作成:2005年2月
更新:2008年1月
(撮影は1985年6月、9年ぶりで再訪したとき植物園で)
ノルトライン・ヴェストファーレン州(邦)立大学(ドイツの大学は連邦制の下、ラント・州ないし邦の文化主権・教育主権が確立しており大学は州立(邦立)・・・中央集権的な第三帝国のシステムへの反省から、民主主義の重要な構成要素としての地方自治・連邦体制)。
1960年代、ルール重工業地帯、とくに炭鉱業の地盤沈下に対して、総合大学を創立し(科学技術立国の路線)、自動車工場(オペル)を誘致。
したがって、ドイツでは新しい大学。
1975年8月はじめから、77年9月はじめまでの2年間少し、最初のドイツ留学。
そして、として。
ボーフム大学(ルール大学)で2年間研究。
(立正大学は、私の場合のようなDAADの奨学金、同期就職の統計学の研究者が受けたフルブライト奨学金など外部資金を取得したものはもちろん、そうでない若手にも留学の機会を「特別研究員」という新設制度で与えてくれた。1974年から75年ころにである。その後の早い時期のサバティカル制度の導入も含め、非常に寛大なこうした制度の恩恵にあずかったことは、感謝の気持ちを込めてここでも特筆しておく必要があろう)
指導教官(Betreuer)は、ペッツイーナ教授。彼は、ミュンヘン現代史研究所の研究員時代に完成した第三帝国のアウタルキー政策(4ヵ年計画)の研究者として著名。
それに、ハンス・モムゼン教授(自宅でゼミを行っていた)。彼は、第三帝国の官僚制の研究で学位。
第三帝国を実証的に研究するドイツ歴史家の先駆者たち。
ペッツィーナ教授のところには、私の後、矢野久氏(現在、慶応大学教授)、その後、田野慶子氏(現在、青山学院大学教授)が留学した。
モムゼン教授とペッツイーナ教授らが中心になって、ボーフム大学でワイマール・ナチス期に関する大きな国際シンポジウムが73年に(ナチ政権誕生40周年記念の年)開催された。
その分厚い国際シンポジウム記録(公刊書物)を見て、こうした国際シンポジウムを開催することができる教授陣、そして、こんなにたくさんのワイマール・ナチス期専門研究者がいるのならと、留学先にボーフム大学を選択。ルール地方、そしてボーフムの町に魅力を感じていたからではない。その意味では純粋に研究上の論理から、留学先を選んだ。
当初は、ワイーマール末期のナチスによる農民掌握過程を研究する予定であった。
しかし、現地でいろいろ調べはじめると、農村民の意識などをどのように実証的に立ち入って検討できるか心もとなく、また帰国後も長期的にこのテーマで研究をつづけられるか自信がなくなった。
ペッツイーナ教授が第三帝国のアウタルキー政策で、ビッグビジネスとナチ党・国家機構との関係を4ヵ年計画の策定と実施過程に即して解明し、「自給」政策としての4カ年計画の中心が、大化学企業イ・ゲ・ファルベン社であったことを明らかにしていたこと、この会社など巨大企業と国家の関係をニュルンベルク裁判史料に基づいて研究することは日本でも可能であること、などから、対象を巨大民間企業のインタレスト政策と国家の政策の相互関係の研究に移した。また、時期も、第三帝国に移した。
西川正雄教授(客員教授としてボーフム大学に席を置かれ、アムステルダム社会史研究所などで第二インター関係の研究をつづけておられた)が、アメリカ占領軍が没収し60年代初めに返還した文書群(アレクザンドリア文書)の概観論文(『史学雑誌』に公表されたものを、ボーフム大学東アジア研究所・所蔵の『史学雑誌』からわざわざコピーしてくださった)を御教示くださったことも、この方向転換に大きな意味を持った。
次の留学の機会(1985年)までは、遅々とした歩みではあったが、この問題連関を追究した。
