アウシュヴィッツへの道
―「過去の克服」の世界的到達点の地平から―
永岑三千輝
はじめに−「過去の克服」とは? 現代世界の地平とは?−
過去を反省し克服したドイツ:
その象徴・ベルリン中心部のモニュメント石柱群[1][3](FAZ掲載の写真集):信頼されるドイツの構築−
21世紀初頭の現在と20世紀初頭−前半の世界政治の根本的違いは何か? 「歴史家よ、おまえもか」
20世紀(20世紀の「30年戦争」世界大戦期と戦後冷戦期)と現在との共通性は?
現代世界の地平を考える素材としての最近の本(2006年5月15日発行)
聴講者からいただいた根本的疑問・・・「なぜ、ユダヤ人が犠牲になったのか?」(被害者)
ユダヤ人を犠牲にした人々は?・・・ (「犯人」・「主犯」=主要責任者・・・第一回) と(状況と場・・・第二回・第三回)
第1章 ヒトラー・ナチズムの世界観と思想構造
−ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒ、ヘースのものの考え方は?−
1.ヒトラーの思想構造・基本戦略・政治目標「実現」状況と段階的変化
(根本資料・・・公刊『わが闘争』) (非公刊『続・わが闘争』あるいは『第二の書』・・・最近邦訳)
2.ヒムラーの思想構造−1940年春の秘密覚書−
3.ハイドリヒの思想構造とその段階的変化
ハイドリヒが暗殺されてからはヒムラーが直接、ユダヤ人殺戮作戦を指揮。
ハイドリヒの地位にはカルテンブルンナー(冷酷な法律家としてホロコーストを推進)。
4.まとめ
(1)ヒトラー・ヒムラー・ハイドリヒの基本目標・思想構造:
第一次大戦の敗北の克服・列強の地位の回復、さらに、
大国・世界強国ドイツの創出・東方大帝国建設「ロシアとその周辺諸国の獲得」(ヒムラーの東方全体計画)・・・基軸目標
=ドイツ民族の生存圏拡大・人種主義的社会ダーウィニズム
・・・すなわち、「優等人種」による「劣等人種」の支配
(反帝国主義・反植民地主義・自由と民主主義の勢力を支配・抑圧)
(2)思想構造におけるユダヤ人(ユダヤ民族)の位置:
人種と民族の階層性
・・・頂点のドイツ民族(ゲルマン)、最底辺の「ユダヤ民族」(人種主義的反ユダヤ主義)。
頂点(ドイツ民族・ゲルマン民族)と最底辺の中間段階にスラブやアジア諸民族・人種
・
たとえば、『わが闘争』によれば、アーリア人種は「文化創造民族」、黄色人種は「文化受容民族」。
・
青年指導者シーラッハによる青少年動員
・
シュトライヒャーによる過激な反ユダヤ主義宣伝
・
つぎつぎと広がる占領地からさまざまの富を奪うことの正当化の論理・・・一例:ロベルト・ライ『アングリッフ』1940年1月の主張
・
実際の占領地における略奪・没収(チェコスロヴァキアやポーランド,ソ連で)
反ユダヤ主義でゲーリングよりも過激なのはヒムラー(署名)とゲッベルス(ゲーリング・ニュルンベルク裁判証言)
第2章 独ソ戦の展開と「ユダヤ人問題」
−治安警察・保安部の秘密報告書はなにを語るか?−
1.
