2月後半

2003218日―28

大学問題日誌

 

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2003228(午後) 教員組合から「あり方懇談会」答申()各紙報道が送られてきた。『神奈川新聞』の記事には、明確に、教員組合からの正確な報道を求める抗議・要望・再度の申し入れ・資料送付や「市大を考える市民の会」第1回シンポジウムへの取材などが反映している[1]。今回の記事は、大学問題をめぐる各種の見地を立体的に報道することになっており、たんなる「お上情報の垂れ流し」ではない。『神奈川新聞』 はそうした独自情報を報道している点で前進している。今回の各紙の報道のなかではその点で、いちばん優れているように感じる。地元に密着する地域新聞の意義はそこにあるだろう。

その点からすれば、かなり紙面の大きな『朝日新聞』の報道は、現場取材が不充分(欠如している?)のようで、「垂れ流し」の性格が強い。それより小さな紙面の『日本経済新聞』、『読売新聞』なども、公式報道の紹介の域を出ない[2]。こうした新聞社には、第1回シンポジウムの情報確認や2回シンポジウム現場取材は不可欠だろう。教員組合などからも是非、現場取材を呼びかけて欲しいものである。生きた情報を立体的に集めようとしない新聞社に対しては、その報道内容の一面性と貧困さを批判するしかない。読者である市民、国民の知る権利に奉仕するのが新聞社ではないか?

佐藤真彦先生のHPを訪問し、どんどん増える独立行政法人化阻止に関する情報の箇所を見ていて、何日かぶりに北海道大学・辻下教授のHPを見た。いやはやすごい情報量である。

そのなかの一つを紹介しておこう。実は、日教組は「独立行政法人化反対」ではない(容認派)ということで、見る気はしなかったが、上記HPの次のところをクリックしてみた。クリックはしてみるもので、日教組発行「国立大学再生への道」の箇所は、驚きだった。まず目に飛び込んできたのは永井憲一氏の名前だった。彼を委員長とする日教組の「高等教育プロジェクト」が,行法化問題で緊急提言したとの情報があった。しかも、面白いことに、「その内容が日教組UPIセンター幹部の行法化容認の態度とは明らかに異なり行法化に批判的な論旨をはっきりと打ち出している」と。永井憲一氏とは立正大学経済学部時代10年くらいだったか、同僚としてご一緒した経験があり、「ヘボ碁」の相手をしていただいた懐かしい思い出もある。彼はその後、法政大学法学部に移られ(今はもう定年退職後か?)たが、憲法、教育基本法関係の代表的研究者であり論客であるので、ずっと注目はしていた。

辻下HPの紹介に寄れば、つぎのようである。

 

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「国立大学法人化構想の問題点とその影響」と題する第二章では行法化に対する本質的な批判が行われています.特に,第1節で「学問の自由、大学の自治は保障されない」と断じています.重要な部分なのでこの節を全文引用します.(なお,この章以降の分析・批判の対象となっているのは,02年3月の文部科学省調査検討会議の「最終報告」です.)

1)国立大学法人化構想は何が問題なのか

質の高い高等教育、学術研究は市場競争社会では実現できない

 教育や学術研究は、効率性といった一元的な価値によっての競争原理では質の高い創造活動が行えない分野である。「国益」や「産業的価値」、「知的財産」といった目標によってのみこれらを評価することは、21世紀の多様化した知識社会に見合わない。国立大学法人の評価が市場競争原理のみによって行われ、それが運営費配分にただちに結びつけられるとなると、特定の教育・研究分野のみに資源配分が行われやすくなり、大学問の格差が増大するだろう。

 また大学内部においても教育・研究分野間の競争が行われ、長期的視野に立った研究や基礎研究、教養教育など総合的人間知、社会倫理の責任知、社会科学の批判的知がなおざりにされかねない。競争原理により産業界との連携が強まるが、大学の運営理念は本来企業とは異なるはずである。

 国立大学の公共性と条件の均等性が維持できない

 国費によって運営される国立大学においては、社会的公共性と教育の機会均等が重視されるべきである。ところが法人化構想によって大学自由市場が出現すると、競争原理によって、自己の大学のみの利益拡大と業績が重視されることになり、国立大学としての公共性が薄れていくことが懸念される。「個性ある大学」を標梯して大学業績の独自性が評価され、各大学が研究大学、職業人育成大学、教養大学へと目的別に特化されて格差が広がり、地域における総合大学の理念が後退して、市場における「私事的利益」が公共性より重祝されてしまうことにもなりかねない。

 また教育・研究条件の均等性は「トップ30(21世紀COE)」に象徴されるように、重点的資金投資により、ますます軽視されていく。現状のように教育・研究条件が不均等なままでは、最初から公正な競争が成り立つはずがない

 学問の自由、大学の自治は保障されない

 法人化制度によって大学の自治は保障されなくなる。本来、大学の自治の核であるはずの各大学における中期目標・中期計画は文部科学大臣の認可事項になる。教職員が非公務員型になることで、職務における公共性が希薄になり、それにともなう身分保障も手薄になる。また業績評価によって学問の自由といった大学の自治・自律の基盤が失われていく

 運営組織に意思決定における貢任範囲のあいまいな「学外者」を加えたり、学長・役員会主導の運営が行われると、高等教育・学術研究を担う教授会の自治そのものが消滅しかねない大学の自律性は法人化によって逆に保障されなくなるであろう。さまざまな機関により重複して実施される「大学評価」は,ぞれらが資金配分と直結するだけに、学問の自由、大学の自治を著しく制約することになる。

 初等中等教育にも影響を与える

 法人化構想における高等教育・学術研究への競争原理の導入や、それに連動する公共性の喪失は、初等中等教育における公教育の原理と教育の機会均等にも影響を与える。

 トップ30のような大学へ重点投資を行う政策は大学問の格差を広げ、トップに位置づけられた少数の大学への受験競争が激化する。それにともなって初等中等教育の中にも受験に対応できる学校とそうでない学校との「棲み分け」が生じたり、家庭の経済状況によって進学への優劣が生じてくる。また初等中等教育では児童生徒の個性を育成する教育を重視しているが、進学先の大学では市場価値のある分野の教育環境のみが優遇されて整備されることとなる。国立大学の統合とあいまって、子どもたちが学びたい分野に進学できる機会が極端に狭まることになり、個性の育成という初等中等教育が進めてきた教育の理念は、大学進学と同時に断ち切られることとなる。地方を中心として教育機会の格差が広がることも懸念される。

 競争原理を導入した教育政策は、今日の初等中等教育においても同様に見られる傾向にある。規制緩和の一貫として学校選択の自由の名のもとで学区制が撒廃されることにより、学校間競争の激化が懸念される。中高一貫や学力向上フロンティアスクールなどの学力向上のための一連の政策は、一部の学校への教育環境の充実を意図するものであり、公教育の機会均等の観点からの疑義は免れない。校長や教員への学外者任用も、公教育の中立性、自律性を脅かすとともに、教育における専門性の必要性が軽んじられることが懸念される。「特色ある学校づくり」の名のもとに各学校に持色をもたせ、学校評価制度でそれらの評価が行われるため、校長のトップダウンで学校が運営され、教職員間の共通理解が得られずに混乱している現場も少なくない。

 初等中等教育、高等教育を問わず競争原理の導入は公教育には馴染まない。私たち国民はそれらの政策理念を支持しないという意思表示を,この機会に明確に政策責任者に伝えていくべきである。

  以下略。

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 独立行政法人化が、戦後民主主義の基本的な制度である大学の自治や学問・思想の自由を脅かすものだとの指摘には,深く感銘を受け、共感した。

 以上と関連して,興味深かったのは、独立行政法人反対首都圏ネットワーク」のつぎのような最新の記事であった。

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《2.24理事会速報》

                     国大協理事会、総会開催を決定

      2003年2月25日
 独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

 

