更新:2006年12月27日
国民投票法案・改悪教育基本法関連の法案・共謀罪法案などへの反対運動を
-憲法擁護・活性化の見地:1月から6月までの通常国会の対決法案-
教育基本法改悪反対関連HP(http:// www.stop-ner.jp/)
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2006年12月19日のミーティングを踏まえて
市大学生・教職員への訴え(ワード版表面・裏面)(html版表面・裏面)
教育基本法改悪に反対する 市大アクション
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―新教育基本法の憲法違反の押し付けに反対する草の根からの運動―
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横浜市大学内集会(2006年12月6日、午後5時半から8時まで)
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東京女子大学の竹内久顕(教育学)です
「教育基本法改定案に反対する大学人有志の訴え」にご賛同ください(転載転送歓迎)
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教育基本法「改正」(改悪)反対の講演会:横浜国大有志の会
講演:中西新太郎・本学教授
11月13日 17:00-19:00
横浜国立大学において。
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わたしたちは教育基本法「改正」反対です!
横浜市立大学学生・教員有志アピール(2006年11月10日)
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歴史学研究会の反対声明(「改正案」の廃案を求める声明)
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(Cf.最近の「教育法学会」歴代会長連名の教育基本法「改正」案への反対声明・2006年8月26日)
-----2006年6月学生・教員有志アピール----
横浜市立大学の学生・教員有志アピール
「教育基本法改正」って?
教育基本法「改正」は正しいのでしょうか?
横浜市大の学生・教員のみなさん!
いま政府・与党は、国会で教育基本法「改正」案を可決させようとしています。そのねらいは、おおまかに分けると以下の四つのことがらです。
① 「愛国心」の押しつけ/心の自由の否定
愛国心を持つかどうか、持つ場合はどのようなかたちで持ったり示したりするかは、個人が自由に判断すべきことであり、人格の自由な発展を掲げる現行の教育基本法は、それを保障しています。
ところが、「改正」案は、どのような愛国心を持つべきかまで政府が強制できるようにするものです。「日の丸」・「君が代」の強制もねらいに含まれます。
法案は、自由な人格の形成を否定し、心の自由を奪おうとしているのです。
② 政府・政治権力による、教育の全面的な支配
現行法においては、政府が教育の内容を支配することを禁止しています。
ところが「改正」案では、どのような価値観を持つべきかすら決めて、現場に強制することを可能とします。
そうなれば、大学も無事ではありません。「改正」案のような法のもとでは、今でも脅かされている学問の自由と大学自治の原則が踏みつぶされるでしょう。
さらに、家庭・地域などを通じて、全面的に教育が統制されることになります。
③ 男女平等原則の否定/さまざまな差別・格差
現行の基本法は男女平等を保障していますが、「改正」案はそれを削除しています。そのほかにもさまざまな面で、教育の機会の平等な保障をやめようとしています。
④ 平和主義の否定/憲法改悪・戦争する国民づくり
現行の基本法は日本国憲法の基本原理、とりわけ平和主義に基づくことをうたっていますが、「改正」案は平和主義原則を切り捨てようとしています。
政府・与党は、憲法9条を変更して、戦争する国家体制を築こうとしています。そのような戦争への道をはばむ教育基本法をまずは変えてしまい、戦争する国民を作り出そうとするのが、この「改正」案のねらいなのです。
こんな法律を作らせていいのでしょうか?
法案に反対を!
わたしたちは、こんな法案は許せないと思っています。
いっしょに法案に反対し、廃案を求めましょう。
まだ間に合う! 声を挙げましょう!
「それでも、与党が決めると言ってるからしょうがない」とあきらめている人もいるかもしれません。
でも、まだ間にあいます。世論の抵抗が強ければ、「改正」法案はストップできます。みんなのパワーで強引な悪法づくりをやめさせましょう。
よくわからないと思う人、だからこそ、
法案採決にストップをかけましょう
上に挙げた問題点については、十分な議論はなされていません。少なくとも、強引に可決せずに、社会全体ではば広くみんなで議論したうえで決めるべきですよね。今急いで採決することには反対しましょう。
連絡してください。
このことに関心を持ったあなた! ぜひ連絡してください。
ほかの学生や教員といっしょに、もっと考えてみませんか?
下記までメールでどうぞ!