(業績リストの「著書リスト」の1、2、3、4および5に所収の論考、論文リストでは、2、4、5、7,8などが直接関係する仕事である。これら経営史・企業史を内容とする初期の仕事を一冊の本にまとめる仕事は、私にとって残された課題である。
また、第三帝国の国家と企業・ビッグビジネス・財界との相互連関を考える上では、ナチ体制の指導原理、国家がどのような勢力のどのような発想によって指導されするかという問題、頂点(広い裾野を持つピラミッド構造の生きた勢力=ビヒモスの頂点・思考中枢)のヒトラーの思想構造の解明も必要であった。
帰国後、遠藤輝明先生の指導する「ディリジスム研究会」に参加し、国家の経済への指導(ディリジェ)のあり方を比較史的に考えた。第三帝国のディリジスムの解明が私の分担であり、ヒトラーの『わが闘争』を自分の頭で批判的に読み直し、再構成することで、自分なりの答えを提起した。
市販される研究書への最初の執筆として、苦しみとともに懐かしく思い出す次の拙稿がそのひとつの成果であった。拙稿「第三帝国における『国家と経済』-ヒトラーの思想構造にそくして-」遠藤輝明編『国家と経済』東京大学出版会、1982年)
話が帰国後のことに先走ってしまった。
時系列にそって、留学時代を整理しておこう。
北周りのルフトハンザでハンブルク空港に8月2日、午前6時ころ降り立った。
バス乗り場の案内に従い、空港の建物を出た。しかし、「どこがバス乗り場か?」
ちょうど通りかかった人に、「Wo ist die Bushaltstelle?」とたずねてみた。
目の前を指差してくれた。目の前の看板さえ、緊張して見えていなかった、と恥ずかしさでいっぱいになったことを思い出す。
午後の集合時間(リュネブルクのゲーテ・インスティチュート)までにハンブルク旧市街だけでも見ておこうと、荷物を中央駅のロッカーに預けて、貪欲に、歩き回る。
そのときのビスマルク像
75年8月はじめから9月末まで、リューネブルクのゲーテ・インスティチュートで語学研修。
10月からボーフム(大学)へ。
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ボーフムで免許取得
余談:自動車免許の取得のため、大学センター(Uni-Center)にある教習所(Fahrschule)に通い始めたが、なんと、ペッツイーナ教授も教習所の生徒だった。40近くなるまで自動車免許を持っていなかった。ミュンヘンで生活する期間が長く、自動車の必要を感じなかったということだった。
2−3回、法規の勉強で一緒になったが、彼は実習も最終段階だったようで、免許(Fuehrerschein)を取得し、教習所で会うことはなくなった。
日本と違って、実地は最初の時間から路上である。法規を5時間勉強した後、すぐに路上運転で、最初はびっくり、恐怖。
私は、なんとか年相応の時間数、すなわち29時間の路上実施訓練で、1月7日に、無事免許取得。その前に学科試験も合格。
自動車学校では、学生寮の寮母さんも、同じ時期に免許を取っていた。
(ルール川を越えて、ヴァッサーブルクまで、はじめて自分の車で)
手書きの「初心者76」(Anfaenger 76)
当時の1マルク(ドイツマルクDM)は、115円前後から120円近く。ちょうど現在の1ユーロと同じくらいの感じ。
中古のケーファーを買うため、新聞で何週間か検討してきた。かなり安い物(距離数約6万キロなど考えて)が出た。
免許取立てほやほやなので、同じ夫婦用学生寮のお隣さん・ヘルトケさん(Hoeltke)に売主のところまで連れて行ってもらった。もう一人の買い手が来て、コインを投げて、私が買うことになった。
それはよかったのだが、車検切れで(だから割安感があったのだ)、自分で車検をするはめに。
500マルクほどかかった。
つまり、初期投資2500マルク。結局、約30万円ほどの買い物となった。
運転免許を取ったばかりで、車検のために、車検事務所や自動車工場を行き来するのはたいへんな緊張。