 2月24日開催された国大協理事会は会長・副会長など執行部の思惑通りには議事が進まなかったようである。詳細はなお不明であるが、確実な情報のみを急ぎお知らせする。

 

 1.国大協会長サイドは、30数大学からの意見書に答えないまま、今回の理事会で国大協としての見解をまとめ、それを会長談話として発表するという方針を取っていた。しかし、これに対して各理事から異議が続出した。そのなかで、臨時総会開催の必要性を支持する意見も相次いだようである。このため理事会は途中で一時休憩をとらざるをえない事態となった。

 

 2.最終的には、国大協総会を開催し、そこで国大協としての意思を決定するという確認がなされた。時期については、3月1日(土)という日程案も一部理事から出されたが、4月という案も他委員から主張され、現在のところ未定である。また、法案全文が明らかにならない限り態度を決めようがない、という見解も主張された。法案は国大協にさえ示されていないと聞く。

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 独立行政法人化の法案さえも定かではないときから、法人化が規定路線のように思いこむ見方の「思考停止状態」は、批判されなければならないだろう。「思考停止状態」を脱却している人々に学ぶ必要もある。非民主的な奴隷的精神「組織への精神的隷属」を批判する辻下氏の中教審中間報告への批判的コメントを佐藤真彦先生のHPの紹介をつうじて読んで見て、その感を強くする。

 「あり方懇談会」の答申のいいかげんさも、自らの思考できちんと見極めなければならない。

 

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2003228日 昨日の「あり方懇談会」答申の概要が新聞で報道された。新聞報道(朝日新聞)で見るかぎり、先ごろ出されていた「答申()」と、当然の事ながら、ほとんど違わないようである。半年かけて(初回と最終答申の2回)を別とすればわずか5回の会議で、67人の委員が検討したことが、はたしてどれだけ独自なもの、建設的なものであるか、じっくり検討する必要がある。

ただいえることは、

1.「独立行政法人化」の提案は、別に懇談会を開いて特に市大の歴史と到達点を検討したから出てきたというものではなく、全国的な時流にそのまま乗っただけであることは明確だ。

2.国際文化学部の大学院創設さらに経済学研究科の博士課程の創設からもからまだ日も浅く、医学研究科に修士課程を増設して社会が求める高度研究教育システム構築に理解を示してきた最近10年ほどの歴史(それは前市長の立場であり、市議会各会派の立場であったはずであるが)さえ十分検討しないままで、本学を(学部)教育中心[3]の大学にしてしまおうとする提案(事実上進行していた大学院軽視、大学院の研究体制構築の放棄[4])も、長期経済不況化の現実、ただ学部の上に大学院制度を積み上げただけで制度維持のための人員も予算を本腰を入れて増強しなかった(それどころか削減につぐ削減を行なってきた、たとえば経済学研究科博士課程創設時にあった図書予算はいつのまにかなくなった、社会学では人事凍結を強行しているなど)という現実、大学院博士課程を担当する人々が意気阻喪するような最近数年の現実(大学院は増設しても教授定員を増やさないために、教授昇進チャンス・順序を心配する人々が多くなり、同程度の能力なら若いものを採用するといった年齢基準が優先される傾向のある人事補充のあり方[5]、大学院教授ポストを別枠で新設するなど工夫はありえたはずだがそれもおこなわれなかった、長年しみこんだ「上」「強いもの」にまかれろの発想がもたらした結果か?)、こういった現場の歴史と実態は何も分析していないものである。

公立大学として、私立大学ではできないような非効率的だが国際年横浜の市民(世界市民)の目線からして重要な学問科学分野を、血税を投じるに値する学問分野を何としてでも伸ばし、そのために援助すべきだといった理念は、ひとかけらも感じられない。私学と競合するような分野・学部教育などは削っても、公立大学が維持すべき分野・大学院を格段に充実すべき[6]だといった発想は何も見られない。

(実際には、医学部だけ、それに次いで理科系がその発想の元にあるといえるかもしれない、いずれにしろ人文社会系切捨ての発想のように感じられる。ところが文科系は、商学部よりも予算の多い国際文化学部でも、統計(市民に公開の学内開催の「あり方懇談会」で提出された資料だが、どうしたわけか大学HPでは公開していない。大学公式HP公開資料から隠していることは意味深長である)が示すように理科系とは比べ物にならないほど、文字どおり桁違いに予算は少ないのである。涙の出るようなわずかの予算しか出していない人文社会科学系を市大からさらに切り捨てても何もメリットはない、というべきである。それはたんに長年築き上げてきた市大の全体としての力量と名声を一挙に大幅に低下させるだけであろう。)

3.また、研究教育と経営の分離も、実質上、研究教育が経営優位の元に置かれてきた歴史を追認し、第2次世界大戦の悲劇とその反省の結果として樹立された戦後民主主義の原理原則・大学の自治のさまざまの歴史的到達点を、経営優位の観点からなし崩し的に、最後の小骨までも、骨抜きにするものであろう。そのようなやり方で、21世紀の世界に誇れる大学システムを構築出きるのか、疑問である。財政危機に振りまわされただけ(その意味で、みっともない、「米百俵」の精神のかけらもない)の、新自由主義的民営化論[7]を下敷きにした答申であり、結論と思考水準、そして脅かしの手法ははじめから分かっていた、というべきなのかもしれない。いずれにしろ、具体的にはじっくり批判的検討が必要であろう。「市大の将来を考える」38日の緊急シンポジウムがそのひとつの機会となるであろう。

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2003227日 本日、「あり方懇談会」の答申が市長に提出される。これに対し、「市大を考える市民の会」は、市民の立場から、大学を考えていく。その2回緊急シンポジウムの企画が決まった。その案内を冒頭に掲載し、ここにもリンクを張っておきたい。

是非多くの市民、卒業生、在校生、高校生が参加して欲しい。このHPでシンポジウム案内を見た方は、是非多くの人と声を掛け合って、参加していただきたい。これをきっかけにもっともっと大学に関心を持ち、大学に関し発言し、大学を自分たち市民のもの、自分たちを含む世界市民のものとして育てていきましょう。

横浜市大の歴史はなにか、横浜市大が発展していくべき方向性はなにか、市大に期待するものはなにか、市議会の各会派はどのような態度をとってきたのか、市議会の各会派はどのように大学を考えているのか、市議会の各会派は今後どのような政策をとろうとしているのか、市民の代表として大学に関して何をするのか、それをうかがい、みんなで考えたい。市議会各会派は是非自分の会派の代表を送って欲しい。

大学人も、大学改革の主体として、市民や市議会各派が何を考え、何を期待しているのか、しっかり理解する一つのチャンスとして、できるだけ多くの人が参加されるように期待したい。小川学長と商学部長にはどなたか企画者からご案内があるだろうが、私からも「ぜひご参加を、是非市民や市議会各派の意見に耳を傾けていただきたい」とメールを差し上げた。

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2003226日 「市大を考える市民の会」、卒業生や在学生、高校生などとともに、大学人が主体的に広範な市民とともに大学を守り発展させていこうとする立場に対して、それを苦々しく思っている人々もいる。「静かに、じっとしていれば万事うまく行く、騒がないほうがいいのだ」とひそひそ話し合っている人々がいる。歴史を見れば分かるが、まさにそのような受動的、傍観者的な人々がどのような時代と場所にも一つの大きなグループとして存在する。しかし、他方には、主体的に物事を変えていこう、という人々もいる。公的で重要な問題では主体的な係わり合いが求められ、それが必要であることを認識する人々がいる。

 

社会にはさまざまの方向性を持った諸主体とそのそれぞれの力量・ベクトル群が、あるときには手をとりあい、あるときにはぶつかり合いしている。その重層的で複雑かつ対立的な諸ベクトル群のせめぎあいこそ歴史である。そのせめぎあいは日々世界的な規模になっている。いままさに、世界のグローバル化に対応し、世の中の変化に向き合いつつ、大学をどのように変えていくかが問われている。