教員〔2006年6月19日現在〕: 一楽重雄・上杉忍・乙坂智子・金子文夫・木下芳子・倉持和雄・中西新太郎・永岑三千輝・藤山嘉夫・村田隆一・吉岡直人・山根徹也 問い合わせ先(是非、ご連絡を): yamane@yokohama-cu.ac.jp(山根) |
サイト
教育基本法の改悪を止めよう!全国連絡会議 http://www.kyokiren.net/
図書
高橋哲哉『緊急報告 教育基本法「改正」に抗して—全国各地からの声』(岩波ブックレット)2004年
-----参考資料:上記の教育基本法「改正」反対の論拠とも呼応すると思われる堀尾氏の国会での意見表明(教育基本法「改正」情報センター)-------
堀尾輝久参考人の意見陳述・質疑応答(2006年6月7日)
※以下は、センターが衆議院TVから起こしたものです。正式の議事録とは異なります。( )内はセンターで補充したものです。
堀尾輝久参考人
堀尾です。こういう機会を与えられましたことを光栄にも思いますし、緊張もしております。緊張している1つの理由は、私は法学部を卒業して、法律と政治学をやりまして、その後教育に変わって、そして、専門としては教育哲学、教育学、あるいは子ども青年の発達の問題、そして教育法の問題、国際比較教育学という領域の研究を長年続けてきた者であります。同時に、日本教育学会の会長を2期務め、日本教育法学会の会長も2期務めてまいりました。
私はここに立っているのですけれども、もちろん、今日私個人の意見を申し上げるわけですけれども、同時に、この長年研究してきたその研究の同僚や、あるいは教育に関して言えば現場の先生たちとの交流を通して深めてきた、私の知見を披瀝しなければならないわけです。しかもこの場では大変少数意見である、ようであります。この議論の中でも「一部の教育関係者が」云々という議論がなされています。で私はそういう意味では一部の教育関係者かもしれない。しかし私が研究してきたことはそんなにかたよっているとは決して思っていません。
短い時間ですので、やや僭越ですけれども、『いま教育基本法を読む』という本を岩波から出しております。これは是非、おそらく継続審議になるであろうその期間ゆっくりと読んでいただきたい、というふうに思います。それからもう1つ資料として、日本教育法学会の会長の伊藤先生の見解を皆さんにお示ししました。私自身日本教育法学会の会長を2期務め、その間に、教育基本法改正問題が本当に、改正論議ではなくて法案作成という方向で動くなかで、危機意識を持って、教育基本法研究特別委員会というのを学会に設置されました。その研究成果は、これはこれでまとまっております。もしまだ先生方のお手元に無いとすれば、これは政府案の批判を中心に各条、細かな批判をしております。是非ご覧頂きたいと思います。お示しいたしました会長談話は、特別研究委員会の成果を踏まえ、さらに会長の見解を表現したということであります。
そいうわけで、私が緊張しているという意味は、この研究者仲間の考え方がどこまで正確に伝えられるか、あるいは現場の先生方の願いがどこまで伝えられるかということで緊張しているということでございます。
この国会を通して、皆様方、教育とは何かという議論を深くされました。非常に通俗的なあるいは常識的な議論から、非常に深い教育の本質論を含めてのご議論がありました。私も丁寧にこの国会の議事録を、手に入る限り、読ませていただいております。それだけに、この国会で皆様方が教育の問題についてこれだけ多面的に議論をされているということには本当に敬意を表しています。同時にその意見が多様であるということ、それこそが大事なんではないかと思っております。それに重ねて、なぜこういう教育に関する議論が、もっと日常的にみんなのものに広がっていかないのか、ということを残念にも思いました。たまたま教育基本法の改正という、そのことをめぐってこういう議論がなされている。そのことは逆に言うと、不幸なことだと思っております。
国会で議論されている教育の本質をめぐる問題は、それはそのまま教育基本法改正問題という形で連動するものではないわけです。それこそ各党派を超えて、教育の本質、そこには国がやるべきことなんだという言い方から、教育には押し付けが必要なんだといい方から、そうではなくて教育の基本は一人一人の人間を育てることだ、人間を人間として育てることが機軸にならなければならない、個人の尊厳を重んじ、お互いに大事にしあうという人間が実は国を作っていく、平和的な民主的な社会と国家の形成者になっていく、その国民が同時に、現在、私は地球時代と捉えているのですが、その地球時代を担っていく、新しい世界市民的な感覚を持った、国際人を育てていく、そういう議論を私はしているわけです。それに近い議論も国会の中でありました。考え方はどこを軸にしていくのか。今日は見城さんのお話にもありましたけど教育は基本である、その冒頭に教育は国の仕事であるとかかれてありました、そのあとで愛国心の部分で議論されたことは私はまったく同感だと思いました。それぞれの意見の中にも矛盾を含みながらも大事なことを言っている。誰の意見が正しいということではないんですね。
その際、私は戦後の教育のとらえ方、なぜ教育基本法の改正が必要なのかという根拠については理解ができません。たとえば今日も青年会議所の方が「敗戦トラウマ」という言葉を使われました。これはこの国会で先般町村さんが「戦後後遺症」という言葉を使われました。果たしてそうなんでしょうか。私は振り返ってあの戦後、まさに敗戦、占領下の中で私たちの先人がどういう思いで新しい人間を育て、新しい国を作ろうとしたか、その思いが教育刷新委員会の議論、それを通して教育基本法を作っていったということであります。その中心になったたとえば田中耕太郎、あるいは南原繁、あるいは安部能成、務台理作、そういった人たちは、本当に人間を思い、国を思った人たちです。
