西洋近現代史研究会のみなさま
(当日共催の現代史研究会のみなさま)
(会員外にも自由参加を呼びかけ、うれしいことに、成城大学一年生1名、
高校生1名が対面参加とのこと)
対面でご参加いただいたみなさま、紙ベースのレジュメを配布せず、
電子版だけで失礼いたしました。
当日小野寺さんと武井さんからいただいたコメントとその後の応答・議論を踏まえて、
対面・口頭での説明・証拠提示の欠如、不十分さなど、私の立論の不明瞭さを意識して
12月9日以降、若干の論点を文章化し、追加版レジュメとします。
当日のレジュメそのものは、追加版のあとに配置してあります。
西洋近現代史研究会のみなさまで、暫定的メモ的な下記レジュメ等に関して、
もし何がご質問、ご意見――もちろんご批判もーーが
ありましたら、nagamine@yokohama-cu.ac.jpまで、
お知らせいただければ幸いです。
可能な限り、ご回答いたします。
①ヒトラー「狂人」の定義をめぐる問題・・・私は、狂人か正常人かをめぐる判断基準は、抽象的すぎると考える。
ゲーリングがニュルンベルク裁判等で証言しているように、また、権力掌握過程、
権力掌握後の6年ほどの国民的熱狂が示すような「天才」観が、戦争に突入(ポーランド侵略)し、
西部ヨーロッパを電撃的に制圧して、パリに入場したヒトラーを、国民大衆が熱狂的に感激したことからも、
むしろ、1940年8月ころまでのヒトラーの民族主義的ヨーロッパ征圧に、ヒトラーの天才性を認めたのが、
ドイツ民衆の圧倒的多数であったことを直視すべきであると考える。
「天才」と感じさせ、神話化の素材となった諸要素・諸成功(戦勝諸段階)の中身を正確に位置付ける必要がある。
ヒトラー「狂人」視は、独ソ戦、世界大戦、総力戦の敗退から、最終的にベルリン総統大本営地下壕における
発言などをみて、
すなわち、失敗の総体の形成過程を見て、段階的に形成されていったものとみるべきであろう。
(成果として誇れる業績は、地下壕に追い詰められ、自殺寸前になって、
中欧からのユダヤ人絶滅しかなかったという
暗澹たる結末、そんなことしか誇れなかった)
しかし、拙著『独ソ戦とホロコースト』で見たように、大戦末期におけるドイツ民衆は意識の上においても、
実際の生活上においても、敗退・犠牲増大の絶望的意識のなかでなお、「ヒトラー神話」の呪縛から逃れられない
「麻痺の構造」にあったというのが本当であろう。ナチ政権初期から1938年10月(ズデーテン併合)までの
経済復興・平和的大国への道、その諸段階の神話に呪縛されて、そこからの脱皮は困難を極めた。
人体で表現すれば、体の末端・表層・皮膚の部分から傷が多く大きくなり、体全体に麻痺が広がって行き、
その具体的な麻痺の進展ごとに思考・意識も、麻痺し、最後には、「ネロ命令」のような全くの非合理的な
ドイツ民族自殺正当化のような「狂人」状態=極端な耄碌状態に。
②ユダヤ人絶滅政策が徐々に形成されていく過程に関して
(「シームレス」ではなく、段階ごとの特質・飛躍があるとの立場で)、
41年7月説(いまではヒトラーの「大々的命令」との混同が誤りと判定されている。
・・・Cf.モムゼン2010の総括。
混同されたゲーリング7月31日命令に依拠した立論が、90年代末、ないし、
2010年頃まで長きにわたって維持されてきた41年7月説。
拙著(1994)12月説が、「研究史」になかったのは、ある意味では当然。
さらに41年9月説・・・プロテクトラート危機(独ソ戦での苦境=電撃戦挫折、長期戦化を反映、
ハイドリヒ・プロテクト―ア代理に任命、ハイドリヒの苛烈な抵抗鎮圧)、
41年10月末から11月末説・・・1941年10月25日ヒトラー食卓談話、1941年11月18日のローゼンベルク発言
などに依拠。
前者は「来春までの」部分的一時的解決策を意味し、
すべて「ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅」を意味するものではなく、
なお、戦後(戦勝後)の東方移送を想定したものであった。
モスクワ総攻撃のタイフーン作戦で全軍を𠮟咤しているとき、冬までには、
少なくとも「来年春までには」、
ソ連を屈服させるという構想(希望=結果から見れば妄想)段階だった。
「ソ連は10月末までは政治的軍事的崩壊の直前にある見えた。」(Raphael2011、234)
41年11月までのドイツ・プロテクトラート等のユダヤ人東方移送
(現地受け入れ困難によりミンスク、リガなどで射殺)は、
全体的絶滅方針がヒトラーによって断定される(41年12月12日ゲッベルス日記記載)前の
暫定的・地域的・臨時的政策であったに過ぎない。
後者・・・1941年11月、「冬の危機」を反映。
ローゼンベルクは宣伝理論家として、東方占領地域大臣として、
「600万ユダヤ人の絶滅」を課題として提起、
しかし、そのような巨大な(全ヨーロッパ的な全体的な、1100万のユダヤ人に関する)絶滅命令を
発する権限・能力は、ローゼンベルクにはなかった。彼は単に東方占領地域担当であるにすぎない。
しかも、親衛隊全国指導者・ドイツ警察長官とソ連占領地をめぐる権限争いをするレベルであった。
