エクステンション講座
「二つの世界大戦とヨーロッパ統合」 第ニ回(20100519)レジュメ
永岑三千輝
広大な国内市場を持つアメリカなどの先進帝国主義・・ニューディール
古くから植民地・勢力圏を持ち、主要戦勝国としてヴェルサイユ体制でそれを拡大したイギリスやフランスの対応
・閉鎖的経済圏(ブロック経済)・イギリス連邦(本国―自治領関係、差別的関税)
・人民戦線のフランス
帝国主義支配の下にある世界各地(インド、アイルランド、朝鮮、中国、インドシナ、パレスチナ)・・・植民地・半植民地からの解放、被抑圧民族の自立・独立の運動、自由と民主主義の諸運動の展開・・・・宗主国・本国による相対的譲歩。
共通項・・・共産主義に対抗し、極端な自民族中心主義、暴力、対外侵略
イタリアとドイツ・・・・「下からのファシズム」
日本・・・・「上からのファシズム」
第一次大戦の「勝ち組」イタリアと日本の不満・・・対外膨張へ。
日本は中国へ(1941年12月以降は東南アジアへ)、イタリアは地中海・アフリカ北部へ
ヒトラー・ナチ党・・・第一次大戦の「敗北の克服」が基本的目標。ヴィルソンにだまされた。ヴェルサイユ体制の打破にとどまらず、英米仏と妥協できると想定した「ロシアとその周辺部」の東方への領土拡大・東欧諸民族の支配と隷属化、・・・世界強国建設 (先取りするが、自殺直前の政治的遺言において「英米と戦うつもりはなかった」)
33年1月 ヒトラー政権誕生・・・国会解散・・・「最後の選挙」へ。財界の政治献金。
2月 国会放火事件
3月 全権委任法。即座に秘密再軍備政策。
軍需・・・重化学工業を中心とする経済界の恐慌からの脱出を促進。(軍需主導の景気回復)
33-35年 軍需景気。熟練工不足、石油・ゴム等重要物資の不足・・・再軍備への足かせ
36年9月 「四ヵ年計画」・・・・急激な軍需支出による国家債務の膨張
日本が日中戦争に突入
ソ連ではスターリンの大粛清1937-38(約100万人が犠牲になったと最近の研究)
37年11月26日 シャハト、経済大臣を「個人的理由で」辞任。
38年1月 フリッチュ危機
38年3月 オーストリアを「編入」(併合)
10月 チェコスロヴァキアのズデーテン地域の併合
(ヴェルサイユ体制下の民族自決・国家建設とマイノリティ問題)
39年3月にはプラハに進駐し、ボヘミア・モラヴィア保護領、創設。
5月 ノモンハン戦争(9月まで)・・ソ連は、東で日本と、西でドイツと対戦の危機。
8月 ヒトラーとスターリン・・・独ソ不可侵条約・・・両者それぞれに戦略。
秘密議定書でポーランド、バルト諸国の勢力圏分割。
39年9月1日 ポーランド侵攻作戦(”ポーランド兵”による国境侵犯事件をでっちあげ)
3日、英仏の対独宣戦布告
40年4月 デンマーク、ノルウェーに侵攻
5-6月 オランダ・ベルギー・フランスへの侵攻
6月10日、イタリアが対仏参戦。
6月半ば、パリ無血占領
40年夏 対ソ攻撃の敢行を決断。準備作業を命令。
40年12月18日、対ソ奇襲攻撃作戦の指令「バルバロッサ」・・・41年5月15日までにソ連を2−3か月で電撃的に蹂躙する準備を完了せよと。
北アフリカへのイタリアの侵攻・・イギリス軍の反抗。
41年1月、ドイツ・アフリカ軍団を編成。
41年4月 ヨーロッパの戦争はバルカン半島にも飛び火。ドイツの対ソ攻撃開始、遅延。6月22日、ドイツ国防軍350万の大軍が対ソ奇襲攻撃開始。
7月下旬-8月にはソ連の反撃が日増しに激化。正面の赤軍、背後のパルチザン戦争。
41年11月・・・ドイツ軍が、レニングラード、モスクワ、スターリングラードを結ぶ南北1千キロの戦線の広大な西側地域を占領。
しかし、第三帝国最初の「冬の危機」
英米・・連携強化。ローズヴェルト41年3月、武器貸与法。8月、大西洋上で会談、大西洋憲章(戦争の大義)・・・領土不拡大、民族自決、貿易の機会均等、労働・生活環境改善、軍備縮小、海洋の自由、国際機構の再建など民主主義的諸原則8カ条、ソ連も支持。国際連合結成の前提。
日本軍部・・・40年夏からの北部仏印への進駐。
41年7月の御前会議・・・「南北二正面作戦」の決定・・・北方戦争(対ソ戦)については準備を整えるだけで、実際の進軍はまずに南に向かう・・・南部仏印への進駐、「南方戦争」を引き起こした。米英蘭との対決は先鋭化(ヒトラーは、日本の対ソ攻撃を希望したが)
12月7日(日本時間8日)真珠湾攻撃・・・太平洋戦争。
ヒトラーは対米宣戦布告。戦争は文字通りグローバル化。
42年1月大西洋憲章に基づく連合国宣言。
42年夏から43年2月・・・スターリングラード攻防戦
43年夏、クルスクにおける史上最大の戦車戦。
44年夏には、ソ連軍がドイツ東部国境を突破・・・ドイツ軍の犠牲は最後の半年でそれまでの全期間の被害を上回るほど飛躍的に増加。
45年「ネロ命令」(実行されず)・・・ソ連軍、ベルリン包囲。総統大本営ヒトラー、自殺。ソ連・・・「大祖国戦争」に勝利。ソ連の犠牲は2千万人とも2千7百万人とも。
米英・・・「第二戦線」・・・独伊軍事力の一番弱い戦線(イタリア)から大陸への進攻を開始。ついで44年6月からはノルマンディー上陸作戦で大陸進攻。9月、ドイツ西部国境を突破。
45年2月・・・戦後ヨーロッパ処理に関する米英ソによるヤルタ会談。東欧の領土再編、ソ連領の拡大、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアなどの諸国家の再建。
それらの諸国家の新領土内に住む1千数百万人にのぼる東欧ドイツ人のドイツ領内への追放。(拙著掲載の地図)
ドイツ国境は大きく西に移動させられ、大幅な領土縮小となった(その限りでは、大西洋憲章の原則に違反)。
ヤルタ会談では、対日戦へのソ連の参戦も約束(ドイツ降伏後3か月で参戦、と)
7月16日、原爆実験成功。7月17日からポツダム会議。対日無条件降伏要求。
8月6日、広島に原爆(ウラン濃縮型)が投下。二日後の8月8日(=ドイツ無条件降伏5月8日のきっちり3ヶ月後)、ソ連軍は満州国境を大戦車隊で突破。
その翌日、アメリカは二発目の原爆(プルトニウム型)を長崎に投下。
日本はついにポツダム宣言を受諾して、9月2日に降伏した。第二次世界大戦は終結した。
参考文献
木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義−比較と関係の視座−』有志社、2008年。
廣田功『現代フランスの史的生成』東京大学出版会、1994年。
石田憲『地中海新ローマ帝国への道』東京大学出版会、1994年。
上杉忍『二次大戦下の「アメリカ民主主義」』講談社選書メチエ、2000年。
永岑三千輝『ホロコーストの力学』青木書店、2003年。
資料:
地図
永岑三千輝『ドイツ第三帝国のソ連占領政策1941-1942』同文舘、1994年、2ページ。