず、八景の教
員の方でもわからないということのようです)。
「2割くらいの留年や脱落は、アメリカなら普通だ」という声もあるといいま
す。学生中心、教育重視を標榜するにしてはかなり乱暴なこの発言を百歩譲って
認めるとしても、この発言がまかり通るのは正当なカリキュラムが学生に対して
提供されていた場合のことでしょう。実際、十分な準備と設備もないままに法人
化初年度から突如始まったこの「プラクティカル・イングリッシュ」という科目
のずさんさは当初から指摘されてきました(文末に転記した、学生発行の横浜市
大新聞の法人化後の一連の記事から、その点は端的に把握できます)。その点を
考慮に入れるならば、落第の憂き目を見ようとしている多くの学生はむしろ被害
者でもあることを見ないわけには行きません。大学の社会的責任を問われる事態
にならなければ、、と憂う次第です。
伝え聞くところによると、本学の外部評価委員からは、(国際総合科学部の学生
に特化した指摘ではありますが)、「一回限りの学生生活で、教育は実験ではな
い」というあまりにも厳しく、恥ずかしい指摘を受けたといいます。これらの事
実は、「教育重視、学生中心」という「本学の基本理念」とどのように合致する
というのでしょうか?
● 国際化の象徴であった「公立大学発の外国人学長」が突如本学を去ろうとし
ている今、「横浜市立大学」の目指すべき大学像が何か、本当にTOEFL500点をあ
らゆる学問に優先するような「国際化」大学を目指すのか(教員の能力も含め
て、本学が、それだけのものを学生に求めて然るべき大学であるのか)?、改め
てしっかりと見つめなおす必要があるのではないでしょうか? その上で、なお
かつそうした路線を目指すということであるならば、これまでのずさんな制度設
計についてしっかりと公に反省するのが筋ではないでしょう?
いずれにせよ、こうした状況においてもなお、次期学長に選考された布施氏はそ
の所信表明において、「TOEFL500点は高いハードルではない」と述べ、引き続き
これまでの路線での「国際化」大学を強く目指そうとされていることを最後に付
記したいと思います。
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<法人化後一期生の父兄からの声>
17年入学の学生を持つ親です。TOEFL500点に満たないために仮進級、そしても
らっていた奨学金もストップ。挙句の果て2割の留年組に入って2年生に戻ること
になります。
いくら大学の学費が安いといっても横浜市という土地柄、下宿代
も生活費も高く奨学金をうち切られた子どもに送れる仕送りもそうそう増やすこ
とが出来ません。当然、子どももバイトを増やさざるを得ないために何のために
大学に入ったのか、TOEFL500点クリアするために本当に悪循環な生活を強いられ
ることになります。
本来ならもう就職活動に入る時期なのに、2年生に戻らなければならない子ども
の心境はどんなに辛く重いのかめっきり連絡もしてこないようになりました。そ
れまで仕送り前にお金が不足すると5000円でいいからおくってというメールさえ
も来なくなりました。英語は確かに大切な学問には違いありません。しかし全て
の学生が英語が得意なわけではありません。そして英語は実践で使う機会が増え
ればおのずとして実力がついてくるようにも思います。TOEFL500点のために2年
に戻るということは、たとえ市大をやめても他の大学に編入する資格もないとい
うことになります。
このまま在学していてクリアできなかったら?・・・2年生に戻ることになる2割
の学生達は見えない不安に苛まされ、打ちきられた奨学金のために親に迷惑をか
けないようにバイトをしたりする学生が増えるか、或いは退学または休学する学
生が増える可能性もあるでしょう。夢と希望に満ちて入った大学なのに専門に達
しないまま英語のために前に進むことが出来ないのです。これが本当に大学教育
なのでしょうか?
そして留年した学生を支えるために仕送りする親のほうにも限界があると思いま
す。大学生の子どもを持つ親にとって横浜市大に行っている子どもだけが大学生
ではなく他にも1人〜2人くらいの大学生を抱えている親が多いと思います。私も
数人の下宿する大学生を来年度から抱えます。教務課の人には大学には8
年いられます。その間にとればいいですと簡単に言われました。しかしながら8
年の生活を支える大変さはおわかりでしょうか?しかも奨学金が打ち切られてい
たとしたら・・・
学生だって生活費を切り詰めてTOEFL受験料を支払い続け、クリアできるまでは
英語との戦いでしょう。 それぞれの専門を勉強するために入ったのにTOEFL500
点のために進むことが出来ない。何のために大学に入学したのか、せめて
TOEFL500点の進級条件が3年生から4年生の条件だったら他大学に編入するという
道も開けると思います。しかし、今の進級条件では選択肢は2年生をクリアする
まで続けるか退学するか休学する 選択肢はそれだけしかないのではないでしょ
うか?
