*3.市民講座・エクステンション講座等

2021年度「ホロコーストとその記憶」第3回・・・11月6日(土)

  「深める:ホロコーストはなぜ起きたのか?」(レジュメ)(配布資料4本のPdf



ヴァンゼー会議記念館の門                記念館外観
  
 
 
              ヴァンゼー会議記念館の会議場

         ヴァンゼー会議の開催場所(四角カッコ)
ベルリン西南・ポツダム近く、ベルリン中心からSバーンで30分ほどのWannsee駅からバス114)
(ヴァンゼー駅の次の駅がポツダム駅)





参考:過去エクステンション講座レジュメ

*2020年度 後期エクステンション講座「ナチズムの歴史と記憶を考える」
    第3回 深める:なぜホロコーストは起きたのか

  Zoom提示ページ     (配布資料:報告要旨と論文など)

2019年度エクステンション講座

2018 年度エクステンション講座



ーーーーーー歴史に関する疑問:市民との対話のためにーーーーーーーーー

1.ハンザの歴史について
  リューベック―ハンブルク間の交易は、なぜ陸路なのか、なぜズント海峡経由ではないのか?

バルト海・北海貿易圏の形成とそこでの主導権
     ハンザ同盟の栄枯盛衰との関係・・・・ハンザの繁栄期
                            オランダの繁栄期

       バルト海・北海貿易圏を誰が担うか、どのような商品が遠隔地貿易の対象であったか?



     北海・バルト海貿易でハンザ同盟を圧倒していくオランダ
      スペインからの独立戦争・「80年戦争」、
      その絶頂期は17世紀

     独立戦争・「80年戦争」における英欄協力(プロテスタント勢力として)・・・対スペイン、対フランス

     J・ド・フリース/A・ファン・デ・ワウデ『最初の近代経済――オランダ経済の成功・失敗と持続力1500-1815』 
     名古屋大学出版会、2009:目次スキャンファイル
                     序文・はじめに:スキャンファイル
                     終章・結論

      訳者あとがき:スキャンファイル



     17世紀半(クロムウェル航海法)ばから広範期にかけての重商主義戦争

     イギリス名誉革命における英欄同盟成立・・・・対スペイン(旧教ハプスブルク帝国との対決)、
                                 対フランス(太陽王ルイ14世などとの対決)       
              

ウォーラースタインの「世界経済のヘゲモニー論」

   I. ウォーラーステイン『近代世界システムI――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』名古屋大学出版会、2013。

    オランダ部分抜粋スキャンファイル

   I.ウォーラーステイン『近代世界システムII――重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集 1600‐1750』名古屋大学出版会、2013。

    オランダ部分抜粋スキャンファイル




 iX 1450年から1750年までのヨーロッパは「世界経済」であったのか?その意味合いは?

 X  ヨーロッパはなお、圧倒的に農業的な社会であった・・・

 Xi  中世末のヨーロッパ、1000年ないし1100年から1450年まで
     この時代・・・「封建制度」
    封建時代のヨーロッパは「世界経済」でも、「世界帝国」でもなかった・・・「システム」という表現は適切か、疑問。


XIV 近世(1450-1750)のヨーロッパ
        
   空間的パターン(「中核」と「周辺」というつい概念で見ていく必要。

   
XiXーXX 「世界経済」におけるヘゲモニーの概念

   世界システム論分析のキイ概念のひとつ・・・「世界経済」と「世界帝国」

   「世界帝国:・・・全体を支配する単一の政治構造と単一の分業体制をもつ構造。

 「世界経済」のインターステイト・システム・・・そのなかでのヘゲモニー国家・・・・ヘゲモニー国家とは?
 「たんに強国なのではなく、他の諸強国――弱小国ではなく。強国――のなかでも、圧倒的に強力な超大国」

 「ヘゲモニー国家は、自らが最適と考える世界政治の秩序を生み出すことができる。このような状況下で、ヘゲモニー国家は、国内ないし保護下においている地域に立地した企業に、「市場」によってではなく、政治的圧力によって、ある種の特別の便宜をもたらすこrとができた。

 これまでのところ、近代世界システムの歴史には、三つのヘゲモニー国家が出現した。
  17世紀中ごろの1648年から1660年代までの短い期間、オランダがヘゲモニー国家となった。

  連合王国(イギリス)は、19世紀の1815年から48ね48年までか、おそらくはもう少しあとまでで、オランダよりはやや長い期間、ヘゲモニー国家と言える存在であった。