ここでは、大学人の一人一人の行動と発言(他方の極の無発言・無行動、多様な中間諸形態をふくめて)が、問題となっている。私たちとしては、ただじっとして嵐が過ぎ去るのを待つ人々[8]を視野の片隅に置きつつ、市立大学、広く国公立大学をできるだけすばらしい科学の最高学府として発展させるために、一人一人がなしうることを、研究教育と大学改革の諸問題で、なしていかなくてはならないだろう。

 

たしかに、大学改革にそそぐ時間それ自体は、研究時間や教育時間そのものではない。それは、研究や教育のための仕事の時間とは内容的に関係のないものである。とりわけ、研究教育と内容的には関係がないことがはっきりしているのが自然科学系統の学問・科学の分野である。

学問の自由や大学の自治を守るための言論活動や大学改革にそそぐ時間・エネルギーそれ自体は、むしろ、研究時間や教育時間、研究と教育のエネルギーを個々の研究者・大学人から奪うもの、削減するものである。

 理科系の人を中心に、多くの大学人が、研究時間を奪われたり教育準備時間・教育時間を奪われたり削減されたりしないために、「大学改革」と言った制度的な問題とは関わろうとしない、無関心である、あるいは無関心を装う、場合によっては徹底的にサボろうとする[9]のは、ある意味では、必然なのである。個々の研究者にとって、研究時間と教育の時間こそが生産的なものだからである。

そのかぎりで、戦略会議議事録「部外秘資料2」における事務局責任者の発言、すなわち、「商品が運営に口だして、商品の一部を運営のために時間を割くことは果たして教員のため、大学のためになるのか」という発言のうち、教員が「運営のために時間を割く」という部分は、管理行政(問題)・制度的諸問題に関係・関与すればそれが大学教員の固有の研究教育のための時間とエネルギーを削減することになると言う意味で、そのかぎりで正しい[10]

 

 だが、大学の研究教育の内容を担う教員が運営にタッチしないで、どうして健全な大学運営ができるのか?

 「研究教育時間が減るから」と、みんなのものが単純に絶対的に時間を惜しんでいるとどうなるか?

 そのようなとき、「研究しなくていい、教育だけやっていればいいのだ」という人が大学を支配したら、理科系の人々はどうなるか? しかも予算の采配を握ったらどうなるか?(そのような事態はすでに進行している、研究の自由はすでに脅かされている) しかも、その人物は自分に「設置者」権限が与えられていると信じこんでいたらどうなるか? 教員を商品だと思いこんでいる人があごで教員を使うようになったらどうなるか?

 

 最近の「あり方懇談会」の問題性、最近の事務局責任者の言動からも分かるように、大学の研究教育を知らない人々、効率だけを考える人、設置者権限をもっていると思いこんでいる人が、大学の研究教育のシステムを考え、左右してしまうと言うことになるのである。これが恐ろしい

 そのような研究教育の素人が、研究の苦労や教育の苦労を知らない行政専門家・事務処理専門家、したがって研究と教育の観点からは外部からしか見ることができず評価することができない人々が、大学の制度をいじり出したら、大変なことになる。それは、この間の諸事件で多くの人にわかったのではないだろうか?

 それでは、大学人は、研究や教育のために生産的時間を費やしているのか、その苦労の結果として成果が出ているか、まさにこれも鋭く問われることになる。一人一人の研究者にこの問は付きつけられている。これが実は簡単に答えが出る問題ではない。それこそ学問・科学の恐ろしいところである。その恐ろしさをわきまえつつ、各大学人は自分の仕事の内容を公開し、世の人々の批判を仰ぐことが必要になる。

 ともあれしかし、今の状態で、「あり方懇談会」答申のように研究教育と経営を完全に分離して、経営責任優位を制度化すると大学は大学ではなくなる。それだけははっきりしている。研究教育の素人が威張り出したら(予算作成、書類作成などの事務処理権限を濫用して傲慢に振舞い出したら、人員削減の圧力を研究教育に携わる教員に転嫁することが平気になれば、教員研究者の固有の研究教育の時間を減らすことに無神経になれば)、その大学はおしまいだ[11]

 

この本質的なことが、市民や大学人に、そして行政の人々・事務系統の人々、市民の代表としての議会の人々に理解してもらえるかどうか、これが問題である。しかし、われわれ大学人は、できるだけ理解してもらうようにつとめるしかない。

だが、そのために割く時間も、研究と教育のための時間を削り取るものである。その意味で、できるだけ効率的に研究教育のための制度的必要性を文書化し、世の中に訴える必要があろう。

社会的労働力と労働時間の節約!!社会の労働力と労働時間とのうちから、不生産的な機能に拘束される部分」をできるだけ小さくする必要がある。

有機的分業の構築!

最新のIT機器の活用!!

その実践としての「通信」編集作業自発的意見情報の公開自発的統計分析とその公開(「借金漬け体質論」批判[12])など。

 

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2003225日 矢吹教授は「市大を考える市民の会」のヴォランタリーな「通信」編集責任者として精力的に通信を編集されている(本日までに1, 2, 3, 4, 5, 6)が、この通信をできるだけ多くの知人友人に広めるよう市民に訴えている。まさに、ノーベル賞科学者白川教授をはじめ世界的見識を持ち世界的業績を上げている市民がたくさんいる横浜市の大学、世界的視野を持ったたくさんの先覚的市民がすむ横浜、その国際都市横浜の市民による、国際都市の市民のための大学を発展させるために、「ネズミ講のように」協力の輪、議論の並を広げたいものである。国際都市横浜の市民のヴォランタリーな精神に期待するところ大である。インターネットを活用し、輪を広げていただきたい。

 

          ところで、このたび商学部経済学科の随清遠助教授が、「借金漬け体質」なるものに関する鋭い論評を公開された(221日付)。随さんは彼の研究室HPの「大学改革の現場から」というページで、すでに詳細緻密な財務分析を行っている。そのことはこの「大学問題日誌」開設時に紹介したところであるが(この日誌のそもそもの発足は随さんの問題提起に刺激された)、「あり方懇談会」財務分析の杜撰さを憂え、近く出る予定の最終答申の内容を危惧して、あらたに「あり方懇談会」の統計操作のひどさを批判的に分析したものである。

この随さんの的確な財務分析も、是非広く社会の人々、市民や卒業生・在学生に広めたいものだ(総合理学研究科の佐藤真彦教授も早速HPにリンクを張り、随さんの分析のエッセンスを紹介している[13])。いかにひどい水準の人々を「あり方懇談会」の委員にしているか。委員はだれが選んだのか?[14]

いかにひどいセンセーショナリズムが大学を取り巻いているか、そうしたことがはっきりわかるだろう。 

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2003224日 この間の言論抑圧問題とそれに関する意見表明に関し、直接の当事者である総合理学研究科長には意見書をお送りしていなかった(直接の上司ではないという配慮から)。しかし、問題は大学全体に関わるものであり、原則的原理的問題であり、やはり直接にも意見を申し上げることが必要なことだと考え、本日、HP公開意見をお知らせし、早急な態度表明を公開で行われるよう希望した。総合理学研究科・佐藤真彦教授の態度こそ大学の自治,言論・思想の自由を守り、大学人にふさわしいものである(関連文書cf.1, 2, 3,4を読みなおすたびに,その冷静で明快な問題点の指摘と批判的解明大学の自治、言論・思想の自由を守る原理的原則的立場に敬服する)と確信し、早急な大学人の態度表明こそ、大学の発展のために大切だと信じるからである。

 この間に、矢吹教授のHPには、次々と重要文書が公開された。

@  平智之商学部教授の学長(商学部長)への返信(222日付)

