アウシュヴィッツへの道‐「過去の克服」の世界的到達点の地平から−

第三回 世界大戦への突入とヴァンゼー会議 

                        永岑三千輝(2006531日)

 

 

配布資料

@ 第三回講義レジュメ 

A 地図・ドキュメントなど(リストほか)

1)      ヨーロッパ・ユダヤ人の人口分布地図(1933年当時)

2)      指揮命令系統図(一例:「ラインハルト作戦指揮命令系統)

3)      親衛隊・ドイツ警察帝国(ライヒ)保安本部)の組織・指揮命令系統図(融合過程)

4)      ヴァンゼー会議

1.  議事録の出所:外務省文書つづり:その背表紙

2.  参加者(次官級会議)(議事録の冒頭ページ)

3.  ヴァンゼー会議(1942120)議事録(2ページ:ハイドリヒ開会の資格権限説明

4.  「フューラーの許可を得て、海外移住から東方への疎開」(議事録5ページ)

5.  問題となるヨーロッパ・ユダヤ人は「約1100万人」(議事6ページ)

6.  「最終解決は総督府から」(ビューラー発言:議事録・最終ページ)(ラインハルト作戦)

5)      第二収容所(ビルケナウ)到着直後のユダヤ人の人々(後方に火葬場・ガス室)[1]

6)      ラインハルト作戦完了・証拠隠滅報告(1943114日、グロボチニク→ヒムラー宛)

7)      6つの絶滅収容所の位置

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 追加資料:外務省次官補宛4218日招待状および226日議事録送付状

 

 

はじめに

 

前回の最後で、19418月中旬以降に始まったガス自動車開発とその1台の4112月はじめからのヘウムノ(クルムホーフ・・・ドイツ帝国・本国の最東端)への投入についてお話しました(ヒムラーがウッチ・ゲットー地域管轄のグライザーに許可)

 

 はじめは、広大なソ連占領地で活動するアインザッツグルッペ(治安警察・保安部の特別出動部隊)が、転々と移動しながら行う作戦に適合した移動型処刑(殺害)設備を必要とするようになり、そのために開発されたものです(最初の「特殊自動車」194111月はじめに3台完成し、実験、その後、11月下旬−12月はじめに配備、一台をヘウムノに投入)。

 

 そうしたガス自動車の投入は、「1942年春までの臨時的措置」としての移送を強行するためでした。

 

  また、1942年春までの臨時措置としてライヒ・ドイツ人などを送り込もうとしたリガなどでは、安楽死施設の専門家の投入が検討されている。(194110月の一連の書簡

 

 

 しかし、戦局は二重の意味で大転換します。対ソ勝利を前提にした「一時回避的」の措置は、夢想と化します。

 

戦局の大転換は、また、二重の意味で日本国家の行動と関係します。

 

ひとつは、モスクワ前面でソ連軍・モスクワ市民の反撃が始まり、ドイツ軍は後退を余儀なくされます。「第三帝国最初の危機」がやってきます。日本軍の「南北二正面作戦」(実際には南進政策の遂行)の展開・英米との衝突激化、それを踏まえてのシベリアからの最精鋭師団のモスクワ戦線への移動、対独攻撃への投入が、12月はじめのドイツ軍撃退のひとつの決定的要因でした。

 

さらに、1941127(現地時間・・・日本時間8)軍事同盟国・日本による真珠湾攻撃、これを受けたヒトラーの対米宣戦布告で、第一次大戦と同じく米国との戦争に突入することになります。米国は対独参戦のねがってもない正当化理由を得ました(原爆開発へのゴーサイン)

 

 

1.                         総督府における危機の激化と第三帝国の「冬の危機」

 

総督府東南部・ガリチア地区の窮状と射殺[2]・・・その限界・・・新たは方法は? 