ひやひやの連続。今でもその最初のはっとした瞬間、道路交差点の場面を思い出す。
よく無事だったと思う。
最初の「遠出」は、隣町のドルトムント。11キロほどか。
アウトバーンに乗るのもこわごわ。町の中も、とても怖い。
ドルトムントの街中に行くだけで疲労困憊。町を見物するどころの気分ではなかった。
しかし以後、少しずつ運転にもなれ、2年間(正確には1年半くらいの間)で、中古ケーファー(カブトムシ・てんとう虫)で3万5000キロほど、ドイツ内外のヨーロッパを走った。その間、たいした故障もなく、ケーファーはよく走ってくれた。最後は、日本に持ってかえりたい気分すらした。
76年夏と77年夏の長期休暇期間中には、長期旅行(ドイツ国内、オーストリア、ベネルクス、フランス、スイスなどをまわる)に出かけた。
ドイツ大軍が第一次大戦、第二次大戦に西部戦線に急速に進撃したことが実感できる平坦な道・地形が多かった。 これも歴史理解に役立つ貴重な現場体験であった。とりわけ、ヒトラーの電撃戦(1940年初夏)を理解するうえでは、この経験は意味があると感じている。
先走ることになるが忘れないうちに一言書いておけば、帰国直前に今度は、自分の愛用のケーファーを売ることになった。
新聞中古車広告などを調べ、走行距離・年数などを考え、値段をつけた。
隣の市のエッセン(有名な重工業企業クルップ社の本拠の町)の素人中古市場に持っていった。1400マルクで売り出した。
紆余曲折あったが、最終的に1400マルクで売ることができた。
ケーファーに対しては人々の中に底堅い信頼感がある、という実感を得た。
商品の売買などしたことなく、値段交渉などは私にとってはたいへんな思い出ではある。
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10月末10日間ほど臨時に宿泊した学生寮Studentenwohnheim(シュティーペラー通り)
(大学センターへの道、散歩道の森の中の公園で)
↓この森を抜けて、大学センター→大学へ
幸運にも、11月からは完成したばかりの夫婦用学生寮Studentenwohnheim fuer
Ehepaar)が与えられた(Auf der Papenburg 11)。
たしか340マルクほどだった。
(ベランダから外を見る) 左写真前方方向に歩いていった散歩道
住まいの部屋から外の雪景色
新築の快適なWohnung住宅(2DK)を利用できたことは、素晴らしい思い出。
ドイツ(ボーフム)は私の「第二の故郷」ともいうべきところとなる。
(ハウスマイスターの二人の子供さん、
チリからの亡命学生の子供さん二人と、自宅の前で)
(ハウスマイスター夫妻) 学生寮2DKの台所Kueche
帰国後は西南学院大学にお勤めの伊集院さんというクリスチャンの紹介で。
(ヘルナーさん一家とケルン大聖堂へ)
(クリスマスのデュッセルドルフ、木につけられた豆電球の美しさに驚く)
(今では日本でも珍しくはないが)
(大学と学生寮との間にある森、散歩の場所)
(5月、さみどりの美しい近くの森) (6月ころの森)
(ザウアーラント、ボーフムで知り合った会社派遣留学生の一家とドライブ)
このご家族とは、オランダ(アムステルダム、フォレンダム、ハールレム、コイケンホーフないしキューケンホーフなど)への小旅行もした。
ボーフムからアムステルダムまで約250キロ位だったかと記憶している。中古ケーファーでもスピード・原則無制限のアウトバーンAutoahnを時速120キロくらいで飛ばせるので、アムステルダムまでなら日帰りも可能、という距離だったと記憶。
国境のそばにあるゴッホ美術館(クレラ・ミュラー美術館)にも日帰りでいった記憶がある。
(オランダ旅行)
(ザウアーラントのアルテナブルク)
(市庁舎) (76年2月21日の土曜日に出かけたのか、この日に記しをつけている)