政権獲得・独裁体制・再軍備体制の構築と政治目標の段階的実現
(1)「強大な民族・世界強国・東方大帝国」の建設の前提・・・政権掌握・大衆動員・国民的基盤の構築・・宣伝・街頭闘争・選挙戦
(2)世界経済恐慌・大量失業・大量破産(大衆的絶望状態)とナチ党の飛躍
(・・・しかし得票率は、ワイマール期において最高でも、また地域によって違うが、得票率32年7月選挙で、37.3%、32年11月選挙では33.1%、最終局面でナチ党が低落し始めるのに、他方で共産党が伸びた・・・ナチ党は、どうすれば圧倒的多数を獲得できるか?)(危機における鉄兜団の行動)
(3)国会炎上事件・33年3月選挙(43.9%)・全権委任法・一党体制樹立
「民族共同体」の国家の建設:「ひとつの民族・ひとつの民族政党」・・・多数政党の存立を認めず:・・・自由で民主主義的なワイマール憲法体制の破壊。
(目的のためには手段を選ばず・・・国会炎上事件とその左翼弾圧への活用、・・・しかし、圧倒的多数は獲得できず・・・そこで「全権委任法」=国会否定の法律)。突撃隊幕僚長レームなどの粛清(1934年6月30日・・・でっち上げとしてのレーム一揆:武器所有組織を国防軍に独占→兵士はヒトラーに宣誓)
(4)再軍備を牽引要因とする経済回復・・・「四カ年計画」(そこでのユダヤ人排除に関するゲーリング・ニュルンベルク裁判証言)
(5)民族共同体国家からの異分子排除・・・国家と市民生活からのユダヤ人排除・・・ユダヤ人の市民的権利の剥奪
(6)ユダヤ人の国外脱出
(著名な例:アインシュタイン、アンネ[2][4]・フランク一家など。しかし、彼らだけではなく、30万から40万人近くのドイツ・ユダヤ人の脱出)
パレスチナへのユダヤ人移送におけるアイヒマンの仕事。
2.
領土膨張・民族主義の高揚と「水晶の夜」1938年11月
ヒトラー政権の「実績」・「成功」→威信の拡大→民族的熱狂→要求の螺旋的拡大・膨張
(1)ミュンヘン危機(ミュンヘン会談)→英仏の宥和政策→ズデーテン併合(ヒトラーの「成功」)
(2)ポーランド系ユダヤ人の追放とユダヤ人青年によるドイツ外交官殺害事件(パリで発生)
民族主義と報復の熱情の暴発・・・外交関係の緊張・排外的ナショナリズムの高揚・・・ポグロム「水晶の夜」(ユダヤ人商店・シナゴーグへの破壊・ユダヤ人を強制収容所へ)(行き過ぎた破壊行動・・・はけ口に一定道筋を付ける必要・・・整然たる追放)
(3)さらに、ユダヤ人をドイツ国内から追放する圧力の高まり
・ ・ ハイドリヒの職務:1939年1月24日ゲーリング命令・・整然たる移住(追放・・・ドイツ以外へ・・・だが、どこに?)
3. 戦争政策・占領政策とユダヤ人政策の展開
(1)総統指令(39年5月)「ポーランド攻撃の準備を9月1日までに完了せよ」
(2)独ソ不可侵条約(1939年8月23日:ヒトラー・スターリン秘密協定・勢力圏分割)・・・極東ノモンハン事件(春から日ソ衝突)・・・ヨーロッパ情勢と極東情勢の連関
開戦(ハイドリヒの策謀によるグライヴィッツ放送局襲撃・謀略事件のでっち上げで火蓋=奇襲攻撃:ポーランド侵略開始・1939年9月1日)
4.
