更新日:2004/09/04
スティグリッツ『マクロ経済学第2版』の批判的検討(ファイル2[1])
p.207
第5章 総需要Aggregate Demand
第4章「不完全雇用」では、
「失業のおもな原因は、労働需要曲線がシフトしたにもかかわらずそれに相当するような実質賃金の下落を伴わないことにあるということを学んだ」という。
すでに、繰り返し、批判的にコメントしたが、これは、一種のイデオロギーというべきである[2]。きちんとした経済現象の説明とはいえない[3]。
実質賃金の硬直性は何を意味するか?
そもそも実質賃金は、何に対する対価なのか?[4]
「実質賃金」が下落すれば、「労働需要曲線がシフトし」ても、失業は起きないかのごとくに、失業問題を「実質賃金」の問題にしている。恐るべき経済学。これがノーベル賞の経済学か?
もちろん、他の重要な要因も見落としてはいない。
すなわち、「また、労働需要曲線のシフトのおもな原因は総産出量の減少であることも学んだ」と。あまりにも当たり前すぎる説明である。同義反復さえいっていい。あるいは同じ一つの現象を二つの側面から見たに過ぎないといってもいい。生産(産出)はその主体的要因としての労働(労働力)なしにはありえないからである。
労働需要がどのように変化するのか?
経済全体での変化(−方向でのシフト)は、何によるのか?
労働需要が増える分野・部門と減少する部門との相互関係は何か?
「失業」の発生、増大、減少に関して、考えるべき本質的問題は実にたくさんある。ところが、「実質賃金の下落」が伴わないこと、を特筆している。このイデオロギー性は、明らかである。ワイマール体制崩壊に関するボルヒャルトの主張(高い水準での賃金硬直性)とこれに対する反論でも論争された問題であるから、何かといえば不景気・失業増大を労働者側に原因がありとする潮流(単線的原因論の潮流)に特徴的な見方というべきであろう[5]。そうした潮流にスティグリッツも無批判的に追随しているということである。
一言だけして置けば、総産出量とそれに必要な労働(労働力)の相互関係に影響してくるのは、景気循環のような循環的要素などのほか、最も根本的長期的法則的観点では、労働の生産力の上昇という普遍的な鉄の法則の反映としての資本の有機的構成(相対的過剰人口=産業予備軍の創出)である。
最近では、「ニート」の急増(25歳未満で40万人とも)という構造的問題がある。
しかし、「ニート」の言葉がイギリス発であるように、この構造問題は日本限定のものではない。最近のアングロサクソン的・アメリカ的な先進資本主義社会に共通の現象なのではなかろうか(ドイツやフランスでも同じようであるのかどうか、すなわち世界資本主義の共通現象かどうか、この点は比較検討が必要)。
だが、なぜ、いかなる意味で、総産出量は「減少」するのか?
総産出量の拡大、膨張、ついで減少という景気循環を規定するものはなにか?
本章では、「消費と投資」を見る。
「ただし、供給に何の制約も課されていない状況、すなわち、機械の過剰設備と労働力の失業が存在している状況に注目している。この単純な枠組みのもとでは、産出量は総需要によってのみ決定される」と。
そうすると、問題は、なぜ「総需要」が変動するのか、それはいかなる意味で、いかなる範囲でか、ということが問題になる。
「本章では、賃金と物価のさまざまな組み合わせのもとで何が総需要水準を決定するのか、何が総需要を変化させるのか、また、なぜ産出量は不安定に変動するのか、学ぶ」と。
産出量が不安定に変動するのは、資本主義的市場経済の必然である。その不安定性は、世界市場の拡大深化とともに増大する。資本主義の本格的な世界的定着と不安定性の世界的定着とは同時平行ですらある。
世界的な景気循環は19世紀に入って、資本主義的生産様式が世界に広まると同時に起きた。多様な形態変化を遂げつつ、現在に至るまで景気循環を通じる発展法則が、資本主義的市場経済を貫いている。
p.208
1 所得・支出分析
ここで面白いのは、「本章では、大量の過剰設備が存在する状況」での「所得・支出分析」だということである。
資本主義的生産様式が、資本の論理、市場競争の論理のなかで資本蓄積を拡大し、資本の有機的構成の高度化を行うことが、必然的に過剰生産設備を生み出すという現実が、前提されているからである。
次に興味深いことは、「大量の過剰生産設備が存在するような物価水準Po」を前提としていることである。物価水準がある水準以下になれば、総供給を超えた総需要があることを示す図5-1が描かれている。
問題は物価水準であり、その物価を規定する要因である。
「さまざまな物価水準のもとで、総需要の水準は何によって決定されるのだろうか」かという。
しかし、まさにその「さまざまな物価水準」は、何によって決定されるのか?
「さまざまな物価水準」こそが、需要を決めるのではないか?
「物の価格が安くなれば買う」、反対に「高くなれば買わない」というのが、最も普遍的な行動様式ではないか。
物価水準と総需要の水準を勝手に切り離し、別々の要因であるかのごとく説明するのは、問題ではないか?
「各物価水準での総需要は、その物価水準で需要される消費と投資と政府支出と純輸出の合計でる」というのは、総需要=合計、というかぎりで当然のことを言ったにすぎない。
問題は、「その物価水準で需要される」という場合の物価水準であり、それを規定する要因である。
労働価値説が説くように、物の価格を規定するものは、その時代時代における労働の生産力であり、諸商品の相対に含まれる労働時間である、とすれば、その生産力水準が物価を規定する。
物価を規定する要因は、どこに求められるか?
「均衡産出量と均衡総需要水準を求めるために、総支出曲線aggregate expenditures scheduleという新しい概念が導入される」。
「総支出とは、消費、投資、政府の財・サービス、および純輸出への支出の合計」と。
p.209
「総支出曲線は、ある固定された物価水準における総支出と国民所得の関係を示す」
「総支出曲線は、図5-2に描くとおりで、縦軸に総支出、横軸に国民所得・・・」
図5-2を見ると、ここでも不思議なことに気づく。
「総支出曲線」は、所得=産出量=Y=ゼロのとき、Aというある総支出量(額)からはじまっている曲線(描かれているのは直線)である。
産出がゼロ(支出すべきものがない)なのに、なぜ支出が可能なのか?(過去の遺産・蓄積を食い潰す場合にのみ可能だが、そんな事態は歴史上一度もないであろう)
「総支出曲線には三つの重要な特徴がある。
先ず第一に、右上がりの傾きを持つ曲線である。すなわち、国民所得が増加すれば総支出も増加する」と。
図5-2に「所得=産出」とあるように、定義によれば、国民所得は国民の総産出でもあり、ものの生産が増えれば、それに応じて分配、すなわち所得も増えるというのはごく一般的な現象である。
「第二に、国民所得が1ドル増加しても、総支出は1ドルより少ない量しか増加しない。その理由は、消費者がみずからの所得増加分の一部を貯蓄するからである」とする。
それを総支出曲線の傾きで表現すると、所得が1ドル増えても支出は1ドルよりも少ないということで、傾きが45度よりも緩やかとなる、と。
この場合の問題は、国民所得を消費する主体が、あたかも「消費者」だけであるかのように想定していることであろう。
企業法人の資本蓄積とその投資(拡大再生産)、ということが、この説明の中には欠如している。
p.209-210
第三に、上で問題としたこと、奇妙だとしたことをまさに挙げている。
「たとえ国民所得がゼロであったとしても、総支出は依然として正である。これは、図5-2で総支出曲線が縦軸と正の水準Aで交わることで示されている(この理由については本章後半で論じることにする)」と。
p.211
1.1
国民所得と国民生産の等価
GDP=国民所得=Y
1.2 均衡産出量
総支出AE
AE=GDP=Y
ここでまた奇妙なことが起きる。
「均衡は、総支出曲線で「総支出=総産出量」という条件をも満たす点である。すなわち、均衡は、総支出曲線と45度線が交差する点であり、均衡総産出量はY* で表される」と。
そもそも、上で見たように、総支出曲線の特徴を説明する時には、
「第二に、国民所得が1ドル増加しても、総支出は1ドルより少ない量しか増加しない。その理由は、消費者がみずからの所得増加分の一部を貯蓄するからである」としていたではないか? つまり、この文章から言えることは、国民所得=総支出+貯蓄 である。
それでは、「均衡産出量」の時には、貯蓄はどこに行ったのか?
