前回講義(20091125)に対する感想のいくつかに関するコメント:
1. 石橋湛山(評論集)の紹介に関して・・・共感する意見多し。
しかし、他方で、「火事場泥棒」との主張はナンセンス。彼の発想は「空想的」などの意見も若干あり。
・・・現実の世界史(国家支配者の歴史に目を向ければ)は、確かに、社会主義者や湛山の主張を無視する大日本主義(日本帝国膨張主義)の勢力が日本国家を支配しており、侵略戦争の道を歩んだ。
しかし、その日本国家・政府・軍部の膨張主義の諸計画は、すべて失敗に帰した。夢想の産物、「砂上の楼閣」。
それに対して、石橋湛山の当時掲げた「小日本主義」、平和と自由・民主主義の主張は、第二次大戦の悲劇を経てではあるが、はじめて実現(完全ではないとしても)した。
これに関連して、
2. 「過去を断罪しても意味がない」・・・単純な「ヒトラー=悪人」説のようなヒトラーだけを悪者とする見方(ドイツだけを悪者とする見方など)への批判としては意味がある。
しかし、「過去を断罪しても、どうか」というとらえ方は、問題。
過去の総体の中には、さまざまの流れ・主張・勢力が存在し、それぞれに違った富や財産・地位・権力等を持ち、それぞれの主張・要求・流れの正当性をめぐって、時に激しく(究極的には武力・暴力的手段、テロなど)、時に静かな(言論・出版等の理性的で自由な民主主義的諸手段)闘いが、行われている。
過去の諸問題を、したがって戦争も、現在の政治問題を見る場合と同様に、そうした対立的諸潮流の、時に激しく、時に温和な主張・要求・構想・計画・「マニフェスト」などのせめぎあいの中で、見ていく必要がある。
どこに、だれに、どのような罪・責任があるのか?
「過去」をひとまとめにして「断罪」するなどというのは、歴史の現実のなかで、正義をめぐって、真理をめぐって、自由や民主主義の実現をめぐって、身近な事例でいえば、予算配分をめぐって(軍事予算か平和目的の予算か、平和目的でも誰のどのようなことに奉仕する予算を削り、誰のどのようなことに奉仕する予算を増やすか)、さまざまの立場、勢力による闘い(武力的暴力的なものから、平和的理性的諸手段によるものまで多様)があることを無視することになる。
3. なぜ、アメリカを戦争に引きずり込む無制限潜水艦戦を断行?・・・・ヒンデンブルク、ルーデンドルフが、要求。大戦の局面打開ができなかったから。
追い詰められた人々は、理性的合理的な行動をするか?
「窮鼠、猫を噛む」
・・・のちの日本の真珠湾攻撃とおなじ。
4. 経済恐慌がアメリカ発、世界を混乱に・・・「当時も今も変わらない」・・・80年前と現在では、何が違っているか?
それを考え、検証する素材が、今回のテーマ・講義の内容。
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第8章 ファシズムと第二次世界大戦
20091202永岑
1.
世界経済恐慌と各国の対応
A. 植民地・勢力圏・広大な国内市場を持つ先進帝国主義諸国…議会制民主主義・多党制・相対的自由の諸制度
(1) アメリカ・・・ニュー・ディール・・・1932年の大統領選挙で、民主党のフランクリン・ローズヴェルト大統領が当選。
全国産業復興法(NIRA)と農業調整法(AAA)。
ソ連邦承認。
1935年ワグナー法・・・労働者に団結権と団体交渉権を与える。
TVA(テネシー河域開発公社による大土木工事・・・国家資本による有効需要創出)
ラテンアメリカに対する善隣外交政策・・・新大陸全体の福祉・・・アメリカ経済圏の創出。
キューバの完全独立を認め、フィリピンの完全独立を約束(1945年に)。