A  佐藤真彦総合理学研究科教授の「言論弾圧事件:小川学長はトカゲの尻尾きりか(同最終版)

二つとも現在の大学の緊急の本質的問題を鋭く突いたものである。

 

さらに佐藤真彦教授のHPには、

B   本学卒業生荻原昭英(昭和37年卒,神奈川県庁OB)氏の論評も掲載されている(デジタル写真付き同氏HP:横浜市大・大学改革論、および「市民の会」通信5号掲載)これがまた鋭い。橋爪大三郎座長の役割と本質を見事に批判している、と感じる。本学を誇りとし、愛し、横浜市だけのためではなく日本と世界のために育てていこう、発展させようとする多くの卒業生の気持ちを代弁しているであろう。若干、抜粋し、全文を読んで頂く導入としよう。

 

「座長には酷なようだが,それも謝礼の中に入っている[15].したがって,橋爪私案だけでなく,似非学者の橋爪座長自身もたたくことも必要である.」

「橋爪私案は、ただただ、大学経費の削減のみを考えた逆コースの提案でとても「大学の将来
像」とはいえない低次元のものである。「思いきった抜本的改革案」というが、新市長の意思に
迎合し、思いつきを並べたに過ぎない。
 廃止または縮小を考えるだけで、大学の機能を充実させようとするものは何もない。こんな
提案だったら何も学者でなくてもいい予算査定担当の役人の考えること[16]である。
 理想をもたない現実性に欠ける似非学者の意見である。私案とはいえ、こんなものに時間を
かけてひとつひとつ検討する人々も大変である。」

 

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2003221日 「市大を考える市民の会通信第4号:第1回シンポジウム記録集を頂戴した(矢吹教授HP掲載済み)。広く市民の関心を呼び、市民の大学問題への能動的参加の素材となれば、すばらしい。

 

ところで、昨日の総合理学研究科の科長選挙では現科長が再選されたそうである。

総合理学研究科・佐藤真彦教授HP掲載資料の削除を求めると言う前代未聞の言論抑圧行為を行った人物を研究科長に再選するということはどういうことなのか? 

一体何人の人がそれを可とし、何人の人が別の人に投票したのか? 市民社会において汚職事件などを引き起こした議員などが辞職に追い込まれることは珍しくない。大学における言論の自由の問題は、市民社会における汚職事件よりも軽いのか? 大学という最も言論や思想の自由が保障されなければならない場においては、いちばん重要な問題だといってもいいのではないか。

自由で理性的な言論の最大限の保障なくして、大学は活力ある発展を行えるのか?

「辣腕」事務局責任者にそこまで屈服するのか?そのような無原則的な軟弱な精神にこそ「辣腕」事務局責任者はつけこむのではないか?そのように屈服した精神で自由な研究はできるのか?大学の原則問題をそのように軽く考えるのか?

かつて横浜市大は「金はないが自由はある」と評されたという。その自由な大学でこそ何人もが世界的業績を上げたのではないか。過去の世界的業績を上げた人をきちんと見ているか?そのような人(たとえば浅島誠氏[17]、私は教養ゼミのための資料作成で読んだ本のなかで日本を代表する世界的研究者である浅島氏が本学教員としての在籍中、15年間かけて「生命の神秘に魅せられて[18]行った研究が世界的発見に繋がったということを知った)とのコンタクトはあるのか?

 

理学部が独立し大きな予算を獲得して、かえって学問研究にとっていちばん重要な自由な精神・自由尊重の精神・活発な理性的相互批判の精神がいつのまにか失われているのではないか、摩滅しているのではないか?

研究予算はかなりの額に上っていても、きちんと消化し、着々と研究成果・実績をあげているのではないのか?研究教育の実績、研究成果さえあげていれば(どんどんそれを設置主体である市民に情報公開していけば)、何を萎縮する必要があるのか?たんに予算の事務処理を行う事務局責任者を恐れることはないのではないか?

実利主義にとりこまれ、大学の研究教育にとっての本質的に重要なこと(言論・思想の自由、科学的批判の自由、精神の自由、大学の自治の原則)が忘却されているのではないか。そうだとすれば、恐るべきことではある。

そのような重大問題に関して、総合理学研究科のみなさんはどのように判断されたのであろうか?この抑圧事件に関する研究科としての明解な態度表明はいつになったらあるのだろうか?学長が指示したという検討委員会はどうなったのか?

 

          以上、総合理学研究科長選挙の最終結果だけを耳にした段階で書いた。その後、選挙経過の情報が得られた。正確なデータは、教授会議事録公開請求で確認されたいが、寄せられた非公式情報によれば、第1回投票は次のような結果であったという。

第一回投票では、
小島28
榊原19
加藤19
白票1
であったと記憶しています」と。

          これを見るかぎり、現科長がストレートで再選されたのではなく、多くの批判者がいたことがわかる[19]。明確な批判の存在自体、きわめて健全なことだ[20]

その批判は、もちろん言論抑圧に対する批判(このファクターがどの程度のウエイトだったのかは今後の展開が明らかにするだろう)だけではなく、投じられた候補者の顔ぶれを見るかぎり、内実としては多様な利害関心・問題関心からのものであろう。昨年秋の歴史的決議(池田総務部長指揮命令による評議会からの事務局総退場事件収拾に関する学長への批判的決議)の不履行に対する科長批判も明確なかたちで出ているであろう[21](あるいはその決議の背後にあった危機認識・不利益予測など)

2回投票の票の分布をまだ知らないが、最終結果(ぎりぎりの結果だったのか、大幅な差だったのか、などいろいろ考えられるが)もまたそのような多様な問題関心・利害関心からの、ある意味での「苦渋の選択」と解したい[22]

          それにしても、総合理学研究科としては、特定問題、すなわち言論抑圧問題に関しては、ほかの諸問題と切り離して、きちんとした態度表明が必要なのではないかと感じる。曖昧にしておくことは、かえって問題を深刻化させるのではないかと危惧する[23]。総合理学研究科はきちんと問題を明らかにし、検討結果を早急に全学に示されるよう希望する。

また、部局長会議は検討委員会を設置するという学長の指示をどのように具体化しているのか、学長はこの重大問題の検討をどこまで進展させているのか、検討の進み具合はどうなっているのか、全学に明らかにされたい。小手先のごまかしが通用しない問題であることを忘れないように、とりわけ総合理学研究科長と学長の注意を喚起しておきたい。ここでまた「戦略会議」議事録が示すような事務局責任者のありうべき「恫喝」に屈するようなことがあってはならないだろう。ここで曖昧な態度で逃げると、また次に同じような問題が出てくるだろう。一回ごとにきちんと問題をすっきりさせておいだほうがよいと感じる。

 

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2003220日 「市大を考える市民の会通信第3を矢吹教授(同教授HP掲載済み)から頂戴した。同号を見ればわかることだが、倉持教員組合委員長の第6回あり方懇談会傍聴記平教授の言論抑圧批判、それに日本共産党の横浜市議会議員団の呼びかけとが掲載されている。大学の運命を決める一つの重要な(決定的な)要因が議会であり、その議会を構成する各党派である。行政府・執行機関の長の方針を左右し、牽制し、市民の希望や要求、横浜市の発展などを総合的に考え予算を組んでいくのは議会である。最終決定権は議会にある。市民の代表としての、市民意思の最高決定機関としての議会、そしてその構成員である各議員の役割はきわめて大きい。とすれば、横浜市民・横浜市の大学をほかの諸政党・ほかの会派の議員はどのように考えているのか?どのような予算にしようとしているのか?市長の諮問機関である「あり方懇談会」の答申案(213)に対してどのような態度をとるのか? 橋爪私案やそれを土台にした答申案(その背後にある事務案)をどのように評価するか、明確にして欲しい。いずれ最終答申が出るので、そのときこそは明確にして欲しい。

 

財政事情が苦しいからといって.きちんとした財務分析のないままで大幅縮小でいいのか? そのような世論誘導でいいのか? 大幅な授業料値上げを主張するのか? 教育の機会均等のために公立大学がはたす役割をどのように考えるのか? 各政党の主張の対比を見たい。厳しい経済・財政状況で、どこを削減し、どこを守り、発展させるのか? 各政党の代表が矢吹教授に政策を届けられることを願う。

 

倉持委員長の傍聴記によれば、あり方懇談会答申に大学事務局(おそらくは行政サイドとしての「関内」本庁、市長サイドとの下相談の上で?)が具体的に盛りこませようとしている数値、すなわち、現在120億の大学費を60億程度に半減させるのが大学事務局・市当局・行政当局の計画のようである[24]。このような行政サイドの大幅な予算削減がもたらす大学破壊的なプラン、その内密の計画の内容を市議会の各党派は知っているのか、検討したことはあるのか?

