ホロコーストとその記憶
第3回 深める:ホロコーストはなぜ起きたのか?
論争点の幾つかを素材に理解を正確にしていく
ーーー二つの論点をてがかりにーーー
①ホロコーストは、いつからはじまったか?
ホロコーストとは何か?、なぜ? どこで? どのように?
論争点:論争書
菅野賢治『「命のヴィザ」言説の虚構――リトアニアのユダヤ難民に何があったのか?』(共和国、2021年)・・・表紙目次
リトアニアの位置:参考地図1939‐1941
・・・・書評用抜粋メモ:史実と言説の乖離点11
私の菅野著への書評原稿Pdf:
菅野説・・・・杉原夫妻はじめ、おおくの「命のヴィザ」に関連する言説が、幾つもの事実誤認・記憶違いなどに基づく虚構だ、という。
一例:
第二次大戦中、ナチスの<ホロコースト>からユダヤ難民を救うために発給された、「命のヴィザ」・・・という言説。
論争点のひとつ:杉原が「命のヴィザ」を発行したのはいつか?
答え:1940年7月―8月。
菅野が問題だとする点・・・1940年7月から8月には、
ホロコースト(ユダヤ人大量殺)など、始まっておらず、
はじまってもいないホロコーストから救うため、などというのは、
戦後わかった認識をもとにして、勝手に過去の事実を捻じ曲げたものだ、と。
そもそも、杉原千畝は、何を仕事としていたのか?
着任は?
離任は?
1939年8月23日独ソ不可侵条約の秘密協定ででリトアニアを含むバルト三国・・・ソ連勢力圏に。
1939年10月3日、スターリンはリトアニア代表団にこの協定を通告。
1940年6月14〜15日、リトアニア共和国政府に対し最後通牒。
7月から8月、ソ連は小国リトアニア共和国に軍を送り込み、併合して、ソ連型社会主義国家にしてしまう「社会帝国主義」、「社会覇権主義」の政策を進めている真っ最中。
→傀儡政権、リトアニア社会主義共和国
リトアニア共和国が主権国家として置いていたアメリカ、日本の領事館を8月末までに撤去を求める。
この状況・段階:
「厄介者」のポーランド・ユダヤ人難民は、早急にどこかに厄介払いしたい、ソ連を通過させどこかに移住することを容認する態度・政策。 ソ連のリトアニアに対する態度とポーランド・ユダヤ人難民に対する態度は違う。
リトアニアの反ソ派指導者などは、ポーランドに逃げ込む。
ポーランドから逃げ出してきたユダヤ人難民には、その選択肢・道はあり得ない。
この時期(1940年6月〜7月〜8月)に、ホロコーストはすでに始まっていたのか?:
ホロコースト(ユダヤ人大量殺戮という意味で)は、いつからか?
この時期に、なぜリトアニアにいたポーランドのユダヤ難民
が、カウナスの日本領事館(杉原)のところに押し寄せたのか?
*ポーランド・ユダヤ人難民の脱出動機
アメリカや日本の領事館が開いているあいだに通過ヴィザや滞在ヴィザを手に入れたい。
*杉原のヴィザ発給の動機は?
なぜ、杉原に短期に大量のヴィザ発給が可能であったのか?
日本外務省は、発給を禁止したのか?
本省からの処分を恐れず発給したのか?
ユダヤ人難民へのヴィザ発給は、杉原だけのことか?
杉原ルートよりも先に、二つのルートあり。
三つのルートPdf地図(何時、どんなルートか?)
②ホロコーストと鉄道(輸送)の関係は?
論点: どこのユダヤ人を、どこの絶滅収容所に運んだのか?
なぜ?
論点:ホロコーストはどこで、なぜ、いつから、どのように?