南原さんについて一言申しますと、南原さんは『祖国を興すもの』という本を書かれています。それから新しい日本の文化を作るんだという講演を東大の総長になったときに行っています。同時にその講演も1946年の2月11日、当時の紀元節です、紀元節にあえて新しい国を興すという、そしてその日、東大には日の丸をたてたのです。私は戦後改革を担った人たちというのは、そういう意味で本当の愛国者だと思っています。敗戦後遺症という形で、我々の先輩をとらえていいのだろうか。
占領軍の押し付けによって作られた、そんなことはないんです。もちろん占領下です。ステアリングコミッティを通していろんなアドバイスもあったかもしれません。すくなくともお互いに情報を伝え合っていたことは事実です。しかし教育基本法の作成は、本当に私たちの先人たちが、過去の反省を踏まえて、新しい人間を作る、その人間を軸にして新しい国を作るんだ、その際、中心になるのは一人一人の人間の尊厳、そして真理と平和を希求する人間、これを作るんだ、これが教育基本法の精神です。それが新しい世界を開いていく、決して平和は一国の平和主義ではないんです。日本の理念を、新しい理念を国際的に広げようとする、そういう責任の自覚、使命の自覚を通して、憲法を作り、教育基本法を作ったのです。
わたくしは、勝手なことを言っているんではありません。わたくしは研究者です(から)。戦後改革がどういうものであったのか、については実はこういう本があるんです。これは、東京大学の出版で戦後教育改革のシリーズで、全10巻です。スタンフォード大学との共同で始まった仕事です。そして、わたくしはこの巻、このシリーズで、教育の理念の成立過程、つまり憲法の成立過程と教育基本法の成立過程を丹念に調べた本を書いています。それから10条に関しては、この教育行政の巻で、残念ながら昨年亡くなりましたけれども、鈴木英一さんが、非常に丁寧な仕事をしています。そういう仕事を通して(きたのだから)わたくしたちは「戦後敗戦後遺症」などとは決して違うのです。(それは)新しい思いを、新しい理想うちに秘めながら、次の世代をどう育てるかということということで教育基本法を作ったわけであります。
その歴史というものは、ですから非常に大事なわけで、この本でも「歴史」「争点」、そして「再発見」という言葉を使っています。
わたくしたちが基本法、憲法の精神を本当に現実に生かすというのは、それは法の条文を守るということではない。その精神をどういう風に具体的に自分たちのものにしていくのか、そしてさらにそれ発展させることができるのか、教育現場のなかで、そして一人一人の未来を担う子供たちに、この精神をどういう風にいかしていけばいいのか。そういう方向で教育を考えてきた一人であります。
しかし、ご存知のように教育基本法も憲法も、自民党は結党以来これを改正するのが当然であるということを言い続けてきたわけですね。そうして、ようやくこの21世紀、新しい時代に入ったのだから、ということで今度はそれを強調しながら教育基本法の改正を急いでいるわけであります。が、わたくしに言わせれば、改正の根拠というものがぜんぜんわからない。
これは国会の議論を通してもそうです。たとえば今日の議論が、参考人の議論が、そのままなぜ教育基本法の改正につながるのか。わたくしは教育というのはいろんな人がいろんが議論をするのが大事なんであって、それを法律でしばり、一つの方向付けを国がやるということは、非常な越権である。実はそのことは戦後改革のときに実に丁寧に議論されているわけです。みなさんにも配られているこの第92帝国議会の議論のなかで(は)、なんでも法律にしたらいいということではないだろうと、本当にくりかえし強調されていますよね。佐々木惣一さん、澤田牛麿さん。澤田牛麿の意見など「この法案は、説法ではないか。」つまり、教育基本法のことですよ。「そもそも法律で書いていいことと悪いことがあるんだ」ということを非常に強調している。
教育の目的なんていうことを法律で決めるということわたくしは無理だと思う。金森国務大臣は「法律で決めてしかるべき範囲とそうでないものの範囲にはおのずから分野があるものと存じます」というふいに言われている。しかし、なぜ教育基本法を作ったのか。それはその戦前の教育、そのとき支配的であった教育のありかたというものが、あまりに、戦前の教育勅語を軸にしたいわゆる「教育」、国家主義と軍国主義に支配された教育であった(ため、)それをどう克服するかというそういう現実の課題のなかで教育目的についても規定せざるをえなかった、という対応をしています。
さらにそのことは当時の文部大臣であった田中耕太郎さんが、その後は最高裁長官になるわけですけれども、1952年の1月に出されました『ジュリスト』、『ジュリスト』の創刊号です、そのなかに教育基本法第一条について、教育の目的を規定することがいいことか悪いことか、いう議論をなさっています。この文献などわたくしは、非常に大事だというふうに思います。「なにも規定しなければアナーキーがくるだろう。しかし、反対に、もし、法が教育の隅々まで規定するようになれば、教育はその溌剌たる生命を失い、死物化してしまう」。死んでしまう、そういうことをことが免れないと。
教育の固有の領域というものは、法になじまない領域もあるんだ。皆さんが議論するのは当然なんです。私は皆が議論をして、国民の教育についての合意の水準を高める。これが教育のあり方(だと思います)。そして、その教育を担うのは現場の教師であり、もちろん、父母であり、地域の住民であり、教育行政もそれに関わるという、ことになるわけですけれども、それぞれがどういう仕事をするのかということを丁寧に腑分けしながら、教育の自立性、自由というものを軸にした教育のシステムをつくらなければいけない。自由民主党というならば、実はその教育の自由の領域をこそを守る、これが、自由民主党のあるべき主張であるはずだ、というふうに思います。