市の財政規模全体も大学並に半減するのか、それとも大学だけを生け贄にするのか? 75年守り維持してきた市立大学を当面の経済事情に迫られてだめにしてしまっていいのか?むしろ、市民の大学として発展させないでいいのか?本当の意味での「米百俵」の精神を今こそ発揮すべきではないのか? ぜひともほかの諸政党も大学政策を発表していただきたい

市長は大学政策を掲げて当選したのではなかった。「あり方懇談会」冒頭市長挨拶で「私は大学のことについて専門家ではありません」と断っている。とすれば、大学問題がこのように市政の一つの焦点となってきた以上各党派・各会派・各議員が、大学をどのように考えて今後の市政に対処するのか、それを具体的に示して欲しいそれが市民の代表としての各議員・各党派の責任ある態度だろう。「市大を考える市民の会」主催の今後のシンポジウム企画では、ぜひともそのこと(各党派の大学政策の明確化)を考えて欲しい。

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2003219日  総合理学研究科・佐藤真彦教授の研究室HPが更新され、とくに大学問題に関するページ「学問の自由と大学の自治の危機問題」に掲載された一連の文書とリンクがすばらしい情報量となっている。是非、一度訪れてみていただきたい。

 

平教授は小川学長宛に言論抑圧問題で批判の意見を送付したとのことで、これもここで紹介しておこう。言論弾圧事件に関する小川恵一学長らへの通告(商学部・平 智之)219

 

矢吹教授からは、「市大を考える市民の会」通信第2を頂戴した。これまたたくさんの建設的な意見が掲載されており、大学人にも多くの反省を迫る内容となっている[25]

特に鋭い指摘だと感じたのは、「大学の自治が『教授会の自治』になっていないか」という指摘であった。大学の自治が形骸化し、大学内で自由な意見が活発に交換されないような雰囲気(その象徴的事件が「言論抑圧事件」その批判)のなかで、学生・卒業生や職員、市民とは無関係に、「改革」が断行される現状がある。

今の状況を「逆により魅力的で、市民に開かれた大学へ変革する契機に」するようにとの卒業生の意見は実に貴重だ。前回の緊急シンポジウムに学長や大学のその他の首脳部が顔を見せなかったことは、まさにそのような開かれた大学への変革の意志と情熱が希薄だということを示唆しないだろうか?官僚的に形式主義的におぜん立てのできた場所に、なんの波風も立たないところにだけ顔を出しているのではないか? これを変えていかなければならないのではなかろうか?[26]

教員組合委員長(明日までとのこと)倉持先生から、第六回「あり方懇」傍聴記を頂戴した。そこで指摘されているように、「あり方懇談会」の性格は、廃校の脅かしをかけながら、「大胆な改革」(大幅な縮小・統合?)を押しつける論理の構築とその宣伝の場であったということだろう。そこでの改革論議では、「何よりも財政面=経営面のことが第一義的に取り上げられ」、「まさにこれを実現するための組織、人事をまず実現し、大学の目標や教育内容などはその次の問題というスタンス」を特徴とするだろう。

最終答申がほぼ今回の答申案通りだとすると、それを市長、市議会はどのように取り扱うのか?市議会選挙はまじかに迫っており、各党派がどのように大学問題を考えるのか、ぜひともその姿勢を確認しなければならないだろう。

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2003218日 「市大の将来を考える」シンポジウム企画者・参加者から、新しい組織として「市大を考える市民の会」が結成された。その会の「通信」第1Pdf版が送られてきた。すでに矢吹教授HPで見た方もいらっしゃるだろうが、念のためリンクをはっておきたい。シンポジウム企画は、「あり方懇談会」答申案の問題性もあり、2回が38に繰り上げ開催されることになった。

 

通信第1号の[3]28日「緊急シンポジウム―市大の将来を考える」に寄せられた文書発言(Part.1も、実に内容豊かな、市大を守り発展させる提案を含んだ記録である。幾つかピックアップすれば、次のような諸点が考えるべき論点として印象に残った。

(1) 開かれた大学になっているか?

(2) 国際貢献のデータ、内容は?

(3) 内部改革を訴える学生たちの声に耳を傾けているか? 

(4) 大学問題・大学改革に関する情報公開が不充分

(5) 9・11とその後のアフガニスタン攻撃への批判声明が「大変高圧的な」「意識がある者だけでよい」という態度ではなかった、との指摘。

(6) 鎌倉アカデミア的な教育・文化の場であるという特色は、豊かに存在しているか?

(7) 「市大の将来を考える」のに、大学の場の主役である学生・教職員、特に学生が少なすぎるのでは。(同様の意見、幾つかあり)

(8) 日本一大きな市が「大学病院を売却したい」など情けない。福祉が遅れているというのを大学のせいにして、さらに福祉後退を言うとは、福祉後退を推し進める中田市長のやり方に恐怖を感じる。

(9) 設備投資による赤字があるとすれば、その事業計画を立てた市に問題がある。その責任を大学が負うことはつじつまが合わない。

 

 

「緊急シンポジウム文書発言1」匿名の「答申案」批判(矢吹HPとの接続が切れた場合を考え、独自にコピー)もいただいた。これは鋭い分析だと考える。大学の将来、学問研究教育の将来を考え憂える大学人、特に若手の人々は、じっくり検討して欲しい。

 

匿名氏の情報分析によれば、「・・・2・13の「答申案」は「あり方懇」結成以前の「事務局原案」と瓜二つです。まず先に「事務局原案」があって、「戦略会議」、「将来構想委員会」、「あり方懇」がそれぞれ、事務局では言いにくいところを補完する形をとっています。将来構想委員会が「事務局原案」から遠く、その意味で一番独自性が強いのですが、事務局原案の枠外には出ていません。それには同情する余地はあるとは思いますが・・・・」と。

つまり、この間の騒動の原因は、単に問題の「辣腕」事務局責任者の問題性であるにとどまらず、数年来の大学の事務当局の問題性・発想・プランとも重なるものであり、その後ろには「関内」の姿勢があるという。

そのような事情を市民は知らされているであろうか?

市立大学をどのような大学として発展させるか、まさに、設置主体である市民にこそ、このような大学のおかれた状況を深く認識してもらう必要があるだろう。

2回緊急シンポジウムには、一般の市民も多く参加してもらい、市民を代表している市議会の各党派の議員諸氏(大学問題担当者)にも出ていただくのがいいのではないか? 市長のやり方に対して、市議会各会派はどのような大学政策を持っているのか。これは重要なことであろう。大学の事務局のものが「設置者権限」を振り回すことを許していいのか、それは本当の市民の意向を反映したものか? どのような市民の意向を反映したものか? 市民はどう考えるか、市民の代表である議会の各議員はどう考えるのか、市民の一つの代表(行政の統率者)としての市長だけの意向で大学政策を左右していいのか? 議会権力と行政権力は、そのいずれもが市民(その民主主義的意思表明=選挙)から出ており、二つの権力(立法権力と行政権力)の相互調整・政策調整が市民に対する義務ではないか?