先日、2留のために自殺した東大の学生がいました。そういう学生が出ないよう
に祈ります。好きな学問・専門の中でもしかしたら思いもよらない才能を発揮す
る子もいるかもしれません。英語のために前に進むことの出来ない学生たちは、
自分たちの未来をそして可能性さえも捨ててしまうかもしれません。
留年は学生にとっても親にとってもとても辛く厳しいものだと思います。
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横浜市大新聞ブログより、プラクティカル・イングリッシュに関する一連の記事
を抜粋>
<2007年09月28日 3年次仮進級者 6割が進級できず >
本学広報によると、平成19年度前期期間中3年次へ仮進級していた国際総合科
学部1期生のうち、TOEFL500点の進級条件のため58%が2年次に戻る事と
なった。仮進級が取り消された学生は、引き続き必修の英語授業Practical
Englishを履修する他、3年次以上配当科目は履修することが出来ず、仮進級時
(平成19年度前期)に習得した3年次以上配当科目の単位を取り消される。
本紙が独自に本学掲示板に貼り出されたPractical English履修者数を数えた
結果、国際総合科学部1期生の履修者数は141名。また仮進級者のうち69名
が平成19年度前期中に合格している事が掲示板にて公開されている。
【論評】英語だけの問題ではない
本学広報から得た数字と本紙調査からの数字の相違から、仮進級者の内何名か
の退学者・休学者が出ていることが予測される。
「英語が出来ないなら大学を辞めてしまえば良い」そんな声が聞こえてきそうな
程の大学側の学生に対する冷淡さと無責任さには、憤りを感じる。
2年次ないし仮進級時、英語の勉強に時間と労力を割かれ他の科目の単位が取
れないままの学生も多いのではないか。周りを見渡すと、3年次へ進級した学生
の中に4年次までの卒業単位数が危うい者が多くいる様に思える。 専門教養の
ゼミ運営にも支障が出る。3年次へ進級できなかった学生はそれまでのゼミでの
研究を中断させられる事になるのか。
今後、大学には学生生活全体を通したケアを求めたい。今回進級出来なかった
学生は自身の専攻の研究・留年による経済的な理由のため、当然プレッシャーが
大きくなるはず。依然として大学が学生に英語の課題のみを押し付けるとした
ら、ただ学生を圧迫するだけだ。
<2007年02月22日 現2年生 仮進級へ >
TOEFL500点の3年次進級要件を満たしていない国際総合科学部2年生に対して、3
年次前期までの仮進級制度が導入される事が決まった。2月21日、大学が2年生に
同制度を電子メールで通知した。
3年次進級要件の達成率が低く、全体の半数近い留年者が出る事を危ぶまれて
いた現2年生に大学側が救済措置を出した形だ。なお大学側は同制度を「平成19
年度前期までの措置とし、以後は実施しない」と通知している。
同制度は学生自身の申請が必要。大学は同制度に関する説明会を2月27日午後4
時に本学金沢八景キャンパスのカメリアホールで開催する。
《仮進級の対象となる要件》
・Practical Englishの単位の未取得者で、平成18年度後期Practical Englishの
授業に3分の2以上出席していること。
・平成19年3月に2回実施されるTOEFL-ITP試験のうち必ず1回を受験すること。
・18年度後半4回のTOEFL−ITPのうち1回でも430点以上のスコアを有すること。
・平成19年度前期期間において休学しないこと。
(通知を要約)
<2006年10月29日 3年次進級条件 クリア5割 >
本紙調査の結果、2年生の内TOEFL 500点を達成している学生の割合が53%
である事が分かった。TOEFL 500点は国際総合科学部生の3年次進級要件。現状
が続けば現2年生の大量留年に繋がる。
--------- 総数*-----達成者数---未達成者数--達成率-----Sクラス以外*
1年生-----820-------221-----599-----27.0%
2年生-----898-------479-----419-----53.3%--------11.9%
*「総数」は国際総合科学部、医学部、看護学部の合計。入学者数をもとに作
成。
*未達成者を英語授業履修者数から導出。達成者数は総数から引いた。
*「Sクラス以外」は2年生のみ。未達成者中、英語授業のクラス分けでSクラス
以外のクラスの学生が占める割合。Sクラス以外の学生は1年生と同様のTOEFL模試を受ける。
*データは2006年度後期授業開始時点。
TOEFL 500点を達成できていない学生向け英語授業「プラクティカル・イング
リッシュ」は昨年度、出席者ゼロの授業があるほど出席率が低かった。本年度2月4日TOEFL ITP受験者の平均点は昨年4月開催の平均点から10点程度の伸び。同授業では履修体制等の改善を行っている。
《論評》これが学生本位か
「改革により、キャンパスと教育環境の国際化を」本学2007年度パンフレット
を開いてすぐ、『受験生の皆さんへ』の項目で現れる文句だ。また「英語教育を
重点的に」といった表現も至る所に現れる。しかし具体的な教育方針に関しては
ほとんど触れられていない。
横浜市立大学の英語教育の特徴と言えば、進級条件に英語試験を課している点
だろう。「TOEFL 500点を大学の最低ラインに」「本学なら必ず卒業時に英語が
できるようになります」そんなメッセージを発そうとしているのか。
一方で肝心の試験合格率だ。2年生の半数が未達成。国際総合科学部初年度は
TOEFL等の英語試験について説明不十分、授業でも学生と大学のすれ違いが生じ
ていた。英語授業の出席ゼロという事態さえ起こしておいて、「国際的な教育環
境」が用意されていたとは言い難い。
「英語を重視します」。きれいごとだけ発しておいて、授業運営の失敗につい
てはまるで説明しない。
これは受験生に対してフェアでは無い。まして留年という形で初年度の学生に英
語教育の失敗の責任を転嫁するつもりか。学生を無視した、大学中心の論理が見
えてならない。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集発行人連絡先:igakunet@fukuhp.yokohama-cu.ac.jp
配信停止:
igakunet@fukuhp.yokohama-cu.ac.jp
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[7] しかし、その場合でも、学部によっては、「卒業要件」としたり、その「卒業要件」の点数を引き下げたり、現実の学生の志向・進路・希望・その他の諸要因を考慮して、独自の政策を採っている。
したがって、国際総合科学部だけに、「進級基準」なる制度が供されているのである。これだけをとってみても、「中期目標」、「中期計画」を金科玉条にはできないはずなのであるが・・・・
平成20年(2008年)2月26日
日本学術会議
研究評価の在り方検討委員会
この対外報告は、日本学術会議研究評価の在り方検討委員会の審議結果を取りまとめ公表するものである。
要 旨
1 作成の背景
評価は、研究活動に対して支出された資金に関する説明責任を果たすとともに、研究活動をより活性化し研究の質を高めるために必要なものである。現在、研究評価は、科学技術政策や行政改革を背景に外部からも要請されるようになっている。その一方で看過しえない様々な問題も浮かびあがってきている。
2 現状及び問題点
現在実施されているピアレビューの多くは、現役の研究者が評価者となるため、評価する側・される側の双方において、評価のために膨大な時間とエネルギーが費やされ、深刻な研究時間の不足を引き起こしている。また、評価の形式化や評価作業への徒労感も指摘されている。
多様な研究活動を奨励するためには、評価対象の違いに応じた評価基準の適正化・精緻化が行われる必要があるが、現状は十分ではない。
重要な研究課題や研究施策は、政策評価法に基づいて各府省による自己評 価によって行うことになっているが、学識経験を有する者の知見を活用する外部評価の活用も推奨されており、実際に実施している場合も多い。しかし、評価者、評価方法・基準が重要研究課題や研究施策の推進側である府省によって決定されることが多いなど、公正性や透明性に国民から疑念を持たれる可能性がある。
また、評価業務を実施・支援するためには、人的及び物的な基盤が必要であるが、基盤整備が不十分な状況にある。
3 提言等の内容
(1) 研究課題評価の在り方について
@ 研究課題に応じた評価
研究の目的に応じて評価はなされるべきであり、研究課題の種類により評価基準が異なることが原則である。基礎研究の評価では、研究成果の価値がすぐに顕在化しないため、数値的な評価指標のみで表すことは困難であり、研究成果の評価はその将来価値を判断可能なピアレビューによることを原則とすべきである。応用・開発研究の評価では、実用化までのシナリオを十分に検討した上で研究課題が計画されているかを、チェックリスト等を用いて評価することが重要である。融合研究分野や挑戦的な研究課題については、特性に即した評価基準を設定し、研究分野を熟知した評価者によってなされるべきであり、評価文化の熟成が望まれる。・・・・
[9] ケネディの演説の一説:
「われわれが結束(団結・・・普通は団結と訳すであろう)する時、多くの共同事業においてなしえないことはほとんどありません。
しかし、分裂するとき、われわれはほとんど何事もなしえないのです―なぜならば、互いに争い、ばらばらに分裂したままでは、とうてい強力な挑戦に応じることはできないからであります。」
『ケネディ大統領演説集』より、大統領就任演説の一節。
peaceful
revolution of hope(J.F.Kennedy), p.4-5.