所得=産出=支出となっているではないか? 所得>支出の関係とは違うではないか?
どこから貯蓄するのか? まさに「均衡」どころか、貯蓄・蓄積がない特殊な点ではないか。
この疑問を解くには、貯蓄=投資 という定式がなければ、合理的には説明できない。ここでは、貯蓄=投資 を補助的に説明に加えておくべきだろう。
つまり、普通の経済においては、人々は生産したものの一部は蓄積し、投資(生産的消費)にまわすということであり、それならば一般的法則として確認してもいいだろう。
とすると、Y*以下のところはどうなるか? つねに所得=産出量よりも支出が多くなっているではないか?
つねに過去のものを食いつぶすということを意味するだろう。Y*以下のところは、例外状態ということだろう。
すなわち、Y*以下のすべての諸点は、総支出曲線の特徴だとしたこと(すなわち産出の一部しか支出=消費しないこと)を否定することになる。
一般的な支出の原則として、生産(産出)したものの一部を投資(生産的消費の意味)にまわし、生産したものをすべては消費(最終消費の意味)してしまわないという原則があるとすれば、その原則を否定する例外状況ということになる。
いずれにしろ、説明は明確でもなく、首尾一貫していないようである。
消費が二つの種類であること、生産的消費(投資)と最終消費(個人消費)都からなり、その区別をしないと所得=産出=支出の恒等式が成り立たないことを説明していないから、理解できなくなる。
1.3 総支出曲線のシフト
ここでも説明なしで、45度より緩やかな総支出曲線の「傾き」が前提され、新しい総支出曲線AE1に総支出曲線が上昇した時、「均衡産出量はY0 からY1に増加しているが、その増加額はS(総支出曲線の上昇分)よりも大きなものになっている」としている。
その背景にある現実は、所得=産出>支出、すなわち蓄積(貯蓄=投資)の存在。
1.4 数学的定式化
AE=b+cY
2 展望
この章で現象に関する説明はあったが、説明されていないことが結論的にまとめられる。すなわち、
「(1)総支出曲線のシフトは経済の均衡産出量の変化を決定する。また(2)その変化幅の大きさは総支出曲線が上下にシフトする幅よりも大きくなる」と。
この章では、総支出曲線と均衡産出量との相互関係が、蓄積(貯蓄=投資)を前提にして、説明された。しかし、総支出曲線が均衡産出量を決定するのか、産出量が総支出曲線を毛呈するのか、その決定の主導性がどちらにあるのかは、説明がなかった。
説明があったのは次のことである。すなわち、p.213で、「経済におけるなさまざまな変化に対応して、家計、企業および政府が、さまざまな所得水準において支出を増減させる結果、総支出曲線はシフトする」と。
だから問題なのは、「さまざまな変化」がなにかであり、「さまざまな所得水準において、支出を増減させる」要因はなにか、ということである。それらこそが、総支出曲線をシフトさせる原因だからである。
こうした当然に出てくる問題からして、「二つの疑問が生じる」(p.215)のは当たり前である。
一つは、総支出曲線の傾きの問題である。従って消費と蓄積(拡大再生産)との関係である。
二つ目は、総支出曲線のシフトが何によって引き起こされたのか、という問題である。
p.215-216「もし何か曲線をシフトさせる要因があるならば、政府は総支出曲線をシフトさせるために何かができるのではないだろうか」と。
なぜ、「政府」なのか?
総支出曲線をシフトさせる要因は、民間企業(企業法人)の守備範囲・活動の市場競争の総合的結果であり、その構成要素としての各企業のなしうることもあるだろう。
上述のことおよび以下の発想からすると、スティグリッツはケインズ的政策をよしとする経済学なのか?
p.216
「産出水準が低いときは労働需要も低い」と当たり前のことを言ったあと、つぎのようにいう。「それならば、政府が何らかの方法によって総支出曲線をシフトさせて均衡産出量を増加させることができるならば、雇用水準を増加させる(?水準ならば「高める」ではないか・・・ながみね)ことができることになる」と。
なぜ、民間の個人消費が増えてはいけないのか?
そこで、スティグリッツはつぎのようにいう。
「これらの問題に答えるためには、総支出を構成する4つの項目をそれぞれ詳しく見る必要がある。すなわち、(1)消費者によって購入される、食品、テレビ、衣服のような消費財。(2)企業が財を生産するために購入した機械や建物などの資本財への投資。(3)政府が現在使用することも目的に購入する財・サービス(公共消費)や、将来の便益を生み出すために購入する建物や道路など(公共投資)をあわせた政府支出。そして(4)純輸出である。ここで純輸出とするのは、自国(アメリカや日本)で生産された財にたいする外国の需要の価値[6](すなわち輸出)から、外国で生産された財に対する自国(アメリカや日本)の家計・企業・政府による需要の価値(すなわち輸入)を差し引く必要があるからである」と。
ここで総支出をAE、消費支出をC、投資支出をI、政府支出をG、純輸出をEとすると、
E=X(輸出)−M(輸入)
1995年のアメリカの数字・・・巨額の貿易赤字・・・X=8050億ドル、M=9060億ドル
AE = C + I + G + E
7兆2480億ドル=4兆9230億ドル+1兆670億ドル+1兆3590億ドル+(−1010億ドル)
100 =67.9% + 14.7% + 18.8% +(−1.4%)
1996年の日本経済・・・貿易黒字・・・X=51.2兆円、M=48.9兆円
AE = C + I + G + E
503.9兆円=303.0兆円+149.2兆円+48.5兆円+ 2.3兆円
100 =60.2% + 29.6% + 9.6% + 0.5%
3 消費
p.218
家計における消費
消費と所得の関係・・グラフで表すと右上がりの傾き・・・すなわち、消費が所得の増加に伴って増加する
「家計における消費と所得の関係は、消費関数consumption functionと呼ばれる」
国民経済全体での総消費と国民所得の関係
総消費関数・・・右上がり・・・国民所得が増えるに応じて、総消費も増える、関係。
これらはごく常識的な所得と消費の相互関係であろう。
3.1 限界消費性向
p.219 「可処分所得が1ドル増加したときに消費が増加する量を限界消費性向MPC=marginal propensity to consumeと言う。」
「アメリカ全体としての限界消費性向は、近年では0.9から0.97である。すなわち、アメリカでは、家計が所得を1ドル余分に受け取るごとに、平均ではその90%から97%が消費される[7]。つまり、総所得が1000億ドル増加したならば、総消費は900億ドルから970億ドル増加する。
「総消費関数の傾き・・・・は、総可処分所得(横軸)が1ドル増加したとき、総消費(縦軸)がどれだけ上昇するかを教えてくれる。言い換えると、総消費関数の傾きは、限界消費性向を示している。」
消費関数のシフトの図
「図では、可処分所得がゼロであっても消費される水準(縦軸の切片)が上昇している。消費のなかのこの部分は、所得水準に依存しない、独立消費autonomous consumptionと呼ばれる。[8]」
「所得水準に依存しない」などというのは、あまりにも単純化した理論的想定に過ぎない。現実には、所得がゼロになれば、その人のそれまでの蓄積や地位によって、独立消費の多少が決まってくる。
消費関数は、一般的には、
C=a+ mYd
a 独立消費の水準
m 限界消費性向(すなわち、可処分所得が1ドル増加するときの消費支出の増加額)
Yd 税支払い後の所得である可処分所得。
3.2 限界貯蓄性向
marginal propensity to save
所得=消費+貯蓄
限界貯蓄性向(MPS)+限界消費性向(MPC)=1
4 投資
GDPのなかで2番目に大きな構成要素である投資
「投資は毎年大きく変動するが、・・・利子率に依存している」と。
それでは、利子率は何に依存しているのか?