しかしその点に関しては、今度の教育基本法の改正(案)は、まさに、国が教育に口出しをする、口出しではなくて統制する、そういう方向で書かれている。その最たるものが、2条を新しく新設したことです。教育の目標。さらに、10条を大きく変えて、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を負」うという規定を大きく変え、教育は法律に従って行われるものだ、という書き方をしている。私は現行法の10条の構造、これは非常に大事なんであって、10条は教育行政の条項なんですけれども、その第1項は先ず「教育は」という主語で始まっている。第2項に「教育行政は」この教育の目的を実現するために必要な条件を整備するんだ、という書き方になっているわけです。その構造、つまり教育と教育行政の区別という、そういう観点がまったく無くなってしまったのが、今度の法改正案だ、というふうに思います。ここのところは、政府案も、民主党案も非常に問題を持っていると私は思っています。丁寧に10条の立法の精神、そして10条の構造、不当な支配とは何なのか(を検討すべきです)。
「不当な支配」ということに関しても、この国会でも随分と議論になりました。小阪文部大臣は学テ最高裁判決を引きました。しかし重大な解釈上の間違いがあるというふうに私は思っています。文科省、文部省はこれまでも繰り返し、国が教育内容に関与する、これは学テ最高裁判決によって、判決によって確定しているという言い方をされている。しかしこの読み方が、実にいい加減で、都合の良い所を読んでいる。時間が無いので丁寧に紹介するわけにはなりせんけれども、そういう問題を含んでいるわけですね。
そして法というものがどこまで関与して良いかと言うのは、それこそ基本法が成立するときに、教育目的まで本当に書くのかという議論を含み(ます。)そして、田中耕太郎さんのご紹介した論文では、あれは日本の「変態的」という言葉を使って(説明して)います、非常に変則的なんだ。いうなれば、近代国家はそういう人間の内面的な領域には、国が関与しないというのが、近代原則なんです。(委員長より時間を超えていることを告げる発言)
後で時間があれば補足したいと思いますけれども、法と教育の関係が非常に大事だということ、なんでも法で決めれば良いというんじゃない。なんでも法で決めれば本当に現場でどうなるかということを、本当に考えていただきたいと思います。
※以下は、センターが衆議院TVから起こしたものです。正式の議事録とは異なります。( )内はセンターで補充したものです。
田中和徳委員(自民)
「定時制・通信制の充実は欠かせないと考えるがどうか。」「全日制への全入という意見もあるが、どうか。」
堀尾参考人
田中さんと呼ばせてください。田中さんが定時制の問題、通信制の問題に非常に深く、貢献されていると言うことに、私は敬意を表しています。今、格差社会ということが言われています。ますます格差が広がるであろう。それは教育の格差ということで言えば、例えば高校に関しても、いわゆる中退者が増えている。中退者の中にはもう学校についていけない、不適応だという青年もいますけれども、経済的な理由から中退せざるを得ない、こういう青年たちも増えているわけです。そういう人たちの救いの場というのは、定時制の場、私は特に定時制のことを中心にお答えしたいと思うんですけれども。
不登校の青年たちも、あらためて定時制に行くことで、そこで救われるという、そういう人たちもいます。それは定時制には教育があるからなんですね。つまりテストで、競争で、人を評価するという、そういう教育では無い、本当に傷ついた青年たちを大事にしよう。あるいは経済的に貧しい、そういう負担を負っている青年もがんばっている、それを支えようという、その空間が定時制なんですね。山田洋次さんが、『学校』というシリーズの映画の中で定時制を特に取り上げた映画もつくっています。非常に、感動的なものです。そういう視点で言うと、夜間中学校の問題も同じような、初めてそこで救われたという、そこに教育があるからなんですね。そこに教育があるからだといったことと、今、つまり今現実に競争、競争、評価、評価ということで縛られているところに本当に教育があるのかという問題とを対比させて考える必要がある。
私は今の教育政策の進行の中で、実は学校から自由が逃げていく、教育から人間が消えていくという、そういう状況が広がっている、というふうに思っているんです。これは教育基本法の精神が生かされていないからだと思っています。そういう視点で言うと、定時制はまさにこの精神が生きているところだと私は思っています。
東京都の政策ではこの定時制を減らすという方向で動いています。こういう問題に対して、ジュネーブの子どもの権利委員会は、ご存知だと思いますけれども、政府の報告に対して、NGOの報告書も精査しながら、勧告を出しています。その中で昨年出された国連子どもの権利委員会は、東京都の定時制問題について非常に厳しい指摘もしているんです。もっと大事にすべきだという。この点も是非田中さんには見ていただ(きたい)。子どもの権利委員会は何を言っているのか。日本の競争的な教育システムが人間をダメにしている。そういう視点を含んでの指摘なんですね。私は教育基本法の解釈の場合にも、国際的な条理の展開、それとあわせながら、教育基本法の精神をより豊かにする。そのときには子どもの権利条約だけではありません。その他の条約あるいは学習権宣言、これは民主党の方には非常に興味深いところだと思いますけれども、そういうものも参考にしながら教育基本法の精神を豊かにするという方向で考える場合に、田中さんのやっているお仕事と言うのは非常に(重要なので)、敬意を表しています。
池坊保子委員(公明)