host
#n 大勢, 群, 多数 (large number); 《詩・古》 軍, 軍勢 (army); 天使《集合的》; 太陽と月と星, 日月星辰.
・a host of admirers 多数の崇拝者.
[OF<L hostis enemy, army]
[株式会社研究社 リーダーズ英和辞典第2版]
a・sun・der
1 [主に break,rend,split,tear などの動詞に伴って] (一つのものが)真っ二つに(なって), ばらばらに[で].
2 (二つ以上のものが)離れ離れに[で].→#
3 (二つのものが)離れて; 〈性格・性質など〉異なって.
→be p#les as#nder
[株式会社研究社 新英和・和英中辞典]
[10] この日誌を見たある人から、極秘情報として、毎月かなり高額の顧問料だったとの情報も寄せられた。もしも、それが事実とすれば、毎月3万円程度の非常勤講師くらいしかアルバイトのないようなわれわれからすれば、驚くほどの額である。月額と年額が違っているのではないかと感じた。年額なら、上のレベルの非常勤講師の給料と同じくらいになるかもしれないので。
いずれにしろ、このような情報が次々と寄せられること事態、ほかの候補には見られないことであり、まったく問題がないとはいえないことを示しているように感じられる。
私自身は、F候補に対して特別の反感もうらみもない。むしろ、明るいところなど、好感を持っている。学長候補などにならなければ、親しみやすい愛すべき人物として、付き合いできる人だと思う。
彼が、関内出張所長として、関内関係者に人気があるのも、その限りで理解できるのである。
その筋が言うのは、私(昨日、新執行部が112名の信任投票の結果、2名の人が111名の信任でそれ以外は満票の信任を得て発足したので、私はいまや単に一組合員にすぎない)も支持する矢吹候補のことを意味しているのだろう。
しかし、現在の教員組合は、八景キャンパスでは、分野によって違うが、60−85%の組織率を誇り、特定少数者の組合ではない。
(医学部を加えた教員数を分母に取れば組織率は低くなるが、医学部の多数を構成するのは民間医療現場との移動の激しい医師であり、彼らの流動性からして組合員となることはなじまないというのが実態である)。
また、教員組合の中で、この間の改革については、任期制のあり方などに対する態度ひとつとってみても、是々非々の教員がほとんどである。統一的な「組合勢力」という言い方はなじまない。実態とかけ離れた見方だから。
任期制問題でも、組合員のなかに、同意者も多数いれば、不同意の教員も多い。
当局の打ち出す任期制を、時代の傾向として受け止め、同意したからこそ、自分の身を守るために組合に結集した人も多い。
そうした多様なスタンスの教員が、大学の自治をまもり、自由で民主主義的な研究教育を守り発展させようとしているのである。
個々の教員が単独では到底、自由や民主主義を守る上で非力である。そのために、ばらばらでは不可能なことを、組合を通じて実現していこうとするものである。
現在の組合は「改革」反対ではない。「改革」の武断的性格を訂正し、健全な理性的な、民主主義的な筋道に戻そうとするに過ぎない。
+++任期制に関しても、問答無用で反対しているわけではない。
上述のように、多数の任期制同意者が組合のなかにはいる。任期制の評価やあり方をめぐっても,教員の間で、画一的な見解があるわけではない。
それら多様で、個々の問題では対立する組合員を全体としてまとめ、共通に守るべき問題を発見し、定式化し、一歩ずつ前進しようとしてきたのである。
この間の新給与体系の合意書、任期制更新に関する合意書も、また、現在着々と検討が進んでいるにテニュア制度の具体化にしても、労使対等で交渉を積み重ね、「大学をよくしていこう」とのコンセンサスの上で、行っていることである。
化石化した組合イメージで、マイナスイメージのネガティブ・キャンペーンをおこなっているものたちこそ、大学改革に反対している勢力かもしれない。
選考委員会の各委員の見識を期待し、また、現在の教員組合の実際の活動や運動方針を確認していただきたい。
すでに引用したが、大学がこの地上で最も美しいことの理由は、真実・真理探究、それを背景にした啓蒙、そのための自由(批判の自由)の保障された場だからである。
「この地上にあるもので、大学ほど美しいものはあまりない」とジョン・メイスフィールドはイギリスの大学の賛辞のなかで述べています。・・・・彼が大学のすばらしい美しさを称賛したのは、大学が「無知を憎む人々が真理を知ろうと努力し、真理を知っている人が、他の人々の目を開かせようと努力する場所」だからです。
ケネディ演説The Strategy of Peace「平和の戦略」より。
peaceful revolution of hope(J.F.Kennedy)
ただし、所信表明の文章では、「医学部、商学部」を前面に押し出す一種のエリート主義が表明されている(これは評判どおりで、まさに正直なことだと感じた)が、演説ではその部分があいまいにされた。
聴衆の多くが、「医学部や商学部」以外の人々だからであろう。
しかも、最近知ったところでは、彼は、私の高校時代の友人(市大医学部出身・開業医・7つもの病院の理事長をしているという)の親友だという。
ちょっと会話をしている限り、楽しく、愛すべき人柄のように感じる。人気の秘密は、その辺りにあるのであろう。
この点に関しては、数理科学の関係者から、下記のような厳しい指摘をいただいた。
それによれば、K候補は、
記
1.大学改革で数学のコース(正式には数理情報コース)をつぶした。
2.数学グループの教員が専門科目を持つことを最小限にし、大学院
から外した。
3.研究院長として、研究費の大部分を基盤科学コースの教員に当てている。
4.大学改革後昇進している教員は、基盤科学コースの方が多く、しかも若くして。
5.所信表明の中で、「研究、地域貢献、産学連携などについては、精査し特化して
特定の分野の方に集中させる」との発言があったと思いますが、O氏や
S氏とは異なり、特化する具体的な分野またはコースを言っていないところ
に問題があります。彼の発言は、ごまかしが多く。権力を握ると陰でやりたい放題
というのが私たちの見解です。
6.「コンプライアンスについては、研究科長、学部長、コース長にもっと権限を与
えるべき」と言われ、変な日本語を使ったものだと感じています。見解によっては、
民主性は一切認めず、パワーハラスメントも起こりえない形態にできるともとれます。
現在、K氏が、コンプライアンスとハラスメントに関する委員長をしていますが、
このような発言が許されるでしょうか。
「百聞は一見にしかず」、「論より証拠」。
私も、1976年の春休み、イタリア旅行(ユーレルパス電車旅行でボーフム→ミラノ→ヴェネツィア→ピサ→ローマ→ナポリ→ハイデルベルク→ボーフム)をしたさい、ローマではシスティナ礼拝堂もみた。そのミケランジェロの天井画『最後の晩餐』を「すごい!」と、首が痛くなるまで見上げていた記憶がある。
1787年8月23日のゲーテの日誌・・・システィナ礼拝堂、再訪・・・「システィナの礼拝堂を見ずしては、およそ一個の人間が何をなしうるか、はっきりした概念をつかむわけには行かない。多くの偉大で有能な人間のことを聞いたり読んだりはするが、しかしここにはそれが頭上に、眼前に、いまだに生き生きとして存在しているのだ」(牧野、p.143.)