貸付可能資本の総額と資本借入れ需要の総額との相互関係ではないのか?
スティグリッツは、肝心の「利子率」を規定する要因を明らかにしていない(示唆、言及もしていない。)
つぎに、政府と外国貿易は捨象(さしあたり存在しないと仮定)するのは、理論として問題ない。均衡産出量を考えるとき、総支出=消費+投資 と言う仮定も理論的にはだとうだろう。
しかし、ここでまた奇妙な(前後不整合の)説明がいくつか出てくる。
投資を考慮した表5−3は、p.217の表5−2(総消費と国民所得の関係)に一定水準の投資(5000億ドル)を加えたものである、という。
しかし、投資5000億ドルは、いったいどこから出てくるのか? 貯蓄からではないのか? そして、貯蓄は、消費性向に依存し、したがってまた所得の一定割合(貯蓄性向)を回すことからくるのではないのか?
とすれば、所得=産出量が違ってくるに応じて、貯蓄=投資の額も変化するのではないのか? なぜ、これまで貯蓄性向や消費性向を説明しながら、投資が問題になると定額になるのか?
つまり、投資の源泉が何かということが、この説明では、あいまいになってしまっているのである。
一方で、そうした奇妙な仮定を行いながら、あいかわらず、「総支出は、消費支出と投資支出の合計」であるとか、総支出の度合い(傾向)を示す斜線の傾きは、「消費関数の傾きと同じ」というのである。「すなわち、所得の増加にともなって、総支出は消費の増加分、つまり限界消費性向だけ増加する。総支出曲線の傾きはここでも限界消費性向と同じである」というのである。
「総支出は消費の増加分、つまり限界消費性向だけ増加する」とすれば、総支出=消費+投資と言う定式からすれば、投資も増えるのが理論的整合性ではないのか? なぜ、投資は5000億ドルに固定されるのか?
消費と投資には内的な連関性がなくなってしまうではないか?
貯蓄と投資には内的な連関性がなくなってしまうではないか?
産出量65000億ドル=総支出65000億ドル=消費支出60000億ドル+投資5000億ドルが均衡点として示されている。
だが、この時の消費と投資の関係は?
総支出の何パーセントが消費に回されていることになるのか?約92%(0.923)である。
しかし、同じ表5−3で、たとえば、245000億ドルの時の消費は19500億ドル。この場合、総支出に閉める消費支出の割合は、約80パーセント(0.7959)である。
総産出=総支出にしめる消費支出の割合がこのように大きく違うではないか?
4.1 乗数
この「乗数」効果というのが、根本的にいかがわしい。
「投資が10億ドル増加したことによって、総支出曲線が上方にシフトする場合を考えてみよう」という。よろしい。
しかし、投資とは何か? 民間企業の文字通りの投資か? それとも政府の最終消費支出にしか過ぎないないのに公共「投資」と表現されているものか?
資本と貨幣は、マルクスが厳密に分析し区別を鼎立したにもかかわらず、一般通念においても、その一般通念に無批判的な支配的経済学においても、あいまいにされている。
目の前の現象(日常的な貨幣と商品との交換)においては、本来的資本の循環、すなわち、資本の前貸しから増殖した価値として利潤(剰余価値)をもとなって一循環を終える資本循環[9](貨幣資本の場合、G - W... P... W' - G')と、勤労者や政府の最終消費支出(W-G-W)とが入り混じり、概念的科学的に分析整理しないかぎり、区別はできないのであえる。資本循環も勤労者・政府の最終消費出の循環も、売り(W−G)と買い(G−W)の二つからなっているからである。売りと買いが、労働者の場合と、資本の場合とではまったく意味合いが違うのであるが、その区別は流通過程(売りと買い)からは、判別できないのである。
すなわち勤労者の場合、労働力A(労働者の売る商品W)を売って貨幣Gを手にいれ、生活物資を購入する循環、すなわち、A-G-W、ないし、W-G-W、政府の場合、民間人・民間企業の商品販売(W−G)の結果としての貨幣の一部からの租税収入を最終消費物資購入に当てる循環、すなわち、ここでもW-G-W、
これと関連して、消費も、労働者・勤労者の消費(家計消費)と資本企業による生産的消費(生産手段あるいは労働力を購入する前貸しとしての生産的消費)とが混同されている。それらがごっちゃにされたまま「消費性向」なるものが算定され推計されている。
それはおくとして、限界消費性向が0.9であると仮定するのもいいとしよう。その意味は、所得が1の場合、その0.9のみが消費される、ということだった。つまり、0.1が貯蓄に回されるということだった。
「企業が資本財を購入するので、産出量が10億ドル分増加する」という。
問題点@10億ドルの投資を行う場合、「資本財」だけを購入するのか? 人件費は?[10]
10億ドルの投資=資本財+人件費とするのが合理的だろう。「資本財を」とだけ言うのは誤りであろう。
いずれにしろ、「資本財+消費財」の需要が発生するのは必然となる。
問題点A「増加した産出量の価値」というが、10億ドルは、もともとどこかにあった資金が投じられたのではないか? 10億ドル投資したら、その10億ドルがそのまま産出量の増加につながるというのはどうしてか?