ーーー
来年刊行予定の『鉄道史大事典』(朝倉書店)の私の担当項目
「独ソ戦・ホロコーストと鉄道、鉄道被災」(字数制限:4千字)
私の本日までの原稿Pdf
原稿から抜粋:
ーーー
戦時下(特に広大な戦線での独ソ激突、軍事輸送の重大性との関連で))の大問題
1941年3月、ユダヤ人移送(移住とか疎開)の計画を中止。
1941年 6月22日からの奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)
・・・・アインザッツグルッペ(親衛隊警察の特別部隊で、治安平定に軍隊の旧進撃する軍隊の後方に広がる占領地域で、ユダヤ人を大量射殺。
1941年7月末、「勝利の熱狂」が続く中で、ハイドリヒが全ヨーロッパ的なユダヤ人問題解決のプランを検討する会議を計画。
しかし、ヒトラーはこの時点では、この計画を拒否。
しかし、独ソ戦の激化、電撃的勝利・ソ連征服の計画が8月中に挫折・・・
その苦境(例えばベーメン・メーレン保護領でのストライキなど抵抗運動も発生)の中で、それを鎮圧し、さらにドイツ支配下から、ユダヤ人を目の前から追放してくれ、という要求の高まり。
ヒトラーの態度、転換。
1941年9月、 戦時中ユダヤ人移送の臨時的(「来年春までの」政策として)に、部分的移送政策に転換。
最初約2万人を移送する計画(ベルリン、ウィーン、プラハなどから)・・・・・都市ごとの人数
1941年10月、部分的移送政策開始〜11月末(移送地図)
鉄道・
移送先予定のウッチ、ワルシャワなどのゲットーへ
・・・受入不可能、ないし困難→射殺、
さらに、ボックス型自動車排気ガス(CO利用)の開発試運転(本格投入は12月初めから)・・・・ウッチ他、占領下ソ連地域への投入(地図)
1941年11月末、ドイツ支配下ヨーロッパ全域からの移送要望を総括し、中央諸官庁次官級で調整する会議を開くことに決定。
・・・当初招集日は、12月9日。
(それに向けて各中官庁等の要望集約…12月8日付外務省要望)
会議直前に重大な世界史的事件・・・軍事同盟国日本の真珠湾攻撃
12月11日、ヒトラーの対米宣戦布告。
12月12日、ナチ党最高幹部へのヒトラーの露骨な演説。
1942年1月1日 連合国26か国の宣言。
1942年1月8日 ハイドリヒが「ユダヤ人問題の最終解決」次官級会議を再招集。
1942年1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーの高級住宅地の館(国際刑事警察の建物、元は、ユダヤ人所有、それを没収)で会議。
会議提出の統計より作成した1942年1月20現在の各地のユダヤ人数
(当然ながら、すでに抹殺されたユダヤ人はこの統計にはでていない)
議事録の輸送問題に言及・・・ビューラー総督府次官発言
世界大戦・総力戦とラインハルト作戦(Pdf)(最新の拙稿・横浜市立大学論叢人文科学系列、72-3)
総督府東部(ベウゼッツ、ソビボール、トレブリンカ)に次々と絶滅収容所を建設、
1942年3月ベウゼッツ(ベウジェツ)(地図)
1942年3月26〜27日、アウシュヴィッツへの第一次移送(地図)
アウシュヴィッツには郊外ビルケナウの10万人規模の強制収容所の片隅に、農家を改造したガス室(ツィクロンB)二つ。
本格的なコンクリート製火葬場(クレマトリウム)は、42年から43年にかけて、建設、稼働は43年から。
アウシュヴィッツ(ビルケナウ)の犠牲者数:2021‐11‐05のあるニュースの中では、「130万」と。
ーーー以下、配布レジュメーーー
問い1:ホロコーストとは何か?
いろいろの使い方と
狭い意味での定義(語の厳密な意味)
問い2:典型・象徴・代表としてのアウシュヴィッツ
…誰でも知っている名前
しかし、アウシュヴィッツでは、いつから、ユダヤ人大量殺戮を行ったのか?
迫害から大量殺害は、区別の必要がある。
短い歴史辞典では、そのあたりは不正確。
ex. 『角川 世界史辞典』の「ユダヤ人迫害」の説明。Pdf
問い3:そもそも、アウシュヴィッツで殺害された犠牲者数は?
論争点
検討対象:2001年(2007年5刷)の『角川世界史辞典』の「アウシュヴィッツ」説明Pdf
間違いの原因は?
2021‐11‐05のあるニュースの中では、「130万」と。
問い4:ユダヤ人の犠牲者数全体とアウシュヴィッツの犠牲者数との違いは?
問い5:ユダヤ人の犠牲は、どこで、どのように?
問い6:「アウシュヴィッツへの道」は?
配布資料:
①「第三帝国の膨張政策とユダヤ人迫害・強制移送 1938」『横浜市立大学論叢』第70巻 社会科学系列 第2号, 論文Pdf
②「第三帝国の膨張政策とユダヤ人迫害・強制移送 1938‐1939」『横浜市立大学論叢』第71巻 社会科学系列 第2号(論文Pdf:表紙)
③「第三帝国の戦争政策とユダヤ人迫害――ポーランド 1939.9〜1941.6――」『横浜市立大学論叢』社会科学系列、72‐1号
(論文Pdf)
④「第三帝国のソ連征服政策とユダヤ人迫害・大量射殺拡大過程―― 占領初期1941年6月〜9月を中心に――」同上、人文科学系列、72‐2・3合併号
.(9月末現在、初校提出で刊行に向け進行中、11月6日までに出ればそのPdfファイルを追加資料に)
⑤「“ユダヤ人問題の最終解決”――世界大戦・総力戦とヴァンゼー会議――」『横浜市立大学論叢』社会科学系列、72‐2・3.(納品2021年9月6日)
地図の出所:ホロコースト歴史地図 1918‐1948