  20世紀中ごろには、アメリカ合衆国がヘゲモニー国家となった。1945年から1967年ないし1973年までである。

  
  オランダのヘゲモニーが衰退しあとには、イギリスとフランスがヘゲモニーを受け継ぐべく争った。
  イギリスのヘゲモニーの後継争いをしたのは、アメリカ合衆国とドイツであった。
  アメリが合衆国のヘゲモニーのあとは、いままさに生まれ出でつつある北東アジアの構造体――日本、韓国、中国――と、なお完全には安定しきらないヨーロッパ連合とであった。


XX ヘゲモニー国家は、ゆっくりとではあるが、必然的に衰退する 

   ヘゲモニー国家は、世界の地政学的権力の半ば独占状態を続けることができないために、結局l衰退する。
 
   (オランダには、このような地位はなかった)


xxiii 「30年戦争」

 本来の三十年戦争は、むろん、1618年から1648年に戦われたもので、その結果(??)、オランダのヘゲモニーが成立した(??)
      
 第二の「三十年戦争」は、1792年から1815年までのフランス革命・ナポレオン戦争
      この戦争の結果(??)、連合王国(イギリス)が、ヘゲモニー国家として立ち現れた。

 第三のそれは、1914年から1945年までのそれで、そこからアメリカ合衆国がヘゲモニー国家として出現した。

   
 「この世界戦争が終わると、ヘゲモニー国家は他のすべての主要国に対して、圧倒的な経済的優位を確立した。」
        1648年のオランダが??

 「いずれの場合にも、結局、争いに勝利してヘゲモニー国家となった国は、その世界戦争中に、強力な陸軍を作り上げた」
(??オランダが? イギリスが??海軍ではないのか?)
  「戦争が終わるころには、勝利者となる国にとって、この陸軍力が軍事的勝利の重要な要素となっていった。」

 (オランダの陸軍力が?? イギリスの陸軍力が??)

 「どの場合にも、元の競争相手は完全に敗北し、少なくとも当面は、活力を喪失した。軍事的にも、経済的にもそうだし、もし論、政治的にもそういえる」

 (オランダは、30年戦争のときに、どこと戦ったのか? 30年戦争は最も激しくドイツの地域で闘われたが、ドイツ全体が勢力喪失・経済破壊の憂き目にあった。しかし、この敗北をオランダがもたらしたとは、何をもって立証できるのか??)


 「その当時としてもっとも利益の上がる生産物(??)を、「周辺」の他の生産者ばかりか、元および将来の「中核」地域の生産者の誰よりも、効率的に生産できるようになるのである。(オランダは何を??)}


xxiv 真のヘゲモニー

   「オランダ(??)は、宗教的寛容の精神(「支配者の宗教が、その血の住民の宗教となるというアウクスブルク宗教和議の原則)や国家主権の尊重(ヴェストファーレン条約の原則)や「海洋自由の思想」を世界に広めた。」

   この中でオランダの主導的役割と思われるのは、「海洋自由の思想」だけではないのか?

しかも、その場合でも、ご都合主義が支配していないか。

 「1663年にオランダ駐在イギリス大使ジョージ・ダウニングは、オランダのヴィジョンについて、「オランダ人は、イギリスの領海では,海洋自由論であり、アフリカ沿岸や東インドでは、海洋閉鎖論なのであります」と論難した・・・
 アフリカの海岸や東インドというのは、いうまでもなく、オランダが優位を保っていた地域である。ヘゲモニー国家は、イデオロギーのために自分たちの利益の追求を控えるようなことはなかった。」(つまり、オランダに圧倒的な優位などないことを証明している)
 「にもかかわらず、こうしたヴィジョンこそ(??)が、ヘゲモニー国家が自らのヘゲモニー的な地位の正当性を主張する根拠となっており、それこそが、ヘゲモニー国家が世界秩序を維持する能力(??)の主要な源泉ともなっていた」。


  ウォーラーステインの「ヘゲモニー概念」にあてはまるのは、ある時期のイギリス、ある時期のアメリカだけであろう。
  しかもその場合でも、イギリスは陸軍ではなく海軍力の優位のみであろう。


 「オランダは、フランスに対抗するために、イギリスとプロテスタントの同盟を組んだ」・・・つまり、ヘゲモニーなどなかったのだ。

 「イギリスは、1815年以後、専制国家トリオとでもいうべきロシア、オーストリア、プロイセンに対抗して、フランスと協商関係に入った。」

   イギリスも、ヨーロッパ大陸までを見るとき、ヘゲモニーはなかったとみるべきだ。




第2章 「世界経済」におけるオランダのヘゲモニー


ここでの「世界経済」とは何か?

p.44 重商主義 

  「『ヨーロッパ世界経済』」の中核は、 1600年までに北西ヨーロッパにしっかりと定着した。すなわち、ホラントとゼーラント、ロンドンと周辺諸州およびロンドン東北方のイーストアングリア、北フランスと西フランスなどに、それは定着した。」