「全面改正を望んでいる私は、教育基本法がいけないと、教育基本法がいけないから、教育現場が荒廃した、と言っている人はだれもいないんです。人格の完成も、個人の尊厳も、良いのだと。でも21世紀にふさわしい付け加えるべきことが、沢山あるのではないか。それを付け加えて、より積極的に、前向きに良い方向に教育を、持っていこうというのが、私たちの考えでございますが、そういうお考えでも反対ですか。」
堀尾参考人
現在の教育が病んでいるということは誰しもが認めることですよね。子どもを持っている親でもそうですし、現場にいる教師もこれで良いのかと考えている。子ども自身も悲鳴を上げている。それを私は先ほど、学校から自由が逃げている、教育から人間が消えていくという一言で表現しました。そういう状況がある。そういう表現に同意していただけるかどうかが、次の問題になると思う。
教育が病んでいる、だから教育基本法を変えなければいけないといった人は誰もいない、と今おっしゃいました。本当にそうだったら、私は大変良いと思います。だけども何人もの方が、そうおっしゃっているんじゃないでしょうか。それは中教審のあるいはその前の教育改革国民会議、そしてその周辺の議論を含めて私はそうだと思います。にもかかわらずこの議会で、教育基本法を変える理由として、今の教育は病んでいる、だから教育基本法を変えなければいけない、というふうに直裁に行った責任者はいないと思います。だからそこんところをどう考えるのか。一般の人たちに伝わっているのは、とにかく教育基本法を変えれば、教育の病理がおさまるんだと受け止めている。教育基本法を変えなければいけないのではないか、という世論もつくられている。というふうに私は思います。それは問題なんじゃないか。病んでいるのはどこなのか、ということを本気に問わなければならないと私は思っています。
むしろ、憲法や教育基本法の精神が、現場に本当に生きていない、そしてその精神を豊かに発展させていく、させようという実践の自由というものが、むしろ制約されている。場合によっては、それは不適格教師だという形で、学校から排除される。そういう問題を含んでむしろ、教育が病んできているんではないか、というふうに私は思います。
教師の重要性と言うことも先ほど語られましたけれども、教師は本当に自分の責任を深く自覚する中で、子どもの人間的成長発達を助ける大事な仕事だ、そのためには、不断の研究が必要だ(と思います)。それは教育の内容についても、子どもの発達についても(です)。父母の要求についても、誠実に耳を傾けながら最終的にどういう授業をやるのかという、その実践の責任というものは教師が持っている。だからこそそれは、崇高な使命とも言える。しかし今度の改正案の中では、教師は崇高な使命をもっているという言葉はあるけれども、今の教育基本法にはなく付け加えられた。ではそういう教師がやる教師とは何なのか。法律に従えば、法律に従わなければならないんだ、そういう書き方になっている。つまり教師が法律に従わなければいけないという意識だけで教育実践をやる。それが何で崇高な使命なんでしょうか。私にはとても考えられない。その法律の限界というものをどこまで自覚するか。私が冒頭で十分には言っていません。この機会に法律が関与して良いところと、そうではないところ、関与してはならない領域があるということを、しっかりと共有の認識にする必要があるというふうに強く思っています。
糸川正晃(国民)
<国家とは何か>
堀尾参考人
どういうコンテキストでお答えしたら良いのかがよくわからないということがあります。といいますのは私は法学部の政治学科を卒業しているんですけれども、学生時代、国家とは何か、というのが学生たちを含んでの、講義での中心的なテーマでした。法哲学では、国法学というものを尾高先生に学びました。そういう視点からしますと、国家とは何かという問題を短い時間で、お前どう考えるのかといわれても、困っちゃう。先ほど、中島さんはヘイズの言葉を引きました。それに加えて国家論と言うのは膨大なものがあるわけですね。それこそ一方では、階級支配の国家論もあれば、多元的国家論もあれば。
この原案に即して言えば、教育目的のところで、愛国心云々のところで国家が問題となっているわけですね。そこでは統治機構では無いという了解が得られている。もし自分が生まれた郷土、そして国を愛する。これは誰しも否定する必要の無いことですよ。誰も否定しないと思います。よっぽど型破りな人がいるかもしれない。しかしその人はまたその人で自由は(ある)。それはけしからんという必要は無い。しかし多くの人は自分の郷土を愛し、国を愛する当たり前じゃないか、という思いを持っていると思います。他方で今度の法案で、10条(を)改正した16条には、国という言葉が出てきます。では16条の国と、前文や1条で言っていた国とはどこでどういうふうに関係するのか。さらに17条には政府が出てきます。国と政府と、統治機構ではない国、そういうものが今度の法案のなかにはそれこそ含まれているわけですね。平明な気持ちでこれを学ぼうとした場合、これどういうことなの、と言うことになると思います。
16条、17条に書かれている国というのは明らかに統治機構であります。そして、国はあるコンテキストで言えば被告にもなるんです。家永三郎さんが国を相手に訴訟を起こしました。教科書(裁判)で。そのときの被告は国なんです。国を代表するのは文部大臣なんです。そういう構造で国というものが現実の関係の中であるわけです。国を愛するのかどうかということ、国をどう思うのかと言うのは、本当に、へたをするとお前はそういうことを言っているから愛国者ではないみたいな議論(になりますし)、これが議論されることは、私は危険だし、問題だと思っています。
糸川
<現行法が長年にわたって、教育、社会において果たしている役割について。>
堀尾参考人