(ローゼンベルクとヒムラーの占領地統治をめぐる権限争い)
この巨大な命令は、ヒトラーを置いて他にはなかった。
12月12日のアメリカの対独宣戦布告をうけての同日のヒトラーの断定
(もはやこれまでの予言・警告・脅迫ではない、執行を断じ命じる)は、
ゲッベルスが日記に記録したもの(41年12月12日ゲッベルス日記記載)。
1941年11月までのルブリンなどでの絶滅収容所建設は、
まだ、直面する地域的・臨時的問題・課題解決の枠内での、
総督府および東部占領地域(白ロシア湿地帯など)における
ユダヤ人受け入れ不可能性の高まり・現地との激しい押し付け合い対応した
部分的臨時的なものに過ぎない。
(ただし、11月末になると、「冬の危機」で、ユダヤ人排出・排斥・追放圧力は、
ますます強く大きくなる。その圧力は、12月5日開始のソ連・シベリア軍団30個師団
による大攻撃を受けての陸軍最高司令官の撤退許可要請の拒否による精神病、
ヒトラーが陸軍最高司令官も引き受けるほどの軍事的窮状で一挙に高まる)
全ヨーロッパ的課題を提起する決定的変化は、やはり、日本の真珠湾攻撃を受けての
戦争主体としての巨大国家(経済力、潜在的軍事力、科学技術力など)アメリカ合衆国の
参戦がもたらしものであり、
ヒトラーの対米宣戦布告、それを踏まえた世界戦争への突入というヒトラーの断定
(41年12月12日ゲッベルス日記記載)によって生じた。
これこそが、総督府ポーランド、ドイツ占領下非戦闘地域の西ヨーロッパなどの
ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅への画期となった。
1942年年末までに、ポーランド総督府ユダヤ人(250万のうち多くは労働能力なしと、
ヴァンゼー会議議事録末尾に・・・実際に、7月のヒムラーの命令も受けて、年末には30万のみ))
③ヒトラーの世界観・征服正当化イデオロギーの重要性・・・私はまさにそれを正面から見据えるべきだという見地。
その点は、最初期論文ヒトラーの思想構造:永岑(1982):『わが闘争』の立体的構造分析の核となる見地である。
ヒトラー・ナチス国家・ナチズムの行ったことを「合理性」かどうかの判断基準で見ていく史観には、批判的である。
私は、ヒトラーの思想行動が「合理的」であったなどとは見ていない。
「合理性」を判断基準にするのが機能派だと定義するのならば、その意味では、わたしは機能派ではない。
私のスタンス=方法は、意図主義でも機能主義でもなく、2003年の著書のタイトルに明記したとおりである。
私はヒトラー・ナチズムの思想と行動を「敗北の克服」を中心に据えた世界観・思想体系とみており、人種帝国主義、
民族帝国主義の論理と行動においてみている。
ヒトラー・ナチズム思想(構造)は、『わが闘争』、『第二の書』に体系化された世界観・世界史像を
総括的に示すものとしての第一次世界大戦の「敗北の克服」を軸とした諸思想・諸観念。
(優等人種の劣等人種支配征服正当理論、アーリア人種・ゲルマン民族を頂点に置き、諸人種をその下に位置付け、
最底辺にユダヤ人・ユダヤ民族・ユダヤ人種を位置付ける思想体系、社会ダーウィニズム論による
征服支配正当化、人種理論(優等人種による劣等人種の支配征服隷属化によって説明する態度など)
とみるべきだという立場に立つ。
ヒトラーの思想構造:『わが闘争』、『第二の書』、同)
この思想・理論体系から、東方大帝国建設、ユダヤ=ボルシェヴィズム打倒、ソ連征服が位置付けられる。
その征服戦の実行は、ヒトラーのもろもろの思惑・判断、国際関係の展開等によって、1941年6月22日となった。
(この6月22日演説がしめすように、ソ連への奇襲攻撃の根拠づけ=正当化は、逆に、ドイツとヨーロッパの防衛だとする。
(奇襲攻撃を行う前に、ポーランドの場合のように、防衛を演出するためにポーランド兵による国境侵犯を捏造)
他方、欧米のユダ人は、1939年1月30日国会演説が示すように、
「ユダヤ国際金融資本」の握り手として、「世界戦争を引き起こす」犯罪者の位置づけられる。
④第二次歴史家論争における論点に対する私の態度。
「唯一無二性」の諸論点批判の見地・・・ホロコ―ストの現象・帰結が、独ソ戦、世界大戦、総力戦
の世界史的な全体未聞の規模にあり、最底辺に置かれたのがユダヤ人(民族・人種)であったことによる。
無目的な、絶滅のための絶滅などというのは、拙著4冊が明らかにした歴史の実体・総体をみていない。
第一次世界大戦(世界戦争)におけるドイツの敗北がもたらした11月革命とヴェルサイユ体制、
それに対するドイツ民族主義(ドイツ民族第一主義)、ドイツ帝国主義、ドイツ人種主義等々の新ヴァージョンとして、
ヒトラー、ナチズムを見る。
上記ヒトラーの思想構造を見る見地。
第一次世界大戦の勝者が、ドイツの単独責任を断定したこと裏返しが、
ヒトラー、ナチズムにおける「ユダヤ人・民族・人種の単独責任、最終責任」の論理。
⑤ナチスの問題、ホロコ―スト問題に関する市民(大学院修士課程修了)の方からの質問:
ローゼンベルクの日記の発見で何か変わったのですか?