安楽死作戦の要員の投入・・・ベウゼッツの建設への着手・・・しかし、「小規模」な施設。

 

あわせて、「ユダヤ人問題の最終解決」のための諸官庁調整会議(129)召集

(ハイドリヒから諸中央官庁次官クラス宛:1129:ルター宛)

 

2. 真珠湾攻撃・対米宣戦布告・世界大戦と

     ポーランド・西欧ユダヤ人の絶滅政策への移行

     (41年12月大転換説・・・1994年の拙著で提起)

 

(1)41年12月11日 ヒトラー国会演説(対米宣戦布告の国民への説明・正当化)

    東部戦線で、ドイツの戦死者162314、負傷者57万1767人、行方不明3万3334人、と。

(2)反ソ・反米英の演説のエッセンス(ユダヤ人殺戮の正当化の論理):ポスター

(3) 41年12月12日 ヒトラー、ナチ党幹部会議

戦争の責任者ユダヤ人命で償わせる、と

(ゲッベルス日記記載、12月13日)。

(4)41年12月14日 ヒトラー・ローゼンベルク会談(スポーツ宮殿での演説に関する打ち合わせ)

・・・「ユダヤ人根絶を使わない」(脅迫の表現だから)、実際に根絶方針を決定したあとは、「根絶するぞ」と脅かすのではなく、ユダヤ人根絶を正当化する論理、すなわち、「わるいのはユダヤ人、罰がぶち当たるのだ」と正当化の表現にする。

(5) 41年12月16日 ポーランド総督フランク(統治困難・内部対立→生贄を外部に求める・その点で統合・協力)

・・・総督府閣議で、総督府のユダヤ人の粛清Liquidierungを表明。その方法は、近いうちにベルリンで予定の会議で、と(閣議議事録、その会議とは、ヴァンゼー会議:42年1月20日)。

 

(6) 41年12月18日 ヒムラーのヒトラーとの会談メモ「ユダヤ人、パルチザンとして根絶」

 

3.ヴァンゼー会議
   (1)42年1月8日、ヴァンゼー会議の召集状
   (2
)42年1月20日 ヴァンゼー会議議事録(ドイツ語オリジナル英語)
     
参考:映像資料「ヴァンゼー会議」(ドイツARD製作)、記念館(私の訪問記録)、記念館公式HP

(3)42年1月25日の卓上談話(ヒムラー同席)・・・ヨーロッパの人々の「理解」・・・・ヨーロッパ・ユダヤ人の根絶

 根絶が明確な方針となっている以上、それを迅速・効率的に遂行するのがラインハルト・ハイドリヒの目的意識となる。

 自分の権限・責任(ユダヤ人問題の全体的解決)について、親衛隊人事本部・シュミット中将に伝達(書簡)

(4)42年1月30日ベルリン・スポーツ宮殿での演説「目には目を、歯には歯を」の有名な文句(報復・復讐の論理)

「戦争は、アーリア諸民族が根絶されるか、あるいはユダヤ民族がヨーロッパから消え去るか野いずれかでしか終わらないことははっきりしている。私は、1939年9月1日[3]にドイツ国会で既に宣言していた。すなわち、この戦争[4]は、ユダヤ人が思っているような終わり方はしないであろう、すなわち、ヨーロッパ・アーリア諸民族が根絶されるのではなく、むしろこの戦争の結果はユダヤ民族の絶滅におわるだろう、と。このたび、はじめて、本当の古代ユダヤの律法が適用されることになろう。すなわち、目には目を、歯に歯を!

 

 

.ヨーロッパ・ユダヤ人問題解決の焦眉の問題・総督府ユダヤ人

ラインハルト作戦― 

(1)ポーランド総督府の東部ベウジェッツ・ソビボール・トレブリンカ 

(2)敗退局面の総力戦の条件とユダヤ人殺戮 

(3)戦時経済の総力戦化(人的物的資源の窮迫:ユダヤ人からの衣食住の剥奪をはじめとする支配地・占領地からの労働と衣食住の諸条件の奪取・「奴隷労働」)

(4)反ドイツ抵抗運動

(5) ラインハルト作戦報告書:

ラインハルト作戦の終了・三つの絶滅収容所解体の報告書:

ラインハルト作戦完了・証拠隠滅報告(1943114日、グロボチニク→ヒムラー宛)

 

 

5.アウシュヴィッツの歴史

(1)          政治犯等の収容所

(2)          戦争勝利後の東方への飛躍のための前進基地・イゲ・ファルベン巨大プラント建設のための労働力基地

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19399月―12月:ポーランド侵攻、ポーランド・インテリなどに対するテロル