初めの10億ドルは、すでに蓄積されていた過去の労働の蓄積であり、なんら新しく増えたものではない。(株式で集めようが、銀行から借りようが、すでに形成されたもの=蓄積された価値額=貨幣額がある布良れ谷すぎないのであり、それはどこかにあることが前提となる)
生産のための購買(生産手段と労働力)は、経済法則的には等価交換を前提にしなければならない。ここに、消費性向を持ち込むことは、現実の生産的な投資と諸個人の最終消費とをごちゃごちゃにしていることとなる。
他方、10億ドルの投資で購入された同じ価値の資本財と消費財は、すでに生産されていたものである。
新たな投資額10億ドル(G)で資本財と消費財をあわせて10億ドル分(W)買っても、価値の上では、まだ何も増加はしていない。新たな生産は始まっていない。これから生産(産出)過程が始まるのである。買い(投資)と同時に、産出量が増えると言う規定は、誤っている。
売買は、価値を増加させはしない。同じ価値が交換されるに過ぎない。
G−W ・・・投資=買い(労働力と生産手段)
その後、生産過程Pがある。その後、生産された商品の売り、すなわち、
W’-G’ がある。
しかし、この一定期間(労働期間、生産期間、流通期間)を必要とする生産の一循環で、増える価値は、剰余価値率・利潤率に依存し、たとえば、20%増という増え方となる。
「増加した産出量の価値」ということ自体がそもそも成り立ちえないとすれば、それが、「経済のすべての構成員に対して、賃金上昇、利子支払いの増加、あるいは企業所有者の所得となる利潤の増加などの形をとって分配される」というのも成り立たない。
単なる売買(G-W買い, W-G売り)では、産出量の価値は増加しない。価値を増殖するのは、もの造りの過程、すなわち商品(財貨とサービス)の生産過程である。
現実の産出の増加過程とその諸条件が無視されている。
投資=産出量の価値の増加、という誤った定式を前提に、抽象的な「消費性向を仮定」して、乗数効果が展開される。その結論は、「10億ドルの投資増加は、均衡産出量の100億ドルの増加をもたらすことになる」と。
これが現実に照らして誤っていることは明らかではないか?
ある額を投資(どこで蓄積された物を投資に向けるのかも問題となるが)すれば、その投資額の10倍もの均衡産出量の増加が、「消費性向」と乗数効果で生み出されというが、いったいどこにあるというのか?
問題がそんなに簡単ならば、失業問題などは発生しないであろう。最近の日本の構造不況なども起きないであろう。現実に日本が「失われた十年」で苦しんできたことは何を意味するのか? 政府の公共投資はいかなる効果を持ったのか? 過剰生産の構造問題があるとき、不適切な公共投資を莫大に行っても、けっして均衡産出量は増えないのである。
「増加した産出量の価値は、経済のすべての構成員に対して、賃金上昇、利子支払いの増加、あるいは企業所有者の所得となる利潤の増加などの形をとって分配される」と、説明抜きで主張される。
G(10億ドル)によって生産のために必要な客体的要素と主体的要素を購入するとして、すなわち、生産手段(Pm)と労働者(A)をその社会の平均的資本の有機的構成に応じて購入するとして、このG−Wの後に来るべきは、生産である。
だが、その生産がはたして有効な需要のための生産であるのかどうか、これは生産物を市場に投じてW’−G’として利潤(剰余価値)を含めて、実現できて初めて成り立つことである。まさに、この何にどのように投じるかということこそは、市場社会では決定的に問題となるのであり、単純な数学的な計算を否定するところである。
この市場社会の最も根本的な問題をすっかりパスしている議論の組み立てである。
じつは、同じような発想は、すでに19世紀から見られた。マルサスの人口論[11]もその一つの典型であり、その他、幾何級数的な価値増殖などを、現実の生産過程における価値増殖のメカニズムと諸条件抜きに、抽象的に(現実的な生産の諸条件を無視して)数学計算で主張する議論は、いくらもあったのである[12]。
現実的な生産諸条件を無視して、また中間高で説明すべき諸条件を無視して、「10億ドルの投資増加は、均衡産出量の100億ドルの増加をもたらすことになる」というテーゼの現実的な誤りが明白でるにもかかわらず、教科書のテーゼとして存続し続けていると言うことが不思議である。
p.225の「policy perspective」では、「1993年のアメリカ経済は、依然として下降局面にあり、失業率は’5を上回っていたが、クリントン次期大統領は、160億ドルの投資からなる小規模な景気刺激策に賛成した」として、「乗数が2であるときには、それは国民生産を320億ドル増加させることになる」としている。
だが、なぜ、消費性向0.9をここでは仮定しない(できない)のか?
また、なぜ、それ以上の投資をできないのか?
「投資」の額を規定する諸要因が問題になってくるであろうか、いかなる分野に投資がなされるかも問題になってこよう。抽象的な乗数効果はたんなる数学の計算でしかない。
4.2 (ない)
5 政府と貿易
5.1
政府の効果
p.226「総所得は総産出量に等しく、Yと書かれる。したがって可処分所得は、総所得から税金Tを差し引いたものである。
可処分所得=Y−T
税金がある場合の消費関数などに関して、仮定に基づく数学的な変量の説明。
ここでも現実的な諸条件の分析はなく、数学的計算の妥当性は疑問。
5.2 国際貿易の影響
p.228 「国際貿易は、国民生産に強い影響力を持っている。まず輸出は、国内で生産される財の市場を拡大する。近年のアメリカ経済では、国民生産のほぼ10%の財・サービスが輸出されている。より小規模な国では、輸出の国民生産に示すウエイトはより大きなものであり、たとえばイギリスでは26%、日本では12%に達している」と。
しかし、イギリスの26%と日本の12%は、あまりにも大きな差ではないか?
それはアメリカの経済規模と比較した場合の「より小規模な国」と言う均質の理由図家ではせつめいできないのではないか?ドイツやフランスとの比較も必要だろう。
そのとき、ヨーロッパ共同体が戦後数十年にわたって推進してきた経済統合の実体が、「輸出」なる概念(そのウエイトの大きさ)に影響していることが判明しよう。
したがって逆に、EU統合の現在において、EU全体のEU域外との貿易の割合を見るとどうなるか? アメリカや日本と同じように10%大になるのではないか? 検証が必要。
EUの統合によって、ヨーロッパ諸国は一つの国のようになり、アメリカ型、日本型の経済構造になった、と言うことがいえるかも知れない。
「輸出が国際財に関する市場を拡大するのとは逆に、輸入は国内財に関する市場を縮小させる。すなわち、輸入と輸出は総支出曲線にたいして反対方向の影響を持つ」と。
こうした問題とは一段違う問題として、「近年アメリカでは、純輸出が急激に赤字に転換した(純輸出は総需要にたいする総効果を見るためには適切な概念である)。すなわちアメリカでは輸入が輸出を上回っている。1980年代後半では純輸出がアメリカのGDPに占める比率はマイナス2%ぁら3%にも達した」と、アメリカの貿易赤字の恒常的赤字を指摘している。
図5−8(1950年代からの純輸出数値)によれば、1953年頃、1959年頃、1968年頃、1973年頃と循環的に貿易赤字が発生しているが、1976年以降は慢性的に貿易赤字(マイナスの純輸出)が続いている。
なぜこれが可能なのか? その説明はない。
そのかわりにここでも、限界輸入性向marginal propensity to importなる概念を持ち出す。可処分所得が増えると、その限界輸入性向の仮定にしたがって、輸入も増えると言うのである。
p.229 「家計所得が上昇すると、アメリカの家計は自国製品の購入を増やすだけでなく、輸入製品の購入も増やすだろう」と。これは「仮定」であり、経済学的な説明ではない。
EUなどのような地域統合のファクターはここでも考慮外となっている。
p.230 貿易赤字にとっては、問題なのは(輸入の増加と言うファクターの反面として)、輸出の少なさ(輸入の増加に見合って輸出も増えると言う小僧になっていないこと)でもある。
それでは、輸出がしかるべく増えない要因は何であろうか?