以上の政策体系には、軍事的対外膨張政策はない。むしろ。方向性としては、勢力圏下での一定の民主主義化。
(2) イギリス・・・ブロック経済政策・・・恐慌の影響(失業保険の削減など緊縮財政政策)により労働党から除名され辞職。第3次挙国一致内閣を組織し、金本位制の停止、国費節約政策。
1932年 オタワ英連邦会議開催(1931年のウェストミンスター憲章で各自治領に、イギリス連邦の一員として、本国と同等の地位を与える)・・・各自治領間の関税を低くし、他国に対しては高関税・・・・イギリス連邦としての閉鎖的経済圏で市場確保を図る。
アイルランドの完全独立を目指すシン・フェイン党の反乱を機に、1922年自治領アイルランド自由国を成立させていたが、独立派は完全な独立をもとめ、1937年、エール共和国宣言。イギリス、承認。
(3) フランス・・・恐慌に対して右派政権、しかしドイツのナチ政権成立で左翼勢力が強くなり、
1935年に、仏ソ相互援助条約。
同じ1935年のコミンテルン第7回大会の反ファシズム統一戦線政策の影響を受け、社会党・急進社会党の連合による人民戦線内閣の成立。
B.後進帝国主義諸国…ファシズム・全体主義(民主主義の否定)・一党体制
ヴェルサイユ体制・ワシントン体制の打破へ
民衆に基礎をおいた政党の一党独裁型(イタリア、ドイツ)…「下からのファシズム」
軍部の政権掌握による「上からのファシズム」
(1) 日本・・・満州国建設などアジアにおける領土・勢力膨張政策(次回の講義のテーマ)
「大東亜共栄圏」と称する勢力圏・支配圏の構築の路線
(2) イタリア・・・地中海帝国建設
(3) ドイツ・・・ナチス政権掌握・再軍備・戦争準備政策・東方大帝国建設路線
・・・・世界戦争への主導的思想・国家体制・運動・
C.被抑圧民族の解放運動−後進帝国主義であれ先進帝国主義であれ、列強(当時の先進工業諸国)はいずれも抑圧者・抑圧国家
世界各地における植民地・半植民地・被抑圧民族の自立・独立の運動・帝国主義に反対する民主主義の諸運動。中国、朝鮮、パレスチナなどをはじめとする各地で。
例えば、インドでは一次挫折していた民族運動が1929年に復活。ネールの指導のもと、1929年ラホールで開催の国民会議を機に、運動再開。1930年から、ガンディーの提唱する非暴力・不服従主義の闘争方針で、完全独立(プールナ=スワラージ)をめざし、全国的にイギリス商品排斥運動。この運動は、イギリスがインドの経済を犠牲にして世界恐慌の影響をきりぬけようとしたことから、激化。
35年には懐柔策として、新インド統治法(連邦制をとり、各州の自治の拡大)を制定。
2. ヒトラー・ナチスの世界強国・東方大帝国建設の戦争政策とその挫折
(1) ヒトラーの思想構造(『わが闘争』、第二の書)…「敗北の克服」
ヴェルサイユ体制の打破。「ロシアとその周辺部」の東方に領土拡大。世界強国建設。いずれは武力による決着。人種階層性・人種闘争のイデオロギー・・・膨張・支配の正当化。(「帝国主義と劣等人種」ホブスン『帝国主義論』下、第二編 第四章)
Cf.ナチ党の得票率の推移・・・ヒトラー・ナチ党を支持したのは、いつの時点で、どこで、ドイツ国民のどれほどの割合であったか?
(2) ナチス政権掌握から戦争準備の諸段階
日本、イタリアとの同盟関係
1936年9月党大会・・・4ヵ年計画
(3) 「平和的」領土拡大・・・・「民族自決」を旗印とし、根拠として、領土拡大を要求。実力(軍事力)を背景に、英仏伊に認めさせる。
オーストリアとの合併・・・同じドイツ人が一つの国を形成する!
ズデーテン地方の割譲・・・ズデーテン地方のドイツ人が、チェコスロヴァキア国家から分かれて、ドイツと合体
する。・・・・生きた生命体から肉の塊を切り取るとどうなるか?