 

匿名氏の分析によれば、「・・・3ページの3−1の公立大学としての目標の部分「教育に重点をおいたプラクティカルなリベラル・アーツ・カレッジ」がありますが、この部分の解釈としては、「簿記・会計、英会話とIT」のことが正解で、まちがっても哲学や歴史ではありません。英会話の出来ない、英語教師は早晩、首切られるでしょう。第二外国語もだめでしょう。5年の中期目標を2度繰り返し、通算10年で教員の総入れ替えが狙われています。 本来、改革は縮小を目的としているはずなのに、「あり方懇答申案」では工学系拡充が言われていますが、これは小川学長の持論です。」と。

リベラル・アーツというと非実学であり非効率的な学問である哲学や歴史を含む本格的な教養教育を念頭におくが、この構想(「あり方懇談会」答申案の事務局原案)の作成者の観念世界では、「簿記・会計、英会話とIT」のことだという。これが本当だとすると、恐るべき貧弱な内容が美辞麗句で飾られていることになる[27]。商学部の「社会学・社会構造論」人事の凍結などは、その路線を先取りしたものか?

リベラル・アーツがそれだけの内容だとすると、専門学校のほうがいいのではないか? それでは、大学とは呼べないのではないか?

リベラル・アーツがそれだけの内容だとすると、むしろ大学は別に専門学校を作ったほうがよくはないか? しかし、簿記会計・英会話などでは、周知のように、すでに経験と実力・実績のある専門学校は多い。むしろ、そのような専門学校であるならば、わざわざ市民の血税を使ってまで設置する必要はないということになろう。そのような学校は、民間営利事業に任せておいて十分だ、民業を圧迫するな、というのが、本当のところではないか?

市民の血税を使って運営・経営する大学は、民間営利法人では到底やれないような、私立大学ではまっさきに切り捨てられるような、私立大学では見向きもされないような[28]非効率的・非営利的な研究教育分野にこそ重点をおくべきではないのか?

非効率的・非営利的な研究教育分野ではあるが、しかし、国際都市横浜市の市民が血税を使って維持し発展させるにたるだけの重要性を持った、世界、日本、市民にとって重要な研究分野ではないのか? そのようなものであるからこそ市民が誇りを持てるような研究教育分野ではないのか?

 

ここまで書いた段階で、ある方から、学長のメッセージが大学HPに掲載されていることを教えられた。そこで早速一読した。この間、学長には大学を代表する者として、言論の自由を守る先頭に立っていただくよう「言論抑圧事件」批判などの意見書をお送りしたが、なしのつぶてである。それだけお忙しいのであろう。私個人への返信はもちろんまったく必要なく、公的な場での公的な明解な態度表明こそが、このような公的な問題では重要であろう。それをこそ期待している。

ともあれ、学長が「辛口時評」をされているのだから、ここでも「辛口」の論点を上記言論抑圧事件との関連で指摘しておこう。学長は、若者に「夢と希望を持て」という。日本に「欠けているのは経済再構築に向けた夢と情熱と覚悟である」とだが、問題は、どうしてそうなのか?ということである。

「お利口な、ものを考えない、機械のような若者」を作り出す大人たちに問題はないのか?逆に、若者が夢を持てるような活性化した社会の雰囲気を押さえこむことが、横行しているのではないか?

本学についていえば、学長を始め、現在の大学の首脳部は夢をもっているのか? どのような情熱を持っているのか? その情熱はどこで表明されているのか? われわれが肌身で感じるように示していただけるとありがたい。率先垂範は大人の責任ではないか?

「任期制」導入のような手法で若手研究者を鞭打って研究に駆り立てようとする思考方法が、若者をだめにしてはいないだろうか? 学問の本当の面白さを大人たちが身をもって示しているだろうか? 若者に夢や希望をもてないようにした大人たちの問題性こそ、見据えるべきではないか。

言論抑圧は行ってはならない、言論に対しては言論で応えよ、理性的な相互批判の活発な雰囲気こそ大学にとって大切である、科学的批判こそ学問の発展を促す、と明確に即座に声明を全学に出すような態度こそが、大学人には求められていないだろうか? 

学長が言うように、「知識社会ではその生産性は個々の知的能力とそれをお互いに伝え合うネットワークに大きく依存する」であろう。だが、生産性とはなにか? 分かりきったことを「お互いに伝え合うネットワーク」では、現状打破を達成できないのではないか? 批判的創造的な精神こそ、その相互の刺激こそ、新たなものを創りだし、真の生産性向上に繋がるのではないか?

事務局に大学らしからぬ行動があれば、厳しく批判する毅然たる態度を示すこと、このような精神的態度こそが、若者を活性化させないだろうか? どこが大学らしくない行動か、どこが学問の精神に反するか、きちんと指摘する声明を出すような姿勢こそが求められていないか? 佐藤真彦先生のような勇気ある行動資料公開資料1資料2)をきちんと評価することこそ、若者を元気付けないだろうか? このような批判精神の活発なところが大学だ、こんなにも自由に意見を責任を持って公開している、責任ある態度とはこのようなものだ、オープンな態度こそ大学らしい、大学とはすばらしいな、と感激しないであろうか。すくなくとも私は佐藤真彦先生の行動に感銘を受けた。削除を求めた人々に憤りを感じた。

つまり、私たち日本が目指すべきは、「知識社会」なのだろうか? 今までの日本こそ、「知識社会」、暗記型・従順な記憶型人間の社会ではないのか? 日本に求められているのは、未開拓の分野にチャレンジする批判精神、現状に満足しない前進と開拓の精神、すなわち、むしろ、創造的精神の社会ではないのか?

小柴昌俊氏が大学院入試で二つのベクトルを考え、一つは知識を試すベクトル、もう一つやる気と精神力のベクトルを考えた。二つはしばしば相反するものであり、対立的であるとすら彼は述べている。たしか、x軸とy軸の関係のようなものだとも比喩していた(現在開催中の東京大学総合研究博物館「小柴昌俊先生ノーベル賞受賞記念展示・ニュートリノ」のビデオの一場面で)。現在の日本の長期停滞は、知識軸に偏しているがゆえではないのか?

『日本経済新聞』2003218日づけ「私の履歴書」ではおだやかに、「大学院入試で面接を始めた。筆記試験でばっさり切るのはどうかと思い、筆記と面接をおなじ重みで評価するようにした」といっている。「これで戸塚洋二君(現高エネルギー加速器研究機構教授)が入ってきた。彼の筆記試験の点は合格ラインのちょっと下だったが、面接とても前向きないい男だと思ったので研究室に入れた」と。この戸塚洋二教授は、私の教養ゼミのページのある箇所でも触れたようにノーベル賞候補としてつとに有名な研究者である。私の記憶に間違いがなければ、彼はスーパーカミオカンデを使ってニュートリノに質量があることを発見(通説的一般理論を根底から覆す=革命的発見)した研究者であり、その世紀の大発見をクリントン大統領が即座に演説で取り上げたことで、さらに有名になった。

小川学長の言う「知識社会」は、まさにこの知識詰め込み型の従来の日本ではないか? 今の日本に求められているのは、「批判精神の猛者たちがつくる社会だ」とでもいうべきではないか?

本日誌の別の箇所でも触れたような小柴氏の強烈な個性は、そのような反骨の精神を物語っているように感じられる。小川学長のこの間の行動のどこに、従来の官僚的やり方を批判する精神があるだろうか?今の横浜市は、中田市長がおりに触れて指摘し批判しているように、過去の官僚主義の悪弊に染まりすぎてはいないのか?中田市長自身、なれあい・談合の雰囲気を打破して当選したのではないか?市民の求めている方向性は、自発的先進的な現状打破の精神ではないか?

