第三帝国の軍備拡大
しかし、進めるのは「秘密に」であっても、ヒトラー(政府・国家)は、最初から本格的軍備構築を戦略的課題としていた。上記、『続・わが闘争』の主張どおり。
1934年―1937年、シャハト「新計画」による貿易管理(輸出促進・輸入制限)と再軍備政策
1935年5月3日 軍需金融に関するライヒスバンク総裁シャハトの覚書(1168-PS)
1935年5月21日、ヒトラー国会演説(軍備増強・ヴェルサイユ条約違反の正当化)
(非公表の「帝国防衛法」2261-PS制定とシャハトの戦争経済全権への任命=「すべての経済力を再軍備のために」≫Aufgabe des Generalbevollmachtigten fur die Kriegswirtschaft ist es,
alle wirtschaftlichen Krafte in den Dienst der Kriegfuhrung zu
stellen.≪)
1934年以降、秘密裏の武器輸出→1935年11月の武器輸出法改正→1936年、武器輸出ドライブ(外貨獲得、原料獲得の手段、南東ヨーロッパ諸国との協力関係構築)
1936年夏のヒトラー覚書と9月党大会での四カ年計画発表・計画執行全権としてゲーリング
1937年11月5日会議(ホスバッハ・議事録)・・・ヒトラーの見地[3]、これに対する軍事専門家(フォン・ブロンベルク、フォン・フリッチ)のザッハリッヒな見地からの異論、フォン・ノイラート外相の疑念・抵抗・協力拒否・辞任申し出→危機[4]
1938年1月「フリッチ危機」・フリッチュ以後(→フォン・ブラウヒッチ、ベック→ハルダー、シャハト、ヴィッツレーベン)
1938年2月4日以降、カイテル、OKW参謀部長(OKW=国防軍最高司令官ヒトラーの参謀)(参謀本部)
1938年4月22日、「チェコ攻撃計画の会議」
1938年中ごろ以降、シャハトたちはヒトラーのこれ以上の軍備拡大=財政支出に反対の態度を固める(1939年1月2日、決裂、決定的)。
1938年11月29日、シャハト演説(611−EC)
1939年5月23日、「ポーランド攻撃計画の会議」
1939年8月22日、「いまこそポーランド攻撃のとき」と軍指導部にヒトラー演説、軍部における甘い期待
(攻撃の口実、「宣伝上のきっかけは、自分が作る、それが真実かどうかは勝者となれば問われない、戦いをはじめるときは勝つことが第一」云々)
1939年9月1日、ポーランド攻撃の日・ヒトラー国会演説「6年間に900億ライヒスマルクの軍事支出」と。(cf.軍需支出のGNP比率などの統計、900億RMは「誇張」とAbelshauser1998)
両大戦間のドイツの再軍備(トーマス演説・1939年5月・・・大戦末期に近づくと冷徹な敵の潜勢力の評価はヒトラーをいらだたせ、敵を過大評価するものと激怒させる)、急激な軍備増強とその緩和提言(シャハト)
ゲオルク・トーマスの『防衛・軍需経済史』
1939年9月以降、ベック、ゲルデラー
1940年12月18日、対ソ攻撃・総統指令第21号「バルバロッサ」
1941年4月4日、ヒトラー・松岡会談・・・対米戦勃発の場合の協力、潜水艦戦争に関する経験と最新技術・発見の提供を要請。ヒトラーは、対ソ攻撃の背後を日本が攻撃することをねらう。
1941年4月20日、日ソ中立条約を受けてのヒトラーの態度(対ソ攻撃計画は伏せたまま)
1941年5月2日、「バルバロッサ作戦」:ドイツ国防軍をロシアの食料でまかなう・・・現地の「何千万人が餓死することになろう」
1941年7月10日 リッベントロープから東京のドイツ大使宛電報(「あらゆる手段を講じて日本を対ソ戦に参加させよ」)
1941年11月28日 リッベントロープ、日本の対米英攻撃を鼓舞
1941年12月7―20日、陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチ、辞任・・・ヒトラーが直接陸軍最高司令官に。
第三帝国最初の「冬の危機」