 (つまり、この場合の世界経済は、ヨーロッパという限定付きである。しかも、ヨーロッパ大陸の広大な諸地域・諸国家は「周辺」という位置づけで、視野の外にある。この広大な大陸ヨーロッパこそは、その経済が農業経済の支配している地域である。)

 













I. ウォーラーステイン『近代世界システムIII――「資本主義的世界経済」の再拡大 1730s-1840s』名古屋大学出版会、2013年

表紙・目次・2011年版序文 スキャンファイル




I. ウォーラーステイン『近代世界システムIV――中道自由主義の勝利 1789―1914』名古屋大学出版会、2013。

表紙・目次・序章スキャンファイル







補:オランダからの世界情勢の情報
   (独立させたファイル

  各種専門研究書・啓もう書等

   市大図書館蔵書・・・表紙等スキャンファイル
     松方冬子
        『オランダ風説書――「鎖国」日本に伝えられた「世界」』中公新書、2010。
                        目次等スキャンファイル
     松方冬子編
        『日蘭関係史をよみとく 上巻 つなぐ人々』臨川書店、2015。目次・序等抜粋スキャンファイル

     フレデリック・クレインス編
        『日蘭関係史をよみとく 下巻 運ばれる情報と物』臨川書店、2015。目次・序等抜粋スキャンファイル
       
     フレデリック・クレインス
        『十七世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010 目次等抜粋スキャンファイル



     松方冬子ほか編、日蘭交渉史研究会訳『十九世紀のオランダ商館
        ――商館長ステュルレル7の日記とメイラン日蘭貿易概史』上、東京大学出版会、2021。
             メイランMeijlan概史からの抜粋スキャン・ファイル



   横浜市立図書館蔵書
     松方冬子『オランダ風説書と近世日本』東京大学出版会、2007年・・・抜粋スキャンファイル
             
     松方冬子編『別段風説書が語る19世紀――翻訳と研究』東京大学出版会、2012・・・抜粋スキャンファイル
   


フーゴー・グロティウス『戦争と平和の法』について、大沼保昭編目次等スキャンファイル






 2. アレクサンダー大王の遠征・広大な帝国建設とその東西への影響

   西・・・ 地中海におけるヘレニズムの支配的影響
   東・・・ベルシャ制覇・・インド遠征インドへの侵攻・・・マウリア王朝、アショーカ王時代
      時代の概観・中村第6巻冒頭スキャンファイル

       それ以前に、ペルシャ諸王がインドへの侵攻…西北インドの諸王国

       中村元選集(決定版)第6巻 インド史II…目次スキャン
                         ブッダの誕生から死までの年代研究スキャンファイル
                         研究資料抜粋 スキャンファイル 

      インド B.C.3000〜A.D.647 歴史地図スキャンファイル



ーーーBuddism、Budda,、仏教の理解のためにーーーーーーーーーーーーーーーー
 
   中村元著作集より。ブッダ、仏教を理解するために。









3.伝染病・・・媒介者としてのノミ(ネズミ)、シラミ

   不潔な事情(中世都市・黒死病と第三帝国ゲットーとの類似性)(スキャン






4.ユダヤ学

  手島編著ホロコースト関連個所・・・スキャンファイル

  Basic Judaism・・・・翻訳書より、ユダヤ教とキリスト教の違いの部分スキャンファイル








5.山本孝夫『硫黄島の奇跡――白骨遺体にまかれたゲートル』文芸社、2020。 目次等スキャンファイル



6.産業革命(ページ) 

  ポール・マントゥ『産業革命』東洋経済新報社、目次等スキャンファイル

  ラングトン&モリス『イギリス産業革命地図』原書房、目次等スキャンファイル





7.ハンス・セリエ・・・『現代生活とストレス』目次等スキャンファイル  

             『夢から発見へ』目次等スキャンファイル 




6.杉原千畝について
   外交官としての活動・・・文献スキャンファイル

      来栖三郎・・・白石著第3章スキャンファイル

  杉原が6000人のビザ(リトアニア、カウナスで)を発行したのは、1940年7〜8月
  第三帝国がポーランド侵略を開始してから大量に発生したユダヤ人難民のリトアニア流入、
  これに対し、ソ連が、リトアニアを併合する直前の時期。 



7..カティン(カチン)の森事件・・・・1940年4月〜5月・・・・・ソ連(赤軍)・内務人民委員部による軍服着用のポーランド将校r等の射殺・
           壕の中に何重にも重ねて埋葬・・・1943年2月末、そのドイツ中央軍による発見発掘
           ・・・ゲッベルスによるソ連批判の強烈な宣伝。
           ソ連政府の否定。ソ連に攻め込んだヒトラー第三帝国に批判的な世界世論は、ゲッベルスの言説を嘘と。