電撃戦の勝利・ドイツ民族強化政策と「安楽死」作戦・ユダヤ人移住政策1939年10月
(ヒトラー命令書の署名の日付は、遡って9月開戦時)
(1)ポーランド占領・併合地域の民族的強化(ドイツ民族集住化・ポーランド人追放)とユダヤ人のゲットーへの集中
ルブリン居留地構想(・・・総督府東南部地域の狭い地域に押し込める)
(2)西部戦線(1940年5月)
・
オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・フランスへの侵攻
・
ドイツの「電撃的勝利」
・
対仏講和構想・・・・「マダガスカル計画」・・・ユダヤ人580万余をマダガスカル島へ。
(3)対英攻撃挫折→対ソ攻撃計画
1940年12月18日 対ソ攻撃命令「バルバロッサ指令」・・「41年5月15日までに準備完了せよ」
・
ユダヤ人移送計画(準備や構想)の戦時中における一時停止(戦争終結後に、ユダヤ人移送との方針:41年3月)
・
「バルバロッサ」作戦発動のための準備
軍の戦時裁判権(41年5月13日)、補足・補完としての「コミッサール命令」(41年6月6日)
軍隊の行動のための指針(41年5月19日)、
バルカン侵攻(41年4月)
5. ソ連侵略開始(1941年6月22日)・ソ連軍の反撃強化・パルチザン戦争の宣言とユダヤ人殺戮の展開
(1)占領の基本方針とユダヤ人の位置づけ(41年7月16日会議)
ソ連侵攻当初の占領政策の基本指針
(占領地域住民の統合の必要性と経済的利用=搾取の必要性・・・矛盾する必要性のせめぎあい)
・・・・・電撃戦の頓挫と占領政策基本指針の挫折
現地住民の反ソ・反ユダヤ意識の意識的活用。
(2)治安秩序確立行動とユダヤ人殺戮の展開―ソ連地域―
ヒムラー親衛隊ライヒ(全国・帝国・最高)指導者・ドイツ警察長官に治安秩序樹立の任務
アインザッツグルッペ(治安警察・保安部の特別出動部隊A,B,C,Dの4隊:「世界観の軍隊」)
・ ハイドリヒの命令、
・
「活動・情勢報告書」(第1号、第2号、第3号、第4号、第5号、第6号、第7号、第8号、第9号、第10号、第11号)(外務大臣あて送付:出所=外務省「ユダヤ人問題最終解決」ファイル) 以上、一級の一次史料
総括的結果(リトアニア、白ロシア、ウクライナなど)・・・ソ連地域においてドイツ占領下に、戦時の最初の半年間に50万人余の殺戮
(Cf.
Aの総括報告1942年1月31日・付録地図・・・アインザッツグルッペAだけで半年間に22万人ほど)
(3)全ヨーロッパ
1941年7月31日付ゲーリング命令(ハイドリヒ宛):
「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の全体的解決を準備せよ」(電撃戦勝利の幻想・確信の段階・・・前線へのムッソリーニ招待)
6. ソ連占領地拡大・電撃戦の挫折・被害増大と「ユダヤ人問題」[4][8] ―占領地住民の統合の必要性―
(1) ソ連赤軍(多大の犠牲を払いつつも)の反撃の高まりと1941年8月のドイツ国防軍の損害
ソ連戦時捕虜・・・最初の半年間に350万余(ヒトラーの12月の国会演説)。
しかし、ドイツの被害は?
・ 41年8月の内に、ドイツ国防軍の最精鋭・優秀な将校兵士の戦死・行方不明、戦車などの大規模な被害
(2) プロテクトラート、総督府、パリなどにおける不穏状態・・・食糧不足・配給への不満、伝染病、ストライキ・・・ヒトラーへの情報と要望。
ベルリンの情勢とゲッベルスのヒトラーへの要望(帝国宣伝大臣であり、かつ、ベルリン大管区長の職務にもあってベルリンの治安情勢に重大な責任・・・戦時下におけるユダヤ人移送の要望・・・ドイツ本国の「民族同胞」の統合、不安・不満解消の手段)
「1918年症候群」(1918年11月の「革命で敗北」に終わった第一次大戦というヒトラー・ナチ国家指導部=「背後の匕首」の神話と恐怖・憎悪)
(3) 「総統のご希望」(1941年9月18日文書)−臨時的一時回避的移送政策の強行−
一方で、42年春にはソ連に勝利して移送計画が実行できるとの思惑(対ソ勝利の熱狂的確信・妄想)。
他方で、ハンブルクなどドイツ本国大都市への空襲・・・焼け出された「民族同報」、それに対しユダヤ人は?・・・各地のナチ党大管区長からのユダヤ人排除の要請
(4) 臨時的移送を不可能・困難にする条件の蓄積・・・現場の抵抗(ウッチ[5][9]やリガなど)
ゲットー・・・41年9月は既に39年冬以来、2年。ゲットーの劣悪な生活条件、狭く不衛生、食糧不足、飢餓、伝染病、燃料不足、
他方、軍需経済に組み込んだユダヤ人の活用のためには、その撹乱要因・新たな負担は回避(・・・軍需経済当局の発想・要望)
(5) 戦時下の移送の臨時的強行 (1941年10月中旬から11月にかけて)
移送されたユダヤ人の状態は?