今の質問もなかなか難しい問題です。つまり、現実に教育基本法がどういう役割を果たしたのかということになるわけですから。私は、現場の教師たちとのつきあいも多いんですけれども、本当に憲法や教育基本法の精神を大事にする、それは法律にあるからではなくて、教育というものが本来こういうものだという、つまり教育の条理に響きあう教育基本法というふうに捉えて、そしてその条理をさらに豊かに展開するという仕方で現場には生きていることは相当にあります。学校のメインのビルディングにはいるところに教育基本法を大きく掲げているような学校もあります。そういうところでは、生徒たちの意見を聞き、あるいは最近では三者協議会という形で父母、そして子ども、教師たちが一緒に、議論をするという、そういう場も作られています。私は教育基本法の精神だと思っています。
他方でしかし、教育基本法は改正すべきだという意見、これは、もうそれこそ自民党結党以来50年続いているわけですよね。それが現場に、教育行政を通して、いろいろと浸透してきています。東京都などでは早々と、それまで教育委員会のやるべき仕事として憲法、教育基本法の精神に即して、という文章を削除する。子どもの権利条約の精神を大事にというものも削除する仕方で、今やられているのはまさに統制的な教育行政なんです。そこでは教育基本法は生きていないんです。生きていないところで教育は混乱しているというふうに私は見ています。
大畠章宏(民主)
<教育勅語、教育基本法の成立過程に関する説明><中教審が二年間にわたって、公聴会を5回もやり2年間すべての審議を公開しながらやってきた。与党協議会による協議は少数で密室で行なわれてきた。その間の論議が与党の議員に知らされていない。中身が公になっていない。歴史に禍根を残すのではないか。>
堀尾参考人
ご質問の中で教育勅語の成立の問題、そして教育基本法の成立の過程。歴史の問題があったと思います。これを答えていると大変なんですけれども、私は、近代教育思想史に関する大きな本を1冊書いています。教育勅語の成立についても書いていますし、教育基本法の成立に関してはこういう本(戦後教育改革のシリーズの1冊を取り上げる)を書いています。
そういう立場から言いますと、教育勅語に関しましてはご指摘のように、あれは天皇の言葉と言うことになってはいるけれども、つくられたわけですよね。誰が作ったのか。元田、中村正直、井上毅、そして山縣も最後に関係しています。そういう人が文章を作って、それを天皇の勅語にしたということですね。もう1つ言っておきたいことは、井上毅の考え方と言うのは非常に面白いと思ったのですけれども、これを法律にするかどうかという議論をやっているんですね。しかし人間の道徳に関わる問題を議会で決めるべきものではない、と。ここまでは、私が冒頭に説明したことと同じなんですね。法の限界ということが。そこで日本には天皇がいる、天皇は、政党からも中立である。で天皇の言葉として勅語を出した。こういうことでもあるんですね。勅語に求めたというその思いは、非常に評価できる。しかし実は間違った求め方をした、というふうに思うんですね。
法が入るべきでないという領域というものは、人間一人一人が国民一人一人が自分たちで、豊かに考えていこうという、これが教育の領域の問題、あるいは、文化の問題、学問の問題ですね。そういうところに国は口出ししてはいけない。だから戦前は勅語にあったわけです。戦後は、国民主権、一人一人を大事にする、そして教育は人権である、そういう考え方で自由な領域というものを法は保障しなくてはならない、という形で教育基本法が作られた。ですから、つくられるときに、冒頭でも少し紹介しましたように、非常に抑制の原理というものを持っていたわけです。そこまで書くのかという思いを持ちながら、しかし日本の歴史を考えてみるとここまでは書かざるを得ない。しかしこれ以上書くような方向で改正してはならないぞ、というのが田中耕太郎の意見でもあったわけですよね。
その制定過程(に関連すること)で(大畠さんは)GHQのことを言われました。確かに占領下(ではあった)。(しかし)そのなかでいかに私たちの先輩たちが、独立の精神で、自分たちの思いをつくったのか。これは非常にはっきりしているんです。
この国会でも何かGHQの強制があったかのような、強制という言葉ではなくて、その枠の中で、非常にかたよったものだという言い方がありますけれども、例えば1つご紹介します。アメリカ使節団がやってきたとき、阿部能成が日本の文部大臣でもあったわけですけれども、彼はこういう挨拶をしているんですね。日本がこれまで植民地国で、日本の教育を押し付けてきた。これは間違いである。アメリカから専門家が来たのだけれども、そういうことをやらないで欲しい。そういう挨拶をしているんです。これは非常に立派な挨拶だったと思います。
先ほど南原さんのことで少し紹介しましたけれども、南原さんが家永裁判の第1回の証人をやっています。そのときの証言の最後に、教育基本法の成立について、これは外から占領軍が押し付けたのだろうという反対尋問をされています。それに対して南原さんは、教育刷新委員会の委員長として、毅然としてこういうふうに言われました。「我々の委員会はそんなケチな委員会ではない。このメンバーを見たまえ。」これでこの証言は終わっているんです。これは私はすごいものだと思っています。実際にその(日本と教育使節団との)関係がどうだったのか。アメリカの使節団それ自体が、私たちは日本の教育をこれまで抑圧してきたものを取り除くために、やって来たんだと。抑圧するため、枠をはめるために来たのでは無いということを、これは非常にはっきりとしている。アメリカ教育使節団の良識であったと、いうふうに私は思っています。
石井郁子(共産)
<政府案16条において教育と教育行政が区別されていないのは重大な問題。教育を法律で縛るのかという問題がある。教育は人間的で文化的な営み。人間の内面形成を法律で縛ることができるのか。人間の自由な活動を法律で縛るのは憲法に反すると思うが、意見を聞きたい。>