「輸出
アメリカにとっての輸出とは、外国人がアメリカから購入するものであって、諸外国の国民所得に依存しているが、アメリカの国民所得には直接依存しない」と。つまり、アメリカの輸出が増えないのは、「諸外国の国民所得」に原因があり、それが増えないからだということになる。果たしてこの説明は、合理的か?
アメリカ以外の諸国で経済規模(国民所得)を殖やしている諸国民が数多くあるのではないか?
「輸出はまた、マーケティング面でのアメリカ企業の営業努力や外国製品の価格とアメリカ製品の相対価格といったその他の要因にも依存するかもしれない」と。
これまた当然のことであり、「かもしれない」と言う不確定なことではないだろう。商品の質(使用価値・効用)とその価格こそは、アメリカ製品の競争的な輸出力を決定付けるものであろう。マイクロソフトの世界制覇は、まさにその製品の効用の巨大さとその価格の要因があっとうてきに力(競争力)を持っていると言うことであろう。
ところが、そうした問題を見ようとしない。「議論を簡単にするために、これらのほかの要因は一定であり、アメリカの出来事には依存しないと仮定しよう」と。
そして、「とりわけ外国の所得はアメリカの所得にはまったく依存していないと仮定する」。
そうした非現実的な仮定をした上で、さらに、「輸出水準は4000億ドルと言う水準に固定されているとする」。
これは、アメリカの貿易赤字の累積(その諸要因)を何も解明しようとしないことを意味するのではないか?
6 総需要曲線:再論
第6章 消費と投資Consumption and Investment
p.243 本章では、「総支出(フレームワーク)の二つの構成要素である消費と投資についてくわしく検討」することにしよう、と
1 消費
p.243「可処分所得が増加するときには消費も増加する。それならば、経済学者にとっては、消費関数を用いさえすれば、今年の可処分所得がわかれば、今年の消費支出を知ることができる」と。
p.244「しばしばケインズ型消費関数と呼ばれるこの単純な消費関数は、図6−1に描かれているように議論の出発点として適したものである。所得は毎年変化し、消費もまた毎年変化する。所得と消費の動きが単純な消費関数の予測するように整然としたものであったならば、図中のすべての点を通る直線を引くことができるはずである。実際、図に見られるように、所得と消費の関係は、理論によって予測されていた直線的関係に驚くほど近いものだった」と。
人々が、所得の一定割合を消費し、一定割合を貯蓄すると言うこと、大量的に国民経済レベルで統計を取ると、大体、所得の増加と消費の増加とが直線的に変化していること、これはごく当然で自然である。
1.1 将来を重視した消費関数理論
所得にしめる消費の割合の傾向に将来に関する考慮がどの程度影響するかをめぐって、ケインズの見方を修正(補完)する議論が紹介されている。ノーベル経済学賞受賞者のフランコ・モジリアーニの「ライフサイクル貯蓄」仮説と、ミルトン・フリードマンの「恒常所得仮説」である。
現実の多くの人の消費・貯蓄行動においては、現在と将来の要因がそれぞれに影響してくるのは当然であり、議論されていることは、重大な決定的な対立点ではない、
しかし、所得の中味の議論が、これらの議論の対立の背後にはある。
すなわち、たんなる雇用所得なのか、資産からの所得(資本家、不動産所有者など富の所有者、そうした資本等じゃら所得・収入)なのか、と言うちがいである。
これは決定的に重要な違いを意味する。
アメリカの統計において、所得が、雇用によるものか財産所有によるものかが明確でないとすれば、これは問題である。
p.248 富とキャピタル・ゲイン
「将来を重視する消費理論では、消費の決定にあたって現在所得はあまり重要ではないというにとどまらず、ケインズが無視していた経済変数が重要なものである可能性をもしさしている」というが、この富の所有者とそれが獲得するキャピタル・ゲインが、どのように消費に影響するかは、重要である。
スティグリッツは、「同じ所得水準の個人を比べるならば、豊かな富をもっている人は消費水準もより高いものになる」という。
所得が同じで、一方は豊かな富を持ち、他方はそれを持たないと言うのは何を意味するか?
一方の所得の中には、キャピタル・ゲインが含まれており、他方には勤労所得・雇用者所得だけからなるということになろう。収入源泉がちがったものから成り立っており、それが消費行動に影響することは当然である。
しかし、問題なのは、果たしてどれだけの人々がキャピタルを持ち、キャピタル・ゲインを得ているかということである。
その具体的な統計を基にしないと、いったい「キャピタル」をもっているのが誰か(何か)が不明確になってしまう。スティグリッツの叙述ではあたかもすべては個人であるかのようであるが、法人所有の株式・債券等も大きなウエイトを占めており、経済現象の分析(解明)には、その経済主体ごとの行動の違いも明らかにする必要があろう。
1929年のニューヨーク株式市場の崩壊と1987年10月の大幅下落(22%)との違いは、その背後にある経済的諸条件全体の違いが問題にされなければならない。
「1929年10月におこったニューヨーク株式市場の崩壊(暗黒の木曜日)が消費関数するの下方シフトを引き起こし大恐慌の要因となった」というのはじつに表面的な見解である。
「1987年10月に一日で株価が22%下落したときには(ブラック・マンデー)、消費は予想されたようには急速には低下することはなかった」とし、「人々はこのときのキャピタル・ロスに対してはほんのわずかの反応しか示さなかった」とすれば、比較すべきは、1929年のキャピタ・ゲインと1987年のそれであり、1929年における過剰生産の状態と1987年における過剰生産の状態との比較が重要となろう。
1.2 消費理論と現実の調和
p.249
スティグリッツは、恒常的所得仮説とライフサイクル仮説に含まれている「多くの真実」を認めつつ、基本的にはケインズの立場を擁護しているようである。すなわち、「現実の家計消費は、これらの理論が示唆している以上に、現在の所得水準に強く依存しているようである。この理由としては、耐久財と信用割当という二つの問題があげられているが、これらはともに消費において重要な役割を果たしている」と。
耐久財
1.3
[2] いかにこの議論が支配的な考え方として流布しているかは、たとえば90年代の長期不況の原因を議論する中でも主要な考え方のひとつとして出ていることから、わかる。長期不況(長期低迷)の原因として、需要側要因、供給側要因の二つがあるとし、「需要側の力点の一つである賃金の下方硬直性」が指摘される。宮川努「1章 日本経済の長期停滞と供給サイド」浜田宏一・堀内昭義・内閣府経済社会総合研究所編『論争 日本の経済危機−長期停滞の真因を解明する−』日本経済新聞社、2004年5月刊、p.5.
「賃金の硬直性」は、スティグリッツがマクロ経済学で解いているくらいだから、アメリカにも、いや先進資本主義国に共通のことだろう(EU諸国ではもっと強い硬直性があるだろう)。だから、日本の、しかも90年代の長期低迷を、アメリカやEU諸国にも共通の要因では解けないことは、論理的にも事実の上でも、明らかではないだろうか?