・・・たとえば、リガ、ミンスクに送られたドイツ・ユダヤ人は、「70-80%が労働不能」
7. 特殊自動車(ガス自動車・トラック)の開発と投入
(1) ソ連各地域でのユダヤ人殺害作戦とガス自動車開発(刑事警察の犯罪技術研究所)[6][10]・投入
(2) ソ連地域だけでなくヘウムノ(クルムホーフ)で投入
8.むすびにかえて:
真珠湾攻撃・対米宣戦布告・世界大戦化とヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅
−「ヴァンゼー会議」
−ベウゼッツ・ソビボール・トレブリンカ(ラインハルト作戦)、そして、アウシュヴィッツ
第3章 世界大戦への突入・ヴァンゼー会議と「疎開」・ユダヤ人絶滅政策の展開
−議事録から浮かび上がることは何か?−
1. 総督府における危機の激化と第三帝国の「冬の危機」
総督府東南部・ガリチア地区の窮状と射殺[7][2]・・・その限界・・・新たは方法は?
安楽死作戦の要員の投入・・・ベウゼッツの建設への着手・・・しかし、「小規模」な施設。
あわせて、「ユダヤ人問題の最終解決」のための諸官庁調整会議(12月9日)召集
(ハイドリヒから諸中央官庁次官クラス宛:11月29日:ルター宛)
1941年8月中旬以降に始まったガス自動車開発とその1台の41年12月はじめからのヘウムノ(クルムホーフ・・・ドイツ帝国・本国の最東端)への投入についてお話しました(ヒムラーがウッチ・ゲットー地域管轄のグライザーに許可)。
はじめは、広大なソ連占領地で活動するアインザッツグルッペ(治安警察・保安部の特別出動部隊)が、転々と移動しながら行う作戦に適合した移動型処刑(殺害)設備を必要とするようになり、そのために開発されたものです(最初の「特殊自動車」は1941年11月はじめに3台完成し、実験、その後、11月下旬−12月はじめに配備、一台をヘウムノに投入)。
そうしたガス自動車の投入は、「1942年春までの臨時的措置」としての移送を強行するためでした。
また、1942年春までの臨時措置としてライヒ・ドイツ人などを送り込もうとしたリガなどでは、安楽死施設の専門家の投入が検討されている。(1941年10月の一連の書簡)
しかし、戦局は二重の意味で大転換します。対ソ勝利を前提にした「一時回避的」の措置は、夢想と化します。
戦局の大転換は、また、二重の意味で日本国家の行動と関係します。
ひとつは、モスクワ前面でソ連軍・モスクワ市民の反撃が始まり、ドイツ軍は後退を余儀なくされます。「第三帝国最初の危機」がやってきます。日本軍の「南北二正面作戦」(実際には南進政策の遂行)の展開・英米との衝突激化、それを踏まえてのシベリアからの最精鋭師団のモスクワ戦線への移動、対独攻撃への投入が、12月はじめのドイツ軍撃退のひとつの決定的要因でした。
さらに、1941年12月7日(現地時間・・・日本時間8日)の軍事同盟国・日本による真珠湾攻撃、これを受けたヒトラーの対米宣戦布告で、第一次大戦と同じく米国との戦争に突入することになります。米国は対独参戦のねがってもない正当化理由を得ました(原爆開発へのゴーサイン)。
2. 真珠湾攻撃・対米宣戦布告・世界大戦と
ポーランド・西欧ユダヤ人の絶滅政策への移行
(41年12月大転換説・・・1994年の拙著で提起)
(1)41年12月11日 ヒトラー国会演説(対米宣戦布告の国民への説明・正当化)。
