1.
「水晶の夜」1938年11月
ヒトラー政権の「実績」・「成功」→威信の拡大→民族的熱狂→要求の螺旋的拡大・膨張
(1)ミュンヘン危機(ミュンヘン会談)→英仏の宥和政策→ズデーテン併合(ヒトラーの「成功」)
(2)ポーランド系ユダヤ人の追放とユダヤ人青年によるドイツ外交官殺害事件(パリで発生)
民族主義と報復の熱情の暴発・・・外交関係の緊張・排外的ナショナリズムの高揚・・・ポグロム「水晶の夜」(ユダヤ人商店・シナゴーグへの破壊・ユダヤ人を強制収容所へ)(行き過ぎた破壊行動・・・はけ口に一定道筋を付ける必要・・・整然たる追放)
(3)さらに、ユダヤ人をドイツ国内から追放する圧力の高まり
・ ハイドリヒの職務:1939年1月24日ゲーリング命令・・整然たる移住(追放・・・ドイツ以外へ・・・だが、どこに?)
(4)総統指令(39年5月)「ポーランド攻撃の準備を9月1日までに完了せよ」
独ソ不可侵条約(1939年8月23日:ヒトラー・スターリン秘密協定・勢力圏分割)・・・極東ノモンハン事件(春から日ソ衝突)・・・ヨーロッパ情勢と極東情勢の連関
開戦(ハイドリヒの策謀によるグライヴィッツ放送局襲撃・謀略事件のでっち上げで火蓋=奇襲攻撃:ポーランド侵略開始・1939年9月1日)
2.
ドイツ民族強化政策と「安楽死」作戦1939年10月[5]
(ヒトラー命令書の署名の日付は、遡って9月開戦時)
3.
電撃戦の勝利と占領下諸地域のユダヤ人の移住(追放)政策
(1)
ポーランド占領・併合地域の民族的強化(ドイツ民族集住化・ポーランド人追放)とユダヤ人のゲットーへの集中
ルブリン居留地構想(・・・総督府東南部地域の狭い地域に押し込める)[6]
(2)西部戦線(1940年5月)
・ オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・フランスへの侵攻
・ ドイツの「電撃的勝利」
・ 対仏講和構想・・・・「マダガスカル計画」・・・ユダヤ人580万余をマダガスカル島へ。
(3)対英攻撃挫折→対ソ攻撃計画
1940年12月18日 対ソ攻撃命令「バルバロッサ指令」・・「41年5月15日までに準備完了せよ」
・ ユダヤ人移送計画(準備や構想)の戦時中における一時停止(戦争終結後に、ユダヤ人移送との方針:41年3月)
・ 「バルバロッサ」作戦発動のための準備
軍の戦時裁判権(41年5月13日)、補足・補完としての「コミッサール命令」(41年6月6日)
軍隊の行動のための指針(41年5月19日)、
バルカン侵攻(41年4月)
4.
ソ連侵略開始(1941年6月22日) と占領地(戦闘終了地域・前線後方地域)におけるユダヤ人殺戮の開始
占領の基本方針とユダヤ人の位置づけ(41年7月16日会議)
ソ連侵攻当初の占領政策の基本指針
(占領地域住民の統合の必要性と経済的利用=搾取の必要性・・・矛盾する必要性のせめぎあい)
・・・・・電撃戦の頓挫と占領政策基本指針の挫折
現地住民の反ソ・反ユダヤ意識の意識的活用。
ソ連地域
ヒムラー親衛隊ライヒ(全国・帝国・最高)指導者・ドイツ警察長官に治安秩序樹立の任務
アインザッツグルッペ(治安警察・保安部の特別出動部隊A,B,C,Dの4隊:「世界観の軍隊」)
・ ハイドリヒの命令、
・ 「活動・情勢報告書」(第1号、第2号、第3号、第4号、第5号、第6号、第7号、第8号、第9号、第10号、第11号)(外務大臣あて送付:出所=外務省「ユダヤ人問題最終解決」ファイル)
以上、一級の一次史料
・
ソ連地域においてドイツ占領下に、戦時の最初の半年間に50万人余の殺戮
(Cf. Aの総括報告1942年1月31日・付録地図・・・アインザッツグルッペAだけで半年間に22万人ほど)
全ヨーロッパ
1941年7月31日付ゲーリング命令(ハイドリヒ宛):
「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の全体的解決を準備せよ」(電撃戦勝利の幻想・確信の段階・・・前線へのムッソリーニ招待)
5.
ソ連占領地拡大・電撃戦の挫折・被害増大と「ユダヤ人問題」[8] ―占領地住民の統合の必要性―
(1)
ソ連赤軍(多大の犠牲を払いつつも)の反撃の高まりと1941年8月のドイツ国防軍の損害
ソ連戦時捕虜・・・最初の半年間に350万余(ヒトラーの12月の国会演説)。
しかし、ドイツの被害は?
・ 41年8月の内に、ドイツ国防軍の最精鋭・優秀な将校兵士の戦死・行方不明、戦車などの大規模な被害
(2)
プロテクトラート、総督府、パリなどにおける不穏状態・・・食糧不足・配給への不満、伝染病、ストライキ・・・ヒトラーへの情報と要望。
ベルリンの情勢とゲッベルスのヒトラーへの要望(帝国宣伝大臣であり、かつ、ベルリン大管区長の職務にもあってベルリンの治安情勢に重大な責任・・・戦時下におけるユダヤ人移送の要望・・・ドイツ本国の「民族同胞」の統合、不安・不満解消の手段)
「1918年症候群」(1918年11月の「革命で敗北」に終わった第一次大戦というヒトラー・ナチ国家指導部=「背後の匕首」の神話と恐怖・憎悪)
(3)
「総統のご希望」(1941年9月18日文書)−臨時的一時回避的移送政策の強行−
一方で、42年春にはソ連に勝利して移送計画が実行できるとの思惑(対ソ勝利の熱狂的確信・妄想)。
他方で、ハンブルクなどドイツ本国大都市への空襲・・・焼け出された「民族同報」、それに対しユダヤ人は?・・・各地のナチ党大管区長からのユダヤ人排除の要請
(4)
臨時的移送を不可能・困難にする条件の蓄積・・・現場の抵抗(ウッチ[9]やリガなど)
ゲットー・・・41年9月は既に39年冬以来、2年。ゲットーの劣悪な生活条件、狭く不衛生、食糧不足、飢餓、伝染病、燃料不足、
他方、軍需経済に組み込んだユダヤ人の活用のためには、その撹乱要因・新たな負担は回避(・・・軍需経済当局の発想・要望)
(5)
戦時下の移送の臨時的強行 (1941年10月中旬から11月にかけて)
移送されたユダヤ人の状態は?
・・・たとえば、リガ、ミンスクに送られたドイツ・ユダヤ人は、「70-80%が労働不能」
6.
特殊自動車(ガス自動車・トラック)の開発と投入
(1)
ソ連各地域でのユダヤ人殺害作戦とガス自動車開発(刑事警察の犯罪技術研究所)[10]・投入
(2)
ソ連地域だけでなくヘウムノ(クルムホーフ)で投入
7.真珠湾攻撃・対米宣戦布告・世界大戦化とヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅
−「ヴァンゼー会議」
−ベウゼッツ・ソビボール・トレブリンカ(ラインハルト作戦)、そして、アウシュヴィッツ