Rom, den 23. August 1787.
Euren lieben Brief Nr. 24 erhielt
ich vorgestern,
eben als ich nach dem Vatikan ging, und habe ihn un-
terwegs und in der Sixtinischen
Kapelle aber- und
abermals gelesen, sooft ich ausruhte von dem Sehen
und Aufmerken. Ich kann euch nicht ausdrücken, wie
sehr ich euch zu mir gewünscht habe, damit ihr nur
einen Begriff hättet, was ein
einziger und ganzer
Mensch machen und ausrichten kann; ohne die Sixti-
nische Kapelle gesehen zu haben, kann man sich kei-
nen anschauenden Begriff machen, was ein
Mensch
vermag. Man hört und liest von viel großen und
bra-
ven Leuten, aber hier hat man es noch ganz lebendig
über dem Haupte, vor den Augen.
[Werke: Italienische Reise. Goethe: Werke, S. 11795 (vgl. Goethe-HA Bd. 11, S. 385-386)]
ゲーテの「イタリア紀行」を読んでいて、十字架にかけられたキリストが、民衆を非難した、というのは始めて知ったことなので驚いた。
1788年3月22日には、システィナ「礼拝堂の音楽は想像を絶するほどに美しい。アッレグーリの「贖罪の歌」と、いわゆる「インプロペリオ」と呼ばれる、十字架にかけられたキリストが民衆に向ける、非難の曲がすばらしい」(牧野、p.143)
Die Kapellmusik ist
undenkbar schön. Besonders
das »Miserere« von Allegri und die sogenannten »Im-
properien«, die Vorwürfe, welche der
gekreuzigte
Gott seinem Volke macht. Sie werden Karfreitags
frühe gesungen. Der Augenblick, wenn der aller sei-
ner Pracht entkleidete Papst vom Thron steigt, um das
Kreuz anzubeten, und alles übrige an seiner Stelle
bleibt, jedermann still ist, und das Chor anfängt: »Po-
pulus meus, quid feci tibi?«, ist eine der schönsten
unter allen merkwürdigen Funktionen. Das soll nun
alles mündlich ausgeführt werden, und was von
Musik transportabel ist, bringt Kayser mit. Ich habe
nach meinem Wunsch alles, was an den Funktionen
genießbar war, genossen und über das übrige meine
stillen Betrachtungen angestellt Effekt, wie man zu
sagen pflegt, hat nichts auf mich gemacht, nichts hat
mir eigentlich imponiert, aber bewundert hab' ich
[Werke: Italienische Reise. Goethe: Werke, S. 12038 (vgl. Goethe-HA Bd. 11, S. 530 ff.)]
「われわれが結束(団結・・・普通は団結と訳すであろう)する時、多くの共同事業においてなしえないことはほとんどありません。
しかし、分裂するとき、われわれはほとんど何事もなしえないのです―なぜならば、互いに争い、ばらばらに分裂したままでは、とうてい強力な挑戦に応じることはできないからであります。」『ケネディ大統領演説集』より、大統領就任演説の一節。
peaceful
revolution of hope(J.F.Kennedy), p.4-5.