(このミュンスターの市庁舎の中には、30年戦争終結、ウェストファリア講和会議の広間あり)
(ミュンスターは、ウェストファリア、ドイツ語ではヴェストファーレンの中心都市)
「講和の間」入場券(1マルク)
(ミュンスター・ウェストファリア講和の間) (ミュンスター/ヴェストファーレン)
ウェストファリア条約
(ミュンスター、ドーム)
(ミュンスター、ドーム・ステンドグラス)
ミュンスター大学本部(1976年撮影)
(ボン大学: 上のミュンスター大学と同じく旧王宮が大学本部に)
(ボン、ベートーベン生家) (生家中庭のベートーベン像)
(ゴスラーのカイザー・プファルツ)
(ゴスラー、市庁舎とその前の広場)
(ゲッティンゲン大学) (グリム兄弟記念公園)
(ゲッティンゲンのアルトシュタット・旧市街)
グリム兄弟
フッゲライFuggerei(アウグスブルク、フッガー家の財力を背景にした最初の社会福祉住宅・低家賃住宅)
(アウグスブルクは、1985年に再訪した時、2000年祭を祝っていた。ローマ要塞としてアウグストゥス帝のときに創建された、というわけで)
スイスとの国境近くの町、市への自動車乗り入れ禁止など環境対策で有名な町。
酸性雨でたくさんの木が危機に瀕しているシュヴァルツバルトSchwarzwald(黒い森)が近く。
(高い教会の石段を登って)
当時、フライブルク大学教授だったヴィンクラー教授(東西ドイツ統一後ベルリン大学へ)をたずねて、西川正雄教授と二人の東京女子大時代の教え子・木畑氏(現、成城大学教授)、黒田氏(現、獨協大学教授)とともに。
ナチス時代の初期(1933-1934)のフライブルク大学総長が世界的哲学者ハイデッガー
(トリア、ローマの皇帝浴場Kaiser Thermen、1977年夏撮影) (ローマ時代のポルタ・ニグラ=黒い門、76年夏)
(ルクセンブルク国境近く:1985年、99年にいったときには、崩壊が進まないように、歴史記念建造物として随分きれいに整備されていた)
(Frau Kibata, Frau Kuroda, Prof.Nishikawa)
(ポルタ・ニグラ) (トリア、ドーム、左手森の向こうに皇帝浴場)
(トリアの中心部からポルタニグラを見る)
高橋教授(東大名誉教授)の早稲田大学教授時代の教え子・山田徹雄氏(現在、跡見学園女子大教授)と一緒に。
学会はゲッティンゲン大学であり、その合間を縫って、ケーファーでご案内。
学会のとき、ドイツの報告の議論をめぐっては、「細かすぎる」、といった意味の評をもらされた。
封建制から資本主義への大きな社会的移行を主たる問題とされた大塚史学の旗頭の一人だけのことはあると感じた。
リーメスのひとつ
(クサンテン、ローマ遺跡:要塞跡)
Limes・・・・ (古代ローマの, 特にライン川やドナウ川に設けられた)対ゲルマンの辺境防壁.
[ラテン語]三省堂 『クラウン独和辞典』より。
(アルテ・ピナコテク)
西南ドイツ・ウルムは、アインシュタイン誕生の街
アインシュタイン Albert Einstein 1879〜1955
「ドイツ生まれの理論物理学者(→ 物理学)。相対性理論や光量子仮説など革命的な理論を次々に発表し、20世紀の偉大な科学者にかぞえられる。1879年3月14日、南ドイツのウルムに生まれた。翌80年、一家はミュンヘンにうつって父が兄とともに小さな電気工場をはじめたので、幼・少年期を同地ですごす。口をきくのが3歳とおそく、内気なため厳格な学校教育になじめなかったが、父やおじの影響で自然への好奇心や、高度な数学に興味をもつようになり、12歳ごろにはユークリッド幾何学を独習していた。また、母の要望で6歳のころからバイオリンをまなぶ。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.