(チェコ占領、「べーメン・メーレン保護領」樹立への必然的道)
(4) 侵略開始…電撃戦戦略・電撃戦勝利の段階
1939年5月からノモンハン戦争(ソ連軍と日本軍の激突)
1939年8月23日の独ソ不可侵条約(二正面作戦の回避、ポーランド・東欧の勢力圏分割)
1939年9月1日 ポーランド侵略…9月3日英仏の対独宣戦布告
9月17日、ソ連軍、ポーランド侵攻。11月ソ連、フィンランドとの冬戦争。
1940年4月 「ヴェーザー河軍事演習」の名目・・・デンマーク(4.9無血占領)、ノルウェーへの侵攻・占領(4.9-6.10…ノルウェー国王ハーコン7世と彼の政府はロンドンに亡命)
1940年5月「黄色作戦」西部戦線(5.10侵攻開始オランダ5.15,ベルギー5.28降服。約33万5千の英仏兵はダンケルクから無事脱出。
6.5-6.24フランスをめぐる攻防戦・・・・・・・6.10イタリア参戦
6.14パリ無血占領。6.22コンピエーニュでの休戦協定・・・フランスを占領地域と被占領地域(ヴィシー政権下)に分割。
イギリスではW.チャーチル連立内閣が成立。
イギリス征服、短期電撃的には不可能・・・制海権・制空権の難問題
1940年夏・・・対ソ攻撃作戦の策定検討を命じる。
1940年12月18日 対ソ奇襲攻撃作戦の指令(バルバロッサ作戦…41年5月15日までにソ連を電撃的に蹂躙する準備を完了せよ)
1941年4月 バルカン作戦
総力戦の泥沼への道
1941年6月22日対ソ攻撃開始(当初予定の5月15日より一か月少し遅延)
8月までにソ連の反撃・抵抗の激化・・・電撃戦戦略の挫折過程
他方、連合国における米英連携の強化・・・「大西洋憲章」
1941年12月7日(日本時間8日)日本の真珠湾攻撃
・・・ヒトラーの対米宣戦布告「ヒトラー国会演説」。
(5) 文字通りの世界戦争と総力戦の段階
ヨーロッパの戦争とアジア太平洋の戦争の結合
総力戦の泥沼化・ドイツ敗退過程・・・ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策の急進化
補論:ホロコーストの展開・・・最終的には、ユダヤ人約600万人の犠牲の過程
前段階・・・ナチ政権初期から1938年11月の「帝国水晶の夜」を経て、ポーランド侵攻(ルブリン地区・ユダヤ人居留地構想)、ヨーロッパ西部侵攻までのユダヤ人移住政策(フランスとの講和でマダガスカル島割譲・ユダヤ人移住地構想=マダガスカル計画)
(1) 戦時下におけるユダヤ人移送(政策・計画)の停止・輸送力の全力を対ソ戦へ投入。
@ 独ソ戦初期・・・侵攻直後、男子ユダヤ人射殺から、41年7月末-8月中旬以降、老人・婦女子のユダヤ人までを含めた無差別射殺への過激化。
A 電撃戦の挫折と臨時阻止・過渡的措置としての戦時下におけるヨーロッパ各地からのユダヤ人移送政策(41年9月中旬:臨時的移送政策への道各地の大管区長からの要望)。戦時下だが、42年春までの過渡的臨時的措置として「東方への移送」。
B 41年10月中旬、戦時下移送の開始・・・一時的移送先としたウーチ(リッツマンシュタット)・ゲットーの受け入れ拒絶(受け入れ不可能な諸条件・・・住宅・燃料・食糧・治安その他の絶望的状態)
C 41年12月8日から、ウーチ郊外ヘウムノ(クルムホーフ)で、ガス自動車による殺害開始(ガス自動車投入地域)。
(2) 対米宣戦布告・世界戦争・総力戦を転機とするヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策
−1942年1月20日ヴァンゼー会議(記念館HPの議事録)(議事録)−
ポーランド総督府東部のベウゼッツ、ソビボール、トレブリンカにつぎつぎと「絶滅収容所」建設(CO利用)・・・ポーランド「総督府から最終解決を進める」。
アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、最初、農家改造のガス室(殺虫剤青酸ガス・製品名ツィクロンBを利用)。
のち、1942年から火葬炉・ガス室(ツィクロンB投入)をもつ火葬場(クレマトリウム)建設開始・・・1943年以降、利用開始
3.
戦争の終結−米ソ二大世界強国の成立−
米英軍は、最初一番弱い戦線(イタリア)から進撃、ついで西部からドイツに進攻。
東部から、ソ連の進撃。スターリングラード攻防戦(42年夏から43年2月)、
ソ連の大祖国戦争の勝利・・・・2700万人に上る死者。
ベルリン攻防戦・・・ヒトラー自殺(45年4月30日)
米ソ英によるヤルタ協定・ポツダム協定・・・
東欧の領土再編(ソ連・ポーランドの領土の西方移動)と東欧ドイツ人の追放(配布地図、参照)・・・ドイツ全土の連合国軍による占領体制
4. 米英ソ連合軍による大日本帝国攻撃
−原爆開発と投下、日本のポツダム宣言受諾・無条件降伏、第二次大戦終結−
1945年2月の米英ソ(ローズヴェルト、チャーチル、スターリン)のヤルタ会談(協定)で、ドイツ無条件降伏後、3か月でソ連が対日参戦することを約束。(実際に5月8日から3ヶ月後、8月8日、ソ連軍が満洲に進撃開始)
補論:ナチス第3帝国の原爆開発は?