19405月―6月:西部戦線で戦闘中、背中の地域ポーランドの治安確立→ポーランド人の大量逮捕・射殺計画

         そのための強制収容所の必要性

カトヴィッツ地区の担当者がアウシュヴィッツを提案(政治犯の逮捕・集中のためだけではなく、ドイツ人定住地域の一部としての地域建設の拠点(ポーランド人強制労働力利用)構築構想

1941年はじめ、巨大化学企業イ・ゲ・ファルベン社が、合成ゴム工場建設を決定・・・その労働力調達の拠点。

1941年秋までは、アウシュヴィッツは、ポーランド人収容のための施設として構想された。

1941年末までに登録された囚人数は、34000人。主としてポーランド人(ethnische Polenすなわちユダヤ人ではないポーランド人)、しかしポーランド・ユダヤ人や他の国々の市民も。

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(3)          ソ連戦時捕虜の収容所構想(1941年秋の構想・ビルケナウ収容所建設)

19416月の対ソ攻撃開始で、アウシュヴィッツの置かれた状況も変化。

19417月―8月 すでにソ連戦時捕虜が連行され、収容。主として赤軍兵士。シュレージエンの戦時捕虜収容所(ラムスドルフ)から選別されたひとびと。「政治的に望ましからざるもの」「労働不能のもの」。・・・・こうした人間の数は、戦争終結までに15000人。・・・・アウシュヴィッツ収容所の管理部は、こうした厄介者を何とか始末してしまいたかった。

194195.6. 最初の大量殺害・・・何百人かの捕虜を地下室に閉じ込め、殺虫剤ツィクロンBで殺害。

1941年にアウシュヴィッツに連行されたソ連戦時捕虜で1942年春まで生き残ったのは一人もいない。

1941年秋、アウシュヴィッツ拡大計画(10万人の戦時捕虜収容規模)

194110、ビルケナウにバラック建築の巨大収容所建設がはじまる。第二収容所=ビルケナウ収容所

     この建設は、対ソ戦の速やかな勝利とその後の親衛隊の植民計画の拡大に対応。強制労働者の大群を収容する収容所の建設計画と連動。

      さらに、巨大企業イ・ゲ・ファルベンのブナ(合成ゴム)工場建設とも連動。アウシュヴィッツーモノヴィッツ(アウシュヴィッツ第三収容所)

1942年春・・・ユダヤ人はアウシュヴィッツの囚人の中のごく一部で、その数、約1500。手入れで逮捕されたものや近くの収容所から刑法犯で送り込まれてきたもの。

 

(4)          戦局の転換とアウシュヴィッツの位置づけの転換(194112)

ビルケナウ収容所内の農家改造(第一ブンカー、ついで第二ブンカー) 

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1942年はじめの数か月間に、ビルケナウ収容所敷地内の農家を改造(気密化)してガス室に(第一ブンカー)

 

1942326日、スロヴァキアからアウシュヴィッツへの最初のユダヤ人移送。最初は、全員がひとたびは収容所に収容された。その後すぐに、到着したものの一部は殺害された。

 

19425月から、近隣地域(オストオーバーシュレージエン)のユダヤ人。

19427月はじめ、規則的な選別が始まった。

「労働能力あるもの」(到着したものの約20%のみ)と「労働不能のもの」(子供全員、子持ちの母親など)

「労働不能」と選別されたものは直ちにガス室へ。

 

1942717日から、ヒムラーの大号令にもとづき、システマティックな全ヨーロッパのユダヤ人の移送絶滅計画の開始。

       そのうち、アウシュヴィッツへは西ヨーロッパから。(ポーランドなどは、ラインハルト作戦で東部ポーランドの三つの絶滅収容所へ)

        アウシュヴィッツへは毎日1000人ほど(いわゆる旧荷降ろし場sog. Alte Rampe・・・収容所の外にあった・・・そこから2キロ半ほど徒歩でビルケナウまで行進、行進不能者はトラックで運ぶ)

        ごく一部の者を除き、収容所内の「農家」へと行進。親衛隊員がツィクロンBを投げこむ。

        30分で誰も生き残ってはいなかった・

        大きな墓穴への運送など死体処理は、ユダヤ人の「特別班」Sonderkommandoにやらせる。(この段階では、死体は焼かないで埋葬)