東部戦線で、ドイツの戦死者16万2314人、負傷者57万1767人、行方不明3万3334人、と。
(2)反ソ・反米英の演説のエッセンス(ユダヤ人殺戮の正当化の論理):ポスター
(3)41年12月12日 ヒトラー、ナチ党幹部会議で
「戦争の責任者ユダヤ人に命で償わせる」、と
(ゲッベルス日記記載、12月13日)。
(4)41年12月14日 ヒトラー・ローゼンベルク会談(スポーツ宮殿での演説に関する打ち合わせ)
・・・「ユダヤ人根絶を使わない」(脅迫の表現だから)、実際に根絶方針を決定したあとは、「根絶するぞ」と脅かすのではなく、ユダヤ人根絶を正当化する論理、すなわち、「わるいのはユダヤ人、罰がぶち当たるのだ」と正当化の表現にする。
(5) 41年12月16日 ポーランド総督フランク(統治困難・内部対立→生贄を外部に求める・その点で統合・協力)
・・・総督府閣議で、総督府のユダヤ人の粛清Liquidierungを表明。その方法は、近いうちにベルリンで予定の会議で、と(閣議議事録、その会議とは、ヴァンゼー会議:42年1月20日)。
(6)41年12月18日 ヒムラーのヒトラーとの会談メモ「ユダヤ人、パルチザンとして根絶」
3.ヴァンゼー会議
(1)42年1月8日、ヴァンゼー会議の召集状
(2)42年1月20日 ヴァンゼー会議:議事録(ドイツ語オリジナル、英語)
参考:映像資料「ヴァンゼー会議」(ドイツARD製作)、記念館(私の訪問記録)、記念館公式HP、
(3)42年1月25日の卓上談話(ヒムラー同席)・・・ヨーロッパの人々の「理解」・・・・ヨーロッパ・ユダヤ人の根絶
根絶が明確な方針となっている以上、それを迅速・効率的に遂行するのがラインハルト・ハイドリヒの目的意識となる。
自分の権限・責任(ユダヤ人問題の全体的解決)について、親衛隊人事本部・シュミット中将に伝達(書簡)
(4)42年1月30日、ベルリン・スポーツ宮殿での演説「目には目を、歯には歯を」の有名な文句(報復・復讐の論理)
「戦争は、アーリア諸民族が根絶されるか、あるいはユダヤ民族がヨーロッパから消え去るか野いずれかでしか終わらないことははっきりしている。私は、1939年9月1日[8][3]にドイツ国会で既に宣言していた。すなわち、この戦争[9][4]は、ユダヤ人が思っているような終わり方はしないであろう、すなわち、ヨーロッパ・アーリア諸民族が根絶されるのではなく、むしろこの戦争の結果はユダヤ民族の絶滅におわるだろう、と。このたび、はじめて、本当の古代ユダヤの律法が適用されることになろう。すなわち、目には目を、歯に歯を!」
4.ヨーロッパ・ユダヤ人問題解決の焦眉の問題・総督府ユダヤ人
―ラインハルト作戦―
(1) ポーランド総督府の東部:ベウジェッツ・ソビボール・トレブリンカ
(3)
戦時経済の総力戦化(人的物的資源の窮迫:ユダヤ人からの衣食住の剥奪をはじめとする支配地・占領地からの労働と衣食住の諸条件の奪取・「奴隷労働」)
(4) 反ドイツ抵抗運動
(5) ラインハルト作戦報告書:
ラインハルト作戦の終了・三つの絶滅収容所解体の報告書:
ラインハルト作戦完了・証拠隠滅報告(1943年11月4日、グロボチニク→ヒムラー宛)
5.アウシュヴィッツの歴史
(1) 政治犯等の収容所
(2) 戦争勝利後の東方への飛躍のための前進基地・イゲ・ファルベン巨大プラント建設のための労働力基地