宮川の主張ははっきりしている。「宮川(2003)が指摘したように、産業別に実質賃金と生産性上昇の動きを見ると、まさにBruno and Sachs[1985]が、1980年代のアメリカ経済で指摘した実質賃金の硬直性が、日本経済の低迷をもたらしているのである。実質賃金の動きを生産性上昇に見合った動きへと伸縮的に変化させるとともに、従来以上に労働力の産業間移動を促す政策をとる必要がある」と。(p.20)
問題はしたがって、「生産性上昇」の諸部門の発見・創造であり、そうした新しい分野への労働力の移動なのである。たんに、「賃金の下方硬直性」をあげつらうべきではないのである。
そして、労働力が新しい分野に移動するには、労道力が柔軟性を持って形成されていなければならない。科学技術の進展に柔軟に対応できる労働力の形成、再教育が必要だろう。「新しい技術革新とそれを背景とした産業の勃興が必要」(p.23)というのは、そのとおりであろう。しかし、もちろんこれは普遍的原理でもある。
なぜ、日本において1990年代にそれができなかったのかを説明するためには、「なぜ、1990年代に新しい技術革新とそれを背景とした産業の勃興」ができなかったのかを解明しなければならないだろう。
その点、同書2章の野口旭「日本経済の長期停滞は構造問題が原因か−産業構造調整不良説の批判的検討」が検討している。
野口によれば、「産業構造調整不良説とは、日本経済の停滞の主因を、低生産性産業から高生産性産業へのシフトが十分に進んでいないと言う点に求める見解」であるが、現実には、「生産性の伸びの低い産業から高い産業への生産資源のシフト」は、必然でも必要でもない、と(p.34)。「産業ごとの生産性上昇に格差が存在する場合には、ごくまれなケースを除き、むしろ、高生産性産業から低生産性産業へのシフトこそが常態なのである。そして、現実に生じているのはまさにそれである」として、日本における製造業およびサービス業の国内生産シェアの推移(1980−2000年)の統計・図表を掲げている。「高生産性」の製造業の国内生産シェアが傾向的に低下し、「低生産性」のサービス業の国内生産シェアが恒常的に、問題の90年代もむしろ順調に上昇している、というわけである(p.38-39)。
ただ、野口の示すデータは、「国内生産シェア」、すなわち、国内生産の全体を100パーセントとした場合に、製造業とサービス業が占める割合の変化であり、製造業とサービス業の生産額の絶対的な変化を示すデータではない。
したがって、つぎのように言うとき、厳密には(すくなくとも示しているデータとの関係では)、「高生産性産業である製造業の縮小と低生産性産業であるサービス業の拡大」というのは、絶対的な生産量や生産額という意味ではないことは注意する必要がある。「高生産性産業」である製造業は、統計上、絶対額では増大し(景気変動での変動を経験しつつだが)ている。傾向的に減少しているとはいえないであろう。Ex.法人企業統計(製造業・サービス業) 「高生産性産業から低生産性産業へのシフト」が、無限定に「常態」であるとはいえないであろう。
それはおくとして、重要なのは、「経済厚生の観点からの資源の最適配分は、通常はむしろ、生産性の高い分野から低い分野に労働が移動することによって達成される」ということの意味合いであり、「問題は、低生産性産業が縮小していかないというところにあるのではなく、低生産性産業が低生産性のままでとどまっているというところにある」というのは、妥当な見方であろう。ただ、その意味合いとしては、「低生産性産業」の生産性が上昇し、「く生産性」を達成し、その意味で当該「低生産性産業」の割合が減るということとは矛盾しないであろう。いかなる分野においても生産諸力の上昇は、普遍的傾向であろう。
その意味で、「低生産性産業の生産性が上昇していけば、その財の生産により多くの資源を投入する必要はなくなる。つまり、逆説的であるが、もし低生産性産業を縮小させる方法があるとすれば、それはその産業をより『高生産性』にすることによってなのである」と(p.41)。
[3] 失業率と賃金上昇率との関連に関しては、有名な「フィリプス曲線」がある。
失業率の高さが、賃金抑制や賃金切り下げ圧力として働くことは、容易に理解できる。これはいわゆる近代経済学も現象認識としては把握している。
マルクスの場合、それは資本蓄積の必然的メカニズムだとする。相対的過剰人口・産業予備軍の理論は、資本(その論理と運動法則からすれば)が、必然的にそのような失業者を生み出すと見る。
有斐閣・経済辞典からフィリプス曲線の説明を見ておこう。
フィリップス曲線 Phillips curve |
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最近のヨーロッパ諸国では、失業率が10%を超えるところも多い。
これらの地域では、フィリプス曲線をそのまま適用すれば、「貨幣賃金上昇率がマイナスになる」ということになるが、果たして現実はどうか?
「失業率」の前提となる労働者の平均的な労働時間(1日あたり労働時間、1週間当たり労働時間、年間労働時間など)は、どのようになっているか、これが問題となる。
人類の労働の生産力が上昇すれば、自由な時間、余暇の時間を増やすというかたちで、人間的な労働時間管理を推進する可能性もでてくる。そのような形で、失業率が増えないような努力が、先進諸国において求められている。
ワークシェアリング論の発展が必要であろう。
経済史講義インデックスのページにも紹介しておいたが、人間の自由と労働時間の関係に関する次の指摘を、今一度かみ締めたい。
「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときにはじめて、始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。
Das Reich der Freiheit beginnt in der Tat erst da, wo das
Arbeiten, das durch Not und äußere Zweckmäßigkeit bestimmt ist, aufhört; es liegt also der Natur
der Sache nach jenseits der Sphäre der eigentlichen materiellen Produktion.
未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のなかでも、そうしなければならないのである。
Wie der Wilde mit der Natur ringen
muß, um seine Bedürfnisse zu befriedigen, um sein Leben zu erhalten und zu
reproduzieren, so muß es der Zivilisierte,
und er muß es in allen Gesellschaftsformen und unter allen möglichen
Produktionsweisen.
彼の発展につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力もまた拡大される。
Mit seiner Entwicklung erweitert sich dies Reich der Naturnotwendigkeit, weil die
Bedürfnisse; aber zugleich erweitern sich die
Produktivkräfte, die diese befriedigen.
自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとにおくということ、つまり力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで、この物質代謝を行うということである。
Die Freiheit in diesem Gebiet kann
nur darin bestehn, daß der vergesellschaftete Mensch,
die assoziierten Produzenten, diesen ihren Stoffwechsel mit der
Natur rationell regeln, unter ihre
gemeinschaftliche Kontrolle bringen, statt von ihm als von einer blinden Macht beherrscht zu
werden; ihn mit dem geringsten
Kraftaufwand und unter den ihrer
menschlichen Natur würdigsten und adäquatesten Bedingungen
vollziehn.
しかし、これはやはりまだ必然性の国である。
この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が始まるのであるが、しかし、それはただ、かの必然性の国をその基礎として、その上にのみ花を開くことができるのである。
Aber es bleibt dies immer ein Reich der
Notwendigkeit.
Jenseits desselben beginnt die menschliche Kraftentwicklung, die sich als Selbstzweck
gilt, das wahre Reich der
Freiheit, das aber nur auf jenem Reich der Notwendigkeit
als seiner Basis aufblühn kann.
労働日の短縮こそは根本条件である。
Die Verkürzung des
Arbeitstags ist die Grundbedingung.