・・・日記「発見」(?注記(5) 参照)では、公開ドキュメント:1941年11月18日新聞報道)、
「秘密」情報とは言えず、この点は日記発見では、何も変わらない。
ローゼンベルク・新聞報道は、公開のもの。
拙著(1994)247では、ヒトラーの「世界戦争だ、ユダヤ人絶滅だ」(12月12日)との演説を受けた
12月14日のヒトラー・ローゼンベルク会談(ニュルンベルク裁判証拠文書:1517-PS)を12月説の根拠している。
栗原さんが私の説を12月説だと評したのは、この箇所・この文章の理解においてである。
ローゼンベルクは、人種主義的反ユダヤ主義の「理論家」として、ヒトラーが困惑するほど
(ローゼンベルクの人種理論・反ユダヤ主義の細部は、緻密すぎて、うるさい、もう任せた、と)、
ユダヤ人絶滅思想を主張していた。
この思想の実行へに拍車をかけようとする態度が、ソ連攻撃準備が進む段階で、
すなわち、バルバロッサ指令(1940年12月18日)から約3か月後の1942年3月には、露骨に出始めていた。
それが、はっきりと公然と示されたのは、1941年11月18日のことであった(典拠…ヘルベルト183、注5)。
まさに、「冬の危機」が先鋭化し、
ナポレオンの壊滅的モスクワ敗退がしかるべき軍事指導者、ソ連地域占領担当者たちの脳裏に鮮明化する状況、
この独ソ戦の戦況段階、占領統治の困難が深刻化する段階、であった。
しかし、ローゼンベルクは、東方占領地相に過ぎず、ユダヤ人問題の深刻さ=絶滅の必要性を公言しても、
それを実行に移す権限はなかった。そのような大々的なヨーロッパ・ユダヤ人絶滅の断定(絶滅執行の断定)は、
ヒトラーにしか出来なかった。
アメリカの対独宣戦布告を受けてのヒトラーの断定(41年12月12日ゲッベルス日記記載)
アメリカの世界戦争責任=ユダヤ人の世界戦争責任の論理。
私の12月説の根拠:ヒトラー・ローゼンベルク会談記録1941年12月14日・秘密ドキュメント1517-PS)
こうした状況下、東方占領地域大臣ローゼンベルクは、自らの統治下に、ユダヤ人を受け入れるなどということには
隣接する総督府のユダヤ人排斥=追放圧力があるだけに、絶対的に拒絶しなければならなかった。
だからこそ、600万の絶滅を統治の課題として「断言」した。
大臣フランクは、総督フランクの要求に対して、ユダヤ人を「自分で始末しろ」、「自分で抹殺しろ」とはねつけた。
まったく拒絶の態度であり、
⑥ゴールドハーゲン論争に対する私の立場・・・方法的スタンスは、2003年の著書のタイトルで示したもの。
ホロコ―ストを「ドイツに特有の特別過激な400年にわたる反ユダヤ主義」によって説明することを批判否定。
反ユダヤ主義が苛烈になり、殺戮を引き起こすのは、ルター「ユダヤ人のうそ」からの長い400年の間に、
ずっと続いていたわけではない。
『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001(表紙・帯参照)。
史料は、半年間、コブレンツのドイツ連邦文書館(当時本部本館)で主として調査した
ヒムラー親衛隊警察長官・幕僚文書や、
ハイドリヒのライヒ(帝国)保安本部Reichssicherheitshauputamt,RSHA)文書(R 58)に依拠。
⑦ヒトラーが、41年12月以降、「死の観念にとらわれていた」、それが「ユダヤ人絶滅の背後にある」
という説について。
1941年12月の敗退、モスクワ前面の危機は事実として、それをヒトラーの個人的死の観念と結びつけ、
ユダヤ人絶滅とまで結び付けるのは、問題・・・歴史的変化、軍事的敗退といった総体的現象をそのように
見るのは、ヒトラー中心主義の再版であり、ナチス・ドイツ理解の後退というべきであろう。
⑧ポストコロニアルの現代における「忘却」に関する議論
ケルブレ『冷戦と福祉国家』第9章の見地から、二つの世界戦争の時代を想起し、二つの世界戦争の時代の密接な連関性、
その質的違いを強調する立場を説明。(十分に展開する時間がなかったが)。
ヒトラーにおける「世界戦争」の重大さ、「世界大戦」への突入とヨーロッパ・ユダヤ人絶滅決定の
深く根本的な関連性を強調。
ホロコ―ストにおけるヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策への飛躍・画期が、世界戦争への突入との関係で、
厳然として存在するとの立場を、実証的根拠をもとに説明。
ーーー以下、2024.12.08当日レジュメ電子ファイル版(対面で紙ベースでは配布できませんでした)ーーー
西洋近現代史研究会合評会:
拙著『アウシュヴィッツへの道――
ホロコ―ストはなぜ、いつから、どこで、どのように』
(横浜市立大学新叢書13)春風社、2022年3月
冒頭(与えられた40-50分ほどの時間)の執筆者報告ノート
自著紹介:「第二次世界大戦Weltkriegはいつから始まるか
ーーヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策=1941年12月画期説の見地からーー」
はじめに
拙著合評会という貴重な機会を、師走の皆様忙しいなか、いただき、感謝いたします。
研究会委員のみなさま、そして、
コメントを引き受けていただいた第三帝国関係の研究最先端で、
問題提起的お仕事を次々と出されている小野寺さん、武井さんに、深謝いたします。
問題の限定(本日のお話の焦点)
武井さんの翻訳書にもありますように、ホロコ―ストをめぐっては、気の遠くなるような多岐にわたる研究がでております。
どこかに的を絞らないかぎり、歴史研究の実証的検討に入っていけません。
私の実証的研究の焦点:論争史:
ヒトラーのヨーロッパ・ユダヤ人「絶滅命令」をめぐる欧米の論争史
(否定論の諸潮流とこれに対峙する歴史研究の積み重ね)
その日本でのひとつ:私にとっては、栗原氏(1990年代半ばまでの欧米研究史)との論争
実証の焦点・歴史理解の対立点は、1941年7月末・8月(栗原説)か、同年12月(永岑説)か
(ゲーリング命令=委託7月31日説、ヒトラー対米宣戦布告・世界戦争への突入の12月か)。
現代的問題関心との関連:
①現在世界の一つの重要関心(戦争、侵略、大量虐殺、ジェノサイド関連で):
㋐ロシアのウクライナ侵略戦争の長期化・ミサイル・ICBM・核兵器(?脅迫)等
武器高度化・北朝鮮参戦・・・更に??
ロシアのウクライナ侵略戦争が世界戦争に発展するのか、
(インターネット上には、その危惧・不安を表出したサイト等がたくさん)
すでに「第三次世界大戦は始まっている」(一部の著名人の言説)といえるのか。
ロシアが理性に立ち返り、それにウクライナが譲歩(その条件がいろいろ呈示されている)することに成功すれば、
話し合いで妥協的停戦が実現するとすれば、
「第三次世界大戦」への拡大は阻止されるであろう。
戦争のダイナミックな展開を世界全体の政治経済社会の変化と合わせて、見ていく必要があろう。
㋑ガザのジェノサイド
ガザのジェノサイド(パレスチナ人、ガザ市民への老若男女を問わない大量殺害、
口実・正当化理由=「テロ組織ハマス殲滅」)
イスラエル国家(シオニスト、シオニズム国家)は、建国の理由・正当化根拠の一つに
ナチスの迫害・殺戮(=ホロコ―スト)を掲げている。
しかし、
イスラエル国家が戦後の建国以来、ずっとやってきたことは、
パレスチナ人の追放(パレスチナ人にとっての「ナクバ」、
迫害、殺戮、民族浄化、居住空間・生活圏の圧縮といった、
ナチスがやったホロコ―ストと同じではないか。
シオニズム・シオニスト国家イスラエル・・・・強烈な民族主義(シオニズム)、武力による国家建設、
武力による先住民排除、植地・領土獲得・拡大、違法領土拡大の連続ではないか?