明治維新の精神は、徳川幕藩体制批判の精神ではなかったか。「豊かな物質文明の実現と民主主義社会の構築とが夢となって」戦後復興が達成されたとすれば、その民主主義を構築する戦後精神は、戦時中の抑圧・禁欲を批判する精神の横溢・発現ではなかったか?

その民主主義の精神が大学のなかで風化しているのではないか? 批判精神を喪失した機械のような人間が歩き回っているのではないか? 

総括的にいって、私の理解不足もあろうが、小川学長のメッセージは「辛口」というよりは、甘口であり、すでに各方面で言われていることの繰り返しではないかと感じた。『神奈川新聞』がこれを「辛口時評」だと評価するのならば、『神奈川新聞』の甘口さ加減が浮き掘りになるのではないか。「辛口」とは、もっと辛らつな批判精神の旺盛な問題点の指摘、時代精神批判ではないか?



[1] そのことは,その具体的事実のかぎりにおいてではあっても、能動的な働きかけが意味を持ったことを立証している。受動的傍観者ではできなかった変化を主体的な行動で引き起こしたことは、重要である。一事が万事である。

 

[2] 『読売新聞』の場合、自社の記者(編集局社会部記者)が「あり方懇談会」の委員の一人であり、委員に対して送られた大学内部の多様な各種情報をいちばん知りうる立場にあったはずである。どうしたことか? 自社のものが委員になると、「お上のものだけ」を流し御用化する、という典型例か?

 

[3] 噂では、国際文化学部は、答申()のような傾向を踏まえて、学部定員を増やすことを検討しているとか。これは、私の考えでは時代に逆行している。学部定員はすでに全国的にも都市部でも過剰化している。そのなかで公立大学が、私立大学の足を引っ張るような定員増を行なっていいのか?

 大学院の充実・魅力化こそ、公立大学は目指すべきではないのか?

 

[4] 日本全国の大学で最近十数年のあいだにむしろ大学院が増設され、新たに博士課程創設など高度化が行なわれてきたが、その背後にある全世界的な学問・科学の高度化を踏まえれば、公立大学でこそ非効率的ではあっても重要な学問・科学分野の大学院体制をむしろ充実させるというのが必要なはずである。学部教育はむしろ縮小しても大学院システムこそ充実させると言うのが、本来、公立大学の取るべき道だろう。国立大学もまたそのような大学院大学化を重点的に実施してきたのではないか?

市大の歴史(それを支えてきた市民と横浜市の歴史)を踏まえて発展させるそのような分析はいっさいない。大学に関して流布している一般論をいうだけである。目先の苦しい台所事情だけしか理解できない(きちんとした分析なしに「財政赤字」「累積債務」だけを声高に叫ぶ))単なる予算査定の役人の発想でしか、大学改革を論じていない。答申報道に接した第一印象は、やはりこのていどか、というものだった。

きちんとした財務分析の一例は、たとえば、何回も紹介した随さんの分析である。

 

[5] きちんとしたシステム設計を欠如した、大学院創設時におけるなし崩し的態度が、その原因である。予算も人員も増やさずに大学院を増設するのは無理なのだが、それがおこなわれている。その実情の分析こそ必要だ。

 

[6] 大学院についても、小手先の改革しかやろうとしない、できない実態は何を意味するか何が原因か? その分析こそ重要である。

 

[7] 市費を現行の半分(すなわち60)にするという発想は、私立大学助成に関する基準をもとにしたものであり、市大民営化論を最も典型的に示す箇所であると言う。

「文科省ホームページなどをざっと調べてみたら、「公費助成は私学経常費の半分以内」という規定は1975年成立の『私学振興助成法』の一節です」と。

 

 私学でも、民間の営利的基準では大学は運営できない、だから、助成しなければならない、助成しよう、しかし、私学としての独自性・独立性を保つためには、助成額は経常費の半分以下におさえないと筋が通らない。それが、私学を「振興する」ための法律の文言である。

 その水準になりふりかまわず一気に落としてしまおうと言うのが、今回の「答申」である。新しく一つの私立大学を作ってしまえと言う提案である。

答申が、日本の経済危機と市の財政危機を直接的に反映した「思考停止状態」でのいかにひどいものであるか、よくわかる。こんな答申内容なら、何時間もかけないでも、何も歴史や公立大学の意義を考えないでも、また市民の意見に耳を傾けないでも、だせるものであろう。

 こんなものごとを考えない「大変乱暴な」提案が、市長に提出されたわけである。

 

[8] もちろん、そのような人々の中に、現在のところは静かに力を貯え、次の時代に表舞台に登場する人もいるだろう。社会の発展は単線的ではない。

 

[9] 実際にそのようなことを公言する人がいたが、さすがにその人は数年前に外国に去った。

 

[10] 実際には、研究教育と運営との時間配分に関して、なかなか難しく、それぞれの成果に関して、単純な直線的な相互関係にはない。とりわけ、人文社会科学研究の分野では。

ただ、「運営」ばかりに時間を取られている人が、研究業績をあげていないこと、逆に研究業績をあげていない(あげることができない)から「運営」に没頭することは、多くの事例がある。

 

[11] いちいち事例を挙げるのをはばかられるたくさんのことがすでに行われている。

 

[12] 教員組合の藤山委員長のお話では、随さんの分析が的確なので『神奈川新聞』に送りとどけたとのこと。新聞記者各位に正確な理解を願いたい。

 

[13] 随さんが新たに「あり方懇談会」財務分析批判の文書を公開されたことは、佐藤真彦先生から教えていただいた。大学の将来を憂える人々は、有力な情報を共有するため、相互に情報を提供しあう、リンクを張り合う、連携を強めることが求められている。

 

[14] 市長の諮問委員会であり、最終責任は中田市長自身にあることはいうまでもないが、具体的人選にあたっては、昨年夏の段階で中田市長自身の意向がはっきり示されたのではないか、中田市長自身の人選ではないか(とくに橋爪座長と森谷委員についてはそうではないか)、ともいわれている。中田市長の政策と答申の内容との相互関係、答申が今後どのように取捨選択されるかの内容、市議会での大学予算の審議(各党派・会派の態度表明とそれに対する市長の対応)の推移など公的な情報から、確認していくことになろう。近い将来の市議会選挙の政策も、とりわけ今回ばかりは、大学人はしっかり見なければならないだろう。

 

[15] 座長以下、懇談会委員7名で、全部で7回の会議をやる。その総額予算が500万円であるはずである(不足か? とすれば不足分は、総務費のどこかから捻出するのであろうか?)。単純に7人×7回で約50で割るとすれば,一人一回、十万円の謝金(交通費も含めて)ということになる。傍聴記をつぶさに見ると(学内開催のときの私の見聞でも)、遅刻や欠席も結構あった。これは、「多忙」が理由なのだろうが、懇談会準備のための時間、資料分析の時間などを考えると、謝礼としては少ないことも一つの理由になっているか?