ウルムはまた、デカルトが科学革命の天才的着想を得た場所としても有名(デカルト『方法序説』、岩波文庫ほか参照)。
デカルト
「Rene Descartes 1596〜1650 フランスの哲学者、数学者。近代哲学の父とよばれる(→ 西洋哲学)。フランス中部のトゥーレーヌ州のラ・エーに、法官貴族の子として生まれた。一族には、教養ある人物が多い。
8歳のときアンジューにあるイエズス会のラ・フレーシュ学院にはいり、8年間まなんだ。通常の古典教育のかたわら、数学と、人間理性によってキリスト教教義を理解しようとするスコラ学を教授された。カトリックは、生涯を通じてデカルトに大きな影響をあたえた。
ラ・フレーシュを卒業後、ポワティエ大学で法律をまなび、1616年に卒業。しかし法律家にはならず、18年にオランダへいき、ナッサウ公マウリッツの軍隊に志願する。すでに勃発(ぼっぱつ)していた三十年戦争への参加をもくろんで、翌19年にドイツへおもむき、バイエルン公マクシミリアン1世の軍に入隊した。しかし、前年、自然科学者ベークマンに刺激されて自然学の数量化の構想をいだいていたデカルトは、余暇をつかって研究に没頭した。またこの年の冬、ウルムに宿営中、思索を重ねて数学による学問の統一への自信をえている。以後、生涯を通じて彼はこの問題にとりくんだ。
軍務をはなれたデカルトはドイツからイタリアを旅して、1626年にはパリにあらわれている。フランス滞在中、哲学と数学の研究をつづけながら、光学の実験もおこなっている。28年、自分の財産を処分してオランダにうつりすみ、アムステルダム、ユトレヒト、レイデンなどでくらした。
1637年に出版されたデカルトの最初の主著「方法序説および試論集」は、オランダでの最初の数年間に執筆されたと考えられている。この著作は、幾何学、屈折光学、気象学、そして「方法序説」からなっている。その後、「省察」(1641)、「哲学の原理」(1644)を発表。「哲学の原理」は、オランダにすみ、デカルトと深い親交のあったボヘミアのエリーザベト王女にささげられた。49年には、スウェーデンのクリスティーナ女王にまねかれ、ストックホルムで女王に哲学を講義するが、北の冬のきびしい寒さのため肺炎をわずらい、50年にこの地で没した。」Microsoft(R)
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(1977年2月27日)
レントゲン ・・・X線の発見は50歳の時!
(1977年2月19日)
ネアンデルタール人発見現場
ネアンデルタール人博物館
ネアンデルタール人博物館入場券
カール大帝の町
(アーヘン市庁舎、左手がKaiser Pfalzの遺跡)
アーヘン、ドームk、財宝館Schatzkammerの皇帝胸像)
77年5月北ドイツ、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン一州の途中
(ブレーメン市庁舎、正面左手横に、「ブレーメンの音楽隊」の像) (ブレーメン市の守護神:市庁舎前)
(「ブレーメンの音楽隊」)
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ハンブルク
(シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州の最後のあたりの海岸で)
(ハンブルクから北上し、フレンスブルク近くをとおり、バルト海側を南下)
(シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州一周のドライブ)
(リューベック市の主要門のひとつホルステン門Holstentor)
(怖い魔女、囚われのヘンゼルとグレーテル)
(トイトブルクの森は、アルミニウスの反ローマの蜂起・その成功の場所としても有名)
シュピタル(今ではレストラン・・・なかなかいい雰囲気でおいしかった)
1976年3月の春休み:イタリア旅行(スイスからミラノ→ヴェニス→フィレンツェ・ピサ→ローマ→ナポリ→帰路ハイデルベルク)
(Cf. ピサの斜塔と同じような斜傾化した教会)
ドイツとオランダ(フォレンダム、アムステルダム)、スイス(レマン湖、シオン城、シャモニー)、フランス(パリ)などの旅(1976年夏休み)
イギリス旅行(ロンドンの戦争博物館の史料調査を兼ね、1976年クリスマス休暇・76年12月末から77年1月はじめ)
ドイツとオランダ、ベルギー(ガン、ブリュージュ)、フランス(カレー、パリ)、メッ経由でルクセンブルク→ドイツ(トリアなど)の旅(1977年夏休み)
(1977年9月南回りで帰国、途中、ギリシャ見物:アテネ、パルテノン神殿)