ナチズムとシオニズムは、同じ思想潮流であり、行動原理も同じ、ないし太い共通性。
Cf.シンポジウム報告:永岑「ガザ侵攻に対するホロコ―スト研究者の視点」
明治大学国際武器移転史研究所主催、第11回公開シンポジウム報告。
②第一次世界大戦も、普通には、1914年7月―8月から始まるとされるが、
研究史の論争が明らかにするように、また、当時の世論等からしても、
戦争勃発と同時に世界戦争・世界大戦に突入したとは言えないであろう。
(アメリカ参戦までを考慮すれば、3年近くで世界戦争へ)
1918年までの経過すべてを踏まえたうえでの、通説・教科書的定義を見直す必要があるのではないか?
「ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策」の時期を考えるとき、こうした問題が出てくる。
③第一次世界大戦・世界戦争の原因論・突入原因に関しては、膨大な研究と論争がある
(小野塚知二編『開戦原因の再検討』)が、
第二次世界大戦・世界戦争の原因に関しては、どうか?
第一次世界大戦・世界戦争と第二次世界大戦・世界戦争では、相互の密接な連関性と同時に本質的決定的に違うのでは?
第一次世界大戦は、諸列強(ある意味で対等の大国)それぞれに「自由のため」、「防衛」などの戦争正当化を出来たことに対比するとき、
第二次世界大戦では、ヒトラー・ナチ国家指導部の戦争の段階的拡大における主導性・犯罪性は、明確。
その点では、第二次世界大戦においては「戦争責任」問題は、起きようがないのではないか。
(ただし、第一次世界大戦との連続性の側面から見れば、単純なヒトラー・ナチズム単独責任論は、説得力を持たないであろう。)
ヴェルサイユ条約体制(パリ講和会議・戦勝列強の敗者に対する戦争責任押し付け、
ドイツ領土縮小・植民地剥奪、ドイツ単独責任=「天文学的な」莫大な賠償)の決定的意義
(「勝てば官軍」、「力が正義」)
・・・ヒトラー・ナチ党・その支持国民大衆にとっての世界大戦・世界戦争・その敗北という経験の意味・重み。
(世界戦争「敗北の克服」を基本戦略とするヒトラーの思想構造:『わが闘争』、『第二の書』、同)
「第二次世界大戦」の場合、
世界大戦・世界戦争の定義は?
いつから「世界大戦」、「世界戦争」と規定できるのか?
当時の人びとは、いつから世界大戦・世界戦争と認識したのか?
ヒトラー国会演説(1939年1月30日)の想起=ゲッベルスの宣伝(1941年11月特別宣伝スローガン)、すなわち、
「世界戦争が再びユダヤ人によって引き起こされたら、
ヨーロッパのユダヤ人の絶滅だ」という宣伝文句は、
裏を返せば、
いまだ、「世界戦争」になっていないこと(ゲッベルスやヒトラーの認識・定義)を意味しないか?
1941年11月でも、多くのドイツ人は、少なくともゲッベルスの宣伝を傾聴する多くのドイツ人は、
「いまや世界戦争だ」、「世界戦争が始まっている」と認識していなかったのではないか?
ヒトラーは?
そのメルクマールは?
ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅は、この文字通りの、現実の世界戦争との関連性を抜きには考えられない。
Cf.通説的イメージ・定義(教科書的表現)
栗原氏の場合(時期規定)・・・栗原1994(目次)・・・「大戦の勃発」
「第二次世界大戦は、ドイツのポーランド一国に対する小戦争から発生したものである。」(629)
他方で、「英仏との大戦争」。「イギリスとの大戦争」という表現・・・実際に即した表現。
(1941年12月までは、主たる戦場はヨーロッパ、したがって、ヨーロッパ戦争という規定がふさわしいだろう。
だが、大英帝国の戦争は世界的植民地所有国として、世界的広がりを持っていたことには、注意が必要。))
(この段階では、当然ながら、アメリカ参戦による世界戦争・グローバルな戦争は必然的とは想定していない。
1939年9月から、これは世界戦争だと断定出来なかった、というのが本当ではないか。
「1939年9月1日から世界戦争が始まる」というのは、その後の戦争の拡大を踏まえた結果論
(その後1945年までの経過をすべて知ったうえでの)でしかないのではないか。)
栗原2024(はじめに、目次)・・・ユダヤ人絶滅との関連
「第二部 第四章 6「ユダヤ人絶滅政策の成立」、(5)ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策の成立」・・・
・・・「成立」?
1941年10月末以降、独ソ戦の戦局が悪化するにつれて、
ユダヤ人絶滅を口にするようになったのも事実である(385)。
・・・??、つまり、予言・脅迫の類…実際の絶滅政策への急進化とは別次元。
欧米の多くの研究で転換点(ユダヤ人移送政策から絶滅政策への転換)の典拠とされるのは、
総統大本営ヒトラーのヒムラー、ハイドリヒへの食卓談話1941年10月25日
このヒトラーの話をどう歴史に位置付けるか?