堀尾参考人
教育を法律で縛るということが、どういうことかという質問でもございます。これは改正法案第16条に関わる問題であります。
この私の証言のひとつのポイントは、そもそも教育基本法にしても、どこまで教育の目的や理念を書けるのかということを非常に慎重に、抑制しながらつくったんだ、ということ。
近代法というのは本来、そういうことをしてはならないんだという原則が確立もしている。この点に関して言えば、フランスのコンドルセの思想。例えばコンドルセは、「政府はどこに真理が存し、どこに誤謬があるかを決定する権利を持たない。政府によって与えられる偏見は真の暴政である。」ということを言っている。コンドルセの意見というのは近代教育の思想の中でも非常に大事な民主主義的な教育の思想家として、みんな評価しているものなんですね。(コンドルセは)フランス革命期の(思想家で)、ジャコバンに殺される。あるいは、ドイツのフンボルトは、「国家活動の限界規制に関する考察」の中で公権力からの教育の自律性を主張しています。あるいはフランスの法哲学者のデュギー、彼は、国家は学説をもたない。あるいはイエリネック、皆さんは、法律を勉強された方が多いと思います。私が上げた方はみんな偉大な法学者です。イエリネックは「市民国家というものは、人間の内面性に属するものは何者も生産しない。」こういうことを言っているんですよね。これが近代の法であり、そして法が介入してはならない人間の内面的な領域、これが確立しているわけです。
戦後の改革期、法学者たちは当然こういう流れについても承知している。だから、教育基本法でどこまで書けるのかという議論を真剣にし、あの歴史的状況の中で、例外的に、変則的ではあるけれども抑制的に、教育の目的も書いたということになるわけです。
ところが今度の改正案では2条という新しい条項を作って、教育の目標という項目を作った。これ自体が大問題なんです。愛国心がどうだという以前に、法と教育の問題ということで、そんなもんを作る必要があるのか。しかもそれは学習指導要領に規定されているものをそのまま持ち込む。そいうことでもあるわけで、現に行われていることを基本法に持ち込むことによって一層統制力を強める。学習指導要領の場合にはまだ、その法的拘束力をめぐっても、最高裁判決の解釈として、解釈が分かれているわけですね。
この点私は是非言っておきたいわけですけれども、小阪文科大臣、ここには残念ながらいないようですけれども、私は直接質問もしたいわけですけれども、この法案の提出と関わって、「昭和51年の最高裁判決におきまして法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為は不当な支配とはなり得ない。」こういうふうに引いているわけです。でもこれは非常に重大な問題を含んでいるわけです。この最高裁判決を丁寧に読んでいない。小坂さん自身、そこを衝かれて、これは志位さんが質問をしましたけれども、私はそこままだ読んでいません、というそういう回答もしましたよね。どこが問題かと言うと、文部省が引いているところは実は、判決によりますと「憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為がここに言う不当な支配足り得ないことは明らかである。」つまり「憲法に適合する有効な他の法律」という言葉が書いてあるわけです。それが引用のときには、「法律」以下が引用される。そして文部省はこれまで繰り返し、これをやってきたんですね。つまり、判決によって確定した。そのことは教育研究者として非常に問題としてきた。どうしてそういう判決の読み方ができるんか、と思っていたら、今度の国会で、非常に明快にそういう読み方をしているということがわかったわけです。これは明らかに判決の読み違いである、と私は教育法学研究者として文科省の人たちに是非言っておきたい。
その問題は10条改正問題になっているわけですね。それが16条になる。先ほどちょっと申し上げましたけれども、教育と教育行政というものをカテゴリーとして区別しながら教育は、こういうものでなければならない、自立性が保障されていなければならない。法によれば何でも良いということとは違うんです。そして行政はそれを本当にサポートするという重大な責任を持っているということで10条はできるわけです。
今度の改正案の16条、17条というのは非常におかしな改正になっている。私はそこは、非常に重大な問題を含んでいると思います。さらに17条の教育の基本計画のところでは、政府が計画をつくり実行し、それを国会に報告すれば良いと言うことになっている。そうすると政府にフリーハンドを与えることにならないか。しかも、基本法がそれを許している、それも基本法を根拠法としながら政府のフリーハンドを許す。そうすると政府が変わったら教育自体が大きく動くではないか。教育の安定性と言うのは非常に大事なわけです。だから、教育の自律的な領域というのが保障されなければならない。そしてそこには、衆知を集めて議論をし、本当に子どもたちを育てていくという、その仕事ができやすくするために法律というものがあり、政治というものがあるんだというふうに、私は基本的に考えております。17条に関してもっと言えば、競争と選抜をますます強めることになるんだろうと思っています。
保坂展人(社民)
<教基法制定者の精神について、敷衍して欲しい>
堀尾参考人