 

(5)          西欧などからのユダヤ人の絶滅施設(1942年春−1944)

1942717日のヒムラーの決定:@焼却施設付きガス室の建設。

Aこれまで埋葬した死体の掘り返し、焼却(19429月から実施)

 

   2ガス室・火葬場3ガス室・火葬場・・・ガス室は地下室に。

4ガス室・火葬場5ガス室・火葬場・・・ガス室は一階に。

 

19426月頃の明日種ヴィッツの囚人・・・23000人で、そのうち45%がユダヤ人。

194311月・・・・囚人は88000人で、そのほとんどがユダヤ人。

 

   19438月―9月には、ドイツ支配下のヨーロッパ・ユダヤ人の大多数は、殺されていた。

       ラインハルト作戦の収容所とクルムホーフの絶滅収容所は閉鎖された。

 

(6)          最後に、ハンガリー・ユダヤ人の絶滅施設(1944年春―夏)

 

1944年−45年の年の瀬・・・アウシュヴィツには、67000人の囚人

1945117日から、収容所撤退・・・58000人が「死の行進」

1945127日にソ連赤軍が収容所を解放した時、囚人数は8000人。

 

(7)          アウシュヴィッツでの犠牲者数=約100

130万人連行され、30万人は他の収容所へ。しかし、ほとんどが死亡

アウシュヴィッツで犠牲者となって死亡した約100万人の内訳:

  ユダヤ人約85万人

  

むすびにかえて

 

    1942年末までの「ユダヤ人問題最終解決・統計(1943年春の諸文書)

 

  ヒトラーの最後遺言・・・ドイツと中央ヨーロッパでユダヤ人を殺戮したのは自分の功績、感謝されること、と。

   しかし、

 東方大帝国は?

    ドイツ民族(アーリア人種)の世界強国は?

    ドイツ全土が戦場となり、ソ連軍と米英軍に全土を占領され、自分が自殺に追い込まれた現実は、何を物語るか?

 

  アウシュヴィッツに到着したのはソ連軍(赤軍)1945126日 

               ベルリン包囲攻撃東部ドイツ地域を占領支配;

ex.破壊されたポーランドのワルシャワ(その復興1978年現在)

 

  ブーヘンヴァルトなど西部・中部ドイツの収容所を解放したのは、英米連合軍

 

 世界観・経済原理で相異なる二つの世界強国とその連合国によるナチス・ドイツ勝利

 

 戦争責任・・・指導者責任(ニュルンベルク裁判と東京裁判・・・「勝者の裁判」、しかしそれでは、誰が戦争責任者を追及したか?)

    ドイツでは、アウシュヴィッツ裁判(1960年代)などドイツ人自身の手になる過去の責任追及裁判を実施。

 

 ヒトラーなど指導者を支援した国民の責任は?

 

 ふたたび悲劇を起こさないために諸国民のなすべきことは?

 

 歴史を研究し、できるだけ正確に認識する(認識を深める)ことの意味は?

 

 

 本講座に参加され、3回にわたって重い話に耳を傾けてくださった市民の皆さんの熱心な姿勢に感銘を受け、受講していただいたことに感謝します。

 

 次回、最後の「過去の克服」のあり方こそは、現代ドイツのヨーロッパと世界に信頼されるあり方であり、日本にも求められていることでしょう。

石田勇治先生(東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻・ドイツ)の「過去の克服」のお話を楽しみにして下さい。  

 



[1] 出所: 大江一道監修・野村路子編集構成『写真記録 アウシュヴィッツ 3』ほるぷ出版、1995年、p.70

 

[2] 配布資料: 拙稿「東ガリツィアにおけるホロコーストの展開」『経済系(関東学院大学)』の再校ゲラを参照ください。

 

[3] 本当は、1939130日であり、政権掌握6周年記念日の国会演説であった。

 

[4] 「この戦争」というのは、193991日からの戦争であり、したがって、1939130日の国会演説では、「国際金融ユダヤ人がふたたび世界戦争を引き起こしたら、・・・」と仮定の表現(予言の表現)となっていた。