通説的理解でいいのか?(永岑説:通説は談話の評価において誤り)
ヘルベルト(ドイツ語原文2016, 91、邦訳182), カーショー(英語原文488、邦訳517)
カーショーの488の注(144, 出典Monologe,106)と
ヘルベルトの91の邦訳182の注4(出典ADAP)・・・私はADAPのこの箇所に当たれていない。
邦訳中には注記でADAPの該当ページが出ている。
ADAPが正確だとすれば、ドイツ語原文は、Hunderttausend(単数、10万)のはず。
(ADAPの該当箇所を調べてみた。その結果、Herbertが、ヒトラー10月25日談話の出所を誤っていたことが判明)
そして、ドイツ語原文の数(単数形の十万)は、対米宣戦布告の国会演説(12月11日)でヒトラーが公然と語った
戦死者数16万余(12月1日までの数字)に照応する。
つまり、複数のHunderttausendeにはならない。
(「今度の戦争」の犠牲者数を、ヒムラーやハイドリヒに対し、実際の数倍に盛って語る必然性はない。)
(ヒトラーが、戦争の戦死者を200万というとき、それは、第一次世界大戦の戦死者の数である。
アメリカホロコ―スト博物館の「第一次世界大戦(簡約記事)」によれば、
ドイツの戦死者は177万人であった、という。
他方、負傷者までいれると、「8月末までだけで40万人以上の戦死者と負傷者」とされる。Raphael(2011),234
だが、10月末談話で、わざわざ負傷者数まで入れて、「数十万」と犠牲者数を誇大に述べるのは、ありえない。
卓上談話の表現は、幾重にも、錯誤、記録ミス、とみるべきであろう。)
カーショーが依拠する 『ヒトラーのテーブルトーク』上、145, Monologe im Führerhauptquartier,44(S.106)
邦訳(この日の談話の冒頭解説)の問題・・・ヒトラーは、この語りにおいては、「二つの世界戦争」などといっていない。
「今度の戦争」が、世界戦争だといは言っていない。結果を知ったうえでの談話の理解、「解釈」としは、誤りではないか。
ヒトラーの1939年1月30日の有名な国会演説において、「もしも再び世界戦争を引き起こしたら」と、「世界戦争」を明言している。
ところが、この談話では、無限定の「戦争」を使い、「戦争が不可避のままならば(wenn der Krieg nicht vermeiden bleibt)と 話している。
なぜ、この1941年10月25日の時点で、ヒトラーは、自分の国会演説と同じ言葉、「世界戦争」を使わないで、単なる「戦争」を使っているのか?
1939年9月1日から1941年10月25日までのすべてのドイツ人戦士者を「数十万」と見積もって見せたのか?
私の解釈では、「世界戦争」という言葉をつかいたくなかった。
具体的証拠としては、たとえばイギリスとの妥協の可能性さえ、翌日―翌々日のフリッケ提督との談話の中で、語っているからである。
しかし、この文脈で大切なことは戦死者の数ではなく、「戦争の責任はユダヤ人だ」ということにある
(反ユダヤ主義者・自動車王フォードの主張と同じ
・・・フォードは大々的なユダ人=世界戦争責任論を雑誌・著書を通じて振りまいていた)。
そして、ドイツ人戦死者(ドイツ人の犠牲)に対して、ユダヤ人を湿地帯に追放する(in den Morast schicken)
という恐怖が先走れば(wenn uns der Schrecken vorangeht), それはいいことだ(es ist gut)
(永岑解釈・・・まだ1939年9月1日の予言の段階には達していない、世界戦争にはなっていない、
というのがヒトラーの認識。
したがって、ユダヤ人絶滅という恐怖が先走っても、いいのだ、と。
そもそも、1941年10月25日のヒムラー、ハイドリヒ招待は、ドイツおよびプロテクトラートからの
一部ユダヤ人東方移送(ポーランドから切り取りドイツに併合地した地域の東端の都市リッツマンシュタット=ウッチに)に関して、
そこで発生した問題、受け入れゲットー・ウッチゲットーの受け入れ不可能な状態をどう解決するかの相談、とみるのが妥当。
当初予定の6万人――後、4万人に削減――の東方への追放を敢行するとすれば、
射殺しかない、ということの確認とみるべきであろう。実際に、追放先を変更してリガとミンスクにしたが、射殺。
そんなことは問題ない、世界大戦(世界戦争)200万の戦死者を考えれば、と。
大々的なユダヤ人絶滅計画・政策の実行の走りとは言えない、と解釈する。部分的臨時的解決策段階。
戦争勝利、戦後の大々的移送の構想はまだ消失していないから)
ヘルベルト(Hunderttausend)とカーショー(Hunderttausende)の違い。
実際にヒトラーが、1941年12月11日のl対米宣戦布告で語ったドイツ軍の戦死者・負傷者、行方不明者の数、
戦死者はこの時点では「数十万」ではない。12月1日まででも、16万余。
(対するソ連戦時捕虜の統計、大包囲戦後の捕虜数、1941年末で330万人、うち200万余は死亡。)
カーショーの488(注144)の本文中引用最後の文章:
The attempt to found a Jewish state wii be failure.(この部分がヘルベルトでは省略されている)
ユダヤ人国家を建設しようとする試みは、心配に終わるだろう。
すなわち、シオニスト国家建設を否定した(Der Versuch, einenJudenstaat zu gründen, wird ein Fezhlschlag sein)のである。
10月25日にヒトラーがヒムラーとハイドリヒを前に語ったことを読めば、
翌実のフリッケ提督との談話で語ったイギリスとの関係での妥協の可能性、その他、かなり楽観的な雰囲気が浮かび上がる。
永岑解釈:
「ユダヤ人を絶滅」の始動、とは、言えない。
ヒトラーの話を素直に読めば、ユダヤ人を泥沢地に追放してもいいではないか、
そのような追放で、ユダヤ人が根絶されるという恐怖が先走っても構わない、と。
つまりは、1939年1月30日国会演説と同じような脅迫・強がり
私はむしろ、ヒトラーの頭には、1941年10月末でもまだ、プリピャチ湿地帯=白ロシア泥沢地への追放、という
「戦後計画」の一つが強く残っていた、とみるべきである。
この計画は、勝利を確信(予定)した言説。
1941年10月は、まさに、モスクワ攻撃を開始して一か月近く、全身全霊でモスクワ攻略に打ち込み、
ソ連首都を壊滅・占領するという計画、したがって、それに成功して、
ソ連にプリピャチ地帯を提供させる、と構想していた、とみるのが妥当と。(永岑説)
ヒトラーと第三帝国の国家・軍の「今度の戦争」の認識は?
