1937年11月5日会議(ホスバッハ・議事録)・・・ヒトラーの見地[3]、これに対する軍事専門家(フォン・ブロンベルク、フォン・フリッチ)のザッハリッヒな見地からの異論、フォン・ノイラート外相の疑念・抵抗・協力拒否・辞任申し出→危機[4]

1938年1月「フリッチ危機」・フリッチュ以後(→フォン・ブラウヒッチ、ベック→ハルダーシャハトヴィッツレーベン) 

1938年2月4日以降、カイテル、OKW参謀部長(OKW=国防軍最高司令官ヒトラーの参謀)(参謀本部)

1938年4月22日、「チェコ攻撃計画の会議」

1938年中ごろ以降、シャハトたちはヒトラーのこれ以上の軍備拡大=財政支出に反対の態度を固める(1939年1月2日、決裂、決定的)。

1938年11月29日、シャハト演説(611−EC

1939年5月23日、「ポーランド攻撃計画の会議

1939年8月22日、「いまこそポーランド攻撃のとき」と軍指導部にヒトラー演説、軍部における甘い期待