---------------
1939年9月―12月:ポーランド侵攻、ポーランド・インテリなどに対するテロル
1940年5月―6月:西部戦線で戦闘中、背中の地域ポーランドの治安確立→ポーランド人の大量逮捕・射殺計画
そのための強制収容所の必要性
カトヴィッツ地区の担当者がアウシュヴィッツを提案(政治犯の逮捕・集中のためだけではなく、ドイツ人定住地域の一部としての地域建設の拠点(ポーランド人強制労働力利用)構築構想
1941年はじめ、巨大化学企業イ・ゲ・ファルベン社が、合成ゴム工場建設を決定・・・その労働力調達の拠点。
1941年秋までは、アウシュヴィッツは、ポーランド人収容のための施設として構想された。
1941年末までに登録された囚人数は、34000人。主としてポーランド人(ethnische
Polenすなわちユダヤ人ではないポーランド人)、しかしポーランド・ユダヤ人や他の国々の市民も。
---------------------
(3) (3) ソ連戦時捕虜の収容所構想(1941年秋の構想・ビルケナウ収容所建設)
1941年6月の対ソ攻撃開始で、アウシュヴィッツの置かれた状況も変化。
1941年7月―8月 すでにソ連戦時捕虜が連行され、収容。主として赤軍兵士。シュレージエンの戦時捕虜収容所(ラムスドルフ)から選別されたひとびと。「政治的に望ましからざるもの」「労働不能のもの」。・・・・こうした人間の数は、戦争終結までに1万5000人。・・・・アウシュヴィッツ収容所の管理部は、こうした厄介者を何とか始末してしまいたかった。
1941年9月5./6. 最初の大量殺害・・・何百人かの捕虜を地下室に閉じ込め、殺虫剤ツィクロンBで殺害。
1941年にアウシュヴィッツに連行されたソ連戦時捕虜で1942年春まで生き残ったのは一人もいない。
1941年秋、アウシュヴィッツ拡大計画(10万人の戦時捕虜収容規模)
1941年10月、ビルケナウにバラック建築の巨大収容所建設がはじまる。第二収容所=ビルケナウ収容所
この建設は、対ソ戦の速やかな勝利とその後の親衛隊の植民計画の拡大に対応。強制労働者の大群を収容する収容所の建設計画と連動。
さらに、巨大企業イ・ゲ・ファルベンのブナ(合成ゴム)工場建設とも連動。アウシュヴィッツーモノヴィッツ(アウシュヴィッツ第三収容所)
1942年春・・・ユダヤ人はアウシュヴィッツの囚人の中のごく一部で、その数、約1500人。手入れで逮捕されたものや近くの収容所から刑法犯で送り込まれてきたもの。
(4) 戦局の転換とアウシュヴィッツの位置づけの転換(1941年12月)
ビルケナウ収容所内の農家改造(第一ブンカー、ついで第二ブンカー)
---------------
1942年はじめの数か月間に、ビルケナウ収容所敷地内の農家を改造(気密化)してガス室に(第一ブンカー)。
1942年3月26日、スロヴァキアからアウシュヴィッツへの最初のユダヤ人移送。最初は、全員がひとたびは収容所に収容された。その後すぐに、到着したものの一部は殺害された。
1942年5月から、近隣地域(オストオーバーシュレージエン)のユダヤ人。
1942年7月はじめ、規則的な選別が始まった。
「労働能力あるもの」(到着したものの約20%のみ)と「労働不能のもの」(子供全員、子持ちの母親など)。
「労働不能」と選別されたものは直ちにガス室へ。