1941年10月末は、まだ、世界大戦・世界戦争、とは考えていない。
独ソ戦で、モスクワ攻撃最中であり、それに全力を投入している段階であり、
世界戦争になど、まだなっていない、と。
1941年10月末から11月、さらに12月のヘウムノ、ベウゼッツ、そしてアウシュビッツ基幹収容所
でのガス殺施設の建設・執行
・・・10月末開始の臨時的措置(9月中旬「総統のご希望」の執行-10月25日確認)に対応、
大々的な絶滅政策への転換ではない(永岑説)。
「
1941年11月第三帝国最初の「冬の危機」・・・東部占領地域省(ローゼンベルク大臣)でも、危機深刻化。
ユダヤ人絶滅への圧力要因の急速な高まり。
11月18日、東方占領地域大臣ローゼンベルクの記者会見での発言・・・極秘:600万人絶滅の必要性。
総督府やドイツ・保護領などからのユダヤ人受け入れ不可能。
1941年11月末には、総督府のユダヤ人問題が深刻化
・・・処理をめぐる紛糾、当初予定外の総督府次官も招聘(1941年12月16日閣議フランク総督発言につながる)。
私の見地は、ヒトラー第三帝国最高指導部の認識は、
1941年12月(対米宣戦布告)から「ユダヤ的世界勢力によって余儀なく世界戦争に突入した、と。
(ヒトラーの1941年12月11日の対米宣戦布告の国会演説のエッセンス)。
この世界戦争の責任は、ユダヤ人にあり、と。
(ヒトラーの41年12月12日大管区指導者等、ナチ党最高幹部への演説・・・ゲッベルス日記)
ヒトラー・ナチ国家指導部(そしてその背後にあるナチ党員大衆、国民大衆)にとっては、
1941年12月は、
①電撃的に占領した西ヨーロッパ諸国・イギリスを中心とする敵との戦争からの圧力
(ドイツ・オーストリア、プロテクトラートのユダヤ人の排出圧力=強制移住圧力)、
②独ソ戦の泥沼化の重圧
(ソ連ユダヤ人の絶滅への圧力)、
③それに加えたアメリカとの戦争による重圧
(世界戦争への突入と敗北の予感、総力戦と占領下治安秩序の厳しい相互関係)
しかも、総力戦化・その泥沼化・・・戦争経済の総力戦への転換期:四か年計画転換総括。
この三重の重圧のはけ口・いけにえとしてのユダヤ人排除、さらには絶滅の実行へ。
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本書に至る経過:
直接的契機:この間、
史料集『ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人の迫害と殺戮 1933〜1945』全16巻、
2008年から史料集、刊行開始。.
(史料集のタイトルが、ホロコ―ストではないことに注意。
ホロコ―ストの多義性・多様な使われ方の問題)
しかし、この史料集の完結が迫るなる中で、
最初の単著、すなわち、
拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942』同文舘、1994
(主として依拠したのは、Europa unterm Hakenkreuz, 特にSowjetunionの巻)
の確認。
上記全16巻、最新の包括的史料集に基づきながら、
1994〜2000年代初頭に、自分がかかわった論争についても、今どうなっているのか、吟味の必要。
欧米における沢山の実証的理論的著作、そしてさまざまの論争を反映した本格的史料集。
問題関心の焦点:
私が直接かかわった論争点
*アウシュヴィッツ否定論(日本への登場、マルコポーロ事件)との対決・根底的批判の必要性、
*歴史科学的契機は、特に、拙著(1994)に対する栗原優氏『歴史学研究』書評、そこでの批判的コメント、
ヒトラー、第三帝国、ホロコーストをめぐる多くの論争点のなかで、
ひとつの論争点は、極右作家アーヴィングの投げかけた問題(ヒトラー直筆署名の「ユダヤ人絶滅命令文書はない」)、
ヒトラーの大々的な「ユダヤ人絶滅命令」の有無、あるとすれば、その形態や時期
栗原氏書評(拙著1994の丁寧な紹介、いろいろの問題点の指摘、その書評の最後に、
永岑のヒトラー絶滅命令1941年12月説は、欧米の「研究史」を無視したものだ、と。
(1990年代半ばまでの研究史は、
実際には、後述のモムゼンの2010年総括が示すように、欧米における1990年代までの研究史の限界を示すもの、
ある意味で私の12月説は、それまでになかった。)
(ヴァンゼー記念館の史料紹介パンフレット:佐藤健生監訳も、1941年7月説)
(ソ連崩壊後の史料と思考枠組みの自由化で、「ヒトラー絶滅命令」の時期をめぐる論争、再活性化
2006年以降のヴァンゼー会議記念館の展示史料・解説(2015J)は、1941年11月末・12月18日説、
世界戦争だ、というヒトラーの全国指導者・大管区指導者への演説の決定的意味を私のようには明示していない。
ヘルベルト2014は「遅くとも12月初めまでには」475と。
私の1941年12月11日、12日説=世界大戦突入説とは違う)
栗原氏(1997)は、それまでの欧米の研究史を踏まえ、1941年7月末・8月初旬説。
(その主要「証拠」とされるのは、
①1941年7月31日のハイドリヒへの命令=委託、
および、一連のアイヒマンの戦後証言
②8月から始まるソ連でのユダヤ人老若男女無差別、大量射殺。
それへの私なりの応答が、下記の2冊の拙著、
『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001、
41年7月末から8月初旬のユダヤ人大量殺戮(射殺)は、
ヒトラーの大々的ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅命令によるものではなく、
バルバロッサ作戦のもとで、独ソ戦の闘いの熾烈化の現象、との立場。
立論・実証の根拠:
半年間の在外研究の機会を得て、ドイツ連邦文書館(コブレンツ)の文書の調査、
特にヒムラー幕僚部文書、およびライヒ(帝国・国家)保安本部文書、
そのなかでも事件通報ソ連・国家警察重要事件通報を研究。
他方で、栗原説(1997)の根拠となる諸史料の批判的検証作業、
さらに、ゲルラッハ等、ソ連崩壊後の史料状況を踏まえた研究を踏まえ、