作った人たちの精神は何であったのか。南原さんは、教育刷新委員会の委員長でもありましたけれども、東大の戦後初代の総長でもあります。南原さんの書いた本、『祖国を興す者』という本がございます。それから『新日本文化の創造』というものがあります。これは、敗戦の翌年ですね、東大の総長として、そして教育刷新委員会の代表として、果たされたその人たちの思いというものを私たちは汲まなければならないだろう、というふうに思っています。本当に国を興すという、新しい国をつくろうではないか。そして彼は日の丸も掲げた。彼は天皇制に関しても、天皇制を守るという意識を持っていたわけですけれどもそれは、新しい天皇制である。国民主権という憲法の下で、我々の天皇制というものを選んで創っていくんだ、そういう思いでこの天皇制も思いをかけたわけですね。
それぞれ思いの違いはありましょうけれども、おおむね戦後新しい国を作るんだ、もう戦争をしてはいけない、そして、新しい本当に一人一人を大事にする教育、そして文化をつくろうではないか。そして世界に誇るべき国をつくろうではないか。これが戦後の改革者たちの基本的な思いだったと思っています。
保坂
<教育勅語と教育基本法の関係について>「ご本では、教育勅語の効力がまだ続いているという意見が強かった。田中耕太郎文部大臣もそうであった。他方で、羽仁五郎氏は、『内容的に一点の瑕疵や誤りはなくても、専制君主の命令で国民に強制をしたというところで間違いがあった』と。こういった意見の対立があった(と紹介している)。」その後衆参両院で失効・排除に関する決議がなされた。その数年の間に何があったのか。
堀尾参考人
48年の国会での決議、これがあたかも、GHQからの指示があったかのようなごとき発言がこの(特別委員会の)中でもあります。しかし、それは私は間違いだと思います。
なぜなら皆さんお持ちのこの資料を見れば、まさに、基本法を成立させるその国会で、教育勅語と基本法の関係はどうなのか、というふうに質問されて、高橋文部大臣が、憲法と抵触する部分は効力を失う。教育基本法と抵触する部分は効力を失う。従ってこれは政治的なあるいは法的な効力を持つ部分というのは否定されたんだ。しかし、そこの中に盛られている道徳訓は、モーゼの十戒と同じように今も生きているんだと。そういう言い方をしているんです。これは高橋文部大臣。基本法の成立するその国会でです。
48年の国会での、衆議院と参議院での決議ですね、6月19日の。このときに、確かにGHQからの何かの申し入れがあったかもしれません。しかし基本的にこの基本法が成立するときに、この高橋文相の説明、同じことを田中耕太郎文部大臣も言っていたわけですけれども、そういう形でけりがついているんです。「生きている」ということを田中耕太郎が言ったことも確かですけれども、それは法的なものとして生きているわけではない。
法的というのは勅語は戦前では法的効力も持ったわけです。つまりいろんな学校関係の規則などに教育勅語の精神に基づいて、という形で、つまり法規の中に書かれることによって法律的な効力を持ったわけですね。だからそういう効力は持たないと。道徳訓として、という言い方をしたわけです。ですから、これをけしからんというのかという問題とはぜんぜん違うのですね。そういう仕方で既に決着がついていたわけです。
国会での議決に関しては、私が皆さんに差し上げた本のなで、220頁に私はあえて参議院の決議を引用しました。同じ日に衆議院でも決議がなされるわけですけれども、これは教育勅語の排除の決議。戦後改革のプロセスを見ると参議院の方が、冷静に法的にきちんとした扱いをしている。憲法教育基本法が成立したところでこれは効力を失っているんだということを書いている。そしてそれを提起したのは田中耕太郎である。参議院の文教部長として。これは非常に大事なわけで、これをGHQが指示したからこれをやったというのは非常に間違いであると私は思っています。
保坂
<日本教育法学会会長声明の第2点目において、法案2条について、態度を通して徳目を内面化させる仕組みであるとの批判がなされていることを取り上げて>「徳目を法律で掲げることにどういった問題点があるのか」
堀尾参考人
それは先ほど石井さんの質問にかなり答えたことですけれども、国家が、政府が、人間の内面に関与する、介入するということは抑制すべきである、というのが原理なんですね。ですから道徳律を法律に書くということは非常に問題がある。
これは私が差し上げました小さな文章の中でも小林直樹先生の文章も引いておきました。田中耕太郎が書いたのは52年の1月、ジュリストの創刊のとき(でした。そこで)日本の法律の有りかたとしても書きすぎているんだという自戒の念(を表明している)。そして法律と教育の関係というものを捉える学問もまだ成立していない。そこをやる学問が必要だということも言っている。最後のところに言われているんです。それが教育法学なんですね。
教育法学会というのは、憲法学、行政学、教育法学それに重ねて、教育学の人たちが参加して、学会が作られているんです。まさに、法律と教育の狭間になっているものを、どういうふうに考えたら良いのか。法の限界をどう意識するのかということを含めて(研究をしている。)
逆に言うと、今度の改正案では16条に法律、法律と書いていますけれども、法の中には実は慣習法もあれば、条理法があるわけですね。法源として条理というものが非常に大事なんで、特に教育法に関しては条理が大切だ。条理というのは別に法律に書いてあるもんじゃない。それこそ人間の英知、子どもを育て、人間として育てるその実践の積み上げの中で、そして国家と教育との関係、政治と教育の緊張の中で、言うなれば創りあげられてきた条理というものがある。条理というのは事柄の本質、条理法というのは事柄の本質に即した法と言う意味なんですね。教育という事柄に即してはどうなのか。それが条理法なんです。
今度の16条はまったくそういった条理法的な領域があることを無視した。法律に書けば良い。さらに、政令だって良い。例えば東京都の10・23の通達、これも法律でしょ。そういう形で法律に従う教育が本当に豊かな教育を作り出すことになるかどうか。16条、17条問題というのは非常に問題だ。2条をつくったことと重ねて問題だと思っています。