[Marx: Das Kapital, S. 4073 ff. Digitale
Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 7387 (vgl. MEW Bd. 25, S. 826 ff.)]邦訳・大月書店版・『資本論』第3巻、第5分冊、1050-1051ページ。
標準労働日など労働者の標準的労働条件確立・向上・法的整備は、労働者(肉体的・精神的労働者=現在社会の圧倒的多数の勤労する人々)の主体的連帯行動による
[4] 労賃論が問題となる。
マルクスが明らかにするように、労賃は労働力の対価であるにもかかわらず、労働の対価と観念されている。その誤った観念は、ここでは立ち入らないことにし、生活給・能力給という表現で労賃が説明されていることからもわかるように、働く人の能力に応じ生活の必要に応じた額(その能力を維持し生活を維持するための総費用)が、労賃だということになる。
勤労する人間の生活の必要や能力維持のために必要な費用が、生活物資に直接かかわりのない経済全体の生産能力と市場能力との相互関係の変動によって生じる景気循環の2−3年ごとの変動に対応しないのは、必然である。
労働者の生活・能力維持の諸費用は、そのための諸商品の価格に対応し、したがってそうした諸商品総体が、生産諸力の発達によって低下するかぎりで、低下する。労働者の必要生活諸物価が簡単に低下しないのは、それら諸物資の価格が簡単には低下しないことの反映でしかない。
相対的剰余価値論(第1巻第四篇、第七篇)の理解が求められる。
[5] もちろん、一般的な社会の発展に伴う労働者の労働時間の短縮と余暇の増加という文脈では、平常時における正規労働者の勤労時間の短縮化が、世界的に達成されなければならないことはいうまでもない。
[6] 面白いことに、外国貿易が出てくると、はっきりと、財とその価値という商品の2側面(使用価値・効用と価値・交換価値)が明確に意識された表現になる。
一方における無数の使用価値・無数の多様な効用を持った輸出財が貨幣額(交換価値・価値)に還元され、他方で無数の輸入財の貨幣額(交換価値・価値)が対置され、差し引きされる。
価値・交換価値が何かということは不問に付したままで、実際の経済理解では、「価値」を使用しているのである。
だが、価値とは何か? 無数の使用価値・効用とは違った価値とは何か、定義せよ。これが、いわゆる近代経済学に突きつけられた問題である。
だが、いわゆる近代経済学はこの根本問題を回避している。
[7] 原注:アメリカでは、1980年代後半の消費は、しばしば家計所得の97%を占めていた。
最近では、消費はいくらか低下した。こうした統計が、消費の可処分所得にたいする平均比率を示しているのにたいして、限界消費性向はそれよりもいくらか小さくなっている。
[9] 『資本論』第二巻が対象とするのが、資本の流通過程。第二巻冒頭を以下に抜粋しておこう。
「資本の循環過程は三つの段階を通って進み、これらの段階は、第一巻の叙述によれば、つぎのような順序をなしている。
Der Kreislaufsprozeß des
Kapitals geht vor sich in drei Stadien, welche, nach der Darstellung des ersten
Bandes, folgende Reihe bilden:
第一段階。資本家[9]は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち、流通行為G−Wを通過する。
Erstes Stadium: Der
Kapitalist erscheint auf dem Warenmarkt und Arbeitsmarkt als Käufer; sein Geld
wird in Ware umgesetzt oder macht den Zirkulationsakt G - W durch.
第二段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素の価値よりも大きい価値を持つ商品である。
Zweites Stadium: Produktive
Konsumtion der gekauften Waren durch den Kapitalisten. Er wirkt als
kapitalistischer Warenproduzent; sein Kapital macht den Produktionsprozeß
durch. Das Resultat ist: Ware von mehr Wert als dem ihrer Produktionselemente.
第三段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W−Gを通過する。
Drittes Stadium: Der
Kapitalist kehrt zum Markt zurück als Verkäufer; seine Ware wird in Geld
umgesetzt oder macht den Zirkulationsakt W - G durch.
そこで、貨幣資本の循環を表わす定式は次のようになる。G - W... P... W' - G'。ここで点線は、流通過程が中断されていることを示し、W’とG’は、剰余価値によって増大したWとGとを表わしている。
Die Formel für den
Kreislauf des Geldkapitals ist also:
G - W... P... W' - G', wo
die Punkte andeuten, daß der Zirkulationsprozeß unterbrochen ist, und W' wie G'
ein durch Mehrwert vermehrtes W und G bezeichnen.
第一段階と第三段階は、第一部では、ただ第二段階すなわち資本の生産過程を理解するために必要なかぎりで論究されただけだった。だから、資本が自分の通るいろいろの段階で身につけるところの、そして繰り返される循環の中で身につけたり脱ぎ捨てたりするところの、いろいろな形態は、顧慮されてはいなかった。これからは、これら諸形態がまず第一の研究対象になるのである。
Das erste und dritte Stadium wurden im ersten Buch
nur erörtert, soweit dies nötig für das Verständnis des zweiten Stadiums, den
Produktionsprozeß des Kapitals. Die verschiednen Formen, worin das Kapital in seinen
verschiednen Stadien sich kleidet, und die es bei wiederholtem Kreislauf bald
annimmt, bald abstreift, blieben daher unberücksichtigt. Sie bilden jetzt den
nächsten Gegenstand der Untersuchung.
これらの形態を純粋に把握するためには、さしあたりは、形態転換そのものにも形態形成そのものにも何の関係もない契機をすべて捨象しなければならない。それゆえ、ここでは、商品は損価値どおりに売られるということが想定されるだけではなく、この売りが不変の事情のもとで行われるということも想定されるのである。したがってまた、循環過程で起こることがありうる価値変動も無視されるのである。
Um die Formen rein
aufzufassen, ist zunächst von allen Momenten zu abstrahieren, die mit dem
Formwechsel und der Formbildung als solchen nichts zu tun haben. Daher wird
hier angenommen, nicht nur, daß die Waren zu ihren Werten verkauft werden,
sondern auch, daß dies unter gleichbleibenden Umständen geschieht. Es wird also
auch abgesehn von den Wertveränderungen, die während des Kreislaufsprozesses
eintreten können.
[Marx: Das
Kapital, S. 1638 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4952 (vgl.
MEW Bd. 24, S. 31 ff.)]
[10] マルクスは、資本投下(貨幣資本の投資)は、G=A+Pmとなるとする。すなわち、A=労働力(労賃)に投下する資本部分と生産手段Pmに投下する資本部分とである。しかも、その割合は、けっして恣意的にできるわけではない。投下する産業部門の資本の有機的構成によって、主体的要因(労働力・労働者数)と生産手段(機械・原料その他)とはある一定の技術的比率をなし、またそれに対応してその価値(価格)構成も一定割合となる。
こうした現実の投資の具体的事情を無視して、一般的な「消費性向」を当てはめてしまうことは問題であろう。
[11] プライスは、幾何級数から生ずる数の巨大さによって、簡単に幻惑されてしまった。彼は、再生産と労働との諸条件を顧慮することなく、資本を、自動体として、一つの単なる自己増殖数として見たので(マルサスが人間を、その幾何級数的増加において見たのとまったく同様に)、資本の増大の法則をs=c(1+z)n なる定式において発見したと妄想しえたのである。このsは資本プラス複利の合計、cは前貸資本、zは利子率(100の可除部分で表現されたもの)、n(乗) は過程の行われる年数である。
Price wurde einfach
geblendet durch die Ungeheuerlichkeit der Zahl, die aus geometrischer Progression entsteht. Da er das Kapital,
ohne Rücksicht auf die Bedingungen der Reproduktion und der
Arbeit, als selbsttätigen Automaten betrachtete, als eine bloße,
sich selbst vermehrende Zahl (ganz wie Malthus den
Menschen in seiner geometrischen Progression), konnte er wähnen, das
Gesetz seines Wachstums gefunden zu haben in der Formel s = c (1 + z)n, wo s =
Summe von Kapital + Zinseszins, c = dem vorgeschoßnen Kapital, z = dem Zinsfuß
(in aliquoten Teilen von 100 ausgedrückt) und n die Reihe der Jahre, worin der
Prozeß vorgeht.