『ホロコ―ストの力学――独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』青木書店、2003
以上の研究の成果を、
16巻本史料集(第三帝国史・ホロコ―スト研究史の到達点を踏まえたもの)を素材に、
実証・筋道の再確認・再検証の必要性。
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課題意識・問題意識の限定:
①最新の史料集(最新の研究の到達点を反映)によって、論争の焦点、すなわち、
「絶滅命令」発令時期に関連する諸問題が、どのように検証できるか、
②独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法・ダイナミズムが私のホロコ―スト理解の重点だが、
第一世界大戦・その終結の在り方、ワイマール期の問題、ナチ政権初期からポーランド侵略、
西方ヨーロッパに対する電撃戦勝利段階も、ホロコ―ストに至る前提条件として叙述にの中に組み入れて
概説を試みる。
③横浜市立大学叢書(教養書としての位置づけ)
その一応のとりまとめが今回の拙著(2010年頃叢書申請、その横浜市立大学新叢書の出版期限2020頃と記憶)。
実証・叙述の絞り込みの課題意識:
アウシュヴィッツばかりがホロコ―ストにおいて特筆されることへの歴史的批判の必要性――
独ソ戦とホロコーストの関連性のあらためての強調。
私の1941年12月画期説の再検証。
(ボリュームの点でも、今回の拙著の範囲に限定する必要があった。)
そうした意味で、極めて限定的な問題意識。
ただ、方法意識としては、
第二の拙著『独ソ戦とホロコースト』2001、『ホロコースの力学――独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』2003で、
明示してきたところであり、その方法意識に、変更はない。
最新の研究状況を踏まえて精選された史料群に当たり、
多様な史料を検討・・・ホロコ―ストの展開に関する私の実証と突き合わせる。
方法意識:
* 意図主義と機能主義の対抗的見地ではなく、意図と機能の総体的立体的な、
闘いの全体状況(戦争の拡大過程・敗退過程)によるダイナミックな絡み合いと展開
において――それを弁証法として端的に表現――、
ユダヤ人迫害と絶滅政策の展開を位置づけ理解するという方法意識である
(研究経歴の最初の段階からの方法的問題意識:
第三帝国における国家と経済をどうみるか、ヒトラーの思想構造への着眼永岑1982)
* 意図主義への批判、そのターゲット:「ユダヤ人絶滅政策」なるものを、ヒトラー・ナチスの二つの目標の一つとする見方への批判
古くはイエッケル、最近ではカーショーなどにもみられる。
この点では、栗原氏と同じ「機能主義」の戦列、「機能主義の勝利」(栗原氏)に同意、
しかし、機能主義の実際の適用の在り方には、私との間に重要な差異がある。
繰り返しになるが、
独ソ戦の現場への着眼、親衛隊・警察の行動(「敵との戦い」の実相・RFSS権限統一命令権)の直視
(この点、拙著『独ソ戦とホロコースト』の主たる史料・着眼点)
12月説への重要な契機:
*四か年計画の総括文書の紹介(1942年春作成の秘密文書
・・・この時点でも「世界戦争」概念は第一次世界大戦のことが暗黙の前提的認識
・・・現在進行中の戦争が世界戦争との認識は官僚層のなかでもまだ一般化していない、
世界戦争に突入したと思っていても、表現は回避)
*1941年12月の歴史的画期性=独ソ戦の決定的転換期の認識
・・・1991年6月、日ソ歴史学シンポ参加時の体験=
モスクワ攻撃を阻止した記念・「巨大な鉄塔」
歴史認識への楔・・・
「ドイツ国防軍はよくもここまで」。ソ連は「よくぞここから」
*ARD「ヴァンゼー会議」(1980年代終わりから90年代にヴィデオで何度も視聴)
(芝健介氏、佐藤健生氏の解説、佐藤氏からは映画作成の監督からもらった80ページほどの史料・)
本書(2022年3月)以後の実証的展開:
今回検討していただく拙著(2022年3月刊)の投稿後、
第16巻、アウシュヴィッツ関連資料集の検討(論文Pdf)、
第15巻、ハンガリーに関する史料集の検討(論文Pdf)、
さらに、ドイツ・西欧からの移送・絶滅政策に関する史料集について検討(2022・08・31投稿の論文Pdf)、
まさに、以上の仕事を終わった段階で刊行されたのが、
栗原優『ヒトラーと第二次世界大戦』ミネルヴァ書房、2023年3月刊。
最近の検討課題:
私が栗原氏の批判を踏まえて、検証し確認してきた1941年12月説が、
果たして、栗原氏(2023)の新著ではどのように位置づけられているのか、
栗原氏のゲーリング命令(1941年7月31日)を基にした7月末・8月初旬説は、今回の著書でどうなったのか、
これを、この間、調べてきた。
結論から言えば、まさに、私の12月説、それに至る過程のユダヤ人迫害の歴史――段階的過激化・急進化――が、
私の実証と重なるかたちで、
さらに、世界大戦に関する豊富な史料・研究を踏まえて、素晴らしい面白い叙述に満ちていることを確認できた。
ただし、7月末8月初旬段階での「絶滅命令」も維持している。
絶滅命令2段階説となっている。 (ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅を意味するのならば、モムゼン2010ンが示すように、研究史無視)
この点だけに一言コメントしておけば、1941年7月31日のゲーリング命令を、
ヒトラーのユダヤ人「絶滅命令」(第一段階)と解釈しているとすれば
--叙述からはそう読み取れるが――、問題であろう。
命令系統の違い、命令の筋道の違い(ソ連ユダヤ人なのかヨーロッパ・ユダヤ人なのか)が、無視されていることになる。
繰り返しになるが、
モムゼン(2010)219も指摘(抜粋メモ)するように、
ゲーリングがハイドリヒに7月31日に与えた全権が、長い間、
ヒトラーの「ヨーロッパ・ユダヤ人問題最終解決」命令と混同されてきた、のである。