 ともあれ、一回3時間ほどの会議時間として、時給3万円ほどか?これは、また情報公開で資料請求できるであろう。来年度も500万円を計上していると耳にしている。

 市長答申にどのような文書が出るか、その「成果」に照らし合わせて、報酬の多い少ないも評価されることになろう。(事務局の「協力」度合いも含めて? 第6回の会議では、「これは私の書いた文章化」と座長が確認する場面があり、懇談会に対する批判の目が影響しているだろう。内部の責任関係・責任の所在の明確化において、どのような文書になるか、注目が必要だろう。)

 しかし、たった500万円で、75年の歴史を持つ大学を「精彩がない」とか勝手なことを言ってけなし、学部事務室廃止・事務機構「改革」を強力に推進し、予算削減の手段や「廃校」を口にして脅かしてもらう武器を作ってもらえば、それはまさに効率的、安上がり、ということなのだろう。

教授会がごちゃごちゃいわなければ,すんなり決まる.その辺をはっきりするということだ」と豪語する事務局責任者(佐藤真彦教授がまとめた『部外秘資料2』最後の発言録を参照)にもってこいの道具というわけだ。

 

[16] この指摘の通り、答申案には、今回の「あり方懇談会」の下書きをした「予算査定担当の役人」の役人の顔がいたるところで露呈している。

 

[17] 教養ゼミ開講の辞,脚注1の紹介を参照されたい。

 

[18] 教員を商品扱いし、「経営」優先と効率などを騒々しくさけぶ事務局責任者がいては、こんな世界的発見は不可能だったであろう。浅島氏によれば、成功が保証されない研究に予算はつきにくく、学生実験で使ったカエルをもらい受けて、自身の実験材料にしていた」という。(読売新聞科学部『日本の科学者最前線―発見と創造の証言―』中公新書・らくれ172001p.23ページ)涙が出るような話ではないか。それでも,自由に研究できた。戦略会議の発言によれば、基礎的な研究費さえも廃止し、教育だけやっていればいいという。浅島氏のような本学の若手の研究者は、研究の自由さえも奪われる。

 

[19] 昨年秋、評議会からの事務局総退場の暴挙(学長の収拾文書では「異常事態」との表現)を許してはならない、学長の収拾のし方は許されない、と総合理学研究科は圧倒的多数で歴史的決議をあげた。その決議を執行する責任は研究科長にあった。ところが、歴史的決議を現科長はじっさいにはきちんと評議会で表明しなかった。小川学長と事前にうち合わせ、うやむやにしてしまった。その意味では、そのときに本当は研究科としては、辞任させるべきほどの問題であったろう。なぜそれができなかった。この問題を深く広く掘り下げることが、現在の大学の深刻な問題を明らかにすることになろう。

今回の言論の自由の抑圧問題も、うやむやにしてしまおうとするのかもしれない。それは許されないだろう。言論抑圧問題の重大さと、研究科会議決定の執行責任という責任と、二つとも重大な問題である。科学者としてうやむやにしてはいけないことだ。2度あることは3度ある。うやむやにしていては、今後、取り返しのつかないような事が起きるのではないかと、危惧する。

 

[20] 批判が、実利主義的な研究費分配のいがみ合い・利害対立だけでないことを願う。

 「研究交付金」制度が、大学の内部対立を激化させることになっているのではないか、危惧される。

自然科学系にとって研究費配分が研究遂行上、決定的に重要だということは分かるが、その配分についてもできるだけ公正でオープンな原則を確立していく必要はあろう。その場合に、やはり基礎的研究費のきちんとした公平な確保は必要だろう。

 

[21] 寄せられた意見によれば、榊原研究科長への批判は、言論弾圧の問題もあるが、その前に、昨年秋の「八景研究科委員会の決議の取り扱いの件もあります」と。自分で「背任行為とも言える」行動をとったこと、「研究委員会の決議を報告事項として評議会に報告」するなどという、「民主主義のイロハを知らない」行為を心中深く怒っている人々がいるということである。総合理学研究科長は「アカウンタビウリティ」を言葉の上では発言しているようであり、問題はその実践である。アカウンタビリティ(社会的説明責任)は民主主義の原則を構成するものである。アカウンタビリティの原則を自らの行為にあてはめ、研究科長自身が行った非民主的「背信行為」について、研究科と大学内外に説明すべき(大学内外・社会に対するアカウンタビリティのためには、文書で正々堂々と説明する必要がある)であろう。そのようなことをしないかぎり、こそこそと非民主的背信行為を行うものが研究科長という管理職の立場にいつづけられるのだ、大学というのは何とひどいところだということになりかねない。

 

[22] このHPを見た別の人から、第2回以降、最終投票までの詳細な次のような非公式情報が寄せられた。(公式情報は、議事録公開原則が確立しているので、公開請求し、議事録を見ていただきたい。)

3回も投票が行われたのだ。まさに、予想した通りの「苦渋の選択」、「苦渋の結果」だったわけである。

 

投票総数67,過半数34

小島:榊原:加藤:白票の順で下記に得票数を列記.
1回投票28:19:19:1
第2回投票28:22:15:2
第3回投票30:34:−:3(第3回は上位2名の決戦)


いずれの候補にもくみし得ない白票も1人から3名に増えている。

結果的には、この白票3名がかりに第2位の候補に投じても結果は変わらなかったわけだ。

 

 そういえば、先ごろ行われた国際文化学部の学部長・研究科長選挙でも、最終的には接戦だったとか。始めた何人かの候補が上がり、ついで各人(上位何名か)が政策・抱負・態度(からだが弱いので辞退だとの意思を表明する人などありと)を述べて選挙をやりなおし、最終的には1票差だったとの非公式情報を得ている。ただ、いずれの有力候補も結局は評議員になったということで、その意味では国際文化は一応、全学部的執行部体制になったということかもしれない。

 

[23] ありうべき誤解を避けるためにいえば、私は、人間ではなく、言論抑圧行為を批判している。個人としての科長には、これまで何度かお話する機会があったが、むしろ好感を持てる人物でもある。そのような部分が今回の再選という結果が意味するところ(一要素)でもあろう。しかし、「地獄への道は善意で敷き詰められている」ともいわれる。「善意」は、主観的・個人的で無原則的なものであってはならないし、実利主義的なものであってはならない。昨年秋の研究科決議の不執行問題(学長との無原則的馴れ合い)と合わせ、「善意」の原則的批判が必要である。

大学の自治や学問の自由、言論の自由、科学的批判の自由という客観的原則的基準で考え行動しなければならないとき、あいまいなことは許されない、理非曲直を明らかにしなければならない、と私は考えた。HP削除要求」という圧力をかけた重大な「過ちをあらたむるに、はばかることなかれ」ではないか。言論の自由を守る佐藤真彦教授の信念ある態度こそ大学人の態度だ、正しいのは佐藤真彦教授だと主張しているわけである。その信念に共鳴し、それを支持し、その私の考え方が正しいかどうか、ご検討ご批判が可能なように批判文書も公開し、身をさらけ出しているところである。

 

[24] この額については、すでに相当前から大学事務当局が作成していたものであり、かなり以前から非公式には漏れていたものである。事務当局と親しいある教員からかなり以前に耳にしていた。

 

[25] もちろん、首をかしげる意見もある。「教員は商品だから、商品が経営に口を出すな」というのはまちがいだと正論をいったあと、教員は設備だ、という箇所である。学生が商品であり、教員が設備、顧客は社会、という比喩のし方は、いかがなものか? 学生諸君あなた方は商品ですか? 確かに労働力を商品として時間をきめて売ってはいるが、人間主体が商品ではないでしょう。教員は設備=ものですか? 大学の研究教育を担う主体ではないですか? 企業において会社員は設備ですか? 法人(資本)の視点からすれば、人間も機械もコスト要因として区別がないという現実を、このような比喩は示しているのだろう。それこそ典型的な資本主義的観念というものであろう。

 

[26] 早速、昨日の「学長メッセージ」への批判的コメントを読んでくれた人から、この部分を本日の日誌に移して論じるべきではないかとご助言をいただいた。すでに、小川先生には昨日の内に批判的コメントを日誌で公開した旨お伝えしたこともあり、配置はそのままにした。ただ、内容には若干の添削を行った。

 

[27] ありうべき誤解を避けるためにいっておけば、簿記会計・英会話が必要でないといっているのではない。それは基礎的素養としてこれからの社会では多くの人にとって必要だろう。だが、それがリベラル・アーツの内容だとすれば、そんなリベラルアーツ概念は貧弱だというに過ぎない。

 

[28] 今や健全な私立大学、専門学校ではない本格的な私立大学は、まさに非効率的な非営利的な分野にも力を入れているのではないか? それこそが、当該私立大学の名声を高める一つの武器になっているのではないか?