[18] ゲーテ自身が、当時の世界にあって、保守反動・伝統的勢力に対する自由・進歩・開明的な潮流の先頭にいた。
1786年秋・・・「イタリアを訪れたころのゲーテは、イタリアばかりでなくヨーロッパ全土に知られた有名な詩人、作家だった。『若きヴェルテルの悩み』は単にベストセラーになっただけでなく、当時の知識人にとっては、法律、道徳、家族制度、宗教などに攻撃を仕掛けた本というふうに見られていた。
1775年ライプツィヒ大学神学部が、この本を弾劾し出版を禁止した。また、イタリアではミラノの大司教ジュゼッペ・ポッツォベネリ枢機卿が司教区のミラノの聖職者全員に、手にいる限りの本を没収するように指示し、ミラノで出版された『若きヴェルテルの悩み』の翻訳本は一冊残らず書店から姿を消した。
ゲーテは1782年にミラノで自著が押収されたことを知っていて、その小説の作者がカトリックの総本山であるローマにいることを教皇庁に知られないように心がけていた。ゲーテはフリーメイソンの思想に共感していたが、ローマでは1738年クレメンス12世がフリーメイソン排斥の教皇文書「イン・エミネンティ」を発令していたという事情もあった。
偽名を使っての生活
このような理由でゲーテはローマの社交界に顔を出さず、偽名を使って行動していた。
ローマに着いて初めの数ヶ月、ゲーテはカトリックのモラルを大切にするどこかの文士が『若きヴェルテルの悩み』を禁書目録に掲載しようとローマ教皇庁の禁書聖者に密告するという事態を常に恐れていた。身元が割れ、宗教裁判所に呼び出されないか、いつも不安な面持ちで生活していた。」
」(牧野宣彦『ゲーテ「イタリア紀行」を旅する』集英社新書ヴィジュアル版、2008年2月刊、p.123−124)
「ローマのファルネーゼ宮殿の近くに、花の市場が開かれるカンポ・ディ・フィオーリと言う小さな広場がある。その中央にジョルダーノ・ブルーノの像が人々を見下ろすように立っている。彼は、宇宙は無限に広がっており、太陽はその中に浮かぶひとつの恒星に過ぎないこと、夜空に浮かぶ星も太陽と同じ恒星であるという無限宇宙論を唱えた。この説は、現在では当たり前のことだが、ローマ教皇クレメンス8世は1600年、彼をこのカンポ・ディ・フィオーリで火刑にした。ゲーテももちろん知っていただろう。
異端審問所は、最初はジョルダーノ・ブルーノのようなカトリックの教義に反する人物の断罪なども扱っていたが、時代とともに変質し、ゲーテがイタリアに来たころは、個人の断罪よりも著作物がカトリックの教義にふさわしいかどうかをチェックする機関になっていた。そしてそれに伴って、有害な本と認定する禁書目録を作成するようになった。禁書目録に認定された本にはマキャッベリの『君主論』のような現代では名著と呼ばれるようなものもあった。もしローマの官憲に自分が捕らえられるような事態が発生すると、複雑な外交問題に発展する可能性もある。ゲーテは、小さい国ではあったがワイマール公国の高官である。ローマの教皇庁とワイマール公国の外交問題を起こし、世話になっているアウグスト公に迷惑をかけることをゲーテは何より恐れていた。」
(同上、p.125−126)
[19] 天才(außerordentlichen Mann)パッラーディオの最高傑作とされる、と。牧野宣彦『ゲーテ「イタリア紀行」を旅する』集英社新書ヴィジュアル版、2008年2月刊、p.72.
[20] 牧野宣彦『ゲーテ「イタリア紀行」を旅する』集英社新書ヴィジュアル版、2008年2月刊、p.70.
もちろんそれは、天才(außerordentlichen Mann)パッラーディオの作品にも、さまざまの制約条件が課せられていたために、すなわち、精神が自由に羽ばたけずに、ゲーテから見て「すくなからぬ非難に値すること(manches Tadelnswürdige )」もあるリアルな現実を踏まえての、ゲーテの洞察である。^
つまりは、同じ天才的人物でも、精神を自由に羽ばたかせることができるときと、さまざまの制約条件に拘束され、「意に反してwider Willen」いるときとがあり、作品の出来具合・価値に差が出るということである。
大学教員の精神ができるだけ自由になるように、環境を整備することこそが、法人や管理当局の責任であろう。それが、一番、生産性、豊穣な成果の土台となるはずである。
Den 6. Oktober.
An den ausgeführten Werken
Palladios, besonders
an den
Kirchen, habe ich manches Tadelnswürdige
neben dem
Köstlichsten gefunden. Wenn ich nun so
bei mir
überlegte, inwiefern ich recht oder unrecht
hätte gegen
einen solchen außerordentlichen Mann, so
war es, als
ob er dabei stünde und mir sagte: »Das
und das
habe ich wider Willen gemacht, aber doch
ge-
macht, weil
ich unter den gegebenen Umständen nur
auf diese
Weise meiner höchsten Idee am nächsten
kommen
konnte.«
Mir scheint, so viel ich
auch darüber denke, er habe
bei
Betrachtung der Höhe und Breite einer schon be-
stehenden
Kirche, eines ältern Hauses, wozu er Fassa-
den
errichten sollte, nur überlegt: »Wie gibst du diesen
Räumen die
größte Form? Im einzelnen mußt
du wegen
eintretenden Bedürfnisses etwas verrücken
oder
verpfuschen, da oder dort wird eine Unschick-
lichkeit
entstehen, aber das mag sein, das Ganze wird
einen hohen
Stil haben, und du wirst dir zur Freude
arbeiten.«
Und so hat er das größte
Bild, das er in der Seele
trug, auch
dahin gebracht, wo es nicht ganz paßte, wo
er es im
einzelnen zerknittern und verstümmeln
mußte.
Der
Flügel in der Carità dagegen muß uns deshalb
von so hohem Werte sein, weil der Künstler freie
Hand hatte und seinem Geist unbedingt folgen durfte.
Wäre das
Kloster fertig geworden, so stünde viel-
leicht in
der ganzen gegenwärtigen Welt kein voll-
kommeneres
Werk der Baukunst.
Wie er gedacht und wie er
gearbeitet, wird mir
immer
klarer, je mehr ich seine Werke lese und dabei
betrachte,
wie er die Alten behandelt; denn er macht
wenig
Worte, sie sind aber alle gewichtig. Das vierte
Buch, das
die antiken Tempel darstellt, ist eine rechte
Einleitung,
die alten Reste mit Sinn zu beschauen.
[Werke: Italienische Reise. Goethe: Werke, S. 11304 (vgl. Goethe-HA Bd. 11, S. 82 ff.)]
東洋経済新報社への流れ、文筆をもって世論に立ち向かい行動する本物のリベラリスト・石橋湛山への流れと重なる。
矢吹名誉教授は、最初、東洋経済新報社(石橋湛山が長い間、社長)に勤務されたわけで、いわば、地下水脈がつながっていることを感じる。
石橋湛山は、日蓮宗のお寺の息子で、戦後、政界で不遇のとき、立正大学の学長だった。
立正大学には、湛山記念のさまざまの基金・施設や賞がある。この大学には、わたしも23年間、お世話になった。
立正大学の理念は、石橋湛山学長のときに、制定されたと記憶する。
「真実、正義、和平」が、理念の核心的普遍的概念。
誤解を恐れずにいえば、矢吹名誉教授のたくさんのお仕事のなかで、朝河貫一の仕事を現代世界に生き返らせた仕事が、一番生命力があるものではないか、後世、一番高く評価される仕事となるのではないか、と。
定年退職後の精力的な翻訳活動は、まさに朝河の仕事の魅力そのものにあるのではないか。朝河の魅力が、矢吹名誉教授を捕らえて離さなかったのではないか、と。
優れた仕事の吸引力・衝撃力、その優れた仕事の背後にある崇高な精神力こそが、根本、ということか。
ゲーテは、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂でミケランジェロの天井画「最後の晩餐」を見た感想を、次のように述べている。
「ミケランジェロの<最後の晩餐>やさまざまな天井画を見て、ぼくらはそれぞれに感嘆した。ぼくはただ眺めては驚いているばかりであった。
巨匠の内的な確かさと男々しい力、その偉大さはとても言葉では言い表せない」(11月22日、牧野、p.141
Dann gingen wir in die
Sixtinische Kapelle, die wir auch hell und heiter, die Ge-
mälde
wohlerleuchtet fanden. Das »Jüngste Gericht« und die mannigfaltigen
Gemälde der Decke, von Michelangelo,
teilten unsere Bewunderung. Ich konnte nur sehen
und anstaunen.