ソ連奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)準備段階のユダヤ人移送政策停止(1941年3月)と7月31日の文書は、つながる。
しかし、8月初旬からの老若男女への無差別射殺・殺戮への過激化とは、筋道が異なる。
後者は、バルバロッサ作戦遂行に関わるもの、バルバロッサ作戦(発動・侵攻正当化6月22日演説)における急激な占領地拡大、
対するソ連の反撃・抵抗(赤軍の大量の戦死者・捕虜、パルチザンの活動、アインザッツグルッペへの出動・鎮圧命令、殲滅作戦)の拡大と関連する。
すなわち、
ヒトラーのこの時点でのいわゆる「大々的絶滅命令」によるのではなく、独ソ戦現場(広大な軍後方地域における死闘)の実態。
つまり、バルバロッサ作戦の進展と抵抗反撃の高まりの結果、である。
しかし、前者(1941年7月31日ゲーリング命令)は、戦後のユダヤ人政策のあくまでも準備作業(関係中央諸官庁調整の命令である。
それは、7月末までの「戦勝気分」、短期電撃的ソ連征服に成功する情勢認識のもとでの、
(バルバロッサ作戦のため41年3月停止した)ユダヤ人の「移住Auswanderungあるいは疎開Evakuierung」などで
全体的総体的な解決のため、関係中央諸官庁と準備する会議を開け。
1941年8月から、軍事情勢、国際情勢(大西洋憲章の発表、米英協力の高まり)が変わり始める。
数か月でのソ連征服は不可能なこと(バルバロッサ作戦の短期的実現の不可能性)がはっきりしてくる。
これを受けて、ゲッベルスをはじめとする大管区指導者(ドイツ、オーストリアなど)から、
自分の管轄下のユダヤ人の「移住」、「疎開」、追放要求が高まって来る。
8月後半から9月前半、プロテクトラートをはじめ、ドイツ占領下民政統治の各地で不穏状態
(チェコ人たちの意識:「世界戦争の終わり」との比較、抵抗鎮圧・ユダヤ人排出要因の累積、
戦争の頂点に立つヒトラーは、この段階ではキエフ攻防戦の戦果に満足・楽観)
ハイドリヒをプロテクトラート総督代理に任命
(1941年9月24, ヒトラーが苛烈な処置の執行者として命じる、
10月2日総統指令による最大限の苛烈さによる治安確立S.108を行う、
今は、DolchstossS.113-114の状況だ、とハイドリヒの危機意識)
8月後半から9月前半にかけて、ヒトラーの方針に変化・・・「総統のご希望」
プロテクトラートなど占領地からの抵抗・不穏な動向をうけて。
「来年春までの臨時措置」としての部分的な「移住」・「疎開」の実施へ。
10月15日から、ユダヤ人のウッチ(リッツマンシュタット)への移送・・・受け入れ不可能な難問群の露呈
10月25日 ヒトラーとヒムラー、ハイドリヒの会談(ヘルベルトの10月―11月説の重要根拠)
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問題提起:世界大戦はいつ始まるのか? ヒトラーの意志・認識においては、いつなのかなど?
「第一次世界大戦」の概念は、第二次世界大戦の勃発(突入)を認識・確認したときからのはずだが、それはいつか?
第一次世界大戦も、勃発当初は、「世界大戦」、「総力戦」、「長期戦」という認識・定義はなかったはずでは?
(「3か月もすれば終わる」といった空気が一般的だったのでは?)
私は、「第二次世界大戦」という規定を、ヒトラーの「ユダヤ人絶滅命令」との関連で定義しようとしていくとき、
1941年12月が第二次世界大戦の開始、突入と規定しなければならないと常々考え、そのように拙著・拙稿論文で何度も書いてきた。
最新論文でも、その問題意識からして、ヘルベルトの主張(1941年10月〜11月説)、
その小野寺氏による翻訳の該当箇所)に、異論を持ったことを明記。
1941年10月〜11月には、世界戦争への予感・危惧などが次第に大きくなってきたとはいえ、
「世界戦争だ」という認識・定義はなかったとみている。
栗原氏(2023)は、カーショー説批判の文脈で、11月を批判。
その点では、いまや、私と同じ、ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策の画期=1941年12月説に接近。
しかし、上記最新著作でも、通説的表現で、1939年9月1日を第二次世界大戦の勃発、と何度も、各所で表現している。
ただし、本文の叙述においては、独ポ戦⇒独仏戦⇒独英戦か独ソ戦か⇒独ソ戦の展開⇒「世界大戦の拡大」と、
戦争の諸段階ごとに区別しながら、最後に、「世界大戦の拡大」という叙述となっている。
(私は、「世界大戦の拡大」という表現に違和感を持つ)
この把握だと、独ポ戦から世界大戦がはじまっている、という判定と見受けられるが、どうであろうか?
しかし、私の見地では、このように連続的に見ていいのか、
1939年9月1日の最初から、世界大戦勃発、世界大戦の第一段階=独ポ戦とみていいのか、ということが疑問。
このような見方は、1939年9月1日に世界大戦がはじまった、という判定=通常の見方と同じになる。
それは、結果論(結果を最後まですべて知ったうえでの後世の視点から立論)ではないか、と。
「独ポ戦⇒独仏戦⇒独英戦か独ソ戦か⇒独ソ戦の展開⇒世界大戦の拡大」という図式は、
歴史を直線的に結果から見ているという問題はありはしないか?
世界戦争を経験したドイツとヨーロッパ諸国の人びとにとって、世界戦争の悲惨さは十分に認識済みであり、
軽々に「世界戦争だ」とはいわないのではないか?
まさに、ヒトラー自身が1939年9月段階では、「世界戦争に突入した」とは言わなかったのではないか?
突入したのは、短期的・電撃的な局地的戦争だ、と。
現在のロシア・ウクライナ戦争は、「世界戦争」か?
ウクライナをNATO諸国が支援し、ロシアを北朝鮮が支援するという段階にまでなっているが、「世界戦争」とは言えないのではないか?
世界戦争に突入してしまうとすれば、いかなる要因が重なったときか?
核戦争?
ヒトラーの生存圏獲得=東方大帝国建設の基本的な前提は、第一次大戦敗戦の反省により、
米英と戦わない、海外植民地争奪に乗り出さない、ボリシェヴィキ政権・ソ連打倒ならば、それが可能だ、と見たことにある。