[12] 「資本とは、永久に存続しそして増大する価値としてその生得の属性によって―すなわちスコラ哲学者の言う隠れた資質によって―、自己自身を再生産し、そして再生産において自己を増殖する価値である、という観念は、錬金術師たちの空想も遠く及ばないドクター・プライスの奇想天外な思いつきに至らしめた。すなわち、かの、ピットが本気にこれを信じて、国債償却基金に関する彼の諸法律において、彼の財政の支柱となした思いつきである。
“複利を産む貨幣は初めは徐々に増大する。しかし、増大率は絶えず加速されるので、ある期間の後には、想像を絶する速さになる。キリスト生誕の年に5%の複利で貸し出された1ペニーは、今日ではすでに、すべて純金からなる1億5000万個の地球に含まれているよりも、もっと大きな額に増大しているであろう。しかし、単利で貸し出されたとすれば、同じ期間に7シリング4ペンス半にしか、増大しないであろう。今日までわが政府は、第一の道よりも第二の道によって、その財政を改善しようとしてきたのである。”(原注)
(原注)リチャード・プライス『国債問題について公衆に訴える』ロンドン、1772年、19ページ。彼は、幼稚な警句を吐いている。「かねは、単利で借りて、複利で殖やせ」(R・ハミルトン『大ブリテンの国債の発生と発達に関する研究』第2版、エディンバラ、1814年、第三部第1篇「ドクター・プライスの財政観の吟味」133ページ)
これによれば、一般に借金は、私人にとって最も確実な致富手段であるということになるであろう。しかし、たとえば私が100ポンドを年利5%で借りるとすれば、私は年末には5ポンドを支払わなければならない。そして、仮にこの前貸しが一億年間続くとしても、その間私は毎年つねにただ100ポンドだけを貸さねばならず、同様に毎年5ポンドを支払わなければならない。この手続によっては、いつまでたっても、私が100ポンドを借りることによって、105ポンドを貸すようにはならない。
そして、私は何からこの5%を支払えばよいのか?新しい借金によってである。または、私が国家であれば、租税によってである。
しかし、産業資本家が貨幣を借りるとすれば、彼は、仮に利潤を15%とすれば、5%を利子として支払い、5%を費消し(もっとpも、彼の貪欲は彼の収入とともに増しはするが)、5%を資本化せねばならない。したがって、たえず5%の利子を支払うためにも、すでに15%の利潤が前提されている。この仮定が続くとすれば、利潤率は、既述の理由によって(資本の有機的構成の高度化、利潤率の一般的法則としての低下傾向・・・引用者)、たとえば15%から10%に低下する。
しかるに、プライスは、5%の利子が15%の利潤率を前提することを忘れてしまい、そして、この利潤率を資本の蓄積とともに永続させる。彼としては、何も現実の蓄積過程に係わる必要はなく、ただ、複利をもって還流するように、貨幣を貸しさえすればよいのである。貨幣がどうして複利還流を始めるかは、彼にとってはまったくどうでもよい。それはじつに利子付資本の生得の資質だからである。
(マルクス『資本論』第3巻第24章 利子付資本の形態における資本関係の外在化、岩波文庫版(7)、100−101ページ)
Die Vorstellung vom
Kapital als sich selbst reproduzierendem und in der Reproduktion vermehrendem
Wert, kraft seiner eingebornen Eigenschaft als ewig währender und wachsender
Wert - also kraft der verborgnen Qualität der Scholastiker -, hat zu den
fabelhaften Einfällen des Dr. Price geleitet, die bei weitem die Phantasien der
Alchimisten hinter sich lassen; Einfällen, an die Pitt ernsthaft glaubte und
die er in seinen Gesetzen über den sinking fund zu Säulen seiner
Finanzwirtschaft machte.
„Geld, das Zinseszinsen trägt, wächst anfangs
langsam; da aber die Rate des Wachstums sich fortwährend beschleunigt, wird sie
nach einiger Zeit so rasch, daß sie jeder Einbildung spottet. Ein Penny,
ausgeliehen bei der Geburt unsers Erlösers auf Zinseszinsen zu 5%, würde schon
jetzt zu einer größren Summe herangewachsen sein, als enthalten wäre in 150
Millionen Erden, alle von gediegnem Gold. Aber ausgelegt auf einfache Zinsen,
würde er in derselben Zeit nur angewachsen sein auf 7 sh. 4 1/2 d. Bis jetzt
hat unsre Regierung vorgezogen, ihre Finanzen auf diesem letzteren, statt auf
dem ersteren Weg zu verbessern.“81
[Marx: Das Kapital, S. 3302 ff. Digitale
Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 6616 (vgl. MEW Bd. 25, S. 407 ff.)]
原注81
Richard Price, „An Appeal to the Public on the subjeet of the National Debt”,
London 1772, [p. 19]. Er
macht den naiven Witz: „Man muß Geld borgen zu einfachen Zinsen, um es auf
Zinzeszinsen zu vermehren.“ (R. Hamilton, “An Inquiry
into the Rise and Progress of the National Debt of Great Britain”, 2nd ed.,
Edinburgh 1814 [P. 133].)
Darnach wäre Pumpen
überhaupt das sicherste Mittel der Bereicherung auch für Private. Aber wenn ich
z.B. 100 Pfd. St. zu 5% jährlichem Zins aufnehme, habe ich Ende des Jahrs 5
Pfd. St. zu zahlen, und gesetzt, dieser Vorschuß daure 100 Millionen Jahre, so
habe ich in der Zwischenzelt in jedem Jahr immer nur 100 Pfd. St. auszuleihen
und ebenso in jedem Jahre 5 Pfd. St. zu zahlen. Ich komme durch diesen Prozeß
nie dazu, 105 Pfd. St. auszuleihen, dadurch, daß ich 100 Pfd. St. aufnehme.
Und wovon soll ich die 5%
zahlen? Durch neue Anleihen, oder wenn
ich der Staat bin, durch Steuern.
Nimmt aber der
industrielle Kapitalist Geld auf, so hat er bei einem Profit von
sage 15%, 5% zu zahlen als Zins, 5% zu verzehren (obgleich sein Appetit wächst
mit seiner Einnahme) und 5% zu kapitalisieren. Es sind also schon 15% Profit vorausgesetzt, um beständig 5% Zins
zu zahlen. Dauert der Prozeß fort, so fällt die Profitrate aus den schon
entwickelten Gründen, sage von 15% auf 10%.
Aber Price vergißt ganz, daß
der Zins von 5% eine Profitrate von 15% voraussetzt,
und läßt diese mit der Akkumulation des Kapitals fortdauern. Er hat überhaupt
nichts mit dem wirklichen Akkumulationsprozeß zu tun,
sondern nur Geld auszuleihen, damit es mit Zinseszinsen zurückfließe. Wie es
das anfängt, ist ihm ganz gleichgältig, da dies ja die eingeborne Qualität des
zinstragenden Kapitals ist.
[Marx: Das Kapital, S. 4269
ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 7583 (vgl. MEW Bd. 25, S. 0
ff.)]