Die
innere Sicherheit und Männlichkeit des Meisters, seine Großheit geht über allen
Ausdruck. Nachdem wir alles wieder und wieder gesehen, verließen wir
dieses Heiligtum und gingen nach der Peterskirche, die von dem heitern Himmel
das schönste Licht empfing und in allen Teilen hell und klar erschien. Wir
ergötzten uns als genießende Menschen an der Größe und der Pracht, ohne durch
allzu eklen und zu
verständigen
Geschmack uns diesmal irremachen zu lassen, und unterdrückten jedes schärfere
Urteil. Wir erfreuten uns des Erfreulichen.
[Werke: Italienische Reise. Goethe: Werke, S. 11398 (vgl. Goethe-HA Bd. 11, S. 140)]
「ぼくはその瞬間すっかりミケランジェロに心を奪われ,彼を見たあとでは自然さえも味わいを持たないほどだった。それも僕には自然を彼ほどの偉大な眼をもってみることができないからだ」(「ローマにて、1786年12月2日」より)、と。(牧野、p.142.)
Am 28. November kehrten
wir zur Sixtinischen
Kapelle zurück,
ließen die Galerie aufschließen, wo
man den Plafond
näher sehen kann; man drängt sich
zwar, da sie sehr
eng ist, mit einiger Beschwerlichkeit
und mit
anscheinender Gefahr an den eisernen Stäben-
weg, deswegen auch
die Schwindligen zurückbleiben:
alles wird aber
durch den Anblick des größten Mei-
sterstücks ersetzt. Und ich bin in dem Augenblicke so
für Michelangelo eingenommen, daß mir nicht einmal
die Natur
auf ihn schmeckt, da ich sie doch nicht mit
so großen
Augen wie er sehen kann.
Wäre nur ein
Mittel, sich solche
Bilder in der Seele recht zu fixie-
ren! Wenigstens was
ich von Kupfern und Zeichnun-
gen nach ihm erobern
kann, bring' ich mit.
[Werke: Italienische Reise. Goethe: Werke, S. 11407 (vgl. Goethe-HA Bd. 11, S. 145)]
[23]
最近の朝日新聞の書評で,好評。
書物の公刊自体が、ひとつの外部評価(出版社による評価)だが、さらにその出版社の評価が、全国紙で書評に取り上げられ、好評を得たということは、重ねての外部評価=社会的評価である。
このような何重もの社会的評価=外部評価、ピアレヴューこそが、本物である。
私の考えでは、矢吹名誉教授は、もしも、巷間の噂のとおりに、中田市長が近く予想される衆議院選挙に打って出れば、その後任として、もっともふさわしいのではないか?
矢吹名誉教授は、現代中国の指導者たち、すなわち、毛沢東、劉少奇、朱ようきその他に関する鋭い観察を行い、著書として交換し、沢山の現代中国の論客と密接な人脈がある。
中国本土だけではなく、李登輝元総統など、台湾の政権担当者など政界の大物との付き合いも多いと理解している。
横浜市が、中国との関係をさらにいっそう拡大深化させるには、もってこいの人、これ以上の人はない、という人だと確信する。
中国語もぺらぺら、英語での中国経済分析の著書も公刊し、高い評価を受けている。
中田市長は、若さの特権で、荒療治を行った。中田市長の主観的意図は、本学をつぶすことにはなく、大改革による本学の発展であったのであろう。
ここでも、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」という洞察が、当てはまるであろう。
中田市長は、当初の主観的意図のとおり、本学の改革を成功させる使命があろう。
彼の主観的意図の実現(その見通しの確立)なしでは、予想される衆議院選挙においても、マイナス要因が増えることになろう。マイナス要因が少し増えても気にしないか?
選挙を戦う上では、マイナス要因が少ないほどいいのではないか?
ともあれ、中田市長が総選挙に出たあとの第一の候補として、私なら、矢吹晋名誉教授が、最適だと考える。
若い市長から、今度は、世界的に著名な現代中国論の大家を市長とすることには、市民の多くも賛成し、支持するのではないか?
ここでも、ピアレヴュー原則の貫徹がありはしないか?
現代中国の専門研究の最先端を行くものが、行政の頂点に立ち、横浜市と中国との友好関係を飛躍的に上昇させるのは、すばらしいことではないか?
これは、経済発展の基本原則でもある。信用! 信頼ある人間交流! 信頼ある市場関係! 専門知識・専門研究を土台とした世界史的視野と語学力抜群のコミュニケーション!
「若さ」が荒々しく切り開いた道を、しっかりと、経験豊富な専門家が、舗装し、あるいはその上に太いパイプを敷いていくというのは、いい構想ではないか?
最近の仕事振りからして、そのエネルギーは十二分にあるのではなかろうか?
矢吹氏にはその意味で、ぜひ市長戦に出てほしいと、主観的には思っている。これも、地獄への道か?
主観的には、大学のことを一番よく知っている矢吹名誉教授のような人が市長になれば、すべての話は迅速にすすむのではないか?、と。
それが、本学発展の最善・最高・超モダンのチョイスではないか、と。
またもや、私特有の「妄想」か?