1942年7月17日から、ヒムラーの大号令にもとづき、システマティックな全ヨーロッパのユダヤ人の移送絶滅計画の開始。
そのうち、アウシュヴィッツへは西ヨーロッパから。(ポーランドなどは、ラインハルト作戦で東部ポーランドの三つの絶滅収容所へ)。
アウシュヴィッツへは毎日1000人ほど(いわゆる旧荷降ろし場sog. Alte Rampe・・・収容所の外にあった・・・そこから2キロ半ほど徒歩でビルケナウまで行進、行進不能者はトラックで運ぶ)。
ごく一部の者を除き、収容所内の「農家」へと行進。親衛隊員がツィクロンBを投げこむ。
30分で誰も生き残ってはいなかった・
大きな墓穴への運送など死体処理は、ユダヤ人の「特別班」Sonderkommandoにやらせる。(この段階では、死体は焼かないで埋葬)
(5) 西欧などからのユダヤ人の絶滅施設(1942年春−1944年)
1942年7月17日のヒムラーの決定:@焼却施設付きガス室の建設。
Aこれまで埋葬した死体の掘り返し、焼却(1942年9月から実施)。
第2ガス室・火葬場、第3ガス室・火葬場・・・ガス室は地下室に。
第4ガス室・火葬場、第5ガス室・火葬場・・・ガス室は一階に。
1942年6月頃の明日種ヴィッツの囚人・・・23000人で、そのうち45%がユダヤ人。
1943年11月・・・・囚人は88000人で、そのほとんどがユダヤ人。
1943年8月―9月には、ドイツ支配下のヨーロッパ・ユダヤ人の大多数は、殺されていた。
ラインハルト作戦の収容所とクルムホーフの絶滅収容所は閉鎖された。
(6) 最後に、ハンガリー・ユダヤ人の絶滅施設(1944年春―夏)
1944年−45年の年の瀬・・・アウシュヴィツには、67000人の囚人
1945年1月17日から、収容所撤退・・・58000人が「死の行進」
1945年1月27日にソ連赤軍が収容所を解放した時、囚人数は8000人。
(7) アウシュヴィッツでの犠牲者数=約100万
130万人連行され、30万人は他の収容所へ。しかし、ほとんどが死亡
アウシュヴィッツで犠牲者となって死亡した約100万人の内訳:
ユダヤ人約85万人
むすびにかえて
1942年末までの「ユダヤ人問題最終解決・統計」(1943年春の諸文書)
何度にもわたるクーデタ計画やヒトラー暗殺計画の失敗(ギゼヴィウス証言)
ヒトラーの最後:遺言・・・ドイツと中央ヨーロッパでユダヤ人を殺戮したのは自分の功績、感謝されること、と。
しかし、
東方大帝国は?
ドイツ民族(アーリア人種)の世界強国は?
ドイツ全土が戦場となり、ソ連軍と米英軍に全土を占領され、自分が自殺に追い込まれた現実は、何を物語るか?
アウシュヴィッツに到着したのはソ連軍(赤軍)・1945年1月26日
ベルリン包囲攻撃、東部ドイツ地域を占領支配
ブーヘンヴァルトなど西部・中部ドイツの収容所を解放したのは、英米連合軍
世界観・経済原理で相異なる二つの世界強国とその連合国によるナチス・ドイツ勝利
戦争責任・・・指導者責任(ニュルンベルク裁判と東京裁判・・・「勝者の裁判」、しかしそれでは、誰が戦争責任者を追及したか?)
ドイツでは、アウシュヴィッツ裁判(1960年代)などドイツ人自身の手になる過去の責任追及裁判を実施。
ヒトラーなど指導者を支援した国民の責任は?
ふたたび悲劇を起こさないために諸国民のなすべきことは?
歴史を研究し、できるだけ正確に認識する(認識を深める)ことの意味は?