           真実は、ソ連政府が嘘をついていたこと、ソ連側がドイツの犯罪として、あべこべに描く。 
           (ペレストロイカ、ソ連崩壊の過程で、ソ連による虐殺の真実が認められる)   

    スキャンファイル・・・真実は、ドイツとソ連によるポーランド第4次分割、冷酷無比なポーランド指導層抹殺。


   しかし、ドイツ側は、敵の失敗から学び、第三帝国がラインハルト作戦(三つの絶滅収容所トレブリンカ、ソビブル、ベウゼッツ)で殺害した200万人ほどのユダヤ人の死体を掘り出して、
   焼却し、大量殺害の証拠を隠滅する。(1943年3月から11月・・・三つの絶滅周世署の解体・痕跡抹消)
   

  モルデカイ・パルディール『ホロコーストと外交官――ユダヤ人を救った命のパスポート』松宮克昌訳、人文書院、2015年
       スキャンファイル

   キュラソー・ヴィザ・・・オランダ名誉総領事スヴァルテンダイク(フィリップス社の社員)が、7月23日から8月4日まで、8日間という比較的短い期間に、スヴァルテンダイクと彼の助手たちは2400人のキュラソー・ヴィザを書き、署名を入れた。 

  1940年「8月のある朝、領事館近くの通りの異様な騒ぎが聞こえました。我が家の窓から外を眺めると、建物の柵近くに集まっている大群衆が目に入りました」。それは、ポーランドから逃げてきた人びとで、辿り着いたリトアニアからの出国を望んでいたのだあった。
 日本通過ヴィザを求めて。
 ソ連領事に確認を入れたところ、難民がソ連領内で立ち往生しないよう、日本側がまずビザを発給することを条件に、通過ビザを発給す意向がある、と。
 8月10日、杉原は、自らの責任において事に当たる決断をした。「この件について、難民が必要書類をもっているかどうかは関係ありません。この仕事では、私の唯一人の秘書であるドイツ系のヴォルフガング・グッジェに手伝ってもらいました・」
 他の情報源から、我々は、グッジェが杉原の諜報活動を報告するため領事館に潜入したドイツの諜報員だったことを知った。
 、
 できるだけたくさんビザを取得させ、脱出しようとする立場の人・・ヴァルハフティク
 宗教指導者・首脳たち・・・「腰を下ろし、なんもしない」

  唯一の脱出口は、まだ戦争に巻き込まれていなかったソ連邦を通過し東へ向かうことだった。・・・キュラソー計画を知り、大量の人間がこの国を出て遠隔地へ向かう事の出来る、願ってもない好機として、飛びついた。 
  キュラソーへ行くには、ソ連を横断してウラジオストクから日本に行き、そこから船で御ア生運河を経由していかねばならない。われわれに必要なのは、ソ連と日本のビザだ

 オランダ総領事ヤン・スヴァルテンダイクは、最終目的地キュラソーのビザを無制限に発給する用意があった。
 ヴァルハフティクは、杉原を尋ねる。

 ヴァルハフティクは、杉原を尋ね、ヨーロッパの戦況に鑑み、遠い虚構の目的地であるキュラソーへの唯一のルートが、ソ連と日本を経由するものであることを説明。
 オランダの外交官はすでに承諾を与えており、ロシアの外交官は自分たちが承認する雨に日本の外交官の返事を聞きたがるだろう。
 その方面に行くことを希望する数千人のために10日間有効の日本通過ビザを発給してくれるよう懇願した。 
 ヴァルハフティクは、難民たちは自らの旅費と滞在費をすべて支払うため、彼らの存在が日本経済に負担になることはないと保証。

 8月7日にチェコスロヴァキア国籍のユダヤ人集団にビザ発給。
 8月10日、杉原の決断が大々的に。日本の通過ビザを求めるもの全員に対し発給を開始。その数は、総計数千にも及んだといわれる。
 この作業は、8月末日にカウナスから杉原が退去する日まで続いた。

 杉原の計算では、約3500通の通過ビザを発給した。異なる推定をする者もいる。
 ヴァルハフティクは、日本に到着した難民数を2800人と。
 難民が滞在を認められた神戸には、合計4608名がいた。これらのうち、2184人がドイツ出身、2111人がポーランド出身、さらに残りの313人もおそらくキュラソー・ビザの受領者と思われる。

 数百名のイェシェヴァ神学生を含むビザ受領者は、1941年6月21日、ドイツのソ連攻撃前に出国たために命拾いをした。  




ゾラフ・バルハフティク『ヒトラーの魔手を逃れて日本に来たユダヤ難民――約束の地への長い旅――』滝川義人訳、原書房、1992。
    スキャンファイル







8.キンダートランスポート・・・科研費出張報告より抜粋ファイル