[25] 一般教員推薦による候補の推薦は、「現在の問題のある制度を認めることにつながる」と、ボイコットすべきだという考えもあることは、この間、承知したが、たとえ敗北しても、問題提起はしなければならないのではないか、というのが私の考えだが。
[26] 所属は、国際文化学部だったが、所属学部からは代表に選ばれなかった。
聞くところでは、大学の実情をまったく知らない人も「候補」となっているようでもある。
テニュア制の本学独自の「魅力的な」制定(愚案)
法人化以後、任期制を前提に採用された教員
@ 3年ないし5年の更新、准教授で最長15年間、教授では65歳まで、更新回数制限なし。
A 准教授でも、また、教授でも、一定の業績を上げれば、テニュア(68歳までの雇用を保障する・・・65歳以降は、本来の教員の職務である4分野(教育・研究・大学運営・社会貢献)から、教育・社会貢献という2分野のみに専念することとし、給与は基本的に最高額が、65歳時点の半額をめどとする。それ以下のランクもありうるが、雇用は68歳まで保障・・・・50代後半から60歳までの間に、次の雇用先を求めて、どこか68歳ないし70歳定年のいい私学がないかと右往左往する必要がない。本学で業績を積みきっちりテニュアさえ獲得すれば68歳まで雇用が保障される。)
公務員身分を継承している(任期制不同意の)教員
@ 身分継承の論理から、65歳定年まで、雇用は保障。
A テニュア(68歳までの雇用保障)を獲得するためには、テニュア取得(68歳までの雇用保障資格)審査を受けなければならず、そのチャンスは、任期制合意の教員と同じとする。
任期制同意者も非同意者も、テニュア資格の獲得による68歳までの雇用の保障の可能性を提供し、ただ、65−68歳の任期を一年更新とするか3年まとめてとするか、あるいは、また、その業績(4分野で積み上げた秒席)のランクによって、S,A,B,C.の4ランクがあるものとする。
教育だけ(何コマかの講義野猿主だけの担当)の雇用形態もありうる。1−3年の任期で。
本学独自の「魅力的な」テニュア資格の取得の審査に当たっても、ビアレヴュー原則を確立する。
いずれにしろ、テニュア資格取得のチャンスは、任期制教員の場合、3年ないし5年の更新ごとに与えられる。
身分継承教員の場合は、テニュア資格取得のチャンスはいつでもあるが、定まった任期更新のような機会がないので、自ら申し出る必要がある。
50代後半から60歳までの間にテニュアを獲得する業績を積めば、68歳までの生活に安定感がえられる。
また、この3年間のPEを中心とする教養教育の問題は累積しているのに、それを根本的にかえることができないような現状では、すなわち、学生のことを深く思いやる気持ちからは、学生を犠牲にするこれまでのやり方・その継続には付き合えない、といった人々もいる。
医学部が、利害や見識の対立を超えて、O氏を結局は代表としたことを、「信頼」「信望」のいものと理解したが、それは必ずしも当たっていないというご指摘があった。
医学部には、学内行政にはあまり熱心ではない(時間もない)臨床系と基礎系があり、相互は、増やすべきポストや後任人事のあり方をめぐって一枚岩ではなく、O氏は基礎系の代表であって、必ずしも臨床系を代表しない(場合によっては対立する)。
むしろ、ここで書いた高い評価には、苦笑、失笑している臨床系その他の教員が多いのではないか、との情報をいただいた。
「天網恢恢、疎にして漏らさず」というが、人物評価も(するのもされるのも)、なかなか難しい。
私の数少ない直接の印象(医学部の予算・財源・人脈の確保のために必死で奔走する人)とは別の人物像が浮かびあがって来るようだ(基礎系中心、その他)。
[31] 最新情報(12日現在)では、医学部O氏は集めた(集めていたという情報はすでに紹介したが)という。ただし、15名が集まったかどうかは、われわれ一般教員には、確認できるものではない。
教員組合は、広く大学教員の意向を確認するシステムが必要だと主張しているのだが・・・・
全学投票システムを、法人当局が導入すれば、いいのだが・・・
全学から候補者推薦を求める投票
そのなかから、上位5ないし10名程度についての、第二次投票
さらに、第三次投票など。
出身母体・推薦母体の大きさや地域性(専門性)などが、不均等なので、なかなか難しい。
かつての選挙制度も、さまざまの問題をはらんでいた。
民主的とされた候補が、それを信じた人などにより票を投じられ、実際に学長になると、事務当局にほぼマル投げ、下からの意見にまったく耳を貸さなかったり、だった事例もある。
現状では、
参加することで、制度の正当化を許すよりは、現行の選考方式を、完全に無視、拒否するという態度。
ボイコット戦術ということになるが、・・・・
現在のやり方では、広範な下からの基盤を書いた人物が、「上から」、「外から」投入されるということが一部修正される可能性がある。すなわち、どの程度の支持か、大いに議論があるところのようだが、医学部O氏の場合、内部の長年の一種の「名望家」ということは事実だから。
「この地上にあるもので、大学ほど美しいものはあまりない」とジョン・メイスフィールドはイギリスの大学の賛辞のなかで述べています。・・・・彼が大学のすばらしい美しさを称賛したのは、大学が「無知を憎む人々が真理を知ろうと努力し、真理を知っている人が、他の人々の目を開かせようと努力する場所」だからです。
ケネディ演説The Strategy of Peace「平和の戦略」より。
peaceful revolution of hope(J.F.Kennedy)
わざわざ「主観的」と書いたのは、私の知っている限りのどの人も、「主観的には善意」の人ばかりだろうと思うからである。
しかし、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」、という名言・洞察がある。
これらのかたがたのその時々の行動に対して、私がときに批判的だったのは、その「主観的意図」、「善意」を疑うからではなく、大学の総合的で民主的な発展という見地からであり、問題ではないかという角度からであった。
たとえば、「サイレント・マジョリティ」を僭称したときには、「ground zero」を肯定し、奈落の底へのプロセスを徹底的に推進する方向に力を貸すものとして、憤りを感じた。
当時を思い出し、今再び、そのときの記憶がよみがえった。
元に戻って言えば、「未確認情報」における諸氏は、
大学の教職員・学生院生のコンセンサスを全体として得られるのか、という問題である。
大学の教職員・学生院生・卒業生・OBOGの教職員などのコンセンサスを得られるか、という問題である。
そのような全体的なコンセンサスを得るために、このような人々は、という問題である。
このようなかたがたは、またまた、「外部から放り込まれた」と感じられる人々ではないか、あるいは大学内部の広範な人々には疎遠感のある人々ではないか、という点である。
大学諸構成員のできるだけ幅拾い民主的統合、それに基づく民主的統治、という点を物差しとすれば、どうなるのであろうか?
すでに、昨日の教員組合ウィークリー(「全国国公私立大学の事件情報」も関心を持って本日付で紹介している)が指摘している問題点が、露呈してはいないか?
すなわち、下記の基準をクリアした人々であろうか、という問題点を感じる。
「● 学長の辞任と学長選考のありかたについて
学長は、任期をまだ2年残したまま、3月31日に退職することが明らかになっています。任期途中で学長が他大学に移るというなどということ自体、前代未聞のことです。
団交でも問題としたように、学長は昨年11月、「任期制同意状況を加味し」して人事委員会に諮ると、教学の長が経営判断、教員の処遇そのものにかかわる文書を、その職として出しています。そこで今回の団交でも、学長の出席を求めたにもかかわらず出席しなかったことは、無責任という他はありません。
学長は、「プラクティカルなリベラルアーツ」を述べ、「Toefl500点」といった進級要件を推し進めてきていたわけですが、それらが大学において、うまく機能していないことも明らかになっているこの時点で辞任し、他大学に移るということは、これも無責任という以外の何物でもありません。
また、横浜市立大学の標語のひとつに「学生中心」ということが掲げられているにもかかわらず、学長の辞任に関して、学生全体に向けての説明が現在に至るまで何らなされないということは、きわめて大きな問題であると考えます。
そもそも学長は、学長選考委員会が選び理事長が任命するということになっています。教員は15名の推薦をもって学長候補者を推薦できるということにはなっていますが、選考は、わずか6名の選考委員会(学外委員、事務局長、副学長等)において行われるわけです。選考委員会には、教員としては副学長が入っていますが、それらの副学長は教員によって選ばれたわけではなく学長が任命した者です。
横浜市立大学における学長の選び方は、一般の教員の意思が反映される制度になっていません。このような選考方法をとる限り、誰が学長になっても、それが広く教員によって支持されることにはなりません。
端的に言えば、非民主的な選び方しかされていないからです。
これは横浜市立大学の大学全体としての発展にとっての大きな障害となることは明らかです。
学長の選考にあたっては、大学全体の教員の意向が曖昧なかたちではなく明確に反映されるものでなければならないと考えます。
[36] O氏の立候補声明のなかには、看護学科のことがひとつも出てこない、といった偏りがあるので、医学部といっても、その「一部」の希望や政策を代表することのひとつの証明となろう。
[37] 「未確認情報」だから、まったくわからないが、久しぶりに耳にする名前であり、前回ストロナク氏と学長戦を争った。なぜ、急浮上したのか?
[38] Y氏は、本学商学部出身(OB)で、著名な企業の重役の方のようである。
ほかの3氏に比べても、学内基盤、学内の教職員の支持基盤はないのではないかと思われる。OBとはいっても、ストロナク氏のように、「外部から投げ込まれた」という感じではないか?
いかに優秀な方でも、学内の神経中枢・頭脳となるには、多大の困難が待ち受けていると感じるのは、私だけだろうか?
[39] 大学自治のおいては、本学の教員組合のような組織(当局から自立し、自由に意見を表明し批判できる組織)のしっかりした存在が、不可欠である。
その適切な批判・独自の主張が、大学を浄化し、健全なものとし、活発な雰囲気の中で、大学を発展させることになろう。
[40] 非公式なので、その信頼度を高めるには、それなりのきちんとした準備、公開性がもとめられるであろう。
[41] 「上意下達」、上の命令に従う官僚組織に、ラディカルに変えられてしまった。
[42] 給与条件は、65歳まで(年金不支給)と65歳以上で年金が出る年齢層とは、区別する必要がある。
かつて、R大学にいたとき、地理で有名な(筑波大学名誉教授)高野史男先生(当時、先生が入試委員長で、私は副委員長として支えた)と話し合う機会があった。
彼が言うには、「65歳過ぎると、年金が出るので、沢山給料をもらっても、税金ばかり多くとられてしまって。給料は、そんなにいらないのにね」と。
このように良心的で節度のある先生だけに、教科書問題(検定問題)では、政府の委員会でかなり厳しい文部省批判か何かをやって、座長を降りられた。
なお一言。
給料には、生活給部分、子供などの教育費部分など、年齢によって基礎になる要因が違う。したがって、子育ても終わり、孫ができるような年齢層になれば(大学教員の場合、大学人時代だけで少なくとも5年以上の徒弟時代があるので、その分、結婚も平均的には遅く、普通のサラリーマンより5年以上は長く働いて当然だし、必要。普通のサラリーマンが65歳まで仕事をするようになれば、大学教員は70歳まで働いてもおかしくはない。
65歳以上となれば、30歳―35歳の若手の給料水準(独身、家庭を持っても夫婦だけ)と同じ程度でも、いいのではないか?
仮に400万円ていどだとしても、65歳定年で年金生活に入る人と、65歳から1年間余分に働ける人とでは400万円の収入が違い、2年間で800万、3年間なら1200万となる。
65歳以上に、「任期制」を適用し、しかるべき必要な人の雇用を延長する(たとえば1年から3年)のは、若い時から65歳までの職務業績を、ある意味できちんと評価し,差別化することと同じであろう。
雇用延長は、一種の、差別化された職務業績給といえよう。
[43] この方は、例の「東大紛争」、「東大闘争」のころは、確か、「ノンセクト・ラディカル」といわれていた人だと思う。高校時代、ラグビーだかアメフトだかの選手で、3年生の秋に試合中、鎖骨を折り、1ヶ月ほど入院したということだが、それでも東大に現役合格。
「4当5落」などという言葉に苦しめられ、眠い目をこすってがんばって、なおかつ不合格となるようなものの目から見れば、まさに驚異的な鋭敏さと記憶力の持ち主である。
しかし、その高度の知力と記憶力によって、歯に衣着せぬ言動の連続で、回りのものは、恐れ、萎縮、敬遠する。
しかし、「彼こそは本物の教養人」と、理解のある人々からは評されている。それだけ、該博な知識を持ち、鋭利な頭脳なのである。
ただし、われわれ凡人は、凡人なりに、そのような人の「欠落したところ」を探し、見つける。
「活字がない」、「論文がない」と、論文数の数の少なさに目を向ける(一本一本は、普通の人の何本分かはあるのだが、したがって、どうでもよい論文の何十本分はあるのだが、)。
それで、常日頃の鋭い批判の矢とこの「欠落」との相互作用で、昇任審査の俎上に上らない。
あとから先に昇進したもの(たいした業績でもない、と感じている謙虚な人々など)が、「昇任審査を受けられたら、いかがですか」などとは、怖くて言い出せない。